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  KOI-GOKORO - rai side -

 「えぇ!? 由井君って藤井さんの彼氏じゃないの!?」
 たまたま隣に座った、同じ講座の同級生の素っ頓狂な声に、驚かれた蕾夏の方がその倍も驚いてしまう。
 ただ、この反応に、彼女およびその向こうにいる女の子が何故自分の隣に座ったのか、その理由がよく分かった。なるほどね、と、かえって安心する。女の子は、いろいろと怖い。ニコニコしながら悪意を持って近づいてきたりするので、ちょっと警戒していたのだ。蕾夏は少しだけ警戒をゆるめて微笑む―――もっとも、その僅かな違いなど、彼女達は気づかないだろうが。
 「由井君は、中学からの同級生で仲もいいけど、あくまで友達だよ。親友って感じ」
 テキストをバッグに入れながら蕾夏がそう言うと、2人は微妙な表情で顔を見合わせた。
 「そーなんだぁ…。なんだ、あたし達てっきり…」
 「ねぇ。純粋培養カップルって、みんなで噂してたんだよねぇ」
 ―――みんなって誰よ、みんなって。
 ついでにその“純粋培養カップル”ってのはどういう意味なんだろう、と思ったが、蕾夏は訊ねなかった。それはもう、彼女達からすればどうでもいいこと―――2人の、いや、その“みんな”の興味は、蕾夏にある訳ではないのだろうから。
 「ね、ね、じゃあさ。由井君って今フリーなの?」
 「多分ね」
 「由井君って、過去に彼女いたことある?」
 「ああ…うん、あるよ」
 「どんな子? どんなタイプなの?」
 頭を低くし、何故かヒソヒソ声で訊いてくる2人。授業中でもないのに、何故こんな風に“秘密”っぽい態度をとるのか、蕾夏には今ひとつ分からない。
 「タイプ、かぁ…。あ、そうだ、写真持ってるんだった。見る?」
 「見るっ!」
 超乗り気な2人に、蕾夏は、システム手帳の中にいつも挟んである写真を抜き取り、渡した。
 「真ん中の子が、そう」
 「ふーん、どれどれ―――…」
 興味津々で写真を覗きこんだ2人は、由井と蕾夏の間に立つ美少女を見て、完全にフリーズした。
 「…何なの、このフランス人形は」
 「私の幼馴染。今はアメリカに行ってるの」
 「……」
 「おい、藤井」
 突如割って入った呼び声に、蕾夏は背後を振り返った。講義室の後ろのドアから、見知った顔が覗いている。
 「そろそろ行くぞ」
 「ハイ」
 ホッとしたような笑顔になった蕾夏は、まだフリーズ状態の2人から写真を取り上げると、「じゃ、映研行くから」と言い残して席を立った。

***

 「広瀬さん、そのサングラス、やめましょうよ…絶対周りの人間威嚇してますよ」
 隣を歩く広瀬を見上げて、蕾夏が眉をひそめる。が、広瀬は涼しい顔のままだ。
 「俺、眩しいの駄目だからなぁ…。夏の間だけは見逃してくれ」
 「私はいいんだけど…まゆさんが“広瀬先輩、夏になった途端こわーい”って、顔がなんだかずっと強張ってるから、清水先輩が困ってるんですよ」
 「なんで。撮影する時はちゃんと外してるだろ。演技下手なの誤魔化してるだけだって、あれは。もっと撮りたくなるような演技してみせろってんだよ」
 「…辛口ですね」
 「清水先輩は監督の癖に役者選ぶ目が曇ってるんだ。藤井だって今の配役、納得いかないだろ?」
 「うう…」
 納得いかない。芸達者な女の子は他にいくらでもいる。何故よりによって一番下手な彼女なんだ、という疑問の答えは、誰の目にも明らかだ。秋の大学祭に向けて撮影しているフィルムの主演を務める2年生・まゆは、監督である清水の彼女なのだ。
 「他校生でもOKなんだから、広瀬さんの彼女さんを推薦したらよかったんですよ。可愛いし、それに、児童劇団にいたこともあるんでしょう?」
 ちょっと不満げに広瀬を睨み上げる。そんな蕾夏に、広瀬は軽く口の端を上げてはみせたが、何も答えはしなかった。


 広瀬は、蕾夏の2つ上で、映画研究会では撮影を担当している映画マニアである。
 普段は比較的寡黙だが、ひとたび納得のいかない事に憤りを感じると、相手が女の子だろうが年上の清水であろうが、容赦なく苦言を呈する。そんな、変にへつらったり機嫌を取ったり下心を持ったりしない部分が、彼の評価を高めていた。ちょっと怖い、デリカシーがない、と女性には今ひとつ人気がないが、同性からは絶大な人気を誇っていた。
 まだ1年生の蕾夏は、タイムキーパーという役を務めている。
 別にタイムキーパーが好きな訳ではないが、何もしないでいると脇役として演技をさせられるらしいことを察したので、真っ先に裏方役に手を挙げたまでだ。映画が好きな蕾夏ではあるが、演技なんて絶対無理だし、自分が撮られることより映画が出来上がっていく過程の方に強い興味があった。だから、裏方では一番の花形であるカメラマンという役割には、それなりに憧れを抱いていた。
 そんな訳で蕾夏は、撮影中、暇があれば広瀬のところへ行って、彼が回している16ミリの指南などを受けたり、実際にカメラを持たせてもらったりしている。カメラに興味があるのは蕾夏一人ではないが、女性では蕾夏一人だったので、広瀬も面白がって積極的にいろいろ教えてくれた。

 広瀬には、1つ年下の彼女がいる。
 残念ながら、蕾夏はその人の名前を知らない。何故ならその彼女は、同じ大学の学生ではないからだ。
 ただ、顔は見たことがある。時々、広瀬に会うために、大学やロケ先に現われるから。多分、映研の活動が終わった後に、2人でデートの約束でもあるのだろう。口はきいたことはないが、目が合って何度か会釈したことはある。男っぽい広瀬によく似合う、ふわんとしたムードの優しそうな彼女は、そんな時、必ず笑顔で会釈を返してきた。
 偉いなぁ、と、蕾夏は感心せずにはいられない。
 由井の彼女でも何でもない女の子ですら、由井と行動を共にすることの多い蕾夏に対して、明らかな嫌悪の目を向けてくる。広瀬に関しても、映研に入って間もない頃は、広瀬に憧れているらしき女の子から何度か睨まれた。でも、広瀬の彼女は、いつもニコニコしている。
 きっと広瀬から、ちゃんと話を聞いてるからなのだろう―――いいカップルだなぁ、と、蕾夏は思っていた。


 「あーあ…あと2回で、学祭作品も撮り終わるなぁ」
 今日のロケ場所である大学の裏庭へと向かいつつ、広瀬は大きく伸びをして、そんなことを言った。確かに、9月の青空は、伸びをしたくなる位気持ちいい。蕾夏も、真似をして伸びをしてみた。
 「あー…、撮り終わると、地獄の編集作業が待ってますねぇ…」
 「…お前な。つまらねぇことを思い出させるなよ」
 「あはは、すみません。でも…広瀬さん、将来やっぱり映画関係進みたいんでしょう? そしたら、フィルム編集からは逃れられないですよ?」
 「―――仕事となりゃあ、我慢してやるさ」
 やはり広瀬は、映画関係に進みたいらしい。高校時代も映研に入っていたという。なのに何故―――蕾夏はふと、疑問に思った。
 「広瀬さん、どうしてうちの大学に来たんですか?」
 「え?」
 「映画関係なら、専門学校とかもあるのに…どうして法学部に?」
 蕾夏の問いに、広瀬の表情が若干曇った。それは、サングラスをかけていてもなお顕著だった。
 「あ…っと、別に、深い事情があるんだったら、言わなくても―――仕事と大学の専攻が直結してるとは限らないですよね」
 広瀬の表情の変化に気づいた蕾夏は、慌ててそう付け加えた。すると広瀬は、気にするな、とでも言いたげに苦笑を返し、はぁ、と溜め息をついた。
 少しの間、沈黙が続く。やがて、再び蕾夏に目を向けた広瀬は、
 「ちなみに、藤井は? なんで国文選んだのか、教えてくれよ」
 と蕾夏に反問してきた。
 「え…っ、私が国文じゃ、変ですか?」
 「だって、外国生活長かったんだろ? 将来に役立つこと考えたら、同じ文理なら英文の方が無難なのに」
 「…うーん…確かにそうかもしれないけど…」
 どう言ったらいいのかよく分からず、蕾夏は眉を寄せた。結局、素直に志望動機を話すしかないと思い、蕾夏は広瀬の方を見上げた。
 「私、日本語が好きだから」
 「……」
 「一度、日本を離れてるからそう思うのかなぁ…。例えば、自分を指す言葉って、英語じゃ“I”しかないけど、日本語なら性別によって“僕”、“私”―――そこに性格が絡んで“俺”、“あたし”、地域が絡めば“うち”なんてのもあるし、時代が絡んで“拙者”なんてのもあるでしょう? 語尾のつけ方や独特の言い回しとか、同じ文章であっても、それこそ人の数だけ表現があるような気がして、ああ、なんて豊かな言語なんだろう、って」
 「…ふーん。確かにそうだな」
 「勿論、英語にもパーソナリティは表されるけど、日本語とは全然比較にならない。喋ってる人口が多いってことは、英語ってそれだけシンプルで記号化された言語なんだと思う。比べて日本語はすごく人間的―――魅力的な言語だなって思って、もうちょっと勉強してみたくなったの。単純でしょう?」
 くすっと笑った広瀬は、なるほどな、と呟きながら、ぼんやり廊下の先を見つめた。
 「偉いな、お前。ちゃんと好きなこと見つけて、それを納得いくまで追求するために、大学進んだなんて」
 「そ、そんな…オーバーですよ。それこそ、仕事に全然直結しない話だし」
 「…俺も、そんな風に、自分の好きなことやりたかったよなぁ」
 「……」
 「迷いがあったからな。…最後の一歩を踏み出す覚悟が欠けてた。自分以外の人間の希望に、気ぃ遣いすぎた」
 ―――何となく、分かった。
 “大学を出て当たり前”な時代だからこそ起きる、親と子供の間にある温度差。法学部に通う大学生と、映像技術の専門学校生では、親の捉え方が違うのかもしれない。できれば前者になって欲しい…そんな希望を、広瀬は優先したのかもしれない。
 「…私は、弁護士になった広瀬さんより、夢中でカメラ回してる広瀬さんの方が、リアルに感じるけどなぁ…」
 思わず、呟いた。
 その呟きに、少し沈んだ声の広瀬も、「俺だって、そう思うさ」と答えた。

***

 学祭作品は、9月のうちに撮り終わり、広瀬が面倒がっていた編集も滞りなく終わった。
 脚本兼監督の清水は、自分の彼女が綺麗に、かつ魅力的に撮れているその映画に、いたくご満悦のようだった。が、現代劇ではありえないセリフの連続に、清水以外の部員は、かなり辟易していた。
 「…あと半年すりゃ出てくんだ。耐えようぜ」
 「藤井、来年はお前書けよ。国文の意地見せてやれ」
 試写会会場で、清水とその彼女には聞かれないように囁いてくる部員に、蕾夏は引きつった笑みを返した。陰でこうして叩かれることを考えると、来年は自分が脚本を、なんて気には、到底なれなかった。


 「藤井ー、お疲れぇ」
 学祭での上映も終わり、2回目の上映の準備をしつつ映写機のところで広瀬と談笑していた蕾夏は、由井の声に気づき、振り向いた。
 「あ、由井君。お疲れー」
 「見たよ、映画。あ…広瀬さんもお疲れさまです」
 「おお。感想聞かせろよ、文学少年」
 広瀬がニヤリと笑う。広瀬も由井のことはよく知っている。彼が洋の東西を問わず相当数の本を読んでいることも当然知っている。だからこそ、今回の作品の感想が聞きたいのだろう。
 困ったように首を傾げた由井は、それでも率直な意見を述べた。
 「映像は綺麗でしたね。無声映画だったら良かったのに」
 「ハハ…、さすがは腐れ縁だな。藤井と同じこと言ってる」
 「だって―――なぁ?」
 あれじゃあね、という視線を蕾夏に送る由井に、蕾夏も苦笑を浮かべた。確かに、酷い。広瀬や他の3年生辺りが、撮影の途中にもいろいろ苦言を呈したが、ワンマンな清水に押し切られてしまったのが悔やまれる。
 「広瀬さんは、学祭終わったら何撮るんですか? また映画ですか」
 「いや…まだ決めてない」
 映写機のセットを終えた広瀬は、小さな溜め息をついた。
 「まぁ、暫くは充電期間だな。映画でも観に行きながら、頭をリセットさせるさ」
 「ふぅん…大変ですね、撮る作業ってのも」
 その時、背後でコトリ、と音がした。
 人の気配に、3人して振り返る。すると、上映会に使っている講義室の扉の所に、広瀬の彼女が立っていた。
 「あ、こんにちはー。広瀬さんの映画、観に来たんですか?」
 蕾夏がいち早く笑顔で挨拶すると、彼女は少しうろたえたように視線を泳がせた後、曖昧な笑みで会釈してきた。どうやら、映画を観た訳ではないらしい。もしかしたら、広瀬と学祭を回る約束でもしていたのかもしれない。
 「あの…時間、ある?」
 初めて、彼女の声を聞いた。顔とマッチした可愛い声だなぁ、と蕾夏が思っている横で、広瀬は少々渋い顔をしていた。映写機をセットしている途中なので、迷惑と感じたのかもしれない。
 「広瀬さん、この続き、私やるから大丈夫ですよ」
 「…じゃあ、頼む」
 案外あっさりそう言って場所を明け渡すと、広瀬は彼女の方へ歩み去った。
 広瀬の腕にスルリと腕を絡める彼女を見て、蕾夏は少し眉をひそめた。人前でああした事はしない人だったのに―――今日初めて声を聞いた点とも重なって、なんだか妙な違和感を覚えた。

 「へぇ…広瀬さん、彼女いたんだ」
 講義室を出て行った2人を目で追いながら、由井がポツリと呟いた。
 「え、由井君、知らなかったの?」
 「うん。だってオレ、広瀬さんとは、藤井に会いに来る時にちょっと話すだけだし」
 由井は、大学に入ってからは“古文書研究会”という何やら恐ろしげなサークルに所属していて、講義後の時間は博物館巡りなどをしている。確かに、学部も違う広瀬とはほとんど接点はなかった。
 「そうか…なんだ。残念だな」
 大きな溜め息をつく由井に、蕾夏はキョトンとした顔をした。
 「何が?」
 「広瀬さんなら、藤井のこと任せられると思ったのに…彼女いるんじゃ、まずいよなぁ」
 「ええ!? 冗談でしょ!?」
 まさか、由井が広瀬と自分をそんな目で見ていたとは知らなかった。蕾夏は、映写機にセットしかけたフィルムを放り出して、由井の綿シャツの袖を掴んだ。
 「ちょ、ちょっと…まさか、辻さんに変なこと言ったりしてないよね!?」
 何よりもそれが心配だった。つい必死の形相でそう言うと、由井は呆れたような顔をした。
 「言う訳ないだろ? 今の広瀬さんと藤井の様子を報告しただけで、多分正孝さんなら、即座に大学まで乗り込んでくるよ」
 「…やめて」
 ありえそうで怖い。映研のメンバーの大半が男性だと聞いただけで、本気で一度様子を見に来ようとしたのだ。過保護にも程がある―――いや、ただ過保護なだけではないこと位、蕾夏ももう分かっている。けれど…。
 「ああ、惜しいなぁ…。広瀬さんならお薦めなのに。あの人、絶対藤井に合うんだけどなぁ」
 「なんでそこまで言うのよ」
 「―――藤井、気がついてた? 広瀬さんといる時って、藤井、どこも緊張してないんだよ」
 「……」
 「藤井って、フレンドリーそうに見えて、実は密かにきっちり防御壁張り巡らしてるだろ。オレは、ずっと見てたから知ってる。…その理由も知ってるから、余計」
 蕾夏の肩が、微かに跳ねる。僅かに強張った表情―――2人の間でも、「あの事件」については、もう何年も禁句になっていた。由井がそれを持ち出すのは、よほどの危険が迫っている時だけだ。
 「なぁ、藤井」
 由井の目が、真剣味を増す。真っ直ぐに見据えてくる目に、蕾夏も怯まずに応じた。
 「そろそろ、本気で考えた方がいい。広瀬さんは、彼女いるんじゃ無理としても…見つけないと」
 「何…を?」
 「藤井が、ありのままの藤井でいられる相手」
 「……」
 「何の不安も感じずに、身構えずに傍にいられる相手。藤井が、自分の方から“好きだ”って思える相手。…お前、まだ誰も好きになったことないだろ? 18年彼氏なしはザラにいるけど、18年恋をした経験なしは、ちょっとまずい」
 「…いいもん…別に、誰も好きになれなくても」
 「まずいんだよ」
 どこか苦しげな声で呟いた由井は、自分のシャツの袖を握る蕾夏の手を、反対の手で軽く握った。蕾夏は、たったそれだけでも、大きく体を跳ねさせ、一気に全身を緊張させた。
 「…ほら。オレでも、これだろ? 他の男なんて、もっとダメだよな」
 「―――…っ」
 「いつまでもこんな風じゃ、藤井―――本当に捕まるよ、正孝さんに」

 辻さんに、捕まる。
 …それは絶対、嫌。

 でも、今のところ、触れられて平気な異性は、彼しかいない。由井の手にすら緊張する。
 こんな自分が、恋をする―――? そんなことは、どんな手品よりも難しいように、蕾夏には感じられた。

***

 学祭が終わると、映研の活動は途端に緩やかなものに変わった。
 主に映画に出演していた“役者”の子たちは、演劇部との掛け持ちが多いため、そちらの活動へと戻っていたし、残った本来の映研メンバーは、主に公開済みの映画のビデオを観ることに意欲を燃やし始め、撮影などは行われなくなった。
 蕾夏は、試しに1本、脚本を書いてみようとしていた。
 恋愛モノは苦手なので、小学生位を主人公にして、何気ない日常風景なんかを描けたらいいなぁ、と考えた。が、実際、それを文字にしようとすると、観念的すぎる蕾夏だけに、ト書き部分が「〜な感じ」という表現だらけになってしまった。私に脚本家の才能はないな、と密かに溜め息をついた。
 広瀬は大抵、部室の片隅で、16ミリのカメラを弄っていた。
 映画の論評をし合っている仲間を映してみたり、大学の構内を映してみたり―――出歩いて映す時は、よく蕾夏に声を掛けた。蕾夏も、広瀬がどんなものを撮るのか興味があったので、誘われればついて行った。そして、銀杏が色づいてきたとか、誰もいない講義室ってなんとなくノスタルジーだとか、そんな他愛もないことを話し合いながら、曖昧で穏やかな時間を楽しんでいた。

 由井の言葉で意識した訳ではないが―――確かに、広瀬の隣にいるのは、心地よかった。
 日頃、当たり前のように肩に入っている力が、広瀬の横ではすっと抜くことができる…かつて、正孝の部屋がそうであったように。冗談めかして頭をくしゃくしゃと撫でられることもあったが、緊張したことは一度もない。この人は、大丈夫―――なんだか、そんな気がして。
 恋人のいる広瀬だから、自分に変な興味は示さないだろうと安心している部分も、確かにある。でも…煙草を燻らせて、のんびりと秋の風景を楽しんでいる広瀬の脱力したムードそのものも、蕾夏が好むムードなのかもしれない。

 もしも、こんな時間を、ずっとずっと重ねていくことができたら。
 ゆっくりと、穏やかに、広瀬の隣を歩き続けていけば―――好きになれるかも、しれない。広瀬のことを。

 彼氏が欲しい訳じゃない。むしろ、そういうのは嫌だ。片思いで構わない、ただ―――自分にも誰かを好きになることができる、という確信が欲しかった。
 あの日、ナイフで人を傷つけた時に、自分は人間として何か重要なものを失ってしまったのではないか…そんな不安が、ずっとずっと、心の奥底にあるから。
 大丈夫―――私はまだ壊れてはいないのだ、そう信じるために、広瀬に恋をしてみたいと思った。

 そんな時。
 事件が起きた。

***

 間もなく12月になろうかという寒い日、蕾夏が映研の部室のドアを開けようとしたら、中から女の人の喚く声がした。
 「一体どういうこと!?」
 ドアノブを握りかけた手を、思わず引っ込める。
 誰だろう―――映研の仲間の声ではなかった。でも、なんとなく聞き覚えのある声だ。蕾夏は、廊下で体を強張らせたまま、この声の主を必死に思い出そうとした。
 「あたしに何も相談しないなんて…もしかして、別れたのもそのせい!? あたしに説得されるのが面倒だから、別れたの!?」
 「…それもある。でも、それだけじゃない」
 彼女に応える広瀬の声で、蕾夏も思い出せた。声の主は、広瀬の彼女だ。
 「お前、カメラ回してる俺なんて、この世から消えればいいと思ってるだろ」
 「そ…そんなことっ」
 「お前より映画撮ることを優先する俺が、許せなかったんだろ。…何度誘っても来ない筈だよな、ロケにも上映会にも。映研の連中の話も“聞きたくない”の一点張りで…何も知らない癖に、嫉妬だけはするんだよな。藤井が俺に何したってんだよ。え?」
 自分の名前が出てきて、心臓がビクリと跳ねる。嫌な予感に、冷たい汗が背中を伝った。
 「俺は、自分の道は、自分で決める」
 「―――…っ」
 「その行く手を阻もうとする奴を、どうして愛せる? あんなセリフを吐いたお前を、俺が愛せる訳ないだろ。…だから別れたんだ」
 「…あ…あたしっ、諦めないからっ」
 尚も食い下がる彼女の声は、完全に泣きじゃくっていた。
 「あなたがどこに行こうが、絶対諦めないからっ。あたし、絶対」
 「帰れ」
 酷く冷たい声で、広瀬は短く告げた。
 一瞬の静寂の後、カツカツ、という女物のヒールの音が部屋の中からドアへと近づいてくる。あ、まずい、と思った瞬間、ドアが勢い良く開かれた。
 慌てて飛び退き、ドアを体にぶつけるのは避けた。が、彼女の目は、しっかり蕾夏の姿を見つけてしまっていた。
 真っ赤に泣き腫らした目で蕾夏を睨んだ彼女は、ヒステリックな声を上げた。
 「…か…っ、彼に、余計な夢なんて持たせないでよ…っ!!」
 「え?」
 言われた言葉の意味を理解できずに目を見開く蕾夏をよそに、彼女は逃げるように走り去ってしまった。
 何故、彼女が、まるで憎い仇でも見るような目で見たのか―――全然分からない蕾夏は、唖然とした顔のまま、彼女が走り去った方をぼんやり見送った。


 「藤井…」
 蕾夏がドアの外に佇んでいることに気づいた広瀬は、驚いたような声をあげた。その声に我に返った蕾夏は、慌てて、部室の中にいる広瀬の方に向き直った。
 広瀬は、思いのほか平然とした顔をしていた。彼女の顔とは対照的だ。蕾夏が眉をひそめると、苦笑を浮かべて「入ってこいよ」と手振りで言ってきた。
 「…広瀬さん…彼女さんと、別れちゃったんですか?」
 部室に足を踏み入れつつ、おずおずと訊ねる。確認するまでもないが、一応。
 「―――まぁな。聞いての通り」
 「私のせいなんですか」
 なんだかそんな気がして、訊ねる。広瀬は、それには答えず、蕾夏の方へ視線を向けた。何故かその目は、彼女との別れ話の後とは思えないほど、落ち着いていて、かつ明るかった。
 「俺、3年でこの大学、辞めることにした」
 「…えっ」
 「映像技術の専門学校に行く。…この1週間で、両親も説き伏せた」
 意外な話に、蕾夏は目を数度瞬いた。びっくりだ。でも―――朗報でもある。
 「映画、撮るんですか?」
 「…いや、まだ分からない。今はむしろ、ドキュメンタリーに惹かれてる。最初はテレビかもな。でも、いずれ、銀幕に映し出す映像を、絶対撮る」
 「…そうなんだ…」
 自分の夢に向かって歩き出す決意をした広瀬に、蕾夏はフワリと嬉しそうな笑みを見せた。
 その方がいい、と、素直に思う。来年から広瀬が映研にいなくなるのは確かに残念だが、意に染まないことを続けるよりは、どうしても諦められない夢に賭ける方が、ずっと広瀬に似合っている。
 「良かった。おめでとうございます」
 「まだ試験受けてもいないのに、気が早いな」
 「広瀬さんなら受かりますよ。本当に良かった―――広瀬さんが広瀬さんらしく居られるのが、一番いいもの」
 蕾夏の言葉に、広瀬は、少し動揺したように瞳を揺らした。
 それに気づいた蕾夏は、どうしたのだろう、と思い、少し目を丸くする。何か気を悪くさせただろうか―――心配になったその時、広瀬がこちらに歩み寄ってきた。
 「…あの…なんか、まずいこと言っちゃいましたか?」
 目の前に立った広瀬を見上げて、眉を寄せる。でも、広瀬の顔は、怒ってはいなかった。ただし、ものすごく真剣だった―――思わず、息を呑むほどに。
 「―――…藤井」
 「は…い?」
 「俺、藤井が好きだ」

 一瞬。
 体の機能の全てが、止まった気がした。

 “好き”―――その言葉を聞いた瞬間、蕾夏が感じたのは、氷水でも浴びせられたような冷たさ。
 広瀬を見上げたまま、指先すらも動かせない。呼吸すら止まった気がする。ただ、目だけが、戸惑ったように揺れた。

 「前から、お前の傍にいると、ホッとできた。でも、今は、それだけじゃない。隣にいると…苦しくなる」
 「―――…」
 広瀬の手が、肩に触れる。思わず体を引こうとしたが、動けなかった。
 「…ここを離れても、手離したくない―――どうしても」
 肩から滑った手が、背中に回る。
 一言も発せずにいるうちに、蕾夏は広瀬に抱きしめられていた。
 「…っ、ひ、広瀬さ…」
 緩やかな腕の力に、なんとか声を上げられたが、それも束の間だった。抱きしめてくる腕は更に強くなり、後頭部に回った手が、蕾夏の頬を広瀬の胸に押し付けた。
 その刹那。
 蕾夏の中で、何かのスイッチが、パチンと音を立てて入った。


 体の奥が、冷たい。
 まるで氷で貫かれたみたいに、冷たい。
 その冷たさから逃れようとするみたいに、蕾夏は体を捩り、広瀬を押し戻そうとした。が、この行動は広瀬の予想外だったのか、広瀬は驚いたように、もう一度蕾夏を掻き抱いた。その腕の力は、さっきよりも強くなっていた。
 ギリリ、と、肩や背中の骨が、音を立てる気がする。
 痛い、痛い―――現実の痛みが、普段、記憶の奥底に封じ込めている過去の痛みを呼び起こす。怖い―――揺り動かされる記憶に、蕾夏は必死に抵抗した。

 もの凄い力で、自分を壁に押し付ける、あの凶暴な腕。
 何一つ抵抗できないままに貪られた唇―――当然の権利だとでも言うように弄ってきたあの手。嫌だ―――嫌だ嫌だ嫌だ、息ができない、気持ち悪い、誰か助けて、誰か誰か誰か誰か―――…!

 「…や…っ」
 現実と、フラッシュバックの境目が、曖昧になる。
 蕾夏は、ほとんどパニック状態で広瀬の胸を拳で叩いた。離して、離して、と。
 「ふ…藤井?」
 何が起こったか分からない広瀬が、突然の蕾夏の変貌に戸惑い、余計に蕾夏を抱きとめようとする。暴れる手を掴み、落ち着け、と言いながら更に腕に力をこめる。でもそれは、蕾夏にとっては逆効果だった。

 逃げなくちゃ。
 早く、逃げなくちゃ。
 このままじゃ、壊される。バラバラになって、ズタズタに引き裂かれて、モウ戻レナクナル―――…!

 背中に、焼けつくような痛みを感じると同時に、目の前に広がる、赤、赤、赤―――鮮やかな血の色が、脳裏を埋め尽くす。それと同時に、一番忘れたいものが、蕾夏の手のひらに甦ってきた。

 次の瞬間。

 蕾夏は、絹を裂くような絶叫に近い悲鳴をあげると、力いっぱい広瀬を突き飛ばしていた。


***


 「―――本当に大丈夫か?」
 足を止めた広瀬が、心配そうな声で、そう訊ねる。
 うなだれていた蕾夏は、ゆっくり顔を上げ、広瀬を見上げた。そこにあったのは、悲しそうな広瀬の顔…胸が、悲鳴を上げそうなほどに、痛くなった。
 「…大丈夫です。一人で帰れます。駅まで送ってくれて、ありがとう…」
 返事はできたが、上手く笑うことはできなかった。蕾夏は再び、俯いてしまった。
 辛そうに顔を歪めた広瀬が、軽く蕾夏の髪を撫でた。この位なら大丈夫―――それは、床にうずくまってガタガタ震えている蕾夏を宥めた時に実証済みだ。
 「―――ごめんなさい、広瀬さん」
 「……」
 「私も、広瀬さんといるとホッとできた。一緒にいると楽しかった。でも…広瀬さんに抱きしめられるのは、ダメなんです」
 「…恋愛対象としては見れないってことか? 違うだろ」
 「…違っていても、結果は、あの通りだもの」
 恋愛対象として見られるかもしれないと、唯一、そんな予感を覚えた人だった。
 この人にだったら、抱きしめられても大丈夫かもしれない、そう思えた人だった。
 なのに―――その結果が、あれだ。勿論、もっと長い時間をかければ、そんな日も来るかもしれない。でも…広瀬を、ずっと待たせるなんてできない。臆病な自分は、きっと、ほんの僅かな“好き”を恋愛感情に育てるまで、とてつもない時間を費やすことになる。その長い時間、自分はただ、広瀬を苦しめるだけだ。
 「―――話してみる気には、なれないのか」
 多分、大変な事情が裏にあると気づいているのだろう。広瀬がそう訊ねてきた。
 が…蕾夏は、力なく首を横に振った。あんな話、誰にも話せない。事情を知っている由井や翔子や正孝にすら、自分の口からは一切何も語ってこなかったのだから。
 ―――私には、恋愛なんて、できない。
 きゅっ、と唇を噛んだ蕾夏は、小さく息を吐き出し、再度顔を上げた。微かな笑みを浮かべて。
 「大学にいる間、いろんなこと教えて下さい。フィルムのこと、映写機のこと、それに…カメラのことも」
 「藤井…」
 「広瀬さんは、最高の先輩です。きっと――― 一生、忘れません」


 もう、諦めよう。
 こんな風に、自分を好きになってくれる人を傷つけていくのは、嫌だ。

 恋なんて―――そんな人並みの感情、こんな私が持とうとすること自体、間違っている。


 全ての“好きになれるかもしれない人”に別れを告げるつもりで、蕾夏は広瀬に笑いかけた。

 凄く辛くて、凄く悲しかったのに、この日も蕾夏は、最後まで泣くことができなかった。


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