←BACKFake! TOPNEXT→




― 恋

 

 「えっ、まだ来てない?」
 「そうなのよ」
 星が、困ったように眉を寄せた。
 確かに―――ぐるっと店内を見渡したが、ゴムまりのようなテンの姿は、どこにもなかった。既に開店準備に入っている。この時間にテンがいないということは、開店以来初めてかもしれない。あんな風だが、遅刻などはしない、真面目な奴なのだ。
 「電話は?」
 「さっき、携帯からかけたけど、応答なし」
 「……」
 ―――星さんの携帯から、か…。
 まさか、とは、思うけれど―――星だから、電話に出ない、なんてことも、無きにしも非ず。
 ちょっと考えた奏は、店の電話の受話器を取り上げた。
 「ごめん、テンの電話番号って、何番だっけ」
 携帯をロッカーに入れてしまっているので、番号がわからない。星に確認しつつ、奏はテンの携帯に電話してみた。
 数度、呼び出し音が鳴る。が―――やはり、応答はない。留守番電話サービスになったので、店に連絡をしろとだけメッセージを入れ、ため息とともに受話器を置いた。
 「あ、氷室君」
 奏が受話器を置くのとほぼ同時に、星が困惑したような声で氷室に声をかけた。
 振り返ると、少々遅れ気味の出勤だった氷室が、着替えを済ませて出てきたところだった。
 「おはようございます―――え、どうかした?」
 「それが、テンちゃんが来てなくて…」
 「テンが?」
 怪訝そうな顔をした氷室は、さっき奏がやったように、店内に視線を走らせた。温厚な氷室には珍しい位、険しい顔をしている。
 「電話にも出ないのよ。氷室君、何か聞いてない?」
 「…いや」
 「困ったわね。テンちゃんの予約のお客さんも入ってるのに…」
 「予約、か―――奏、今日って確か、早番だったな。エンドまでに変更できる?」
 「え? あ、ああ。予定の変更はきくと思う」
 夕方の予定は、同じモデル事務所の女の子の、ポートフォリオ用の衣装選びである。
 以前、その後輩女性モデルの衣装選びに、奏の意見が採用されたことがあった。それが結構本人もノレる衣装で、周りの評判も良かったらしく、今回もお願いされてしまったのだ。でも、まあ……内々の仕事だし、ポートフォリオの提出までまだ相当時間があるので、頼めば1日くらいずらしてくれるだろう。
 「じゃあ、一宮君がいてくれる前提で、マネージャーに相談ね」
 「うん。来るか来ないかわからないんじゃ、来ない前提で仕事を割り振るしかないな…」
 そう言って、星と氷室は、予約表を手にマネージャーに相談しに行った。奏もそれに続きかけて……ふと、電話を振り返った。

 ―――何があったんだろう、本当に…。

 最近、態度がおかしかったとはいえ、仕事だけは真面目にこなしていたテンなのに―――なんとなく嫌な予感を覚え、奏は、知らず眉根を寄せた。

***

 昼を過ぎても、テンは来なかった。
 仕事の合間に電話をしても、さっぱり繋がらない。メッセージを残しても、電話がかかってくることもない。諦めて、奏は午後一番に佐倉に電話を入れた。

 「悪い。スタッフが1人、休んじゃって―――オレまで抜けちゃうと、マジ、店回らなくなるから、今日は閉店まで残らざるを得ないんだ」
 『あーらら…。そうなの。まあ、キミの仕事じゃない訳だし、こっちがキャンセルするしかないわねぇ』
 「ハルミには、明日か明後日、時間くれって言っといてくれるかな」
 『了解。でも、ハルミ、すっっっっごく残念がるわよ。一宮君に会えると思って、期待して来るだろうから』
 「……ハ…ハハハハハ」
 『いいわねぇ、一宮君。おモテになって』
 ―――よくねーよっ。あの子苦手なの知ってて、そーゆーこと言うなっつーのっ。
 「…とりあえず、夜にでももう1回、電話する」
 『はいはい。じゃーね』
 短い会話で、電話は終わった。電話を切った奏は、液晶画面を見下ろし、はあぁ、とため息をついた。
 ハルミは、佐倉が選んだだけあって、非常に優秀なモデルなのだが……カメラの前では別人のように見事な笑顔を披露するのに、日頃のハルミは「笑ったら損」と言わんばかりの無表情ぶりだ。佐倉でも敵わない時があるほどの頭のキレ方で、日常会話もテキパキ、どこにも緩みがない。実は結構ドジでお人よしな部分もあり、素で見せる貴重な笑顔は非常に可愛らしい。その落差がたまらん、という男も結構多いのだが―――残念ながら、奏はそういうタイプではなかった。
 全く、恋愛の需要と供給は、うまくいかない―――ここ最近の自分を含む知人友人を振り返って、奏はつくづく、そう思った。

 ロッカールームを出て、店に戻ろうとすると、入れ替わるように星と廊下ですれ違った。
 「あ、星さん、上がり? お疲れ様です」
 「ええ。ごめんね、テンちゃんいなくて、ただでさえ大変なのに…」
 星はこれから、スチール撮影の現場の仕事が入っている。奏の予定とは違い、動かせないスケジュールだ。済まなそうにする星に、奏は苦笑して首を振った。
 「オレからすりゃ、これもチャンスだから。それに無事、予定も変更できたし」
 「そう! 良かった。じゃあ、後はよろしくね」
 「はい」
 ニッコリ、と笑うと、星はロッカールームのドアの向こうへと消えた。パタン、とドアが閉まると同時に、奏は、ここ最近気にかかっている件がまた頭に浮かび、うーん、と首をひねった。

 星は、やはり店を辞めざるを得なくなった。星の名前が売れているだけに、結婚相手の会社も、いち社員のプライベートだ、とは割り切れないものらしい。使用化粧品を自由に選べるフリーの仕事は今後も続けていくが、“Studio K.K.”での仕事は、3月いっぱいで終了だ。
 結婚式は、4月。身内と友人、関係者数名というこじんまりした式にするらしく、店からは店長と氷室が行くことになっている。
 ―――氷室さん…ねぇ…。
 何故そこで、氷室なのか。
 確かに、星、氷室、テン、奏という4人は、店の中では目だって仲のいい組み合わせではある。が、そうなった理由は、同期であり同じ見習いである奏とテンが、自分の教育係である氷室と星を引っ張ってきた、という感じであり、つまりは奏とテンを挟んで氷室と星が接している、という感じだった―――筈、だ。
 ただ、2人とも“Studio K.K.”に入る前からこの業界にいた人間ではあるし、お互い、顔や名前を以前から知っていたとは聞いている。だから、前から多少の交流はあったのかもしれない。でも……それでも、責任者である店長と並んで出席するメンバーに、マネージャーを差し置いて氷室を選ぶほど、星と氷室の関係が密だった、とも思えない。
 少なくとも―――表面上は。

 『いや、それが……先週の日曜に、水族館であの2人見かけたんだよ。偶然に』
 『実はこの前、あの女の子と、あの時ピアノ弾いてた男の人が、水族館でデートしてる現場に出くわしちゃったんだけど』

 「……うーん」
 咲夜と一成の“デート”は、あの日1日限り。氷室が見たのも、星が見たのも、同じ日曜日だろう。咲夜たちが何時間水族館にいたか知らないが―――まあ、せいぜい2時間というところだろう。
 氷室と星という同じ店の人間が、あの日、同じ時間帯に、偶然同じ場所に行っていた、なんて……あり得るだろうか?
 いや、あり得ない訳ではないだろう。世の中、信じられない偶然はいくらでもあるのだから。でも、そういう偶然の一致を考えるよりも、むしろ―――「2人で行った」と考える方が、極々自然なのではないだろうか。
 勿論、水族館に行くのが恋人同士とは限らない。家族連れでも行くし、友達同士で行くことだってある。だから、店の同僚同士で行くことだって―――…。

 ―――いや。でも。
 休日に、わざわざ待ち合わせて行くほどに、親しいか? あの2人。いや、親しくても変じゃないけど…だったら、オレたちに隠す必要、ないし。
 万が一、実はあの2人がオレたちには内緒で付き合ってる、ってオチだとしても……星さんには、婚約者が。

 あの話を聞いて以来、ことある毎に、つい考えてしまう。一体どうなってるんだ? と。
 本人達に、確かめてみたくは、ある。でも、星の立場が立場なだけに、これは非常に訊き難い。気にしつつも訊けないまま、既に1月も終わり―――それとなく見ていたが、2人の関係は、やはり、以前と何ら変わらないように見える。
 「…っと、」
 それどころじゃなかった。仕事仕事―――奏は慌てて踵を返し、店へと戻った。

 「奏」
 戻って早々、慌しい様子の氷室に肩を叩かれた。
 「3番の客、アイメイク以降、頼む」
 「はい」
 奏の返事を聞き、氷室は一瞬だけ笑みを見せ、また別の客の席へと向かった。その背中を目で追いながら、やっぱり奏は、ちょっと首を傾げる。

 ―――考えすぎ、かな。
 でも氷室さん、今朝、テンから何か聞いてないか、って言われた時…一瞬、言葉に詰まった気、したんだけど。
 案外、氷室さん、テンが無断欠勤してる理由、知ってるんじゃないかな。でも…だったら、何で言わないんだ?

 最近、思う。
 テンが、ここのところずっと様子がおかしかったこと―――それも、実は氷室や星の問題と絡んでいるのではないか、と。
 なんだか、自分の周りで、人間関係が複雑化してる気がする。それは、少しばかり、憂鬱なことだった。

***

 結局、奏が本来店を上がる筈だった時間になっても、テンは現れなかった。
 もはや電話を入れる暇もなく、特に多くの会社の定時以降になると、客も途切れることがなくなるため、奏も氷室もそれ以外のスタッフも、半ばテンのことなど忘れて、ひたすら仕事に集中していた。
 テンを指名した客も来たが、あからさまにガッカリしていた。
 「えー、テンちゃん、いないの? あの子の関西弁トークも楽しみにしてたのになぁ」
 どうやらテンは、その技術以上にキャラクターで客に気に入られているらしく、風邪ひとつひかないテンの突然の欠勤に、テン指名以外の客も「テンちゃんにお大事にって言っといてね」などと心配してくれた。そういう客の言葉を聞くたびに、一体何やってんだあいつは、と、いまだ連絡のないテンに腹がたった。
 その一方で、全員が、少々、不安にもなっていた。
 あの元気で真面目なテンが、無断欠勤。連絡もとれない状態だ。もしかして、事故や事件に巻き込まれたのではないか―――そんな不安が、ふと頭をよぎる。大阪から単身上京しているテンは、当然ながら一人暮らしだ。隣近所との付き合いはあるらしいが、誰も気づかない、ということもあるかもしれない。

 「オレ、テンの家行ってみようかな」
 閉店後、後片付けを終えた奏が着替えながらポツリと言うと、一緒に帰り支度を始めた氷室も、さすがに心配なのか、ちょっと眉をひそめた。
 「そうだな―――まさかとは思うけど、物騒な世の中だからな」
 「氷室さんも行く?」
 ロッカーを閉めつつ奏が言うと、氷室は一瞬、返答に迷ったような顔をした後、
 「…いや、僕は…」
 と、言葉を曖昧に濁してしまった。普段の氷室なら、一緒に見に行くと答えそうなものだが―――不審に思ったが、なんだか訊き難いものを感じて、奏も「そっか」と答えるだけにしておいた。

 店長に帰りの挨拶をし、通用口から裏通りに出た奏と氷室だったが。
 「―――……!!」
 歩き出して数秒後―――目の前にいる人影に気づき、2人揃って、驚きに目を丸くした。

 「テ…っ、テン―――…!」
 「……」
 それは、テンだった。
 済まなそうな、気まずそうな、叱られるのを予感して縮こまっている子供みたいな顔をして、ポツネンと暗がりに立っている。その様子は普段とはまるで違うが、特に怪我をしているとか、病気を患っている様子はなかった。
 「お、お前……どうしたんだよ!? 何度連絡しても連絡つかないし…!」
 「…ご…ごめん」
 奏が怒鳴ると、テンは、消え入るような声で謝罪し、ますます体を縮こまらせた。
 「ていうか、一体いつからそこいるんだよ」
 「…に…2時間くらい前、から。何度も店行って店長とみんなに謝ろうて思たんやけど……ゆ、勇気が出ぇへんかってん…」
 「バカかっ! みんな迷惑したし、それ以上に心配したんだぞ!? 店の連中だけじゃなく、お客さんも!」
 「…ごめんなさ…」
 テンが、半分涙声で、そう謝ろうとした時。
 奏の斜め後ろにいた氷室が、奏を追い越して、テンの目の前に歩み出た。
 「……っ!」
 ハッとしたように顔を上げたテンの頬を、氷室の手が、平手打ちした。パン! という乾いた音が裏通りに響き、さすがに奏もギョッとした。
 「いい加減にしろ、テン」
 静かな怒りを滲ませながら、氷室が、低く言う。
 「気まずいのも、辛いのも、わかってる。僕も多少は責任を感じないでもない。でも、プライベートで何があろうが、店には出るのがプロだろう? あんまり失望させるな」
 「……」
 頬を押さえたテンは、蒼褪めた顔で、瞬きを忘れたように氷室の顔を見上げていた。そんなテンの視線を振り切るように、氷室はテンの横をすり抜け、足早にその場を立ち去ってしまった。

 ―――おいおいおい。
 こんな状態のテン、放置してくなよ、氷室さん。

 氷室を振り返ることもせず、放心したように立ち尽くすテンを、奏までほったらかしにして帰る訳にはいかない。参ったな、とため息をついた奏は、固まったままのテンの肩をポン、と叩いた。
 「とりあえず―――何か、食いに行こうぜ。腹減ったし」

***

 「…いっちゃん、知ってたん?」
 ずずっ、と鼻をすすりあげながら、テンが涙声で言う。その声に、鉄板の上にお好み焼きをひっくり返すのに集中していた奏は、「は?」という顔で向かいのテンを見た。
 店を離れてから、テンが発した言葉は、これがやっと二言目だ。「何食いたい?」の答えの「お好み焼き」―――その次がいきなりこれでは、何のことかさっぱりわからない。
 「何を?」
 「…氷室さんと、星さんが、付き合うてること」
 「……」
 やっぱり、か。
 陰鬱な気分が、ズシリと背中にのしかかる。これがフリーな同士の話なら、単なる仲間内のスクープとして、むしろ喜んでしまったりするところだが―――星に婚約者がいることを考えると、どう考えてもドロドロした話にしかなり得ない。
 「やっぱ、付き合ってたのか、あの2人」
 「…氷室さんから、聞いたんと違うの」
 「聞いてない。クリスマス辺りに、偶然、そうかもって思えることを知っちゃっただけで……テン、焦げるぞ、それ」
 テンの前にあるお好み焼きも、そろそろひっくり返さなくてはいけない筈だ。テンは、またずずっ、とすすりあげ、金てこでお好み焼きを鮮やかにひっくり返した。モタモタとひっくり返す奏とは違い、さすが地元大阪人、という感じだ。
 「テンは、星さんから聞いたのか?」
 奏が訊ねると、テンは、お好み焼きにソースを塗りながら、力なく首を振った。
 「…12月の、初め頃やったかな―――星さんが、閉店と同時位にえらい急いで帰り支度始めた時があってな。うち、友達と約束しとったけど、ちょっと遅れそうやったから、電話するために星さんの後すぐロッカールームに行ってん。そしたら星さん、なんや、ちょっと嬉しそうな顔して、携帯でメール送ってたわ。ウチ来たのに気づいて、慌てて携帯閉じてしもたけど」
 「……」
 「それで、ウチとちょっと話してるうちに、今度は星さんに、メールが送られて来て―――星さん、すぐ隠したけど、ウチにも見えてしもたわ。携帯の小窓の方に表示された名前……“氷室”、やった」
 「……」
 「…氷室さん、その日、オフやったんや」
 「…待ち合わせ、か」
 テンでなくても、察しがつく。休暇中の氷室と、デートの待ち合わせの連絡をしていたのだ。ただの業務連絡レベルなら、テンが来た位で慌てることもないだろう。
 「…ショックやったわ。星さんに彼氏おるの、知ってたから」
 はぁっ、とため息をついて、テンはそう呟いた。
 「星さんが、氷室さんのこと好きなんやないか、ってのは……秋頃から、気づいてた。けど、まさか―――彼氏もおるのに、あの星さんが、氷室さんとも付き合うてるやなんて…信じられへん。結婚するって発表聞いた時は、ほんま、耳疑ったわ。それやったら、氷室さんは何なん? ただの遊びやったん? そんなん―――そんなん、絶対イヤや」
 「…けど、氷室さんだって、彼女いるだろ?」
 最近、ノロケ話も耳にすることもなくなってしまったが、別れたという話も聞いていないので、まだ付き合っている筈だ。だとすると、恋人を裏切っているのは、星も氷室も同じ、ということになる。結婚している訳ではないが、いわば“W不倫”状態だ。
 奏が指摘すると、テンは、硬い表情で黙り込み、視線を落としてしまった。そして、そのまま―――暫く、口を開かなかった。
 ―――なんか、色々複雑みたいだな。
 諦めて、奏もお好み焼きにソースを塗り、金てこで切り分けた。食べる様子を見せないテンの分も切り分け、手元の皿の上に1切れ、乗せておいてやった。

 「…ウチな、いっちゃん」
 ようやく口を開いたテンは、視線を落としたまま、そう切り出した。
 「氷室さんのこと、好きやってん」
 「……」
 「いつからかは、自分でもわからへん。けど…気づいたら、好きになっててん。彼女おる人、好きになってもしゃあない、ってわかってたんやけど……」
 「…そっか」
 「そやから―――星さんが氷室さん好きらしい、って気づいてから……普通に、できひんかってん」
 「……」
 「彼氏もおるんやったら、氷室さんに色目なんて使わんといてよ、って、めっちゃ腹たって……星さんのこと、あんなに大好きやったのに、どんどん嫌いになってしもてん…」
 ―――やっぱり…そういう、ことか。
 去年の11月ごろから続いていた、テンの、星に対する不可解な態度。ずっとその理由がわからなかったが―――氷室と星の関係を「もしかしたら」と思うようになった時、その可能性を奏も考えていた。あれは、氷室を好きであるが故の行動なのではないか―――つまり、テンにとって星は、恋のライバルなのではないか、と。
 「…それでもな。星さんが、今カレと別れて氷室さんとちゃんと付き合うとかするんやったら、まだマシやってん。でも、今カレと結婚するって聞いて―――堪えて、堪えて、必死に堪えたけど……アカンかった」
 「アカン、かった…?」
 「―――昨日、ウチ、氷室さんに言うたんや。“氷室さんはそれでええんですか”って。見たことも、ウチが星さんをどう思ってるかも、全部喋った。それで、氷室さんにとっても星さんは遊びやったんですか、って―――そう訊いたら、氷室さん、答えてん。“僕も、星さんも、遊びだったつもりはない”って」
 「……」
 「…氷室さん、彼女と別れたんやって。もう半年以上前に。裏切り続けるのに耐えられんようになったから、って。星さんにも言ってへんらしいわ。そんなん―――酷いと思わへん? いっちゃん。な? 思うやろ?」
 赤い目をして、必死に訴えるテンは、なんだか壮絶な感じがした。が―――奏は、その言葉に、頷くことも首を振ることもできなかった。
 確かに、テンの話だけ聞くと、酷い話のように思える。氷室は星が原因で彼女との別れを決意したのに、星の方は氷室じゃない男を選んだ、ということなのだから。でも……恋愛は、そう簡単に善悪を言えるものではない。彼らがその結論に至った経緯を聞かないと、氷室が酷いのか、星が酷いのか、それともどちらも酷くないのか―――それは、本人以外にはわからないのだ。
 「だ…から、な。ウチ……黙ってられへんかってん」
 奏の返答を待つこともなく、テンはそう続けた。
 「星さんが店辞めるまでは、黙っとこう、思てたけど―――無理、やってん」
 「……」
 「…氷室さんに、好きや、て、言うてん」
 「…そ…っか…」

 その続きは、あまり、言わせたくはなかった。
 今日、テンが店を休んだという事実。それを考えると―――氷室の答えは、1つしかあり得ないから。
 箸を置いた奏は、鉄板越しに手を伸ばし、もう言わなくていいぞ、という意味でテンの頭をポンポン、と撫でてやった。それと同時に―――テンの丸い目に、見る見るうちに涙が浮かんできた。

 「お……っ、女とは、思えないんや…って…っ」
 「……」
 「ウ、ウチのことは、こ、後輩として好き、やけど…っ……女として見たことは、い、一度も、ないって……っ」
 「……もう、やめとけって、テン」
 「こ…れからも、無理やと思う…ごめん……って、言われた。…と…っ、当然や。ウチ、ずーっと騒いでて、ずーっとバカばっかりやってて―――ひ…氷室さんのこと、好きになるなんて、ぜ…全然…っ」
 しゃくりあげたテンは、目を両手で覆って、泣き出した。
 その姿は、いつもゴムまりみたいに弾んでて、傍若無人で、酒癖が悪くて、いつもバカなことばっかりやっている元気で明るいテンじゃなく―――失恋に打ちひしがれて、小さく小さくなってしまっている、ありふれたただの“女”だった。
 「…氷室さんのこと、好きになるんやったら……っ、も…っと、女らしく、しておけばよかった…っ」
 「―――バカ。そんなの、テンらしくないだろ」
 ぐしゃぐしゃ、と、テンの頭を掻き混ぜる。が―――テンは、声を殺して泣き続けるばかりだった。

 ―――痛いよなぁ…。
 どんな恋でも、失恋は、痛い。
 本当に、恋愛の需要と供給は、うまくいかない―――もしかしたら、うまくいく恋なんてのは、奇跡に近いのかもしれない。


***


 ステージから、ある顔を見つけてしまった咲夜は、一気に憂鬱な気分になった。
 ―――…最悪…。
 店の比較的後方、カウンターに近い席で、まるで睨むようにしてステージを見ている客は、ついこの前まで、この店の従業員だった。
 ミサ―――年末年始の連休明けに、ぷっつりと仕事に出てこなくなり、とうとうクビになった、アルバイト店員だ。
 チラリと、ピアノの方を窺うが、幸い一成はミサに気づいていないらしい。でも、咲夜同様、しっかり客席の方に顔をむけて演奏しているヨッシーは、多分気づいているだろう。一成にだけは、気づかれないに越したことはない。咲夜は、ミサなど見つけなかったことにして、歌に集中することにした。

 ミサが、突如仕事に出てこなくなった理由を、咲夜は知らない。が…おおよそ、見当はついている。
 アタックして玉砕に終わった場合、選択肢は2つだ。諦めるか、それとも振り向いてくれるまで諦めないか―――ミサは、明らかに後者だった。でも、そっぽを向いている人を追いかけ続けるには甚大なエネルギーが必要だ。持久戦に突入したミサは、早くもエネルギー切れを起こし……諦めてしまったのだろう。一成を。
 一成が自分のものにならないのなら、こんな仕事、続ける意味もない―――まあ、そんな感じで、辞めたのだと思う。全く…責任感も何もあったもんじゃない。こういうのがいるから、「今時の若者は」なんて言われてしまうのだ。同世代として、甚だ迷惑である。
 ―――それにしても、何なんだろ、あの男。
 見なかったことにしよう、と思っても、やはり、見てしまったものは気になってしまう。
 ミサは、1人ではなかった。なんだかホストっぽい外見の男を1人、同席させていた。ステージには全然興味がないらしく、こちらを睨むミサをよそに、そいつは、1人でパスタをばくばく食べていた。
 一成を諦めて、あの男と付き合い始めた、ということなのだろうか。随分と一成とは違うタイプだが―――まあ、切り替えの早いタイプなら、そういうこともあるのかもしれない。

 ミサは、何を思って、クビになった店に、客として訪れたのだろう。
 というより―――自分を振った男のステージを、何故、男連れで見にきたのだろう。

 その意味を想像した咲夜は、なんとなく嫌な予感に、再び、ミサの姿は見なかったことにしよう、と視線を別の方角へと向け直した。

***

 「何かあったか?」
 控室に向かいながら、一成がひっそりと咲夜に訊ねた。
 「えっ、何が?」
 「いや、なんかちょっと、いつもと声が違ってた気がしたから」
 「……」
 ―――す…鋭い耳してんなー、相変わらず…。
 「そーかなー。別に、なんともないよ」
 咲夜が、幾分ひきつりそうになりつつも笑顔でそう答えると、一成は、まだ訝しげな顔をしながらも、「ふーん」とだけ言った。
 ミサがいた、とは、やはり一成には言えない。どうもクリスマス辺りにも何か嫌なことがあったらしく―――大方、店が終わった後しつこく迫った、なんて類のことだろう―――年末年始辺りなど、一成は、「ミサ」の2文字だけで、あからさまに機嫌が悪くなっていたのだ。また現れた、なんて言ったら、キレること間違いナシだ。
 「俺達、コンビニ行くけど、咲夜も行くか?」
 「あー、どうしよっかな。今日寒いから、ステージの合間に喉冷やしたくないなー…。サンドイッチ買ってきてくれる?」
 「了解」
 コンビニに軽食を買いに行くヨッシーと一成を見送った咲夜は、はーっ、と息を吐き出し、控室に戻った。実際、あまり喉の調子が良くなかった。感想気味の喉を潤そうと、ペットボトルの水を半分近くまで一気に飲んだ。
 「Do-a, do-a, do-a, do-a, do-a, do-a, do-a, do-a...」
 スキャットを口ずさみながら、一成が書きかけていた楽譜を手に取り、華麗に並ぶおたまじゃくしを目で追っていると、コンコン、とドアがノックされた。
 「はぁーい」
 楽譜から目を離さず、返事をする。と、ドアがガチャリと開いた。
 楽譜越しに、僅かに見えたのは、キャメル色のローファー。店員のものではないその靴に、咲夜はハッとして、顔を上げた。
 「…………」
 ドアの所に仁王立ちしていたのは、ミサだった。
 ―――勘弁してよ…。
 頭を抱えたくなる。新しい彼氏を自慢しに来たようには、どう努力しても見えない。目が吊り上り、口元も皮肉な笑みに歪んでいるミサは、これまで見たどんなミサより、はっきり言って「最低」だ。
 はあぁ、とため息をついた咲夜は、バサリと楽譜をテーブルに置き、きちんとミサに向き直ってニッコリ笑った。
 「あーれー、ミサちゃんじゃん。久しぶり」
 「…相変わらずよね、あんたって。面の皮厚そうなとこ、全然変わってないじゃない」
 フン、と鼻で笑うように言うミサに、咲夜は顔色ひとつ変えず、楽しげに笑ってみせた。
 「ハハハ、半月やそこらで変わったら怖いじゃんー。ミサちゃんも全然変わってないよ。相変わらず根性曲がった顔してるねー」
 「……」
 「んで、何? 一成なら、コンビニ行ってるよ」
 これで、素直にコンビニに行かれてしまうと、それはそれで、困るのだが―――ミサの反応を、一見余裕の笑みで咲夜が待っていると、ミサは、もう笑顔を取り繕うこともなく、冷ややかな顔で1歩前に出た。
 「…別にいいのよ、藤堂さんなんて」
 「じゃ、何。テーブルにいたホストチックな二枚目の自慢でもしたいの?」
 「やだ、気づいてた?」
 ふっ、とミサが、勝ち誇ったような笑みを作る。
 「カッコイイでしょ。モデル経験もあるのよ」
 「ふーん。凄いじゃん」
 ―――悪いけど、奏見慣れてるから、多少の顔じゃ驚かないんだよね、私。
 とは、さすがに言えない。咲夜は、適当に相槌を打っておいた。単純なのか、ミサは、その相槌に気を良くしたらしく、余計笑みを深めた。
 「でも、驚いちゃった。まだ藤堂さんとあんたが組んでるんだもの」
 「は?」
 「だって、自分を振った女よ? 普通、もう組めないでしょ。大体、藤堂さんみたいな凄い腕持った人、あんたの歌なんてどーでもよくて、あんたが欲しいがためにコンビ組んでたんだろうし。振られたんなら、そこでジ・エンドが普通じゃない?」
 「……」
 「ああ、それとも、まだ一縷の望みに賭けてたりするのかな。アハハ…諦めの悪い奴よね、案外。あたしなんて、もう彼氏作ってるのに―――損しちゃった。あの程度の男に、何ヶ月も費やしちゃって」
 「あのね」
 いくらなんでも、許せない―――咲夜の顔から、笑みが消えた。
 「その貧しい脳味噌で、下世話なこと想像して、一成を穢さないでくれるかな。お嬢ちゃん」
 「……っ、」
 「大体さ。あのホスト風のお兄さんて、逃がした魚は大きかった、とでも一成に思わせたくて連れてきた、新しい彼氏? だとしたら、たったこんだけの時間で他の男に乗り換えられちゃう程度だったんだ、ミサちゃんの一成に対する気持ちって。それとも……」
 言葉を切ると同時に、咲夜の目が、一瞬にして鋭くなる。ミサの顔が、幾分蒼褪めた。
 「あれは、ただ一成を貶めるセリフを吐きたいがために、その辺でナンパして調達してきた“ダミー彼氏”?」
 「……」
 どうやら、そちらが真相だったらしい。僅かなミサの表情の変化から、それが読み取れた。
 全く――― 一成の昔の彼女に、土下座しなくてはならない。こんなのと彼女を「似てる」なんて言ってしまったのは、大失言もいいところだ。
 「―――私のことは、好きなように言えばいい。私が気に食わないミサちゃんの気持ちも、わかる。自分が惚れた男の、好きな女だもの。さっさと消えろ、って思うのは無理もないよ。好きなだけ言えばいい。でもね。一成のことは―――悪く言うのは、許さない」
 「…な…んでよっ。あんた、藤堂さんを好きじゃないんでしょ?」
 「恋愛感情は、ないよ。でも―――あいつは、私の、大事なパートナーだから」
 「……」
 「一成も、ヨッシーも、私にとっては大事な大事な仲間なんだ。失恋したからって、仕事を辞めたり、あれほど好きだった男をボロクソ言ったりするような奴に―――そんな憂さ晴らししかできないような低俗な女に、穢されたくない。許さないよ、絶対」
 「―――…」

 ミサの顔が、悔しそうに、歪んだ。
 辛うじて着けていた仮面が、完全に剥がれる。唇を噛んだミサは、拳を振り上げると、咲夜の肩の辺りを力いっぱい叩いた。

 「あ…んたが…っ!!」
 「い……っ…!」
 痛みに、思わず悲鳴を飲み込む。力いっぱい、といっても、無茶な叩き方なので、クリーンヒットはしていない。それでも、やはり痛かった。
 「なんでよ!? 振られたんなら、さっさと諦めて、他の女に移ったっていいじゃない! なのに、なんで、振られてもまだあんたのこと庇うの!? あんたと一緒にステージに立つの!? ちょっと歌が上手いだけの、美人でも何でもないつまんない女じゃないの! どこが―――どこがいいのよ…っ!!」
 「……」
 「あ…あんたのせいよっ! あんたが、藤堂さんが、あんたを憎める位の振り方しないで、“いい人”のフリしたまま振ったりするから……っ!!!」

 罵声を浴びせながら、ミサの小さな手が、何度も咲夜を叩く。
 痛い。けれど―――痛い思いをしているのは、むしろ、叩いているミサの方だった。
 自分の言葉で、自分自身を、ズタズタに切り裂いている。咲夜には、泣きじゃくりながら何度も拳を振り上げるミサが、自らの血でどんどん染まっていくかのように見えた。


 『いいよ、それで。身代わりでも、セフレでも、何でも藤堂さんの都合いいようにしてよ。あたし、そこから這い上がる自信、あるもの。藤堂さんが苦しいなら、あたしを利用しちゃって構わないよ』

 利用されても構わない、一成が苦しいなら―――そう言ったミサは、ただ一成を懐柔したいだけで、あんなことを言った訳ではないだろう。落ち込む一成を慰めたい、抱きしめたい……その想いが、あの時のミサの声には、確かにあった。
 いや、もしかしたら……ミサ自身、店を辞めてから、初めて気づいたのかもしれない。
 ちょっとカッコいいピアニストと遊んでみたい、程度にしか思っていなかったのに―――いつの間にか、こんな風にズタズタになってしまうほど、本当に一成に恋をしていた、自分自身に。


 力尽きたのか、声が出なくなったのか。ミサは、咲夜に振り下ろした拳に目元を押し付けるようにして、肩を震わせて泣き始めた。
 「……」
 ―――私になんて抱きしめられたら、プライド傷つくだけ、かな。
 でも、黙って肩を貸しているのも、どうにも不安定で仕方ない。小さく息をついた咲夜は、ミサの背中を、とん、とん、とゆっくり叩いてやった。
 「…うまく、いかないね…。恋って」


 恋は、恋であるだけで、苦しい―――うまくいかないのが、当たり前のものなのかもしれない。
 うまくいく恋なんて、まるで奇跡のような偶然なのかもしれない。

 だからこそ……その奇跡を、みんな、追い求めずにはいられない。…そういうものなのかも、しれない。


←BACKFake! TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22