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『YANAGI "G.V.B." 発表記念パーティー』
壇上に掲げられた大看板を見上げ、奏は、不愉快そうに眉を顰めた。
「…そんな顔するなら、来なけりゃいいじゃないの。あたしは1人で構わなかったんだから」
チャコールグレーのツイードスーツに身を包んだ佐倉が、呆れたように奏を流し見る。が、奏は、不快指数90パーセントの顔のまま、
「いーや。こういう顔するような場所だからこそ、同行させてもらいます」
ときっぱり言い放った。
“YANAGI”が、今年の春から売り出す新ブランド“G.V.B.”。
プレスやバイヤー向けのお披露目となるファッションショーは、既に1月に終わっている。だから今日のパーティーは、いわば、財界向けのパーティーなのだそうだ。どういう目的でそうしたパーティーが開かれるのか、奏にはさっぱりわからないが、新ブランド立ち上げにも色々なお披露目が必要なのだろう、と解釈しておいた。
ただ―――腑に落ちないのは、そのパーティーに、何故か、佐倉が招待されたこと。
『うちの事務所は、柳さんが個人的に金出してるだけで、別に“YANAGI”の出先機関でも子会社でもないだろ? ショーにも誰も出てないのに、なんでわざわざ招待状送ってまで呼ぶんだよ』
と、奏は訝ったのだが、
『まあ、いいじゃないの。タダで飲み食いさせてくれるって言ってるんだから』
と、佐倉は呑気な態度だ。
『雑誌社の人なんかも来るだろうから、あたしにとってもいいビジネスの場よ。ありがたく行かせてもらうわ』
佐倉の言うことは、もっともだ。だが、奏には奏なりに、この招待状の意味を訝る理由があった。
『…じゃ、オレもついて行こうかな。パーティーにエスコートはつきもんだろ?』
そんな訳で、奏は今、ステージ以外では滅多に着ることのないスーツに袖を通し、好きでもないパーティーに顔を出している。
「まぁったく……そんなにあたしって頼りないのかしらねぇ」
信用ないのね、と不満そうな顔をして、佐倉がカクテルグラスを口に運ぶ。
「今日って、バレンタインデーじゃないの。こんなのに同行するより、女の子とデートした方がいいんじゃないの?」
「…嫌味っすか、それ。第一、オレは楽しむためじゃなく、柳に睨み効かすために来てるんだし」
「必要ないわよ、一宮君の威嚇なんて。何度も言ってるでしょ。確かに出資はしてもらってるけど、立場はあたしの方が強い、って」
「…それもどうなんだか…。もしそうなら、柳さんの出資金を引っ込めさせる位、もうとっくにできてる筈だろ?」
自らもカクテルグラスを手に取り、奏はそう言って佐倉を軽く睨んだ。
実際―――少数精鋭で頑張っているのが功を奏し、佐倉の事務所はそこそこ良い業績を収めている。少々厳しくはなるだろうが、柳に出資金をつき返す位のことは、無理なことじゃない。だから、佐倉の柳に対するアレルギーに近い嫌悪感を思えば、柳がゴネようが何しようが、金銭的に可能になりさえすれば、さっさと資金を引き上げさせるのが当たり前なのだ。
ところが佐倉は、たった1回、柳に「もう自己資金で回っていきますから」と打診しただけで、何やかやと理由をつけて引き上げを渋る柳を、それ以上追及しなかった。
「ビジネスディナーの前になると、神経性胃炎で胃薬飲まないとワイン1滴飲めなくなる位、嫌いな相手なんだろ? そこまで嫌いなのに、最大のしがらみを断ち切らないでいるなんて、オレには理解不能だね」
「それについては、言ったでしょ? 切らないのには、それなりのメリットがあるからだ、って」
「…メリット、って、金のことかよ」
納得いかない、という顔で睨む奏に、佐倉は、意味深な笑みに口の端を綺麗につり上げた。
「さぁ? どうでしょう」
「……」
「大体あたし、いち個人としての柳は大っっっ嫌いだけど、ビジネスマンとしての柳は、そう嫌いじゃないわよ。本人は賢いつもりでいるけど、案外マヌケで、扱いやすいから。何考えてんだかわからない時は、大抵、私情が絡んでる時。ビジネスオンリーで来る時の柳は、損得勘定以上のことも以下のこともしない、おりこうさんな二代目ボンボンよ」
―――…そこまでボロクソ言えるか、普通。しかも、その柳が主催してるパーティー会場で。
幸い、巨大な会場を使っての立食パーティーの、一番目立たない隅っこだ。冷や汗が額に浮かぶのを我慢しつつ、奏は大人しくカクテルグラスを口に運んだ。
「大体、あたしが柳とどうなろうと、キミには関係ないでしょうが」
「―――そりゃそうだけど……色々あんだよ、オレにも、事情ってもんが」
「おや。どんな事情? 悪いけど、家事が苦手でうるさい音楽が大好きで失恋から何年も立ち直れない年下君は、飼い犬としては点数低いわよ?」
「違う! こっちこそ、利用できるもんなら石ころでもダイヤでも利用しまくる女に飼われる気なんてないっつーの!」
からかうような口調で笑えない冗談を言う佐倉に、奏は本気で睨みをきかせた。
男女の関係になっておいて言うセリフでもないが、正直、奏は佐倉に“女”を感じたことは、ほとんどない。佐倉はボスであり、女王様であり、頭の上がらない恩人だ。だから、佐倉が言うような嫉妬めいた事情などでは、決してない。
けれど―――奏が佐倉の心配をするのには、実は、佐倉には言っていない事情があった。
あれは、佐倉が事務所を立ち上げた一昨年の、冬。やはり今回のように、佐倉に同行する形で出席した、とあるパーティー会場。
初対面の柳は、佐倉の前でこそ、これぞ社交辞令のお手本、という感じに奏にも丁寧に挨拶していたのだが―――1時間後、佐倉と離れて1人で飲んでいた奏に、こっそり声をかけてきたのだ。
『随分と佐倉さんと親しいようですね。確か10月でしたか……彼女のマンションに2人で入っていくところを、偶然見てしまいましてね。まあ、立ち入ったことを訊くつもりはありませんが、一言忠告させていただくなら―――彼女、年下は好みじゃありませんよ』
確かに10月、奏は佐倉のマンションに行ったことがある。日本に来て間もない頃で、まだ咲夜とも知り合っていなかった。瑞樹や蕾夏のことで精神的に参ってしまい、つい、佐倉に甘えてしまったのだ。
でも、佐倉のマンションは、オフィス街にある訳でも繁華街にある訳でもない。柳のような男が、夜、「偶然」通りかかるような場所ではない。少なくとも「偶然マンション前にいました」は嘘だ。恐らくは、奏が佐倉と飲んでいるところに偶然居合わせてしまい、その後どうするのかを尾行して確認した、もしくは部下に尾行させた―――といった感じだろう。
知人が男性と飲んでいれば、誰だろう、どういう関係だろう、とゴシップ記事的興味を抱くのは、別にそう珍しいことではないと思う。でも、尾行してまで確認するのは……さすがに、想像すると、寒気がする。
勿論、証拠はない。ハッタリで言っただけで、そんな場面は目撃すらしていない可能性だってある。でも、あの初対面の時のセリフのせいで、奏は柳という男の裏に、佐倉に対する異様な執着心を感じるようになったのだ。
このことを、佐倉にも話してしまおうか、と何度か思ったが―――仕事の関係者なだけに、証拠もないいい加減な話を吹聴する訳にもいかない。結局、奏にできることと言ったら、こうして目的不明なお誘いには極力同席すること、位のものだ。
―――自信に見合うだけ優秀な人ではあるけど…こと、色恋沙汰には不器用で鈍感そうだからなぁ、この人…。
涼しい顔でカクテルグラスを傾ける佐倉を見下ろし、小さくため息をつく。
と、その時―――パーティー会場に、それまでとは異質なBGMが流れた。
それは、ピアノの音だった。
聴き覚えのある旋律のような気がして、ハッ、と顔を上げる。慌てて会場前方に目をやった奏は、その時になって初めて、グランドピアノが会場に置かれていたことに気づいた。そして、そのピアノを弾いている人物の姿を確認して―――思わず声を上げてしまった。
「あ……」
―――…麻生さん…!?
それは、間違いなく、拓海だった。
スーツ姿の中、1人、革のジャケットにジーンズという場違いにラフな服装―――その格好は、昨年の春先、ライブで一度だけ会った時のファッションと同系統だ。そう……咲夜が隣に住んでいるので、なんだかよく知っているように錯覚していたが、生の麻生拓海を見るのは、これがまだ2度目なのだ。
なんだってあいつが、こんなところに―――と、一瞬混乱した奏だったが、以前、咲夜に聞いた話を思い出した。
―――あ…、そういやぁ麻生さん、“YANAGI”のテレビCMに、楽曲提供することになった、って言ってたっけ。
書き下ろしじゃなく、既存のオリジナル曲を提供するらしい、とは聞いていたが、多分それがこの曲なのだろう。アルバム名は忘れたが、咲夜から借りた拓海のCDの中に、確かにこの曲が収録されていた覚えがある。
「…久々だわ。麻生さんの生演奏聴くの」
ふいに、佐倉がポツリと呟いた。
「ふーん。いつ以来?」
「いつかしら。気まぐれ起こして、ライブ聴きに行ったのが最後だから、かれこれ5年は経つかなぁ…。この曲、その時も聴いた覚えがあるわ。ふぅん…この曲を“G.V.B.”のCM曲として提供した訳か…」
佐倉の言葉で、拓海がこのパーティーに呼ばれていた事情が、やっと飲み込めた。依頼されたCMの仕事は、つまりは、この新ブランド“G.V.B”のCMだった訳だ。
―――バレンタインデーに、“YANAGI”のためにピアノ弾き、…か。
日替わりランチな拓海のバレンタインデーとしては、あまりにも地味な過ごし方だが……特定の女がいないのだから、こんなものなのかもしれない。逆に、1人の女のためだけにこの日を使ったりしたら、その他大勢からクレームの嵐だろう。
むしろ、拓海のような生き方をしている男には、世の恋人同士のイベント日には、仕事が入ってくれた方がありがたいのかもしれないな、と、奏は頭の片隅で思った。
***
「やあ、来てくれたんだね」
拓海の生演奏が終わって間もなく、パーティーの主が、佐倉に声をかけてきた。
「ええ。お招きありがとう」
そつのない笑顔で答える佐倉に、柳もそつのない笑顔を返した。が、佐倉の隣に立つ奏に視線を移した途端、その眉が、不愉快そうにピクリと動いた。
「でも、こちらの看板モデルは、呼んだ覚えがないな」
「…番犬付きで、残念でした」
憮然とした奏の切り返しに、柳は余計嫌そうな顔をし、佐倉は思わず吹き出した。
「アハハ…気をつけた方がいいわよ、柳さん。彼、あなたを相当鬼畜な人間と誤解してるみたいだから。ま、ともあれ―――“G.V.B.”立ち上げ、おめでとう」
「…ありがとう」
気を取り直したように微笑んだ柳は、近くに居たウェイターからシャンパングラスを受け取り、軽く掲げて見せた。ちょうど新たなグラスを手にしたばかりだった佐倉と奏も、乾杯に応じ、それぞれのグラスを口に運んだ。
「ところで―――“YANAGI”のお偉いさんばっかりで、“G.V.B.”のメインデザイナーや現場の人間が、全然いないのね、今日のパーティーは」
「今日のパーティーは、いわば業界の通過儀礼のようなものだからね」
ぐるりと会場を見回す佐倉に、柳はそう言って、ふっと笑った。
「現場サイドの人間より、経営者同士の顔合わせの場だよ。君としちゃ拍子抜けだろうけど…まあ、思う存分名刺交換して、好きなだけ飲み食いしていってくれればいい」
―――拍子抜け?
何故、現場サイドの人間がいないと拍子抜けなのか、その点がいまいち奏には意味不明だったが、佐倉は拍子抜けした顔も意味を理解しかねた顔もせず、淡々とした顔で、
「そう…。じゃ、そうさせてもらうわ」
と返した。
「それと―――ああ、麻生さん!」
何事かを言いかけた柳が、突如、話を中断して、佐倉の背後に向かって手を挙げた。
ピアノを弾いたら、もう用事は終わりました、といった感じで、今にも会場を出て行きそうな様子だった拓海が、その声に反応して、立ち止まる。こちらを向いた顔は、露骨に「なんだよ」と言った感じで、あまり機嫌が良さそうではなかった。が、その目が、柳から離れて佐倉や奏に向いた途端―――ちょっと、丸くなった。
どうやら、帰るのはやめたらしい。隣にいたマネージャーに何やら耳打ちした拓海は、のんびりした足取りで、3人の方へと歩いて来た。
「すみませんでしたね。天下の麻生拓海さんに、こんなパーティーでの生演奏をお願いしてしまって」
歩み寄る拓海に、柳はそう言って、新たにもらったシャンパングラスを拓海の目の前に差し出した。それを受け取った拓海は、口先だけの柳のへりくだりを嘲笑うように、ニヤリと余裕の笑みを返した。
「いえいえ。こっちはプロなんで、ギャラさえもらえりゃ、小学生の誕生日パーティーでも弾きますよ」
「……」
―――確かに、似てるかもしれない…。
ミルクパンを捨てようとしたあの少年に「親にこれ話したら、あんたが親に捨てられるかもね」とニッコリ笑いながら言っていた咲夜と、満面の笑みで天下の“YANAGI”のパーティーを小学生の誕生日パーティーと同列扱いした拓海は、確かに似通ったものを持っている気がする。私達って似てるんだよね、という先日の咲夜の言葉に、奏はなんとなく納得してしまった。
「そんなことより―――久しぶり。佐倉ちゃんが来てるとは知らなかった」
微妙に頬を引きつらせる柳を完全無視で、拓海は佐倉の方に目を向けて、そう言った。佐倉も、きちんと拓海の方に向き直り、にこやかに挨拶した。
「お久しぶり。こっちも、麻生さんの生演奏があるなんて聞いてなかったから、ちょっと驚いたわよ」
「そっか……結構経つよなぁ、最後にライブ来てもらった時から」
「久々に聴いて、懐かしかったわ」
本当に過去を懐かしむように、佐倉が僅かに、目を細める。それに応えるように、拓海も無言のまま微かに微笑を返し、今度は奏の方に目を向けた。
「一宮君も、久しぶり」
「…どうも。ご無沙汰してます」
なんだか、あんまり久しぶりな気がしないのだが―――それだけ咲夜と話題にしてるってことだな、と少々のバツの悪さを感じつつ、奏は軽く頭を下げた。
「久々のご対面同士のようなので、積もる話もあるでしょう。僕は失礼するので、ごゆっくり」
“久しぶり”を繰り返す3人の様子に飽きたのか、柳はいささか唐突にそう言い、テーブルを離れた。が、僅か数メートル先の客にまた挨拶をしているので、飽きたというより、挨拶回りで時間がない、ということなのかもしれない。
「…で、なんで財界人向けパーティーに、君らが招待されてるんだ?」
挨拶回りをする柳をなんとなく目で追っていると、拓海が改めてそう訊ねた。
奏だって、それは疑問だ。オレわかんねぇ、という目で佐倉の方をチラリと見ると、佐倉は肩を竦めてみせた。
「さぁ? パーティーに華を添えたかったんじゃないの」
「ああ…確かに、地味だねぇ」
スーツ族の目立つ会場をぐるりと見回し、拓海が苦笑する。女性もそれなりの人数いるが、やはり元モデルだけあって、シンプルなスーツ姿であっても、佐倉は場違いなほどに華やかで目立っていた。
「麻生さんこそ、たかだか1曲弾くために、よく顔出したわね。パーティー嫌いで有名なのに」
「ハハハ、ま、柳はヤなヤローだけど、金払いはいいからね。仕事さえ終われば長居は無用だよ。さっさと退散させてもらおう―――と、思ったんだけど、」
そこで言葉を切った拓海の目が、ふいに、奏に向けられる。
「ちょうど一宮君に用事があったんで、少しだけ居残ることにしたんだ」
「オレに?」
意外な話に、思わず目を丸くする。佐倉も少し驚いた顔をしたが、
「そうなの。じゃああたし、ちょっと挨拶してきたい人がいるから、暫く席外させてもらっていいかしら」
「え、誰?」
「ハルミがお世話になってる雑誌の編集長さんが来てるのよ。ホラ」
佐倉がそっと指差す方を見ると、なるほど確かに、事務所の後輩モデルが毎月出ているファッション雑誌の編集長が、恰幅の良い男性と談笑していた。奏自身はそこの仕事をしたことはないが、結構有名人らしく、テレビや雑誌記事にちょくちょく顔を出している人物なので、ああ、あの人か、とすぐわかった。
「じゃ、麻生さん、またね」
ニコリ、と微笑を向ける佐倉に、拓海も微笑を返す。佐倉は、グラスを近くのテーブルに置くと、颯爽とした足取りで去って行った。
「…うーん…相変わらず、隙がないねぇ、佐倉ちゃんは」
ツカツカと歩き去る佐倉の後姿を眺めつつ、拓海がそう言って、シャンパングラスに口をつけた。奏も、つられるようにその後姿を眺め、うーん、と唸った。確かに、奏があれこれ心配するまでもなく、佐倉はいつだって隙がない。酔った時ですら、頭のどこかが常に冷静で、いつも相手より上の位置をキープし続けている。
「…やっぱ、あの位気ぃ張ってないと、なめられることも多いんじゃないかな」
「優秀なビジネスマンと見るより、“いい女”と見るスケベ親父の方が、まだまだ圧倒的多数だろうからなぁ」
奏の言いたいことが理解できたらしく、拓海もそう言って、うんうん、と頷いた。
「それで―――オレに、用事って?」
「ああ、うん。本当は咲夜に橋渡ししてもらおうと思ってたんだけどね。偶然君に会えたんで、直接頼もうと思って。と言っても、君に頼みたいことも、やっぱり“橋渡し”なんだけど」
「? はぁ…」
いまいちよくわからず、奏が眉をひそめると、拓海は残りのシャンパンをくいっ、と一気にあおり、グラスを置いた。
「ほら、去年君がやった、音楽プレーヤーのポスター。咲夜が散々自慢してたやつ。あれ撮ったカメラマンって、前に俺のライブに君と来てくれた、あの人だろう?」
「ああ…、はい」
音楽プレーヤー、といったら、あの咲夜が『Amazing Grace』を歌ってくれたポスターのことだろう。それならば、撮影したのは確かに、奏と一緒にライブに行った、瑞樹だ。
「あの人に、5月に出すアルバムのジャケット、頼みたいんだ。紹介してもらえないかな」
「えっ」
「咲夜から聞いてると思うけど、レーベルを移籍して、今までジャケットやライナーノーツの写真を撮ってくれてたカメラマンと、縁が切れちゃってね。何人か紹介されたけど、どれもピンと来なかったんだ。あのポスターは、陰影が俺好みだったんで、ひとまず話だけでもしてみようかと…」
―――成田が、麻生さんのアルバムのジャケットを、か。
なんとも、不思議な感じだ。が、確か瑞樹は、まだ音楽CDのジャケットという仕事は未経験だったと思う。そして、主にポスター撮影を手がけている瑞樹にとって、音楽CDのジャケットは、話を聞けば興味を持ちそうな仕事だ。
「わかりました。成田に、ご連絡するよう伝えます」
「ありがとう。これ、連絡先だから」
拓海は、ほっとしたように笑って、1枚の名刺を奏に渡した。と言っても、拓海本人の名刺ではなく、どうやらマネージャー氏の名刺のようだった。
「直接俺と話したいなら、咲夜通して連絡くれればいい。特定の番号以外、取らないようにしてるから」
「へぇ…慎重だなぁ」
物事にあまりこだわらないタイプに見えたのに―――意外なところで慎重派らしい。まあ、それなりに有名人なのだから、プライバシーに注意するのは当然なのかもしれないが。
「でも、一宮君が咲夜と仲直りしてくれたみたいで、良かった」
奏が名刺をポケットに入れていると、唐突に、拓海がそう呟いた。
「珍しい位にへこんでたからね、あいつ。ああ見えて、本気で落ち込むと、見た目以上に参っちまうタイプだから」
「…は、あ」
「ま、喧嘩できる位仲がいい、ってことだろうから、これからもよろしく頼むよ」
拓海はそう言うと、ポン、と奏の肩を叩き、奏の前から立ち去った。やはり、パーティーの類は苦手なのだろう。話しかけたそうな目をしている周囲を完全に無視し、待っていたマネージャー氏と共に、あっという間に会場を後にしてしまった。
―――珍しい位にへこんでた、って……そりゃ、藤堂が原因なんじゃねぇの?
拓海の背中を見送りつつ、ちょっと、首を傾げる。拓海がいつ頃の話をしているのかは不明だが、咲夜をより動揺させたのは、自分との喧嘩より一成との間にあった恋愛問題のように思う。勿論、咲夜が一成との間にあったことなど、拓海に話すとは思えないが……それにしても、何故拓海は、咲夜を酷く落ち込ませたのが、ほかの誰でもなく奏だと確信したのだろう?
似たもの同士だから、わかるのだろうか? 咲夜のことが。
だとしたら―――この世の誰より咲夜を悩ませているのは、ほかでもない拓海自身だと、何故拓海は気づけないのだろう。気づけば、少しは……たとえ恋愛対象でなくとも、咲夜が傷つかないよう、女の話を一切咲夜の耳には入れない気配り位はできる筈なのに。
気持ちが通じ合っているのかいないのか―――微妙な間柄な拓海と咲夜の関係を思い、奏は、不愉快ともじれったいともつかない、曖昧な苛立ちを覚えた。
***
―――おっかしいなー。どこ行ったんだろ。
パーティー会場をぐるりと回った奏は、困り果てたようにため息をついた。
佐倉があちこちに挨拶に行って、はや20分近く―――奏自身も、とあるファッション雑誌の関係者に声をかけられ、話しているうちに、佐倉の姿を見失ってしまったのだ。
会場では、僅かに照明が落とされ、先日のファッションショーの様子がスクリーンに映し出されたりしている。こんなイベントがまだ残っているのに、しかも同行している奏に断りもいれずに帰ったとも思えない。
廊下にでも出たかな―――そう考え、奏は会場の出入り口のドアを少しだけ押し開けた。
途端。
「そういうつもりで招待状を送ってきたとばっかり思ってたのに」
耳慣れた声が、僅かながら聞こえた。それは、押し殺してはいるものの、間違いなく佐倉の声だった。
ドアのすぐ横で、誰かと小声で話しているらしい。慌てて奏は、開こうとしていたドアを、数センチの隙間でピタリと止めた。
「期待させて騙したと思っているのなら、君の誤解だ」
佐倉の声に答えた声は、あまり聞き慣れない声だった。が、招待状のことを持ち出していることからも、恐らくは柳だろう。
「じゃあ、どういうこと? あたしは“G.V.B.”のパーティーだからこそ来たのよ」
「勿論、僕も“G.V.B.”のパーティーだからこそ、君を招待したんだ。ただ―――ゆうべ、うっかり、口を滑らせてね。忙しくて、今日のパーティーの趣向も招待客も知らなかった彼女に、説明してしまったんだよ」
「……」
「出てこなかったのは、本人の意志だ。…君はまだ、自分の立場を理解していないようだね。君が想うほど、カナエは君を想ってはいないんだよ―――昔も、今もね」
―――“カナエ”…?
初めて、耳にする名前だ。一体、誰だろう―――それは、わからないけれど、ただ1つ、佐倉にとっては大事な名前であるらしいことは、なんとなくわかった。その証拠に、佐倉の声が、若干大きくなった。
「勝手なこと、言わないで。心弱りしていたカナエの弱みにつけこんだあなたに、カナエの気持ちをどうこう言われたくないわよ」
「…全く…なんだって君は、そうも簡単にカナエを信用するんだろうな」
「カナエよりあなたが信用できる筈もないでしょう?」
「そうかい? 少なくともビジネスの上では、君と僕は最も信頼しあってるパートナーじゃないか? カナエだって、想像すらしていないだろう―――彼女が得意満面で発表した“G.V.B.”も、君と僕なしには日の目を見ることすらなかった、なんて事実」
「……」
「知ったら、どうするだろうね、彼女。君に感謝して涙を流すか、それとも―――君の助けを借りる位なら、と、せっかくのチャンスを手放すか。どちらだろう。賭けてみるかい? 君達の友情を信じて」
「…何、考えてるの、あなた」
警戒するような佐倉の声に、柳は、答えなかった。
出て行ける雰囲気でもないし、かといって、このまま立ち聞きし続けるのも後ろめたいし―――でも、なんだか、聞かなかったことにするには、少々内容が気になるし。どうしたものか、と、ドアを押さえながら奏が逡巡していると、返答のない柳を諦めたのか、佐倉が再び口を開いた。
「…じゃあ、もう1つだけ訊くけど―――麻生さんにCM音楽を依頼したのは、どういう意味?」
“麻生さん”。
突如出てきた名前に、何故か、奏の鼓動が僅かに乱れた。
「あの人、全部承知で、この仕事を請けた訳? それとも、何も知らないの?」
「…そんなことは、信用ならない僕からじゃなく、麻生さんご自身から訊けばいいんじゃないですか? 佐倉社長」
「柳さ―――…」
佐倉が、詰め寄りかけた時。
奏が押さえていたのとは反対側のドアを、凄い勢いで歩み寄った誰かが、バーン! と開けた。
「社長!」
“YANAGI”の幹部らしき男が、廊下に飛び出す。ハッとして振り返った2人のうち、佐倉の方の目は、幹部の後ろに佇んでいる奏に気づき、僅かに丸くなった。
「ああ、こちらにいらっしゃったんですか!」
「何だ」
邪魔をされて不愉快なのか、慌てた様子の幹部を、柳は酷く眉を顰めて睨んだ。
「後藤田様が、お帰りになる前にご挨拶を、と…。会合のため途中退席されるそうですから、早くお戻り下さい」
「そうか……わかった」
大事な客だったらしく、柳の顔が一瞬にして社長の張り詰めた表情に戻る。一瞬、チラリと奏の方に目をやった柳だったが、奏にも佐倉にも何も言わず、幹部に促されるままに、パーティー会場に颯爽と戻って行った。
廊下に残された奏と佐倉の間には、変に気まずい、中途半端な空気が流れた。
―――参ったな…。
聞いてたことを、素直に言った方がいいのか。それとも聞かなかったフリをするべきなのか―――あれだけの会話からは、どちらがベストな対応なのか、判断がつかない。
「…あー、ええと、オレ、」
どうすべきか答えの出ないまま、その場の沈黙が耐えられず、奏が口を開くと。
「あーあ、疲れちゃったわ」
奏の言葉を遮るように、佐倉が、大きなため息と共に、そう愚痴った。
「こんなとこで飲んでも、お酒がまずくてしょうがないわ。目ぼしい人とは、もう挨拶し尽くしちゃったし―――帰りましょうか」
「えっ」
「どっかで、飲みなおしましょ。一宮君。久々に付き合ってよ。…ね?」
そう言うと、佐倉は、奏を流し見て口の端を上げた。
***
ビターチョコレートを冷蔵庫に収め、帰り支度をしようとジャケットを掴んだところで、玄関の方で鍵を開ける音がした。
「……」
思わず、時計を確認してしまう。当然、まだ日付が変わる前―――今日は“YANAGI”の仕事の後、音楽専門誌の編集部との付き合いがある、と聞いていた。だから、帰ってくるなら午前様とばかり思っていたのに……。
ジャケットを置いた咲夜は、怪訝そうな顔で、リビングを出て玄関に向かった。もしも、留守宅と勘違いした犯罪者だったら…という不安が一瞬頭を過ぎったが、靴を脱ぐその人の姿を確認して、それがただの杞憂であったことはすぐにわかった。
「拓海?」
驚いたように咲夜が声を上げると、靴を脱いだ拓海は、ノロノロと顔を上げ、振り返った。
「おー…、咲夜。来てたのか」
「来てたよ。言ったじゃん、暫く来れないから、14日に来て本返すついでに部屋の片付けしとくからね、って」
「ああ、そうだったなぁ…」
「…ってか、大丈夫? どう見ても酔ってんだけど」
酒豪という訳ではないが、酒に強いのか、それとも自己規制が上手くできるタイプなのか、宴席に出ても、拓海が酔っ払うことはほとんどない。だから、こんな風に酔って帰宅する拓海を見るのは、相当久しぶりだ。
「ああー…、ちょっとね。疲れてたんで、お誘いを中途半端に反故にしたら、この仕打ちだよ」
「は?」
「ホテルに1人置いていくなら、グラス3杯、一気飲みしろとさ。怖いねぇ、あの雑誌のデザイナーさん」
「…あっそ」
疲れているなら、そもそもホテルまで同行する前に、さっさと帰ればいいものを―――全く、呆れる。多少の不愉快さに胸を悪くしつつも、咲夜はオーバーな位にため息をついてやった。
「咲夜ちゃん、肩貸して」
「…はいはい。居間行く? 寝室直行?」
「あー…、もう、寝る」
「ああ、もー! 重いっての! もうちょいちゃんと歩け!」
泥の詰まった麻袋みたいな状態になった拓海に肩を貸し、半ば引きずるように、廊下を進む。アルコールが入ると、拓海は少々精神年齢が逆行するので、15歳も年下の咲夜に対して、この態度だ。惚れた弱みでつい面倒を見てしまうが、これがただの40近い野郎ならば、勝手にくたばれ、と廊下に転がしておくところだ。
やっとの思いで、寝室のドアを開け、手探りで電気を点けた咲夜は、拓海の背中をドンドン、と叩いた。
「ほら! 到着ですよ、お客さん」
「…ああー、サンキュー」
ヨロヨロとベッドに進んだ拓海は、もう限界、という感じで倒れこんだ。よほど無茶な飲み方をしたな―――飲ませた相手を恨みつつ、咲夜は、動こうとしない拓海に見切りをつけて、拓海のコートをなんとか脱がせた。
「ちょ…っ、もう! ほら、腕上げて!」
「ん。ああ、今日なぁ、“YANAGI”のパーティーで、会ったぞ」
「誰に会ったって?」
「佐倉ちゃんと、咲夜の、お隣さん」
「へえ…。エスコート役にでも抜擢されたかな」
にしても、確か“YANAGI”の新ブランドの発表記念パーティーだと聞いていたが…何故佐倉や奏が招待されたのだろう? まあ、個人的に親しいから柳が呼んだだけ、という可能性もあるが―――咲夜は、少々不思議な話に、ちょっとだけ眉をひそめた。
「ちょっと、仕事のことで一宮君に頼んだから、もし俺と連絡取りたいって言ったら、携帯教えてやってくれ」
「ん、わかった。…これ、クローゼットにしまっちゃっていい?」
「適当でいいー」
「…10万超えてるんだから、もうちょい大切に扱ってやりなよ…」
GAPで1万3千円で購入した自分のジャケットとは、ゼロの数が1コ違うのだ。咲夜は、コートをハンガーに吊るし、クローゼットの空間に吊り下げておいた。
「何かいる? 水とか、お茶とか」
「いやー、別に、いい」
「ビターチョコ、冷蔵庫入れといたけど。一応、バレンタイン仕様のやつ」
「…ああ、そっか。今日ってバレンタインかぁ…。起きてから食う」
―――気付けよ、コラ。
今の今まで忘れていたのだろうか、この男は。グラス3杯一気飲みを迫った女も、今日が何の日かを意識していたからこそ、中途半端で逃げられることに逆上したのに違いない。そう思うと、迷惑女も、ちょっと気の毒な気がする。
「…じゃ、特に用事ないなら、私、もう帰るから」
咲夜がそっけなくそう言って踵を返すと、咲夜のセーターの裾を、拓海ががしっ、と掴んだ。
「まー、そう言うな。久々に一緒に寝よう」
「っ、ええっ!?」
―――久々って、いつの話だー!!!!?
ちなみに、かれこれ10年ほど前の話である。拓海の風邪の看病をしに来た日、枕元でジャズ談義に花を咲かせているうちに、こっちも眠くなってしまい、結局一緒に寝込んでしまったのだ。当時の咲夜は、13歳と数ヶ月。拓海は“憧れの人”であり、“男”じゃなかった。
「い、いいです! ぜんっぜん眠くないしっ!」
思わず声が裏返る。24になって、拓海が“男”だと意識してる今は、この反応が正常だ。が、拓海は、そんな反応お構いなしで、咲夜をずるずるとベッドに引っ張り込んだ。
「ぎゃーっ! 帰るってーっ!」
「つれないこと、言うなって。お前、無欲すぎるぞー。タダで掃除してチョコ置いてって、それで満足なのか? いいから残って、1曲歌いなさい」
「い…意味わかんないんですけど、それ!」
「眠れない」
短く呟いた声は、微かにしか、聞こえなかった。
ベッドの上に転がった咲夜の腕を、拓海の手が、手繰り寄せる。その、縋るような手に―――咲夜は、ようやく、異変を感じ取って眉をひそめた。
「…拓海…?」
「…眠れない…」
「……」
「酒入って、フラフラなのに―――頭が、眠ってくれないんだよ」
「…なんか、あったの」
顔を上げた拓海は、疲れ果てた顔で曖昧に笑い、腕を掴んでいた手を肩まで滑らせ、咲夜を緩く抱き寄せた。
頬に、拓海の着るハイネックの胸元が、軽く当たる。髪に絡む指も、少し熱い気がした。
近い体温に、心臓が、止まりそうになる。子供の頃と同じなのに―――10年という年月が、意味をまるで変えてしまった。
「…あったかい……眠くなる……」
「……」
「…お前…全然、変わらないなぁ」
「ハ…、何、言ってんの」
「…眠い」
―――拓海…。
目を閉じた咲夜は、そっと背中に手を回し、拓海の背中を、軽く叩いた。ゆっくり、ゆっくりしたテンポで。
そして、ぽつりぽつりと、聞き覚えた子守唄を、歌った。
歌詞さえ曖昧な、その歌は―――かつて、他界した母が歌ってくれた、子守唄だった。
***
眠い目を擦りながら、なんとか身支度を済ませた奏は、絶対目を覚ましているであろう人の顔を覗き込んだ。
「…オレを相手に寝たフリは、もう通用しないと思うんだけど」
「……生意気言うようになったわね、キミも」
狸寝入りが見破られた佐倉は、ムッとしたように目を開け、気だるそうに起き上がった。それと同時に、唯一身につけたキャミソールの肩紐がスルリと落ちたのに気づき、奏は咳払いして、それを素早く直してやった。
「何、もう帰るの?」
「今日、昼からのシフトだから、始発で一旦帰って、寝なおす」
「…あっそ」
「…なあ、佐倉さん、」
こんなこと言いたくないけど、というニュアンスをこめて奏が名を呼ぶと、佐倉は手を伸ばし、それを制した。
「それは、言いっこナシ」
「……」
「酔い潰したのも家に引っ張り込んだのも、誘ったのも、あたしよ。だから、キミがそんな気まずそうな顔することないわよ」
「……」
「…悪かったわ。あたしとしたことが、ザマないわよね」
「…なんか、あったのかよ」
言いっこナシと言われつつも、やはり、言わずにはいられない。
確かに、佐倉と寝るのはこれが初めてではないが、かつての数度は、落ち込む奏を宥めるために頭を撫でる延長線上のような行為だった。が、昨日は、違う。明らかに佐倉の方が追い詰められていて、半ば自棄になって、奏を誘ったようなものだ。実際、奏はそれほど酔い潰れてはいなかった。パーティーで盗み聞きしてしまったことが気になって、佐倉を突っぱねるのを躊躇っただけで。
けれど佐倉は、薄く微笑み、首を振った。
「何も、ないわよ」
「……」
「…ちょっと、1人になりたくなかったのよ。そんな日、キミにもない?」
「…今は?」
「大丈夫よ」
髪を掻き上げた佐倉は、ベッドサイドに手を伸ばし、バージニアスリムの箱から1本、煙草を取り出した。火をつける間、無言だった佐倉は、煙を吐き出すと同時に、さっきよりははっきりとした笑みを奏に返した。
「大丈夫よ。ありがと」
―――だったら、そんな後悔してんのがアリアリな目、するなって。
いくら表面を繕っても、佐倉の目に浮かぶ自己嫌悪は、奏の目にも明らかだ。が……それを指摘するのは、まずい気がした。奏は一応笑みを作り、ダウンジャケットを羽織った。
「なら、オレ、帰るから。今度の雑誌の件は、また来週にでも」
「そうね。また仕事終わった頃に電話入れるわ。今日、先方の編集者に詳しい話聞くことにしてるから」
「了解」
仕事の話を挟んだ途端、佐倉の目が、いつもの理知的な光を取り戻した。それを見てやっと「大丈夫」という言葉を信じる気になった奏は、少しだけ安堵して、佐倉の部屋を後にできた。
***
始発で帰宅した奏は、駅に降り立つと同時に、なんだか見覚えのある光景に出くわした。
―――…あれ?
誰も居ないホームに、見慣れた人影が、1つ。
「おおーい」
手をメガホン代わりにして声をかけると、両腕を伸ばして背伸びをしていた咲夜が、驚いたように振り返った。
「あれ、奏?」
「よ、おはよ」
追いついてきた奏と並び、咲夜も歩き出す。改札を抜けながら、咲夜は奏を見上げ、くすっと笑った。
「すっごい前にも、似たようなこと、あったよね」
「ああ。オレもさっき、思った」
あれは、ちょうど1年ほど前だっただろうか―――やはり奏は、佐倉の部屋からの帰りだった。咲夜がどこに行っていたかは確認していないが、多分、拓海の部屋に泊まった帰りだったのだろう、と、今なら推測できる。
「バレンタインデーの翌朝に朝帰りって、結構意味深なんじゃない」
ニヤリ、と笑い、咲夜が茶化すように言う。微妙な内容に、奏は誤魔化すように眉根を寄せ、咲夜を睨み下ろした。
「…それ、自分で自分の首、絞めてんじゃない? お前も“バレンタインデーの翌朝に朝帰り”だろ」
「―――…ま、確かに」
気づいていなかったのか、咲夜は気まずそうにそう言い、ちょっと引きつった笑いを見せた。
多分、麻生さんのところなんだろうなぁ―――日頃、咲夜が時々拓海の家に泊まっているのを知っている奏は、ほぼ確信に近い思いで、そう思った。
もしかして、佐倉さんのところなのかな―――拓海から、奏が佐倉に同行してパーティーに来ていた、と聞いていた咲夜は、ちょっとだけ、そう思った。
でも、どちらも「じゃあそっちは?」と訊かれた時、自分が過ごした一晩の説明が、到底できそうにない気がして―――2人はあえて、昨夜のことを、一切訊ねようとはしなかった。
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