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キーボードを叩きすぎて、すっかり肩が痛くなってしまった。
瑞樹は、念のためフロッピーにデータをセーブしておき、傍らに置いてあったマルボロに手を伸ばした。
1本取り出し、口にくわえて火をつける。瑞樹は、煙草をくわえたまま、画面に映っている文章を眉間に皺を寄せて丁寧に見直していった。
―――ま、こんなもんか。
最終的には、明日、大学のパソコンでプリントアウト前にもう一度チェックするのだし、今はこれ以上いいレポートが書けるとも思えない。まるで機械の取説みたいな無機質な文章だよなぁ、と自分のレポートに我ながらうんざりしつつ、ひとまずはこれで本日の作業を終了することに決めた。
慣れたマウス操作で、開いていたワープロソフトやら何やらを閉じ、フロッピーを抜く。あとは電源を切ればおしまい…の、筈だった。
しかし。
この日は、少々勝手が違った。
カシャン、という音を立てて出てきたフロッピーを抜き取り、正規の手順を踏んでシステムシャットダウンしていく。そしてMS−DOSの黒い画面になったところで電源ボタンを押したら―――
一瞬、火花が散った。
「は!?」
どこから火花が散ったのか、分からない。
バチッ、という音さえしたような気がしたが、一瞬のことで、事態はさっぱり飲み込めなかった。今分かるのは、パソコン本体の背後から、薄い灰色の煙が僅かに立ち昇ったことだけだ。
―――…マジ?
たっぷり1分、瑞樹は、フロッピー片手にフリーズした。
***
『火花が散った? ああー…そりゃ駄目だなぁ。とうとう3号も寿命か』
「駄目の一言で済ますなよ。元々は親父のパソコンだろ」
イライラと脚を揺すりながら、受話器を耳に当てた瑞樹は、忌々しそうな顔で傍らのパソコンを見下ろした。
念のためもう一度電源ボタンを押したが、当然というかやっぱりというか、パソコンは何の反応も示さなかった。
上京する際、父が所有していた2台のパソコンのうち古い方を買い換えると言うので譲り受けたのだが、古いものとはいえ結構快適に使えていたから、まさかこんなことになるとは思っていなかった。ちなみに「3号」という名称は、父がこれまで個人的に所有してきたパソコンの連番である。今、父の手元には、4号と5号がある筈だ。
『中開けてみたか?』
「一応。…なんとなく、基板っぽい気はする。前見た時と、基板の一部分の色が変わってるから」
『データは?』
「全部保存してる」
瑞樹は日頃から、プログラムから作成したデータ、パソコン通信のログに至るまで、全部フロッピーに定期的にバックアップしている。システムエンジニアである父から、データ消失の恐怖は嫌というほど聞かされてきたので、そういう習慣が身についたまでだ。
『なら、問題ないな。とりあえず3号は諦めろ』
「…つまり、買い換えろってことだな」
修理も案外高くつく。第一、果てしなく型落ちなこのパソコンを直す位なら、中古で新しめのやつを買った方がマシだろう。それに、もうパソコンはいいや、という結論も出し難い。3年になってからレポートが増えた上、どれもワープロかプリントアウトと指定されていて、手書きはアウトである。大学の機器を使えばいいのだが、講義が終わった後の時間を目一杯カメラにつぎ込んでいる瑞樹は、自然、レポートの類は全て家でこなす羽目になる。これからますますレポートが増えることを考えたら、修理も買い換えも放棄する、という道は考えられなかった。
…それにしても。
一眼レフのために貯めてた金を、パソコンに持っていかれるとは思わなかった。
でも仕方ないな―――瑞樹は溜め息をついた。
***
忙しかったり、特に不便がなかったりして、瑞樹が実際にパソコンを買いに動いたのは、それから半月経った平日の午後だった。
が―――たまたま通りかかった人物に、その行く先をバラしたのは、ちょっと軽率だったかもしれない。
「お、秋葉原か。なら俺も連れて行け」
そんな訳で、今、秋葉原を巡る瑞樹の横には、何故か、現在就職活動中の4年生・久保田がいるのだった。
「…秋葉原巡りしてる暇あったら、就職活動もっとやった方がいいんじゃねぇの」
呆れた顔をして瑞樹が言うと、久保田はニヤリと不敵な笑みを返してきた。
「馬鹿。これも就職活動の一端なんだよ。いわば“市場調査”だ」
「市場調査?」
「俺が狙ってるのは、コンピューター関連会社だからな。今、どんなソフトが巷でよく売れてるのか、念のため調べておくんだ」
「…似合わねぇ…久保田さんにコンピューター…」
「なんとでも言え。俺の見通しでは、あと5年もすりゃ、パソコンは“マニアの趣味”じゃなく“家電”になってる筈だ。今乗っておいて絶対損はないビジネスだって自信がある」
この自信は一体どこから来るんだ、といつも思うが、説明されたところで、久保田が専門としている“経済学”という分野は、瑞樹にはさっぱり理解ができない。とりあえず、ふーん、とだけ相槌を打っておいた。
久保田は瑞樹の1つ上の先輩だが、瑞樹にとっては、かなり理解不能な人物だった。
出会った時、木村に似ている、と思った。
同世代の中では比較的長身である瑞樹に比してもなおまだ長身である背格好。身長差以上の差を感じさせる原因となっているがっしりした体格。性格の良さというか真っ直ぐさが表れている顔立ち―――久保田は間違いなく、木村に似ている。
が、木村と似ていない部分もある。
ひたすら人がよくてノンビリしていた木村とは違い、久保田は、かなりの策士だ。
人心掌握術に長けた彼は、交渉事や揉め事の際には、相手の性格や話の流れなどを瞬時に計算し、相手を怒らせずに確実に自分の意見を飲ませる術を身につけている。同期生も先輩も教授陣も、彼に捕まったが最後、あれよあれよという間に契約書にハンコを―――いや、そういう訳ではないが、それに近い感じで丸め込まれてしまう。多分、天性のビジネスマンなのだろう。
そういう男が、なんで自分にやたら興味を持つのか―――そこのところが、理解不能。
別に嫌な相手ではないし、話してみて面白いから結構つるんでいる事が多い。が、やっぱり時々思う―――こいつ、なんで俺の隣にいるんだろう、と。
「しかし、瑞樹がコンピューターに詳しいとは知らなかったぞ」
どこか感心したような顔をする久保田に、瑞樹は軽く肩を竦めた。
「単なる“門前の小僧”だろ、俺の場合」
「もしかして、卒業後は親父さんと同じ仕事に就くのか?」
「…システムエンジニア、か―――…」
言われて、なんとなく現実味を帯びる。
そういう選択肢もあるな、とはいつ頃からか考えてはいたが、あまり具体的に考えたことはなかった。
英語を専攻したのも「役立ちそうだから」であって別段海外赴任するような仕事がしたい訳でも通訳になりたい訳でもない。同様に、パソコンを父から譲り受けて使っているのも、それが生まれてからの日常生活の中に常にあった物だから。この春、情報処理二種を受験したが、それだって、C言語を知ってるんだから、どうせなら資格の1つも取っとくか、というレベルだ。
何かに対して、それを仕事に活かす、という頭は、ほとんどなかった。
常に、ある一つの夢が、未練がましく頭の中を占めていたから―――それ以外の仕事をする自分が、あまり思い浮かばなかったのだ。その夢は捨てるんだ、と、何度も自分に言い聞かせている癖に。
「あんまり考えたことなかったな…」
ぼんやりした口調で、呟く。が、その言葉に久保田は、何故か期待いっぱいの顔になり、瑞樹の肩を掴んできた。
「じゃあ、ちょっと考えてみろよ。お前、絶対向いてるって。でな、もしそっち方面進むんなら、是非俺の会社に来いよ」
“俺の会社”。
まだ6月なのに何を言ってるんだ、という目をして、瑞樹は眉をひそめた。
「…なんだよ、それ」
「実は、情報処理の教授にそれとなく探りを入れて、履修してる学生の中で目ぼしい奴の名前を既に入手済みなんだ」
「……」
「筆頭にお前の名前挙げてたぞ。見込みのあるシステムエンジニアを、将来のライバル会社にとられるのはつまらねーだろ。今のうちに唾つけとかないと」
―――まだ、どの会社も、入社どころか面接もしてねーじゃん…。
就職先が決まってない癖に“俺の会社”と言うあたり、久保田ならではというか何というか…とんでもない。それに、探りをいれる久保田も久保田だが、情報リークしている教授も教授だ。一般科目に情報処理を選んだ事を、瑞樹はこの時、初めて少し後悔した。
「…ま、あんたが無事卒業できたら、考えてやるよ」
「なんだよそりゃあ。卒業できるに決まってるだろ」
「いっつも意見が合わなくて言い争いになってるあの教授が、あんたの卒論に合格点つければ、な」
その言葉に、久保田がぐっ、と言葉につまる。それを見て瑞樹は、勝利を確信し、ふっと笑った。
まあ、でも―――久保田のことだ。気が合わない頑固者の教授を丸め込む位、きっと朝飯前だろう。そう思ったが、何も言い返せずにいる久保田が面白かったので、それは口にしないでおいた。
***
結局、久保田の妙な“市場調査”に付き合わされた上、夕飯まで付き合わされたせいで、なんとか状態の良い中古のラップトップを見つけて帰宅したのは、午後9時を大幅に過ぎてからだった。
さっさとセットアップにかかる。大量のフロッピーをちまちまと差し替える作業に耐え、なんとか元の状態に復旧できた時には、日付けが既に変わっていた。
残るは、パソコン通信のログ取得と、父に「復旧したぞ」というメールを出すのみ。瑞樹は、パソコン通信用のソフトを立ち上げ、その最後の作業に取り掛かった。
瑞樹がパソコン通信を始めたのは、2年の夏休み辺りだった。
情報収集に便利らしいと知り合いから聞いたし、既に入会している父とメールで連絡が取れる点でも便利だと思い、入会した。メール以外では、主に「フォーラム」と呼ばれるテーマ別に分かれたコミュニティを巡回して、そこに書き込まれた情報を読んだり発言したり。メールは父としかやり取りしていないが、半月も経てばこのフォーラムのログが相当溜まっている筈だ。
無事メールを出し終え、カメラ関係や映画関係のフォーラムのログを集めて回った瑞樹は、回線を切ろうとしたところで、ふとメニューの中のある文字に目をとめた。
“4:CB”―――前から気になっていたサービス。
父の説明によれば、なんでもそれは、画面上で展開する井戸端会議のようなもの―――チャットとか呼ばれるものの一種だそうだ。画面上で文字で会話するなんて、一体どうやってやるんだ、と気になってはいたが、一度も試さずにいた。
―――ちょっと、覗いてみるか。
気まぐれを起こして、メニューの4番を選択してみた。
『ハンドルネームを入力して下さい−>』
…ハンドルネーム?
そんなもの、考えたこともなかった。うーん、と悩んだ末、"NRT"と入力し、エンターキーを押した。なんのことはない、「成田」という苗字から、成田空港の略号を思い浮かべただけだ。
次に出てきたのは“1:BAND-A、2:BAND-B…”という不可解なメニュー。そう言えばCBという言葉はアマチュア無線からきてると聞いた気がする。BANDというのもその辺りからきているのかもしれない。よく分からないが、1番を選択しておいた。続いて出てきたのは“チャンネルを選択して下さい”。分からないので、これも1番を選択しておいた。
瑞樹は知らなかったのだ。
チャンネル1―――それが、初心者用のチャンネルであることを。
***
『NRT:こんばんは』
とりあえず、それだけ入れてみた。
ぽつりぽつりと「こんばんは」と答えが返ってくる。それが10行ほど続くと、画面はピタリと止まった。
―――10人は参加してるってことだよな、これ。
そう言えば、パソコン通信の解説本に、このCBで使えるコマンドも載っていた筈だ。瑞樹は本棚からその本を引っ張り出し、CBのページを見てみた。それによれば“/u チャンネル名”というコマンドを使えば、参加者がずらっと表示されるらしい。なるほどね、と思いつつ、瑞樹は“/u
1”と入力し、エンターキーを押した。
次の瞬間。
何が起きたんだ、という位の勢いで、ずらずらずらーっとID番号とハンドルネームが画面上に表示された。それは1画面では収まらず、もの凄い勢いでスクロールしていく。呆気に取られて、上へと流れていく文字を見ていたら、10秒近く経ってからそれがやっと止まった。そして最後に、参加者の総数が表示された。
「…はぁ!? 124人!?」
それでこの静かさかよっ!
なんなんだ、と思いつつ、画面を凝視する。次々に「こんばんは」と参加してくる人間が現われ、その都度返事は返ってくるのだが、会話として全然成り立たない。コマンドの入力ミスのような意味不明な発言はちらほら表示されるが、それ以外は全員沈黙だ。更に数度、参加メンバーを確認したところ、どうやらもの凄い頻度で人が入ってきては出ていっているらしい。それが分かって初めて、瑞樹は、どうやらこのチャンネルが「CBに不慣れな人専用」であることを察した。
―――まぁ、俺も、不慣れではあるけど…これは、あんまりだろ。
他のチャンネルに移動するか、と考え始めたその時、新たな1行が表示された。
『Nikon:こんばんは』
「……」
瑞樹に、ここに留まれ、と言わんばかりのハンドルネーム。
これに反応せずにいられる筈もない。瑞樹は、ようやくキーを叩く気になった。
『NRT:はじめまして。カメラが趣味なんですか?』
瑞樹の発言の後に、10行ほどの「こんばんは」が続く。その最後の数行に埋もれるようにして、瑞樹に対する返事が表示されていた。
『Nikon:いえ、そういう訳じゃないです』
『NRT:じゃあ、何故Nikonて名前にしたんですか?』
『Nikon:不可抗力です』
なんだそれは。
誰かにこのハンドルにしろと強要でもされたのだろうか。妙な話だ。
『Nikon:私の趣味は、カメラじゃなく、映画鑑賞です』
よほどカメラが趣味と思われるのが嫌なのか、"Nikon"と名乗る人物は、そんなことを言ってきた。でも、同じく映画が趣味の瑞樹からすると、この部分でもクリティカルだった。
『NRT:俺も映画が趣味です。月に3、4本は必ず見ます』
『Nikon:私は月に2本位です。テレビで見る方が多いかも』
『NRT:最近では何を見ましたか?』
なんて硬い会話なんだ、と思うが、いかんせん勝手が分からないので、こんな風になってしまう。それにしても、他が誰も発言しないから会話として成り立っているが、複数になった場合、誰に対して話しかけているのか分からなくならないんだろうか?
何かルールでもあるのかもしれないな…と、"Nikon"からの返事を待ちながら解説本を手に取った、その時。
信じられないことが起きた。
瑞樹は何もしていない。キーボードに指を乗せてすらいないのだ。
なのに、画面上には、パソコン通信を切断するためのコマンド「/off」が勝手に表示された。まるで、幽霊か何かが瑞樹のパソコンのキーボードを叩いたみたいに。
「は!?」
何が起きたんだ、と目を見張る瑞樹の目の前で、パソコン通信は切断された。画面には「ご利用時間は23分15秒でした。ご利用ありがとうございました」と、そっけなく表示されていた。
「―――…」
中古パソコンだけに、一瞬、本気で怨霊でも取り付いてるんじゃないかと思いかけたが、ふとある事に気づき、瑞樹は背後の壁に掛かっているカレンダーを振り返った。
そこに掛かっていたのは、6月のカレンダー。今日は6月30日―――いや、日付けが変わったから、7月1日だ。
手にした解説本の後ろの方に、該当する説明が書かれていた。
『毎月1日の午前0時〜1時は要注意。システムのメンテナンスのため、その時間に接続しているユーザーは、強制的に回線が切断されます』
「…タイミング悪…」
せっかく、なんとか会話が成り立ちそうな奴が参加してきたのに、大して話もできないうちに、強制的に落とされるとは…思わず、舌打ちをする。
まぁ、でも―――慣れた連中のいるチャンネルであれば、CBというコミュニケーションツールは、結構面白いかもしれない。"Nikon"と会話するまでは、二度とこんなもんやるか、という気分でいた瑞樹だったが、また気が向いたらやってみるかな、という位の気分にはなった。
この出来事から1ヵ月後、瑞樹は初めて"HAL"というハンドルネームを名乗り、初心者用ではないチャンネルでCBに参加した。
口下手な自分でも、結構楽しめるもんだな、と理解した瑞樹は、しばしばCBに参加し、名前も顔も知らない人々と、刹那的な会話を楽しんだ。
それ以降、彼は、CB上で言い争いになった人物から“不幸のメール”をもらったり、顔も名前も知らない「男性」からCB上で愛の告白をされたり、インターネットの普及に伴って移動したネットチャットで外国人に喧嘩を売られたり…と、華やかなチャット生活を送るのだが―――それはまた、別の話。
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