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― 日曜日 ―

 

 日曜日の朝は、夏真っ只中とはいえ、薄曇りの天気も手伝ってか、幾分過ごしやすい陽気だった。

 「は!? 名刺を!?」
 「そ。ビリビリと」
 そう言って、咲夜は、目の前で名刺を破くゼスチャーをしてみせた。窓枠に寄りかかって煙草をくゆらせていた奏は、灰が落ちそうになるのも気づかず、ちょっと感心したように咲夜を眺めた。
 「お前って、やる時は結構、過激だな」
 「別に、過激ってほどでもないでしょ。何度も来られたら迷惑だから、わかりやすい態度を取ったまでじゃん」
 「マジで切れると、オレは顔と言葉に出るけど、咲夜は逆だからなぁ。顔はにこやかで、言葉も少ないけど、その代わり行動が鬼になるだろ」
 「ハハ、その傾向はあるかも」
 咲夜自身、自分を素直な方とは思っていない。奏のように感じたままがストレートに表れる人間が羨ましい位だ。そういう咲夜の中でも、昨夜の出雲に対する態度は、比較的ストレートな方だろう。…の割に、ステージから見た出雲の表情が、なんだか腑に落ちていない様子だったのが、少々気がかりではあるが。
 「しっかし、思い切ったなぁ…。チャンスはチャンスだったろうに」
 トントン、と灰皿に煙草の灰を落としながら奏が言うと、咲夜はため息をつき、窓枠に頭をコテン、とくっつけた。
 「チャンス、かぁー…。そうなんだろうねぇ、傍から見れば。名のある芸能プロだもんねぇ。地味ぃにライブ活動やっても稼げるお金は知れたもんだけど、お偉い人に曲書いてもらって、宣伝費ばんばん使って、女子高生がカラオケで歌いそうな歌の1枚も出せば、実力次第では大金持ちだよねぇ」
 「ははははは、笑えるほど、咲夜っぽくねーサクセス・ストーリーだな、それ」
 「歌を歌ってる奴が、全員ミリオンヒット夢見てると思ってるような芸能プロ、所属するだけバカ見るよ。あーあ…、知名度もCDデビューも要らないから、1回でも多く歌えるチャンスが欲しいなー」

 薄曇りの空を眺めてそうぼやく咲夜だって、以前は、拓海が契約していたジャズ専門レーベルに、何度も何度も自作テープを提出していた。ミリオンヒットを夢見た訳ではないが、CDデビューには、漠然と憧れていたのだ。
 なのに、拓海のレーベル移籍騒ぎがあり、最終目標としていた拓海とのライブも実現してしまったら―――その憧れは、咲夜の中から跡形もなく消えていた。結局、CDじゃなく「拓海と同じ道」への執着に過ぎなかったのかもしれない、と、咲夜は密かに思っている。
 今、咲夜が貪欲に求めているのは、「生で歌を聴かせる機会」だ。
 一成と一緒にやっていく、と決意したことも影響しているし、“Jonny's Club”以外の舞台をいくつか経験したのも大きかっただろう。多少生活が苦しくてもいいから、とことんライブ活動にこだわりたい、というのが、今の咲夜の気持ちだった。
 そして、とことんライブにこだわる咲夜の気持ちは、職種は違えども、奏にもよく理解できた。何故なら―――奏もまた、生で観客の反応を感じることができるファッションショーを、どんな仕事より貪欲に求めているモデルだから。

 「オレにも、ショーの依頼、来ないかなぁ…。残り短いモデル人生なんだから、どうせやるなら、ギャラ低くていいからショーがいいよなぁ」
 「来ないの? 依頼」
 「当面、予定はないなぁ―――あ、そうだ」
 咲夜同様、空をぼんやり眺めていた奏は、ふと昨日のことを思い出し、目を隣の窓に向けた。
 「モデルの方じゃなく、メイクの方で、昨日オファーが来た」
 「へぇ、また?」
 「うん、また、っつーか、同じモデルなんだけど」
 「……」
 キョトンと目を丸くした咲夜は、窓枠に預けていた頭を起こし、不思議そうに奏の顔を見た。
 「同じ、って、あの日本人形っぽいモデルさん?」
 「そうそう」
 「あの仕事、奏、めちゃめちゃ後悔してなかったっけ」
 問題の仕事のあった夜、咲夜が奏の部屋を訪ねると、奏は珍しいほどに酔っ払い、「あんな仕事、請けるんじゃなかった」と愚痴った。酔っ払いの話なので、いまいち要領は得なかったのだが、その話から、奏が感じたジレンマのようなものは、咲夜にもなんとなく理解できた。
 よくわからないビューティーコンテストの、3位というこれまた微妙な賞を獲得したという美少女―――ちやほやされて勘違いしているのか、裏方の人間に高慢な態度を取り、マネージャーを顎で使っていたらしい。でも、奏が彼女に悪印象を持ったのは、その高慢さが主原因ではないだろう。
 奏が本当に嫌だったのは、カメラの前に立った時の彼女―――服を魅せることも、ムードを演出することもなく、ただ美しい顔をした“物体”になっているだけのモデルが嫌だったのだろう。咲夜は、そう感じていた。
 「ああ…、うん、かなり後悔してたんだけど、な」
 「受けたの? 今度のオファー」
 咲夜が確認すると、奏は、微妙な表情で軽く頷いた。なんでまた、という目をする咲夜に、奏は煙草を灰皿の中でもみ消し、説明に困ったように頭を掻いた。
 「なんつーか……咲夜がライブに飢えてんのと同じで、オレも、個人的オファーに飢えてんのよ。モデル廃業した後のことを考えると、店での技術料だけで生活してくのは結構厳しいし、そうじゃなくても店を当てにしてるようじゃダメなんだよな。モデルの知り合いも多いけど、みんな馴染みのメイク抱えてるし…。まだ人脈のないオレにとっちゃ、リピートしてくれるモデルってのは、性格悪くてもありがたい存在なんだよ」
 「まあ、確かに、ねぇ…」
 「ただ、話聞いてると、メイクの腕を買われた、というより、先輩モデルとして意見を求められてるっぽいのが、微妙ではあるけど……。ま、本人が“モデル業を楽しみたい”って切実に思ってるんなら、説教しちまった立場としては、アドバイスの1つもしてやらないと、まずいしな」
 「……楽しみたい、か」

 なるほど。
 なんとなく、奏が何故引き受けたのか、わかった気がした。
 かつての自分を彷彿とさせるモデル。ただ義務的にカメラの前に立ち、それがモデル業というものだと思っているモデル。その彼女が、周りの誰も教えてはくれない“何か”を知りたがって、奏に教えを請うてきたのだ。自分も体験した不足感だからこそ、奏は、なんとかしてやりたい、と思わずにはいられなかったのだろう。
 ―――なんだかんだで、人がいいからなぁ、奏って。
 多分、奏のことをよく知らない人なら、その外見から、奏をクールな人間だと誤解するだろう。でも、実際の奏は、かなりのお人よしだ。打算だけじゃない理由で、一度は愛想を尽かした相手からの依頼を引き受けてしまったらしい奏の様子に、咲夜は思わずくすっと笑った。

 「なかなか癖のある子みたいな話だったけど、案外素直じゃん。奏のアドバイス次第では、いいモデルになるんじゃない?」
 「どうだかねぇ…。資質の問題もあるから、オレが何言っても実践できない可能性もあるし―――…」
 少し眉を顰めてそう言いかけた奏だったが。
 言いながら、何気なく目を向けた窓の下の道路に、あるものを見つけて―――ん? と僅かに目を丸くした。
 「あれ? あれって、木戸さんか?」
 「え?」
 奏の声に、咲夜も、奏が視線を向けている先へと視線を移した。
 平日ならこの時間、少し遅めな出勤の社会人や大学生が、眼下の道を駅に向かって何人も歩いている筈だ。が、今日は日曜日。アパート前の人通りはまばらだ。
 そんな中、ランニングに短パン姿の中年男性が、スタスタと歩いていた。そのフォームを見るに、どうやら競歩をやっているらしい。その背格好といい、顔立ちといい、その男性はどう見ても木戸だった。
 「木戸さん、だね」
 「やっぱり」
 木戸は、駅とは反対方向からスタスタ歩いてきて、アパートの前を通過中である。頭上にいる奏と咲夜には気づいていないらしい。そのまま、一切スピードを緩めずに、駅方面へとスタスタ歩いて行く。
 「……どーしたんだろ。木戸さん、休み取れた土日は、欠かさず秋田に戻ってるんじゃなかったっけ?」
 「ってオレも聞いたけど、日曜しか休めなかったのかもな」
 「そっか。秋田日帰りはキツイか。…にしても、真夏に競歩かぁ…」
 よくやるな、と、2人は、見る見る遠ざかっていく木戸の日焼けした後姿を見送りながら、感心したようなため息をついた。
 「―――…んで、どうするよ、今日。何時ごろ出る?」
 木戸の背中が電柱の陰に隠れてしまったタイミングで、奏が改めて切り出す。
 元々、その話をするために、こんな風に窓越しに話をしていたのだった。どこで話が脱線したんだったかな、と思いつつ、咲夜は、背後の目覚まし時計に目を向けた。
 「えーと…お昼食べがてら、ってのはどう?」
 「そうだな。じゃ、支度できたら、オレんとこ来てくれよ。12時目処に準備しとくから」
 「うん、わかった」
 この後出かける予定について簡単に打ち合わせをすると、じゃあな、と言い残して、奏は窓の内側に引っ込んだ。薄曇りとはいえ、そろそろ、蒸し暑さに耐えられなくなってきたのだ。
 咲夜も奏に倣い、部屋の中に引っ込もうと、窓枠に手を添えた。
 だが。

 「……?」
 何か、視界の端っこに引っかかった気がして、窓を閉めようとした手を止める。
 視界の端に映ったのは、人影だった。
 咲夜の位置からは、アパートの出入り口そのものがハッキリ見える訳ではないが、そこを出入りする人間は、比較的すぐに目に入る。窓を閉めようとしたちょうどそのタイミングで、アパートから出て来た人影が、咲夜の目に留まったのだ。
 出て来たのは、男性、だった。
 残念ながら、俯いているため、顔は見えない。上から見たのでは、背丈などもよくわからない。そこそこ上背があるが、どちらかと言うと痩せ型で、半袖のコットンシャツにオリーブのパンツを合わせている。栗色の髪を後ろで一つに束ねているが、ギリギリ束ねられる程度の長さしかないらしく、髪の先は襟元を僅かに隠しているだけだ。
 男は、さっきの木戸同様、咲夜の眼下を通り過ぎ、駅の方へと歩き去った。その背中を見送った咲夜は、窓枠に手をかけたまま、暫し考えを巡らせた。

 ―――…ええと…、
 今の、ダレ??

 どう考えても、住人の誰とも似ていない容姿の男がアパートから出て来たことに、軽く混乱する。
 うーん、と考え込んだ咲夜だったが―――考えたところで、知らないものは、知らない。とりあえず泥棒とかの犯罪者ではなさそうなムードだったので、咲夜はそれ以上考えるのを止め、ようやく窓を閉めた。


***


 「ありがとうございましたー」
 店員の声を背中に聞きつつ、木戸は、コンビニを後にした。
 一歩外に踏み出した途端、ムッとした熱気が襲ってくる。が、コンビニの冷房を寒いと感じていた木戸は、その熱気をものともせず、レジ袋を片手に、今来た道を再び競歩で戻り始めた。
 ―――いやー、今日の気温は、どうにも物足りんなぁ。
 木戸は、夏が大好きである。思いっきり汗をかけるからだ。夏こそが男の季節だ、と豪語する木戸にとって、今日の中途半端な気温と湿度は、爽快感の点でイマイチだった。木戸の理想は、新婚旅行で行った夏の沖縄だ。
 また沖縄にでも家族で旅行に行きたいな―――そんなことをぼんやり考えていると。
 「あ!」
 「……っと!!」
 向かいから歩いてきた人に、うっかりぶつかってしまった。
 ドン、という衝撃の後、双方後ろによろける。勢いがついていた分、木戸の方が余計によろけてしまった。その弾みで、手に持っていたコンビニの袋が、手から離れて落ちた。
 「あああ、す、すみません」
 ぶつかった相手は、慌ててしゃがみ、落っこちた袋を拾い上げた。どうやら、木戸だけではなく、相手も前方不注意だったらしい。
 「いやいや、こちらこそ申し訳ない―――…」
 ハハハ、と笑いながら、相手が拾い上げた袋を受け取ろうとした木戸は、次の瞬間、手を差し出したポーズのまま、固まった。
 そして、相手の人物も、袋を差し出したまま、固まった。

 「「―――………」」

 身長。木戸より高い。
 体格。木戸より貧弱。
 顔。…比較するのが間違い。

 生成りのコットンシャツを着た、その男は―――木戸が全然知らない、けれど、とってもよく知っている人物だった。
 普段の木戸なら、2つの顔をイコールで結ぶのは、難しいかもしれない。が、何故か、今日の木戸は冴えている。瞬時に合致してしまった顔に、木戸の目と口が、次第に大きく開かれる。

 「あ………ああああえぇうおおおおおぉえぁああ!?」
 木戸のあげた意味不明な叫び声に、ギョッとした相手が、慌てて手で木戸の口を押さえた。
 「お…落ち着いてっ。落ち着きましょう木戸さん! ね!?」
 それでもなお、もごもごと何か言い続けていた木戸だったが、通行人の何人かの視線がこちらに向くのを感じ、ようやくピタリと口を閉ざした。
 木戸が叫ばなくなったことを確信したのか、相手が、深いため息と共に手を下ろす。ガクリとうな垂れたその姿を、木戸は、ほとんど茫然自失状態で凝視した。
 「…う……」
 「……はい」
 木戸が、苗字を最後まで口にする前に、彼が、観念したように返事をする。
 ああ、間違いじゃなかったのか―――思わずゴクリと唾を飲み込み、木戸は改めて、口を開いた。
 「や…やっぱり、海原さんでしたか―――…」

 そう。
 どこからどう見ても男性にしか見えないその男は、日頃、どこからどう見ても女性にしか見えない、101号室の住人―――海原真理、その人だったのだ。
 当然、化粧などしていない。日頃、自然に下ろされている顎のラインまでの髪も、きっちり後ろで結わえられている。極度な長髪は珍しいが、この位の長さなら、今時の20代、30代なら別段おかしくはない。クリエイティブな仕事をしている人間なら、この位は掃いて捨てるほどいるだろう。
 素顔になったマリリン―――いや、この場合その呼び名は気持ち悪いので、真理、だろう―――は、化粧をしている時の派手さは微塵もなく、どちらかと言うと優しげな顔をした男性だった。鈍感な方の木戸が一発で気づけたのは、ほとんど奇跡に近い。

 「…よく、おわかりになりましたねぇ…。ご近所の奥さんたち、まだ誰も気づいてないのに」
 いつもの声より数音低い、若干掠れ気味の声で、真理が呟く。この声も、外見同様、何の気なしに聞いていたのでは同一人物とは気づけないだろう。人間、その気になれば、あそこまで化けられるのか―――かつては「綺麗な人だなぁ」などと憧れを抱いたこともあるマリリンの正体に、木戸はますます呆然とした。
 「い…一体、どうされたんですか、その姿は」
 それでもなんとか訊ねると、真理は、少々バツの悪そうな笑みを浮かべた。
 「家族に会いに行くんですよ」
 「えっ」
 「というか、日曜日は毎回、この格好で家族の所に行ってます。今日は少々出るのが遅くなりましたけど、普段は朝早い時間帯に出るんで、うちの住人に目撃されることもまずなかったんですが……あ、あはははは、こんな形で木戸さんに素顔晒す羽目になるとは、想定外ですねー、さすがに」
 引きつった顔で真理がたてた笑い声だけが、妙にマリリンとシンクロする。笑い声だけだが、共通項をはっきり感じ取れたことで、ようやく木戸は目の前の現実を受け入れられた。
 「なるほどー…、そうでしたか」
 受け入れてしまえば、順応力の比較的高い方の木戸のことだ、すぐにいつものペースを取り戻せた。はーっ、と息を吐き出すと、木戸は、感心したように真理の顔をまじまじと見つめた。
 「それにしても、もっとこう派手な素顔を想像しとったんですが、案外あっさり顔なんですなぁ」
 「まあ、それなりに描いてますから」
 「ちゅうか、化粧してる状態でも、混乱せずに“パパ”と呼べる娘さん、たいしたもんですよ」
 「ハハ…まあ、この親にして、あの子あり、です」
 「…まだ、一緒には暮らせんのですか」
 木戸が、少し眉をひそめる。
 木戸が偶然知ってしまった海原家の事情とやらは、正直、木戸には理解できるようでできない、難しい話だった。娘が、母親に伴い渡米して、そこの環境に順応できずに心を病んでしまった、という部分までは「可哀想になぁ」と同情できたのだが、日本に戻って来たのなら、何故家族3人で暮らさないのか、そこがどうにも納得いかないのだ。勿論、母娘の絆が壊れかけている状態をなんとかするための方策だ、ということはわかっているが、その方策が何故「父子バラバラに暮らす」なのかが、説明された時は漠然とわかった気がしたが、改めて考えると理解不能である。
 「夫婦仲良く、子供を可愛がっとれば、自然とお子さんの病気も良くなると思うんですがねぇ……。あ、いや、こりゃわたしの勝手な意見で、海原さんには海原さんの事情があるのは、わかっとるつもりなんですが」
 慌ててそう付け加える木戸に、真理はクスリと笑い、いいえ、と答えた。
 「木戸さんが不審に思うのも、無理はないな、と思いますよ。単身赴任で寂しい思いされてるでしょうから、余計、同じ東京に住んでて何故一緒に暮らせないのか、と歯痒いでしょうねぇ…」
 そう言う真理からは、普段マリリンに化けている時のカラカラとしたラテン系な明るさは、微塵も感じられなかった。声のトーンも静かで、醸し出すムードも落ち着いた感じだ。マリリンが女装した男だと知った時は、さぞかし素顔もお祭り系の賑やかな男なのだろう、と想像していた木戸としては、少々意外だ。
 ―――いや、逆に、素の顔がこういう感じだから、その反動で女装した時に弾けとるのかもしれんな…。
 お笑い芸人の素顔も、意外に寡黙な場合が多いと聞く。今目の前にいるこの優男が、「あああら、木戸さん、おはようございまーすぅ」と裏声で挨拶する姿を想像し、木戸はなんとも妙な気分になった。
 「そう言えば、木戸さん、珍しく週末に東京に残ってらっしゃるんですね」
 日曜に木戸と遭遇した、という事実に気づき、真理が少し不思議そうに言う。
 今度は、木戸の方がギクリとする番だ。その動揺を隠すべく、はっはっは、とわざとらしい笑い声をあげた。
 「や、休み前に作業を進めてしまおうと、現場も連日連夜ハードスケジュールなんですわ。まあ、もうちょっとの辛抱です。お盆には、まとまった休みが取れますから」
 「ああ、そう言えば、世間にはお盆なんてもんがあったんでしたね。すっかり忘れてました」
 「奥さんも、盆暮れ正月とは無縁のお仕事ですか」
 「小説家よりは縁がありますが、似た感じですかねぇ。娘の春休みや冬休みで、そうかそういう時期か、と確認してる部分が大きいですねぇ」
 「お忙しいんですなぁ」
 「……っ、と、ああ、まずいですね、それ」
 真理の視線が、木戸に渡したコンビニの袋に向けられる。白いビニールに透けて、アイスの包装の文字が読み取れた。
 「あああ、そうですね。それじゃ、行ってらっしゃい」
 「失礼します」
 そう言ってお互いへこへこと頭を下げあうと、真理は駅の方へ、そして木戸はアパートの方へと立ち去った。
 いかんいかん、長居をしたらアイスが溶けてしまうじゃないか―――先ほどまでより速いスピードで競歩を再開しながら、木戸は、何気なく、後ろをチラリと見た。
 涼しげなコットンシャツの真理の背中が、どんどん遠ざかる。その背中は、木戸の思い込みのせいか、少し嬉しそうに見えた。

 …無理をしてでも、秋田に帰るべきだっただろうか。

 これから、誰もいないあの部屋で、1人で100円アイスを食べることを想像し、木戸は、今日東京に残ってしまったことを、少しばかり後悔した。


***


 「そろそろ実家に戻るかと思ってたのに」
 ノートパソコンのキーを叩きながら、蓮が、背後の優也に向かって呟く。
 「家庭教師のアルバイトもあるし、帰るならある程度まとまった時間取りたいしね。だから、お盆の辺りに帰るつもりなんだ」
 そう言って軽く苦笑する優也の膝の上にも、ノートパソコン。ここ最近、蓮と優也は、暇を見ては共同でちょっとしたゲームプログラムを制作しているのだ。今日優也の部屋で2人が顔を揃えたのも、昨晩までにそれぞれが組み上げたパートを、1本のプログラムにまとめる作業のためだ。
 「ああ、そうか…。バイトを休まないようにしようと思うと、そうなるよな。どこだっけ、実家」
 「岐阜だよ」
 「岐阜か」
 そこで、蓮はあることを思い出し、優也の方を返り見た。
 「マコ先輩が、名古屋らしいな」
 「えっ、そうなの?」
 「この前のコンパの時聞いた。夏休みどう過ごすかって話してた時、ずっと実家に戻るって」
 初耳だったらしく、優也は少し目を丸くした。蓮が真琴たちとそういう話をしている時、優也は隣のゼミの女の子たちのおもちゃと化していたので、全然知らなかったのだろう。
 「へぇ…、マコ先輩って、名古屋の人だったんだ―――って、あれ? じゃあ、マコ先輩って、一人暮らし?」
 「じゃない?」
 「えぇ、知らなかった! ずっと自宅通いだと思ってた。マコ先輩が1人で暮らしてる様子って、なんか想像つかないから」
 「…確かに、想像つかないな」
 優也の言葉を受け、ちょっと想像しようとしたが―――蓮にも、無理だった。あのスローテンポで天然ボケな真琴が、自炊したり洗濯したり生活費を切り詰めたりできるなんて、到底思えない。いや、勿論、できる訳がない、とまでは思わないが。
 「でも、秋吉も、一人暮らししてるって言うと、時々驚かれるだろ」
 「うん。なんでなんだろう…。やっぱり、甘やかされて育ったのが顔に出てるのかな」
 「甘やかされて、っていうより、“育ちがいい”イメージなんだろうな、きっと」
 「別に育ちがいい訳でもないんだけどなぁ」
 優也がちょっとため息をついたその時、ピンポーン、と玄関の呼び鈴が鳴った。
 自然、2人の視線が玄関に向く。誰だろう、という怪訝そうな顔になった優也は、膝の上のパソコンをベッドの上に置き、玄関へと向かった。
 「はーい…?」
 どなたですか、というニュアンスを含んだ優也の声に、ドアの向こうの声が答えた。
 「隣の、友永です」
 「……っ、い、今開けます!」
 微妙に、優也の声が裏返った。蓮も、予想外の人物の訪問に、思わずパソコンを置き、立ち上がった。
 あたふたと鍵を開け、ドアを開け放つと―――確かに声のとおり、由香理がそこに立っていた。
 「良かった、家にいたのね」
 「こ、こんにちは」
 焦ったように挨拶する優也に、由香理の顔にうっすらと笑みが浮かぶ。が、優也の背後に蓮の姿を見つけると、その笑みを僅かに弱め、他人行儀に会釈した。来客中とは予想していなかったからで、別に蓮が嫌いだからではないだろう。
 蓮だって、由香理が優也の部屋を訪ねて来るなんて、予想外だ。幾分困惑気味の顔で、軽く頭を下げておいた。
 「あ、あのー、どうしたんですか、今日は」
 優也が訊ねると、由香理は視線を優也に戻し、手にしていた直径15センチほどの円形のタッパーウェアを差し出した。
 「実は、ゆうべ、友達に教わった煮物を試してたんだけど、作りすぎちゃって…。この前のお返し、って訳じゃないけど、良かったら食べてくれない?」
 「えっ、ぼ、僕がですか? いいんですか?」
 「いいわよ。あ、良かったら、穂積君も」
 「ありがとうございますっ!」
 蓮にも一応気を遣ったのか、由香理が「穂積君もどうぞ」と付け加えたのだが、その言葉の最後の部分は、優也のお礼とお辞儀に掻き消された。
 「嬉しいです…! 僕、煮物が大好きな癖に、絶望的に下手なんです。煮過ぎてグズグズに崩れちゃったり、慎重になり過ぎると芯が残ってる感じになっちゃったり…」
 「そ、そう。そこそこ自信作だから、安心して食べてくれていいわよ」
 優也の嬉しさ全開な反応にちょっと押されつつも、由香理はそう言って笑い、優也の手にタッパーを渡した。
 「じゃあ、私、約束があるから。食べ終わったら、袋に入れて玄関に置いといてね」
 「はい。行ってらっしゃい」
 ふわりと微笑む優也に笑みを返し、由香理はその場を立ち去った。多分、誰かと会う予定があるのだろう。由香理は、隣の自室の前を通り過ぎて行った。
 ドアを押さえて、その姿を見送っていた優也は、由香理の姿が101号室の向こうに消えるのを見届けてから、ほーっ、と息を吐き出し、ゆっくりとドアを閉めた。
 「うわー…、手料理、お裾分けされちゃったよ」
 タッパーを抱えた優也は、由香理の手料理が食べられる、という事実だけで頭が一杯らしく、どこか夢見心地の声でそんな独り言を呟いている。その様子に、蓮は僅かに眉をひそめた。
 ―――そりゃあ、好きな女から手料理のお裾分け貰えば、嬉しいだろうけど…。
 なんとなく腑に落ちないような、言葉にならない不快感が、蓮の胸の辺りに留まる。
 一瞬、迷ったが―――蓮は意を決し、玄関に脱ぎ捨ててあった自分のスニーカーに、足を突っ込んだ。
 「ごめん。俺、バックアップのDVD忘れてきたから、ちょっと取って来る」
 「えっ? あ、ああ、うん」
 戸惑ったような声で返事をする優也の横をすり抜けて、蓮は、優也の部屋のドアを開けた。


 アパートを出て、少し前に出た筈の由香理の姿を探す。すると、それほど遠くない位置に、先ほど見た由香理と同じ服装をした後姿を見つけた。
 「友永さん!」
 ダッシュで走って行き、呼び止める。驚いたように振り向いた由香理は、声の主が蓮だとわかると、余計驚いた顔をして、立ち止まった。
 「どうしたの、穂積君?」
 「……」
 怪訝そうに訊ねる由香理に、半ば勢いで追いかけてきた蓮は、すぐさま言葉が出て来なかった。瞬間的なダッシュで僅かに乱れてしまった息を整えつつ、どう話すべきか、頭の中で考えを巡らせた。
 「…その…」
 「? 何?」
 「…どういう、つもりですか」
 「え?」
 「秋吉のこと、」
 鋭く息を吸い込み、蓮は、一音一音区切るように、ゆっくりと訊ねた。
 「秋吉のこと、振った癖に―――どういうつもりで、手作りの料理なんて、差し入れるんですか」
 「……」
 「…あなたの言動で、あいつが赤くなったり慌てたりするのを面白がってるんだったら……止めて、下さい」
 「……」
 由香理の表情が、硬くなる。
 真剣な蓮の顔を、暫し黙って見上げる。やがて、小さく息を吐いた由香理は、苦笑とも自嘲の笑みともつかない笑いを口元に浮かべた。
 「そ、か。…知ってるのね。私と、優也君の間に、あったこと」
 ピクリ、と、蓮の眉が微かに動く。
 優也に女性経験があると知り、その相手が由香理らしいことに気づいた時のことが、脳裏に蘇る。気まずさに、蓮は少し動揺したように瞳を揺らした。
 「…ええ。言い訳はしないわ。あの子の純粋な好意を、私は利用した―――こっちには恋愛感情なんてないのに、あの子にすがって、助けてもらった。弄んだつもりなんて全然ないけど、傍から見ればそう言われても仕方ないのかもしれないわね」
 「……」
 「でも、穂積君が言ったことは、誤解よ。今日、料理をお裾分けしたのは、本当に料理が余ってしまったから、と、この前、実家から送ってきたっていう水羊羹を優也君に貰った、そのお返しのためよ」
 「……」
 「弟ができたみたいで、時々、世話を焼きたくなっちゃうのよ。…異性として、優也君を好きな訳じゃないけど―――私“も”、あの子が好きよ」

 ―――…弟…、か。
 複雑な感情が、じわりと湧き上がってくる。
 由香理の気持ちは、わかる気がした。優也という奴は、蓮から見ても、なんとなく「面倒見てやらなきゃ」と思わせるタイプだから。そこに、「助けてもらった」という恩のような感情も加わっているらしい由香理なら、由香理の行動も当然のことなのかもしれない。
 でも……優也は、どう思っているのだろう?
 振られてしまったとはいえ、一度は体の関係を持ったこともある相手だ。なまじ親切になんかされたら、沈静化しかけた恋心が再燃したりはしないんだろうか? もしくは…その好意を、別の好意を勘違いしたりはしないんだろうか?
 気持ちが、大きくなってしまったら―――やっぱり手に入らないのだ、と思い知る時、優也が受ける傷は、どんなものになるだろう? もう長いこと、恋も失恋も知らずに来ている蓮には、想像すらできない。想像すらできないから、尚更……あの心優しい優也を、そんな目には遭わせたくないな、と思ってしまう。

 「ホントに、優也君のことが、好きなのね。穂積君“も”」
 説明を聞いてもまだ渋い顔をしている蓮を見上げ、由香理がくすっと笑う。
 「大丈夫。優也君て、本当の意味で賢い人だから」
 「……」
 そのセリフが、楽観的な言葉ではなく、何故かとても実感を伴った言葉に聞こえて―――蓮は、胸の辺りのモヤモヤしたものが、少し晴れるのを感じた。僅かに表情を和らげると、蓮は姿勢を正し、由香理に頭を下げた。
 「…失礼なこと言って、すみませんでした」
 すると由香理は、ちょっと驚いたように目を見張り、それから決まりが悪そうにキョロキョロ辺りを見回した。
 「やだ、ちょっと……頭なんて下げないでよっ。人に変に思われるじゃないのっ」
 「え、」
 「じゃ、もう行くから。ちゃんと食べてよね、さっきの煮物」
 早口にそう言い残し、由香理は、せかせかとした足取りで歩き去ってしまった。
 ―――なんか、随分急な人だな…。
 唐突に態度を変えて去ってしまった由香理を、暫し、ぽかんと見送る。でも、まあ―――気を悪くした様子もないし、蓮が心配したような「年下の好意を弄ぶ女」でもなさそうなので、蓮は少しホッとし、踵を返した。

 DVDを取って来ないとな、などと考えつつアパートの入り口に向かう。と、その時、中から人が出てきて、危うく蓮とぶつかりそうになった。
 「……っ!」
 「うわ、」
 ニアミスだ。互いに、慌てて足を引く。双方「すみません」と言いながら顔を上げると―――相手は、1人じゃなかった。
 「あれ、穂積君だ」
 「よぉ、こんちは」
 ぶつかりそうになった張本人である咲夜と、その1歩後ろを歩いていた奏が、相手を蓮と確認してそう挨拶した。少々よろけつつ、蓮も「こんにちは」と返した。
 「バイクが置きっぱなしだな、と思ったら、やっぱり夏休みもこっちなんだ」
 「…ええ、まあ」
 奏の指摘に密かにドキリとしつつ、蓮は曖昧に返事をした。
 ―――どうもこの人は、俺が苦手とする部分に無意識に触れて来るよな…。
 女絡みの話と実家絡みの話は、蓮があまり触れたくない話題だ。でも、そんなこと、奏が知る筈もない。タイミングが悪い、というか、あまり相性が良くない相手なのかもしれないな、と蓮は思った。
 「そりゃそーだよ。兄貴と婚約者がイチャついてる実家行く位なら、シングルライフを満喫した方が楽しいじゃん。門限をあーだこーだ言う家族もいないから、好きなだけバイク乗れるし」
 「ハハ、確かにな」
 横から咲夜があっけらかんと述べた意見に、奏は笑って同意し、蓮は思わずギョッとした。
 「べ…別に、一緒に住んでる訳でもないから、イチャついてる訳じゃないけど…」
 背筋に冷たいものを感じつつ、一応、そう弁解しておく。そんな蓮に、咲夜はちょっと目を丸くし、続いて困ったように笑った。
 「ああ、ごめん、マジに取っちゃったかな。結婚準備で家中落ち着かないんだろうな、ってつもりだったんだけど」
 「…いえ」
 勿論、蓮だって、今のセリフが単なる言葉のあやであることはわかっていた。が、弁解せずにはいられなかった。咲夜にその自覚がなくても―――あまりに、核心を突く内容だったから。
 「ま、盆休みでゴーストタウン化する単身者マンションも多い中で、“ベルメゾンみそら”は防犯面では不安なし、ってことだな」
 奏が、そんな風に場をまとめてくれたことで、気まずくなりかけた空気が元に戻った。ホッとしつつ、蓮もその言葉に頷いた。

 更に二言三言、言葉を交わして、奏と咲夜はアパートを後にした。
 互いの肩が触れそうなほど近い距離感で並んで歩く2人は、何やら楽しげに話をしている。咲夜が奏をからかいでもしたのか、途中、奏が咲夜の頭を軽く小突くのも見えた。
 歓迎会の時も思ったが、ああしてじゃれあっている2人の様子は、随分と親しそうだ。
 ―――付き合ってるのかな、あの2人。
 奏が、蓮の常識から大きく外れたレベルの美形なだけに、なんだかピンと来ない。
 ああいう目立つ男の彼女になる女は、さぞかし苦労するんだろうな―――なんてことを考えつつ、蓮は小さくため息をつき、2階の自分の部屋へと向かった。


***


 先に会計を済ませた筈の奏を探していた咲夜は、店の外にそれらしき人影を見つけ、急ぎ駆け寄った。
 「お待たせー」
 咲夜の声に、暇つぶしに携帯に配信されるニュースメールを読んでいた奏は、顔を上げ、少しサングラスをずらした。
 「おー、待たされたぞ」
 「参ったよ。前の人が、カゴ2つ分も買い込んでてさぁ。またいちいち畳んで袋に入れるもんだから、時間がかかるかかる」
 「ハハ、まあ、安くなってるからなぁ。買いたくなる気持ちもわかるよな」
 パチン、と携帯電話を閉じ、バックポケットに突っ込む。喉が渇いたから喫茶店でも探すか、と、2人は並んで歩き出した。

 夏物大バーゲン開催中のGAPからは、大きな紙袋を提げた客が次々に吐き出されてくる。が、奏が提げている袋も、咲夜が提げている袋も、内容物はせいぜい1点か2点、といった中くらいのサイズの袋だ。
 「で、結局咲夜は、何買った?」
 「えーと、ジーンズ1本と、革ベルト1本。安かったよー。両方で5千円弱」
 「なんだ。最初に見てたジャケット、やめちゃったのか」
 「んー…、Mサイズ着てみたけど、微妙に大きかったじゃん。XS探したけど、欲しい色なかったんだよね。奏は? 何買ったの」
 「ジーンズ1本と、シャツ2枚。残り枚数が少ないデザインだったせいか、ジーンズが異様に安かったんだよなぁ」
 「え、いくらだったの?」
 「笑うぞ。合計金額、4千円ちょい」
 「うわ、メンズずるいよ、その値引率」
 こんな話を、1着10万円以上もするスーツを仕事で着こなす男がしているのだから、よく考えると不思議な話だ。
 ―――でも、奏が着ると、10万円のスーツとGAPのカジュアル、どっちも大差ない値段に見えるんだよね。
 隣を歩く奏を、改めて客観的に評価し、そう思う。
 別に、奏の容姿がずば抜けて整っているから、という訳ではない。それなら、外見の整っている男性モデルの中に、どうにもカジュアルが不自然だったり、スーツを着せるとマネキンみたいだったりする者が相当数いることの説明がつかない。
 奏は、それが高級スーツでも、スーパーで買ってきたTシャツでも、全部自分のものにしてしまう―――何を着ても、不自然に見えないのだ。専門的なことは全く知らないが、咲夜は、それを「服を着こなす才能」とでも呼ぶものなのではないか、と思っている。
 ―――ちょっと、もったいないよなぁ…、モデル辞めちゃうの。
 勿論、メイクとしての奏のセンスは、咲夜自身が身を持って実感している。だから、ギリギリまでモデルの仕事にしがみつかず、早めにメイクの仕事に本腰を入れたい、という奏の考えには、咲夜だって賛成だ。でも……モデルとしての奏が持っている資質は、努力や技術でどうなるものでもない、天賦のものだ。咲夜が「惜しいなぁ」と感じるのも仕方ないだろう。
 「そう言えば、奏って、カジュアル系ブランドのモデルって、あんまりやってないね」
 何気なく咲夜が言うと、奏は、そうだっけ、と言って天を仰いだ。
 「うーん……そう言やぁ、日本じゃまだ、ないな。イギリスではジーンズのポスターやったりしたんだけど」
 「そういうオファー、来ないかな。一度、見てみたい気がする。カジュアル路線の奏」
 「なんで。毎日見てるだろ?」
 「だからだよ。日頃の服装のまんまの奏が、モデルとしてカメラの前に立ったらどんな風に写るのか、興味があるってこと」
 「…なるほど。そういうのも面白いな。―――…あれ?」

 ふいに、何かを見つけて、奏が足を止めた。
 つられて咲夜も、立ち止まる。何? と目で問うと、奏は斜め上を指差した。
 「大友エージェンシー、って、昨日咲夜をスカウトしに来た芸能プロだろ?」
 「あ……」
 奏が指差すその先には、ビルのテナントの看板群。その中に、ひときわ目立つ赤背景に白抜き文字で、“大友エージェンシー”と書かれた看板があった。同じ名前の別の会社ではないことは、昨日破り捨てた名刺に印刷されていたのと同じ会社ロゴを見れば明らかだ。
 「うわ、こんなとこにあったんだ、あの会社」
 「結構な繁華街にあるよなぁ。所属タレント、出入りが結構面倒そうだな」
 「大物でも、事務所に直接来たりすることってあるの?」
 「どうだろ? オレがロンドンで契約してたモデル事務所には、スーパーモデル、って呼ばれるランクのモデルも、たまーに顔出してたぜ? どこで噂聞きつけてくるのか、パパラッチとかファンが下で待ち構えてるから、ああ来てんだな、ってすぐわかった」
 「…もしかして、あそこにいる女の子の一団って、それかな」
 大友エージェンシーが入っているビルのエントランス付近に、なんだか不自然にたむろしている女子高生らしき団体がいるのだ。手に手に携帯電話を持っていて、やたらキョロキョロしている。いかにも怪しい。
 「もしそうなら、バカだな。大物が表玄関から堂々と出入りする訳ないだろ」
 鼻で笑うように奏が言ったその直後。
 「ちょっと! 裏だってよ、裏!!」
 携帯電話で情報交換をしていたらしい女の子の1人が、早くも駆け出しながら、周りの仲間に向かって叫んだ。
 きゃーきゃーと黄色い歓声をあげた彼女らは、デジカメや携帯を片手に、凄い勢いでエントランス前を横切り、ビルの裏口へと飛んで行ってしまった。
 「―――…バカだったみたいだね」
 「…可愛いもんだな、あのレベルのファンは」
 情報交換などしなくても、少し考えればわかることなのに―――嵐のように過ぎ去って行った一団を見送り、2人は思わず吹き出した。
 が、しかし。

 「如月さんっ!!」
 突如、視界の外から飛んできた声に、咲夜の心臓がドキーンと大きく跳ねて、止まった。
 声の主を探して、辺りを見回す。すると、ついさっきまで目を向けていたエントランスから、なんだか見覚えのある男がこちらを見ていた。
 どことなくスノーマンを彷彿とさせる、その風貌。そう―――大友エージェンシーのスカウトマン・出雲だ。
 ―――嘘っ、ジョーダンでしょ!?
 ずざざっ、と、咲夜が反射的に後ずさる。一気に顔が引きつる咲夜と、一体どうしたんだと不思議がる奏をよそに、出雲は満面の笑みでこちらに駆け寄ってきた。
 「やっぱり、如月さんだ! いやいやいや、お疲れ様です!」
 「…ひ…人違いですー…」
 咲夜の弱々しい反撃は、全く出雲の耳には届いていなかった。が、奏には届いた。ああ、こいつが問題のスカウトマンなのか、と、見る見る近づいてくるニコニコ顔を凝視した。
 「一体どうされたんですか? こんなところに、しかも男性連れで」
 「いや、あの、」
 人違いです、と無駄な抵抗を繰り返そうとする咲夜に、出雲の笑顔が、はっ、と何かに気づいたように一段と輝いた。
 「あ! も、もしかして如月さん、考え直してくれたんですか!」
 「えぇ!?」
 とんでもない勘違いに、咲夜の声が裏返った。
 「ちっ、違います! ぐーぜん通りかかっただけです、偶然!」
 「いやいや、そうですかー! 考え直して下さると信じてたんですよ!」
 「だから、考え直してませんって!」
 「来週中に、最低1人はオーディションを受けてもらわないといけないのに、これという素材がいなくて途方に暮れてたんですよー。いや、ありがとう! ありがとう! 本当に助かります!」

 …何故、そうなる。
 目の前で名刺を破り捨ててやったというのに、はっきりと「違う」と否定しているのに、何故そこまでポジティブ・シンキングになれるんだ。

 糠に釘、豆腐にかすがい、暖簾に腕押し―――何を言ってもまるっきり通じそうにない出雲の暴走ぶりに、頭がクラクラしてくる。本当に足元がよろけてしまった咲夜を、奏が慌てて支えた。
 「さささ、立ち話もなんですから、事務所の方へ、どうぞどうぞ」
 にこやかに話を進める出雲に、はーっ、と大きなため息をついた咲夜は、顔を上げ、まっすぐに出雲の顔を睨み据えた。
 「―――…行きません」
 「は?」
 「い・き・ま・せ・ん!! おたくと契約する気はまるっっっっきりないし、ジャズ以外を歌う気もありません!」
 「いや、でもですね如月さん、」
 なおも食い下がろうとする出雲に、咲夜がうんざりしかけた、その時。
 「おい、行くぞ、咲夜」
 それまで出雲の勢いに呑まれていた奏が、くいっ、と咲夜の腕を引き、耳打ちした。
 話の通じない人間が相手では、逃げるが勝ちだ。瞬時に頷いた咲夜は、半ば奏に引っ張られるようにして、走り出した。
 「え…ええええ!? ちょ、ちょっと、如月さんっ!!」
 突然話を切り出して逃げ出した咲夜と奏に、さすがの出雲も面食らう。しかも少々肥満気味だ。慌てて追いかけようとしたが、足がもつれてしまい、スタートに失敗した。

 「如月さーん!!! 諦めませんからねー!!!」

 諦めて下さいー…!!!

 返す間も惜しんで、2人はひたすら走って逃げた。
 …だが。
 ―――あの分じゃ、まだ暫く、諦めてくれないんだろうなぁ…。
 明日以降の出雲の猛アタックを予感して、早くもげんなりするのだった。


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