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  音もなく近づいてくるもの - HAL side -

 「…お兄ちゃん…どうして?」
 今にも泣き出しそうな目に耐え切れず、視線を逸らす。
 「どうして? お父さんが忙しくても、お母さんが帰ってこなくても、お兄ちゃんはずっと一緒にいてくれたのに―――どうして私を追い出すの?」
 「―――追い出す訳じゃないよ。親父とお袋が話し合って決めたんだ。そう言っただろ?」
 …違う。
 決めたのは、俺。お前と一緒にいることよりも、あの女と離れることを優先した結果が、これだ。
 あの女を確実に追い出すためには、一緒に連れて行く“子供”が必要だから。
 もし“子供”が2人とも手元に残らないとなれば、あの女は、あいつに捨てられるかもしれない。そうなったらあの女は、この家に戻って来るかもしれない。親父に泣いて縋って、また俺の“母親”のフリをするかもしれない。
 ―――そんな事は、許さない。絶対に。
 だから、取引に応じた。海晴はくれてやる、その代わり二度と顔を見せるな、と。

 …それに。
 俺はもう、耐えられない。お前に嘘をつき続けることに。
 お前が無邪気に「お母さん」と呼んでいるあの女の正体が、何なのか。それを隠し続けることに。

 お前は何も知らない。
 だからきっと、大切にしてもらえる―――あの男を繋ぎとめるための、大切な持ち駒として。

 「お兄ちゃん、私のこと、嫌いになったりしないよね…?」
 「…ならないよ」
 「本当に?」
 逸らした視線を追うように、縋りついてくる、視線。ぱっちりとした目から、涙が零れ落ちる。


 「私が、大人になって、お母さんと見分けがつかない顔になっても―――お兄ちゃん、私を嫌いになったりしない…?」

 

 ガクン、と体が落ち込む感じがして、瑞樹はハッとして、目を覚ました。

 目を開けると、霞んだ視界の中に、ディスプレイの光が見えた。ベッドに半ば右頬を埋めていた瑞樹は、数度瞬きをすると、やっと体を起こした。
 くしゃっ、と前髪を掻き上げる。一瞬、自分が何をしていたか記憶が飛んだが、ディスプレイ上に並ぶ文字を見て、すぐに理解する―――帰ってきて、チャットに入って、そのままうたた寝してしまったらしい、と。

 『(猫柳) おーい、HAL。寝落ちしてるんちゃうかー』

 10行近くに渡って、いろんな人間が自分に呼びかけている。苦笑した瑞樹は、傍らに置いていたカクテルバーを一度あおり、キーを叩いた。

 『(HAL) 悪い。寝てた』
 『(江戸川) ははは、やっぱり』
 『(猫柳) HALがチャット中にうたた寝やなんて、珍しい。明日、あられでも降るんちゃうか』
 『(江戸川) いやいや、映画フリークのHALのことだから、降って来るのは映写フィルムかもしれないよ』
 『(HAL) …お前ら、言いたい放題だな』

 毎夜繰り返されるやりとりに、さっき見た夢は、遠くへと追いやられる。
 もっと、遠くへ―――見えなくなる位遠くへと追いやりたくて、瑞樹は、まだ少し眠気が纏わりついている頭を無理矢理起こして、チャットに没頭する事にした。


 11月も半ば。誕生日を過ぎて間もない、日曜日の夜。
 離れ離れになってしまった妹・海晴の夢を久しぶりに見たのは、きっと今日、懐かしい人物に会ったからだろう―――瑞樹はそう、思った。

***

 懐かしい人物―――それは、木村のことだ。


 「…なぁ、成田」
 「ん?」
 「お前、相変わらず、あんまり眠れてへんのとちゃうか?」
 瑞樹の向かい側に座った木村は、そう言って眉をひそめた。

 東京で行われる会議に出席するために上京した木村は、神戸へ帰る前に久々に会おうや、と言って電話してきた。
 日本全国飛び回っている木村だが、東京に来ることは珍しい。当然、瑞樹はその誘いに応じた。かくして2人は、4年ぶりの再会を果たした。
 喫茶店で互いの近況などを報告しあう中、話は、瑞樹が参加しているチャットルームの話に及んだ。
 どうにも眠れなかった夜、ネットを彷徨ううちに迷い込んでしまった、システムエンジニアやプログラマーが集う、とあるチャットルーム。瑞樹はそこに、ほぼ毎日ペースで顔を出している。
 常連メンバーがころころと入れ替わる中、大阪のおちゃらけエンジニア・"猫柳"や、品行方正な妻子持ち・"江戸川"などが、瑞樹が初参加した1年前からずっと、そのチャットルームに居残っている。そうした連中と、仕事の話や趣味の話などを語り合う。時間としてはさほど長い時間ではないが、まあ、習慣のようなものだ。

 そんな話をしたら、何故か木村は、心配そうな顔をしてしまった。どうやら、チャットに迷い込んだきっかけの部分が原因らしい。
 「昔、よく学校の屋上で寝てたやろ? 夜あんまり寝てへんとか言うて。もしかして今もやないか?」
 「あー…、まぁ、たまにな」
 「仕事になるんか、そんなで」
 「大丈夫だって。2、3時間の睡眠で十分足りてる。学生の頃みたいに、体育の授業で走らされる訳でもねーし」
 「心配やなぁ…。無茶とかしてそうやなぁ」
 「全く…相変わらず心配性だな」
 昔から木村は、何故か瑞樹のことを「心配」だと言っていた。何がどう不安なのか、その辺はあまり喋ってはくれないのだが、とにかく心配していた。大学進学で上京する際も、一人暮らしすることを酷く心配していた。自炊できることも、元々父と2人きりだから一人暮らしになってもさほど違いはないことも、木村は十分承知している筈なのに―――何故彼がそう自分のことを心配するのか、瑞樹にはよく分からなかった。
 「…なんや、お前見てると、無性に心配になってくんねん」
 木村は、残り少なくなったコーヒーを口に運びながら、溜め息混じりに呟いた。
 「才能にも容姿にも恵まれてる癖して、それを活かそうとせぇへんお前見てると…なんや、この若さで人生捨てとるように見えて、不安になんねん。食うもんも食わんと、眠りもせんと、健康になんて一つも気ぃ配らんで、いつかどっかでバッタリ倒れてそのまま息絶えるような気ぃしてな」
 「―――どういう想像してんだよ、お前は」
 “野垂れ死に”という言葉そのままな木村の想像に、瑞樹は思わず呆れた声を漏らした。が、木村は、ちょっと怒ったような目をして瑞樹を睨んできた。
 「そう思わせるもんがある、お前が悪いんや。思われたくなかったら、もっと自分の人生に執着見せろ」
 「執着?」
 「欲しくて仕方あらへんもんをゲットしてみせろ、っちゅうことや」
 「…欲しくて、仕方ないもの…なぁ…」
 木村は、想像もしないのだろう―――瑞樹には欲しい物が1つもない、だなんて。どう答えればいいやら分からず、瑞樹は無言のまま苦笑した。

 瑞樹自身は、人生を捨てている気もなければ、勿論死ぬ気もない。逆に、意地でも死んでやるか、と思って生きている。
 SEという仕事を選んだことも後悔していない。楽しい仕事ではないが、仕事なんて何をやっても楽しい筈はない。趣味のカメラを仕事にするよりは、仕事と割り切って淡々とこなすことができるから、かえって精神的には楽だ。
 自分から抱きしめたいと思える相手が欲しい、と思っていた時期もあったが、それも最近ではどうでもよくなった。海晴と離れ離れになってから相当経ったおかげで、あの頃の喪失感は既に記憶の彼方だ。一人でも寂しくないし、困ることも何もない。第一、抱きしめたいどころか、心が1ミリでも動く相手すら、これまで1人も現われなかったのだ。自分は、そういった感情が完全に破壊されて修復不可能になっているのに違いない―――最近では、そう思って割り切っている。
 唯一の、執着心。
 それは、きっと、カメラに対する思いだ。
 趣味としてであっても、多分、一生手離す事はできないもの―――あの、シャッターを切る一瞬の高揚感。木村の言うように、もしも自分がカメラマンという道を選んでいたのなら、日々はもっと違う色をしていただろう。生きている実感を覚えながら、充実した人生を送ることができるかもしれない。
 けれど―――その道は、選べなかった。どうしても。

 「ああ、そうや」
 コーヒーを飲み干したところで、木村は思い出したように声を上げた。
 「ここから東京タワーって近いやろ?」
 「ん? ああ、近いな」
 「それやったら成田、写真撮ってくれへんか?」
 唐突な依頼に、瑞樹はちょっと目を丸くした。
 「写真? 東京タワーの?」
 「いや、東京タワーをバックにした、僕の写真や」
 「……」
 「次、いつ東京来られるか分からへんから。成田に撮ってもらった写真でもあれば、いい記念になるやろ? 頼むわ」
 そう言って、屈託のない笑顔を見せる木村。
 東京タワーをバックに、木村の記念撮影をする。その場面を想像したら、冷や汗が背中を伝っていった。


 滅多に会うことのない友人の頼みを無下に断ることはできなかった。
 瑞樹は、木村の頼み通り、背景に東京タワーを配置し、木村の記念撮影をした。
 十数年ぶりに撮った、ポートレート―――やっぱり、ファインダー越しに木村と視線を合わせることはできなかった。ライカM4を握る瑞樹の手は、シャッターを切るまでの間、ずっと細かに震えていた。


***


 前日のポートレートの影響か、それともその後見た海晴の夢のせいか、明けた月曜日の瑞樹の調子は、今ひとつだった。
 「成田。ここ、ミスしてるわよ」
 「え?」
 隣でデバッグをしていた佳那子に指摘され、眉をひそめる。彼女が指し示す部分をディスプレイで確認すると、確かにコメントアウトをミスしていた。
 「―――悪い」
 「どういたしまして。…ああ、そろそろお昼ね」
 時計を確認した佳那子は、じゃあ休憩にしましょうか、と言い残して席を立ってしまった。見ると、奈々美が、システム部から少し離れた場所で佳那子を待っていた。どうやら佳那子は、彼女がシステム部の様子を窺っていることに気づいて、昼の時間だと分かったらしい。
 指摘された部分を手早く直した瑞樹は、プログラムソースをセーブして、大きく伸びをした。昼食だと言われても、あまり食欲がない。カロリーメイトで済ますかな、と考えた時、昨日の木村のセリフを思い出した。
 ―――1食おろそかにしたくらいで、すぐさま野垂れ死ぬとも思えねーけどな。
 でも、木村に免じて一応食事らしい食事はとっておこう、と思いなおした。
 「成田ぁ…」
 下のファミレスに行こうかと腰を上げた時、弱々しい声が頭上から降ってきた。
 顔を上げると、そこに和臣が立っていた。なんだか、幽霊のような顔をしている。指で肩でも押したら、そのまま後ろに倒れそうだ。
 「昼、下のファミレス行くんだったら、オレも一緒させて」
 「いいけど…なんて顔してんだ。食えるのかよ、昼飯」
 「食うよ。食うけど、一人では食いたくない…」
 ―――ったく…アップダウンの激しい奴。
 極度のローテンションに陥っている和臣の様子に、瑞樹は、今日の昼食が陰鬱なムードのものになることを覚悟した。

 

 「そりゃあさぁ、中本さんは性格優しいし、結構男っぽいし、顔もきりっとしてて男前だと思うよ? けど、オレが極端に負けてる訳でもないと思うんだ。成田はそう思わない?」
 「思う思う」
 ランチのハンバーグステーキをナイフで切りながら、瑞樹は適当に相槌を打った。和臣のハンバーグステーキは、まだほとんど手がつけられていない。話すのに夢中だからだ。
 「だよねぇ!? なのになんで、よりによって中本さんなんかに興味持つんだろう、奈々美さんは。今まで中本さんに興味ありそうな素振りなんて全然なかったのに―――あの人って新婚だろ? なんでなのかなぁ…」
 和臣の想い人・木下奈々美は、恋人や妻のいる男ばかり好きになる、ちょっと捻じ曲がった恋愛傾向を持っている。多分、中本を好きになったのも、中本が結婚したからなのだろう。少なくとも瑞樹はそう思っている。
 和臣にしておけばいいのに―――それは、社内の誰もが思うことだ。
 入社以来奈々美に猛アタックを繰り返す和臣は、“中本に極端に負けてる訳ではない”どころか、比較対象にするのが間違いと言った方がいい位、見た目も中身もハイレベルだ。奈々美を羨んでいる女性は少なくない。…なのに、奈々美は、和臣のアタックに全く靡かない。
 ―――こいつがハイスペックすぎて、きっと本気にできねーんだよな…。
 “私なんか”が口癖の彼女を思い出し、深く納得する。が、和臣には、その辺りの奈々美の心情を察することはできないらしい。
 「あーあ…恋って辛いなぁ…」
 麗しい顔で溜め息をつく和臣は、もの凄く小さく切ったハンバーグステーキを、食べもせずにフォークで弄んでいる。詩人か映画の登場人物しか吐かないような和臣のセリフに、瑞樹はむず痒さを感じてしまう。
 「辛いならやめろよ。強制されてる訳でもねーんだし」
 「それができれば苦労しないよっ。苦しいのにやめられないから、余計苦しいんじゃないか。成田にだって経験あるだろ、そういうの」
 「ない」
 瑞樹がきっぱりとそう言うと、和臣は目を丸くした。
 「ないって…でも、少しはあるだろ?」
 「ないと思うぜ? ある意味、お前なんかは尊敬に値する。そんだけ全力投球できるもんがあるってのは羨ましい」
 「え…、成田って、全力投球できるもん、ないの? 恋じゃなくてもさ、どーしても欲しいもんとか、何がなんでも達成したいもんとか」
 「俺、欲しいもんないしな」
 「へーえ…」
 瑞樹のセリフに唖然とした和臣は、信じられないものでも見るように瑞樹の顔をまじまじと凝視した。そして、もう一度「へーえ」と感心したような声を上げ、やっとハンバーグステーキを口に入れた。
 「欲しいもんがない、かぁ―――いいなぁ」
 和臣がポツリと呟いた言葉に、今度は逆に瑞樹の手が止まった。鉄板プレートに落としていた視線を上げると、向かい側の和臣は、本当に羨ましそうな顔をしていた。
 「…いいなぁ、って?」
 「だってオレ、欲しいもんだらけだし。欲しいもんあると、すんごい葛藤するし手に入れようと焦るし…ほんと、精神的に良くないよなー。でも、成田の場合、欲しいもんがないってことは、それだけ煩悩が少ないってことだろ? いいなぁ…そんなストイックな人間になってみたいよなぁ…」
 「―――…」
 瑞樹の気配が、険しくなる。が、和臣はそれに気づいていない。
 「それに成田、前に“彼女の必要性なんて感じない。俺は1人の方が楽だし、寂しくない”って言ってただろ? オレなんて、もう寂しいの苦手で苦手で…ひとりで部屋にいても寂しいばっかりだから、残業を嬉々として買って出てるようなもんだもん。ああ、成田みたいに孤独に強い人間になりたいよなぁ…」
 「―――俺みたいになりたいって?」
 「うん、ほんと、時々そう思うよ」

 5秒ほどの、沈黙。
 直後、瑞樹は、我慢できずに吹き出した。
 「な、成田???」
 「ハ…、俺みたいになりたい、ねぇ…」
 キョトンとしている和臣の顔が見える。けれど、抑えられない。瑞樹は、自嘲気味な笑みを浮かべて、くっくっと声を押し殺して笑った。可笑しい―――可笑しくて仕方ない。


 信じられない。
 こんな人間になりたいなんて。
 欲しいものがない。一人でも寂しさも感じない。何かに夢中になることもなく、何を見ても心の動きは曖昧で、そのくせ時折感じる強い憤りだけは人一倍の激しさで襲ってくる。
 何かを切望する胸が締め付けられるような思いも、瑞樹とは無縁だ。でも、その苦しみを知らないということは、切望したものを手に入れた時の喜びを知ることもできないということ―――手に入れられないと悟った時の絶望感だけは、嫌というほど、子供の時にこの体に刻みつけられているのに。

 最初は確かに、自己防衛の手段だった。
 母に愛されたいとは思わない、せめて普通の母親のように笑顔だけでも見せて欲しい、そう願って必死に言う事を聞いていたあの頃―――母に叩かれるたび、母に置き去りにされるたび、瑞樹は大きく傷ついた。痛い…耐えられないほどの痛みに、幼い心はずっと悲鳴を上げていた。
 だから、何をされても痛みを感じないよう、母を欲しがることをやめた。
 少しずつ、少しずつ、封じ込め息の根を止めていく、感情―――あの日、母に殺されかけた時、それが完全に息絶えた。以来、その感情は、二度と目を覚まさなくなった。目覚めさせたくても、その方法が分からない。
 痛みを「感じられない」。それは、精神的なバランスをとるにはいいかもしれないが、傷そのものを治す手段にはならない。傷口からは血が流れ、体力を奪っていく。それに気づいた時、初めて、「痛みを感じたい」と思った。けれど、どうすれば感じられるのか、それすら分からない。

 カメラは、たった一つ、息絶えたものを少しは揺さぶってくれたもの。
 そのたった一つのものにまで、母にトラウマを植え付けられて。
 ――― 一体、何のために生きている?
 何も欲しくないのなら、自分の命にすら執着できないのなら、何故、何のために生きているのだろう?
 悪夢にうなされ、あの日のフラッシュバックに息をつまらせ…そんな思いをしてまで、何故生き続けている? その目的すら、少しも見えてはこない。

 こんな人間に、なりたいなんて―――可笑しい。可笑しすぎて、哂いが、止まらない。


 「…あ…あの、オレ、何か変なこと言った???」
 ハンバーグステーキをフォークに刺したまま、和臣が唖然とした顔で訊ねる。ようやく笑いが収まりかけた瑞樹は、そんな和臣に、本音を語ることはなかった。
 ただ、一言、本心の欠片だけを口にした。
 「お前は、幸せな奴だよ」
 「―――…?」
 「幸せな奴だ。…お前みたいに生きられたら、楽しいんだろうな、世の中は」
 そう言って、瑞樹は、どことなく寂しげな笑みを浮かべた。

***

 ―――そんなにも、難しいことなのだろうか。
 何かを狂うほどに求め、そのために喜んだり苦しんだり…そんな、当たり前のことが、瑞樹の望み。生きているという実感が欲しいだけ。普通の人間が当たり前にしていることを、当たり前にやりたいだけだ。

 『思われたくなかったら、もっと自分の人生に執着見せろ』

 「…どうやってやれって言うんだよ」
 木村の言葉を思い出し、思わず、呟く。
 頭に浴びせていた水を止め、瑞樹は、傍らに置いておいたタオルを掴んだ。水を含んだ髪をタオルで乱暴に拭き、顔を上げる。水の冷たさに、昼間、和臣相手に思いがけず直面する羽目になったものが、少しはクールダウンされた気がした。
 疲れた。日頃、考えないようにしている事を突きつけられると、酷く疲れる。でも…こうやって心が乱れるということは、少しは人間らしい部分が自分にも残っているということかもしれない。そのことに、少し安堵した。

 今日も、眠気は欠片も感じない。
 いつもの連中相手にバカ話でもしているうちに、少しは頭が疲れて眠くなるだろう。そう思い、瑞樹は冷蔵庫からカクテルバーを1本取り出した。
 パソコンの前に胡坐をかき、いつものチャットルームに入る。カクテルバーを一旦机の上に置き、瑞樹は慣れた手つきで「こんばんは」とキーを叩いた。
 いつもの連中が挨拶を返してくるのを眺めつつ、カクテルバーの蓋をねじ切った瑞樹だったが、その時、見慣れないハンドルネームをその中に見つけ、その手を止めた。

 珍しい。初顔だなんて。
 「はじめまして」という挨拶を最後に見たのはいつだろう? もう半年以上前のような気がする。瑞樹はボトルを傍らに置き、素早くキーボードを叩いた。

 

 『(HAL) こちらこそ、はじめまして>rai』

 

 そう。それは、平凡な日常の中に起こった、ほんの些細な出来事。


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