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― Growing Up

 

 なんだか、酷く、非現実的な夢を見ていた気がした。

 ―――…何…の、夢、だっけ。
 目が覚めた優也は、霞がかかったような頭で、さっきまで見ていた夢を思い出そうとした。が……無理だった。

 異様なだるさに、なかなか起き上がる気になれない。ベッドの中でぐだぐだとしているうちに、少しずつ、少しずつ、頭がはっきりし始めた。
 そして、70パーセントほど覚醒したところで―――ようやく、違和感に気づいた。
 「…………」
 チーン、という、トースターだかレンジだかのタイマーの音が、どこかから聞こえた。
 瞬間。
 100パーセント、目が覚めた。
 「―――…ッ!!!」
 がばっ! と起き上がった優也が見たものは、非現実的な夢が夢じゃなかった証拠、だった。
 ローズとピンクという、優也のものではあり得ない毛布の柄。優也の部屋にはある筈もない、化粧品がいっぱい並んだドレッサー。そして何よりも―――台所でせかせかと動く人影。優也の気配に気づいたのか、パンを取り出す手を止め、振り返る。
 「…あ…、起きたの」
 「……」

 ゆ……ゆ……、
 夢、じゃ、ない―――…っ!!!!??

 いや、マテ、自分の裸眼視力は、良くて0.3だ。眼鏡、眼鏡―――優也は、唖然とした顔で由香理の顔を凝視したまま、手をあちこち彷徨わせて、必死に眼鏡を探した。
 その動作で、優也が何をしてるのか、大体見当がついたのだろう。呆れ顔の由香理が、顎をしゃくるようにして、優也の背後を指し示した。
 「そこ」
 「えっ」
 「後ろの、カラーボックスの上」
 「……」
 振り返ると、窓際にピッタリくっつけて置かれたボックスの上に、確かに優也の眼鏡が乗っていた。ひったくるような勢いで眼鏡を掴み、かけてみる。けれど、うすぼんやりしていた“現実”が、よりはっきりと“現実”になっただけだった。
 「起きたばかりで悪いけど、急いでくれる? もうギリギリの時間だから」
 まだ呆けている優也に背を向け、由香理はそう言って、手際よく朝食の準備を続けた。まだ混乱しながらも時計を探してみたら、確かに、結構な時間になっていた。
 「…あの…」
 訊きたいことが多すぎて、言葉にならない。それに、由香理が振り返る様子もない。
 諦めた優也は、緩慢な動作でベッドから抜け出し、かろうじて見つけた自分の服をノロノロと身につけ始めた。


 ―――ええと。
 とりあえず、順を追って思い出してみよう。
 確か昨日は7時に起きて、大学に―――いやいやいや、それは戻りすぎだって。そこまで巻き戻さなくていい。日中の部分は飛ばして、家庭教師のアルバイトに行った辺りから。
 昨日は、センター試験直前の小テストをやって、その出来が結構良かったからって、和紀君を褒めて……和紀君のお母さんから、みかんを貰ったんだった。僕がちょっと風邪気味だったから、「これ食べて元気になってね」って。
 で、帰ってきてから、マリリンさんにお裾分けを―――あ、違う。そうしようと思ったけど、留守だったの思い出したんだ。前の日、編集さんに引きずられて行くの、見たから。それで、咲夜さんか一宮さんにあげようかな、と思ってたら―――…。
 友永さんが、帰ってきたんだった。
 …そうだ。友永さんが帰ってきたのに気づいて、年末に見かけた時、凄く元気がなかったのを思い出して……それで、みかんを友永さんに分けてあげよう、って、もの凄く勇気振り絞って、呼び鈴押したんだった。
 そしたら。
 友永さんの様子が、変で。
 もの凄く泣いて、わめいて、叫んで―――凄く傷ついてるみたいで、見てるだけで、痛々しくて。
 必死に慰めるようなことを、言った、気がする。そしたら―――…。

 「…うそ…」
 いや、嘘じゃない。
 覚えてる。その後の展開は。断片的ではあるが、夢と割り切るには生々しすぎる記憶がある。キスされたこととか、服を脱がされたこととか、逆に脱がせさせられたこととか、色々と。
 ただ。
 ただ…あまりにも緊張しすぎてて―――肝心なところを、全然覚えてない。

 ―――嘘…っ! だ、大ショック…!!
 あああ、人生に一度しかない初体験なのに、もったいない……じゃなくてっ!
 ダメだろ、それはっ! 記憶がないなんて、男として無責任すぎだって! そ、そりゃ、僕が、っていうより友永さんが始めたことだけど―――歳も、僕の方が下ではあるけど…っ。


 「パンとカフェオレとサラダだけだけど、食べていって」
 頭を抱えそうになった優也に、極めてそっけない声で由香理が声をかける。
 自己嫌悪10割の状態で優也が振り向くと、コンパクトなテーブルの上に、既に2人分の朝食が用意されていた。とても喉を通るとは思えないが、断る勇気も優也にはなかった。諦めた優也は、チェックのネルシャツの最後のボタンを留め、テーブルへと向かった。
 小さなテーブルを挟み、由香理と向き合う。既に化粧も終え、明るい色のスーツに身を包んでいる由香理の顔は、時折見かける出勤時の顔と、特に変わらないように見えた。
 「…い…いただき、ます」
 「…どうぞ」
 酷く気まずい空気の中、気詰まりな朝食が始まった。
 無言のまま、もそもそとパンやサラダを口に運ぶ。が、案の定、なかなか喉を通らない。由香理の方はどうなのだろう―――そう思い、時折チラッと由香理の様子を窺うのだが、由香理は視線をやや落としたまま、機械的に朝食をサクサク平らげていた。

 「―――昨日は、ごめんね」
 黙々と続く朝食の中、由香理が唐突に、目すら上げずに口火を切った。
 「私、ちょっとおかしかったのよ。…あなたのこと、よく知りもしないで、随分勝手な口きいたと思う。悪かったわ」
 ああ、そっちの話か―――真冬とは思えない汗が、優也の全身に、ジワリと滲み出す。優也は、かなりぎこちないなりに、精一杯笑顔を作った。
 「き…気にして、ないですから。そんなこと」
 「…でも、軽蔑したでしょ。いい歳した大人が、自分の無能さが悔しいからって、有能な人間に悪態ついたりして」
 「…そんなこと、ないです」
 優也はそう言って、本心から首を横に振った。
 「それに、友永さんは、無能なんかじゃないですよ」
 「……」
 「だって、綺麗だし、スタイルもいいし、ちゃんと大学に受かって、就職もできて、友達もいるんでしょう? 何か1つ、飛びぬけて優れたものがないんだとしても―――全部が及第点だなんて、凄いです。…羨ましいです、僕から見ると」
 優也が言うと、由香理は自嘲気味な笑いを漏らし、顔を上げた。
 「持ち上げるのが上手いわね、優也君」
 「…お世辞じゃなく、本音です」
 “優也君”という呼び方にドキリとしつつも、それだけは信じて欲しくて、きっぱりと言い切った。優也らしからぬ口調に、由香理も皮肉っぽい笑い方をやめ、少し視線を彷徨わせた後、再びトーストを口に運んだ。
 少しの間、また沈黙が続いたが。
 「…それと―――あんまり、深刻に考えないでよね」
 「……?」
 「私、日頃からピル飲んでるから」
 「……っ!!!」
 その言葉に、ちょうどカフェオレを飲みかけていた優也は、思わずカフェオレを吹き出しそうになった。
 ぐ、と堪えたが、むせるのは免れなかった。
 「ッゲホゲホゲホゲホ…!」
 「ああ、飲んでるのは、変な意味じゃないのよ。純然たる体調管理のためだから。誤解しないで」
 ―――む…むせたのは、別にそういう勘違いをしたからじゃないんですけど…。
 まだゲホゲホとむせながら、涙目で由香理を見る。が、動揺しまくりの優也とは対照的に、由香理は感情のない、無表情な顔をしていた。
 「とにかく、そういうことだから」
 「…は…あ…」
 そういうことだから―――何???
 そこのところが、いまいち、理解できなかったが―――それ以上、由香理が何も言わないので、優也も何も言わないでおいた。
 一刻も早く、この気まずすぎる空間から逃れたくて、以降、優也は、一切を無駄口をきかずに、ひたすら無言で朝食を平らげたのだった。


***


 史上最悪の気分で本社ビルのエントランスを抜けた由香理は、そこで、背後から来た誰かに肩を叩かれた。
 「……」
 覇気のない顔で振り返ると―――そこには、樋口係長の顔があった。
 「おはようございます」
 「……おはようございます」
 社交辞令的挨拶に、社交辞令的無表情で返す。
 昨日見た、あの同情したような樋口の顔―――彼には、由香理のこの魂が抜け落ちたような顔の理由は、十分想像できているのだろう。慰めでも言う気なんだろうか、と、由香理はうんざりした気分になった。
 「同情の言葉なら、結構ですから」
 そっけなくそう言い、一瞬止めた足を、再び1歩踏み出す。斜め後ろの樋口も、それに続いた。
 「同情する気はありません。あなたには忠告してありましたから」
 「…そうよね。じゃあ嫌味?」
 「……」
 「笑っちゃうほど、あなたの言う通りだった。真田さんの本性見抜けなかった、私の負けよ」
 「…いえ、まだ勝負はついてませんよ」
 混雑するエレベーターホールへと向かっていた由香理は、樋口のその一言に、思わずまた足を止めた。
 怪訝そうに眉をひそめる由香理に、樋口は、まるで仕事の話でもするみたいに事務的に、簡潔に説明した。
 「確かに化かし合いでは、負けでしょう。でも、化かし合いに負けたからといって、あなたの全てが真田さんに負けた訳ではない。まだチャンスはあります」
 「……」
 「ですから―――辞めるなんて、考えないことです」
 「!!」
 由香理の顔が、一瞬にして強張った。
 ―――…み…見抜かれてる…。
 真田やその同僚たちから、蔑みや憐れみの目で見られる位なら、辞めた方がいい……あんなことを陰で言われてまで、この会社にしがみつく必要はない筈だ。辞めよう―――今日にも上司に辞表を提出しよう。…そう、考えていたのだ。今日、アパートを出てからここに来るまで、ずっと。
 「辛い気持ちは、わかります。でも、堪えて下さい。いずれあなたは、勝ちます。いえ―――もう、勝ち始めてる筈です」
 「…どう…して、そんなこと、言えるの」
 「あなたは、後悔してるでしょう? 今回のこと」
 「…ええ」
 後悔なら、お釣りが来るほど、している。
 真田のことだけではない。それまでの人生全部に、後悔している。姉や兄、それに詩織―――彼らを意識しすぎていた自分の人生は、一体何だったのだろう? と。
 「真田さんの方は、後悔などしていないでしょう。どんな酷いことをしても、彼に自責の念はありません。大学名と容姿に守られたティーンエイジャーから成長できずにいるのは、そのせいです。反省できない人間であること―――それが、彼の最大の弱点です」
 「……」
 「あなたも確かに、愚かだった。でも、傷ついて後悔し、これまでの愚かな自分を反省できたのなら、その分、昨日までのあなたより成長してる筈です」
 成長―――している…?
 そんな実感、まるでなかった。由香理は再び、眉をひそめた。
 「今辞めたら、真田さんを余計つけ上がらせるだけです。…悔しいのなら、残って、彼の仕打ちになど屈していないことを証明して下さい」
 「…でも…」
 でも―――辛い。
 辛くて、辛くて、今こうしているだけで精一杯だ。
 「正直…今日も顔を見せないんじゃないかと、半分心配してたんですよ。大丈夫―――今日出てくる勇気が持てたのなら」
 「…どうして、そんなに心配してくれるの、あなた」
 到底、わかりました、と頷く勇気などなくて、由香理はそんな質問に逃げた。すると樋口は、初めて顔を僅かにほころばせ、答えた。
 「住む所も会社も同じ、しかもトラブルの相手がうちの課の問題児とは、また随分縁のある人だな―――と思ったから。ただそれだけですよ」
 「……」
 「じゃあ。頑張って下さい」
 ポン、と肩を叩くと、樋口は由香理を追い越し、エレベーターホールへと向かってしまった。出社してきた人が集中しているエレベーターホールに入ると、樋口の姿はあっという間にその中に紛れてしまった。

 ―――…今日だって、本当は、来られない筈だったのよ…。
 優也が、いてくれたから―――なんとか来ることができたのだ。樋口の背中を見送りながら、由香理はそっと、唇を噛んだ。

 こんな自分を―――彼に八つ当たりし、無様な姿を散々見せた自分を、彼はそれでも「眩しい」と言ってくれた。
 さして美しいとも思えない体を、「綺麗だ」と言ってくれた。
 粉々に砕けてしまった自尊心を、優也が辛うじて繋ぎとめてくれた。だから、なんとか、出社できた。あいつがあんな風に私を馬鹿にしても、こんな私を綺麗だと言ってくれる人はいるんだ―――その支えがなければ、今、こうしてここにはいなかっただろう。
 でも、あんな純真な少年を、利用してしまった。
 憧れの人に触れることにためらい、本気で震えていた優也を、自分は利用してしまったのだ。

 ―――あの子はただ、たまたま、私の隣に住んでいただけなのに。
 勉強一筋できてしまったせいで、免疫がなさすぎて、たまたま私みたいなのに憧れてしまっただけなのに。

 どこまで自分は、汚い人間なんだろう―――由香理は、真田とのこと以上の後悔に、暫し、そこから動けなかった。


***


 「一宮さん」
 疲れたなぁ、と肩を回しながらアパートの入り口にさしかかった奏は、押し殺したようなその声に気づき、不思議そうに辺りを見回した。
 ―――今、誰かに呼ばれたよな? 誰もいないじゃん。
 「一宮さんっ、ぼ…僕ですっ」
 2歩ほど足を戻し、1階に並ぶ窓を確認すると―――3つ目の窓から、優也が顔を出していた。ミルクパンを抱いているのか、その胸元に、艶やかな黒毛の耳がピン、と立っているのが僅かに見える。
 それにしても、真夜中という訳でもないのに、やたらヒソヒソ声なのが奇妙な感じだ。
 「何、どうかしたか?」
 つられて奏も、周囲を気にするようなヒソヒソ声になってしまう。それに応えるように、ミャア、と鳴いたミルクパンの声の方が、よほど大きく聞こえたほどに。
 「ま…待ってたんです。ちょっと、相談したいことがあって…」
 「相談?」
 言われてみれば、街灯の下で辛うじてわかる程度だが、優也の顔は、普段より憔悴しているように見える。まさに「げっそり」という感じだ。よほど根の深い悩みごとなのだろうか?
 「あの…ここじゃまずいんで、一宮さんの部屋、行っていいですか」
 「? いいけど」
 「じゃ、す、すぐ行きますっ」
 「えっ」
 言うが早いか、優也は窓から顔を引っ込め、ピシャリと窓を閉めた。
 ―――何なんだ、一体。
 よくわからないが―――なんとなく、嫌な予感がした。
 そして、その予感は、数分後、現実のものとなった。

 

 「―――……」
 「…ど…どう、思いますか…?」
 どう、思うか、って―――。
 優也の話を聞き終えた奏は、頭を抱えたくなるような勢いで大きなため息をつき、ぐったりと背後の壁に寄りかかった。
 要約すると、つまり。
 バイト先でみかんを貰った優也は、そのお裾分けに憧れのOLの部屋を訪ねた。そうしたら彼女は酷く落ち込み、傷ついており(この辺、由香理を気遣っているのか、優也は曖昧にしか話さなかった)、必死に慰めているうちに―――…。
 ―――要するに、「年上のお姉さんに食われちゃった」訳だ、優也は。
 チラリと目を上げると、困り果て、少々泣きまで入っている優也の顔があった。なんでも今日は、1日中何も手がつかず、生まれて初めて大学もサボってしまったという。あーあ、ともう一度ため息をついて、奏はイライラと頭を掻き毟った。
 「なぁんで、オレに相談するかなぁ? マリリンさんの方が適任だろ。あの人、恋愛のプロなんだから」
 「…マリリンさんは、編集さんに拉致されて、ホテルで小説書いてます」
 「ああ、そうだっけ…」
 「一宮さん、経験豊富でしょう? こういうケース、経験ないですか?」
 「ないことは、ないけど―――優也みたいに“憧れてた隣のお姉さん”ていう経験は、皆無だからなぁ」
 そう、そこが大問題。
 優也は、その程度は傍目にはよくわからないものの、とりあえず由香理に惚れていた。恋愛対象として意識していた女に、遊ばれてしまったのである。街で知り合った年上のお姉さんに誘われて遊ばれちゃいました、というのとは違うのだ。いい思いができて良かったね、と割り切れるものではないだろう。
 「ぼ…僕、どうすればいいんでしょうか…」
 「あああああ、そんな泣きそうな顔するなよっ!」
 困った。どうすればいいかなんて、奏にもわからない。
 というか、最近の奏は、少々自信喪失気味だ。明日美との件があって以来、自分の経験値など、所詮は「遊びの経験値」であって「恋愛の経験値」ではないのだ、と思うようになったのだから。こういう業界に生きてきて、それなりの女性経験もあるので、ある程度は女性心理をわかっているつもりだったが、明日美のことを理解してやれなかったのだから、それすらも怪しい。
 ―――あの“メイク美人”の心理なんて、余計わかんねーよっ。
 よほど自棄になることでもあったのだろう、位しか考えつかない。ううう、と唸った奏は、とりあえず缶ビールで一度喉を潤し、それから改めて優也に向き直った。
 「―――で、念のため訊いとくけど……優也は、友永さんがお前のこと誘った理由、どう解釈してる?」
 訊ねられ、一瞬パチパチと目を瞬いた優也は、少し顔を赤らめた。
 「その……心弱りしてるところに、たまたま僕がいたから……つい出来心で、って感じ。…かな」
 「…ってことは、友永嬢がお前に惚れてるとか、これで晴れてカップルになれた、とか、そういう勘違いはしてない、と思っていいんだな?」
 「そ、そんなこと…! 思いつきもしないですよ!」
 とんでもない、という風に、優也はぶんぶん首を振った。遊びも恋愛も経験値ゼロの優也だが、遊びや欲・憂さ晴らしなどのために恋人以外とそういう真似をするのは何も男の専売特許じゃない、ということ位は、ちゃんと理解しているらしい。下手に女性を理想化したり、好意的態度を都合よく解釈してしまう勘違い君とは違う、とわかり、奏はとりあえずホッと一安心した。
 「じゃあ、何をどう、優也は悩んでるんだよ」
 「…友永さんは、僕に、どうして欲しいのかな、と思って」
 ぼそぼそとそう言うと、優也はちょっと俯いた。
 「友永さんには多分、僕の気持ちはバレてたと思うんです。好きなの知ってたから、ああいう展開になっちゃったんだろうなぁ…と。でも―――僕の方も、わかってるんです。友永さんにとって僕は、完全に“対象外”なのは。勿論、元々そう思ってたけど……こんなことになっちゃって、なのに友永さんから出てきた言葉が“ごめん”だってことは―――僕は、振られた、ってこと、ですよね」
 「……」
 ―――なんか、優也の方が、女をよく理解してるんじゃないか? これ。
 パニック状態だった割に、随分と冷静な分析ができている優也に、少々驚く。大学をサボってまで悩んだのも無駄じゃなかった、ということか。
 「でも僕、振られたからって、友永さんに憧れるの、すぐにやめられるとは、思えなくて」
 「…まあ、そりゃ、そうだよなぁ」
 オレだって振られた相手、いまだに好きだし―――とは、さすがに口には出さなかった。いずれチャンスがある、とか、諦めきれない、とかいうんじゃなく……“好き”という気持ちは、振られた瞬間消滅するものじゃない、ということだ。
 「…そういうのって、友永さんから見て、どうなんでしょう?」
 俯いていた優也が、ちょっとだけ目を上げ、僅かに眉を寄せる。
 「振った相手が、その後も、自分の顔見ると顔を赤らめたり、つい後姿を追っちゃったりするのって、鬱陶しくないかなぁ…と思って。下手にああいうことがあったから余計、もう1度って期待してるとか、気があるって勘違いしてるとか、そういう風に友永さんに思われるのは嫌だし……かと言って、僕、嘘つくの下手だから、無表情で挨拶するなんて無理だし。だから、期待してないこと、ちゃんと説明した方がいいのかなぁ、とか……そんなことすると逆効果の可能性もあるなぁ、とか―――いっそ、引っ越した方が、友永さんの負担にはならないのかな、とか…」
 「…なるほど…なぁー…」
 参ったな―――苦笑した奏は、相槌を打ちつつ、はぁ、と大きく息を吐いた。

 嫌になるほど、優也の苦悩が、よくわかる。
 事態はまるっきり違うし、優也のような純朴な人間と自分を比較するのも無茶な話だが―――優也の抱える悩みは、ついこの前まで、奏自身を苛んでいた悩みと、共通する部分があるから。
 瑞樹や蕾夏に、どう接すればいいか、わからない。もう何とも思っていないフリをすべきなんじゃないか、やはり離れた所に暮らした方がいいんじゃないか―――そんな奏自身の苦悩と、優也の苦悩は、根本的には同じだ。好きな人に、自分のせいで嫌な思いをさせたくない―――苦しめたくない。そういう思いだ。
 そしてまた、由香理の今の気持ちも、奏にはなんとなくわかる。
 由香理は多分、優也に負い目を感じているだろう。殊勝なタイプではないが、優也に「ごめん」と言ったことからも、自分に気のある年下の少年を弄んでも良心が痛まないタイプではないことがわかる。
 そして、奏もまた、明日美を利用してしまった負い目がある。明日美と会っていた頃の自分の罪悪感は、おそらく、由香理の今の心境とどこか重なる部分がある気がする。

 「…オレは、女じゃないから、友永嬢の気持ちはわかんないけどさ、」
 そう前置きした上で、奏は、ある程度の自信を持って、言った。
 「オレが振った側の立場なら、振った相手がいきなりよそよそしくなったり引越したりしたら、かえってキツイかもしれない。優也の人柄知ってるから余計、よそよそしくしたところで無理してんのがミエミエだろうし、引越しなんかされた日には、そこまでするほど傷つけたのか、とか思って、色々罪悪感覚えそう」
 「…じゃあ、どうすればいいんですか…?」
 「だから、今まで通りにしとけよ」
 「今まで通り?」
 「少し離れた所から、隣に住んでるお姉さんを、ああカッコイイな、綺麗だな、って憧れてればいいじゃん。相手の領域にズカズカ上がりこむことも、あからさまに避けることもしないで、さ」
 「…いいんでしょうか、それで」
 「うん」
 敗北宣言後にも、ただの親しい客として顔を見せてくれた明日美に、奏自身が救われたように―――多分由香理も、その方がホッとするような気がする。まだ不安そうにする優也に、奏はニッ、と笑い、その頭をぽんぽん、と叩いた。
 「いいんだよ。…あっちだって、言ったんだろ? “深刻に考えるな”って。だから、深刻に考えないで、今まで通りの優也でいろよ」
 「……」
 そう言っても、まだ優也は半信半疑の顔だったが―――暫し後、何かを決意したように唇を引き結んだ優也は、生真面目にコクン、と頷いた。


***


 ミルクパンに餌をあげていた優也は、コツコツ、というヒールの音を耳にして、ハッとして立ち上がった。
 「あ……っ、お、おはようございますっ」
 「―――…」
 優也が、ちょっと緊張した笑顔でそう挨拶すると、カシミヤコートに身を包んだ由香理の目が、驚いたように丸くなった。
 狼狽したように、由香理が瞳を揺らす。が、その表情は、迷惑そうとか、困っているとか、そういう感じではなかった。まさか挨拶してくるとは思わなかった人間から、思いがけず挨拶された―――そんな、純粋な「驚き」だけを感じる。
 「…お…おはよ。何してるの、こんなとこで」
 「ミルクパンに、朝ごはんやってるんです」
 「ふぅん…」
 相槌を打ちつつ、由香理は、優也の背後のミルクパンとキャットフードをチラリと見た。
 「ちょっと見ない間に、肥満じゃなくなったのね」
 「あ…、ハイ」
 誘拐事件で思い切り太ってしまったミルクパンだが、優也とマリリンの努力により、ようやくこの年齢の標準的な体重に戻ったのだ。優也もミルクパンを振り返り、顔をほころばせた。
 「今日からやっと、ダイエット用じゃない、普通のキャットフード、あげられるようになったんです」
 「…そう」
 興味なさそうに、短くそう言うと、由香理はくるりと踵を返し、足早にアパートを出て行った。その背中に、優也は声に出さず「行ってらっしゃい」と呟いた。
 猫嫌いの由香理だから、あまり猫の傍に長居したくなかったのかもしれないが―――…。
 ―――僕と顔を合わせたくなかったのかも…しれないな。
 その可能性が頭を過ぎり―――さすがに、落ち込んだ。

***

 大学のキャンパスは、1日休んだ位では、別に何も変わったことはなかった。
 昨日出る筈だった講義の教授に、昨日の講義で配布されたプリントなどを貰う。次の講義まで、まだ時間があった。優也はなんとなく、ぶらぶらとキャンパスを散歩することにした。

 実は優也は、初体験をしたら、世界がガラリと変わってしまうんじゃないか、とずっと思っていた。
 優也の高校は、勉強第一の進学校だったが、それでも今時の高校生らしく、女の子と付き合っているような連中はそれなりの数いた。そういう奴らは、男だけで集まると、結構下世話な暴露話をしていた。そう、いわゆる体験談を。
 『メディアから得た知識のセックスなんて、実際に体験したら、馬鹿馬鹿しくなるよ。二次元で妄想してるのなんて、甘い甘い。本物の女の子知っちゃったら、AVなんて嘘っぽくて興奮できないって』
 『やっぱり、大人になった気分だね。これで一人前の男だな、っていうか』
 ―――でも、大して変わってないよなぁ…。
 何が面白いのか、涙が出るほど笑い転げながら優也とすれ違った女子学生2名を目で軽く追い、ちょっと首を捻る。
 1日経ったら、パニックも収まり、あの時真っ白に飛んでいた記憶もほぼ戻ったのだが―――それは勿論、凄い体験で、思い出すと心臓がドキドキしてくるのだが―――聞きかじったような変化は、自分には起きていない気がする。周りの学生は、相変わらず、同じ歳でも大人びて余裕あり気に見えるし、なんでも知ってそうに見える。飲み会やカラオケに誘われるシーンを想像してみても、やっぱり真っ先に思い浮かぶ返答は「僕は、遠慮しときます」だ。
 ―――当たり前だよなぁ…。ああいうこと1回したからって、それでいきなり成長するなんて、ある訳ないんだよな。冷静に考えれば。
 じゃあ、なんで彼らは、あんなに自慢していたんだろう?
 それとも、自分には起きなかったが、他の連中には起きていたんだろうか。一夜にして少年が大人に変貌するような、劇的変化が。

 「えーっ、K大とコンパ!? ずるいー、抜け駆け!」
 甲高い声が聞こえて、優也は思わず振り返った。
 女の子が2人、ベンチに腰掛けており、その周りにも2人ほど女の子がいた。内緒話など絶対無理そうな甲高い声は、ベンチに座っている片方の声らしい。
 「いいなぁ。なんで教えてくれなかったのよー」
 「だって、急に誘われたんだもん」
 「で? どうだったのよ。いい人いた?」
 「それが、ねぇ……1人、携帯のアドレス交換しちゃった」
 「嘘ーっ! 酷いよー、また私、先越されちゃった訳!?」
 「うわー、ついにカップル2組目誕生かぁ…。ああ、焦るなぁ」
 ―――なんで焦るんだろうなぁ…。
 彼氏がいないと、非国民と詰られ石をぶつけられる訳でも、大学を辞めさせる訳でもないんだし。ああやって友達同士でワイワイやってる姿は、凄く楽しそうだ。彼氏がいなくたって、毎日は、優也の生活よりずっと楽しいんじゃなかろうか。
 そんなことをぼんやり思いながら彼女らを眺めていた優也は―――ふと、あの夜、まるで寝物語のように由香理が口にした言葉を思い出した。

 『…優也君、可哀想だわ』
 『え…、な、なんでですか?』
 『私みたいなのが、最初の相手だなんて。…優也君とつりあう年齢で、もっと可愛い、優也君のことが好きで、優也君もその子のことが大好きな、そんな女の子の方が良かったのに』
 『……そんなこと……』
 『…私ね。初体験って、高校生の時なの。相手は、好きでもなんでもない、たまたまその時、私に興味持って声かけてきてた、隣のクラスの男の子。でも、私の方から誘って、そうなったの。…なんでだと思う?』
 『……』
 『負けたくなかったの。周りのクラスメイトの、女の子に。みんな次々、彼氏作って、初体験済ませて―――今考えると、そんなの極一部だったし、メダカ位の体験をクジラ位に言ってたかもしれないんだけどね。でも、そういうの聞いちゃって…焦ったの。モテないって思われるのも嫌だし、興味もあった。みんなが知ってることを、私だけ知らないのが悔しかった。なんだか―――自分だけ置いていかれるようで、焦っちゃったのよ』
 『……』
 『だから、どうでもいい男に、あっさり“初めて”をあげちゃったの。…馬鹿でしょ。こんな馬鹿な女が最初だなんて、優也君、気の毒だわ』
 『…そんなこと、ないです』

 ―――あの子達も、そうなのかな。
 キラキラ眩しく見える女の子たち。自信あり気に、自分の知らないことを一杯知っているように見える、周りの男の子たち。我先にと恋を追いかけ、掴み取り、青春時代を満喫してます、という顔をしている彼らも、自分と誰かを比べて焦ったり、負けまいと対抗意識を燃やしたりしてるんだろうか。
 遅れをとってしまわないよう、苦手なカラオケに楽しそうに参加し、飲めないお酒を無理して飲み、交換したメールアドレスの数を友達と自慢しあい―――上手くいかない、と言って、自己嫌悪に陥ってる。そんな子も、いるんだろうか。

 ただ輝いて見えていた星が、その裏に捻じ曲がった本音を隠している可能性に、優也は、初めて気づいた。
 そして、羨ましいと感じていた彼らが、もし、そんな風に自らを繕っているのなら―――それは、少し悲しいことかもしれないな、と思った。

***

 帰宅すると、ドアに、小さな紙袋がぶら下がっていた。
 「……」
 可愛らしい、小花模様の紙袋―――こんなものを残す人など、優也には心当たりがない。思わず、キョロキョロと辺りを見回してしまう。
 不審に思いつつも、そっとドアノブから紙袋を取り上げる。中を覗くと、なんだか見覚えのあるものが入っていた。
 それは、今朝からミルクパンにあげるようになった、キャットフードだった。
 ―――もしかして…。
 ドキン、と心臓が鳴る。優也は慌てて、キャットフードを取り出し、紙袋の中を(あらた)めた。
 すると、2つ折にした便箋が、1枚、入っていた。

 『昨日はお詫びしか言えなかったけれど、本当にありがとう。感謝してます。   友永』

 ―――友永さん…。
 丸みを帯びた文字を見下ろした優也は、嬉しさに、顔をほころばせた。

 由香理に感謝された分、なんだか、少しだけ大人になれた気がした。
 そして、憧れの人から「ありがとう」と言われるのなら―――自分は、今の自分のままでもいいのかもしれない、と、少しだけ……ほんの少しだけ、思った。


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