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― Time to say goodbye

 

 『一晩借ります  201 如月』

 「……」
 階段下の物置の扉に貼られた紙を見て由香理が眉をひそめていると、トントン、と、2階から誰かが下りてくる足音がした。
 慌てて部屋に戻ろうとしたが、遅かった。
 「―――…あれ、」
 下りてきたのは、咲夜だった。その腕には、「一晩借り」たのであろうミルクパンが抱かれていた。
 まだ大半の住人が起き出してこない、朝6時。物置前に佇む意外な人物に、咲夜だけじゃなくミルクパンまで目を丸くしているように見えて、由香理はバツが悪そうに1歩後ろに下がった。
 「友永さんじゃん。おはよ」
 「お、おはよう」
 「早いね。何してんの? こんなとこで」
 「別に……」
 なんでもない、と言いかけた由香理の背後で、がさっ、という音がした。
 由香理が後ろ手に持っていた、アルミパックに入ったキャットフード―――首を伸ばした咲夜にも、音の正体はバレてしまったらしい。ちょっと意外そうに目を見張った咲夜は、3秒後、にやりと意味深に笑った。
 「―――ふぅーん、なるほどぉ」
 「な、なによ、なるほどって」
 「2、3ヶ月前に、物置前にそれと同じ新品のキャットフードが放置されてるのを、優也君と一緒に見つけたんだよね」
 「……」
 「私は不思議に思ったけど、優也君は何も言わなかったなぁ。ふーん。へーえ」
 「…言っておくけど、その子、近づけないでよ。猫嫌いは克服してないから」
 そう。由香理は相変わらず猫嫌いである。だから、ミルクパンが起き出してくる前の早朝に、こっそりキャットフードを差し入れている。勿論、頻繁に、ではなく―――実に身勝手な事情から。要するに、誰かに優しくしたくなった時だけ、だ。
 …人間なんて、随分自己中な生き物だ。自分が楽しい時は周囲のことなんてまるっきり忘れている癖に、自分が寂しい時は、急に誰かに優しくしたくなったりする。
 「単に、寂しかっただけよ」
 事情を、たったそれだけの言葉でそっけなく伝える。意味など通じないだろう。別にそれでいいと思った。
 そんな由香理の言葉に、咲夜は、暫し黙っていた。が、くすっ、と小さく笑うと、一言呟いた。
 「―――猫は、黙って親切を押し売りされてくれるもんね」
 「え?」
 「人間と違って」
 「……」
 「はいはい、おうち帰ろうねー、ミルクパン」
 もぞもぞと腕の中で動いたミルクパンに、咲夜はそう言って、由香理の目の前を横切った。
 よしよし、と言いながら、いつもの寝床にミルクパンを置く。荒い格子状の扉を閉めた咲夜は、そこに貼っておいた紙をぴっ、と剥がした。どうやら、「借りる」とはミルクパンを部屋に連れて行くことで、「返した」から貼り紙もお役御免、ということらしい。
 「あ、そういや、聞いたよ」
 貼り紙をぐしゃっと丸めながら、咲夜が振り返った。
 「ミスター・Xの正体。同じ会社だって?」
 「えっ」
 ミスター・Xという呼び名はどうかと思うが、それがここの住人の間での樋口の通り名であることは、優也から聞いて知っている。由香理は、顔を思わず引きつらせた。
 「なんで知ってるの、それ」
 「マリリンさんに聞いた。一昨日かな、204号室の人が挨拶に来た、って話を優也君としてる時に、たまたま通りかかったから。引っ越すんだってね、今度の土曜日に」
 「……ええ」
 今度の、土曜日。
 由香理の表情に、ふっと陰りがさした。

 『こちらに顔を出すのは、13日の火曜日が最後です。引越しはその週の土曜日になります』

 ゴールデンウィーク前に、樋口がサラリと告げた言葉を思い出す。
 13日……今日で樋口は、会社からいなくなる。ここ最近は出向元である子会社と行ったり来たりだったが、後任への引継ぎも終わったし、残り数日は子会社の方の残務整理に集中する必要があるのだろう。
 そして、土曜日―――このアパートからも、樋口はいなくなる。
 「この子って、私が拾ってきた経緯があったから、気になってたんだよね。ミスター・Xからだけ、猫飼っていいかどうかのアンケートの答えがなかったこと。実は友永さんレベルの猫嫌いだったりして、とか思ってさ」
 視線を一瞬ミルクパンの方に向け、咲夜がそう続けた。
 「でも、マリリンさんから事情聞いて、ちょっとホッとした。“たった7人しか住んでないアパートの問題に、平日の朝夕数時間しかここに居ない自分の意見が影響するのはまずいと思った”んだってさ。賛成意見でも、反対意見でも」
 「…樋口さんらしいわ」
 冷たいようで、温かくて……目に見える部分だけで判断することのできない人だ。一見ぶっきらぼうに見えるアンケート無回答の真相を聞き、由香理は小さく笑った。
 そんな由香理の表情は、多分、樋口をどう思っているかバレバレだっただろう。特に―――失恋した夜、泣いている由香理を目撃してしまった咲夜には。
 けれど、咲夜は、何も言わなかった。
 「―――さて、と。ちょっとグルッとその辺回ってくるかなー」
 うーん、と伸びをすると、そう言って咲夜は再び由香理の目の前を横切り、アパートを出て行こうとした。
 「え…っ、ちょ、ちょっと。その辺回る、って…」
 さすがに驚いて由香理が呼び止めると、振り向いた咲夜は軽く肩を竦め、口の端を上げた。
 「仕事行くまで時間あるし。なかなか乙な散歩じゃない?」
 「……」
 「じゃーね」
 ひらひらと手を振りそう言うと、咲夜は、着ていたパーカーのフードを頭に被せ、外へ出た。その足取りは、いかにも「ぶらりと散歩に行きます」といった風情だ。
 早朝の散歩が、それほど変な行動だとは、由香理も思わない。けれど。

 ―――霧雨降ってる朝に、散歩?

 外は、霧雨。まだ早朝ということもあって、肌寒い。用があって出掛けるのにも躊躇するだろうに散歩を、しかも傘もなしにするなんて……やはり、不思議としか言いようがない。
 何やら歌を口ずさみつつ出て行く咲夜は、初めて会った時の印象そのままに、やっぱり「苦手な人種」だ。才能に恵まれて、迷うことなく自分の道を突き進んでいて―――欲や業に囚われることなく、飄々と人生を生きている、由香理とは正反対の場所にいる人種。
 けれど、今の由香理は、それを憎いとも妬ましいとも思わない。
 ただ、羨ましいな、と―――あっち側にいたかったな、と素直に思った。

***

 電話が鳴り、2コール目にさしかかったところで、由香理は受話器を取った。
 「はい、タキガワ・トレーディングです」
 『お世話になっております、株式会社ゼノットの、清水と申します』
 年輩の男性とおぼしき声が告げた社名に、由香理の表情が少し柔らかくなった。
 「清水様、ですね。いつもお世話になっております」
 『代表電話にかけてしまったんですが―――営業1課の樋口さん、いらっしゃいますか?』
 「1課の樋口、ですね? では、営業に転送いたしますので、そのまま暫くお待ち下さい」
 そう答えると、由香理は電話を保留し、内線で営業1課に電話した。

 電話主が告げた社名は、樋口が前に言っていた、駆け出し当初から懇意にしてもらっている“仕入先”だ。
 仕入先から見れば、由香理の会社は“お客様”―――そういう意識があってか、由香理自身、以前は仕入先からの電話には非常に事務的で愛想がなかったと思う。
 けれど、樋口の話を聞いて以来、由香理は仕入先からの電話にも愛想良く出るよう気をつけている。
 というか……この会社に関しては、気をつけるまでもなく、自然と表情が柔らかくなる。
 子会社にいた時の話とはいえ、樋口がピンチの時に助けてくれた経緯がある会社だ。それは、大きな流れで考えれば、親会社である由香理の会社にとってもありがたい話だっただろう。そうした話を知っているから、自然と対応が丁寧になるのだ。
 そして―――そういう話を知ってしまってからは、ここ以外の仕入先も、きっと担当者間では色々あるんだろうな、という気がしてきて、ぞんざいな態度など取れない気がしてきた。樋口の例のように助けられたケースもあるだろうし……真田の例のように、容赦ない値下げ交渉に苦しめられ、密かにこの会社を恨んでいるケースもあるかもしれない。感謝であれ、申し訳ない気持ちであれ、とにかく“仕入先”だからどう扱ってもいい、という風には、もう由香理には考えられなくなっていた。
 おかげでここ1ヶ月、由香理の電話対応は、社内・社外両方で評判がいい。
 こんな些細なことだけれど―――目に見える成果を1つ得られた分、由香理は、退屈で変化のないこの仕事が、ほんの少しだけ楽しくなっていた。

 『1課です』
 営業1課の女性が内線に出た。
 「総務です。株式会社ゼノット様から、樋口係長にお電話が入ってるんですが…」
 『…ええと…、樋口係長は、今席を外されてます』
 「あ…、そうですか。社内にはいらっしゃるんですか?」
 『ええ。あー、ごめんなさい、電話かかってきてるから、そちらで対応していただけます?』
 そう言う彼女の背後からは、別の電話が鳴っている音がしていた。
 ―――でも、あなた1人じゃないと思うんだけど。そこで電話取れる人って。
 …まあ、仕方ない。「わかりました」と答え、由香理は内線を切った。
 即座に保留を解除する。
 「お待たせしました。申し訳ございません、樋口はただいま席を外しておりまして―――はい、社内にはおりますので、折り返しお電話を……あ、はい、伝言がございましたら、こちらで承ります」
 仕入先から樋口への伝言事項をメモに書きとめた由香理は、丁寧に挨拶して、電話を切った。
 「営業1課、行ってきます」
 先輩にそう言い残し、由香理はメモを手に、席を立った。


 1課を覗いてみると、電話対応のとおり、樋口は席にいなかった。
 わかってはいたが、今日がこっちへの出社最後の日だと思うと、少し残念だ。小さくため息をつきつつ、由香理は樋口の席へ行き、メモを机のど真ん中に置いた。
 そのまま立ち去ろうと思ったのだが。
 「申し訳ありませんでした」
 さほど大きな声ではないのに、オフィス内の雑多な音の中からその声だけが耳に届いたのは、多分、それが樋口の声だったからだ。
 ハッとして振り返ると、幾分離れた部長の席の前に、樋口と真田が並んで立っていた。いや……立っていただけではなく、2人揃って部長に頭を下げている。額のかなり後退した営業部長は座ったまま、渋い表情で2人を眺めていた。
 何か失態でもあったのだろうか? さすがに、ちょっと胸が速くなる。気になって様子を見ていたら、営業事務の女子社員が、すすっ、と由香理の傍に歩み寄ってきた。
 「真田さん、大ポカやっちゃったみたいですよ」
 「えっ」
 「係長の助言を聞かずに押し進めた契約、弱小企業に取られちゃったんですって。ここ2年、ずっと真田さんが担当してたとこだから、さすがに大ショックみたいですよ。今年入った新人が結構優秀なんで、焦ってるんですね、きっと」
 「……」
 そう言う彼女の顔は、明らかに、このゴシップを面白がっている顔だ。由香理は、不愉快そうに眉をひそめた。

 新人については、既に由香理の耳にも入っている。真田と同じ大学の新卒で、ルックスも悪くないので、早くも女子社員の注目株となっている。とはいえ、真田が焦るような「結構優秀」という話は聞いたことがない。当たり前だ。まだ5月半ば―――まだ1つも契約を取っていない新人が「優秀」と言われることがあるとしたら、飲み込みが早いとか素直だとか、そういう資質の問題についてであって、決して真田が競っている営業成績のことではない。そして、彼女が言う「結構優秀」は、そういう資質の問題ですらないだろうことは、ほぼ間違いない。
 こんな言い方を彼女がするのは……やはり、柚原の件がベースにあるのだろう。
 柚原に弄ばれた格好となった真田を、面と向かってバカにする輩はいない。が、やはり裏では色々言われている。中には、根も葉もない誹謗中傷もある。その多くが、由香理の耳に届いていた。頼んでもいないのに、わざわざ真田の悪口を吹聴してくる者が結構いたのだ。真田に弄ばれた由香理にとって面白い情報だと、彼らは思っているのだろう。
 由香理は、それらをうんざりした気分で聞き流し、そんな由香理を見て、吹聴してきた連中は意外そうな顔をした。そして明らかに面白くなさそうに去って行った。それが功を奏し、最近は真田の噂も聞かなくなっていたのに―――…。

 「柚原さんとのことがあって以来、ついてませんよねぇ、真田さん」
 彼女が、締めくくるようにそう言うのを聞いて、由香理もさすがに、堪忍袋の緒が切れた。
 「…それ、私にどう答えろって言うんですか?」
 冷ややかな声で由香理が言うと、女子社員は、一瞬目を丸くした。
 が、すぐに不満そうな顔になると、無言のまま立ち去った。真田の惨めな話は由香理にとっては嬉しい、いい気味と思える話、と思って、「親切心から」言った言葉なのに―――去り際に彼女が見せた不満顔が、あからさまなほど、そう由香理に言っていた。
 『猫は、黙って親切を押し売りされてくれるもんね―――人間と違って』
 咲夜は、こういう意味であのセリフを言ったのではないだろう。が……今朝聞いた咲夜の言葉を別の意味で実感し、由香理は思わず苦笑した。
 …本当に、人間なんて勝手な生き物だ。望んでもいないものを「親切」と言って押し売りし、いらない、と言うと、拒絶した側が悪いような顔をする。

 「真田さん」
 再び、樋口の声が聞こえた。
 慌てて目を向けると、部長への報告か何かが終わったのか、樋口と真田は既に部長の前にはいなかった。ツカツカと、明らかに感情的な足取りで真田がオフィスの出入口へと向かっており、それを樋口が追う展開になっていた。樋口の席の傍にいる由香理には、2人とも気づかない様子だ。
 立ち聞きは、良くないかもしれない。けれど、1課の人間じゃない自分がいつまでもここにいるのも変な話だ。一瞬迷った由香理は、急ぎ足で出入口に向かい、そっと廊下の様子を窺った。
 幸い、樋口と真田がいる場所からは、由香理のいる出入口や階下に繋がる階段は死角となる位置になる。足音に注意をはらいつつ、由香理は柱の影に身を寄せた。これなら、2人が戻ってくるなりエレベーターに乗るなりしてくれれば、その隙に階段で仕事場に戻れるだろう。
 樋口は、真田の腕を掴んでいた。
 「今から逆転しに行くのは無理です。次の機会を待ちましょう」
 「……」
 どうやら真田は、落としてしまった契約をなんとかもう一度取り付けようと、勢いに任せて出てきてしまったらしい。が、現実は樋口の言う通りなのだろう。悔しそうに唇を噛み、俯いている。樋口の顔の方は、残念ながらこの位置からは見えなかった。
 「…いい気味だと思ってるんでしょう」
 俯いたまま、真田が低く呻く。
 「係長に逆らってばかりだった俺が、とうとう大バカやらかして…自業自得だ、ざまあみろ、と思ってるんでしょう」
 「真田さん…」
 「いいんですよ、事実ですから。…さぞ、いい気分でしょうね。最後の最後、気に食わない部下の鼻っ柱を挫くことができて」
 「…いいえ」
 不遜な真田の言い草に気分を害した様子もなく、樋口は静かに答えた。
 「むしろ、あなたの暴走を止められなかった自分を歯がゆく思っています」
 「…なんですか、それ。自分が止めなかったせいで、俺がこうなった、とでも言う気ですか」
 「違いますよ。あなたが失敗しようがクビになろうが、わたしには何の被害もありません。多少胸は痛みますがね。でも、上司である以上、わたしの責任も問われる―――わたしに非はなくとも、一緒に頭を下げざるを得ない」
 淡々と樋口が放った言葉に、真田がハッとしたように顔を上げた。
 「あなたに何度も指導し、助言もし、その通りにするとの約束も取り付けた。なのに、あなたが隠れて独断で突き進んでしまったために、わたしはこの会社で過ごす最後の日に、管理不行き届きの角で、部長から嫌味を言われなければならなかった。あなたを信じた結果、信用したお前が悪い、と叱責を受けた訳です」
 「……」
 「信用せず、強引にでも担当替えをするか、わたし自ら交渉に行けばよかったのか、と、本気で思っています。…いい気味だなどと思えるのは、自分に被害が及ばなかった人間だけです。一緒に頭を下げたわたしは、あなたに怒りは覚えても、優越感は覚えられません。わかりますか?」
 真田の目が、落ち着きをなくす。
 愚かな人間で、根本的にバカな部分があるのだろうが、それでも真田は優秀な「頭」の持ち主だ。そして、傲慢さや自惚れを大失敗によって削ぎ取られてしまえば、樋口の言うことを理解するのは、彼の「頭」にはたやすいことだったのだろう。
 真田の視線が、力なく足元に落ちた。そしてそのまま、視線を追うように、真田の頭が深く下げられた。
 「―――…すみませんでした」
 掠れたような、呟きのような、小さな謝罪。
 けれど…あの真田が、あの樋口に、頭を下げるなんて―――思い上がった愚痴をさんざん聞かされ続けた由香理からすれば、信じられないような光景だ。それほどに、今回の失敗は……いや、もしかしたら、柚原の件から始まった一連の事柄は、真田にとって痛い経験だったのかもしれない。
 樋口は、暫し、頭を下げる真田を黙って見下ろしていた。が、やがて、ゆっくりと口を開いた。
 「今回の失敗、真田さんは、何が原因だと思ってますか?」
 ゆるゆると顔を上げた真田は、確信を持ったのか、ちゃんと樋口の目を見て答えた。
 「…この会社の名前に自惚れてました。競合相手が同等の一流企業なら、甘くは見なかったと思います。弱小企業だから、勝負になどならないと思ってた―――実際、この2年、もっと大きな競合相手との勝負でも楽勝してましたから。同じ価格なら、ブランド力でうちを選ぶ筈だ、と高を括ってた……2年付き合ってきた馴れ合いも、あったのかもしれません」
 「そうですね―――普通は、あなたの言う通り、同じ価格であれば、大企業で付き合いも長い方を選ぶでしょう。じゃあ何故、今回、あなたの言う弱小企業に負けたのか。…そこは、わかりますか」
 「……」
 「担当者が、あなただったからです」
 あまりにストレートな言葉に、真田の顔が歪むのと同時に、由香理も思わず息を呑んだ。
 「今回の交渉にまずい点があったのも事実ですが、今回負けた本当の理由は、あなたが積み重ねてきた2年間―――社名というブランドにあぐらをかいてきた2年間のせいです。2年かけて、この会社の持つブランド力を、あなたが削ぎ落としてしまったんです」
 「……」
 「…ブランドというのは、個人が作るものではありません。先人たちが築いてきた歴史です。名門大学に入っても、一流企業に入っても、それは単に、そこに“所属”しただけ―――あなた自身の価値が上がった訳でも何でもありません。一流大卒を褒め、一流企業勤めを褒める人は、あなたを褒めてるんじゃない、それらのブランドを築いた先人たちを褒めているんです」
 そこで、少し言葉を切る。樋口は、まるで言い含めるようにゆっくりと、真田に問いかけた。
 「真田さん。あなたは、“あなた自身”を褒められたことは、ありますか?」
 「……っ」
 「あなたが“所属”する、“所属”してきたブランドではなく―――売り払うことのできる“持ち物”や、年齢と共に衰える容姿以外のもの。あなたの“中身”を褒められたことは、ありますか?」

 真田は、答えなかった。
 答えなかったのが、答えだった。
 そして、由香理も、樋口の問いに答えられそうになかった。何故なら―――かつて、自分が真田を「狙っていた」理由は、まさしく樋口が言うところのブランドと、売り払うことのできる持ち物、そしていずれは衰えていくであろう容姿だったのだから。

 形容し難い空気が、じりじりと流れる。物音を立てれば、すぐに空気が弾け飛びそうだ。
 由香理は、こんな話を聞いてしまうことに一抹の罪悪感を覚えながら、じっと息を殺して体を縮めていた。
 「…真田さん」
 かなりの沈黙の後、樋口がやっと口にしたのは、由香理に告げたのと同じ言葉だった。
 「勝って下さい」
 「……」
 「悔しいのなら、言い返せないのなら、本気で戦って、勝って下さい」
 「…そこまで言われるような俺に、勝機なんて、あるんですか?」
 「ありますよ」
 あっさりと、樋口はそう答えた。
 「あります。以前のあなたには無理でも、今のあなたは勝ちます」
 「……」
 「…あなたには、随分きついことも言ってきました。でも、わたしは、本当に見込みのない人間には、何も言いません―――それだけは、信じて下さい」

 『会社的に“善”である以上、彼が気づくのは、本当に追い詰められた時、なんでしょうね―――若いうちならいいですが、部下を持つような立場になってからだと、致命的です』

 以前、樋口が言った言葉を思い出す。
 なまじの“ブランド”を担っており、会社的に“善”である「営業利益を上げる」ことに熱心である分、真田が近い将来、部下を持つ立場になるのはほぼ確実だ。しかも、樋口のようなレベルではなく、もっと上―――たとえば、真田と同じ大学の出身者である重役と同じポストに収まる可能性も、他の人間より高い。
 案外、本人以上に、樋口は真田のそういうブランド力をよく知っていたのかもしれない。
 だからこそ、憎まれ役とわかっていながら、他の人間が黙っていることを、あえて言い続けていたのだろう。致命的になる前に、真田のミスが会社の存続をも揺るがすような立場になる前に、何とか真田に気づいて欲しい―――その一心で。
 樋口が言うなら、本当に、そうなのかもしれない。
 真田は、かつての由香理同様、中身で褒められることのない、人間的にはどうしようもない男だが―――自分の愚かさに気づけば、生まれ変わることのできる見込みのある人間なのかもしれない。事実、半年前、由香理をどん底に突き落とした男は、今、悔しさと自らへの怒りを滲ませて、樋口の目を見返している。あの頃のままの真田なら、こんなことを言われたら、あっさりキレてこの場を立ち去っていた筈だ。

 「勝ってみせて下さい、真田さん」
 樋口はそう言って、真田の肩をぽんぽん、と叩いた。
 「遠くで、応援してますから」
 真田は、わかりました、とは言わなかった。
 その代わり―――無理だ、とも、余計なお世話だ、とも言わなかった。ただ黙って、樋口の、眼鏡の向こうにある目を真っ直ぐ見据えていた。

***

 翌日から、樋口はあっけないほど、由香理の日常から姿を消した。
 元々、通勤時に稀に姿を見かける程度だった男だ。会社が別になり、微妙に出社時間が変わってしまえば、顔を合わせることなどなくて当然なのかもしれない。
 真田のミスについては、表立って口にする者はいなかった。が、女子社員や真田のライバルの間では、その週の終わりまで、色々と歪曲された形で噂されていた。
 社員食堂でそんな話を偶然耳にした智絵は、「他人のミスを面白がる奴は、結局低脳なのよ」と聞こえよがしに言い、女子社員より男性社員から不興を買った。智絵にとってのライバルは女性より男性が圧倒的に多い。仕事の愚痴をあまり口にしない智絵だが、彼女も日々戦ってるんだな、とその場面に居合わせた由香理はしみじみ思った。
 真田がどうしているかは、由香理にはわからなかった。
 噂されるのが嫌で、用もないのに外回りしている、という噂を聞いたが、由香理は話半分に聞いておくことにした。その可能性もあるし、落とした契約分を埋めようと新規開拓に躍起になってる可能性もある。ただ、社内にあまりいない、ということだけは事実のようだった。

 そして、土曜日。


 引越し作業の最中だった樋口は、思いがけず訪れた由香理に、驚いたように目を丸くした。
 「…ご迷惑だろうとは、思ったんですけど」
 バツが悪そうに由香理が言うと、樋口は、丸くしていた目を細め、苦笑のような笑みを漏らした。
 「いえ―――迷惑ではありませんよ。どのみち、後でご挨拶しに行くつもりでしたから」
 「えっ」
 「ここの方たちとは交流はありませんでしたが、あなたには会社でお世話になりましたから」
 「……」
 ―――お世話になったのは、私の方だと思うけど…。
 確かに、社内の実務、という点では、総務の由香理が営業の樋口の“お世話”をしたことは何度もあるが、その逆は全くない。が……そんなビジネス面の“お世話”など比べ物にならないほど、由香理は樋口の世話になった。
 樋口がいなかったら、今頃あの会社にいなかったかもしれない。あの時辞めていれば―――真田が変わり始めたことすら知ることもできなかっただろう。

 …いや、それ以上に。
 誰かを、本当に好きになる、ということ―――恋というものがどんなものかを、知ることもできなかっただろう。

 「…これ、つまらないものですけど」
 由香理はそう言って、手にしていた小さな箱を、樋口に差し出した。
 「真田さんのことで、随分ご心配おかけしたお詫びとお礼、それと…お餞別の意味で」
 「わたしに、ですか?」
 樋口が、また驚いたように目を丸くする。由香理はくすっと笑い、小さく頷いた。
 「婚約者のいる男性に、プライベートな物や直接身につけるような物もどうかな、と思って―――名刺入れです。新しい職場でも、活躍されるように」
 「……」
 「お幸せに」
 そう言って、由香理が微笑む。
 「―――ありがとうございます」
 樋口は、名刺入れの入った箱を受け取り、少し照れたような笑みを由香理に返した。
 「あなたも、幸せになって下さい」
 その言葉は、真田に言った「勝って下さい」という言葉と、同じ響きをしていた。


 そうして―――樋口は、由香理の生活から、完全にいなくなった。


***


 「―――…で、ご要望は?」
 鏡越しに問われ、由香理はシンプルに、こう答えた。
 「お任せします」
 「……」
 鏡の中の奏の眉が、訝しげにひそめられる。少し腰を屈めた奏は、今までより声を小さくした。
 「…マジで、何かあった訳? 突然指名で予約入れてくるし、来たら来たでリクエストなしだし」

 この店に来るのは、約1年ぶりだ。
 樋口が“ベルメゾンみそら”を去り、無気力な週末を過ごした、月曜日。由香理は、何故か急にここに来ることを思い立ち、昼休みに電話した。閉店ギリギリの時間に滑り込みセーフで予約を取れたが、何故そんなことを思いついたのか、由香理自身、わからなかった。
 でも、実際に来てみて、1年前と同じように鏡の前に座ったら……なんだか、わかった気がした。自分が何を求めて、ここに来たのか。

 「前、“顔が変わった”って言ったじゃない。私のこと」
 「…ああ」
 今から2ヶ月半ほど前。酔っ払った咲夜の介抱をしながら、奏が由香理の顔を見て言った一言―――「ただ、なんかちょっと、顔が変わったな、と思って」。
 記憶の片隅にはあったのだろう。鏡の中の奏が、あの時のことか、という顔をする。
 「確かめたくなったの。どう変わったか」
 「……」
 「だから、一宮さんにお任せします」
 「…よくわかんないけど」
 困ったように呟いた奏は、一度天井を仰ぎ、それから鏡越しに由香理をじっ、と見据えた。
 「今の友永さんらしいメイクをご希望、ってことで、OK?」
 「ええ。そうして」
 「かしこまりました」
 営業用の声音でそう言うと、奏はさっそく、メイク作業に取り掛かった。

 今日1日、顔の表面を覆っていたメイクが、綺麗さっぱり取り除かれる。
 毎日、毎日、鏡の中で見慣れた顔―――自分の素顔。そこにあるのは、美人とは程遠いが絶望的なほど不美人でもない、極々ありふれた、平凡なOLの顔だ。こうして見る限り、1年前と、その素顔が変わったようには由香理には思えなかった。
 「……私ね、失恋したの」
 手際よく作業を進めていた奏の手が、一瞬、止まった。
 「1ヶ月ちょっと前。…如月さんから、聞いてない?」
 「咲夜から? いや―――なんで、咲夜から?」
 「失恋した日、彼女の店行って、泣いちゃったから」
 「…いや、聞いてないな」
 目を閉じているので顔は見えないが、奏の声は、嘘をついているような感じではなかった。どうやら、咲夜は本当に何も言っていないらしい。面白いネタとして、てっきり話していると思っていたので、ちょっと意外だ。
 「…ねえ」
 「ん?」
 「一宮さん、優也君から聞いてるのよね。私と優也君のこと」
 「…あー、まあ。詳しい話は知らないけど」
 奏の声が、気まずそうな色合いになる。優也が、奏に相談したということを由香理に話しているとは思わなかったのだろう。でも、優也の性格からしたら、男女関係という極めてプライバシーに関わることを第三者に話してしまったことを、当事者である由香理に黙っていることなどできる筈もない。あの半月ほど後に、「一宮さんに相談してしまいました」と、非常に申し訳なさそうに告白した優也を思い出し、由香理は一瞬、口元をほころばせた。
 「あの時は、失恋じゃなかったんだけど―――私、優也君に助けられたと思ってる」
 「……」
 「…今回、失恋した人もね。片想いのままだったけど……心の支えになってくれた。あの人がいたから、私、会社を辞めずに済んだと思ってるの」
 「…そっか」
 奏の相槌は、いたってシンプルだった。…まあ、そうだろう。こんな話をされても、奏としては困るだけかもしれない。
 「私の顔が、本当に変わったんだとしたら―――どっちの影響なのか、知りたいのよ」
 「どっちの影響?」
 「私をボロボロに傷つけた人の影響か。それとも……優也君や、あの人の影響か」
 「―――…なるほどね」
 由香理が何故、奏にこんなプライベートなことを話したのか、奏にもわかったらしい。納得したように一言相槌を打つと、奏はそれ以上何も訊かず、黙々と作業を続けた。

 そして、15分後。
 「はい、完成」
 「―――…」
 落とし気味にしていた視線を、真っ直ぐに戻す。
 鏡の中の自分を見て―――由香理は、少し緊張気味だった表情を和らげた。
 「どっちだった?」
 「…優也君と、あの人の方ね」
 そこに映った由香理は、穏やかな表情をしていた。
 1年前、本命狙いの飲み会仕様、と称してメイクしてもらった時の顔も、確かに普段の由香理より優しげで、女らしい表情だった。けれど―――今、目の前にいる由香理は、より自然な顔だった。金返せ、と冗談半分で言いたくなるほどのナチュラルメイク。本当に……本当に、最低限のメイクしか施していない、素顔に一番近い由香理だ。
 「肩肘張ってんなーこいつ、って思ってたんだよな、オレ」
 「私のこと?」
 「そ。で、今は、そのガチガチに肩肘張ってた部分が取れて、適度に力抜けた感じ」
 「……」
 「オレ、思うけど―――ボロボロに傷つけた奴の“おかげ”でも、あるかもしれないんじゃない?」

 ―――真田さんのおかげ、……か。
 …そうね。痛い目を見ないと、気づかなかったんだから。
 コンプレックスで凝り固まった私の鎧をぶち壊してくれたのが、真田さん。そして―――鎧を壊した時できた傷を癒してくれたのが、優也君と……樋口さん。そういうことなのかもしれない。

 一見、物事を真剣に考えてない、軽いノリに見えた2人だけれど―――咲夜は率直でありつつ口が堅く、奏は柔軟でおおらかな考え方を持っている。
 やはり苦手な人種だ、と思うけれど……いい人たちだ、と、今の由香理には思えた。
 「ねえ」
 鏡越しではなく、直接奏を仰ぎ見た由香理は、ニコリと笑ってみせた。
 「この店、会社のみんなにいっぱい宣伝してあげるから、店ひけた後、1杯だけ飲まない?」
 突然のお誘いに、奏はキョトン、と目を丸くした。
 「は?」
 「一緒に帰るなんて真っ平だし、話も合わなそうだからご飯もパスだけど―――せっかくメイクしたんだもの。いい男と1杯飲むくらいのイベントがなきゃ、面白くないじゃない?」
 由香理のそのセリフに、奏は苦笑し、降参したように諸手を上げた。


***


 翌日、思いがけず、真田と会った。

 ―――…ちょっと、タイミング悪かったかも…。
 休憩室のドリンクコーナーには、真田しか人がいない。由香理の顔が、強張る。真田の方も由香理に気づき、ちょっと気まずそうな顔をした。
 窓際に立った真田は、入り口で迷ったように佇んでいる由香理から目を逸らし、手にしていた紙コップを口に運んだ。これで引き返したりしたら、逆に意識しすぎな気がする。観念した由香理は、何事もなかったかのように休憩室に入り、手にしていた財布から100円玉を取り出した。
 「…久しぶり」
 由香理がアイスコーヒーのボタンを押したところで、真田の方からそう声をかけてきた。
 正直、ちょっと意外だった。変な居心地の悪さを感じつつ、由香理は真田の方に目を向けた。
 「…お久しぶりです」
 返したけれど―――そこから、話が続かない。
 「……」
 「……」
 双方、黙ったまま、気まずい時間が過ぎる。結局、アイスコーヒーが出来上がったピーッ、というアラーム音が鳴るまで、無言は続いた。
 腰を屈め、アイスコーヒーを取り出す。迷った末、由香理は、真田から少し離れた位置にある椅子に腰を下ろし、紙コップに口をつけた。

 もしかしたら真田は、柚原のことや先週の大失態のことを由香理に言われると思っているかもしれない。由香理の方も、あれほど頻繁に顔を出していたコンパに全く出なくなった事を指摘されるのではないか、と少し警戒していた。
 けれど、お互い、わかっていることは、ただ1つ―――真田も、由香理も、自業自得だということ。
 真田が由香理に謝罪することなど、何もない。その代わり、由香理が真田を詰ることもないだろう。2人は、同じ穴のムジナ―――外見や肩書きを妄信するあまり、人間として大切なことを忘れ、墓穴を掘った。…ただ、それだけだ。
 全く…情けなくなるほど、似たもの同士だ。
 でも、同じ似たもの同士でも、自分の愚かさに気づけた分、1年前の自分たちより、今の自分たちの方がマシかもしれない。

 「…なかなか、新規開拓がはかどらなくてね」
 真田が、ぽつりと、そんなことを言った。
 「焦っちゃ駄目だと思うのに、上手くいかないと、余計焦る。…なんか、新人の頃思い出すよ。ここ何日か」
 「……」
 「で、ちょっと息抜きして肩の力抜こうと思って、コーヒーブレイクって訳だ」
 「…そう、ですか」
 こんな日中から社内にいる理由を述べたつもりらしい。でも、多分…本当に言いたかったのは、前半の方だろう。それを察し、由香理は少し微笑んだ。
 「…私は、つい最近、失恋しちゃって」
 何故か、そんなことを口にした。
 真田の目が、少し丸くなる。そんな噂は聞いてないな、という顔だ。…当然だ。由香理の想いは、誰も知らないのだから。
 「片想い、だったけど、初めて本気で好きになった人だから……まだ、当分引きずりそう」
 「……」
 「さっき、その人が書いた書類を見たら、なんか思い出しちゃって―――で、気分転換に、コーヒーブレイク」
 「…ふぅん」
 口調から、自分のことでないのは、真田にもわかるのだろう。誰のことだろう、という顔を一瞬したが、詮索する気はないのか、短い相槌だけで、また黙り込んだ。

 そのまま、会話は、途切れた。
 先に飲み終わった真田が、紙コップを握りつぶし、ゴミ箱に放り込む。由香理の方は、まだ半分も飲み終わっていない。軽く伸びをする真田を横目で見ながら、由香理はコーヒーを飲み続けた。
 「―――さて、と。戻るか」
 独り言とも、由香理に言ったともつかない呟きを漏らすと、真田は壁に預けていた背中を起こした。そんな真田に、由香理は、極々自然に次の一言が出てきた。
 「新規開拓、頑張って下さいね」
 「……」
 少し驚いたように、真田が由香理を見る。
 が、一瞬の間の後、真田は、ふっ、と彼らしくない、力の抜けた笑いを見せた。
 「そっちも、頑張れよ」
 その一言に、由香理も、当たり前のように微笑むことができた。


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