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―――…どっかから、歌が聴こえる…。
慣れない姿勢で寝たせいか、体が少し痛い。奏は、掛け布団の端を握り締めた姿勢のまま、夢と現実の間を暫く漂い続けた。
―――何て曲だっけ…この歌。
聴き覚えがある…けど、聴き慣れた歌じゃない…。何で聴いたんだったかな。CD? ラジオ? …あ、テレビのCMだったかも……。
何て歌手だろ。
聴き覚えのあるこの歌は、もっとハスキーボイスだった気がする。こっちは、透明な声―――さえずってるカナリアだ。
…カバー曲かな。
うん。あれも悪くなかったけど、こっちも結構いいじゃん。
しかし、朝っぱらから大きな音でCDかけてるよなぁ…。窓閉めても聴こえる位だから。
よっぽどこの歌手のファンなのかな。…ま、いいけど。
あ、声が裏返った。
あーあ、咳き込んでるし。しっかりしろよな。こっちはいい気分で聴いて―――……。
「……」
ちょっと、待て。
CDが咳き込むか? 普通。
「―――…っ!」
がばっ! と起き上がった奏は、いきなりの朝の光の眩しさに、ガツンと頭を殴られた気がした。
まだカーテンもかかっていないから、窓から射す光はダイレクトだ。思わず目を瞑り、手で光を遮る。閉じた瞼の奥で、チカチカと眩しい光が幾つか点滅して―――やがて、それも収まった。
ノロノロと立ち上がり、向かったのは、窓だ。
カラリ、と窓ガラスを開けると、冬の朝の冷たい空気が肺を直撃した。キーン…とくるその冷たさが頭の芯まで覚まさせた時、むせこんだせいで止まっていた歌が、再び始まった。しかも、さっきまで以上の大音量で。
さっきとはまた違う、アップテンポの、楽しそうな歌。でも、これも、耳に覚えのある歌だ。
「You'd be so nice to come home to... You'd be so nice by the fire...」
「……」
もう、歌の出所は疑うまでもない。
視線を、右隣に向ける。201号室―――隣の部屋の窓は、案の定、景気良く開け放たれていた。
覗いていたのは、ブラシを握った右手。
そして、そのブラシをマイクに見立てて、実に気持良さそうに歌っている、若い女の横顔だった。
「While the breeze on night, Sang a lullaby, You'd be...」
思い入れたっぷりにそこまで歌ったところで、視線に気づいたらしい。女の歌が、止まった。
「―――…」
キョトン、としたような目が、奏の方に向けられる。
目は大きくも小さくもないし、鼻も高からず低からず。唇も厚くも薄くもない標準的大きさ。顔の形も卵型。特徴といったら、下手したら眠そうに見える位の極度の二重瞼位だろうか。実に平凡、でも、パーツの配置は理想的―――あー、メイク練習の土台に使いたいなー、なんて考えてしまうのは、奏の職業病だ。
洗顔前です、といった感じで、前髪をタオル地のターバンで押さえた彼女の髪は、ショートヘアをそのまま伸ばしたらこうなるよな、といった感じだった。一番長い所で肩の下辺り。一番跳ねそうな長さなので、当然ながら、毛先は好き放題跳ねていた。
その、髪の色にだけ。
奏の鼓動が、僅かに乱れた。
お互いに、キョトンとし合うこと、十数秒。
我に返ったのは、彼女の方が先だった。
「―――Good morning, Sir. Did you move in here yesterday?(おはようございます。昨日越して来たんですか?)」
笑顔になった彼女の口から飛び出した英語は、歌もそうだったが、思いのほか流暢な発音だった。へぇ、と感心しかけた奏だが、英語で挨拶された、という事実に我に返り、慌てて少し身を乗り出した。
「オレ、日本語話せるんだけど」
「え?」
再度目を丸くした彼女は、どうやら自分が勘違いしたらしいと分かり、ちょっと焦ったように誤魔化し笑いした。
「そ、そーでしたか。ハハハ、ごめんなさい」
「いや、こっちこそ、紛らわしい顔で」
つられたように、奏も力ない誤魔化し笑いを返した。大体、いきなり日本人に英語で話しかけられたのは初めてだが、日本語を解さない人間、と勘違いされたことは初めてではない。驚きはしたが、別に謝られるほどのことではないと思う。
けれど、まだ気にしているのか、彼女は誤魔化し笑いをあっという間に引っ込めると、少し不安そうな顔で眉を寄せた。
「…あの、うるさかったですか」
「は?」
「歌。私の」
「…ああ、歌か」
そのことを心配していたのか。いや、一瞬忘れそうになったが、そもそも、窓を開けたのはその歌が理由だった。
「いや、別に、うるさくなかったと思いますけど」
「あ、そーですか。良かっ―――ハ…」
「ハ?」
「ハ……くしゅっ!」
くしゃみを、ひとつ。
続いて彼女は、鼻をぐずぐずいわせながら、寒そうに身震いした。
「さ、さむぅ…。やばいな、風邪ひいたかな」
「……」
そしてそのまま―――彼女は、カラカラと音を立てて窓を閉め、部屋の中に引っ込んでしまった。
―――すげー、マイペース。
呆然、とその場に立ち尽くした奏は、その時になって初めて、本物の寒さを感じた。
そして、さきほどの彼女同様、くしゃみをひとつして、すごすごと窓を閉めたのだった。
***
「よっ、奏。おはよ」
ぽん、と背中を叩かれ振り向く。
サングラスを指でずらし、確認すると、そこには、いつも通り眼鏡をかけた氷室の顔があった。
「…はよ」
「なんだ、眠そうな顔してるな」
「まーねー」
答えつつ、奏はサングラスを戻し、ふああぁ、とあくびをした。
ポケットに両手を突っ込んだまま、北風の冷たさに首を竦める。見れば、隣に並んだ氷室も、同じようにコートのポケットに手を突っ込んで背中を丸めていた。その髪が、普段とは違って無造作に伸ばしたままになっていることに気づき、奏は軽く眉をひそめた。
「…あれ。どうしたの、その頭」
「え? ああ、これか。昨日飲み過ぎたのか、朝から頭が痛くて。結ぶ気になれなくて、このまんま出てきた」
「へー…。昨日って誰と飲みに行ったんだっけ」
「テン」
その答えに、奏はギョッとして、目を見張った。
「マジ!?」
「大マジ」
「まさか、テンのペースに付き合って飲んだとか言う?」
「…その、まさか。あいつ、普通じゃないよ。胃の中にアルコール専用スペースがあって、秒速1リッターでアルコール処理してるとしか思えない…。星さんも一緒に行ったんだけど、30分でダウンした」
「…だろうなぁ…」
4ヶ月前、テンと初めて飲みに行った時の自分を思い出し、奏の顔が若干青褪める。空になったグラスを大量に並べてケラケラ笑っているテンの向かい側で、あまり酒の飲めない奏は、カクテル3杯でぐったりしていたのだから。
「奏も来りゃ良かったのに」
恨めしそうな目を向ける氷室に、奏は、とんでもない、という風に首を振った。
「そんな目で見られても―――オレ、引越したばっかだったし」
「ああ、そうだったっけな。どうだった? 新しい家での夜は」
「うーん―――…」
奏の歩くペースが、少し、落ちる。空を見上げた奏は、暫し考えを巡らせた後、
「上手いこと説明つかないけど、なんか、落ち着いた」
と答えた。
「落ち着いた?」
「なんか、落ち着かなかったんだよな、黒川さんの部屋にいると。黒川さんとはロンドン時代の方が付き合い長いせいかなぁ…。黒川さんが向こう戻って、オレ1人になってからも、なーんか部屋の中が半分ロンドン化してる気がしてさ。腹括ってこっち来たつもりなのに、中途半端にスタート切れてない気して、そこが気持ち悪かったんだよな」
「…なるほど」
「物が何もないのも、かえって落ち着く。仕事はともかく、プライベートではゼロになりたいから、オレ」
「ゼロ、かぁ…」
氷室もそう繰り返し、それからくすっと笑った。
「つくづく、不思議な奴だよなぁ、奏も」
「不思議?」
「向こうでもモデルとしてかなりの地位あったんだろ。こっちじゃ、僕たちの技術料の何十倍ってギャラを貰える仕事がワンサカ来る立場なのに―――こんな風に二足のわらじを履いてさ」
「……」
「それに、黒川先生の話じゃ、結構遊んでたんだろ、向こうでは」
からかうような氷室の目に、気まずくなって、少し視線を逸らす。でも―――否定は、しない。
「黒川先生んとこ追い出されたら、僕がイメージしてた“一宮 奏”なら、親しい女の部屋でも転々としそうだったんだけどな」
「…こっちにはいないって。そんな女」
「でも、声かけてくる奴は一杯いるだろ。お前、目立つし」
「いるけど―――もう、やめた。あーゆーのは」
確かに―――2年前までの“一宮 奏”しか知らない連中は、今の奏を見て仰天するかもしれない。
ロンドンで、奏は、そこそこの地位にいるモデルだった。
東洋と西洋の要素両方を持ち合わせたルックスと、“Frosty Beauty(氷の美貌)”ともてはやされた、冷たいとさえ思えるほどの完璧に美しい微笑。ポスターを飾り、ファッションショーの舞台を颯爽と歩く奏は、動くマネキンだった。それを演じるのが自分の役目だと、そう思っていたから。
女に関しても、不必要に熱くなることはなかった。
ニッコリ微笑めば、いくらでも女は寄って来た。プライドの高い女性の多い世界に身を置いていたせいで、女の扱いも上手くなった。どうすれば相手が喜ぶか、奏は計算しなくても本能的に分かっていた。だから、一晩限りの関係でも、奏を悪く言う者はほとんどいなかった。それどころか、奏が暇そうにぶらぶらしていれば「遊ばない?」と声を掛けてくれる物好きな先輩モデルまでいた。
クライアントも、女も―――みんな、奏が演じる“Frosty Beauty”が好きで。
求められるから、演じてる。そしてその見返りとして、高額なギャラと一時の快楽を手に入れられる。それでいいと―――本気で、思っていた。
でも、今。
奏は“Frosty Beauty”の仮面は、もう被らない。
素の自分を曝け出せる仕事しか請けないし、モデル1本で生きていくつもりもない。だからこうして、二足のわらじを履いている。女関係も随分変わった。日本に来て4ヶ月、一晩を共にした相手など、1人しかいない。その気にならないんだから、しょうがない。
別人になってしまったのだ。2年間で。
…いや。それまでが、おかしかったのだ。この2年で、奏は、本来の自分の素顔を取り戻せたのだ。“彼ら”のおかげで。
―――“彼ら”のせいで。
「あっ、いっちゃん、おはよー」
バシン! と背中を叩かれ、奏は、軽い感傷から一気に引き戻された。
奏がよろけたせいで、隣にいた氷室にぶつかり、氷室もよろけた。それより何より、朝から元気な大声が二日酔いの頭に響き、氷室は頭を抱えて地面にうずくまった。
「ななな、いっちゃん。昨日、どーやった?」
氷室の様子に気づかないテンは、そう言って奏を見上げた。
身長150そこそこのテンが183の奏を見上げると、ほとんど空を仰ぐに等しい状態になる。丸顔に丸い目に、丸みを帯びたボブカット―――どっか一箇所位シャープになれ、と言いたくなる風貌を見下ろした奏は、物言いた気に視線を氷室に流した。
その視線に気づき、テンも氷室に目をやったが。
「あれ、隣にいたの、氷室さんやったんですか。髪下ろしてるから分からへんかったわ」
「……」
髪を結ぶ余裕もなくなってるのは、誰のせいだと思っているのだろうか。ため息をついた奏は、テンの頭を軽く小突いた。
「お前、朝から声でかすぎ。二日酔いの氷室さんの身にもなれよ」
「え、氷室さん、二日酔いやってん?」
「てめーがしたんだろーがよっ」
「ウチが? …あーあーあー、昨日のアレね」
本気で忘れていたらしい。ぽん、と手を叩いたテンは、納得したように大きく頷いた後、やっと気遣う様子で氷室の顔を覗き込んだ。
「氷室さんー、大丈夫ですか?」
「……コロス」
怨念を込めて、氷室がテンを睨み上げたが、怨念はテンに届かなかったらしい。
「今度からは、自重して下さいよ。うちのスタジオで一番の稼ぎ頭なんやし」
「……」
―――分かってねぇ…。
テンの恐ろしいところは、自分のペースで飲むだけじゃなく、自分のペースで相手に勧めることだ。「グラス、空けちゃって下さいよ」などと言いながら、相手の飲むペースを勝手に上げてしまう。氷室の悲劇は、そのペースに巻き込まれ、明らかなオーバーペースになってしまった結果だ。
「あ、しまった! 今日の電話担当、ウチやったわ。すみません、先行かしてもらいます」
ぺこ、と頭を下げたテンは、まだ悶絶している氷室とあきれ返っている奏を置いて、さっさと店の方へと走って行ってしまった。後ろから見ると、その軽やかな走り方は、まるでゴム毬が弾んでるように見える。
さすが、“Studio K.K.”最年少。たかだか5つの年の差だが、奏と氷室は、遠ざかるテンの後姿を眺めながら、
「……若いなぁ……」
と同時に呟いたのだった。
***
奏が着替えを終えて店に出ると、ほぼ同時に、受付カウンターの電話が鳴った。
既に、白のブラウスと黒のタイトスカート、という制服に着替えを終えていたテンが、さっそく電話を取る。開店前でも、予約の電話が入るのは、日常茶飯事だ。営業時間外の電話は取らない店も多いらしいが、この店は、出来る限り取る方針を貫いている。
「はい、おはようございます。“Studio K.K.”です。―――はい、はい、明日の10時ですね。少々お待ち下さい」
保留ボタンを押したテンは、つま先立つようにして店内を見渡し、
「氷室さーん!」
と氷室を呼んだ。
その声に振り返った氷室は、つい30分前のボロボロの姿は微塵もない。肩につく長さの髪をきっちり後ろで一つにくくり、眼鏡を外してコンタクトに替えている。なんでずっとコンタクトにしないんだ、と以前奏が訊ねたところ、「コンタクトの方が客のウケがいいけど、実はドライアイ気味で、眼鏡の方が楽なんだ」とのことだった。
「はい」
「谷村様から明日10時で予約依頼が入ったんですが、大丈夫ですかー?」
「ああ―――ちょっとキツイ。一旦店に寄る余裕ないわ、きっと」
「じゃ、お断りしていいですか」
「うん、そうして」
わかりました、と答えたテンは、さっそく保留を解除して、谷村様に断りの返事をした。予約表を見ながら、いつなら氷室が空いているかを伝えたりしている。その様子を一瞥し、奏は、いくつも並ぶ鏡と椅子をぐるりと一巡し、コットンなどの消耗品を揃えていった。
「奏、」
「はい」
氷室に呼ばれ、振り返る。
同い年の2人は、普段、ざっくばらんな口調で話し合うが、店では別だ。奏の立場はテン同様“見習い”、そして氷室の立場は、“Studio K.K.”の売れっ子アーティスト―――奏の先輩だ。
「今日、午前中は僕のサブ入って。アイメイクとリップ、任せるから」
「分かりました」
―――テンのやつ、拗ねるかもなぁ…。
目指すアーティストは氷室さん、と豪語するテンは、もっぱら、星さんという別の先輩のサブにつくことが多い。多分、女性のテンには同じ女性の星さん、という店側の配慮だろうが、時折バックヤードで「いいなー、いっちゃん、氷室さんのミラクルメイクをかぶり寄りで見られて」と口を尖らせる。ましてや、一部であれ氷室のメイクの手伝いをさせてもらえる、なんて知ったら、ぶつぶつ言うこと間違いなしだ。昼の休憩はテンに先に行かせてやろう、と奏は密かに思った。
“Studio K.K.”は、今年の夏オープンしたばかりの、メイクアップ専門の店である。
美容院で、メイクもやっている、という店は時々見るが、メイクオンリーの店というのは、まだ珍しいかもしれない。が、特別な日はメイクをばっちり決めたい、とか、一度プロのメイクを見て自分も真似したい、とか、需要は色々あるようで、オープンから4ヶ月あまり、売上はそこそこ順調らしい。
日本人としては数少ない、世界レベルでの成功を収めているメイクアップ・アーティストである黒川賢治が、自分の名前を冠してオープンした第1号店。ただし、本人は現在、ロンドンである。店を任されているのは、黒川の一番弟子と呼ばれるメイクアップ・アーティストで、更にその弟子に当たるのが、星や氷室といった若手である。
といっても、全員が毎日、開店から閉店までべったり店に貼り付いている訳ではない。
“Studio K.K.”は、いわば、プロアーティスト集団の店、といった感じで、それぞれのアーティストは、個別に仕事を請けることもある。テレビの仕事だったり、撮影の仕事だったり―――氷室が明日、谷村様の予約を受けられない理由も、CM撮影の仕事が入っているせいだ―――店以外の仕事もこなしているため、来る日や時間によっては、働いているメンツが変わってしまう。なので、“Studio K.K.”での収入は、全部出来高制。働いているアーティストは、見習いを除いても10人ほどいる。
奏がここに勤めるようになったのには、ちょっと他の連中とは違った事情がある。
奏は本来、イギリスに籍を置くモデルである。黒川と知り合ったのも、モデルとメイクさん、という間柄の時だ。
今から1年半前、それまで所属していたモデル事務所を抜け、フリーとして活動を始めた奏は、だんだんメイクやスタイリストといった裏方の仕事に興味を持ち始めていた。フリーになって暇な時間が増え、思い切ってメイクの学校にでも通ってみるかな、と思っていたところに、たまたま、黒川との仕事が入った。
何の気なしに、将来について奏が語った結果―――黒川はあっさり、奏に弟子入りを許した。
黒川のアシスタントとして、また本業のモデルとして、日本での仕事の依頼を受けて来日したのが、今年の春。そして――― 一旦はイギリスに帰国したものの、夏には再来日。なんだかんだあって、奏は、日本でモデルとして活動しつつ、この“Studio K.K.”で将来に向けた修行を積むこととなったのだ。
テンなどは、大阪の美容専門学校を卒業して間もなく、黒川がメイクアップスタジオを作る、という情報を聞きつけ、単身上京したタイプである。17からモデルとして感性を磨いてきたとはいえ、専門教育という意味では、テンの方が先輩だ。
駆け出しの自分、未熟な卵の自分―――モデル業界ではベテランの域に入りつつある奏にとっては、そういう立場に身を置くのは、案外楽しいことだったりする。
―――でも、やっぱ、早くこういう風になりたいよなー…。
まるで魔法のように、客の肌色をパレット上に再現する氷室の手。その手元を食い入るようにして見ながら、内心、そう思う。
フラッシュをたかれても真っ白けにならないファンデーション。いかにもメイクしてます、という顔にならないチークの入れ方、眉の描き方。簡単なようでいて、なかなか難しい。特にファンデーションは、素材となる人間の素肌以上にナチュラルで透明感のある肌にするなんて、神業に近い。
氷室も黒川も、それを見事にやってのける。自分は―――まだまだだ。
でも、面白いと思う。やりがいのある仕事だ。
入店してきた時と、メイクを終えて出て行く時の、客の表情や態度の変化―――メイクひとつで、あんなにも自信に満ちた姿になれるのだとしたら、メイクはまさに“魔法”だ。自分がその“魔法使い”になられるのだとしたら、それは結構愉快な話ではないだろうか。
「じゃ、続き、頼む」
「はい」
ぽん、と氷室に肩を叩かれた奏は、鏡越しに、客の女性に会釈した。
どうか、手が震えて、瞼が三重四重になったりしませんように―――緊張しそうな自分を宥めつつ、奏はアイライナーを握った。
***
「そんで? 新居はどうやってん? まだ話聞いてへんかったわ」
昼休みの重なった時間、バックヤードで、思い出したようにテンがそう言った。
コンビを組んだ人間同士が休憩を一緒に取ったため、バックヤードにはテンと氷室、それに星さんがいる。が、星さんは、昨晩のテンのハイペース飲み会がたたっているらしく、スチール椅子に腰掛けてぐったりしたままだ。
「新居? まだ何もないし―――ああ、でも、やっぱり日当たりは抜群だった」
缶コーヒーをあおりながら奏が言うと、テンは羨ましそうに頬を膨らました。
「いいなー。ウチの部屋、西向きやから、朝は最低や」
「引っ越せよ」
「だよな」
「あかん。ウチが払える家賃考えたら、そう変わらへん部屋ばっかりや」
「じゃ、出世しろ」
「むううぅ…」
ますます膨れて氷室を恨めしげに見るテンを放っておいて、氷室は、そうそう、とコーヒーの缶を弾いて言った。
「どうだった? “マリリン”の布団」
「……う…っ」
―――嫌な名前を思い出させるなよ。
昨日、店に出た時、あまりのインパクトの強さにうっかり仲間にあの話を漏らしてしまったのだが―――改めて考えると、ただ氷室達を面白がらせるだけのネタだったような気がする。自分の軽率さを少し後悔しつつ、奏は軽くため息をついた。
「別に。ただの布団だった」
「なんやぁ。布団を追っかけて、マリリンさんが夜這いに来るとか、そういう展開なかったん?」
「あるか!!」
「けど奏、今朝、妙に眠そうにしてたよなぁ―――あ、もしかして、布団で寝るって体験自体、ほとんどないのか、奏は」
「…ま、確かに。でも、まるっきり初めてでもないから、熟睡できた」
「じゃ、なんであんなに眠そうだったんだ?」
「それは、今朝、変な起き方を―――…」
そこまで答えて、ふっ、と、今朝の歌が頭に蘇った。
CDと間違えたほどの、玄人はだしの歌声。透明感のある声が奏でていたのは―――あれは、確か、ジャズだった。
「―――…変わってること、1つだけ、あった」
「え?」
何だ? と、期待した目をする2人に、奏は、ぼんやり今朝の事を思い出しながら告げた。
「隣に、カナリアが住んでた」
「……カナリア???」
不思議がる2人に、奏は、今朝の顛末を簡単に説明した。それを聞いて、氷室が、ちょっと呆れたような顔をした。
「じゃ、奏は、隣人の歌声で目を覚ましたのか」
「そういうこと。変な起き方したせいで、なんか、頭の芯がうまいこと覚醒しなくて、それでぼーっとしてた」
「…それ、失敗物件なんじゃないか?」
「え?」
キョトン、とする奏を尻目に、なぁ、と氷室がテンに目を向ける。テンも、ほんまになぁ、という目で氷室を見遣った。
「どこが、失敗物件?」
「だって、隣人が朝っぱらから騒音立ててる訳だろ。目が覚めるほどの。案外、前の奴が引っ越したのも、その女の歌が原因かも」
「いっちゃん、甘いわ。なんで文句言わへんかったん? ウチなら“じゃかぁしいわ、ボケ”位のこと言うわ」
「……」
騒音?
あれが?
オレの感性は、ちょっとおかしいんだろうか―――にわかに不安になる。
「…オレとしちゃ逆に、朝からいい歌聴けて、結構ラッキーだったんだけど」
「……」
「そりゃ、カラオケで上手いと思ってる連中レベルなら、絶対怒鳴り込むよ。けど、聴こえてきたのは、プロ級の歌だし。別にうるさかった訳じゃないし」
「……なあ、いっちゃん」
探るような目つきになったテンは、ずいっ、と奏に詰め寄り、尋問するように奏の胸をトントン、と指さした。
「もしかしてその女、めっちゃ美人やったんちゃう?」
「―――…は?」
「相手が美人やったから、へら〜っとなって、ついつい甘い顔してしもーたんとちゃうの」
「美人……」
今朝見た顔を、もう一度、思い出す。
いや、思い出そうとする。
―――思い出せなかった。あまりに、特徴がなくて。
「…なんか、子供っぽい顔だったことと、眠そうな二重だったことしか、覚えてない」
「……」
「あ、それと、髪の色」
「髪?」
「短いけど、今時珍しい位、綺麗な黒だった」
「―――出たよ」
氷室が、ため息と共に呟いた。
「やっぱり出ましたよ。奏の黒髪フェチが」
「フェチ、って―――…」
人聞きの悪い。でも―――まあ、染めたり脱色したりしていない黒髪の客が来店すると、まず最初に黒髪を褒めるのだから、そう言われても仕方ないのかもしれない。
でも、別に、黒髪フェチな訳じゃない。
ただ、ちょっと―――つい、目で追ってしまう隠れた事情が、奏の中にあるだけで。
「…っていうかさ。オレの実家、親父がカンツォーネとかシャンソンとかをしょっちゅう歌う家だったから、あんまり違和感ないんだわきっと。子供の頃は、目覚まし代わりに親父が歌う“フニクリ・フニクラ”だったし」
「…変わってるな、奏の家族」
「結構な」
父の歌よりは、今朝のカナリアの歌の方が数十倍マシだった。また明日からもああして歌うのかもしれないが、テンのように「じゃかあしいわ、ボケ」と殴りこみに行く気には、さらさらなれない。
「ま、本人がいいんなら、いいけど。それだけ日当たり良ければ、居候2号もさぞかし居心地がいいだろう」
「…その“居候2号”って呼び方、やめろよ」
氷室がコーヒーを口に運びながら言った一言に、奏の眉がピクリと動く。
ちなみに、“居候2号”とは、サボテンのことである。居候先に植物を持ち込む訳にも…と最初は人に預けていたのだが、結局1週間程度で新居探しを断念したため、あっけなく奏と一緒に黒川家に居候となった。その話を黒川がみんなにしたせいで、いつの間にか“居候2号”なんて名前をつけられてしまったのだ。
「けど、いっちゃんがサボテン育ててるって、なーんか妙な感じやわ」
「だよなぁ。植物とかに全然興味なさそうな顔なのに」
「…うるさいっ」
あんまり突っ込むんじゃねーよ、と、奏が心の中で舌打ちした時。
奏のブラックデニムのポケットの中で、携帯電話が鳴った。
「―――…?」
眉をひそめ、ポケットから携帯を引っ張り出す。今の音は、メールの着信音だ。
一体誰だよ、と思いながらメールを確認した奏は―――その差出人の名前を見て、顔色を変えた。
「……っ、わ、悪い、オレ、ちょっと電話してくる」
「え?」
あまりにその顔色の変化が顕著だったので、氷室もテンも、呆気にとられた。が、当の奏には、その場を取り繕う余裕はあまりなかったらしい。
「休憩終わる前には、戻るから!」
そう言って、椅子にぐったりしている星さんの横をすり抜け、猛ダッシュで店の裏口から出て行った。一体、何なんだ―――残された2人は、暫し呆然と、バタン、と閉まった裏口のドアを眺めた。
「……多分、あれが、一宮君の“ご主人様”ね」
「えっ」
それまで、ひたすらぐったりしているものと思われた星さんが、突如、そう言った。
驚いた2人が目を向けると、星さんは、ユラリ、と体を起こし、奏が走り去った方向を見遣った。それから、唖然としている2人を見上げて、嫣然と微笑んでみせた。
「ほら。前から噂があるじゃないの。一宮君が、メールや電話で誰かから連絡受けて、速攻で飛んでいく姿を見た、っていう噂」
「…ああ…、そういえば」
「でもいっちゃん、彼女いない、って言ってたけど」
男が連絡を受けて飛んでいく、となれば、相手は女と考えるのが妥当な気がする。テンが、不思議そうにそう言うと、星さんは、分かってないなぁ、という風に指を振ってみせた。
「だ・か・ら。彼女じゃなく、“ご主人様”。まるで忠犬のように、ご主人様からの呼び出しに尻尾振って飛んでってるのよ、あれは」
「……」
「実際一宮君、性格がどう見ても、犬系だし」
「…あ、それは、言える」
寂しがり屋で、恩師には忠実で、褒められると嬉しさが隠せなくて―――そういう奏を、あの美貌だけしか知らない一般人なら、絶対信じられないだろう。けれど、先輩である氷室は勿論のこと、ここのスタッフなら全員、毎日のように見ている。まさしく、尻尾を振って喜んでいる奏の姿を。
あまりにピッタリだったので、思わず吹き出した。
「じゃあ、イギリス原産の奏なら、さしずめコリーってとこか」
「あはははは、ぴったりやー! コリーって忠誠心強い犬種で有名やもん」
「面白いわねー、一宮君の新居になったアパート。カナリアの隣にコリーが住んでるなんて」
「ハハハハハハハ」
本人がいない所で、言いたい放題。
で、その頃、当の本人は―――“ご主人様”からのメールを受けて、大慌てで電話をしていた。投げられたフリスビーをダッシュで拾って戻ってくる飼い犬のように。
そう。
確かに奏には、“ご主人様”がいる。
奏の心を、たった一言で右にも左にも動かしてしまう―――そんな、絶対的な力を持った存在が。
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