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イエローカラーの軽自動車に荷物を積み込んだ咲夜は、大きく息をついた。
今日の仕事は、少々ハードだった。会社の同僚が1名、流行も沈静化しつつあるインフルエンザによって、ついに倒れてしまったのだ。その分、残された人間は大忙し―――冬場は風邪気味なことが多い咲夜だって、あまり万全の体調ではない。いつもより2割増しな仕事に、少々バテ気味の体は、本日最後の客を回り終えた今、帰社するだけで精一杯といった感じだ。
「あー、疲れた…」
思わず言葉にして愚痴ってしまう。今日が“Jonny's Club”のある日じゃなくて良かった―――つくづくそう思いながら、運転席に乗り込もうとした咲夜だったが。
―――あれ?
ふと見かけた通行人が気にかかり、思わず、首を伸ばす。
その人物は、咲夜がもの凄くよく知る人物でありながら、なんだか異様なまでに普段と違っていた。一瞬、人違いか、とも思ったのだが、その顔はどう考えても、本人そのものだ。他人の空似とは思えない。
「おーい、奏!!」
手をメガホンのようにして咲夜が声を上げると、少し離れた所を歩いていた彼が、立ち止まって振り向いた。その顔は、確かに、奏だった。
「あ、なんだ、やっぱり奏じゃん」
ホッとしたように微笑むと、咲夜は車のドアを閉め、奏の方へ歩み寄った。
「どーしたの、その格好。グラサンじゃなく眼鏡なんて珍しいじゃん。それに今日って確か、店が臨時休業なんじゃなかった? 何してんの、こんなとこで」
「……っ」
ペラペラ喋りながら咲夜が歩み寄ると、奏は、うろたえたように1歩後退った。上品なツイードのハーフコートのせいか、初めて見る眼鏡のせいか、その様子は、奏とは思えないほどオドオドして見えた。
「奏?」
―――…だよね?
ちょっと、自信がなくなり、咲夜の顔からも笑みが消える。少し眉をひそめて咲夜が立ち止まると、弱気バージョンの奏は、信じられないようなことを言った。
「あ…あの、」
「え?」
「奏の、お知り合いですか?」
「はい!?」
素っ頓狂な声を上げた咲夜は、ここで初めて、はた、と気づいた。
まるで優也を連想させるような、ちょっと弱気な態度と、無難で優等生なファッション。でも、奏本人としか思えない顔。
メタルフレームの中、奏の隣で控え目に笑みを浮かべていた人物は……髪型は違うが、確かこんな感じではなかっただろうか。
「…もしかして、奏の、弟君?」
恐る恐る、訊ねる咲夜に―――累は、安堵したように表情を和らげた。
***
「ふーん…じゃあ、あとは結果発表だけなのか」
「もう、今から胃が痛いです…」
「家庭教師が胃が痛くてどーすんだよ。受験生本人の方がよっぽど胃が痛いだろ?」
「けど、万が一滑っちゃったら、僕の責任も少なからずあるでしょう? ああ、大丈夫かなぁ…」
奏と優也の会話に相槌を打つように、斜め下から、ゲホゲホ、という苦しそうな咳が聞こえてきた。
ミルクパンの根城である物置の前、あぐらをかいて、壊れてしまったドアの修理をしているのは、普段あまり住人との接点がない住人、奏の隣人・木戸である。
マスクをした木戸は、さっきから何度も咳をしている。“たんぜん”というのか“どてら”というのか、綿の入った和風の上着を着込んでいるが、中には更にセーターを2枚着ているらしい。見るからに「風邪ひいて休んでます」という風貌―――その通り。木戸は本日、風邪のため会社を休んでいるのだ。
「…木戸さん…悪いこと言わないから、大人しく寝てた方がいいっすよ」
奏が、もう何度目かのセリフを投げかけると、木戸は奏を仰ぎ見、人のよさそうな笑顔を返した。
「いやいや、海原さんに頼まれたのは、わたしですから。この位、へいっちゃらですよ。ハハハ」
「……」
ちなみに、もう扉の修理そのものは終わっており、現在は剥げた塗装の塗り直しをしている。マリリンは、ここまでのことは頼んでいないし、そもそも修理だって、別に木戸に頼んだつもりではないだろう。
今日の午後、出版社に行くため出かける際、派手に壊れたドアを見つけたマリリンは、休みで家にいた優也に修理を依頼した。
事態の説明のため、物置前で2人してああだこうだやってる最中に、たまたま、遅めの買い出しのために外出した木戸が通りかかった。そして、自ら「わたしがやりますんで」と名乗り出たのだ。
奏はというと、これから人と会うため、外出予定である。約束の時間より随分早いが、CDショップでも覗いてるか、と部屋を出たら―――優也と木戸が、ドアを直していた。見慣れない組み合わせに思わず足を止め、なんだかズルズルと修理の模様を傍観することになったのだが―――…。
―――海原さん、ねぇ…。
チラリ、と優也の顔を見ると、邪魔にならないようミルクパンを抱いている優也も、チラリ、と奏の方に目を向けた。2人は、木戸に気づかれないよう、少し木戸から離れた。
「…なあ。あの人、マリリンさんのこと、誤解してないか?」
「…やっぱり、思いますか。マリリンさんもそれ、心配してるみたいで…」
「え、そうなのかよ」
「はぁ…。今日も言われてるんです。“もし誤解してるようなら、さりげなく事実を伝えておいて欲しい”って…」
「…無茶な」
つまり。
以前、奏と咲夜が自分の部屋の壁に穴をあけた時から、その疑念はあったのだが―――どうやら木戸は、マリリンを正真正銘“女”であると誤解している様子なのだ。
たまにマリリンと顔を合わせると、露骨なまでに舞い上がった様子になり、近所中に聞こえるような大声で挨拶をする。その姿は、由香理に対する優也の態度に、ちょっと似ていた。中年男の純情、といったところなのだろうが……相手があのマリリンだ。本人は知らないだろうが、事実は大いなる喜劇、もしくは悲劇だ。
それにしても、「実はあの人、男ですよ」なんて事実、どうやったら「さりげなく」伝えられると言うのだろう? マリリンも無茶を言う。しかも相手は病人だ。あまりのショックに卒倒でもされたらまずい。
「…黙ってるしかないですよね」
「…ああ。やっぱり本人が伝えるしかないだろ」
「こんなもんで、どうですかねぇー」
奏と優也のヒソヒソ声に割って入るように、木戸の大きな声が飛んでくる。慌てて振り返ると、木戸が、首に巻いていたタオルで汗を拭っていた。
“ベルメゾンみそら”の名に合わせたように、明るい空色の格子―――もっと浮いた色になるかと思ったが、案外、周囲のクリーム色の壁にマッチしていた。
「い…いいんじゃ、ないですかね。な、優也」
「は、はいっ。いいと思います」
「そーですか。いやぁ、美的センスにはさっぱり自信がないんでねぇ。大丈夫ですか。そーですか。ハハハハ……ッゲホゲホゲホ」
そう言って笑う木戸の笑い声は、マスクに遮られてくぐもり、最後には乾いた咳に変わった。
「…あの、ほんと、無理しないで休んで下さい」
優也も奏と同じセリフを言うが、木戸はゲホゲホと咳き込みながら、笑顔で手を振った。
「だ、大丈夫大丈夫。日頃鍛えてるんで、見た目ほど辛くはないんですわ。ハハハ―――あれ?」
ふいに、木戸の強がった笑いが途切れた。
木戸は、奏と優也の肩越しに、アパートの入り口の方を凝視していた。何だろう、と不審に思った奏と優也も、木戸の視線を追うように、入り口の方へと目を向けた。
そこにいたのは、女の子、だった。
ツインテールというのか、栗色の髪を左右に結い分けた彼女は、10歳になったかならないか、という年齢だろうか。白いコートの裾とチェック柄のニーソックスの間に、小さな膝小僧が覗いている。かなり可愛い部類に入る顔立ちだが、表情は険しく、口は真一文字に結ばれていた。
当然ながら、単身者専用アパートであるこのアパートに、こんな住人はいない。ご近所でも見た覚えはない。初めて見る顔だ。
「……」
なんだろう、この子―――3人は、何か女の子が言ってくるのを待ちながら、じっと彼女の顔を見つめていたのだが。
「…………」
更なる無言を返してくるばかりで、彼女は一向に、何も語ろうとはしない。大きな目で3人の顔を一纏めに凝視され、中年・青年・少年の3世代の男3人は、なんだか妙な威圧感を覚えて、揃って思わず1歩後退った。
お前行けよ、と、奏の目が優也に命じる。
えっ、なんで僕が、と優也の目がビビる。が―――確かに、今いる3人の中で、最も人畜無害そうで最も警戒されずに済みそうなのは、優也である。ズレかけた眼鏡を直し、優也はぎこちない笑みを彼女に向けた。
「…え…ええと、ここに住んでる人を、訪ねてきたのかな?」
「……」
「さ、咲夜さんの知り合い? それとも友永さん? あ、海原さんかな」
「……」
その、3秒後。
女の子の目に、涙が浮かんだ。
えっ、と一気に焦る男3人を前に、女の子は、しくしくと泣き出した。突然の事態に、3人は互いの顔を見、泣かせたのは自分じゃないぞ、と、それぞれに必死に首を振った。
「ど、どーしたらいいんですかっ」
「知らねーよっ。あ、そうだ、木戸さん! 木戸さん、子供いるんでしょう? なんとかして下さい」
「そ、そんなこと言われても……け、ケーサツ! 警察呼びましょう! うん、それがいい。迷子として届け出ましょう」
軽くパニックに陥る3人をよそに、優也に抱かれているのに飽きたらしいミルクパンが、もぞもぞと動いて、みゃあ、と鳴き声を上げた。
途端、俯いて泣いていた女の子が、パッ、と顔を上げた。
その動きに、慌てふためいていた3人も、ハッ、と口を閉じる。シン、と静まり返った廊下に、ミルクパンの鳴き声だけが、再度、響いた。
女の子は、涙に濡れた目をパチパチと瞬き、ミルクパンをじっと見つめた。そして―――フワリと、嬉しそうに笑った。
「…ネコちゃんだ…」
「……」
どうやら、猫好きらしい。
咄嗟に判断を下した奏は、優也の腕からミルクパンを取り上げ、彼女と目線を合わせるようにしゃがんだ。
「―――大人しいから、ひっかいたりしないよ。抱っこしてみる?」
「うん」
素直に頷いた女の子は、奏が差し出したミルクパンを受け取り、随分と慣れた手つきで抱きかかえた。ミルクパンも、居心地がいいのか、随分と大人しく小さな腕の中に納まっている。もしかしたらこの子も、猫を飼っているのかもしれない―――何はともあれ、泣き止んだ小さな女の子の様子に、一同はホッと胸を撫で下ろした。
「えーっと…咲夜の妹さん?」
会ったことはないが、確か年頃がほぼ同じだった筈だ。奏が訊ねると、彼女はミルクパンの顔を見下ろしたまま、ぷるぷると首を振った。
「違ったか―――じゃあ、マリ……海原さんに、会いに来たのかな」
「……」
一瞬の間を空け、今度は、コクリと頷いた。どうやらマリリンの関係者らしいことがやっとわかり、3人は、やれやれと息をついた。
「出版社に行ってんだよな、あの人」
立ち上がりながら奏が言うと、
「え、ええ…。でも、いつ帰るかは聞いてないんです。…ですよね?」
優也が曖昧に頷きながらそう言い、木戸の方をちらっと見た。木戸も聞いていないのだろう。ちょっと咳き込みつつ、頷いた。
ひとまず、マリリンが帰るまで、誰かが預かるしかないか―――奏がそう思ったその時、ダウンジャケットのポケットの中で、携帯電話の着信音が鳴った。
「…っ、ちょっと、ごめん」
木戸や優也から少し離れ、携帯を取り出す。小窓に表示された名前は、咲夜だった。何の用事だろう? 首を捻りつつ、電話に出た。
「はい」
『やっほー。まだ家?』
「は?」
まるで、今から出かける予定だったことを知っているかのような一言だ。つい怪訝そうな声を返すと、電話の向こうの咲夜は楽しげにケラケラと笑った。
『今さー、弟君と一緒にいるんだ』
「おとうと?」
『累君』
「げっ、マジで!?」
思わず、声をあげる。
確かに―――弟の累は、今朝早く日本に到着し、今夜これから奏と会うことになっている。が、その話を咲夜には絶対しなかった。以前家族写真で奏と累が並んでいるのを見た時、咲夜は「カーボンコピーみたいで面白い。実物見てみたいなー」と言っていた。もし累が来日することを知れば、見せろ会わせろ並んで記念撮影させろ、と迫るに違いないと、奏には想像がついていたのだ。
『仕事の途中で偶然会っちゃってさー。奏と間違えて声かけちゃったよ。髪切ったから、写真以上に奏そっくりになってるんだもん。あ、さっそくケータイカメラで撮らせてもらったからね』
「……ジーザス……」
『ねえ、今から兄弟で待ち合わせなんだって? 奏が来るまで、累君とお茶してていいかな』
「……ご勝手にどうぞ。あ、いや、ちょっと待て」
言いかけて、ふと思いつく。
―――やっぱ、小さい女の子相手なら、優也や木戸さんよか、女の方がいいよな。
「お前、仕事終わってんだよな?」
『? うん、もう終わった』
「悪い―――緊急事態なんだ。累置いて、大至急帰ってきてくれ」
***
「はい、プリン買ってきたよ。みんなで食べよ」
狭い部屋に、親父1名、学生1名、一応社会人の女1名―――そして、お子様1名と、猫1匹。
マリリンが帰ってきたらすぐに気づくよう、ドアを僅かに開けているのだが、一応暖房をしている上に人がそれなりの数ひしめいているので、優也の部屋はそこそこ暖かい。が、風邪のピーク時にさしかかっている木戸にとっては、やはり寒いのだろう。咲夜や女の子がジャケットやコートを脱ぐ中、木戸だけは頑なにはんてんを脱ごうとはしなかった。
「…ってか、木戸さん、お部屋に戻った方がいいんじゃないですか?」
「い、いや、見つけてしまった責任がありますから!」
ずずず、と鼻をすすりあげつつ、木戸はそう言い、部屋の一番奥まった場所でプリンを口に運んだ。おそらく、木戸に何か意見するだけの勇気はないのだろう。優也は諦めたように、黙ってプリンを食べている。
―――さては、マリリンさんとの繋がりが何なのか、気になって仕方ないんだな。
木戸がマリリンに関心を持っていることは、咲夜も、優也や奏から聞いている。病気をおしてまで物置の修理をしたのには呆れるが、女の子の正体が知りたくて、ついつい居残ってしまう木戸の心理は、わからなくもない。
「おいしい?」
咲夜が訊ねると、膝にミルクパンを抱いてプリンを食べている女の子は、少しだけ微笑んで頷いた。やはり男連中に対するよりは、表情が柔らかかった。
それにしても、可愛い子だな―――マリリンの関係者らしき少女を眺め、つくづくそう思う。
妹の芽衣もこの子と同じ年頃だが、平均的な顔立ちの芽衣と比較すると、この子はまるでお人形のようだ。幼い顔だが、手足がスラリと長く、背も平均よりは高い。美少女コンクールなどに出てきても、結構いい線行くんじゃないか、という気がする。
持ち物を調べたが、身元に繋がるようなものは、何も持っていない。携帯電話の類も持っていなかった。まさかとは思うが、万が一、マリリンを訪ねて来た、というのがその場しのぎの嘘だった場合―――保護者と連絡を取りたくても、取りようがない。
「ねえ。1人で来たの?」
咲夜の問いに、彼女は少し考えるように、首を傾げた。
「じゃあ、誰かと一緒に来たの?」
「…ママと、途中まで…」
プリンの効果だろうか。やっと、ポツリと答えてくれた。が、それは、ますます迷子の線を疑わざるを得ない返事だった。
「途中、って…どこまで? どこではぐれちゃったの?」
「……」
「あ…、どこまで、なんて、わかんないか。えーと―――ママとは、ここまで一緒に来た?」
ぷるぷると、首を振る。
「じゃ、駅まで?」
これも、答えはノー。
その答えに、咲夜と優也と木戸は、互いに顔を見合わせ、困ったような顔をした。
―――まさか、こんな小さい子が、全然違う場所で母親とはぐれて、電車乗ってここまで来た、ってこと?
だとしたら、母親は相当心配しているのではないだろうか。マリリンを待つより、母親とどこではぐれたかを確かめる方が先決かもしれない。
そう思いかけた時、ドアの隙間から、足音が聞こえた。
「あ、帰ってきたのかも」
一番玄関に近い位置にいた優也が、慌てて立ち上がり、玄関へと向かった。木戸も、スプーンを置いて身を乗り出し、咲夜と女の子も、ハッとしたように玄関に目を向けた。
急ぎ靴を履き、廊下に出た優也は、まさに鍵を取り出し、今にもドアを開けようとしているマリリンを見つけた。
「マリリンさんっ!」
優也が声をかけると、マリリンが、少し驚いた顔をして振り返った。
「あ、あら、どうしたの?」
「ちょ…ちょっと、来て下さい」
「え?」
「ちょっと」
いいから、来て下さい。
そんな感じで、必死に手を振る。口下手な優也には、正体不明な子供のことを手短に説明するのは厳しかったらしい。
首を捻ったマリリンは、それでも鍵を持った手を下ろし、ツカツカと優也の部屋にやってきた。
「なあに? 何かあったの?」
「それが、その……マリリンさんに、お客様が」
「客?」
眉をひそめたマリリンは、優也の部屋を覗き込んだ。
途端―――その目が、驚愕のあまり、普段の2倍位に大きく見開かれた。
「あ……
完全に裏返った声。
杏奈、と呼ばれた女の子は、弾かれたように立ち上がると、パタパタと玄関に駆けて行った。そして、マリリンに飛びつき、ワッと泣き出した。
「パパ―――…!」
「「「えっ…」」」
3人の声が、重なる。
だって、「パパ」って。
パパ、って言ったら、それは―――普通、父親を表す訳で……。
パパと呼ばれたマリリンは、オロオロと杏奈を抱きかかえ、よしよし、という風にその背中をさすった。
「ちょ…ちょっと、なんで杏奈がここに!?
「はぐれちゃったああああぁぁぁ」
「はぐれた、って…」
「杏奈、ここに住むうぅ。パパと一緒がいいぃ」
わぁわぁ泣きながら訴える杏奈の声に被さるように、背後で、ガタン、という大きな音がした。
見ると―――ショックのあまりよろけた木戸が、ぶつかった本棚から落ちてきた本の下敷きになっていた。
***
『真相判明』
咲夜から入ったメールのタイトルを見て、奏は即座に、メールを開いた。
そして、短い本文を読み終えて―――頭がグラグラと揺らぐのを感じ、思わず本当によろけてしまった。
「どうかしたの?」
「…いや、ちょっと」
メニューを閉じつつ首を傾げる蕾夏に、最大限、なんでもありません、という笑みを返す。1年ぶりに会う弟や、瑞樹や蕾夏を目の前にしているというのに、頭の中は、今のメールでキャパシティオーバーだ。
―――む…娘…!? あの子が、マリリンさんの娘!? なんだよそれ!
男だというところまでは、一応、許容範囲だった。が…まさか、子持ちとは。いや、あれは趣味と仕事を兼ねた“コスプレ”であって、マリリンの性癖はいたってノーマルだと聞いていた。だから、子供がいたっておかしくはない。おかしくはない、の、だが。
「奏は? 他に頼むもん、ないの?」
「ん? あー…、いいや。また後で。」
累に訊ねられ、奏もパタン、とメニューを閉じた。今頃、真相を知った木戸はどうしているだろう―――なんて考えると、正直、今のメールで食欲は半減だ。
とにかく、ここでアパートの住民のことを気に病んでも仕方ない。帰るまでは、そのことは考えないようにしよう。
「じゃあ、とりあえず―――累の来日を祝って、乾杯」
「乾杯ー」
奏の音頭で、4つのグラスが音を立てた。ささやかな歓迎会が、こうして幕を開けた。
累が日本に来たのは、仕事のためだった。
累の職業は、ライターである。イギリスの有名な歌手が、コンサートのために来日したのに同行し、滞在レポートを書くのが、今回の累の仕事だ。もっとも、四六時中歌手に同行する訳ではない。オフの時間に観光スポットなどを一緒に回り、歌手が感じた「ニッポン」を書く訳だ。こういうスケジュールが組まれているのだから、正しくはその時間もオフではなく仕事なのだが。
「凄い取材費用なんじゃない? イギリス本社、太っ腹だね」
累と同じ系列の出版社でライターをやっている蕾夏が、感心したように言う。いいなぁ、というニュアンスを滲ませた言葉に、累は苦笑し、グラスを置いた。
「うーん…実を言えば、かなりギリギリで、自腹切らなきゃならない場面も多そうなんだけどね。ちょうど僕も日本に来たかったから、損得抜きで手を挙げちゃったんだ」
「ふぅん…。やっぱり、奏君に会いに来たかったんだ?」
「…まあ、それもある、かな」
そう言うと累は、少しばかり冷ややかな目を、奏の方に向けた。
「ゴールデンウィークにも夏休みにも帰ってこない上に、とうとう年末年始まで帰ってこなかった不肖の長男が、一体日本で何やってるのか、この目で確かめないとまずいぞ、って思ったのも、日本に来たかった理由の一つだから」
「……うるせー。仕方ないだろ、仕事だったんだから」
累は結構“お兄ちゃんっ子”である。幼い頃、いじめっ子などから自分を守ってくれたヒーロー、というイメージもあるのだろうが、あらゆる意味で対照的である双子の兄に、かなり一方的な憧れを抱いているらしい。イギリスにいた頃だって、お互い家を出て独立し、行き来だってそんなにあった訳じゃないのに、いわゆる盆暮れ正月のイベント時に奏がいないと、途端に不機嫌になっていた。
慕ってくれるのはありがたいが、新年早々ショーがあるのに10時間もかけてイギリスに里帰りするのは、無謀すぎるスケジュールだ。まあ、本気で怒っている訳ではないだろうが、わがまま言うんじゃねー、という意味をこめて、奏も軽く累を睨んでおいた。
「成田さんも、仕事でイギリス来ることとか、ない? 郁が結構寂しがってるよ。成田さんと藤井さんがイギリスいた頃は、毎日退屈しなくて良かったよなぁ、って」
「…暇つぶしかよ、俺達は」
師匠である時田の勝手な言い草に、瑞樹が不愉快そうに眉を顰める。でも事実、奏がイギリスにいた頃から、時田はしょっちゅう「あの2人を手放したのは痛かったなぁ」と言っていた。優秀なアシスタントがいなくなったのが痛いのか、それとも、見てて飽きない連中がいなくなったのが痛いのか、その辺は明言しなかったが。
「極力、海外ロケの仕事は避けてるからな。当分、行く予定ナシ」
「そうかぁ…。郁だって、あんまりイギリスから出ないもんなぁ…」
「あ、そうだ、成田。麻生さんのCDジャケットの話って、その後、どうなった?」
仕事の話が出てきたところで、先日頼まれた話を思い出した。奏が訊ねると、瑞樹は、僅かに口の端を上げた。
「ああ、やることにした」
「ほんとか!」
「まんざら知らない相手でもないしな。前会った時の印象はイマイチだったけど、話してみて、そうやり難い相手でもなさそうだったんで、引き受けた」
「そうかー…。なんか変な感じだよなぁ、麻生さんのアルバムジャケットを、成田が撮ることになるなんて」
「麻生さん、って?」
初耳な名前に、累がキョトンとした顔をする。恐らく「まんざら知らない相手でもない」という部分に興味が湧いたのだろう。
「さっき、累が偶然会った、オレの隣に住んでる奴。あいつの、叔父にあたる人。ジャズピアニストなんだよ」
「へー…、そんな内輪で仕事が回ってたんだ」
感心したように頷いた累だったが―――ふいに、探るような目つきになり、隣に座る奏の顔をじっ、と見据えた。
「…さっきの子って、もしかして、奏の彼女?」
「はぁっ!?」
思わず、店内に響き渡りそうな大声を上げてしまう。瑞樹は、飲みかけていたカクテルでむせそうになり、蕾夏は、累の発言より奏のリアクションにウケて、あはははは、と笑い声をたてた。
「バ、バカ! んな訳あるかっ! 何をどうやったら、そんな勘違いができるんだよ、お前はっ!」
「え、だって…奏と凄く親しそうだったし、電話してる様子も、奏と近い関係なんだな、ってわかるムードだったし…」
そんなに変なこと言ったかな、という顔をする累に、奏は、はあぁ、と大きなため息をついた。
「…あのなぁ。咲夜は、そーゆーんじゃないの。“女”じゃなくて“親友”。ていうか、“戦友”か…。とにかく、オレらの間にあるのは、友情だから」
「結構お似合いだと思うんだけどなぁ、私は」
「俺も、そう思う」
援護するどころか累に加担するような蕾夏と瑞樹の発言に、思わず奏はムキになったように身を乗り出した。
「だーかーら! 周りが何と言おうと、それはナイ。嫌なんだよ、そういうの、咲夜との間に持ち込むの」
「そうやってムキになるから怪しまれるんだ、お前は」
「ムキにもなるだろっ。咲夜には、長年惚れてる男がいるんだからさ。もー、相手いる女は懲りた。ぜってーヤダ。次こそは完全フリーな、オレしか目に入んないような女がいい」
「…ま、頑張れよ」
全く何言い出すんだか―――くつくつと肩を揺らして笑う瑞樹を、奏はムッとしたように唇を尖らせて、幾分きつめに睨んだ。
「あんまり奏君苛めない方がいいよ、瑞樹。咲夜ちゃん通じて麻生さんに入れ知恵されて、仕事で仕返しされても知らないから」
「バカ正直な奏に、そんな腹芸ができるんなら、むしろ是非見てみたい。やってみせろよ」
「…どうせバカ正直だよ」
―――チクショー、こいつらの前では、どうしてもガキ扱いになるよなぁ…。
優也や木戸の前では比較的優位に立てる奏だが、どうしてもこの2人には敵わない。面白そうに笑う2人の様子に、奏はますます面白くなさそうな顔になった。
そんな3人のやりとりを、累も見ていたのだが―――驚いたように目を丸くしていた累が、やがて、安心したような、どこか嬉しそうな顔をしたことに、奏は気づかなかった。
***
時間が経つのが、異様に遅い。
ジリジリと、時計の針が動くのを、ひたすら待つ。咲夜も、優也も、そろそろ我慢の限界に達しようとしていた。
木戸は、半分放心状態なので、多分時間経過を感じていないだろう。優也のベッドに寄りかかり、悲しいともショックともつかない顔で、ひたすら緑茶をすすっている。
もう限界、ちょっと様子を見に行こう―――咲夜がそう思って立ち上がりかけた時、ドアがガチャリと開いた。
「!」
3人の視線が、玄関に集中する。そして、開いたドアの向こうから、いつもと同じメイク、いつもと同じ服装のマリリンが、気まずそうに顔を出した。
「…え…ええと、」
「……」
「ア、アハハハ、どうもー、お騒がせしましたー」
「マリリンさん」
笑って誤魔化すな。
ゆらり、と立ち上がりながら咲夜が低く名を呼ぶと、マリリンの引きつった笑いは、そこでストップした。
無言で、優也の部屋の空いている空間を指差す。死刑宣告でも受けたように観念した顔になったマリリンは、大人しくドアを閉め、咲夜が指差したスペースに正座した。
「…で? 杏奈ちゃんは?」
「―――ちゃんと駅で、母親に引き渡しました」
「母親…」
杏奈の父親は、マリリン―――いや、今に限っては、この呼び方は気持ち悪いので、やめよう―――
微妙な表情で黙り込む3人に、真理はため息をひとつつくと、諦めたように口を開いた。
「…別に隠し立てする話でもないから、スッパリ言わせていただきましょう。杏奈は、正真正銘、アタシの子です。海原杏奈。名前をつけたのもアタシよ」
「“海原”…」
「ってことは…」
「そ。籍も入ってるわよ。極フツーに結婚して、極フツーに子供が生まれただけ。そんな訳で、アタシは妻子持ちってこと」
マリリンが、妻子持ち。
強烈すぎるミスマッチに、誰一人、言葉が出て来ない。天変地異でも目撃したみたいに固まる3人を前に、真理は「無理もないわよねぇ」という顔で、気まずそうに頬の辺りを掻いた。
「…まあ、この格好で“妻子持ち”とか言っちゃうと、引いちゃう気持ちもわかるけどね。メイク落とせばただの男だから」
「その割に杏奈ちゃん、マリリンさん見て、即座に“パパ”って認識してた気がするんですけど…」
恐々と優也が指摘すると、真理は乾いた笑い声を上げた。
「ハ、ハハハハハ、こ、この格好でも何度か会ってるからね、杏奈は。それに、梨花さんもジョークの好きな人で、この格好で親子3人の家族写真なんか撮っちゃって、家に飾ってるもんだから。あの歳でも、素顔のアタシとメイクしたアタシ、ちゃんとイコールで繋がってるのよ。子供って凄いわねー」
「……」
それは―――かなりシュールな、家族写真かもしれない。想像して、げんなりした。
「やっぱり…その格好が、別居してる原因な訳?」
「いや、うーん……説明すると長くなるんだけど、まあ、お互いの仕事のためね。そもそも、仕事のためにこんな格好勧めたの、梨花さんだし。素人時代から、一番の協力者で、一番のファンだったから」
…なるほど。女性と間違われたまま“新進女流作家”として脚光を浴びてしまった夫に「チャンスじゃないの! 利用しなさい! 騙し通せ!」とけしかけたのか―――さすが、というか、とんでもない、というか…。
「梨花さんは、アタシの元職場の同僚で、今はビューティーコンサルタントをやってるのよ。家には人の出入りも多いし、アタシは1人きりでいないと集中して書けないタイプだし―――それに、こんな格好して編集さん騙さなきゃいけない事情もあるし。それで、3年前に、思い切って“別居婚”にした訳。でも、休日はちゃーんと家族で過ごしてたわよ? ただ……別居婚始めて少しした頃に、梨花さんが、アメリカに3年間、仕事で行く羽目になって…」
「アメリカ…って、じゃあ、ロスは、」
「家族に会いに行ってたのよ」
―――な…なるほど、凄く納得。
妙に浮かれた様子でスーツケースをガラガラ引いてた真理を思い出し、咲夜は全身の力が抜けるのを感じた。あのヘラヘラとした笑い方は、もうすぐ家族に会えるわー、という、嬉しくてしょうがない顔だった訳だ。
「え、じゃあ、今日はどうして日本に…」
3年、といったら、まだロスに仕事で行っている期間の筈だ。その矛盾に気づき、優也が怪訝そうな顔をすると、真理は、どことなく苦い表情をした。
「あー…、それは、ちょっと、色々あって―――ちょっと早く、日本に帰ってきたから」
「色々?」
「そ。色々とね」
「―――…あのぉ…」
それまで黙っていた木戸が、野太い声で、ノソリと割って入る。と同時に、木戸以外の3人の肩が、ギクリ、と強張った。
木戸は、侘しい東京住まいの心のオアシスが実は男だった、という強烈すぎるショックから、なんとか這い上がってきたらしい。コンコン、と乾いた咳をしつつも、スポーツマンらしく、両手の拳を膝に置き、しっかりと真理に向き直った。
「それでも海原さんは、奥さんや娘さんと、一緒に暮らさんのでしょうか」
「えっ?」
「いや、まあ、ご事情はお察ししてます。さっき、お二人から仕事のことは聞いてますんで」
真理が新人賞を受賞してから、日中を女装したまま通すようになった経緯を、真理が杏奈を宥めたり梨花に連絡を取ったりしている間に、咲夜と優也で説明しておいたのだ。呆けた様子の木戸の耳に、果たしてちゃんと届いているのだろうか、と心配したが、どうやらちゃんと頭には入っていたらしい。
「でも―――娘さん、あんなに海原さんと一緒に暮らしたがってたじゃあないですか。うちの下の坊主も、あの娘さんと同じ年頃なんですが、そりゃあもう可愛いもんですよ、息子でも! それが、あんなに可愛い女の子となれば…」
「は…あ…」
「家族は、一緒に住まにゃあ、いかんです」
力説、といった感じに、木戸は拳を握りしめ、ずいっ、と身を乗り出した。
「絶対、一緒に住むべきです。離れてると、碌なことはありゃーしません」
「……」
「実に、実に、悲しい現実が待っとるんです」
「……」
―――あの…、なんか、あったんですか。
悔しそうに口元を歪め、目に涙さえ滲ませる木戸の様子に、誰もが同じことを思い、複雑な表情になる。悲しい現実とやらは、多分、木戸自身の身に起きたことなんだろうな―――と。具体的にどういう悲しい現実があったのかは、よくわからないが。
「ま…まあ、木戸さんのおっしゃることも、わかりますが」
下手に追及しない方がいいと考えたのか、真理は、唐突にそう言い、ちょっとわざとらしい笑みを作った。
「うちにはうちの事情があって、当面、一緒に住むのは無理なんですよ。まあ、いずれは、ここを仕事場として、家族で住む家から通ってくるような形にしようとは思ってますけど」
真理がそう言うと、木戸は更に前のめりになり、力説した。
「そうした方がいいです! 断然いいです!」
力が入りすぎたのだろう。言い終わると同時に、激しく咳き込んだ。
「ゲホゲホゲホゲホ…」
「あ…あの、もう休まれた方がいいですよ、ほんとに」
―――ほんとに、なんか、あったんですか。
聞いてみたい気はしたが―――なんだか、この状態の木戸にそんな話をさせたら、頭の血管の1本や2本、ぷちんと切れてしまいそうな気がして、怖くて訊けない。咲夜も優也も、そして真理も、とにかくこの病人を早く部屋に返すのが先決だ、と、真理の家族の話を打ち切り、行動を開始した。
「とにかく運んじゃいましょう。優也、反対側、手ぇ貸してあげて」
「は、はいっ」
「咲夜ちゃん、ドア開けてね。木戸さーん、いいですかー、お部屋戻りますよー」
両脇を真理と優也に抱えられた木戸は、2人に縋るようにして、ヨロヨロと歩き出した。
「…お疲れさんです…」
ドアを押さえた咲夜は、掛け声をかけながら木戸を運ぶ真理と優也を見送り、その背中にぽつりとエールを送った。
―――しっかし…わかんないもんだなー…。
あのマリリンさんが、妻子持ちだなんて。
それに、毎週のように秋田に戻っちゃうほど子煩悩パパな木戸さんにも、なにやら家庭問題がありそうだなんて。
人間、いくつになっても、もがきながら生きるものなのかもしれない―――人生の大先輩としか見えない2人が垣間見せた泥沼や葛藤に、咲夜は、そんなことを思った。
***
「東京は、明日までか」
「うん。明後日の朝に、京都に移動するんだ」
瑞樹や蕾夏と別れ、駅に向かいながら、奏と累は、そんな話をした。
1年ぶりに会う兄弟、と言っても、もうこの年齢だ。手紙や電話である程度の近況報告はし合っているから、さほど感傷的になることもない。宿泊先に到着すれば、そこでお別れ―――次に会うのは、奏が帰省した時だろう。
「…でも、良かった」
少し言葉を切った後、ふいに、累がそう呟いた。
「良かった?」
「うん。奏が、元気そうで」
「いつだって元気だろ、オレは」
「そうじゃないよ」
奏の方に目を向け、累は静かに微笑んだ。
「成田さんや、藤井さんといる時の奏―――凄く、自然だったから」
「……」
「…片想いのこと、あんな風に口にできる位になったんだな、って思って…安心した。奏が日本に来たのも、無駄じゃなかったんだな、って」
「……ああ」
累は、何も知らない。
奏が蕾夏に何をしたか。そんな奏に瑞樹が何をしたか。そして、奏が、背負った罪にどれほど苦しみ、その償いのために何をし、それをあの2人がどう受け止めたのか―――累は、何も知らない。知っているのは、あの2人の間にある絶ち難い絆と、それを知りつつも消すことの出来ない奏の恋心……その2つだけだ。
それでも、何かが3人の間で変わったことは、肌で感じられたらしい。案外―――累が今回の仕事を引き受けたのも、奏が今、日本で苦しい思いをしているんじゃないか、と心配してのことだったのかもしれない。
「悪かったな。心配かけて」
軽く肘で累を小突いて奏が言うと、累はちょっと笑い、首を横に振った。そして―――おもむろに、真剣な表情になった。
「…あのさ、奏」
「ん?」
「奏は、もしかして、このままずっと日本に住むの?」
「……」
自身でも、まだ考えていないことだった。
少し目を丸くし、累を見つめる。なんだって急にそんなことを訊くのか、わからなくて。
「…28の誕生日で、モデル辞めるって言ってたよね。モデル辞めたら、メイクの世界1本でやっていくんだろ?」
「ああ…、そのつもりだけど」
「日本で?」
「……」
「ロンドンには―――もう、戻らないつもりでいるの?」
「…まだ、決めてないって、そんなの。なんで突然、そんなこと気にするんだ?」
「うん…」
言いよどんだ累は、ちょっと視線を落とし、話すのを躊躇するような様子を見せた。が―――意を決したのか、顔を上げ、少し照れたような笑みを見せた。
「実は―――結婚、しようと思ってるんだ」
「…えっ」
累が―――結婚。
考えてみたら、そろそろ、そうなってもおかしくない時期だった。一瞬キョトンとした奏だったが、その顔は、あっという間に笑顔に変わった。
「そ…そうかー! ついに決めたのか、お前!」
「…って言っても、まだ両親にも話してない上に、カレン本人にもプロポーズしてなかったりするんだけど」
「迷うな。さっさと行け。思い立ったが吉日だ。お前、タイミング逃すと、すぐグズグズ考え出して二の足踏むタイプだからな」
「う、うん」
「で、いつ頃?」
「ん…、6月がいいかな、と思ってるんだ。前にカレン、ジューン・ブライドに憧れてる、って言ってたから」
「6月、か…。式には出たいよなー、オレも。帰れるようにスケジュール調整しとかないと」
「―――結婚のこと、考えてたら……奏の将来が、気になってきちゃって」
照れた笑みを消した累は、少し不安そうな目で、奏を見た。
「僕らは、結婚して、イギリスに落ち着くと思うけど―――奏は、どうするのかな、って」
「……」
「父さんもいるし、母さんもいる。僕やカレンもいる。…みんな、口では言わないけどさ。もっと頻繁に奏に帰ってきて欲しい、って思ってるんだ。特に母さんは、寂しがりだし…」
「…累…」
「もし、将来のこと、決めてないなら―――考えてみてくれないかな。イギリスに戻ることも」
日本か、イギリスか…。
何故か、母国に戻ることを考えると、胸が痛かった。
日本を、離れる訳にはいかない―――心のどこかで、そう硬く思っている自分に気づき、奏は、戸惑ったような顔を累に返すことしかできなかった。
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