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― W -double-

 

 ジャズ・フェスタを翌日に控えた土曜日。咲夜は、久々に母のもとを訪ねた。

 口の中で、昨夜奏から差し入れられたのど飴が、コロコロと音を立てる。服装も、普段と同じ、カットソーにジーンズ姿だ。墓参りには、極めて不謹慎な態度かもしれない。
 でも咲夜は、時々、こうやってフラリと母の墓を訪れる時がある。
 月命日、などということは、特に意識していない。何ヶ月も訪れない時もある。ただ、朝起きて何となく、行こうかな、と思うことがたまにあって、そういう時はなるべく足を運ぶようにしているのだ。
 周囲の誰も、いつ咲夜が母に会いに行ったかは、知らない。そう―――恐らく、拓海でさえ。
 誰にも「行く」とは告げず、また決して「行ってきた」とは言わずに、咲夜は母に会いに行く。娘が他界した母を慕うのは当然のことなのに、咲夜は、自分が母の所へ行くことが他人に知られるのが、あまり好きではなかった。そうなったのには、まあ色々理由があるが―――家庭内の古いゴタゴタなので、今更だ。ただ、そういう癖がついてしまった。それだけのことだった。

 久々に訪れた墓は、掃除する必要のないほど、綺麗な状態だった。
 それでも一応一通りの掃除をした咲夜は、スイートピーの花を数本、供えた。命日以外、あえて線香を供えないのは、生前の母が煙の類が非常に苦手な人だったからだ。父も、母のために禁煙したという。そして現在も―――家を出て以降は咲夜の関知しないところだが―――煙草は断ったままだというのだから、その点は偉いと、咲夜も思う。
 「よし、と」
 スイートピーを飾り終えた咲夜は、墓前から数歩離れ、真っ直ぐに母と向き合った。
 静かだった。どこかで、名前のわからない鳥の鳴き声も聞こえる。咲夜は、数日ぶりに、心からの微笑を口元に浮かべた。


 ―――咲夜。
 あなたの名前はね、月下美人からつけたのよ。
 月下美人は、1年にたった一晩しか咲かないの。チャンスはその一晩だけだから、少しでも多くの虫を集めるために、夜中でも大輪の花を咲かせて、甘い香りを放つの。そのために、1年、精一杯生きてる―――その一瞬に、1年の全てを賭けてるのよ。
 お母さんは、長生きできない、って言われながら、お父さんと結婚して、あなたという花を咲かせられた。
 あなたも、そんな人生を生きてね。
 どんな花でもいいの。好きな人と結婚することでも、何か仕事を成し遂げることでも、何かを残すことでも―――ああ、私はこれを味わうために生まれてきたんだ、そう思える瞬間を、一度、たった一度でもいいから体験できるように、あなたの信じた道を、正直に、真っ直ぐに生きてね。


 母の言葉を思い出し―――咲夜の口元から、笑みが、静かに消えた。

 信じた道を、ただひたすらに、真っ直ぐ生きてきた。
 一生、拓海を想い続ける―――そしてその想いを“歌”にする。そしていつか、ああ、この瞬間を味わうために歌ってきたんだ、って思えるような歌を歌うんだ。……それが、咲夜が信じ、歩いてきた道だ。
 だから、想いさえあれば、恋が叶おうが叶うまいが、別に構わなかった。永遠に片想いでもいい、ただ想い続けることができれば……それだけで、歌うことができた。
 でも……こうなってみて、初めて、気づいた。
 …いや。本能ではわかっていたことに、改めて気づいた。
 想うだけなら、自由だ―――その言葉が通用するのは、相手にこの想いを悟られるまでの間だけなのだ、と。
 悟られてしまえば、白か黒、はっきり決められてしまう。「お前は選べない」と最終通告を受けてしまえば、そこから先、想うだけなら自由だ、と想いを抱き続けるのは……やはり、難しい。相手に見抜かれている想いだ。ジャッジを下してもなお抱いていれば、相手にとっての重荷になる。重たい存在となれば、遠ざけられる―――もう、今までと同じ関係には戻れない。

 一生に一度、と信じた道は、ぷっつり途切れた。
 じゃあ別の道へ、と、即座に方向転換できるほど、咲夜は器用ではなかった。

 「…ねえ、お母さん。私……これから、何を歌えばいいんだろう…?」
 答える声は、ないけれど―――訊かずには、いられなかった。


***


 『じゃあ、確実に出席できるんだね?』
 念を押すような累の声に、奏は苦笑しつつ、国際電話専用の公衆電話ボックスの扉に、頭をもたれかけさせた。
 「そ、確実。感謝しろよ? せっかく取った休みを潰して、店長とスケジュールの最終打ち合わせをした上に、飛行機の予約も取ったんだからな」
 『…ごめん。感謝してます』
 「ハハハ…、冗談冗談」
 勿論、話は、6月の半ばにある弟の累の結婚式のことである。
 前々から6月半ばとは聞いていたので、調整のつきやすいモデルの仕事はその辺りには入れないようにしていた。が、店の方は、そうはいかない。具体的な日付が決まったのが先月の後半だったため、スタッフそれぞれのスケジュールを確認し、シフトを調整しているうちに、5月になってしまった。せっかく取った土曜休みも、結局は早番出勤、店長と話し合い、となってしまった。
 ―――でも、今日はむしろ、仕事になって良かったのかもしれないな…。
 『奏?』
 ほんのちょっと、そんなことを頭の片隅で考えただけのつもりだった。でも、それなりに黙り込んでしまっていたらしい。累の不審気げな声に、奏は慌てて我に返った。
 「あ、ああ、悪い、なんでもない」
 『? なら、いいけど…。もしかして、かなり無理した? 休み取るのに』
 「いや、日頃から真面目に働いてるから。そういう心配すんなよ」


 その後、結婚式の話や両親の話、叔父の話などを少し話して、奏は電話を切った。
 電話ボックスを出て、はぁっ、と息をつく。何気なく時間を確認すると、午後5時前だった。
 ―――まだ、リハやってんのかな。
 結局、考えるのは、咲夜のことだった。
 今日は咲夜は、午後からは明日のためのリハーサル、夜は“Jonny's Club”と忙しい。いくら心配したところで、部外者立ち入り禁止なリハーサルに、奏が立ち会える筈もない。仕事にチケット予約にと忙しくなったのは、心配を持て余す奏からしたら、むしろ好都合だった。
 リハーサルは、拓海とは別スケジュールだと、咲夜は言っていた。けれど…今の咲夜には、拓海がその場にいる、いないは、あまり関係ないだろう。
 「…ちゃんと歌えてるかな、あいつ」
 また今夜も、“Jonny's Club”に行ってみようか、と一瞬考えて―――やめた。
 ―――傷口を塞ぐ術も、痛みを和らげる薬も持ってないのに……心配の押し売りをして、どうすんだよ。
 歌えない咲夜を心配しているつもりが、あれでは逆に追い詰めているだけだ。まだ何の手立ても、かける言葉も見つかっていない自分では、「心配」を理由にズカズカ踏み込めば、また一昨日の二の舞になる。

 咲夜が、自由に歌えるには、どうすればいいんだろう?
 ……いや、方法なんて、わかっている。面白くないが、悔しいが、認めたくないが、1つだけある。
 簡単だ。今まで通りに歌え、と―――拓海を想って歌え、と言えばいいのだ。拓海が迷惑がろうが何だろうが、想いを捨てるな、あいつの目の前であいつへの想いを思いっきり歌い上げてやれ、と。
 わかっている。“親友”なら、そう言ってやればいい。
 わかっているけれど―――それは、それだけは、言いたくない。

 聴きたくもない。
 咲夜が―――好きになった女が歌う、他の男への想いをこめた歌なんて。

 「―――…あーあ…」
 電話ボックスのドアに、コツン、と頭をぶつける。
 この間から何度、思ったか知れない。もう少し、気づくのが遅かったらよかったのに、と。
 今、この瞬間だけは、純粋に咲夜の“親友”でいたかった―――悔やんでも仕方のないことを悔やみ、奏は苛立ったように髪を掻き毟った。


***


 ドアチャイムを受けてドアを開けた奏は、顔を覗かせた咲夜を見て、一瞬、たじろいだ。
 「……」
 「…何。なんで固まってんの」
 「…いや、別に」
 咳払いした奏は、入れよ、と目配せし、先に部屋の中に引っ込んだ。怪訝そうに眉をひそめた咲夜だったが、時間もあまりないので、奏に続いて部屋に上がった。
 「野外ライブじゃないけど、晴れてて良かったな」
 「うん。当日用に設けてる席の入りに影響あるからね」
 「当日席なんてあったのか」
 「ステージから一番遠い1階席が、一応そういう扱いになってんの」
 「ふぅん…」
 ペタン、と脚を崩して床に座り込んだ咲夜を、チラリと見下ろす。
 下は、いつも通りのジーンズ姿だが、上は、肩や腕が全て露出した服装―――辛うじて細い肩紐はあるが、いわゆるベアトップだ。
 若干裾広がりなデザインで、裾は光沢のある素材とシフォンの二重になっている。目に鮮やかすぎない落ち着いたホワイトベージュと、緩やかに入っているドレープが、どちらかというと中性的に見える咲夜に、女っぽさを添えていた。
 ジャズ・ライブの舞台用にと、奏自身がコーディネートした筈の服装だ。どんな服か、前もって知っていたし、それを着た咲夜も試着の時に見ている。でも―――改めて見ると、露出度の高い服装に、ちょっとドギマギさせられる。
 ―――バ…バカか、オレは。夏場にはタンクトップ1枚の格好もしょっちゅう見てただろ? あれと大差ない。絶対大差ない。
 と言い聞かせてみるものの、どうしても目が、普段目にすることのない肩や胸元に行ってしまう。こういう時、男の(さが)という奴が恨めしくなると同時に、警戒心の欠片も見せない咲夜に、理不尽な不満がこみ上げてくる。いや、警戒されればされたで、また前のようにショックを受けて落ち込むのは、自分の方なのだが。
 「…会場入り、2時だったな」
 無理矢理目を逸らし、傍らにあったメイク道具の入ったケースを掴む。
 「じゃあ、1時過ぎに家出れば、間に合うか」
 「うん」
 「出番は?」
 「3組出るうちの最後だから……うーん、4時半から5時の間かな」
 「…なら、夏場じゃないし、化粧崩れはそう心配することないな」
 咲夜の前に座った奏は、気持ちを入れ替えるように大きく深呼吸をすると、咲夜と真正面から向き合った。
 目が合うと、何故か咲夜の方が、うろたえたように瞳を揺らした。そのことを少し不思議に思いつつも、奏はメイクの作業に入った。

 ―――やっぱり、少しやつれたよな、こいつ…。
 ファンデーションを丁寧に塗りながら、改めて気づく。
 普段見る限り、表情が冴えないとか、顔色があまり良くない、程度のことは思っていたが、痩せた・やつれた、とまでは思わなかった。しかし、こうして久々に頬に触れてみると、なんだか微妙に前とは違う。目に見えてげっそり痩せた訳じゃないが、指先に感じる肉付きが、前より僅かに薄くなった気がする。
 本人は何も言わないが、あまり食事も喉を通っていないのかもしれない。まあ……そうだとしても、無理もない話だ。拓海とのことがあってから、まだ1週間と経っていないのだから。
 「―――…昨日さ」
 大人しく目を閉じたまま、咲夜が唐突に、口を開いた。
 「午前中、お母さんに会いに行ったんだ」
 「……」
 突然の話に、奏の目が、少し丸くなる。
 お母さんに会いに、と言っても、咲夜の母は―――と考えて、やっと意味を察した。それが、墓参りを意味していると。
 なんで、と訊くのも変な話だ。ふーん、と流していいものかどうかも微妙だ。奏が相槌に窮していると、咲夜はそのまま、言葉を続けた。
 「どう歌えばいいのか、何を想って歌えばいいのか―――いくら考えても、答えが出なくて。…勿論、お母さんが答えてくれる筈もないんだけど……会いたくなって、行ってみたんだ」
 「…で、答えは、出たのか」
 奏が問うと、咲夜は、目を閉じたまま、口元に微かに苦笑を浮かべた。
 「ううん、全然。ただ……少し、落ち着いた。いきなり拓海に放り出されてパニクってたけど…、何を目指して歌うか、何を想って歌うか、冷静に考えなきゃ、って思えるようにはなった」
 「…じゃあ、昨日は、少しはマシに歌えた?」
 訊き難かったことを、流れに乗って訊いてみた。が、返ってきた答えは、微妙だった。
 「30点、って、一成に言われた」
 「……」
 「木曜が0点だから、マシは、マシだけど……“魂”を感じない、迷いながら歌ってるのがわかる、歌から感じるものをストレートに歌い上げるのがお前の歌の良さなのに、それがなかったら魅力7割減、だって」
 「…そっか」
 ―――藤堂…。もうちょい優しいこと言えねーのかよ。
 事情を知らない一成に憤るのも少々理不尽な話だが、内心舌打ちをしてしまう。
 さすがに、じゃあ今日はどうする気なんだ? と訊く勇気はない。奏は、黙々とメイク作業を進めることにした。


 無言のまま、作業は着々と進む。
 アイシャドー、ハイライト、口紅―――いつもより顔色の良くない咲夜のことを考え、前回のライブよりも優しい、明るい色合いを選んでいく。
 奏には、歌のことはわからない。一成のような分析も無理だろうし、具体的なアドバイスなんてもっと無理だろう。心の内のこととなると、もっとお手上げだ。咲夜を慰める親友役に徹したくても、100パーセント、そうできない。ふとした瞬間、身勝手な本音が顔を覗かせる。その本音を全て押し殺して上手く立ち回る自信など、根が正直すぎるだけに、まるっきりなかった。
 だから、せめて―――鏡を見た時、咲夜が少しでも自信を持てるようなメイクをする。
 舞台の上で、少しでも輝けるように、魔法をかける。…それだけが、今の自分にできる精一杯だ。
 いつだって、どの客に対してだって真剣だが、今日はその中でも特別だ。奏は、真剣な面持ちで、手元に集中し続けた。

 「―――…よし、完成」
 紅筆を置いて、ほっ、と息をつく。
 「目、開けてみて」
 ずっと目を閉じたままだった咲夜は、その一言に、ようやく目を開けた。ゆっくりと開かれた目と真正面から目が合い、一瞬ドキリとしたが、奏はポン、と咲夜の背中を叩き、テーブルの上の大きめな鏡を指差した。
 「…見ていい?」
 「どうぞ」
 言われて、咲夜は膝歩きでテーブルとの間合いを縮め、鏡を覗き込んだ。奏も、咲夜の背後から、鏡を覗き込んでみた。
 そこには、15分前より格段に血色が良く、普段より女らしさを増した咲夜がいた。
 ここ数日の涙のせいで僅かに腫れぼったさの残っていた目も、随分すっきりと見える。やつれて見えた顔も、表情の作り方自体は変わっていなくても、パッと見た印象が随分明るく変わっていた。そんな自分の姿を見て、咲夜の口元にも、自然と笑みが浮かんだ。
 「…さすが、プロだね」
 「ハハ、任せろ」
 「ありがと」
 鏡越しに、背後に座る奏に礼を述べた咲夜だったが。
 その笑みは、奏が「どういたしまして」と返すのを待たず、あっという間にしぼんでしまった。

 鏡の中の奏を見つめる、咲夜の目が、僅かに揺れる。
 その表情は、なんだか酷く不安そうで、これまで見た中で一番―――そう、拓海の所から戻って来たあの時以上に、心細そうに見えた。どうしたのか、と奏が眉をひそめると、咲夜は、少し視線を逸らした。
 「…ほんとは、さ。怖いんだ」
 「え?」
 「…お客さんに、私のプライベートなことなんて関係ないんだもの。もう逃げ出せないし、逃げちゃ駄目だってことも、わかってる。立たなきゃ……ちゃんと舞台を務めなくちゃいけない。…でも…どうしよう。無理だよ、迷うな、なんて」
 「……」
 「一成は、今まで通り歌えばいい、って言ってた。でも、今日は拓海もいるのに―――お前の想いは受け取れないから捨ててくれ、って言ってる拓海の前で、拓海を想って歌うなんて…」
 訴えかけるようにそう言うと、咲夜は辛そうに目を伏せ、うな垂れた。
 「…そんな歌、聴かされたら……拓海、どう思うかな」
 「……」
 「…怖いよ。歌えるのかな、ほんとに」

 ―――…咲夜…。
 うな垂れた咲夜の様子を見ていたら、堪らなくなった。
 素直に曝け出された咲夜の本音に、初めて、救いの手を求められたような気がした。いや―――それはただの、都合のいい解釈なのかもしれないけれど。
 抱きしめたい―――その耐え切れない衝動に、奏は背後から腕を回し、うな垂れる咲夜を抱きすくめた。

 「―――…っ!」
 腕の中で、一瞬、咲夜が息を呑んだように肩を跳ねさせる。驚いて腕から逃れようとするのではないか、という予感に、奏は咲夜を引き止めるように、抱きすくめる腕を強くした。
 ―――逃げるな。
 頼むから、逃げないで。
 ほんの数センチ先にある首筋や肩に、唇を押し付けたいと、バカみたいに切実に思った。けれど、そんな自分をギリギリのところで押さえ込む。
 奏は、行き場を失ったものを宥めるように、すぐ眼下にある髪に顔を埋めた。

 「…そ…奏?」
 戸惑ったような声が、腕の中から聞こえた。
 咲夜は、逃げようとはしない。息をつめ、背後の奏の気配を窺うようにじっとしている。
 「…大…丈夫」
 何が大丈夫なのか、自分でもよくわからないまま、奏は呟いた。
 「大丈夫、だから」
 「……」
 「…怖がるな。大丈夫だから」

 ―――怖がるな? 何を?
 口にして、自分でも苦笑してしまう。
 オレを怖がるな? それとも、拓海の目の前で舞台に立つことを? …ダブル・ミーニングだ。どっちの意味にも逃げられる。結構、卑怯な手かもしれない。
 自分の言葉に苦笑できる分、少しは冷静さを取り戻したらしい。奏は、咲夜には気づかれないよう小さく息をつき、無意識のうちに閉じていた目をゆっくりと開けた。

 落ち着け。
 悔しくても、癪でも、認めたくなくても―――今は、“親友”として出来ることを優先しろ。
 たとえ嘘でもいい。演技でもいい。それが、今、咲夜から求められているものなら―――…。

 少し、腕の力を緩める。すると、咲夜が、ゆっくりと顔を上げた。
 鏡越しに、困惑気味の咲夜と、再び目が合う。奏は、痛みを覚えるもう1人の自分を押さえつけ、笑みを作ってみせた。
 「…オレが前、お前に懺悔した時さ。蕾夏に言われた言葉だ、って言って、お前に教えた言葉、覚えてる?」
 「…え…っ」
 「―――想いは、作ろうと思って生まれるものでもないし、生まれてしまった想いは、無理矢理消すこともできない。だから、自然と消えたり、別のものに変化するまで、焦らなくていい。…覚えてるか?」
 まだ少し、困惑の表情を残しながらも、咲夜はゆっくりと頷いた。
 「お前も、焦るなよ」
 「……」
 「今、あいつを想って歌う歌が、お前の最高の歌なら―――それで、いいじゃん。あいつを想って歌えよ。正直に」
 奏の笑みが、僅かに歪む。

 ―――…本当は。
 本当の、オレの望みは。
 オレのために―――オレを想って歌って欲しい、と、本当に……痛いほど、願っているけれど。

 「…お前、言ってただろ? 歌う時は、自分を空っぽにする、って。空っぽにして、歌っていくうちに、その歌の中にいる自分が浮かんでくる、って。…だったら、浮かんできた自分を歌えよ。それが誰に対する感情でも―――それが未練でも、憎しみでも、愛情でも。“今”のお前を、正直に、あるがままに」
 「……」
 「本当に歌が好きなら―――歌うのがお前が生きてる意味なら、歌ってる間だけは、本音で生きろよ。誰がどう考えるとか、何のために歌うとか考えずに」
 「……」

 鏡の中の咲夜は、少し驚いたように目を見張り、奏の顔を凝視していた。
 勿論、全てが嘘ではない。正直に歌えばいい―――それは、奏の本音だ。でも、咲夜に向かって、拓海を想って歌え、と言ってみせたのは完全な強がりだ。その強がりを、鏡越しに見抜かれそうな気がして、奏は少し落ち着かない気分になった。
 その刹那。
 咲夜がふいに振り返り、直接奏の顔を見上げてきた。
 作り笑いではない笑みが、咲夜の目元にも、口元にも浮かぶ。そして咲夜は、両腕を奏の背中に回し、緩く抱きしめた。
 「―――…」
 「…ありがとう、奏」
 それは、心からの感謝の抱擁、だった。
 「ありがとう―――本当に」
 「…うん」

 心が、温かくなる。
 自然と、笑みが浮かぶ。奏は、自らも腕を咲夜の背中に回し、ぽんぽん、と軽く叩いた。
 満たされない想いも、それ故の後ろめたさも……それで、少しだけ癒された気がした。


***


 「一晩で、随分落ち着いたみたいだな」
 シャツの袖口を折り曲げながら、一成が咲夜を流し見て言った。
 肩に羽織ったジャケットがずり落ち掛けたのを直していた咲夜は、その言葉に軽く首を傾げてみせた。
 「そっかな」
 「ああ。目でわかる」
 「…ま、追い込まれちゃったからね。ジタバタしても始まらないし」
 言いながら、ジャケットを掴み、無意識に掻き寄せる。寒い訳ではないが、そうすると少し安心できた。
 目の前を、スタッフや出演者が頻繁に行き来する。咲夜たちが出演する前座の舞台―――プレ・フェスタの開幕まで、あと1時間。裏舞台には随分と慌しい空気が漂っていた。
 こういう雑多な空気が、咲夜は、結構好きだ。照明の人、音響の人、ヘッドセットをつけた係員、メイクの人、スタイリスト―――昔、拓海に特別に連れてきてもらったライブの裏側も、今目の前に繰り広げられているのと同じような感じだった。実際に見たことはないが、きっと、奏が出演するファッションショーなどの裏側もこんな感じなのだろう。
 ―――今は出演者側だけど…いずれ奏も、あんな感じで裏方として走り回るのかな。
 誰それさん見ませんでしたか!? と騒ぎながら右往左往しているメイク担当の女性を眺め、くすっと笑う。どうやら、メイクをしなくてはいけない対象者が行方不明らしい。気の毒な話だ。
 「それ」
 目の前をバタバタと通り過ぎるメイクさんを見ていたら、一成が謎の一言を呟いた。
 「え?」
 「そのメイク。自分でやったのか」
 前日とは明らかに違う咲夜のメイクに、一成も気づいたらしい。
 「ううん、奏にやってもらった」
 「一宮に?」
 「うん。前から約束してたから」
 「…へぇ。あいつ、本当にメイクアップアーティストだったんだな」
 「何言ってんの。一成も、奏んとこの店の人達にも会ってんじゃん」
 「会ってるけど、ピンと来なかったんだよ。あまりにも見た目が見た目だから。でも―――ふぅん…さすがだな。昨日の病人顔が、ここまで健康体に変わるんだから」
 「…あんまり、マジマジ見ないでくれる?」
 特殊メイクでもあるまいし―――やたら感心した様子で凝視する一成の二の腕辺りに、咲夜は迷惑そうに軽くパンチを入れた。が、一成は、シャツの襟を直しながら、口の端だけで軽く笑ってみせた。
 「一晩で目が変わったのも、隣人のおかげ……ってところか」
 「……」
 「何があったか知らないけど―――よかったな。いい友達がいて」
 ―――…“友達”…。
 一瞬、言葉に詰まる。
 肩に、背中に残る、数時間前の痛いほどの抱擁の記憶に、鼓動が少し速まった。曖昧に笑った咲夜は、小さく頷き、視線をまた別の方角へと流した。
 「えーと、藤堂さんと如月さん!」
 ちょうどそこに、プレ・フェスタの裏方責任者、とでも言う立場らしい男性がやってきた。
 「ピアノ、もうすぐ空きますよ。どうします?」
 「あ、お願いします」
 一成が即座に答える。行くぞ、と促され、咲夜も一成に続き、歩き出した。

 昨日、リハーサルをやっているとはいえ、本番直前に弦楽器のチューニングや簡単な音合わせをやっておきたいのは、アマでもプロでも同じことだ。ジャズ・フェスタに出るアーティストは、今日、舞台の上で最終的な確認をしている筈だが、前座にはそんな機会は設けられていない。
 その代わり、というのだろうか。今回のライブでは、楽屋などを抜けた一番奥の部屋に、アップライトのピアノとドラムセットが用意されていた。最終調整をしたい人はここでご自由にどうぞ、という訳だ。
 当然、一成と咲夜も利用を願い出たが、まだ空いていない、と言われて、待ち状態だった。少々暇を持て余してしまったが―――スタートまでちょうど1時間を切った頃合というのは、結構悪くない時間帯だったかもしれない。
 「あまり時間もないんで、10分以内でお願いしますよ」
 廊下を歩きながら、責任者にそう釘を刺される。神妙な面持ちで頷く2人に、彼は「あそこですから」と奥のドアを指差すと、後は任せたとばかりに舞台裏の方へと大急ぎで戻って行った。
 「場所わかってたんだから、別にここまで案内してくれなくても良かったのに…」
 「…だよな」
 廊下を急ぎながら、ボソボソとそんなことを言い合う。と、練習室まであと少し、というところで、練習室のドアが開き、中から人が出てきた。
 その人物を見て―――咲夜の足が、ブレーキでもかかったみたいに、ピタリと止まった。

 「―――…」
 黒のシャツを無造作に羽織り、一番お気に入りのビンテージ・ジーンズに、黒の革靴。…全部、咲夜も見覚えのあるものばかりだ。
 口の端にくわえた煙草は、かなり短くなっている。練習室って禁煙じゃなかったっけ? という一言は、今日は口にするどころか、考えつくことさえなかった。
 ―――…拓海…。
 どうして、このタイミングで。
 考えてもみなかった。舞台の使えない前座のためにあるみたいなピアノを、まさか拓海が使っていたなんて。不意打ちすぎて……足が、動かない。

 部屋から出てきた拓海は、邪魔そうに髪を掻き上げ、1歩踏み出した。
 そこで初めて、一成と咲夜に気づき―――次の1歩を踏み出すことなく、立ち止まった。
 「……」
 拓海の目が、少し、丸くなる。…多分、彼にとっても予定外な再会だったのだろう。だが、そこは百戦錬磨の拓海のことだ。煙草を、傍にあった据付の灰皿に捨てると、すぐにそつのない笑みを作り、2人の方へと自ら歩み寄った。
 「なんだ。次使う奴って、咲夜と藤堂君だったのか」
 「お久しぶりです」
 一成がそう言って会釈する。咲夜は、言うべき言葉が見つからず、黙って一成の斜め後ろに立っていた。
 「麻生さんが、どうしてこんな所で?」
 「ああ―――さっき、ちょっと爪を割っちゃってね」
 「えっ」
 思わず、咲夜が小さな声を上げる。
 慌てて拓海の手元に視線を走らせる。すると、拓海の左手の小指に、真新しい絆創膏が巻かれていた。大丈夫なの? と心配げに眉をひそめる咲夜に気づき、拓海は少しおどけたように左手を振って見せた。
 「で、たまたまここが空いたとこだったから、軽く試し弾きさせてもらっただけだよ。支障はなさそうで、ホッと一安心だ」
 「そうですか…」
 「じゃ、時間もないんで。…プレ・フェスタ、楽しみにしてるよ」
 そう言うと、拓海はポン、と一成の肩を叩き、歩き出した。
 そして、すれ違いざま―――咲夜の肩も、軽くポン、と叩いた。
 「……」
 ジャケット越しに、拓海の掌の温度が、肩に残る。
 遠ざかる足音を背後に聞きながら、咲夜は、冷たい汗が額に滲むのを感じた。

 「…大丈夫か?」
 一成が、気遣うように、小声で訊ねた。
 その一言で、体を縛り付けていた鎖が、パチン、と解かれた。大きく息を吐き出した咲夜は、手の甲で額の微かな汗を押さえ、一成に笑みを返した。
 「うん―――大丈夫。早く始めよう」
 そう言って、1歩、踏み出す。が―――グラリ、と頭の芯が揺れた気がして、咲夜は踏み出した1歩を止め、よろけた。
 「…っ! お、おい」
 慌てて一成が支える。その腕を掴んで踏みとどまり、咲夜はなんとか体勢を立て直した。
 「ご…っ、ごめん。ちょっと、眩暈した」
 「―――お前、本当に大丈夫なのか? この前もライブで貧血起こしてただろ」
 本気で心配、という顔の一成が、眉根を寄せて咲夜の顔を覗き込んだ。メイクのおかげで血色良く見えるが、その下にある蒼褪めた顔色は、昨日既に見ているだけに想像できるのだろう。
 「うん。大丈夫。…ごめん。ゆうべ、緊張して、あんまりご飯が喉に通らなかったからさ」
 「……」
 あまり納得のいかない顔の一成を無視して、咲夜は一成の腕を放し、大きく深呼吸をした。2度、それを繰り返すと、ほぼ完璧に落ち着きを取り戻すことができた。
 大丈夫―――はるか昔、既にこれと同じ体験をしている咲夜にとっては、この位の眩暈は想定済みだ。今日のライブ位、持たせる自信がある。このライブが終わり、心の重荷がひとつ下りれば、少しはマシになる筈だ。
 「…よし。行こ」
 一成の腕を軽く叩いた咲夜は、先に立って練習室のドアを開けた。一成はまだ心配げな顔をしていたが、時間もないので、諦めたように咲夜に続いた。
 部屋に入るなり、一成は即座にピアノの前に座り、咲夜はその傍らにスタンバイした。
 「10分切ってるから、全曲フルは無理だな。…フルコーラスいくなら、何がいい?」
 「うーん……最後の“Let it be”」
 「“Blue Skies”と“What's New”は?」
 「時間が余れば、出だしのとこだけやらせて。…一成は?」
 「俺は、“Blue Skies”のピアノソロ部分だけ、軽く流したい」
 「じゃあ―――プログラム通り、“Blue Skies”から先にいこっか」

 ―――大丈夫。
 奏は、許してくれた。たとえ拓海の重荷になろうが、歌っている間だけは―――その瞬間だけは、正直になっていい、と。だから、きっと拓海も……同じ音楽を愛してくれる拓海も、理解してくれる。拓海を困らせるためじゃない。最高の歌を歌うためには必要なことなんだ、と。

 一成が、鍵盤に指を置くのと同時に、目を閉じる。
 いつにない緊張感を伴いながら、咲夜は、歌い慣れた歌を歌い始めた。

***

 午後4時。ジャズ・フェスタの前座となるプレ・フェスタは、定刻通り開幕した。

 1組目は、オーソドックスなジャズを演奏するジャズ・クインテット。平均年齢40歳という、黒尽くめの衣装に身を包んだ貫禄の男5人組だ。その演奏を、咲夜は一成と共に、舞台袖のカーテンの陰から聴いた。
 千数百人入る会場は、チラリと見た限り、ほぼ満席だった。奏は、あの中の真ん中やや後ろ寄りの席にいる筈だ。ヨッシーは前から2列目。“Jonny's Club”の常連さんで、昨日のライブの際に「明日も聴きに行くよ」と言っていたサラリーマンは、2階席だと言っていた。その全てが、咲夜の位置からは、顔の判別もできない「観客」という名の集合体に見える。
 目の前には、大きな大きな舞台。
 その広い舞台の真ん中に、あと1時間もしないうちに、自分も立つことになる。あれほど多くの「観客」のど真ん中に、一成と2人きり、放り込まれる。それを考えると、不安とも武者震いともつかない震えを感じる。
 舞台は、孤独だ。出て行ったが最後、誰も助けてはくれない。
 でも―――自由だ。

 「When I find myself in times of trouble, Mother Mary comes to me....Speaking words of wisdom, "let it be"....」

 さっき、最後の音合わせで歌った『Let it be』を、声には出さずに口ずさむ。
 まるで、呪文だ。
 そう―――昼間、奏に勇気付けられた時からずっと、咲夜の頭の中には、常にこの歌が流れていた。咲夜は、舞台上で演奏されているまるで違う曲を聴きながら、まるで自分自身に言い聞かせるように、『Let it be』を歌い続けた。


 When I find myself in times of trouble, Mother Mary comes to me (僕が悩み苦しんでいる時、聖母マリアが現れて)
 Speaking words of wisdom, "let it be." (尊い言葉を授けてくれる。―――「なすがままになさい」)
 And in my hour of darkness, She is standing right in front of me (僕の心が暗闇に閉ざされた時も、彼女は僕の前に立ち)
 Speaking words of wisdom, "let it be." (知恵ある言葉を唱えてくれる。―――「すべては、あるがままに」)


 本当に歌が好きなら―――歌うのがお前が生きてる意味なら、歌ってる間だけは、本音で生きろよ。
 …歌えよ、咲夜。“今”のお前を、正直に、あるがままに。


 ―――…そう。
 すべては、あるがままに。

 舞台では、既に2組目の演奏が始まっている。目を閉じた咲夜は、ジャケットを脱いで空気に晒された両腕を、自ら抱いた。
 無に、なる。
 空っぽになる。
 空っぽにして、浮かび上がってくる自分を捕まえる。
 痛みを、傷を、悲しみを、憎しみを……愛を。偽らず、曝け出す。いつも心の奥底に隠している、本当の自分を。


 浮かんでくるのは、拓海のこと。
 拓海―――その名前を思い浮かべるだけで、涙が出てくる。
 きっと一生消えない、この憧れ。胸が締め付けられるような想い。そして……もう、あそこには戻れないんだ、という絶望。空っぽになった咲夜の中には、いくつもの拓海への想いが溢れてくる。今すぐ歌に託さなくては、どうにかなってしまいそうなほどに。

 …けれど。
 けれど、“今”は、それだけじゃない。

 ―――…奏…。
 好意も、怒りも、後悔も、呆れるほど正直にぶつけてくる、咲夜の“親友”。
 時にどうしようもないほど子供で、時に笑ってしまうほど人懐っこくて……時に、瞬きすら忘れるほど、人を魅了する。そして、時に―――たくさんの友情を惜しみなく与えて、咲夜を満たしてくれる人。
 …友情では埋まらないものを、咲夜に気づかせた人。

 拓海が愛しくて、拓海を忘れられなくて、拓海への想いが捨てられなくて。
 なのに―――奏とは、友情だけでは足りなくて。触れたくて、触れて欲しくて……さっきのように、抱きしめて欲しくて。
 捨てなければならない想いと、失いたくない友情に、がんじがらめになっている。…そんな自分が、許せなくて、腹立たしくて……情けない。

 これが、“今”の、自分。
 拓海と奏、2人に……恋心を2つに引き裂かれたまま、途方に暮れている。それが、“今”の、自分だ。


 「咲夜」
 耳元で囁かれた声に、咲夜は目を開けた。
 目を開けると同時に、遠ざかっていた音が、一気に戻ってくる。会場を揺るがすような拍手、拍手、拍手―――どうやら、前のクインテットの演奏が終わったらしい。
 「行くぞ」
 「―――うん」
 神経が、ピンと張り詰める。
 一成と共に、咲夜はステージへと1歩、踏み出した。

 

 この日。
 咲夜はいつものように、大好きな青空を想い描きながら、『Blue Skies』を歌った。
 いつものように、拓海への叶わぬ想いを胸に、『What's New』を歌った。

 そして、生まれて初めて抱くある想いをこめて、『Let it be』を歌った。
 拓海と、奏 ―――2つに引き裂かれてしまったままの、切ないほどの想いを。


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