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― Come On-A My House ―

 

 この冬一番の冷え込みとなった、師走の夜。
 寒空の下、(そう)が路頭に迷うこととなったのには、実に理不尽な事情があった。

 舌打ちと共に「Damnit!(畜生!)」と小さく吐き捨て、髪を掻き毟る。
 普段は日本語の方が楽に操れる奏だが、機嫌が悪くなると、自然と口に出てくるのは何故か英語の方だ。日本に来てからというもの、ほとんど英語とは無縁だったが、久々に口にした単語がこんなスラングだったことに、奏は余計、苛立った。
 けれど、舌打ちの一つもしたくなろうというものだ。
 ここは、都内といえども、住宅街。ホテルの類は皆無。そして、恐らくは、次に来るのが都心部に向かう最終電車。この人気のない駅から移動するなら、それに乗るか、タクシーしかない。
 さて、どうする―――奏は、ダウンジャケットのポケットから取り出した携帯電話を手の中で弄びながら、暫し思案した。

 プランA。野宿する。
 却下。明日の予想最低気温は、5度に満たない。まだ凍死するのは嫌だ。
 プランB。新宿辺りのカプセルホテルに避難する。
 …却下。この時間からだと、確かにカプセルホテルしかないだろうが、わざわざ電車に乗ってまで向かう先が、身動きすら取れない棺桶のような空間では、あまりに虚しい。余計気が滅入りそうだ。
 プランC。仕事仲間の家に泊めてもらう。
 一瞬、迷う。が、昼間「今日、彼女が家に来るから、早めに帰らないとまずい」と話していたのを思い出す。…却下。冗談じゃない。

 プランD。
 「―――…」
 頭を掠めた瞬間に、即、却下。

 一瞬浮かんだものを頭から追い出そうとするかのように軽く頭を振り、ため息をつく。
 観念した奏は、あまり頼りたくはない相手の電話番号を呼び出し、発信ボタンを押した。

***

 「はい、どうぞ」
 コトン、という音を立てて目の前に置かれたマグカップ。その中身を見て、思わず眉をひそめた。
 「…佐倉(さくら)さんにココアって、すっげー違和感」
 「凍死から救ってやった女神に対して言うセリフ? それ」
 「は? 女神?」
 「当然でしょ。ほらほら、言うべきセリフをとっとと言いなさい」
 「…イタダキマス」
 女神様に下手に逆らうと、気温5度の真冬の街に再び蹴り出されかねない。素直に礼を述べた奏は、マグカップを両手で包み、口に運んだ。
 問題の女神はというと、奏の向かい側に腰を下ろし、優雅に脚を組んでワイングラスなぞを傾け始めている。オレがココアで、なんであんただけがワインなんだ、という疑問は、奏が口に出す前に、本人が答えを言ってくれた。
 「深夜12時以降のアルコールは禁止。カフェインもNG。どっちも翌日のコンディションに悪影響を及ぼすでしょ。その点ココアなら、ポリフェノールは体にいいし、ギャバが昂ぶった神経を休めてくれる効果もある上、体も温まる。キミが飲んでるのはカロリーを大幅カットした無糖タイプだから、完璧よ」
 「…別に、明日撮影がある訳でもないのに…」
 「甘い」
 ぴしゃりと言われ、奏は肩を竦め、反撃を諦めた。それに実際、じんわりと温かいマグカップに指先が温められ、喉を通るココアに体の内側がぬくもりつつある。暫し奏は、大人しくココアをちびちびと飲み続けた。
 「それで?」
 あっという間にワインを飲み干した佐倉が、グラスを置いて、少し鋭い目で奏を見据える。
 「一体、どういう事情で、黒川さんのマンションを追い出されたわけ?」

 


 奏が、仕事のために本格的に日本に腰を据えることになったのは、今から4ヶ月前―――8月のことだった。
 とりあえず、ということで、恩師・黒川が東京オフィス代わりに置いているマンションに居候させてもらったのだが、訪日直後からとにかく毎日忙しくて忙しくて―――ゆっくり家を探すだけの余裕が奏にも、そして家主である黒川にも全くないまま、あっという間に4ヶ月。結局奏は、恩師が日本を離れてもなお、恩師の家に居候し続けていたのだった。
 いい加減、どこか探さないとな……と、ここ最近、真剣に考え始めてはいたのだが。
 考えるまでもなく、仮住まいを追い出される日がやってきた。


 鳴り止むことのないピンポンピンポンの嵐に、根負けした奏が玄関を開けると、そこには、生意気そうなガキが立っていた。
 いや。ガキなどとは言ってはいけない。我が恩師・黒川の実の娘である。
 「何、あんた、まだここにいたの」
 お嬢様はそう言うと、奏を押しのけて、ずかずかと部屋の中に入ってきた。その後ろからは、そのお嬢様の母―――つまり、黒川の“元”妻が、ニコニコ顔でやってきた。
 ちなみに、時計は既に、午後11時を大幅に回っている。何がなんだか分からない奏は、暫し唖然と母子の背中を見送り……やがて、我に返った。
 「…っ、ちょ、ちょっと待てっ!」
 「何よ」
 早くもコートを脱ぎ、リビングのソファにふんぞり返っていたお嬢様が、面倒そうにこちらを見る。別れたとはいえ、その業界じゃ日本人トップ3に入る黒川の娘である。若干13歳ながら、「私の親は有名人」オーラをビシビシ飛ばしてくる。ぐ、とそのオーラにたじろいだ奏だが、13歳に負けてなるものか、と、なんとか態勢を立て直した。
 「何、って―――こんな時間に、いきなり押しかけられれば、居候の立場でも文句の一つも言いたくなるだろ。一体どういうことだよ」
 「いいじゃない。あたしのパパのマンションなんだから」
 「そりゃ、そうだけど!」
 「第一、パパから聞いてないの?」
 「は? 黒川さんから?」
 「あらやだわ。賢治さんたら、伝えるのを忘れちゃったのかしら」
 ひたすらニコニコしてるだけだった黒川の元妻が困ったように呟く。何故この人が育ててこういう娘になるんだ、と不思議になるほど、おっとりした和風美女である。黒川の話では、資産家の娘らしい。「私は正真正銘のお嬢様」オーラに、奏は再び、ぐ、とたじろいだ。
 「わたしと娘が住んでいたマンション、オーナーさんがこの前亡くなって、その息子さんが相続したんですけどね。この息子さんが、まあ横暴な人で―――家賃20万のマンションなんてつまらない、老朽化もしてきたから、どーんと建て替えて家賃100万の豪華マンションにするんだ、なんて言い出して、店子さんを追い出しにかかっちゃったんです。酷いでしょう?」
 「…は…あ。酷いっすね」
 「でね? あまりのことに、ロンドンにいる賢治さんに電話したら、“じゃあ僕のマンションに住めばいい”と言ってくれて。それで、お言葉に甘えることにしたんです」
 「…それ、いつの話なんですか」
 「おとといです」
 「―――…」

 黒川は、別に、奏に伝えるのを忘れた訳ではないだろう。
 今、ロンドンにいる黒川は、とある化粧品メーカーと提携したイベントのために、多忙な日々を送っている。仕事が一段落したら奏に連絡をするつもりでいる筈だ。そう…明日か、遅くとも明後日には。
 おととい話がついたばかりで。
 たった中1日で。
 しかもこの時間に、押しかけてくるなんて―――普通の頭なら、予想できなくて当然だ。黒川を責めるのは、酷というものだろう。

 「本当は1日も早く来たかったんですけど、荷物を出すのに時間がかかってしまって―――ああ、荷物は明日来ますけど、一宮さんは気にしないで下さいね。お任せパックを使いましたから、わたし達は見てるだけ。ぜーんぶ業者さんがやってくれますから」
 いや、そういう問題じゃないでしょ。
 ニコニコ顔の黒川元妻にそう突っ込みを入れたかったが、無理だった。
 「そんな訳で、あんた、出てってよ」
 黒川娘の冷たい言葉には、さすがに文句を言いかけたが、続けて放たれた言葉には、反論できなかった。
 「そもそもあんた、なんの権利があって、ここに住んでる訳? ずーずーしいわよ」


 寒いからお風呂入る、と、さっさと風呂場へ行ってしまった娘とは、それ以降、話をしていない。話にならないし、話をする気にもなれない。
 「ごめんなさいね。あんな態度取って」
 黒川元妻は一応失礼な態度と分かっているらしく、すまなそうに奏に謝った。
 「あの子って昔から、気になる人の前では反対にツンケンした態度を取る、天邪鬼なところがあって―――出て行け、なんて言ってるけど、追い出す気なんて毛頭ないのよ。照れてるのねぇ…そういう年頃だし」
 「…はい?」
 「そんな訳ですから、今夜は、ホテルでも取っていただけます?」
 さり気なく1万円札を奏の手にねじ込みながら、黒川元妻はにっこりと笑った。
 「一宮(いちみや)さんを信用はしてはいますけど―――大事な娘と万が一にも何かあったら、大変ですから。ね?」

 


 「ふーん。なるほどねぇ」
 事の顛末を聞いた佐倉は、腕組みをしてしみじみ頷いた。が、顔だけしみじみしているが、その肩は笑いを堪えているせいで、小刻みに震えている。
 「じゃあその生意気お嬢様、今頃がっかりしてるわねぇ。憧れの一宮君と一晩一緒に過ごせると思ったら、お風呂からあがってみれば影も形もないときてるんだもの」
 「…やめてくれ」
 相手が中学生では、洒落にもならない。襲ってきた寒気に、奏は思わずぶるっと身震いした。
 「それで? 明日以降、どうするの」
 「どうするも何も―――1秒でも早く、住むとこ探さないと」
 「当然、即日入居可の物件よね。ああ…、しかも明日って水曜じゃないの」
 「何、水曜だと、何か問題でもあるの」
 「不動産屋って、契約が“水”に流れないように、水曜定休にしてる所が多いのよ」
 「はぁ? 何だそれ、どういうごろ合わせだよ。…ま、まあ、1日2日のことなら、どっか宿とるし」
 「そーねぇ。キミの場合、家財道具もまるっきり持ってないわけだから、住む家決まっても、暫くは床に寝るしかないだろうし」
 「……」
 確かに、その通り。
 家具付の他人の家に居候していたので、ベッドなど必要なかったし、服の類はボストンバッグとトランクをワードローブ代わりにしていたに等しい。仮住まいで私物が増えるのは面倒だ、という頭で何ひとつ買わずにきたので、単身ロンドンからやってきた時と、奏の持ち物はほとんど変わっていない。時間がなかったので、その大半を黒川のマンションに置いてきたままだが、引越しとなっても、タクシーに2、3個の大型バッグを積み込むだけで済んでしまうだろう。
 「家具付のマンスリーマンションにでもしたら?」
 「うー…、1、2ヶ月なら、そうするところだけど、年単位だからなぁ。やっぱり普通にアパート借りた方がいいと思う。それに―――…」
 「それに?」
 「…実は、電化製品のお下がりを貰うことになってるんだ」
 「…ああ」
 奏の短い言葉で、佐倉には全ての事情が透けて見えたらしい。軽く眉を上げ、皮肉とも呆れたともとれない表情をした。その表情の理由は、奏にも痛いほど分かっていたが、あえて気づかないフリをして続けた。
 「って言っても、全部じゃなく、冷蔵庫とレンジだけ。催促してこないから甘えてたけど―――要らないもんをオレのために保管してんだから、迷惑だよなぁ、絶対。だから、今更“やっぱいいや”とは言えない」
 「それじゃあ、早急に“即入居可”の物件を探すしかないわねぇ」
 そう言って短くため息をついた佐倉は、あーやれやれ、といった感じで立ち上がった。
 「ま、細かい話は朝になってからにしましょ。そろそろ寝ないと美容によくないから、あたしはお先に失礼させてもらうわ」
 「あ…、ええと、風呂、借りてもいいかな」
 「どうぞ。寝る場所も、寝室以外ならお好きなように」
 「…寝室以外、ね」
 今度は、奏の方が軽く眉を上げる。勿論、その位で佐倉が怯む筈もない。
 「飼い犬扱いされたいのなら、ベッドに入れてあげないこともないわよ?」
 「…ご冗談。遠慮しときます」
 「ん、よしよし」
 ニンマリと笑った佐倉は、奏の明るい色の髪をくしゃくしゃと撫でた。…なんとなく、既に飼い犬に近い扱いを受けている気もして、奏は、少々不愉快そうに眉を顰めた。
 「毛布はそこ。タオル類は脱衣所にあるのを好きに使って。じゃ、おやすみ」
 「おやすみ。…あ、それと」
 寝室へと歩き去ろうとした佐倉が、奏の言葉に引き止められたように立ち止まり、振り返った。
 「…ごめん、急に、押しかけて。凄い、助かった。感謝してる」
 「おやまあ。今日の一宮君は素直だこと」
 「ちぇ…、何だよ、その“今日の”って限定は」
 「じゃあ、素直ついでに、ちょっと訊いていい?」
 綺麗に口の端を上げた佐倉は、視線を奏から、奏の隣の席に置かれたものに移した。
 「当面の着替え以外、大半の私物を置いてきちゃった一宮君が、なんだってそんなもんを持ってきたのか。実はさっきから、すごーく気になってるんだけど」
 「―――…」
 言葉に、詰まった。
 多分、動揺が顔にも出ている筈だ。そう分かっていても、取り繕うことができない。奏は、不意打ちを食らったうろたえた顔で、押し黙ったまま佐倉を見上げた。
 「―――はーん。何か、いわくがあるモノな訳ね」
 「……」
 「ま、いいわ。じゃ…、また明日」
 「……おやすみ」

 パタン、と、寝室のドアが閉まった。
 1人取り残されたリビングで、奏は、隣に置いてある物に、ゆっくりと視線を移した。
 ―――そりゃ、変に思って当然だよな。
 でも、どうしても置いてくる気になれなかった。
 あのタカビーなお嬢様が、八つ当たりで何をぶっ壊そうが、大半が黒川の物だし、また、それがたとえ自分の物であっても、全然構わない。でも、これは―――これだけは、気に入らない相手の手元に残して家を出るのが、どうしても嫌だった。
 ため息をついた奏は、席を立つと、それを抱えてカーテンの掛かった窓へと向かった。そして、カーテンを開けた時に一番光が当たりそうな場所にそれを置いて、ほっと息をついた。

 何の変哲もない、サボテンの鉢植え。
 そういえば、あいつが好きな『レオン』って映画でも、主人公の殺し屋が、サボテンの鉢植え持って転々としてたっけ―――そんなことを考え、くすっと笑う。

 「早いとこ、新しいの、見つけないとなぁ…」
 小さく呟いたそのセリフは、住む場所のことだったのか、それとも別のことだったのか―――奏自身にも、よく分からなかった。


***


 翌日も、普通に仕事のある日だった。
 佐倉に1泊1食の礼を述べ、サボテンとボストンバッグを抱えて、まずはホテルを確保した。チェックインの時間までまだ数時間ある、と言われてしまい、とりあえず荷物とサボテンだけは預かってもらった。
 仕事場へ向かう途中、何軒か不動産屋を見かけたが、佐倉が言う通りどこもシャッターが下りていた。契約が“水”に流れないように、って、なんだそりゃ―――理解に苦しむ日本の不動産業界の常識に、奏は眉をひそめ、首を捻った。
 仕方ない、明日にでもどこかで適当な物件を探すか、と思っていたのだが。

 「……っと」
 仕事場まであと20メートル、という地点で、ジャケットのポケットに入れていた携帯電話が鳴った。
 誰だよ、と思いながら携帯を開くと、そこには“社長”と出ていた。ちなみに、この“社長”とは、佐倉のことである。
 ―――オレ、何かあの部屋に忘れてったかな。
 不思議に思いつつも、通話ボタンを押した。
 「もしもし」
 『一宮君? お疲れ様。もう店に着いた?』
 朝聞いたのと同じ佐倉の声が聞こえてくる。携帯からの電話だが、室内なのか、背後は極めて静かだった。
 「あー、いや、まだ。あと20メートルくらい」
 『そう。今日って何時まで?』
 「? 早番で、3時で上がることになってるけど」
 『じゃ、帰りにでも、ちょっと来て欲しい所があるの』
 「え?」
 『1ヶ所、見つかったのよ。キミにピッタリな物件』
 さすがに、驚いた。奏は、ノロノロとでも動かしていた足を止め、目を見張った。
 「え…っ、な、なんで?」
 『前、あたしの後輩モデルが入ってたアパート。彼女が出て行く時、知り合いの子にその部屋を紹介したのが縁で、オーナーさんと顔繋ぎが出来たんだけど―――オーナーさんの道楽でやってるようなアパートだから、不動産業者とか全然通してなくて、紹介で入る人多いんだって。それで今、そのオーナーさんに電話で確認してみたら、ちょうど先月、1部屋空いたばっかりだって』
 なるほど、だから、不動産屋が休みの日だというのに、空き部屋の確認が取れたのか。それにしても、さすがは佐倉、あちこちにコネクションを持っていて、全く感心させられる。
 『駅から10分ちょい歩くけど―――どうする?』
 「行く!」
 当然ながら、奏は、即座にそう返答した。

***

 “ベルメゾンみそら”
 メルヘンともベタともつかない微妙なネーミングのその物件は、築5年の2階建てのアパートだった。

 佐倉が店にFAXしてくれた地図を見ながらここまで来たが、歩くのが速いのか、最寄り駅から10分かからなかった。築年数も、駅からの距離も理想的だ。
 外観は、極普通。壁の色が、“みそら”の名前を意識してか僅かに青みがかった白ではあるが、たまに見かける「こんな家に誰が住むんだ?」と言いたくなるようなパステルカラーとかビビッドカラーの家ではない。
 南側にあたる道路には、全部で8つの窓が並んでいる。アパートの入り口を入り、北側に回ると共同廊下があり、そこに並ぶドアの色もブルーグレーだ。やっぱり、ネーミングとの因縁を感じずにはいられない。まあ何にせよ、南向きの窓がある、という点は評価できるポイントかもしれない。
 「あのー…、一宮さん、ですか」
 しげしげとアパートの外観を確認していた奏に、背後から、誰かが声をかけた。
 ふいのことで、ちょっと驚く。ドギマギしながら振り向くと、そこにいたのは、品の良さそうな初老の女性だった。
 「あ、はい、そうですが」
 「ああ、良かった。オーナーの村上です」
 初老の女性は、そう言って、何故かほっとしたような笑顔で会釈した。奏も「あ、どうも」と言いながら頭を下げ返した。
 「佐倉さんから“一見、どこの国の人か判断に迷う人”と伺っていたので、一体どんな人かと不安だったんですよ」
 「は…ははは、そうですか」
 ―――どういう説明してんだよ、あの人は。
 オーナーに向ける奏の笑顔が、引き攣る。
 確かに奏の風貌は、日本人の目にはアジア人種なのかどうか微妙だろう。
 かなり金髪に近い、ブラウンの明るい髪。その髪同様明るい色の目。黄色人種よりは白人に近い肌の色。そして何より、国籍不詳な整った洋風の顔―――流暢な日本語でものを訊ねると、怪訝な顔を(特に年配者から)されることもしばしばある。ハーフにも色々あるだろうが、奏の風貌は、どう考えても白人寄りだ。
 「じゃあ、さっそくお部屋を見ていただきましょうか」
 「あ、はい、お願いします」
 おっとりした風貌とは異なり、結構テキパキした女性らしい。奏の先に立って歩き出したオーナーの足取りは、仕事の時の佐倉よろしく、年齢の割には颯爽としていた。
 「うちのアパートは、単身者専用なんです。長く住んでる方もいらっしゃるんですけど―――202号室は、なんでだか、回転が速いんですよ。この前の方も、たった3ヶ月で出ていってしまわれて」
 「…なんか、問題でもあるんですか」
 風水だの家相だのを気にするタイプではないが、そういう話を聞いてしまうと、さすがに少しばかり不安になる。が、オーナーは階段を上がりながらおおらかに笑った。
 「いえいえ、その方の場合はお仕事の都合ですよ。その前の方も電撃結婚して出て行かれたし。偶然、そういうめぐり合わせの人ばかり住む部屋なのかもしれませんねぇ」
 「へーえ…」
 自分も、その部屋に入居したら、“そういうめぐり合わせ”になって突然出て行かざるを得ない状況になるのかもしれないが、まあ……結婚して出て行った例があるなら、“縁起の悪い部屋”という訳でもなさそうだ。第一印象の良いアパートだったので、できればここに決めたい、と考えつつあった奏は、ちょっと安堵した。

 空き部屋だという202号室は、階段を上がった2階の、端から2番目の部屋だった。
 「このお部屋ですよ」
 「お邪魔します…」
 オーナーが開けてくれたドアをくぐり、部屋の中に入ると、まずは室内の明るさに驚かされた。
 間取りは、1Kというか、1DKというか―――玄関を入ってすぐが、小さめの食卓が置けそうな位の大きさのキッチンで、その奥が6畳ほどの部屋。どちらもフローリング床だ。部屋がやたら明るく見えたのは、奏の腰より少し高い位置の窓からの光のせい。日照条件はすこぶるいいらしい。
 「男の方からすると、少し狭く感じるかもしれませんけど」
 「いや、そうでもないです」
 確かに、ロンドンで借りていたフラットより狭いが、1日の大半は外で過ごすのだから、無駄に広い部屋があってもしょうがない。黒川の部屋なぞ、はっきり言って全面積の4分の1ほどしか奏は使わなかった。広さとかそんなものより、日がよく入ることの方が、奏の中のプライオリティは高いのだ。
 いい部屋じゃないか―――そう思った奏は、ふと、その窓の上にあるものに目を留めた。
 誰も住んでいない部屋にあるには、ちょっと不自然なシロモノだ。どういうことだろう、と不思議に思った奏は、オーナーを振り返った。
 「あの、あそこにあるエアコンは…」
 「え? ああ、最初にここに入居された方が置いていったものなんですよ。海外に転勤になっちゃったし、取り外して実家に送るのもお金がかかるから、と言って、置いてってくれたんです」
 「えっ、じゃ、オレが使ってもいいんですか」
 「ええ、どうぞ」
 今年、東京の夏のとんでもない暑さを体験したばかりの奏にとっては、エアコンは必須アイテムだ。新品を購入するにも結構高い。これ1台で冷暖房の問題が解決してしまうのだから、言う事なしだ。
 「両隣の人って、特にトラブルとか、聞いてませんか」
 「ええ。隣の201号室も203号室も、お仕事をされてる方で、ヤクザさんとか、たちの悪いお友達が溜まり場にしてるとか、そういうこともないと思いますよ」
 ならば、もう言う事はなかった。明るい表情になった奏は、オーナーの方に向き直り、笑顔で告げた。

 「じゃあ、ここに決めさせてもらいます」


***


 実際に奏が新居に移り住んだのは、その翌日だった。

 「よ……っ、と」
 大した量もない荷物を運び終えた奏は、ほっと一息つき、玄関の鍵をカチリとかけた。

 がらんとした、空っぽの部屋。
 昨日、パイプベッドと布団一式を注文はしたが、今日は午後から出勤しなくてはいけないので、届けてもらっても受け取ることができない。完全オフとなる今度の日曜に届けるように頼んだので、今日を入れて3晩は、布団なしの生活だ。ちょっと、無謀だっただろうか―――そう思うが、午前中のすっきりとした日の光が床に射し込んでいるのを見ていたら、何とかなるか、という楽観的な気分になれた。
 家具も、家電も、何もなし―――まるっきり、ゼロからのスタート。
 でも、なんだか妙に、清々しかった。
 日本に来て、4ヶ月―――当初の混乱状態がやっと収まり、今の生活に慣れ始めていたところだった。なんとかしないとな、と思いつつも、なんともできない自分に苛立ち始めていたところだった。
 だからこそ、こんな風に何もない空間から再スタートできることが、なんかやたらと清々しくて心地よい。
 とんでもない母子ではあったが、むしろ感謝すべきかもな―――なんて考えて、奏は苦笑を浮かべた。

 サボテンの鉢植えを十分に日光の入る床に置いた奏は、フローリングの床に腰を下ろした。
 壁に寄りかかり、携帯電話を取り出す。一瞬、躊躇ったが―――思い切って、ある人に向けてメールを打った。

 『無事引越し完了。心配かけたけど、これでやっと腰据えて日本で暮らせそうだから、ご安心を』

 送信。
 送ってから、携帯に表示された時刻を確認する。午前10時―――自分以上に不規則な仕事をしている送信相手は、今頃、何をしているだろう?
 そんなことに思いを馳せた少し後、手の中の携帯が、メールの着信を知らせた。

 『冷蔵庫とレンジを早く引き取れ』

 ―――…愛想ねー…。
 でも、いかにもな反応。くっくっ、と奏が小さく笑った時、唐突に玄関のドアがコンコン、とノックされた。
 「はーい」
 どうやら、誰かが訪ねて来たらしい。といっても、まだ引っ越して5分なのだから、ノックの主は大体想像がつく。奏は、一声大きく返事をし、立ち上がった。
 電力会社の方は、昨日のうちに連絡を入れたので、既に電気が通っている。でもガスは、開栓の際に住人が立ち会う必要があるとのことで、まだ通っていない。いきなり風呂なしはキツイので、今日の午前中のうちに来てくれ、とガス会社に頼んでおいた。だから多分、その担当者だろう。
 そう思って、ドアを開けたのだが。
 ドアの向こうに立っていたのは、どう頑張っても業者には見えない人物だった。

 「―――…」

 誰だ? これ。

 毛先を緩くカールさせた、栗色のショートボブ。丁寧にマスカラの施された長いまつげに、やたらメリハリのはっきりした派手な目鼻立ち、そしてローズ色にくっきり彩られた唇。ざっくりした編み目のゆとりのあるセーターに、くるぶし近くまである黒のロングスカート。そして何より―――絶対170を越えているであろう、女性としては間違いなく高い背丈。
 いや、職業柄、奏は背の高い女性を大量に知っているのだが、一般人でこの背丈は、結構珍しい部類だろう。特に目の前の人物は、その妙にくっきりはっきりした派手な顔のせいで、背の高さが余計迫力を伴っている。やっぱりモデルだろうか、と一瞬思ったが、纏っている空気から直感的にそれも違うな、と思いなおした。

 予想外の人物の来訪に奏がキョトンとしていると、女はニッコリと笑い、軽く会釈した。
 「どーも」
 アルト気味のハスキーボイスだ。声と外見が一致したことに、奏は、場違いな安堵を覚えた。この風貌で、か弱そうな高い声が出てきたら、かなり違和感だろう。そういうアンバランスが、奏は昔からどうも苦手なのだ。
 「新しい人が来るってオーナーさんから聞いたので、一応ご挨拶に」
 「え? ええと…」
 「101号室の、海原です」
 101号室。
 つまり、このアパートの住人ということだ。やっと納得がいった奏は、慌てて営業スマイルを作り、会釈をした。
 「あ、どうも。一宮です」
 「オーナーからは聞いてないかもしれないけど、アタシ、自宅で仕事をしてるんで、半分管理人みたいなことをしてるんですよ。だから、新しい人が入ったら、まずはこっちから挨拶に赴くようにしてるってわけで」
 「へぇ…そうだったんですか」
 自宅でやっている仕事とは、一体何だろう? 一見すると、水商売系の女性のように見えなくもないのだが、まさか自宅で水商売もないだろう。
 だが、挨拶していきなり人の職業に踏み込むのもまずいのかな、と考え、奏はその疑問にはとりあえず触れるのをやめておいた。
 「色々、お世話になります」
 「いえいえ。何か困ってることとかあります?」
 「え? あー、いや、別に―――…」
 何もないです。
 と言いかけて―――少々ずうずうしい気がしたが、ダメもとで、ひとつだけ訊いてみることにした。
 「……あの、」
 「はい」
 「もし、そろそろ捨てようかな、と思ってるカーペットとか座布団があったら、お借りしたいんですが」
 「はい????」
 海原のくっきりした目が、丸くなる。そりゃそうだろう。無理もない。バツが悪そうに頭を掻いた奏は、ちょっと体をずらし、海原からでも部屋の中が見えるようにした。
 「いや、この状況なんで…」
 「―――…」
 がらん、とした部屋に、サボテン1鉢、プラス、スーツケースやバッグの類が3つ。
 「あらー…、また随分と閑散とした新居だわねー…」
 「…人の家に居候してたんで。他はなくても平気なんだけど、寝る場所だけは、日曜までベッドが来ないってのはちょっと無謀だったかな、と」
 「うーん、そりゃ無謀だわ」
 半ば呆れたように低く呟いた海原だったが、その無謀さが結構ツボだったのか、直後、声を殺しながらも笑い出した。
 「ハハハ…、よほど早く引っ越したかったのねぇー」
 「…ま、そんなとこです」
 ホテル運が悪くて、日中でも陽の射さない真っ暗な部屋が当たってしまったのだ。金を払ってあそこで数日過ごすことを考えると、多少不便でもこっちの方がマシだと思った結果が、これだ。
 「それなら、お客様用布団が一組揃ってるから、貸してあげましょうか」
 「え? いや、そこまでしてもらわなくても」
 「いいのいいの。どーせ使う客なんていないまんま、2年も3年も放置されてたシロモノだから。今日はいい天気だから、日なたに置いときゃ布団干しの代わりになるでしょ」
 「…すみません。なんか、入居早々にずうずうしく」
 さすがに、恐縮する。が、海原はまるで気にしていない様子で、カラッとした笑いを返した。
 「じゃ、さっそく運んできますから」
 「いや、運ぶのはオレが」
 「ガス会社が来るんでしょう? 布団一式位、楽勝で運べるから大丈夫ですよ」
 「…はあ…」
 「あ、そうそう」
 さっそく1階に下りようとした海原は、ふと何かを思い出したように足を止め、奏を振り返った。

 「アタシのことは、“マリリン”と呼んでいただけると、嬉しいんだけど」
 「―――…は?」

 マリリン?

 マリリンといったら、奏の知識においては、マリリン・モンロー位しかいない。もの凄いネーミングに、目が点になる。
 「海原真理、で、マリリン。…これでも小説家で、女子高生読者の間ではそう呼ばれてるってわけ。ここの他の住人も、大概そう呼んでるから、海原さん、とか言われると調子狂っちゃって」
 「……」
 「じゃ、また後ほど」
 奏の目が点からまともな状態に戻るのを待つことなく、“マリリン”は去って行った。
 “マリリン”のあまりのインパクトの強さに、海原、という苗字が頭から抜け落ちそうだ。強烈なキャラクターの小説家もいたもんだな、と、感心したような愕然としたような気分になりながら、奏は半分放心状態でドアを閉めた。

 ―――でも、まあ。
 強烈な住人はいるものの、随分親切そうな人のようだし。
 他の住人までもがあの人を“マリリン”と呼んでしまうような、そういうフレンドリーなアパートのようだし。

 「…ま、いっか」
 そう呟いた奏は、大きく伸びをすると、再び床に腰を下ろした。

 

 2001年、12月。
 こうして一宮 奏は、“ベルメゾンみそら”の住人となった。


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