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 急に騒がしくなった辺りの音に、蕾夏はハッとして、顔を上げた。

 改札の方へと目を向けると、パラパラと人が自動改札を通って吐き出されてきていた。どうやら電車が到着したらしい。時計を確認すると、瑞樹との電話から約10分―――蕾夏は、髪を掻き上げ、壁にもたれていた姿勢を直した。
 やがて、雑踏の中に、待ち望んでいた顔を見つけた。瑞樹の方も、すぐに蕾夏を見つけたらしく、自動改札を抜けながら軽く微笑んだ。
 その笑顔を見たら、何故か、泣きたくなった。
 色々なことを、思い出しすぎたせいかもしれない。蕾夏は、視界を曇らせようとする涙を押さえ込むように、フワリと柔らかな笑みを浮かべてみせた。
 「悪い。待たせた」
 「ううん。ごめん、電話したせいで、かえって面倒な事させちゃって」
 「…バカ。会うつもりだったって言っただろ」
 苦笑した瑞樹の手が、蕾夏の頭をくしゃっ、と撫でた。そのくすぐったい感触に、蕾夏は思わず小さく笑ってしまった。
 「瑞樹、お夕飯食べた?」
 「いや、まだ。お前は?」
 「まだ。パスタでよければ、材料揃ってるけど…どうする? 駅前のお蕎麦屋さん行くって手もあるし」
 「うーん…今の気分は、パスタよりは蕎麦とうどんだな」
 「じゃあ、お蕎麦屋さん決定ね」
 さっそく、駅前の蕎麦屋へと向かいながら、瑞樹が差し出してきた腕の中にすっぽりと収まる。肩を抱かれるなんて滅多にしないことだけれど、雨の日は特別だ。
 頭上で、パッ、と傘が開く。2人で1つの傘に入れる雨の日は、嫌いじゃない―――雨のせいで冷えた肩が温かくなるのを感じて、蕾夏はクスリと笑った。

***

 「今日ねぇ、久々に、由井君に会っちゃった」
 蕎麦屋で食事をしながら他愛も無い話を続けていた2人だったが、食事もほとんど終わった時分になって、ようやく蕾夏がそう切り出した。
 ぬるくなったお茶を飲んでいた瑞樹は、その言葉にちょっと手を止め、蕾夏の目を真正面から見据えた。
 「由井に?」
 「うん。偶然なんだけどね。何かの打ち合わせで、うちの会社に来たの。専属ライターになったことは教えてあったけど、まさか出社してるなんて思ってなかったみたいで、もの凄くビックリしてた」
 そう言う蕾夏の表情は、懐かしい親友との再会の話をしている割には、妙に暗かった。瑞樹は、少し眉をひそめると、手にした湯飲みをテーブルに置いた。
 「何か、言われたのか?」
 「―――ん…、まあ、ね」
 蕾夏の視線が、テーブルの上に落ちた。あの由井が、蕾夏を落ち込ませるようなことを言うとは、ちょっと信じられないが、どうやらそれが真実のようだ。
 「仕事のことで?」
 「…ううん」
 「…じゃあ、俺のこととか」
 「あは…、違う違う。そんなんじゃないよ。ただ―――由井君の秘密を、ちょっと教えてもらっただけ」
 「お前が落ち込むような秘密なんて、あるのかよ」
 余計に怪訝そうな顔をする瑞樹に、一瞬、今日聞いた話を全部話してしまおうか、と蕾夏は思った。が…、これは由井のプライベートな問題だ。自分が勝手に話していいものかどうか、すぐには判断がつかない。思いなおした蕾夏は、苦笑とともに小さく首を振った。
 「…ごめん。詳しいことは、由井君の問題だからちょっと話せない。ただ―――ただ、ね。由井君の話聞いて、再認識したの。ああ、私って、周りにいる人たちを随分傷つけて生きてたんだなぁ…って」
 「―――バカ。由井は、お前にそんな顔させたくて、その話した訳じゃねーだろ」
 「うん。そうなんだけどね。…ダメだなぁ、私って。ちょっとしたことで、すぐ動揺して、涙腺弱くなっちゃう。長年泣けずにいた分、なんだかもの凄い泣き虫になった気がする」
 そう言う間にも、目に涙が僅かに浮かんできてしまう。情けないなぁ、と思いながら、蕾夏は人差し指でその涙を掬った。
 そんな蕾夏を、瑞樹は少し心配げに見ていたが、蕾夏の言葉から今日自分に起きたことを思い出し、同様に落ち込んだような表情になった。
 「…奇遇だな。俺も今日、懐かしい人に会った」
 ぽつん、と呟かれた言葉に、蕾夏はキョトンと目を丸くした。
 「懐かしい人? 誰?」
 「―――大学時代、バイトしてたスタジオをよく利用してた、カメラマンの助手。6年ぶりかな」
 「え…っ、助手、って、今も?」
 「いや、今は一人前のカメラマンとして独立してる。北海道に行ったけど、最近はこっちの仕事もちょくちょくやってたらしい」
 「ふーん…同業者にならなかったら、知らないまま終わってたかもしれないね」
 確かに、そうだ。彼も―――安積も、そう言っていた。
 6年ぶりの再会は、懐かしかった。…でも、会わない方が、良かったのかもしれない。
 「…瑞樹?」
 「ん?」
 「その人に、何か、言われたの?」
 「…まあな」
 「どんなこと言われたの?」
 「―――お前と同じで、俺もちょっと話せねーかも」
 というより、話したくない。蕾夏には、特に。心配そうな蕾夏の目に、瑞樹は自嘲気味な笑みで応え、視線を逸らした。
 「ただ―――俺も、いろんな人間傷つけて生きてきたな、って再確認しただけだよ」
 「…そう」

 会話が、途切れる。
 お互い、相手が一体どんな話を聞いて心を痛めたのか、気にならないといったら嘘になる。でも―――その詳しい内容は、別にどうでもいいような気もした。
 瑞樹も、蕾夏も、今日ちょっとした再会をきっかけに、過去の痛みを思い返してしまった―――そして、その痛みを癒したくて、相手に電話をした。その事実さえ分かれば、後は何も必要ない。
 「…お前、明日って、何時出社だっけ」
 視線を逸らしたまま、訊ねる。蕾夏も、視線を落としたまま、答えた。
 「―――取材ある日は、その時間出社だから。ほら、明日は…」
 「…そっか」
 明日は、2人で1つの仕事をする、初めての日だ。帰国から、まだ1ヶ月。まさか、こんなに早くそのチャンスが巡ってくるとは思わなかった。
 瑞樹がくしゃっと伝票を握ったことで、2人の視線がやっと戻った。
 「―――そろそろ、出る?」
 「ああ。…できれば、コーヒー飲みたい気分だけど、あるか?」
 「う…コーヒー豆切らしてる…」
 「…んな顔すんなよ。だったら、ウーロン茶でいい」

 手探りな言葉の中に、相手の本音を見つける。
 それが自分の気持ちと食い違っていないことを悟り、お互い、ほっと安堵した。

***

 ドアが閉まると同時に、部屋の灯りをつけようとする手を掴み、引き寄せる。
 「待っ…」
 制止しようとする蕾夏の言葉を遮り、口づけた。

 早く、2人きりになりたかった。
 何が欲しい訳でも、欲望に衝き動かされていた訳でもない。ただ、2人しかいない空間に、早く行きたかった。それは多分、瑞樹も蕾夏も同じ―――それを確かめるみたいに、何度も何度も唇を重ねた。
 自由のきかない腕がもどかしくて、肩からかけていた荷物を床に取り落とす。ほんの僅かの距離であっても、離れているのが耐えられない。自由になった腕を相手の背中に回し、感じているもどかしさを伝えようとするかのように深く長く口づけあう。掻き抱いて、その距離を限りなくゼロにしようとする。でも、それでもまだ、足りない。
 唇を耳元から首筋に流すと、そのくすぐったさから逃れようとするように、蕾夏が僅かに身じろいだ。
 「いや…」
 「―――なんで」
 「…いや…ここじゃ」
 薄暗がりでも、蕾夏の顔が真っ赤に染まっているのが分かる。笑いを噛み殺した瑞樹は、蕾夏の手を引いて部屋の奥へ進み、ベッドに倒れこんだ。
 間を隔てるものがあるのが、もどかしくて仕方ない。邪魔なものを剥ぎ取りながら、あらわになる白い肌を唇で辿る。微かに震え、切ないような小さな声をあげる蕾夏に、直前まで感じていた焼けつくような渇望が癒されていく気がした。


 なんて弱いんだろう、と、自分でも呆れる。
 “弱い自分になれる相手”―――かつて、琴子はそう言った。弱い自分になどなりたくない、と思っていたが、今、蕾夏の前でだけは情けないほどに弱くなってしまう自分を、瑞樹は結構気に入っている。
 弱さを曝け出せる場所があるからこそ、もっと強くなれるのだと思う。
 生きていると実感できる、唯一の相手―――この場所を守るためならば、いくらでも強くなれる気がする。
 誰を傷つけても、何を犠牲にしても、蕾夏がいればそれでいい。他は、何もいらない―――何も。


 「…ねぇ、瑞樹…」
 「ん…、何?」
 「このまま―――このまま、1人の人間になってしまえたらいい、って、思ったこと、ない…?」
 「…お前は、そんな風に思ったこと、あるんだ…?」
 「…イギリスから帰ってきた日の夜、思った」
 「―――…」
 「このまま、私が瑞樹の一部分になってしまえたらいいのに―――そうすれば、ずっと一緒にいられるのに…、って…」
 「…凄いセリフだな、それ」
 「ふふ…。―――でもね。そう思った後、2人だから、いいのかもしれない、って、思ったの」
 「…どうして?」
 「1人の人間になっちゃったら、1つの人生しか歩めないでしょう…? でも、2人いれば、もっと世界は広くなる―――瑞樹が見る物、瑞樹が感じる物…それと、私が見たり感じたりする物を足せば、世界は2倍に広がるの」
 「…“奇跡”だな」
 「うん―――2人だから、そんな奇跡も起こせるの。ねぇ…人を好きになるって、それだけでも凄い奇跡じゃない…?」
 「蕾夏―――…」

 もう黙って、と言うように、蕾夏の唇を塞ぐ。瑞樹を呼ぶ声も、微かな喘ぎ声も、唇で閉じ込めた。

 熱した金属が溶け合うみたいに、二度と離れなくなってしまえばいい。
 でも、人間は金属じゃない。どれほどの熱を持っていても、相手の一部になることはできない。限りなく距離をゼロに近づけることはできても、やっぱり1人1人に離れてしまう。その瞬間―――孤独になる。

 離れなければならないから、こんなにもこの時間が愛しいのかもしれない。

 相手が自分の、自分が相手の一部となり得る瞬間。
 この時だけは、人は、孤独ではなくなるから―――…。


***


 「いいから寝とけって」
 「そんな訳にはいかないってばっ!」
 「大丈夫。一旦帰ってもまだ余裕あるから」
 「でも―――ああ、もう、なんで目が覚めなかったんだろう。こんな大失敗、久々かも…しかも、よりによって今日なんて」
 慌てふためく蕾夏に、瑞樹は苦笑しながら傍にあったシャツを投げて寄こした。
 「とりあえず、目のやり場に困るから」
 「……」
 カーッと顔が一気に熱くなる。拗ねたように唇を尖らせた蕾夏は、くるりと瑞樹に背を向けて、投げられたシャツを無言のまま着込んだ。そうしている間も、視線はつい、時計に向いてしまう。

 今日の取材の打ち合わせは、午前10時半から。
 現在、時計は午前7時半を指している。瑞樹は始発で家に戻る予定にしていたのに、その時刻は大幅に過ぎていた。
 全ては、けたたましく鳴る目覚まし時計に、瑞樹も蕾夏も気づかなかったせいだ。2人揃って熟睡状態―――眠っている間は天国だったが、目覚めた時、地獄が待っていた。

 「―――ねえ、瑞樹」
 シャツをきっちりと着込んだ蕾夏は、帰り支度を済ませてウーロン茶をあおっている瑞樹を見上げ、口を開いた。
 「何?」
 「昨日会った人の話…いつか、してくれる?」
 やっぱり気になってしまい、ついそう訊ねてしまった。
 昨晩は、そんなことはどうでもいい、なんて思ったくせに―――現金なものだ。離れていた間の心細さが埋められてしまえば、途端に気になってきてしまう。情けないな、と思いながらも、訊ねずにはいられなかった。
 「気になる?」
 ウーロン茶を飲み干した瑞樹は、空になったグラスをトン、とガラステーブルに置き、ふっと笑ってみせた。
 「…だって瑞樹、珍しい位に落ち込んだ顔してたもの」
 「それは、お前も一緒なんじゃない。地の底まで落ち込んだような顔してたぞ、昨日」
 「うう…だって」
 「―――まぁ…いずれ、話すさ」
 瑞樹はそう言って、寝乱れた蕾夏の髪を指先で梳いた。
 「お前が、由井に何言われたか話す気になった頃に、俺も話すかもな」
 「…ん…じゃあ、今は、訊かない」
 「じゃあ俺も、今は、訊かない」
 小さく、笑い合う。2人には、そうやって相手が話す気になるまで待った経験が、何度もある。だから、信じられる―――どんな辛い話であっても、それが大切な話であれば、いつかきっと話してくれる、と。
 「…っと。じゃあ、俺、帰るから」
 時計に目をやった瑞樹は、そう言って立ち上がり、玄関に向かった。蕾夏も慌ててベッドを下り、見送りに出向いた。
 玄関先で、ドアを開ける前に、瑞樹は蕾夏の額に、軽く唇を落とした。
 「―――じゃあ、3時間後に」
 ニッ、と不敵に笑う瑞樹に応えて、蕾夏も強気な笑みを浮かべてみせた。
 「うん。3時間後に」

 

 3時間後、瑞樹は、どんな顔をして現われるだろう?
 それを想像すると、なんだか不安なような、ワクワクするような、不思議な気分になる。
 この先、何度、瑞樹と仕事ができるだろう? 思いのほか、その頻度は高いのかもしれないし、もう二度とそんなことはないのかもしれない。でも…どんな未来が待ち受けているにしても、その先には、2人の夢―――2人で作る、たった1冊の写真集が、きっとある筈だ。
 1人では見つけられない夢だけど、2人だから、見つけられる―――1人じゃないって、やっぱり素敵なことだ。

 

 もっと、あなたに語って欲しい言葉がある。

 もっと、あなたに話したいことがある。


 2人なら、世界は、もっと広がる―――1人きりになった部屋で、蕾夏は、幸せそうに口元を綻ばせた。

 

――― "anthology ― アンソロジー ―" / END ―――  
2004.10.4  


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