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  音もなく近づいてくるもの - rai side -

 11月も半ばの、とある日曜日。
 蕾夏は久々に、母校である大学の講義室に来ていた。
 結構仲良くしていた2つ年下の映研の後輩が、今年、ついに監督として学祭作品のメガホンを取ったというので、その作品を見るために大学祭に来たのだ。

 「あっ、藤井先輩っ! お疲れさまでーす」
 上映が終わり、明るくなった講義室。人もまばらになった中、蕾夏に気づいた後輩が声をかけてきた。蕾夏は笑みを見せると、彼らが集まっている映写機の方に歩み寄った。
 「お疲れさまー。ご招待ありがとう。ちゃんと観たよ」
 「ね、ね、オレたちの作品、どうでした?」
 わくわく、という顔で蕾夏の批評を待つ後輩たちに、蕾夏はちょっと苦笑し、わざと首を傾げるようにしてみせた。
 「うーん…脚本は良かったかな。咲子ちゃん、小説ずーっと書いてたもんね。さすがだなって思った」
 「えへへ、ありがとうございまーす」
 脚本担当の咲子が、ちょっと頬を赤く染める。その隣で、監督を務めた後輩が不服そうに口を尖らせた。
 「脚本“は”、って何ですかっ。カメラや監督や音楽には、お褒めの言葉はナシっすか?」
 「あはは、むくれないでよ。うん、音楽も良かったよ。いい効果出してた。配役も演技も悪くなかったよね。でも、うーん…カメラワークは、相変わらず甘いかなぁ」
 「ひでーっ」
 「藤井先輩、相変わらず批評キビシーっすねー」
 笑ったり落胆したりとそれぞれに声を上げる後輩たちの中、ふいに、全く別の方向から声が割って入った。
 「…へーえ。藤井も言うようになったな」
 「……!」
 低くて、温かみのあるその声。
 蕾夏は、パッと振り返り、大きく目を見開いた。そして、講義室の入口にその声の主の姿を見つけた時、心臓がドクン、と音をたて、止まった。
 「―――久しぶり」
 「…ひ…ろせ、さん…」

 大学1年の春以来の再会。
 広瀬は、あの頃と全く変わらない笑顔を浮かべると、蕾夏に軽く手を振ってみせた。

***

 「お前、全然変わんねーなぁ…。成長止まってるんじゃないか?」
 「…どうせ“永遠の高校生”ですよ」
 くすくす笑う広瀬を軽く睨み上げ、蕾夏はちょっと唇を尖らせた。
 かつては、よく2人で16ミリを回しに来た、大学の中庭。色づいた紅葉も、その盛りが過ぎたらしく、葉の大半が地面に落ちていた。そんな光景を見ていると、本当に5年前にタイムスリップしたような錯覚を覚える。
 「広瀬さんも、あんまり変わってないですね。あ、でも、日焼けしたかなぁ、少し」
 「ハハ…、外でカメラ回すことが多いからな」
 「…ってことは、やっぱりテレビ局に入ったんですか?」
 「ああ。希望通り、ドキュメンタリー製作部門に入れた。…やっぱりあの時、思い切っておいてよかったよ」
 そう言う広瀬の目は、かつては時々見せていた迷いのようなものが完全に消え去った、すっきりと揺るぎない目だった。
 広瀬が広瀬らしくあれるのが、一番いい―――それが蕾夏の望みだった。今、広瀬は広瀬らしい充実した人生を送っている。それを広瀬の目に感じた蕾夏は、嬉しそうに口元を綻ばせた。
 広瀬もそれに応えるように微笑み、紅葉の傍にあるベンチに腰掛けた。蕾夏も、つられるようにその隣に腰を下ろす。
 「藤井も就職したんだろ? 今、何やってる?」
 「コンピューター販売会社入って、システムエンジニアやってるんです」
 蕾夏の返事に、広瀬はびっくりしたように目を丸くした。
 「え…こ、コンピューター? 藤井が?」
 「? 変ですか?」
 「いや…何て言うか…お前っぽくないよなぁ。お前って、デジタルというよりアナログなイメージが強いから。コンピューターみたいな無機質な世界に足突っ込んでるとは思わなかった」
 「あはは…、コンピューターの世界も、それほど無機質じゃないですよ」
 蕾夏はちょっと笑い、散り残った紅葉の葉の間から、11月の青空を見上げた。
 「うちの会社って、SE1人1人の責任って、もの凄く大きいんです。お客さんの所に出向いて要望を聞いて、それに合わせて追加システムを新規設計したり、既存のシステムをカスタマイズしたり―――プログラムを組むのも、デバッグも、出来上がったシステムを納品してお客さんに説明するのも、全部SEの仕事なんですよ」
 「そりゃあ…大変な仕事だな」
 「うん。でも、やり甲斐は凄くありますよ。対お客様って部分で、とてもアナログな仕事でもあるし、フラグのオン・オフが基本なコンピューターって道具を使ってるあたりはデジタルな仕事でもあるし」
 「ふーん…そう言われると、なんとなくお前の仕事っぽいよなぁ。じゃあ、趣味の方もパソコンやってたりするのか?」
 「勿論。最近は、チャットにちょっと嵌ってるかなぁ。3ヶ月くらい前に、同業者が集まるチャットルーム見つけちゃって、結構楽しかったんで、最近よく顔出してるんですよ」
 「ああ、チャットな。俺も一時期、ちょっとやってた」
 広瀬はそう相槌を打ったが、その表情はあまり冴えなかった。
 「けど、俺には向いてないみたいだなぁ、ああいうの。顔も名前も分からない相手と親しげに話すって、なんかなぁ…」
 「ん…、確かにあれは、向き不向きがあるのかもしれないなぁ…」

 広瀬には向いていないのかもしれない。けれど、蕾夏にとって、チャットと言うコミュニケーションは、とても都合のいいものだった。
 顔も名前も分からない。それどころか性別すら判断つきかねる世界。そこにあるのは、純粋に、言葉だけのやりとりだけだ。
 言葉が、蕾夏自身となる。
 あの空間で、蕾夏は“女”ではなくなる。藤井蕾夏ですらない、ただの文字の羅列になる。
 誰も、蕾夏のバックグラウンドや外見、女という性別で、蕾夏を判断したりはしない。蕾夏が語る言葉こそが蕾夏自身であり、それだけが見知らぬ人々と自分を繋ぐものになり得る。

 現実の世界も、そうであればいいのに―――時々、そう思う。
 何の先入観も偏見もなく、ただその人の言葉だけを頼りに繋がることができたなら―――この世はもっと、蕾夏にとって住みやすい世界になるに違いない。

 「そう言えば広瀬さん、毎年学祭、来てたんですか? 全然気づかなかったけど…」
 ふと思い出し、蕾夏は不思議そうな顔をして広瀬の方を見た。
 すると広瀬は、ちょっとバツが悪そうな顔をして、こめかみを掻いた。
 「いや―――大学辞めて以来、初めて来たんだ。今年は、特別。まぁ…ちょっとした感傷かな」
 「え…? どうして、今年だけ?」
 「ん…、実は、長期ロケで、1年ほど日本を離れることが決まったんだ」
 「1年も?」
 「中国国境地帯の山岳民族を追う企画でね。丸1年、中国に行きっぱなしだ。…まぁ、日本を留守にしたところで、寂しがるような相手もいないし。若手でこういう企画に参加できるのはラッキーだし―――でも、1年も離れるなんて、初めてだからな。出発する前に、自分の原点を確かめに来たんだ」
 そう語る広瀬の顔は、活き活きとしていた。彼が今回の企画に意欲満々でいるのは、その表情から明らかだ。
 「楽しそうですね、ドキュメンタリー・フィルムの現場」
 蕾夏がフワリと微笑むと、広瀬も照れたような笑いを見せ、「まぁな」と答えた。
 「お前も楽しそうだな、仕事の方は」
 「あはは…、まぁ、楽しいとまではいかないけど、充実してますよ」
 「そりゃ、良かった」
 そう言った広瀬は、ちょっと言葉を切り、僅かに表情を変化させた。その微妙な変化を感じ取って、蕾夏も少し緊張をする。
 「それで―――その後、どうなんだ?」
 「……」
 「彼氏とか、できたか」
 心配と、期待と、不安と、諦めと―――色んなものを織り交ぜたような、広瀬の目。
 蕾夏の目が、少し、揺れる。広瀬の目を見て嘘をつくのは、難しい。蕾夏は視線を少し落とすと、小さくコクン、と頷いた。
 「そいつには、話せたんだ? お前が抱えてるもの」
 もう一度、頷く。
 嘘をついているという罪悪感が、胸の奥をチクチクと刺す。けれど―――駄目だ。
 広瀬の目の中に、もう何も残っていないのなら、真実を告げることもできるだろう。でも、まだ僅かに蕾夏に期待している部分が残っている以上、今もひとりきりでいるなんて、絶対に言えない。心を許せる相手を見つけ、幸せに過ごしているのだと思ってもらった方がいい。
 もう、嫌だ。
 大切な人を、傷つけるような真似だけは、二度としたくない。
 「そうか…それなら、良かった」
 広瀬は、蕾夏の嘘を信じてくれたらしい。少し寂しげな笑みを見せながらも、そう言ってくれた。
 「…まあ、もし藤井がフリーでも、それだけの責任負ってる仕事を捨てさせて、中国に連れてく訳にも行かないしな」
 「そんなことしたら、担当してるユーザーが大挙して抗議に来ますよ」
 冗談めかした広瀬の言葉に、蕾夏も茶化すような言葉で応えた。

 広瀬はそれ以上、その話には触れなかった。
 それで、いい。広瀬も、正孝も、そうやって自分の道を歩いて欲しい。自分とは、関係なしに。
 たとえどれ程寒さを感じようとも、抱きしめてくれる人は、いなくていい―――振り払い、突き放し、拒絶する瞬間のあの言いようのない罪悪感と自己嫌悪を思えば、一人でいた方がいい。

 ひとりでも、寂しくない。
 そう自分に言い聞かせることに、蕾夏も既に慣れてしまっていた。

***

 明けて、月曜日。久々に仕事に余裕のあった蕾夏は、新しい仕事の社内打ち合わせに臨んでいた。

 「仕様で分からないとことか、あるかな」
 「いえ、大丈夫です」
 分厚い仕様書を閉じた蕾夏は、疲れたように肩を回している先輩SEの野崎に向かって、ニッコリ笑ってみせた。
 「基本システムに追加帳票5つですよね。あの位なら、今のシステムを無理に新機種に乗せるよりは、新システムに帳票を新規で組み入れた方がいいと思います」
 蕾夏が意見を述べると、野崎も大きく頷いた。
 「僕もそう思う。だから営業には、できる限り新システムへの移行って線で客に話すようにしてもらいたいんだよな。コンバージョンでなんとかなると思い込んでる営業多いけど、2000年対応の問題もあるから、旧システムを引きずらない方が得策だよ」
 「けど…このお客さん、篠沢次長の担当ですよね」
 それを思い出して、蕾夏の表情が一気に曇った。
 篠沢は、蕾夏と相性の悪いベテラン営業マンだ。
 システム上、どうやったって無理なことを、機械を売らんがために「はいはい、できますよ」と客に言ってしまうタイプ。勿論、彼が「できる」と言ったところで、できないものは、できない。最終的には客を怒らせることになるのだが、売ってしまったら後はSEの領分だ、と思っている彼は、その辺のフォローを一切しない。蕾夏からすれば最低最悪な営業マンだが、成績が結構いいので、次長なんて役職になってしまっている―――世の不条理の塊みたいな人物である。
 「最初の1回は僕も同行するし、篠沢次長が変な約束しないように、2人でちゃんと見張ればいいさ」
 「ああ…気が重いなぁ…」
 思わず大きなため息が漏れる。
 と、その時、事務所のドアが開いて、経理の女の子の「お帰りなさーい」という声が響いた。蕾夏と野崎が振り向くと、ちょうど篠沢次長が出先から帰ってきたところだった。
 野崎に目配せされ、蕾夏は、野崎に続いて席を立った。営業があまり上手くいかなかったのだろう、どこか憮然とした表情をしている篠沢の元に、2人連れ立って赴く。
 「篠沢次長」
 野崎が声を掛けると、自分の席についた篠沢は、少々不機嫌そうな顔を上げて、2人を見上げた。
 「なんだ?」
 「倉本商店さんの件、今回の新マシン導入を機に、藤井さんに担当替えします。次回の打ち合わせから同行してもらうんで、よろしく」
 「よろしくお願いします」
 ぺこり、と蕾夏が頭を下げると、篠沢は、実に不愉快そうに眉を顰めた。担当が野崎から蕾夏に変わることが不服らしい。
 けれど、篠沢は、何も言わなかった。「ああ、そう」と言っただけで、後は一言も発せずに、鞄から取り出した資料に目を落としてしまった。

***

 ―――ダッシュで帰れば、ご近所のスーパーの閉店時間に間に合うかなぁ…。
 更衣室で、制服から私服に着替えながら、蕾夏は壁にかかった時計をチラリと確認した。
 帰宅直前にユーザーから入ったトラブル電話のせいで、予定より遅くなってしまった。外出予定のある日は1日私服だが、今日は1日社内なので、普段滅多に着ない制服を着ていた。これもタイム・ロスの要因になってしまっている。蕾夏は急いで、白いブラウスのボタンを留めていった。
 「…にしても、なんで藤井なのかねぇ…」
 一番上のボタンを留めた時、壁の向こうから、不機嫌そうな篠沢の声が聞こえてきて、蕾夏の手がピタリと止まった。
 更衣室の壁の向こう側は、コピー室だ。壁と言ってもパーテーションと大差ないものだから、コピー室での会話は更衣室に筒抜けだし、更衣室での女子社員のお喋りはコピー室に筒抜けになる。それは、男性社員も分かっているから、コピー室で女子社員の噂話などはしない、というのが、この会社での不文律となっている。
 篠沢は、誰かと話をしながらコピーをとりに来たらしい。きっと、蕾夏はとっくに帰ったと思い込んでいるのだろう。気づかれる心配は無いと分かっていながらも、蕾夏は思わず、息を詰めてしまった。
 「野崎がユーザー抱えすぎなのは分かってるけどな、丸山に振るって手もあるだろう? 丸山のやつ、結構暇そうじゃないか。男を暇にしといて、女にばっかり仕事を振るってあたり、あいつも変わってるよなぁ」
 ―――丸山君に振れないから、仕方なく私に振ってくるのに決まってるじゃない。
 息を詰めたまま、呆れかえる。蕾夏と同期の丸山は、とてもじゃないが優秀なSEとは程遠い。大切な客になればなるほど、丸山には振りたくない、という心理が生まれるのは、蕾夏から見ても当然だった。実際、彼に担当替えしたせいで客と大トラブルになってしまったケースが過去にある。丸山は確かに暇そうだが、怖くて仕事を振れない、それが現実だ。
 第一、男が暇だとまずいのに、女が暇なのは構わないのだろか?
 なんて、男尊女卑―――蕾夏の表情が険しくなった。
 「けど、藤井さん、仕事はできるだろう? 客の評判も結構いいらしいじゃない」
 篠沢の愚痴の相手をしている人物が、そう言う。が、誰の声なのかは、ちょっと判断がつかなかった。
 「まあな。客の大半が男だから、藤井みたいなのがウケるのは分かるさ。インスト受けるにしても、むさくるしい男からよりは、一見清楚で優しげな女からの方が気分がいいしな」
 「ははは、確かになぁ」
 「中身は口うるさい生意気な女なんだけどな」
 ―――口うるさくさせてんのはあんたでしょっ!
 ムカムカとしたものが、胃の辺りにこみ上げてくる。それを押さえ込むように、口元に手を置いた。
 「あいつ、黙ってりゃ可愛いのになぁ。仕事となると生意気で扱い難いよ。なまじアメリカで男女平等なんて風潮に慣らされたから、つけあがってるのかもな」
 「……」
 「所詮は女なんだからさ、少し男の怖さを身にしみてわからせる必要があるんじゃないか?」

 ―――所詮は、女。

 口元に置いた手が、震える。
 分かっている。男が女をどう見ているかなんて。
 所詮は、女―――いくら男女平等を訴えたところで、いざ腕力勝負に持ち込まれれば、女は男には敵わない。だから、女を多少低く扱ったって、どうということはない。不平を漏らそうが反論をしてこようが、最後には暴力でねじ伏せれば済むことだから。
 そのことを、実体験として蕾夏に教え込んだのは、ほかでもない、あの佐野博武だ。
 『お前がどんだけ同じだって言っても、違うだろ、全然。女の力じゃ敵う訳ねぇんだよ、男には』
 そう言って、蕾夏を力でねじ伏せた、佐野。蕾夏の意志を無視し、殴りつけ、傷めつけて、バラバラに壊そうとした。そして蕾夏は、その暴力から、同じ暴力でしか逃れられなかった。ナイフという凶器で相手を斬りつけることでしか、勝つことができなかった。

 今も消えていない。
 佐野に与えられた呪縛は。
 弱くて非力な自分を―――“女”である自分を受け入れられたら、どれほど楽だろう。守ってくれる存在に全てを委ねて、誰も傷つけることなく穏やかに生きられたら、どんなに楽だろう。
 でも、それすらも蕾夏にはできない。差し出された腕に恐怖を感じ、身を縮めてしまう。それでも触れてこようとする相手は、残酷な刃で斬りつける。
 篠沢には、自覚などないだろう。彼が時々蕾夏に向ける、まるで敵でも見るような冷たい視線。そして同じ位の頻度で見せる好色の目―――そんなものが、日々、蕾夏をどれだけ不愉快な気分にさせているのか。
 彼は、何ひとつ気づいていない。彼は蕾夏を、“女”としか見ていない。藤井蕾夏なんて、彼の頭の中のどこにもいない。彼の中には、見た目が好みで、でも中身は女としては最低レベルな、どうにも忌々しい“女”がいるだけだ。

 ―――悔しい。
 悔しくて、悔しくて、たまらない。

 蕾夏は、震える手をもう一方の手で押さえ、その場にうずくまった。壁の向こうの会話は、もう耳には入っていなかった。
 こんな時、泣けたらきっと、楽になれるのだろう。
 けれど、泣けない―――涙すらも、佐野に奪われてしまったのだろうか。蕾夏は唇を噛むと、憤りが通り過ぎていくのをひたすら待った。

***

 ―――そんなにも、難しいことなのだろうか。
 大それた幸せが欲しい訳じゃない。ひとりぼっちでも辛くならない強さが欲しい。それでなければ、全てを委ねられる相手が欲しい。こんな自分が“女”であることを受け入れられる相手―――そんな相手が欲しいだけなのに。
 ひとりでも、平気。そう言い聞かせることに、慣れてはきている。
 でも…時々、そんな自分に、疲れてしまう。

 目の前のディスプレイ上では、チャットルームの常連連中が、"mimi"という常連のマシントラブルの話題で盛り上がっている。
 蕾夏も時々口を挟んではいたが、今ひとつ乗り切れなかった。弱ってるなぁ、と溜め息をついた蕾夏は、気分を落ち着かせるためにホットミルクを作ることにした。
 チャットルームに入るのは、寝付けない夜と相場が決まっていた。けれど、帰宅直前に聞いてしまった篠沢の言葉は、蕾夏の心を深く抉っていた。珍しく早い時間からアクセスしたのは、一人きりのこの部屋での時間が、なんだか耐え難いものに思えたからだった。
 ―――情けないなぁ…。もうすぐ24にもなるんだから、もっとしっかりしないと。
 自らを窘めるようにコツン、とこめかみの辺りを拳で小突く。と同時に、レンジがチーンと音を立てた。

 レンジから取り出したばかりのマグカップを片手に、蕾夏はノートパソコンの前に座りなおした。
 ホットミルクは、まだ飲むには熱すぎた。ちょっと顔を顰め、ふーっと息を吹きかける。マグカップから立ち上る湯気の向こうに視線を向けた蕾夏は、見慣れないハンドルネームをそこに見つけ、目を留めた。
 他のメンバーは、初めて見るハンドルのその人物と、当たり前のように挨拶を交わしている。この人物と初顔合わせなのは、どうやら自分だけらしい。
 マグカップを傍らに置いて、蕾夏はキーボードを叩いた。

 

 『(rai) はじめまして>HAL』

 

 そう。それは、平凡な日常の中に起こった、ほんの些細な出来事。


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