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母さんが、必死に名前を呼んでいる。
父さんは、自分が泣いてはいけないと思ってるのか、黙っている。
そしてオレは―――そんな2人の後ろで、ただ呆然と、ひとつの命が消えていこうとしているのを見つめてた。
「―――…慎二…」
掠れた声が、なんとか聞き取れる声で、オレを呼ぶ。
慌てて、母さんを少し押しのけるようにして、枕元に取り縋る。
「
「…………」
「何…? 聞こえない、もう1回…」
秀兄の口元に耳を寄せる。秀兄は、最後の力を振り絞るみたいに、なんとか言葉を紡いだ。
「…ごめんな…もう、お前のこと、守れなくて…」
「そんな…そんなこと、言うなよ」
「…お前、は、生きろよ」
そう言うと、秀兄は、それまでの苦しそうな顔が嘘だったみたいに、ふっと微笑んだ。
「大丈夫―――だって、お前は“奇跡の子供”だから―――…」
秀兄が口にした言葉は、それが最後だった。
***
久しぶりに、夢を見て泣いてしまった。
食卓に行く前に、顔を洗う。夏場の水道水はぬるく、冬の時のようにピシッと目を覚まさせてくれない。中途半端に開いた目のまま、慎二は仕方なく食卓に向かった。
キッチンからは、母が淹れているコーヒーの香りが漂ってきている。ガラスの入ったドア越しに、父の背中が見えた。兄の死から1年と少し経って随分慣れてきたとはいえ、毎朝、この瞬間が一番緊張する。ごくん、と唾を飲み込んだ慎二は、ドアを開けた。
「…おはよう」
慎二が声を掛けると、両親が慎二の方を振り返った。
新聞に目を落としていた父は、いつも通り、落ち着いた笑みを浮かべて「おはよう」と返す。
そして母は―――まるで少女のような愛らしい笑みで、慎二に向かってこう言った。
「おはよう、“秀一”さん。あなたもコーヒーいる?」
この瞬間、襲ってくる感覚には、何ヶ月経っても慣れない。
「…ああ…うん。オレももらおっかな」
曖昧な笑みを浮かべた慎二は、父の向かい側の席に腰を下ろしながら、そう答えた。
嬉しそうに微笑む母の顔も辛い。でもそれ以上に―――苦しそうな、悲しそうな顔で慎二を見つめる父の目を見るのが、一番辛かった。
母がこの病気を患い出したのは、兄の死の数日後だ。
「落ち着きなさい、由紀江。白血病は遺伝する病気じゃないよ」
父が宥めても、無駄だった。泣きじゃくる母は、激しく首を振り、自分を責め続けた。
「そんな―――そんなの、まだ科学的に証明されていないだけかもしれないじゃない。だって、2人ともよ!? 慎二だけじゃなく秀一まで、同じ病気になるなんて…! 叔母さんも、従姉妹も、同じ病気で死んだわ。偶然だなんて、そんな風には思えない…!」
「偶然だよ…。事実、由紀江も、お義父さんも、お義兄さんも、そんな病気とは無縁じゃないか」
「でも、私のせいなの…! 私が…私が、もっと丈夫に産んであげていれば―――そうすれば、こんなことには…」
自らも、あまり丈夫にはできていない母だから、余計そう思ったのだろう。兄が死ぬ前から―――急性白血病という診断が下ってからずっと、母は自分を責めていた。
そして、兄は死に―――自分を責めるあまり、母は自殺を図った。
生死の境を彷徨った後、目覚めた母は、慎二の顔を見て“秀一”と―――兄の名を、呼んだ。「慎二は、どこに行ったの?」と、無邪気な、不思議そうな目をして、そう言った。
そう―――母の中で、慎二は消えていた。
2人いた筈の息子が、今、目の前に1人しかいない―――その現実を受け止めるために、母の壊れた心は、兄ではなく慎二を消したのだ。
あまりの衝撃に、慎二は、母が入院していた病院を飛び出していた。
外は、雨だった。静かな住宅街を避けるように、慎二は通学用の定期を使って、行けるだけ行った。遠くへ―――通い慣れた高校のある、渋谷方面へと。
悲しいとか、辛いとか、そういう感情はすぐには湧いてこなかった。人間、ショックが大きすぎると、そういう分かりやすい感情へとストレートに入っていけないらしい。傘もささずに雑踏の中を歩きながら、ただただ、混乱していた。途方に暮れていた。この事実を、どう受け止めればいいのか分からなくて―――この先、どうやって母と向き合っていけばいいのか、分からなくて。
そんな時、アリサに出会った。
ずぶ濡れの慎二に、誰も立ち止まってくれなかった都会の街で、彼女は慎二のために立ち止まり、声を掛け、助けてくれた。その彼女にシンジ、と、自分の名前を呼ばれた時、とてつもない幸せを感じた。自分の名前を呼んでもらえる、ただそれだけのことに、これほどの幸せを感じるなんて、初めてのことだった。
その幸せな感覚に、凍りつきかけていた心が融け出して―――慎二はやっと、ほんの少しだけ、現実を受け入れた。
あの日からだ。
慎二の“幽霊ごっこ”が始まったのは。
「―――もう一度、試してみてはどうかと、担当医の先生から勧められたんだが…」
駅へと向かう道すがら、父がポツリと呟いた。
そんな父の横顔をチラリと見た慎二は、鞄を持ち直し、小さな溜め息をついた。父の迷いが分かるから。
「…やめようよ、もう」
「でも、慎二は…」
「オレ、もうあんな思いするの、嫌だし」
「…けれどお前、このままずっと秀一の代わりをしていく訳にもいかないだろう?」
父が眉をひそめる。
確かに、そうだ。このまま一生、既にこの世にいない兄の代わりを務めていく訳にはいかない。けれど、母の前でだけなら、別に一生これでもいいか、と思ってしまう自分もいる。
あんな思いをする位なら―――もう二度と、母から“慎二”と呼ばれなくてもいいや、と。
前にも一度試した。去年の秋の始まり頃―――そう、ちょうどタカと知り合いになった頃だ。
何を試したか、というと、それは実に単純なことだった。慎二が“慎二”に戻っただけ―――つまり、母の前で、父や親戚に慎二として扱ってもらっただけだ。
「その子は慎二じゃない、秀一だ」と言い張る母に、慣れていない親戚は必死に言い募った。この子は慎二だ、と。そして、それを納得させるために、一番やってはいけないことをしてしまった―――秀一の死という現実を、母に突きつけたのだ。
結果は―――恐れていたとおりだった。
母は、混乱し、怯え、最終的には発作的にまた自殺を図ってしまった。自分でも、何故自殺を図ったのか、よく分かっていないらしい。恐らくは、心の内部に巣食っている罪悪感が、彼女に死ねと命じているのだろう―――そんな必要はないのだと周囲が言っても、あまり意味はない。本人が納得しない限りは。
命に別状はなかったが、あの出来事は慎二にとって、兄の死と同じ位にヘヴィーな体験だった。あんな思いをする位なら、一生兄の代わりを演じ続けても構わないや、と思うのは、元々自己主張の乏しい慎二からしたら当然のことだった。
「…やっぱり、やめようよ」
母の二度目の自殺未遂の時感じた痛みを思い出して、慎二はもう一度、父にそう告げた。
「オレは、平気だからさ」
「…慎二…」
「秀兄は、もういない」
口にすると、その事実が重くのしかかる。
「いて欲しくても、もういないんだ。だから…まだいるオレと父さんで、母さん守らなきゃ」
もう二度と、母が自らを傷つけるような真似をしないように。
母の前では、工藤慎二は消えてしまってても構わない。だから、生きて欲しい―――自分を責めることなく、穏やかに。
***
窓の外に見える真っ青な空は、いかにも夏の空。
早く授業が終わらないかな、と思いながら、慎二はその空を眺めていた。
最近、慎二には気になるものがある。学校の壁際に植えられた、向日葵の花だ。園芸部の1年生が種を蒔いたのだが、この前降った大雨で、ちょうど成長期にあったその向日葵のうち何本かが倒れてしまった。それがちゃんと花を咲かせるのか、あれ以来ずっと気になって仕方ないのだ。
昨日見た時、20本程度ある向日葵のうちのいくつかが開花寸前になっていた。でも今朝は、少々遅刻気味だったので、見に行く時間がなかった。授業が終わったら見に行こうと思っているから、授業などほとんど耳に入っていない慎二だった。
けれど、1限目の授業が古文だったのは、ちょっとまずかった。ぼーっと外を眺めていた慎二は、ふいに頭上に殺気を感じ、ハッとして飛び退いた。
その直後、慎二の頭が元あった場所のすぐ上に、竹刀が振り下ろされてヒット寸前でピタリと止まった。
「…工藤。俺の授業でよそ見とは、いい度胸だな」
「す…っ、すみませんっ」
古文担当・西條寅之助の竹刀寸止め攻撃は、この高校では有名な話だ。よそ見をしていたりお喋りをしていると、容赦なく竹刀が振り下ろされ、頭に当たる寸前でピタリと止められる。剣道の名人なので、間違っても頭を叩かれることはないが、それでもかなり怖いことに違いはない。
「今度は何が気になったんだ? 空か? 虫か? それとも体育の授業をやってる女子生徒か」
「…向日葵です」
「―――そんなこったろうと思ったがな」
呆れ顔の先生は、竹刀の先でちょん、と慎二の頭をつついた。クラスメイトも、慎二の性格は分かっているので、クスクス笑うだけで終わる。なんというか…鷹揚な校風なのだ、この高校は。だから慎二のような天然系でも、苛められもせずのんびり学校生活を過ごせるのかもしれない。
「残り10分だ、集中していくぞー。次、西原! 59ページの頭から読め!」
さっさと授業が再開する。ごそごそと椅子に座り直し、小突かれた頭を軽く撫でた慎二は、ふと視線を感じて、右斜め後ろを振り返った。
視線の主は、清水さんという女子生徒だった。
クラスの中で最も大人びていて、成績も優秀。同性からもお姉さん格として慕われ、異性からも結構人気があるので、慎二も女子生徒の中で一番最初に覚えた生徒だ。その清水さんが、どこか楽しげな表情を浮かべて、慎二の方をじっと見ていた。
慎二と目が合うと、清水さんはニッコリと微笑んだ。
どういう意味か分からないけど、とりあえず慎二もニッコリ笑い返しておいた。
すると、清水さんの手が動き、何かが慎二の膝の上に落ちた。それは、小さく丸めた紙らしく、どうやら清水さんが慎二に向かって投げて寄こしたようだ。
「?」
また先生に見つかるとまずいので、そのまま、机の下で広げてみる。そこには、清水さんの外見同様、大人びた綺麗な字が並んでいた。
『次の休み時間、屋上まで来てもらってもいい?』
―――ああ…向日葵が…。
他の生徒なら、これが授業中であっても、見たいテレビの時間であっても、何よりも清水さんからのお誘いを優先するのだろうが―――慎二的には、清水さんより、向日葵だ。
とはいえ、さすがにそれは失礼だと思う。慎二は仕方なく、また斜め後ろを見て小さく頷いた。
それを見て、清水さんは極上の笑みを返した。その笑顔に、慎二は、なんとなく嫌な予感を覚えた。
嫌な予感は、的中した。
清水さんの用件は、慎二が一番苦手な類の用件だったのだ。
「…あの、ごめん。気持ちは嬉しいんだけど…」
慎二は、なるべく清水さんとの間を空けるようにして、済まなそうにそう返事した。
清水さんの綺麗な顔が、途端に曇る。その顔が、慎二の予想以上のショックを受けているように見えて、ちょっと焦ってしまう。
「…どうして? 私には、そういう気起きない?」
「え、いや、そういう訳じゃ…」
「じゃあ、他に好きな子とかいるとか?」
「いや、今は、いないけど…」
1ヶ月ほど前までは、いた。できれば、言葉を交わして一緒に過ごしてみたいな、と思っていた人が。
けれど、その人は、もう日本にはいない。彼女がいるべきだった国へと戻ってしまった。これを失恋と呼んでいいのかどうか、よく分からないが―――とにかく、慎二はまだ、散ってしまった初恋の痛手を引きずってる最中だ。とてもじゃないが、新しい誰かと本気で付き合おうなんて気にはなれない。
「あの、ほんとに…ごめん。清水さんがどうだ、ってことじゃなくて―――オレ、今、誰とも付き合う気ないんだ」
「……」
「まだ進路全然決めてないし…ごめん。高校いる間は、女の子のこと、考える余裕ないと思うんだ」
「…そうなんだ…」
大きな溜め息をついた清水さんは、そう呟くと、うな垂れてしまった。
―――ああ、藤代がこんな清水さん見たら、絶対オレ、ぶん殴られるよな…。
学校で一番仲の良い美術部員・藤代の顔を思い出す。彼は清水さんのファンなのだ。
ひたすら「ごめん」を繰り返しながら、なんでオレなの、という疑問が頭をよぎる。藤代の方が、アイドル顔でモテる筈なんだけどなぁ、と。
日焼けしたサーファーなんかがカッコイイとされる昨今、友人たちから「日陰に咲いてる栄養不足の向日葵みたいだ」と言われるような慎二は、つまりは流行らないタイプだ。稀に清水さんのように告白してくる女の子がいるが、彼女らが一体自分の何を気に入ってくれているのやら、慎二にはさっぱり理解できない。
けれど、その後、清水さんが慎二に告げた言葉に、慎二はその答えの一端を見たような気がした。
「…じゃあ、友達で構わないから。工藤君がもし寂しい時とかあったら、私に声かけて?」
「…えっ」
「甘えたい時あったら、いつでも呼んで。喜んで甘えさせてあげるから。ふられたんだから今更ダメだって分かってるけど、なんか…放っておけないの、工藤君って。私、頼られるのは慣れてるからっ。いつでも頼ってきて。ねっ?」
「―――…」
―――ええと。
つまり、オレって、女の子から見て“甘えさせてあげたいタイプ”、“構ってあげたいタイプ”だ、ってことなの…かな。
…それって結局、オレは男として頼りない、ってことなんじゃあ―――…。
人知れずショックを受ける慎二だったが、一応、笑顔はキープできた。
「う…うん、分かった。ありがとう」
慎二の返事に、嬉しそうな笑顔を見せる清水さんを見て、自分の解釈が正しかったことを再認識した。
―――オレ的には、お姉さんに甘えさせてもらう恋愛よりも、オレが女の子を守ってやるような恋愛の方が理想なんだけどなぁ…。
なのに自分は、どうやらお姉さんタイプから「守ってあげたい」と思われてしまうような男らしい。天変地異でも起こってこの外見と性格が変わらない限り、理想とする恋愛は無理かもしれない―――そんなことを思って、慎二は余計、落ち込んだ。
***
休み時間は短い。どうしても向日葵が気になって仕方なかった慎二は、清水さんと別れると、猛ダッシュで校庭を突っ切った。
けれど、校庭のど真ん中辺りで、既に始業のチャイムが鳴ってしまった。それでも、まあいいや、と呑気に構えた慎二は、そのまま向日葵の植わっている場所へと走っていった。一応、心の中で、世界史の先生すみません、と謝りながら。
昨日、あと少しで完全に花開く、という状態だった向日葵は、今日は見事に開いていた。大雨で倒れた数本も、他のやつよりは少々成長が遅れているようだが、既に花はつけている。夏休み前には開きそうだ。
―――やっぱり凄いなぁ…自然の生命力は。
思わず、口元が綻ぶ。慎二は、蕾の状態の向日葵に手を伸ばすと、その茎を軽く撫でた。頑張れよ、というつもりでしたことなのに、何故か逆に、指先から向日葵のエネルギーを分けてもらったような気分になった。
「…君は、強いね」
もう少し、力を分けて欲しくなって、慎二は向日葵の花に触れ、目を閉じた。
地球のいたるところが、エネルギーで満ちている。
例えば、ふりそそぐ太陽の光とか、それを浴びて葉を茂らす木々とか、その幹に巣を作る小さな虫とか、その虫を捕って生きている小さな鳥とか…世界は、生きるエネルギーで溢れかえっている。たくさんのエネルギーが、慎二を取り囲んでいる。
もしも生まれ変わるなら、大きな木になりたい、といつも思う。木は、たくさんの命を育んでくれるし、森を形成する大事な命だから。人間は嫌だ。この世で一番、弱くて自立してない生き物のような気がして…できることなら、次に生まれてくる時は、人間以外のものになりたいと思う。
もしも今、兄がどこかで生まれ変わっているとしたら、兄は何になっているだろう?
…なんだか、やっぱり人間に生まれているような気がする。人として生きてこそ輝く魂を、兄ような人は持っていると思うから。
―――じゃあ、オレみたいな奴は、何のために人間やってるのかな。
慎二は、本当は、小学校に上がることなく死ぬかもしれない運命にあった。3歳の時、兄と同じ白血病を患って、そう診断されたのだ。
けれど、神様は、慎二に奇跡を起こした。絵を描くことを覚えた慎二の体からは、何もしていないのに、白血病細胞が消えていたのだ。人間の免疫システムが起こした奇跡だ、と父は感慨深げに言っていた。けれど、そんな奇跡が誰にでも起こる訳ではないから、やっぱり起こしたのは神様なんだろう、と慎二は思う。
『大丈夫―――だって、お前は“奇跡の子供”だから―――…』
…きっと秀兄は今頃、天国でイライラしてるんだろうな。
“いい加減にしろよ、母さん。慎二が困ってるじゃないか。ああ畜生、俺が死んだりしなければなぁ”って、髪の毛掻き毟って苛立ってる秀兄の姿、目の前にいるみたいに思い浮かぶ。どんな時も、秀兄はオレの味方だったから、今もきっと、オレのために怒ったり泣いたりしてるんだろうな…。
神様は何故、人間として生きてこそ輝くような秀兄の命は奪ったのに、オレには奇跡を起こしたんだろう?
秀兄の代わりとして、母さんの前に存在し続けるため? 初めから、秀兄は死ぬ運命にあったから、そうなった時母さんが秀兄を頭の中で生かし続けられるように、オレっていう息子を残しておいたのかな。
秀兄。
オレ、奇跡が1度しか起こらないなら、あの時死んでても構わなかったよ。
だから、今、奇跡が欲しい。
もし秀兄が生き返るんなら、なんでもする。母さんには、秀兄が必要なんだから。理屈じゃなく…オレじゃ、ダメなんだから。
生き返るのが無理なら、さ。…せめて、母さんの前にいる時だけ、オレに宿ってくれないかな。
天国からちょっとの間だけ下りてきて―――母さんに夢見させてあげてよ。秀兄がまだ元気で生きてるって夢を。
「…それも、無理、かな」
ポツリと呟いた慎二は、向日葵から手を離した。
授業は、とっくに始まっている。今から行っても、ただ怒られるだけだ。かと言って、この炎天下に、ずっとここで授業が終わるのを待っている気にもなれない。少し考えた慎二は、2時間目が終わるまで、渋谷の街をぶらつくことにした。
***
平日の渋谷は、それなりに混雑していた。
午前中なので、まだ幾分ビルの影が歩道を覆っている。なるべく涼しい場所を選んでぶらぶら歩きながら、慎二は髪を掻き上げ、空を仰いだ。朝の父との会話を引きずっているのか、ちょっと気分が塞ぎ気味のようだ。
―――心が迷子状態なんだな、きっと。
心が迷子―――時々ある、こんな状態を、慎二はそう呼んでいた。自分の生きてる理由が、よく分からなくなる。兄ではなく自分が生き残った意味が見えなくて…迷子になるのだ。
こんな風に迷子になると、慎二は“幽霊ごっこ”をしたくなる。
母に見つけてもらえない自分を、見知らぬ誰かに見つけてもらいたくなる。
見つけてもらえると、嬉しかった。何故なら、この街で慎二を見つけてくれる人は、決まって誰かを必要としている人だから。そして、慎二を見つけると必ず、慎二を必要としてくれたから。
ありのままの自分を必要としてくれる存在は、それが男性でも女性でも、年寄りでも子供でも、全て等しく愛しかった。
でも―――今、その誰もが、慎二の傍には、いない。
メイならば、ずっと一緒にいてくれるかもしれない、と思った。
異国の地で、その小さな体で精一杯生き抜いているメイの生命力は、慎二から見てまぶしかった。けれど、時折見せる寂しげな顔は、手を差しのべなきゃ、と、自分の非力さも忘れてそう思ってしまう位に、か弱くて、儚かった。メイのもう一つの顔は、いつだって慎二を必要としてくれていた。
けれど…そのメイも、今、ここにはいない。
なんで神様は、こういう意地悪をするのだろう。奇跡を起こすだけ起こしておいて、傍にいて欲しい人は、どんどん奪ってしまう。兄もそう、メイもそう、そして誰よりも―――母が、そのいい例だ。
―――まだお前には早い、ってこと、なのかなぁ…。
もっと大人になって、オレが誰かを守れる位に強くなれば、神様もオレに、ずっと傍にいてくれるような人を与えてくれるんだろうか。
誰にも代わりができない、慎二自身を必要としてくれる人―――そんな人に出会うのが、慎二の夢。
必要とされたい。誰かの代わりでもなく、何かを埋めるためでもなく、ただ、自分という存在そのものを必要とされたい。そんな体験ができれば、きっと―――見つかる筈だから。自分が生き残った理由、神様が起こした奇跡の意味が。
「…あれ?」
ふと、見慣れない光景を目にして、慎二は思わず足を止めた。
慎二の視線の先50メートルの場所に佇む、1人の女の子。渋谷の街には全然似つかわしくないその子は―――どう見ても、小学校低学年以下だった。
鮮やかな緑と柔らかい黄色のチェックのワンピースを着たその子は、歩道のど真ん中に立って、キョロキョロと辺りを見回していた。絵をやっているせいか、慎二は、彼女の顔より、その鮮やかな配色の服の方に先に目がいってしまった。
迷子かな、と思った、次の瞬間。
女の子の目が、慎二に向き、そこでピタッと止まった。
「―――…」
リアクションに、困る。
パチパチと瞬く大きな目は、暫く慎二を見つめていた。そして―――そのキョトンとした顔が、ゆっくりと笑顔に変わった。
女の子は、トコトコと慎二の方に歩み寄ると、体の横に下げた慎二の手を、突然きゅっと握った。
「お兄ちゃん」
「……」
「マユね、迷子なの」
「…そうなんだ」
「お兄ちゃんは?」
「―――お兄ちゃんも、迷子かも」
「じゃあ、一緒におまわりさん、さがして」
遊びで言っているのか、それとも本物の迷子なのか、その辺りが微妙な感じだ。慎二は、女の子の手を握ったまま、周囲をぐるりと見回してみた。…少なくとも、この子の母親らしき人物は見当たらない。
「マユちゃん、1人でここ来たの?」
少し腰を屈めて女の子にそう訊ねてみると、女の子は無邪気に首を振った。
「ママと一緒に来たの。でも、綺麗なお洋服見てたら、ママがどこか行っちゃったの」
迷子確定。
―――この場合、オレがこの子を見つけたことになるのかな。それとも、この子がオレを?
なんだか、後者のような気がするから、不思議だ。苦笑した慎二は、中途半端に握っていた女の子の手を、改めてしっかりと握り直した。
「じゃあ、一緒に交番行こうか」
「うん。…お兄ちゃん、お名前、何ていうの?」
すっかり安心しきった、慎二を頼りきった笑顔で見上げてくる女の子に、慎二は、どことなく幸せそうな柔らかな笑顔を向けた。
「―――オレの名前は、シンジだよ」
いつの日か出会う、オレを、オレとして必要としてくれる人―――オレに、生きる意味を教えてくれる人。
まだ見ぬ“君”も、オレにこんな目を向けてくれるだろうか?
もしそうならば、オレは、“君”がとても愛しい。…“君”が男でも、女でも、年寄りでも、子供でも。
でも―――勿論、できることなら、可愛い女の子だと、凄く嬉しいんだけどね。
たった1人でいい、誰かのスペシャルになれたなら、自分に起きた奇跡に感謝できる日も来るかもしれない―――そんなことを思う時、慎二の笑顔は、天使の笑顔になる。
そして、迷子になった心細さを必死に隠しているこの小さな女の子に、今慎二が向けている笑顔も、そんな笑顔だった。
――― "Heavenly Child" / END ―――
2005.1.14
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