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― Platonic

 

 眠れないんじゃないか、と思ったのに、意外なほどあっけなく眠りに落ちてしまったのは、極度の疲労と1本の缶ビールのせいだろう。
 とはいえ、目覚めは、最悪だった。
 「……っつー……」
 起こした頭がグラつき、思わず額を手で押さえる。
 うんざりするほどの明るい光が、カーテンの隙間から射し込んでいる。眉を顰めた奏は、ラグの敷かれた床に手をつくと、勢いをつけて無理矢理起き上がった。
 目の前のテーブルの上には、ミリオンバンブーが2本。咲夜が名づけた百恵と竹彦だ。
 窓際にはアグラオネマの鉢が1つ―――映画『レオン』で、本当に主人公が持ち歩いていた観葉植物だ。たまたま一緒に出かけた日、花屋の店頭で見つけて咲夜が買ったのだが、サボテンに“マチルダ”とつけられた仕返しに、このアグラオネマには、奏が“レオン”と名づけた。半年―――いや、もう10ヶ月も前の話だ。
 見慣れた部屋―――自分の部屋とほぼ線対称になっている、咲夜の部屋。なのに、今朝はなんだか、見知らぬ部屋で目覚めたような居心地の悪さだった。
 暫し頭を抱えたまま、ぐらつきが収まるのを待つ。そして、午前の光の眩しさが通常レベルに感じられる程度になったところで、奏は膝歩きで、のろのろとベッドの方へとにじり寄った。
 咲夜は、まだ眠っているようだった。
 壁の方に顔を向け、手足を丸めるみたいにしている咲夜の横顔を、覗き込む。その頬には、涙で貼りついてしまった髪がまだ幾筋か貼りついたままだ。夜明け前、暗がりから微かに聞こえてきた咲夜の押し殺した泣き声を思い出して、奏は知らず、唇を噛んだ。


 『…拓海は、悪くないよ。うっかり口を滑らせた私のせいだから』

 口にした僅かな言葉の中、咲夜が最初に言ったのは、このセリフだった。
 愛想を尽かされるように、と、拓海がわざとやったことだ。それを見抜いたのに、突っぱねなかったのは自分だ。だから、悪いのは自分だ。フリをするだけの筈がこんな結果になって、むしろ拓海の方が気の毒だ―――ぽつり、ぽつりと、呟くように咲夜はそう言った。

 拓海は、悪くない。
 拓海はずっと、佐倉さんが好きだったし、これからも佐倉さん以外は愛せないって、もう悟ってる。苦しくても、他の人を愛せないんだよ。勿論……私のことも。
 そういう拓海には、私の想いは、重たいんだよ。
 どうでもいい女なら、勝手に片想いさせとけばいいのかもしれない。でも……私は、切れない関係の人間―――姪、だから。
 人間関係が切れないなら、想いを捨てさせるしか、ないもんね。
 …わかってる。
 どうでもいい人間じゃないからこそ、私の想いは、拓海にとって重荷なんだよ。


 「―――…わかんねーよっ」
 咲夜の寝顔を眺めながら、奏は苛立ったように呻いた。
 想いに応えろ、とは言わない。それは無茶だって、奏にもわかる。でも―――咲夜は、他の女と違って、報われることなんて望んでいなかった。ただ想いがあれば歌うことができる、と言っていた。拓海が誰を想っていても、それを自分に向けさせる気もなければ、自分の想いを押し付ける気もなかったのだ。
 だったら、捨てさせることなんか、ないじゃないか。
 大事な人間であるなら尚更、本人が満足するようにしてやればいいじゃないか。
 わからない―――わかりたくもない。

 …いや。1つだけ、わかっていることがある。
 それは、自分が「部外者」であること。
 奏がどんなに腹立たしく思おうが―――奏には、拓海に恨み言を言う権利などない、ということだ。

 「……」
 険しい顔で、暫しじっと咲夜の顔を見つめる。
 ―――どうせ、部外者だよ。
 …けれど。

 時計を確認した奏は、意を決して立ち上がった。


***


 たくさんの夢を見た気がした。
 けれど、目が覚めた咲夜は、それらの夢をひとつも覚えていなかった。

 「―――…」
 ゆっくりと目を開けると、部屋の中は明るく、窓が開いているのか、微かな空気の流れを感じた。
 …どうやって、帰って来たんだっけ。
 記憶が、酷く曖昧だ。
 カタカタカタ、という軽快な音が、どこかから聞こえてくる。それに、人の気配がする―――緩慢な動きで掛け布団を押しのけた咲夜は、だるい頭をゆっくりと起こした。
 そこには、思いがけない人物が―――マリリンが、ローテーブルの上にノートパソコンを置いて、執筆活動にいそしんでいた。咲夜が起きた気配に気づいたのだろう。キーボードを打つ手を止め、視線を液晶画面から咲夜に移した。
 「おや。やっと起きた?」
 ニッコリ笑ったマリリンは、そう言うと立ち上がり、ベッドサイドに歩み寄った。本人は、ここに自分がいるのは当然、とでも言うような表情だが、咲夜は、何故マリリンが自分の部屋にいるのか、まるで見当がつかなかった。
 「…なん、で、マリリンさんが…?」
 「んー? 一宮さんに頼まれたのよ」
 「奏に?」
 「ゆうべ、この部屋でお酒飲みながら話してたら、咲夜ちゃんが急に具合が悪くなって大変だったから、って。どのみちアタシも締め切り間近で家に篭りっきりだし、様子を見ながら執筆させてもらうことにしたって訳」
 「……」
 ―――…奏…。
 目が覚めた時、1人きりだったら、咲夜が心細い思いをするとでも思ってくれたのだろうか。嘘をついてまでマリリンに付き添いを頼んだ奏の心情は、咲夜には推し測ることが難しいものの、思いやってくれてることだけは、直感的にわかる。が…、その思いやりも、今の咲夜には辛くて苦しいばかりだった。
 奏は、引き止めてくれたのに。
 お前が傷つくだけだ、と、腕を引っ張ってくれたのに。
 振り切って、拓海を追いかけたのは、自分だ。…本当なら、奏に「自業自得だ」と怒鳴られて当然なのだ。
 「咲夜ちゃん? あらら…、ほんとに具合悪そうねぇ。大丈夫?」
 落ち込んだ様子の咲夜を見て、本当に体調が悪いと思ったのだろう。マリリンは心配そうな顔になり、咲夜の顔を覗き込んだ。
 「一宮さん、詳しいこと言わなかったけど、どんな具合なの? 頭痛? 吐き気? 眩暈? あらら、やーねー、服も着替えてないじゃないの。アタシ、外出てるから、着替える?」
 「…大丈夫」
 帰宅して、奏が淹れてくれた紅茶を1杯飲んで―――とにかく眠れ、と言われて眠ったから、服装は帰宅時のままなのだ。でも、Gパンにカットソーだから、部屋着と大差ない。咲夜は弱々しく笑い、微かに首を振った。
 「じゃあ…何か、食べられそう? もうお昼の時間だから、アタシも何か食べようと思ってたんだけど」
 「…ううん。食欲、ない」
 「でも、朝も食べてないでしょう? なんなら、塩味きかせたおかゆでもどぉ? それならアタシも付き合わせていただくけど」
 「……」
 「じゃ、とりあえず、台所貸してもらっていい? アタシの分のお昼、作らせてもらうから。気が向いたら咲夜ちゃんも一口どうぞ?」
 「…うん」
 色々、考えるのが、億劫になった。
 短く答えた咲夜は、辛うじて持ち上げていた頭を、また枕に戻した。それを見て、また心配そうに眉をひそめたマリリンだったが、これ以上何か訊いても答えは返ってこないと察したのだろう。やがて咲夜のもとを離れ、食材を取りに帰るためか、玄関から出て行った。

 ありがたいことに、今日は“みどりの日”―――会社も、“Jonny's Club”も休みだ。もしあっても、こんな使い物にならない状態では、ただ周囲に迷惑をかけて終わりだっただろう。つくづく、今日が休日でよかった。
 仕事のことも、歌のことも、拓海のことも、何も考えたくない。何も訊かれたくないし、答えたくもない。だるい―――寝ていたい。
 ―――そう言えば、奏だって今日、休みの筈なのに…。
 ふと、マリリンに咲夜を託してどこかへ行ってしまったらしい奏のことを考え、不審に思う。
 奏は一体、どこへ行ってしまったのだろう?

 …どこでも、いいや。
 それを考えることすら、今は、できそうにない。

 掛け布団を引き上げることもせず、咲夜は目を閉じ、枕に顔を埋めた。
 後悔も絶望も涙も、今はどこかへ行ってしまっていた。だるい―――けれど、だるいのは体じゃなく、心なのかもしれなかった。


***


 2度、チャイムを鳴らしても、中からの応答はなかった。
 イライラと髪を掻き混ぜ、ドアノブを回してみる。と、予想に反して、ドアには鍵がかかっていないことがわかった。
 「……え、」
 さすがに、戸惑う。眉をひそめた奏は、幾分恐る恐る気味にドアを開けてみた。

 ここに来るのは2度目だが、ドアより内側に入るのは、これが初めてだ。
 初めて足を踏み入れた、麻生拓海の家―――半日前まで、咲夜がいた筈の部屋だ。やはり無用心だよな、と思った奏は、後ろ手に玄関の鍵を閉め、スニーカーを脱いだ。
 玄関には灯りがついておらず、廊下も薄暗かった。が、その先にある磨りガラスの入ったドアが、半分開いているのが見える。
 ―――これって、何かの犯罪になるよな、多分。
 と思いつつも、今更引き下がれない。奏は廊下を数歩進み、部屋へと続くと思しきドアを思い切って開けた。

 ドアの向こうは、広いリビングダイニングだった。
 象徴的なのは、大きな窓に面した最もいい場所に、年代モノらしきグランドピアノが置いてあることだ。咲夜曰く「ジャズにはアップライトピアノの方が似合うんだよ」とのことだが、成功を収めた拓海の、唯一の贅沢なのかもしれない。ピアノ以外の調度もそれなりに趣味は良さそうだが、さほど贅沢な生活をしていないことは、奏にもなんとなくわかった。
 そんな部屋の片隅で、拓海は、水割りの入ったグラスを傾けていた。
 ソファに深く寄りかかり、到底ご機嫌とは言い難い表情で水割りを飲んでいた拓海は、突然現れた来訪者に、さほど驚いた顔もしなかった。酔いが回っているのか、瞼が落ちかかった目を気だるそうに奏の方に向け、無言のまま奏の顔を見据えただけだった。
 奏の方も、言いたいことがありすぎて、すぐには言葉が出て来ない。奏は、拓海までの距離2メートルほどを保ち、拓海の顔をじっと見据えた。
 暫しそのまま、双方黙っている。耐え切れず、先に口を開いたのは、奏の方だった。
 「…なんで、咲夜を泣かすような真似、するんですか」
 怒りに震えそうな声で、奏が低く言う。すると、拓海は黙ったまま、暗い笑みを僅かに浮かべた。
 再び、グラスを口に運ぶ。ほぼ空になったグラスをテーブルにトン、と置くと、拓海は大きく息を吐き出し、脚を組み直した。
 「…ふぅん…、そうか」
 「……」
 「あいつ、泣いてたか。…何年ぶりだろうな。あいつが人前で泣くなんて」
 「……っ……!」

 辛うじて押さえていた憤りが、一気に頭の芯でショートを起こした。
 止められない。最大限の理性を動員しても、無理だった。僅か2、3歩で拓海のもとへと歩み寄った奏は、拓海のシャツの胸元を乱暴に掴むと、拓海をぐい、と引き起こした。

 「な…んで―――…!」
 憤りに、涙が滲みそうだった。本当は殴りつけたかったが、それだけは我慢した。引き起こした体をがくがくと揺さぶり、奏はソファに片膝を乗せて拓海に更に迫った。
 「なんでだよ…!? なんであんな目に遭わせるんだよ!? いくら佐倉さんが好きでも、咲夜は……咲夜だって、あんたにとっては大事な姪だろ!? 振るなら振るで、もっとマシな方法、いくらでもあった筈だろ! なのに、なんで……!!」
 感情に走った奏の声に、拓海はほとんど表情を変えなかった。ただ、奏になされるがままになっている。その態度が、余計奏をヒートアップさせた。
 「ど…どんなことされたって、咲夜があんたに愛想尽かすような奴じゃないこと、あんたが一番よく知ってた筈なのに―――他のどうでもいい女たちと同じ扱いしたって、傷つくだけで、それであんたを嫌いになる訳もないのに―――なんでだよ!?」
 「……」
 「振る気なら……受け入れる気がないなら、抱いたりするなよっ! 好きでもない癖に、」
 「―――好きだよ」

 ぽつりと。
 下手をすれば、そのまま聞き逃してしまいそうなほど、ぽつりと、拓海が、呟いた。
 その、短すぎる、あっさりしすぎる一言を、奏は聞き逃さなかった。そして―――その一言に、次の言葉が、喉の手前で止まった。

 言葉を失い、拓海の顔を凝視する。
 精気のない顔をした拓海は、奏に胸倉を掴まれたまま、ふ、と笑った。
 「好き、だったよ。あいつのこと」
 「……」
 「…惚れてたよ。みなみを忘れたい、と、本気で思う位にはね」

 ―――…な…なんだよ、それ。
 拓海の胸元を掴む奏の手から、力が抜ける。拓海は、ズルズルとソファの背もたれをなぞるようにして、ソファの上に崩れ落ちた。
 訳が、わからない。好きだった? 女として? だとしたら、咲夜とは相思相愛ということだ。だったら何故―――どうして、こんな真似を。
 信じられない、という顔で自分を見下ろす奏を、拓海は相変わらず、精気のない、だるそうな表情で見上げた。半分ソファに倒れこんだような、半分体を起こしたような中途半端な姿勢を直そうともせず、その体勢のまま、ゆっくりと口を開いた。

 「…香苗が自殺未遂を起こして、みなみには固く心を閉ざされて―――ピアノに向かうことすら辛くなってたっけな、あの頃は。なんだか全部が嫌になって、自分の原点に戻りたくなって、アメリカに逃げた。…でも結局、みなみを忘れることはできなかった。みなみが俺を受け入れない理由が、俺そのものじゃなく香苗にあるから余計、自棄になった。不条理さに腹が立って、手に入れられない憤りを、寄って来る女に次々向けて―――最低の男に成り下がってたんだ。あの頃の俺は」
 「……」
 「友人だと思ってた奴も、俺の豹変ぶりに愛想尽かして離れていった。せっかく決まりかけていた仕事も、女のトラブルでぽしゃったりもした。そんな時でも……咲夜だけは、変わらなかった」
 そう言った拓海の口元に、自嘲ではない、穏やかな笑みが微かに浮かんだ。
 「バカ、アホ、節操なし、って散々言いたい放題言いながらも―――あいつだけは、変わらなかった。俺といたって、何の得にもなりゃしないのに……親父さんの不興を買うばっかりで、あいつのためになるとも思えないのに……咲夜はいつだって、俺を慕ってくれた。あいつだけは……理由も訊かずに、傍にいてくれた」
 「……」
 「…咲夜だけが、支えだった」
 呟くような一言に、奏の胸が、痛んだ。
 こんな段階になって初めて、見せつけられた気がした。頭では理解していた筈の、咲夜と拓海が過ごしてきた年月の長さと、その絆を。
 母の死後間もない時期に父の裏切りを知らされ、新しい家族を押し付けられ、それに適応できなかった、咲夜―――そんな咲夜に、何も言わず寄り添い、逃げ場を与えてくれたのが、拓海だった。
 それと同じように、元恋人の自殺未遂による疲弊と、心から愛する女性に背を向けられた苦しみでボロボロになった拓海を、ただ1人、何も言わず受け入れ、純粋に慕い続けてくれたのが、咲夜だった。
 …太刀打ち、できない。到底、敵わない。寂しさとも悔しさともつかない感情に、奏は少し顔を歪め、下ろした拳に力を込めた。
 「アメリカから戻って半年もしたら、最悪の泥沼からは脱出できたけど―――もう“女を一晩でポイ捨てする男”ってレッテルは剥がせなかったし、みなみにも香苗にも会うことを拒否されてる状況じゃ、俺はどうすることもできなかった。…何度も、何度も、足掻いたよ。新しい女に出会うたびに、本気で好きになれないか、みなみを忘れられないか、ってね」
 「…現れなかったのかよ。佐倉さん以上の女」
 「…残念ながらね。つい、みなみに似た女を探そうとする自分に気づいて、うんざりした」
 ―――まるで、どっかの誰かみたいだな。
 やたら身に覚えのある話に、奏は皮肉めいた笑みを浮かべた。
 求めても、求めても、手に入らない人―――その人の代わりを探して、いつも彷徨っている。彷徨って、誰かと出会っては……落胆する。探しているピースが、見つからなくて。…そう。その姿は、半年前までの奏自身とそっくりだった。
 「だから、咲夜が俺を“男”として好いてるらしい、って気づいた時には―――かなり、動揺した」
 サラリと、自然な流れで飛び出した話に、奏の胸がドキンと跳ねた。
 気づいた時は―――咲夜は、昨日の夜まで、自分の想いは一切口にしなかった筈だ。一体いつから、拓海は気づいていたのだろう?
 けれど、拓海は「いつから」とは明言しなかった。ただ、どこか懐かしそうな目をして、奏を通り越した遠くを見ていた。
 「…咲夜と一緒にいるのは…俺には、楽だったんだよ。言葉がなくてもわかり合える―――血の繋がった家族より、楽だった。そんな咲夜が、俺を“男”として好きでいるって知ったら……意識するな、って言う方が無理だろ? 咲夜との将来を」
 「……」
 「それに…俺も、“女”として意識し始めてたから、な。…迷って当然だ。みなみじゃなく、咲夜を選ぶべきなんじゃないか、って」
 「…だったら…咲夜を選べよ」
 掠れ気味の声で、そう言う。
 言いながら、吐き気がした。咲夜の気持ちを考えるならば、これは親友として当然の言葉だ―――そう思いながら、本音では、拓海が咲夜を選べばいいなんて、口で言う半分も思っちゃいない癖に、と。
 自分の偽善者ぶりに、吐き気がする―――けれど奏は、重ねて言った。
 「今からでもいいから、咲夜の気持に応えてやれよ」
 奏が言うと、拓海は、遠くへ想いを馳せるようだった目を、再び奏に向けた。
 そして―――寂しげな笑みと共に、ゆっくりと首を振った。
 「それは、無理だ」
 「なんでだよ」
 「…4年以上かけて、出した結論だから」
 「……」
 「何度―――何度、迷ったかわからない。咲夜が20歳を過ぎた時から……手に入れれば思い切りもつく、いっそ咲夜を抱いてしまえばいいと、何度、その通りにしようとしたか、わからない。でも―――迷うたび、俺は、みなみを思い出すんだ。2年も付き合って、何度も体を重ねた香苗じゃなく、たった1度抱いただけのみなみを」
 「……」
 「…どんなに咲夜が好きでも、みなみより愛することは、できなかった。どれだけ願っても、そうしてやりたくても……咲夜は俺の中で、1番じゃなく、2番なんだよ」

 2番―――…。
 もっと下なら、絶望的だと思うこともできる。けれど、2番……たった1人の差だけれど、結果は3番以下と同じ。最も残酷で無慈悲な立場だ。
 どうして咲夜じゃ駄目なんだ? と、いくら奏が歯がゆく思っても、それを問うても意味はないのだろう。拓海の方こそ、神様に何度も訊ねたに違いない。何故―――何故、佐倉でなければ、駄目なのか、と。

 「…2番の女じゃ…駄目なのかよ」
 まだ食い下がるように、奏が訊ねる。
 「1番が手に入らないなら、2番でもいいから手に入れようとは、あんたは思わないのかよ? 誰だって、一番欲しいものだけを手に入れる訳じゃないだろ?」
 ―――オレが、永遠に蕾夏を手に入れられないように。
 心の中で、そう付け足す。…勿論、その話を拓海にする気などなかった。
 すると拓海は、大きく息をつき、気だるく髪を掻き上げた。その仕草が、なんだか咲夜に似て見えて、一瞬ドキリとした。
 拓海はそのまま、暫し黙っていた。が、やがてフラリと立ち上がると、ぶらぶらとピアノの方へと歩いて行った。
 「―――2番目が、咲夜以外の女なら、そうしたかもな」
 「……えっ」
 咲夜以外の、女なら…?
 目を丸くする奏をよそに、拓海はピアノの前に立ち、鍵盤の蓋を開けた。そして、人差し指で、弾きこまれた白鍵を1つ、叩いた。

 ポ―――……ン…。

 柔らかなピアノの音が、広い部屋に響く。
 「…一宮君」
 改めて名を呼ばれ、奏は、妙な居心地の悪さを感じながら、拓海の方に体ごと向き直った。
 「咲夜がどうして、俺以外を好きになろうとしないか。…君は、知ってるかな」
 「…どうして…って」
 それは、拓海以外を好きに“なれない”から―――ではないのだろうか?
 「あいつの両親の話は、知ってる?」
 「…大体は」
 「咲夜の父親が、俺の姉貴と再婚した経緯も」
 「…それは、ほぼ完璧に」
 「―――あいつは、恋は、一生に一度でいい、って昔から言ってた」
 もう1度、今度は別のキーを叩く。
 「本当に愛せる人なんて、一生に1人いれば十分だ。人を好きになって、いつかその人を裏切る日が来る位なら、自分は最初に好きになった人を死ぬまで愛し続ける―――俺と出会って、まだ1年経つか経たないかって頃から、そう言ってた。…ませた14歳だろ。そして、咲夜が最初に好きになったのは、俺だった―――…」
 鍵盤に視線を落としていた拓海が、顔を上げる。そして、少し離れた場所に立つ奏に、目を向けた。
 「…一宮君。あいつはね、俺を好きで居続けることが、自分の“義務”だと思ってるんだよ」
 「は?」
 義務?
 唐突な単語に、奏が眉をひそめる。が、拓海は淡々と、言葉を続けた。
 「俺を好きになったからには、一生、その気持ちを裏切ることなく、好きで居続けなくちゃいけない―――そう、強迫観念にも近いほどに、思い込んでるんだ。その想いで、自分自身を縛ってる」
 「…どうして…」
 「―――亡くなった、母親のために」
 拓海の目が、少し悲しげに細められた。
 「大好きだった母親が、死の淵を彷徨ってたその時、妻を、娘を裏切って他の女に安らぎを求めた父親を、許せなくて、許せなくて―――いや、裏切られたまま死んで行った母親が、不憫で、可哀想で―――…母親に代わって父親を責めながら、あいつは、父親に代わって母親に詫びてるんだ。父と同じ(てつ)は絶対に踏まない、自分は絶対に、生涯、1人の人を愛し続ける―――愛し続けることで、父親に代わって、母親に罪の償いをしてるんだよ」
 「……」
 「…一種の偏執病(パラノイア)、かもな。…咲夜は、その部分だけは、今もまだ13歳のままなんだ」

 咲夜―――…。

 恋は一生に一度でいい―――母の話を初めて奏に告げた時、そうきっぱりと言い放ち、赤くなった目でどこか遠くを見据えていた咲夜を、思い出す。
 あの時のあの一言は、痛々しかった。壮絶な覚悟のようなものを含んでいるように、奏には思えた。確かに―――咲夜は、この部分に関しては、今もまだ、家族を受け入れられず、この部屋に逃げ込み膝を抱えて丸くなっていた、13歳のままなのかもしれない。

 「だから、あいつの俺に対する“好き”は、そういう意地や思い込みも含んでるんだよ」
 拓海のその言葉に、奏は黙っていられず、口を開いた。
 「でも―――でも、咲夜は、本当に麻生さんを、」
 「ああ。それは、わかってる」
 咲夜の恋が、ただの意地ではなく、真剣な、身を焦がすほどの恋であることは―――拓海も、ちゃんと理解しているらしい。奏の短い反論に、拓海は苦笑し、軽く頷いた。が、その苦笑も、すぐに苦々しげな表情に変わった。
 「…このまま行けば、咲夜はずっと、俺を想い続けるだろう。抱かれることも、独占することも望まず、ただ生涯“俺”という“初めて愛した男”を愛し続けることさえできれば、あいつは生きていける―――歌うことで、満たされない心を満たすことができる」
 「……」
 「1年に1度しか咲かない花のように、一生に一度の恋に死んでいこうとしてる。…そんな咲夜を、俺が選べるか? 決してみなみを忘れられない―――生涯、咲夜を1番にはしてやれない俺が」
 そう言って拓海は、奏から視線を逸らした。
 「想いさえあえば、悲しい恋の歌も、幸せを感じながら歌える、音楽の女神―――俺は、みなみを想っても、手に入らない苦しみしか弾くことができない。なのにあいつは、どんなに悲しい恋でも、想いだけあれば、幸せを感じられる」
 「……」
 「…あいつには、幸せな恋を、歌って欲しい」
 「……」
 「たくさんの恋をして、たくさんの男から愛を貰って―――咲夜を一番愛してくれる男に愛されて、幸せな歌を歌って欲しい」
 そこまで言うと、拓海は、想いを切り離すように、鍵盤の蓋をバタン! と閉めた。
 「―――そのためには、俺は、憎まれる位でちょうどいい」
 「麻生…さん…」
 「プラトニックでいる限り、あいつは自分を、俺の“恋愛対象外”として見続けるだろう。その方が、1度寝たらおしまい、の女よりずっとマシだからな。…好きで居続けなきゃならない、っていうあいつの病的な思い込みをぶち壊すには、これしかなかった。もっとも―――本当に抱く羽目になったのは、俺の計算ミスだけど、な」

 ―――そんなに思いやっていても……それでもまだ、咲夜じゃ、駄目なのか。
 佐倉さんを想っても、苦しいばかりで、幸せなことなんてないのに―――それでもまだ、佐倉さんを選ぶのか。

 もう、何も言い返せなかった。
 確かに咲夜は、プラトニック・ラブである限り、拓海を密かに思い続けていっただろう。佐倉の上に行くことはできなくても……いや、それどころか、拓海から“女”とみなされなくても、咲夜はそれで満足し続けられるのだ。
 今、咲夜は、絶望している。使い捨てられた女たちと同じ扱いになってしまった―――拓海の想いも知らず、そう思って、ショックを受けている。けれど、これまで絶対に考えなかったこと……拓海への想いを捨てること、を、考え始めている。
 拓海の思惑と、この結果を見てしまえば―――奏には、もう何も言えなかった。

 「…あんたの言い分は、わかった」
 奏は、仕方なく、そう認めた。が、再び目つきを鋭くし、拓海の横顔を睨んだ。
 「でも、殴りこみに来たことは、謝らない」
 その言葉に、拓海は、少し驚いたように目を丸くし、奏の方を見た。
 「咲夜を泣かせたことも、性懲りもなく佐倉さんを諦めないことも、オレがとやかく言う問題じゃないから、何も言わない。でも、咲夜を振った方法だけは、やっぱり個人的に許せない。だから、謝らない」
 「…許せない?」
 要領を得ない拓海に、奏は、不愉快そうに眉を顰めた。
 「咲夜があんたに抱かれたことで、オレ自身がショック受けて、傷ついたからだよ」
 「……」
 拓海が、軽く目を見開く。
 そして、その意味を理解し―――ニヤリと笑った。
 「なるほど。じゃあ俺の方も、君には多少嫉妬しないとまずいかな」
 「は?」
 「みなみのことだよ。柳が、面白くもない情報を、色々と報告してくるからね」
 「……」
 一気に、背筋が冷たくなった。
 ―――や…、柳のヤロー…!
 ただの変態ストーカー男だと思っていたら、裏で拓海に仕入れた情報を流していたとは…。いや、今考えると、拓海の佐倉への想いを知っている柳が、拓海への嫌がらせのために佐倉の男関係を探っていた、とも考えられる。詳細は聞いていないものの、どうやら柳は、香苗との一件がきっかけで、拓海を相当敵視しているらしいから。
 冷や汗が、浮かんでくる。どう言い訳しようとも、佐倉とそういうことがあったのは、紛れもない事実だ。
 その動揺が、正直すぎる奏の顔には、面白いほど如実に表れてしまっていた。それを見た拓海は、ちょっと前の深刻な空気を忘れたかのように、可笑しそうに吹き出した。
 「ハハ…、冗談だよ」
 「い…、いや、でも」
 「長い間に、みなみに恋人ができた時もあった。結構真剣な恋をしてた時もあったようだし―――それに、俺の方も噂通りの生活だし、咲夜のことでは何年も迷ってきてた。…今更、嫉妬するような段階にはないよ」
 そう言う拓海の表情が、嘘じゃなく、心からそう思っている表情だとわかり―――奏は、ちょっと不思議な気分になった。
 「…なんで、そんな風に思えるんだよ。そんなに好きな女なのに」
 少し眉をひそめて、奏が問う。
 すると拓海は、なんだか悟りを開いたような静かな笑みを浮かべ、こう答えた。
 「そうだな―――ずっと、一度も途切れない、微かな望み、……かな」
 「…望み?」
 「俺が、みなみに赤い薔薇を初めて贈ってから、8年になる」
 「……」
 赤い薔薇の意味は、多分、求愛。
 けれど、そのきっかけも、2人の間の意味も、拓海は説明しなかった。説明せず―――こう結んだ。
 「みなみは、俺が贈った薔薇を、一度も拒んだり、送り返したりしたことがない。…ただ、それだけだよ」

***

 「…じゃあ、お邪魔しました」
 殴りこみに来て「お邪魔しました」もないよな、と思う。が、他に言いようがなくて、奏は仕方なくそう挨拶した。
 玄関まで見送りに来た拓海は、奏がこの部屋に押しかけた時より、幾分マシな表情になっていた。案外―――拓海も、奏に話すことで、後悔や罪悪感が整理できたのかもしれない。第三者の自分が首を突っ込むべき話じゃなかったのでは、という後ろめたさもあったのだが、拓海の表情の変化を見て、少なくとも拓海側には、自分が来た意味はあったのかもしれない、と奏は思った。
 ―――助けるつもりのない奴を助けても、あんまり嬉しくないんだけどな。
 咲夜の涙を思い出し、また陰鬱な気分になる。いくら事情がわかったところで、咲夜が傷ついているという事実に変わりはないし、拓海の本音は、やはり咲夜には言えないだろう。
 「ありがとう。咲夜のために、わざわざここまで来てくれて」
 拓海は、奏にそんな礼を言った。
 「君がいてくれて、良かったと思う。もし君がいなかったら……俺も、決断できたかどうか、自信がない」
 「…オレが…いなかったら?」
 「咲夜の、唯一の“親友”だから」
 親友―――…。
 後ろめたさに、ズキン、と胸が痛む。
 その痛みも、表情に出てしまったらしい。拓海が、ああ、という顔で苦笑を漏らした。
 「君が“それ”だけじゃないのは―――実は、もうちょっと前から、気づいてた」
 「えっ」
 「今度のアルバムの、ジャケット撮影の時。咲夜を“いい女だ”って褒めたら、随分嫌そうな顔されたからね」
 「……」
 残念ながら、あの時、奏自身の方はまだ自覚がなかった。バツの悪さに、奏はちょっと視線を泳がせた。
 「でも―――“それ”だけじゃないにしても、やっぱり君は“親友”だろ?」
 「…その、つもりだけど…」

 …でも、オレは。
 オレは、咲夜が傷つけられたことに、我を忘れる位に怒りを覚えながら―――本音では、どこかで喜んでる。咲夜が一生と決めていた恋が、終わるかもしれないことを。

 親友失格だ、と思う。
 昨夜、ビールで無理矢理誤魔化したのは、咲夜にとっての不幸を喜んでしまう罪悪感と、嫉妬―――たった一晩のこととはいえ、咲夜を手に入れた拓海に対する、嫉妬だったのだから。
 「―――…しつこいようだけど、麻生さん」
 罪悪感のせいか、親友としての自分がまだ納得しきれないせいか、奏は、もう一度だけ食い下がった。
 「どうしても咲夜に、あんたへの想いを、捨てさせなきゃならない?」
 「……」
 「そりゃ、完全に“過去の人”にできれば、咲夜も楽だと思うけど……あいつ、あんたへの想いを失くしたら、どうなるかわからないぜ?」
 「…そうだな」
 それは、拓海も奏と同意見らしい。少し渋い表情で、ため息をついた。
 「完全に捨てろ、ゼロにしろ、なんてことは無理だと、俺もわかってる。…だから、これは、俺のわがままなんだ」
 「わがまま?」
 「…一宮君には、経験がないかな。応えられない想いを、ずっと身近に感じ続ける辛さ」
 ギクリ、と、肩が強張る。
 「相手を憎からず思ってるからこそ―――“最愛の人”にはしてやれないことが、辛くて、辛くて、耐えられない。…そんな経験は、君にはないかな」
 「……」
 …覚えが、あった。
 明日美の時の、あの焦燥感だ。
 レベルこそ違えども、あれも、想いに応えられない辛さだった。早く明日美を、明日美が自分を想うほどに、好きになりたい―――そう思っても、どうしても望むところまで好きにはなれない。明日美では、駄目だった。明日美では、1番を……蕾夏を凌駕することはできなかった。
 あの日々は、苦しかった。
 手に入らない人を恋い慕う辛さは、もう嫌というほど実感していた奏だったが―――想われる、ということが、こんなに苦しいことだとは、あの時まで知らなかった。
 「…俺と、咲夜は、似てるんだ。俺がみなみを忘れるか、咲夜が俺を忘れるか……年上な分、俺が自分の意志を曲げるべきなのかもしれない。でも……5年近く試みて、無理だった。わがままかもしれないけど、咲夜に辛い思いをさせるしかない」
 「……」
 「正直―――不安もある。咲夜はああ見えて、悩みや苦しみを抱え込んで、心を病む癖があるから。それもあって、今まで、どうしても思いきることができなかったけど―――…」
 そう言うと、拓海は、真っ直ぐに奏の目を見据えた。
 愛しい存在を手放す寂しさと、追いすがる存在を突き放す罪悪感と……1人の人を追い求めることを決意した、悟りのようなものが、複雑に入り混じった目で。
 「咲夜が必要としたら、手を差し伸べてやって欲しい」
 「……」
 「俺に本気で腹を立てて、涙まで浮かべて掴みかかってきた君になら―――咲夜を、託せる。親友としてでも……恋人としてでも」

 それが、友情でも。
 …それが、愛でも。

 どちら、とは、奏自身にも、言い切ることはできない。
 ただ、「わかりました」という意を込めて―――奏は、拓海に向かって、微かな笑みを返した。


***


 「あら、お帰りなさい」
 アパートの入り口でマリリンと偶然出くわし、奏は、驚いて目を丸くした。
 マリリンは、自分の部屋に戻ろうとしているところらしかった。小脇にノートパソコンを抱えているところを見ると、完全撤退だろう。
 「…ただいま。あの、咲夜は」
 「ああ、また眠っちゃったのよね。その隙に、書き上げた原稿プリントアウトしようと思って、ちょっと引き上げて来たって訳」
 なるほど。プリンターのために、パソコン持参で戻って来た訳だ。
 「一宮さん戻ってきて、ちょうど良かったわ。はい、これ、咲夜ちゃんの部屋の鍵」
 「あ…、どうも」
 手渡された鍵が、手の中でチャリン、と音を立てる。それを握り締めた奏は、幾分心配そうな顔になり、少し話し声の音量を落とした。
 「で―――咲夜の奴、どうだった?」
 「…そう、ねぇ。やっぱり元気なかったわねぇ。お昼に、少しだけおかゆは食べたけど、食欲が全然ないみたい」
 「…そっか」
 「あんまり心配だから、どこが悪いのか訊いたけど―――本人、失恋しちゃった、とか言ってるわよ。ほんと?」
 唐突に出てきた言葉に、奏はギョッとして目を見開いた。
 「し、失恋?」
 「…だってさ。冗談口調だったから、あんまり本気には取ってないけど」
 「…ふ、ふーん…。じゃあ、冗談なんじゃない」
 自棄になっているのか、それとも素直に答えただけなのか―――何にせよ、まさか咲夜の口から真実がマリリンに暴露されるとは思わなかった。
 急なことで、心臓に悪い。不整脈でも起こしたみたいな、妙な鼓動の打ち方をする心臓を宥めつつ、奏は引きつった笑いをマリリンに返した。
 「じゃ、とりあえず、サンキュ。咲夜にいきなり倒れられて、どうしようかと思ってたんだ。助かったよ」
 「…いーえ。どういたしまして」

 わざとらしい笑みを残して、そそくさと2階へと上がろうとする奏を、マリリンは、一瞬黙って見送りかけたのだが。
 「―――ねえ、一宮さん」
 奏が、階段を2段ほど上ったところで、声をかけた。
 え、と振り向いた奏は、そこに佇むマリリンの表情が、やけに真剣なものであることに、ちょっと驚いた。なんだろう、と身構える奏に、マリリンは、僅かに眉を寄せ、口を開いた。
 「一宮さんは、知ってるの、かな」
 「……え?」
 「咲夜ちゃん、この前、うちに来た時―――…」
 「?」

 何の話か、わからなかった。
 わかる筈もなかった。奏は、咲夜がマリリンの部屋に行ったことすら、知らなかったのだから。

 だが、要領を得ない顔の奏を見て、マリリンは話すのを止めたらしい。真剣だった表情を、ふっ、と緩め、マリリンは軽く首を振った。
 「…いえ、なんでもないのよ。じゃあね」
 「……?」
 キョトンとしたままの奏を残し、マリリンはヒラヒラと手を振り、自室のドアの向こうへと消えた。

 

 奏が、首を捻りながら再び階段を上り始めた頃、閉じたドアの内側で、マリリンは、小さくため息をついていた。

 ―――参ったね、どうにも。
 そこいらの恋愛小説より、なかなかに見物な恋愛模様が、よもや自分の真上で展開してたなんてね。

 今朝、とてつもなく思いつめた表情で、咲夜を自分に託した、奏。その眼差しの意味を見抜けないようでは、恋愛小説家などやっていけない。
 そして、先日、咲夜が実名を挙げずに口にした「大切な友達」。…それが誰だかわからないようでは、やっぱり、恋愛小説家など務まらないのだ。

 『私はイヤ。絶対イヤだ、そういうの。一方通行でも、報われなくても、その人が好きなうちは、絶対他の人なんか好きになりたくない』

 「―――…失恋、か」
 小脇に抱えたノートパソコンに、視線を落とす。
 あの時の咲夜との会話が発端で生まれた、書き上げたばかりの新作―――恋は一生に一度と言う咲夜は、どう思うだろう?

 今日1日、まるで死人のように、ベッドの中で丸まっていた咲夜を、思い出す。
 その姿は、あの日―――妻の連絡を受け、慌てて駆けつけたロサンゼルスのアパートメントで見た、娘の姿に、どこか重なって見えた。

 ―――この話が、あの子の毒となるか薬となるかも、わからないなんて。

 見える筈もない上階に目をやったマリリンは、自分自身の不甲斐なさに苛立ったように、ノートパソコンの縁を指でトン、と叩いた。


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