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― 相似形

 

 大急ぎで階段を駆け下りたけれど、間に合わなかった。

 ビルの外に飛び出した咲夜は、肩で息をしながら、左右を見回した。が、どういう訳か、1、2分の差で下りた筈の拓海の姿は、どの方角にも見当たらなかった。
 見通しのいい大通りだ。駅へ向かったのなら、たかだか2分程度の差なら、まだ小さく背中が見える位の筈。それに拓海は、滅多に電車や地下鉄を使わない。普段はマネージャーが車を出すし、オフの日でも飲まない日なら車、飲む場合はタクシーがほとんどだ。車で動かれては、どこへ行ったかなんて見当もつかない。携帯に電話をしても、恐らく出てくれないか、電源を切っているだろう。
 ただ、咲夜には1つだけ、確信があった。
 その辺をぶらぶらしてるにしても。タクシーを拾って、どこかに飲みに行ってるにしても。
 ―――拓海は絶対、自分の部屋に帰ってくる。
 こんな時、拓海が一声かければ、喜んで馳せ参じる女はいくらでもいるだろう。憂さ晴らしに夜通し遊び呆けて、そのまま家に帰らない、という選択肢も、あるには、ある。けれど、拓海は絶対そうはしない、と咲夜は断言できた。
 拓海は、咲夜と、よく似ているのだ。
 自分なら、どうするか―――そう考えた時、怒りや悲しみを、誰かと時間を共有することで紛らわせる自分は、想像できなかった。

 はぁ、と息をついた咲夜は、少し、迷った。
 少し、腕が痛む。気になって、カットソーに包まれた腕を軽くさすってみた。
 『行くなよ』
 そう言って、痛いほど腕を掴んで咲夜を止めた奏の表情が、目に浮かぶ。まだ5分と経っていないその記憶に、咲夜の胸がズキンと痛んだ。
 多分、奏の言う通りだ。行ったって、何の解決にもならない。馬鹿を見るだけだろうし、それどころか邪魔者扱いされて追い返されるかもしれない。奏は、咲夜が傷つくのを黙って見ていられなくて止めてくれたのだ。その声に従うのが、本当は正しいことなのかもしれない。
 …でも。

 顔を上げた咲夜は、一度、大きく息を吸った。
 馬鹿だと、自分でも思うけれど―――それでも咲夜は、歩き出した。


***


 コンコン、とドアをノックしたが、返事はなかった。
 「…入るけど」
 「……」
 一言、断りを入れたが、それにも返事はなかった。無言の了承と解釈し、奏はドアノブを回した。

 佐倉は、ミーティングテーブルの片隅に腰掛け、顔を手で覆うようにして額を押さえていた。奏が入ってきても顔を上げる気配も見せず、ひたすらじっとしている。その姿は、廊下で聞いた一方的な言葉とは裏腹な印象を奏に与えた。
 数日前、テーブルの上の花瓶に活けられていた豪華な真紅の薔薇は、花の時期を過ぎたのか、既にそこにはなかった。何気なくオフィスの中を見渡すと、入り口脇に置かれたロッカーの上に、新聞紙に包まれた薔薇を見つけた。
 ―――持ち帰るつもりだったのか…。
 そう察して―――妙に、納得がいった。

 「佐倉さん」
 奏が声をかけても、佐倉は姿勢を崩さなかった。
 「ごめん。聞くつもりじゃなかったんだけど―――タイミング、悪かったよな」
 「……」
 「…あれ、ほんとなのかよ」
 佐倉が、僅かに顔を上げた。「あれ」の意味を問うような視線を、奏に向ける。
 「この事務所の話だよ。柳に“G.V.B.”立ち上げを約束させる代償として、この事務所への柳の介入を認めた、って」
 「…ええ。本当よ」
 酷くあっさりした口調で、佐倉は認めた。当然とでもいうようなその声色に、逆に奏の方が眉をひそめてしまう。
 「なんで…」
 「…香苗は、実力はあるのに、柳の息のかかった人間だっていうだけで、どうしても色眼鏡で見られてたのよ。香苗本人には会えずにいるけど、“YANAGI”の社員とはそれなりに交流があるから、それとなく評判を聞いてるけど……言いがかりもいいとこ。特に、柳が社長になってからはね。柳自身も、香苗の夢より会社の平穏が大事だから、社内では香苗に厳しく当たってたし」
 淡々と佐倉に告げられた内容に、奏は、なるほどそういう事情もあるのかもしれない、と少し思った。
 奏自身、駆け出しのモデルだった頃は、叔父が時田郁夫だと知った周囲の人間から、実力で勝ち取った仕事を「有名人の叔父さんがいると、楽できていいね」などと揶揄されたりした。同じ有名人でも、カメラマンでなければ、こんなことは言われなかっただろう。良くも悪くも、立場の強い人間の関係者は、目立ってしまう。それが親類ではなく恋愛関係なら、余計ややこしい立場になるのは当然なのかもしれない。
 「そんな時に、モデルの引き抜き交渉が難航してたあたしに、柳が資金提供を持ちかけたのよ。当然、あたしは断った。あの男に借りを作るのは嫌だったから。でも―――柳の中に、どうやらあたしに対する下心があるらしい、と見抜いて、考え方を変えることにしたの。これはチャンスだ、体面を取り繕うために香苗の才能を飼い殺しにする気なら、あたしをエサにして柳をコントロールしてやれ、って。もっとも―――そんな風に考えた理由のひとつには、やっぱり、あんなに香苗一筋だった男があたしに色気を出したことに腹を立てた、って側面もあるけど」
 「香苗一筋、って……ほんとかよ。そんな一途な男に見えなかったぜ?」
 「一途、とは、ちょっと違うけどね」
 そこで初めて、佐倉はくすっと、小さく笑った。額を押さえていた手を外し、大きく息を吐き出すと、佐倉はミーティングテーブルから降り、椅子を引いて腰を掛けた。
 「社長就任前の柳は、いわゆるプレイボーイで、結構好き勝手してたのよ。香苗とは“YANAGI”関係の仕事で知り合ったんだけど―――多分、自分の意のままにならなかった初めてのケースだったんじゃない? だから、香苗をそれほど好きだった、というより、色男の意地とプライドから、香苗に執着してたのかも」
 「…しょーもない奴だな」
 「今、あたしに興味持ってるのも、まあ似たような理由なんでしょうよ。全く……いい歳して、さっぱり学習能力がないわね」
 「―――で? あんたは、どうなんだよ」
 滑らかに柳のダメ男ぶりを語っていた口が、止まった。
 僅かに表情を険しくした佐倉は、厳しい目つきで、奏を見据えた。が、今日の奏は、その程度では怯まない。
 「麻生さんのことなんて大して知らないような顔してたのに―――随分、いわくあり気な話だったよな」
 「……」
 「…自殺未遂は、そりゃ、ショックだったんだろうけどさ。いくら柳さんが佐倉さんにも興味持ってるっつっても、香苗さんの今の恋人は、柳さんなんだろ? だったら、佐倉さんが香苗さんに気ぃ遣って麻生さんを拒否るのって、変じゃない?」
 「…ア…ッハ、面白いこと言うわねぇ」
 皮肉っぽい笑いを浮かべ、佐倉は余裕あり気に脚を組んでみせた。
 「キミの意見だと、あたしの気持ちは完全無視じゃない? なんであたしが、麻生さんと? こっちにだって選ぶ権利はあるわよ」
 「でも、好きなんだろ?」
 「何よ、それ。そんな訳」
 「“G.V.B.”に麻生さんが提供した、あのオリジナル曲」
 佐倉の言葉を遮るように奏が放った一言に、佐倉は、言葉を飲み込んだ。
 「すっかり、忘れてた。咲夜に借りたCDで聴いた時も、なんだかどっかで聴いたような親しみ持てる曲だな、とは思ったけど、それ以上のことは思わなかった。でも―――この前、思い出したんだよな。オレ、咲夜にCD借りる前に、あの曲を1度聴いてたんだ」
 「……」
 「1年くらい前―――佐倉さんの部屋で」
 心当たりが、あるのだろう。佐倉の表情が、変わった。

 『…やっぱ佐倉さん、ジャズ聴くんだ』
 『たまーに、ね』
 『…ジャズって、失恋に似合うよな、腹立つほど』
 『―――…そうね』

 かなり酔っていたのに、その会話は、不思議なほど奏の耳に残っていた。
 押し倒された弾みで、偶然押してしまった、コンポのリモコン。流れてきたのは、ジャズだった。好きな曲ばかりMDにでもダビングしていたのだろうか。あの日、同じ曲ばかり3曲ほどが、延々何度も繰り返しスピーカーから流れていた。その中の1曲は、奏の記憶違いじゃなければ、“G.V.B.”のCM曲だった。
 日曜に、咲夜から雑誌記事の話を聞かされた時、初めて佐倉と拓海の付き合いに疑問を持った。それでようやく、長いこと忘れていたこのエピソードを思い出したのだ。

 「あの時のこと思い出したら、少なくとも、佐倉さんが麻生さんの“音楽の”ファンであることはわかった。じゃあなんで、最初に一緒に麻生さんのライブに行く話を持ちかけた時、麻生さんについてのネガティブなことばっか言って断ったんだろう? って不思議に思ったんだよな。…でも、さっきの話聞いて、わかった。あんたは麻生さんの単なる“音楽の”ファンじゃなくて、」
 「違うわ」
 「麻生さん自身に惚れてるから、でも香苗に遠慮してそれを表に出せないから、麻生さんを避けてたんだろ?」
 「違うわよ!」
 ガタン! と大きな音がした。
 立ち上がった佐倉は、ツカツカと奏の目の前を横切り、自分の席に脱いであったジャケットを掴むと、それをイライラした様子で羽織った。どうやら、奏を無視して帰る準備を始めたらしい。
 ―――なんでそんなに、香苗の方ばっかり向いて、麻生さんに背中を向けるんだよ…。
 帰り支度をする佐倉の、佐倉らしくない、余裕のない様子を眺めつつ、奏は僅かに目を眇めた。

 さっき、佐倉は、「もう二度と」と言った。
 「もう二度と好きにならない」……それは、かつては拓海を愛していた、ということだ。
 以前から佐倉は「昔、男では痛い目に遭った」とか「もう男はこりごり」などと言っていたが―――多分、それが、拓海なのだろう。
 同じ「自分にとって大切な人の最愛の男」であっても、多恵子の憧れの人や、可愛い子猫ちゃんの彼氏のことは、芽生えた恋心を別の愛へと転化し昇華させ、穏やかに過去のものへと変えていけているのに―――拓海は、今も引きずったまま。それは結局、佐倉はずっと拓海を忘れられずにいた、ということなのではないだろうか。

 「あたしは、一途な人間が好きなのよ。子猫ちゃんの彼氏に柄にもなくほだされちゃったのも、恋愛対象じゃないキミとつい何度かベッドを共にしちゃったのも、キミにしろ彼にしろ、みんな“誰かを一途に想っている人”だったからよ。だから、麻生さんみたいな節操のない人はお呼びじゃないの。冗談じゃないわよ。なんであたしが麻生さんを好きになれるって言うのよ」
 訊いてもいないのに、佐倉はそんな風に早口で説明しながら、書類をブリーフケースに突っ込んだ。パチン、と蓋を閉めると、ブリーフケースを提げた佐倉は、またツカツカと奏の方へ―――ドアの方へとやってきた。
 佐倉らしい、気の強そうな切れ長の目が、奏を睨み据える。普段なら気圧される筈のその目も、奏にはただ無理をしてるだけにしか見えなかった。
 「いい? 確かにあたしは、麻生さんをピアニストとしては買ってるけどね、香苗を自殺に追い込んだあの人を許せる訳が」

 そこまで佐倉が言った時。
 佐倉の目の前に、奏が、何かを突きつけた。
 途端―――佐倉の虚勢が、崩れた。

 「…こいつも、あんたの部屋で、ドライフラワーになるって訳だ」
 「……」
 「いつから? 初めてあの部屋に行った時もあったっけ? …ま、オレには関係ないけど」
 佐倉の唇が、震える。落ち着かなく彷徨った視線は、結局―――奏が突きつけている薔薇の花束に釘付けにされた。
 「…オレは、佐倉さんがどういう恋愛しようが、麻生さんが佐倉さんをどう思っていようが、正直、どうでもいい。罪悪感なのか責任感なのか、過去に囚われてあんた達が何年もすれ違いを繰り返してきたんだとしても、それはあんた達の自由だと思うから、非難する気はないよ」
 低くそう言うと、奏は、新聞紙に包まれた薔薇を佐倉の手に押し付けた。
 「でもな。あんた達がちっぽけな意地やプライドのために態度をはっきりさせなかったせいで、長いこと傷つけられてきた奴もいるから―――麻生さんを好きだって認めようとしないあんたに、ちょっと、腹が立ってる」
 はっ、としたように、佐倉が顔を上げた。
 誰のことを言っているのか、佐倉にはわからないのだろう。怪訝そうに、その眉がひそめられる。…わからなくていい。咲夜もきっと、佐倉には知られたくないだろう。

 佐倉さえ、拓海を受け入れてくれたら。
 どんな事情があるにせよ、求められ、本音では自分も求めているのなら―――もっと早く、拓海を受け入れて欲しかった。そうすれば、拓海はあんな風に彷徨わなかっただろうし、咲夜も苦しまずにすんだろうに。

 「でも、佐倉さんがただの天邪鬼や意地っ張りじゃないのも、よく知ってる。だから…理由が、聞きたい。なんで麻生さんじゃダメなのか」
 「……」
 話してみろよ、とでも言うように、もう一度、ぐい、と花束を押し付ける。佐倉はノロノロとそれを受け取った。
 受け取った薔薇を、暫し、じっと見つめる。そして―――長い、長いため息をついた。
 「…一宮君」
 顔を上げた佐倉は、サラリと髪を掻き上げ、弱々しく笑った。
 「1人で飲んだら、悪酔いしそう。…時間は取らないから、何も訊かずに、1杯、付き合ってくれる?」
 何も訊かずに。…それは、これ以上何も答える気はない、ということだろう。
 変な意地を張っている佐倉には、イライラするし、腹が立っている部分もあるのだけれど―――そうは言っても、随分世話になった人だ。
 ため息をついた奏は、了承の意味を込めて、肩を竦めた。
 それを見て、佐倉は、少しホッとしたような笑みを見せた。


***


 合鍵を使って、鍵を開けた。
 そっとドアを開けると、玄関には、革靴が1足―――それを見て、咲夜は安堵の息をついた。

 廊下を抜け、リビングを覗き込むと、ピアノの上に水割りの入ったグラスが置いてあるのが見えた。
 「拓海…?」
 咲夜が声をかけると、ピアノの前に座ってぼんやり窓の外を眺めていた拓海は、酷く緩慢な動きで咲夜の方に目を向けた。まるで、声をかけられるまで、咲夜が来たことに気づかなかったみたいに―――けれど、そこに咲夜がいることを、少しも不思議に思っていないみたいに。
 気だるそうな拓海の目に、咲夜は口元でちょっとだけ笑い、バッグを床に置いてピアノに歩み寄った。
 「何か、弾いてたの」
 「…いや」
 「…そっか」
 とは言え、歩み寄ってみると、鍵盤の蓋は開けられていた。単なる習慣かもしれないが、何か1曲弾きたい気分でピアノの前に座ったけれど、結局何も弾かずに時間だけ過ぎた、という状態かもしれない。
 「あんまり、驚かないね。私が来ても」
 「―――来るだろうと思ったからな」
 口元だけで微かに笑った拓海は、グラスを手に取り、口に運んだ。
 「むしろ、遅いな、と思った」
 「…ん、少し、時間置いた方がいいかな、と思って」
 「気が利くな」
 「……ごめん、拓海」
 咲夜がそう言うと、拓海は、怪訝そうに僅かに眉を上げた。
 「何が」
 「あの、記事のこと。…見せない方が良かったかな」
 「ああ、そのことか。いや―――見せてもらって、よかった。柳のヤローの魂胆もわかったしな」
 「…でも…」
 そのせいで、佐倉さんと言い合いになっちゃったじゃん。
 と言いかけて、咲夜は口を閉ざした。
 気まずさと複雑な心境に、視線を逸らす。緊張しているのか僅かに乾いた唇を無意識に舐めると、咲夜は、背後に持っていたものを拓海に差し出した。
 それは、途中で買ってきた、1本の真紅の薔薇だった。
 「……」
 「“La vie en rose”―――あれって、いわゆる“バラ色の人生”じゃなく、薔薇の花に想いを託し続ける人生のこと?」
 拓海の新しいアルバムのタイトルを口にして、咲夜はふっと笑った。
 「…佐倉さん、だったんだね。拓海の運命の人」
 「―――ハハ…、運命の人、ね」
 投げやりな笑い方をすると、拓海は薔薇をひょいと摘み上げ、鍵盤の上に置いた。
 立ち上がり、グラスを手にすると、拓海は咲夜の横をすり抜け、ソファに腰掛けてしまった。咲夜もそれを追い、拓海の向かい側に腰を下ろした。無理強いだけはしないようにしよう―――そう自分に言い聞かせながら。
 「…あの、さ。ここ来るまでの間、聞いちゃった話のことを、ずっと考えてたんだけど―――違ってたら、ごめん。香苗さんと別れることになった原因って……佐倉さん?」
 咲夜の問いに、拓海は、グラスに口をつけたまま咲夜の方に目を向けた。
 肯定も否定もしない目で、くいっ、と水割りをあおる。グラスをテーブルに置くと、小さく息をつき―――暫し黙りこんだ後、やっと口を開いた。
 「―――誰それが原因、ていう言い方は、好きじゃないな」
 「じゃあ…言い方変える。拓海が、香苗さんより佐倉さんを好きになったから?」
 「…ま、そういうことだろうな」
 「…そっか」
 相槌を打ちながら、心臓が、押しつぶされるような痛みを覚えた。その痛みに耐えるように、咲夜は少し、俯いた。

 佐倉は、多恵子の自殺を気に病んでいた自分が、香苗を自殺に追い込んだ拓海を愛せる訳がない、と言っていた。ということは、少なくとも拓海が香苗に別れを切り出したのは、多恵子の死後だろう。
 多恵子の死は、咲夜が高1の冬……拓海と仲睦まじく寄り添う香苗を見たのは、それより前だ。そして、拓海が突然アメリカへ行ってしまったのは、その翌年の夏か、秋。…咲夜は、まだ17歳。拓海への想いを持て余し、少し拓海から距離を置いていた頃だ。
 自分が、少女じみた片想いに胸を痛めていた頃に、そんな泥沼の愛憎劇が拓海の身に起きていたなんて……想像したこともなかった。それどころか、既にジャズ・バーでの仕事を辞めていた拓海と、大学も卒業してしまった佐倉の間に、まだ交流があったことすら、知らなかった。
 想像できなくて、知らなくて、当然だ。
 当時の彼らから見たら、自分など、子供同然の存在―――綺麗なばかりじゃない恋愛についてなんて、真面目に語ることのできる相手ではなかったのだから。
 ―――そんなことも知らずに、香苗さんに嫉妬したり、必死に背伸びしてみちゃ落ち込んだりしてた私って……考えてみると、随分滑稽だよね。
 自嘲気味な笑いが、口元に浮かんでしまう。わかってはいたけれど―――15という年齢差に、改めてうちのめされた気分だ。

 「咲夜は、軽蔑するかもしれないなぁ…」
 ため息混じりにそう言って、拓海は、ソファに深く沈みこんだ。
 「付き合ってる女いるのに、他の女に惚れるなんて、許せないだろ、お前」
 「…香苗さんのこと、本気で好きだったの?」
 「好きだったよ」
 あっさりと、そう答える。
 「…好きだったよ。嘘じゃない。佐倉ちゃんを―――みなみを好きになってからも、香苗のことは好きだった。お前は信じられないかもしれないけどな」
 「……」
 「ま、結局、俺はそういう気の多い奴だった、ってことだ。親父さんを許せずにいるお前に味方しておきながら、自分も香苗がいるのにみなみに心を移したんだから、情けないよな。幻滅しただろ」
 変にサバサバした口調でそう言う拓海に、咲夜は、膝の上で拳を握り締め、拓海を見据えた。
 「―――ううん。別に、幻滅なんかしないよ」
 その反応が、意外だったのだろう。拓海の、自らを蔑むような笑いが、消えた。
 「お父さんのことは、今でも許せないけど……だから自分は、好きになるのは一生に1人で十分だ、って思ってるけど―――それを拓海や他の人にまで押し付ける気、ないし」
 「……」
 「…本気で、死ぬほど好きな人がいても―――それでも、他の人を好きになることも……あると、思うし」
 一瞬、奏のことが頭に浮かんで、またチクリと胸が痛んだ。
 「だから、拓海のこと、別に軽蔑も幻滅もしないよ。逆に、佐倉さんの方が好きなのに、それを隠して香苗さんと結婚したりしたら、そっちの方が幻滅する。佐倉さんの方が好きだから、って香苗さんと別れた拓海は、誠実だと思うよ、私は」
 「…ふぅん…」
 咲夜の顔を凝視したまま、拓海が、どこか曖昧に相槌を打つ。
 そして、瞬きを一度し、目線を咲夜から外すと、もう一度、
 「……ふぅん。そうか」
 と、呟いた。
 その拓海の反応が何を意味するのか、咲夜にはわからなかった。軽く眉を寄せ、拓海の様子を窺う。が、再びグラスを口に運ぶ拓海の様子からは、今の咲夜の言葉を拓海がどう受け取ったのかすら、まるで読み取れなかった。

 暫し、沈黙が流れた。
 何を話せばいいか、わからない。…いや、訊きたいことは、本当は山ほどある。佐倉とは元々、どの程度の付き合いだったのか。佐倉と香苗が友達だったのは偶然なのか。佐倉を好きになったのには何かきっかけがあったのか―――知りたいことだらけだ。でも、なんだか訊き難かった。お前に関係ない、と言われたら、それまでな話のような気がして。
 だから、唯一、わかっていることを訊くことにした。
 「…拓海」
 「ん?」
 「今でも、佐倉さんが好き?」
 ちょうどグラスを置いたところだった拓海は、それに伴いテーブルの上に落としていた視線を、反射的に上げた。
 特に何の感情も表していない拓海の目が、ふと、少し寂しげな、暗い表情に変わる。拓海は、絶望はしていないけれど、望みがないことを悟っているような薄い笑みを浮かべた。
 それは、今の質問に対する答えが「イエス」であることを示している笑みだ。
 「でも、みなみは、俺を許さない」
 「……」
 「馬鹿げてるな、ほんとに」
 「な…何か、誤解があるんだよ、きっと」
 おかしな話だ。自分が想いを寄せている人に向かって、他の女のことを諦めるなと、励ましの言葉を言ってるなんて。
 「だって佐倉さん、肝心な部分で、何も答えなかったじゃん。何か拓海には言ってないことが、香苗さんとの間にあったんじゃない? それで、一方的に拓海が悪いような誤解を」
 「誤解だろうが何だろうが、みなみが俺より香苗を選んだって事実は覆らないだろ」
 すっぱり切り捨てるようにそう言って、拓海はハッ! と投げやりに笑った。
 「まあったく、なぁ―――なんであんな可愛い気のない女を、いつまでもしつこく忘れられないかねぇ。自分でもアホらしいと思うよ。女なんざ、他にいくらでもいるってのに。人生の無駄遣いだよな」
 「……っ、そんなこと、ない!」
 予想外に、大きな声だった。
 びっくりして拓海が目を丸くするが、感情的になりかけていた咲夜は、自分の声のボリュームに気づかなかった。
 「無駄なんかじゃ、ない…! せっかく好きになった人を、そんな風に言わないでよ! ほんとは大事なのに、軽いことみたいに言わないで! 報われなくたって、一方的だって、本気で好きだって想いは、ただそれだけで意味があるのに…!」
 「意味がある、って……俺のことだろ。俺じゃない咲夜に、なんでそう言い切れるんだ?」
 「言い切れるよ! だって、私だって拓海を―――……!」

 言いかけて。
 感情に任せて口から滑り出した言葉に、咲夜は、ハッと我に返った。

 「―――…」
 私、だって、拓海を。
 拓海を―――報われないと悟りながら、想っているもの。
 拓海が、佐倉さんを忘れられないように―――私も、拓海しか、愛せなかったもの。もう、10年も。

 戦慄、した。
 一生、伝えるのは無理だと思っていた想いを、今、拓海の目の前で晒してしまった、という事実に―――咲夜は、恐怖を覚えた。
 拓海を見つめる、大きく見開いた咲夜の目が、動揺のあまり、ぐらぐらと揺れる。既に口にしてしまった言葉をもう一度自分の中に押し戻すように、右手の甲を口元に押し付ける。けれど―――取り消すことなど、不可能だった。
 拓海は、大声にびっくりしたままの丸い目をしていた。咲夜は、その視線をまともに受け止めることができなくなり、逃げるように顔を背けた。
 駄目だ。佐倉という確固たる存在がいる拓海に、まるで自分が期待しているかのような誤解だけは、絶対与えたくない。異様に速くなった心臓に、声が震えそうになりながらも、咲夜は全力で「別に大したことじゃない笑い」を作りながら、言葉を繋げた。
 「あ…あはは、ごめん、変なこと言って」
 「……」
 「い、いや、そりゃ、拓海のことは好き、だけどさ。あ、憧れってゆーの? そういう感覚の方が強いし、ほんと、そんな、拓海の佐倉さんへの想いと比較するような話じゃないんだ。ハハハ…」
 「……」
 「さ…佐倉さん、さ。なんか、今も拓海のこと好きなんじゃないか、って、今日の話し振り聞いてて思ったよ? 拓海が“人生の無駄遣い”なんて言うほど、絶望的な状態じゃないって、絶対。諦めない方がいいよ。私も…応援、するからさ」
 嘘じゃ、なかった。
 拓海の運命の人が、佐倉であるならば―――結ばれて欲しい。たとえ自分が結ばれなくても、拓海には、本当に愛した人と結ばれて欲しい。
 「…私は、結ばれることなんて、望んでない」
 咲夜の顔から、作り笑いが消えた。
 拓海から目を逸らしたまま、咲夜は、さっき拓海が見せたのとそっくりな笑みを―――絶望はしていないけれど、望みがないことを悟ったような笑みを、浮かべていた。
 「想いがあれば、それでいいんだ、私は。でも…拓海は、違うと思うから」
 「……」
 「…諦めちゃ、駄目だよ、拓海」


 暫し、無言のまま、時が流れた。
 咲夜は、顔を背けたまま、馬鹿なことを口にしてしまった自分を心の中でなじり続けていた。だから―――咲夜が必死に喋っていた間、拓海がどんな表情をしていたか、まるで知らなかった。
 そうして、1分も経っただろうか。
 ようやく拓海から返ってきた反応は―――くっくっ…、という、押し殺したような笑いだった。

 「……?」
 その笑いに気づき、咲夜は、拓海の方に目を向けた。
 拓海は、ソファに深く沈んだまま、肩を揺らして笑いを噛み殺していた。俯き加減で額を押さえているので、その表情は見えない。けれど……笑っているのは、確かだった。
 拓海が何故笑っているのか、まるで見当がつかない。咲夜は、眉をひそめた。すると拓海は、額を押さえていた手で前髪を掻き上げると、やっと顔を上げた。
 その顔は―――まるで楽しんでるみたいな、笑顔だった。
 「へえぇ…、そうか」
 「……」
 「なるほど、ねぇ。お前、俺のことが好きだったんだ?」
 「…た…くみ…?」
 拓海が、立ち上がる。それに連れて、拓海の目を凝視する咲夜の視線も、上がった。
 まだ少し笑いながら、拓海は咲夜側のソファに回りこみ、咲夜の隣にドサリと腰を下ろした。それに連れて、咲夜の視線と拓海の視線の距離が、一気に近くなった。
 僅か、30センチの距離―――そこから咲夜の目を覗き込んだ拓海は、余計楽しげに、ニヤリと笑った。
 「それならそうと、さっさと言ってくれりゃあ良かったのに」
 「……」
 「咲夜ならいつでも大歓迎だったのに―――ほんとお前、欲なさ過ぎるよなぁ」

 拓海の言葉の意味が、きちんと頭の真ん中まで届くだけの時間は、なかった。
 顎に手をかけられたことに、え? と目を丸くした直後―――唇が、重ねられた。

 「……っ!!」
 それは、今までのキスとは、明らかに別物だった。
 獰猛、と表現した方が正しいと思えるほど、欲望をむき出しにしたキス。一成の時のそれと、どこか似ている―――いや、質は同じだ。挨拶や親愛の情を表そうとしているのではなく、相手を貪ろうとしている―――拓海が咲夜にする筈もないキスだ。
 どうして。
 どうして、どうして、どうして。その言葉ばかりが、頭の中でぐるぐる回る。
 その答えも出ないうちに、咲夜はあっけなくソファの上に崩れ落ちていた。ソファの肘掛に危うく頭をぶつけそうになって初めて、咲夜は、ようやく事態を現実として受け止めた。
 「っ、た、くみ……っ!」
 唇が離れた隙に、非難するように声を上げたが、無駄だった。あっさり再び塞がれる。足をバタつかせようとしたが、何をどうやったのか、つま先しか動かない。こんな事態には世間以上に不慣れな咲夜と、不必要なほどに慣れきった拓海では、勝負になる筈もなかった。

 ―――ど…して…!?
 なんで今更、こんなことするの!? 佐倉さんを好きだって、忘れられないって言ったじゃない! なのに、なんで……!?

 「! い…っ!」
 痛い、という声が、喉の奥でくぐもる。
 こんなことは、いろんな女性と幾度となく繰り返してきた拓海の筈なのに―――カットソーの内側に忍び込んだ手も、首筋に吸い付く唇も、酷く乱暴だった。何故こんな酷いことをするのだろう? 痛みと悲しさで、涙が滲みそうになる。
 もう一度、痛い、と訴えそうになった時。
 邪魔な衣服を苛立ったように剥ぎ取りながら、拓海が一言、言った。
 「何? 嫌か? それならやめとくか?」
 「―――……」

 混乱していた頭の一部が、その短い一言に、すっ、と冷静になった。

 拓海とは思えないほど、乱暴な行為。
 嫌か、それならやめとくか―――その一言が、咲夜には、わざと与えられた「逃げ道」のように思えて。


 ―――…ああ。

 ああ、そうか。

 今、わかった。拓海が何故こんな乱暴な真似をしているのか。
 そして―――何のために、こんなことを、私にするのか。


 ソファの下へだらんと下げていた自由になる右手を、咲夜はゆっくりと持ち上げた。
 首元に顔を埋める拓海の髪に指を絡めるように、その頭を撫でる。すると―――拓海は僅かに肩を跳ねさせた後、顔を上げた。
 咲夜を見下ろす拓海の目は、予想外な展開に驚いているような目だった。その目を見て、咲夜は確信した。確信すると同時に―――ふ、と小さく笑った。
 「…甘いよ、拓海」
 「……」
 「乱暴にすれば、私が愛想尽かすとでも思ってんの? 痛いから、怖いから、お願い拓海やめて、って泣いて嫌がるとでも?」
 「…咲…」
 続きは、言わせなかった。
 頭を引き寄せ、その唇を、自分の唇で塞ぐ。ものの、数秒―――ただ、重ねただけのキス。拓海からすれば、子供のキスみたいなものだろう。なのに……拓海は、あっけなくそれで黙ってしまった。
 「ここじゃ、やだ」
 「……」
 「痛いのも乱暴なのも、やだ」
 駄々を捏ねる子供みたいにそう言うと、咲夜は、微笑んだ。
 その笑みは―――まるで、死を覚悟したみたいな、痛々しい笑みだった。
 「…1人の女とは、1度きり、なんでしょう? だったら―――今夜限りのことなら、せめて、優しくしてよ」
 「―――…」

 その言葉を聞いて―――拓海の仮初めの顔が、崩れた。
 辛そうに、苦しそうに、拓海の目元が歪む。苦笑のような笑みを僅かに見せた拓海は、くちづけで、咲夜の言葉に答えた。
 さっきまでと同じ、激しいキス―――でも、今度は、激しいながらも優しいキスだったので……咲夜はやっと、腕を伸ばして、拓海を抱きとめることができた。

 

 ―――拓海…。
 拓海は、こうやってずっと、自分を求めてくる女を切り捨ててきたんだね。

 どんなに想ってもらっても、それに応えられないことは、自分が一番よくわかっているから。
 応えられない想いを延々と抱き続けられるのは、拓海だって、苦しいから。
 だから拓海は、1度だけ―――たった一晩だけ、愛することのできない相手に、自分自身を分け与える。この瞬間を、この時間を、君にあげる。だから―――その想いは、今夜限りで捨ててくれ、と。

 想いを捨てさせるために、一度だけ、受け止める。
 なんだか―――私が一成に対して出した答えと似ているなんて、皮肉な話だ。

 そうやって他の女を切り捨てながら、拓海は、自分の隣を、常に空けておく。
 君が今いる席こそが特等席だよ、なんて嘘が平気でつけるほど、悪人にはなれない。隣に誰もいない寂しさにじっと耐え続けるほど、ストイックでもない。けれど…隣の席を空けておくことだけは、決して譲らない。
 無駄だと、馬鹿馬鹿しいと、自分で自分を嘲笑いながら―――その場所を大切に取っている。
 たった1人のために。
 …決して拓海を許そうとしない―――佐倉さんのために。


 …ねえ、拓海。

 やっぱり私たちって―――似てるのかも、しれないね。


***


 トン、とスニーカーのつま先で玄関の床を蹴り、ドアノブに手を掛ける。
 そこで、咲夜は、振り向いた。

 振り向くという動作すら、気だるい。
 体中が、水を吸ったスポンジみたいだ。だるい―――でもそれは、多分、体のせいじゃない。心のせいだ。

 「…じゃ、帰るね」
 咲夜が言うと、拓海は、少しだけ笑みを返した。
 その笑みに答えて、咲夜も笑みを作る。が……出てきた言葉は、笑顔とは程遠い言葉だった。
 「―――もう来るな、でしょう?」
 「……」
 言われる前に、自分から告げる。そうすれば、少しは楽かと思ったけれど―――さして効果はなかった。せっかく浮かべた笑みは、今にも消えそうだ。
 そんな咲夜を見下ろした拓海は、ふっと静かに笑い、咲夜の頭に手を置いた。
 「…いつでも、来て構わないよ」
 そう言って身を屈め、咲夜の頬に、一度だけ唇を落とす。そうして―――咲夜の目を覗き込んで、一言、付け加えた。
 「俺より好きな男を見つけたら、な」
 「……」
 ―――それって、自惚れ? それとも願望?
 皮肉って、一言返してやりたい気もした。けれど…今の咲夜には、無理だった。

 …痛い。
 体が、引き裂かれて、バラバラになりそうだ。
 その痛みを押さえつけるかのように、咲夜は最後に、綺麗に口の端を上げて見せた。そして、思い切ってドアを開け、拓海の部屋を後にした。

 ドアノブを握ったまま、ドアを閉める。
 閉まった後も、咲夜は暫し、ドアノブを握ったままでいた。
 1本、1本、指を引き剥がすようにして、ドアノブから手を離す。そして最後の1本が離れた時―――実感した。
 もう、このドアを開けることはできないんだ、と。

 

 遠い昔―――たった1度だけ経験したその行為を、「拷問」だと思った。
 同世代の女の子たちが、それを、さも素晴らしいことであるかのように言うのが、不思議でたまらなかった。知らないからそんなこと言ってんじゃないの、実体験したらあんたたち死ぬよ、と本気で思った。

 少し成長すると、「そういう欲求」は、理解できるようになった。
 人を好きになれば、触れたい、キスしたい、抱きしめられたい……そう感じるのは当たり前なんだ。その欲求に従った結果が「拷問」だとしても―――好きな人と触れ合えば、何かしら満たされる部分はあるに違いない。そう、思えるようになった。

 かつてのクラスメイトが言っていたことが、どれほど真実かは…正直、今でも、わからない。
 …ただ。
 例えば、人の素肌って、ただ寄り添っているだけでも心地よいものなんだな、とか。
 かつては「拷問」だったことも、好きな人にされるのなら、多少苦しくてもそれを受け入れられるんだな、とか。
 拓海、拓海、拓海、と、何度も名前を呼ぶたびに、今触れている全てが拓海なんだってことを、自分自身に刻み付けているような気がして―――ああ、これって、その人の存在を刻み付ける行為なのかもしれないな、なんてことを、頭の片隅で思ったりした。

 ―――…でも。


 エレベーターが1階に着き、ドアが開く。
 「……」
 体が、動かない。
 表情を失くしたまま、エレベーターの中に、立ち尽くす。あまりに長く動けずにいたので、ドアが閉まりかけてしまった。
 反射的に手を伸ばし、閉まろうとする扉を止める。手のひらに扉の当たるガツン、という衝撃に、咲夜は、よろけるように1歩、踏み出した。

 1歩。
 1歩。
 まるで、水の中でも歩くみたいに、ノロノロと歩く。マンションのエントランスを抜け、外に出る。それだけの距離が、酷く遠く感じた。
 そんな足取りで、無意識のうちに歩き出した咲夜だったが。
 何歩、歩いた頃だろう―――力尽きたように、その足は、止まってしまった。

 「―――……っ…ふ…」
 力ない笑いが、微かに、漏れた。
 がくん、と脚から力が抜けた。咲夜は、地面にペタンと座り込むと、自らの腕を抱き、体を丸めた。


 ―――…笑っちゃうよね。
 拓海に、抱かれたのに―――湧き上がってきた感情が、「悲しみ」だなんて。


 好きな人に抱かれて「悲しい」なんて、滑稽だ、と思った。
 滑稽、だけれど―――咲夜は、悲しくて、悲しくて、死んでしまいそうなほど……悲しかった。


***


 窓枠に頭を預けてウトウトしていた奏は、微かな車のブレーキの音で、目を覚ました。

 まだ少しぼんやりする頭で、今聞いた音を分析する。そして、どうやら車らしいという答えが出て―――完全に、目が覚めた。
 「……っ!」
 慌てて頭を起こし、少し身を乗り出して、下の道路を見下ろす。そこには、1台のタクシーが停車していた。傍らに置いていた携帯電話を開くと、午前3時過ぎという時刻が表示されている。明らかに、もう公共交通機関は動いていない時間だ。
 タクシーの客が誰かを確認するだけの余裕は、奏にはなかった。ピシャッ、と窓を閉めた奏は、急ぎ、玄関へと向かった。


 あの後―――奏は、佐倉に付き合って、事務所近くのショットバーで多少の酒を飲んだ。
 思いがけず聞いてしまった話については、佐倉の望み通り、あれ以上は訊かずにおいた。大した会話も交わさず、カウンター席に並んで座り、酒を飲んだだけ―――奏としては、拓海を追った咲夜の方が気になって仕方なかったが、その心配を押して佐倉に付き合っただけの意味は、一応あったらしい。少し酔っ払った程度で店を出た時、佐倉は幾分落ち着きを取り戻していた。
 佐倉と別れてすぐ、奏は咲夜の携帯に電話をかけた。
 時計は、11時を回った頃だっただろうか。最低3回はかけたと思う。けれど……電話は、1度も繋がらなかった。すぐに留守番電話になるところを見ると、どうやら電源を切っているらしかった。
 仕方なく帰宅し、かなり熱めのシャワーを浴びた後、定期的に電話をかけてみた。が、やはり咲夜が電話に出ることはなかった。そして、日付が変わり、終電の時刻が過ぎ―――奏は、窓を開けた。

 『必要とされてるのが、私じゃなくても……私は、拓海を、放ってはおけないよ、奏』

 咲夜が戻ってくるのを待ちながら、奏の脳裏を何度も掠めたのは、あの時の咲夜の表情だった。
 …綺麗だった。
 認めるのも癪になるほどに―――これまで見たどんな咲夜の表情より、綺麗だった。
 昔、瑞樹を見つめる蕾夏の目を見た時も、どうしてその視線の先にいるのがオレじゃないんだろう、と、胸が痛んだ。あの時と同じ位―――奏は、咲夜の儚げな微笑に、どうしようもない悔しさを感じた。そして……いつも、手に入らないものばかり欲しがってしまう自分に、つくづく呆れ、落ち込んだ。

 早く、咲夜の顔を見たいと思った。
 佐倉のことも、拓海のことも、どうでも良かった。早く咲夜に会って、いつもみたいに下らない話に大笑いして、いつも通りの日常に戻りたかった。そんなこと、無理なのは百も承知なのに―――少し前まであった日常が、恋しくてたまらなかった。


 スニーカーに足を突っ込んだ奏は、鍵をかけることも忘れ、廊下に飛び出した。
 急ぎ、階段を下りようとして―――奏は、数段下まで階段を上ってきた人物と、鉢合わせした。
 「!」
 慌てて足を止める。
 階段を上がってきた咲夜も、少し驚いたように目を丸くし、足を止めた。
 「…奏…?」
 この時間だ。咲夜が驚くのも当然だろう。バツの悪さに、奏はちょっと気まずそうに笑いながら、階段の最上段に掛けていた足をひっこめた。
 「…い、いや、その―――お前、いくら電話しても連絡つかないから、気になって」
 「……」
 奏の言葉を聞いても、咲夜は、あまり反応を示さなかった。
 いや、むしろ―――驚いていた表情が消えた後、咲夜の顔に残ったのは、ただの「無表情」だった。
 気力の全てをどこかで失くしてきたかのような、力ない表情―――その咲夜らしくない表情に、奏は、なんだか妙な胸騒ぎを覚え、眉をひそめた。
 「―――…咲夜?」
 「……」
 声をかけても、咲夜は、視線を斜め下に落としただけで、何も答えなかった。余計にせり上がってくる悪い予感に、奏は、1歩だけ階段を下りて、咲夜との間合いを詰めた。
 「…ど…う、なったんだ? 麻生さんは」
 そう訊ねると、咲夜は、ゆっくりと、顔を上げた。
 そして、奏を見上げて―――微かに、笑った。

 それは、確かに、笑みだった。
 けれど……暗い影を宿した、まるで希望を失くしたみたいな、笑みだった。
 暗く翳った目で奏を見据えると、咲夜は、抑揚のない声で答えた。

 「ねえ、奏」
 「…ん?」
 「とうとう私も……“その他大勢の女”に成り下がっちゃったよ」
 「……」
 その言葉に―――奏の顔色が、変わった。
 「…私は、想い続けることさえできれば、それでよかったのに―――それすら、許されなくなっちゃった…」
 ふっ、と、咲夜は投げやりに笑った。
 その、刹那。
 咲夜の頬に、涙が伝った。

 途方に暮れたように立ち尽くしたままの咲夜の頬を、次々に、涙が伝っていった。
 それは―――奏が初めて見た、咲夜の涙だった。


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