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― Invitation ―

 

 ―――つまんない。

 「いや、今日もいい調子だねぇ、リカちゃん。仕事忘れて見惚れちゃったもんなぁ」
 「…そーお?」
 やや投げやりに相槌を打つが、相手は気づかない。慣れた手つきで、元の口紅を落とし、次の衣装のためのものを新たに塗っていく。
 「ホントホント。別世界っていうか、動いてるの見たらびっくりするっていうか―――人間、っていうより、芸術品て感じ」
 「……」
 「はい、OK。…いやー、可愛い可愛い。よく合ってるよ、今度の色も。どう? リカちゃんも気に入った?」
 「…まあ、いいんじゃない」
 別に、どんな口紅でもいい。プライベートならこだわりもあるが、仕事なのだから。
 それに、リカは、自己評価ということがあまりできないタイプの人間だ。周りが「似合う」と言えば、「似合うんだろうな」と思うだけ―――プロが「合ってる」と言うんだから、それでいい。
 「あら、ちょっと髪が乱れちゃってるわね。リカちゃん、ブラッシングさせてね」
 横から別の手が伸びてきて、丁寧にリカの髪をとかす。背後では、体にフィットしていない部分の衣装を、スタイリストが手早く縫い付けている。
 「癖のない髪ねぇ。羨ましいわ」
 「あ、この衣装の方がリカちゃんに似合ってるじゃない。かーわいい」

 …ウザい。
 ここのスタッフは、いつもウザい。
 きっとメイクやスタイリストの決定権を持つ担当者がリカを気に入っているから、リカが「あのメイク、嫌い」などと担当者に言ってクビを切られることを恐れているのだろう。他のモデルがいる時は、さすがにそこまであからさまな態度はとらないが、こんな風に1人だけ控え室に引っ込むと、手もみせんばかりのベタ褒め作戦を展開する。毎度のことだ。
 それでも、この前までは、さほど気にならなかった。褒められるのは嫌いじゃない。怒鳴られるよりは数段気分のいいことだ。
 けれど―――今日は、どうにもこうにも、ウザい。

 「…ねぇ、梅ちゃん。ここのスタッフって、替えられないの?」
 控え室を出て、再び撮影スタジオに戻る道すがら、マネージャーに小声で訊ねてみた。
 「あら、気に入らないの? いつも褒めて気分盛り上げてくれる、いいスタッフじゃないの」
 「トリプルで来られると、盛り下がることもあるのっ。特にあのメイクがさぁ…目つきとか時々イヤラシイしぃ…。ね、リカがお願いしたら、松下さん、OKしてくれるかな」
 「うーん…どうかしらねぇ。松下さんだって、ここでは責任者でも、出版社に戻ればいち社員だものねぇ…。それに、瑠美さんがいるしね」
 瑠美は、中学生で既にモデルをやっていた、という抜群のキャリアを持つモデルで、この雑誌の看板だ。モデル事務所ではなく芸能事務所に所属しており、時々テレビ番組にも出ている。いかにリカが担当者のお気に入りでも、瑠美には敵わない。リカのわがままが通ったと知れたら、瑠美の事務所から圧力がかかり、担当者ではなくリカが潰されるだろう。
 「今日は、あんまり乗ってないみたいねぇ…。疲れてるの? スケジュール、タイトに入れ過ぎたかしら」
 それまで、むしろ気に入っている方だと思われていたスタッフに突如ケチをつけ始めたリカに、マネージャーは困ったように眉根を寄せた。またいつもの気まぐれね、と思っているのだろう。

 ―――…つまんない。

 リカは、また同じ言葉を心の中で繰り返し、小さなため息をついた。

***

 ガンガン鳴り響く、重低音。
 音楽にかき消されて、ただのガヤガヤとした騒音に成り果てている、周囲の人々の声。
 「なー、姫、さっきから何読んでんだよー?」
 その騒音の中から、ひときわはっきり、リカのプライベートでの通称を呼ぶ声が聞こえた。が、リカはそれを無視した。

 リカが手にしていたのは、計3枚の紙。
 1枚は、“Clump Clan”という、銀座に大きな店舗を構えている海外ブランドの開店当初の広告。1枚は、誰でも知っているような男性向けファッション雑誌の、1年ほど前の表紙。そしてもう1枚は、昨年発売されて結構流行した、MP3プレーヤーのパンフレットだ。
 一宮 奏。
 3つの写真のモデルを務めているのは、2日前、リカを罵倒したあの国籍不詳なメイクアップアーティストだ。

 『えっ、一宮さん? ああ…うん、確かにモデルさんだよ。元々、母国のイギリスで活動してたけど、ここ2年ほど、拠点を日本に移してるんだ。僕の知る限り、日本で最初にやったのは、あの“Clump Clan”のポスターじゃないかなぁ…。大々的に宣伝してたから、リカちゃんも見てると思うよ? ただ、彼、ショー中心のモデルだし、テレビとかに一切出ないから、一般的に知名度はないけど。ああ、その点では、テレビ完全拒否のリカちゃんと同じだね』

 あの日、元々奏の知り合いだったらしい中村から色々聞いて、比較的簡単に手に入りそうなものをマネージャーに取り寄せてもらった。それが、この3つだ。
 ―――なんで気づかなかったんだろ…。どれも有名どころばっかりじゃない。
 男性向けファッション雑誌はさすがに守備範囲外だが、“Clump Clan”と音楽プレーヤーの広告は、駅に貼り出されたり吊り広告になったりして、当時、リカも頻繁に目にしていた。マネージャーに渡された瞬間に「ああ、あれ!」とすぐわかったほどだ。
 なのにリカは、それが同じ人物の写真であることすら気づいていなかった。あまりにも―――表情や、受ける印象が違っていたから。
 ―――自分はこんだけお偉いモデルだから、リカ如き足下にも及ばない、ってこと? 何よ、人の気も知らないで言いたい放題言ってくれちゃって……挙句に、貸すって約束した口紅の話もすっぱり忘れて帰っちゃうなんて、サイテーっ。

 「ちょっと、姫ってばぁー。何見てるのよ。ノリ悪いよ、今日」
 「…うるさいな、ほっといてよ」
 2日前のイライラも手伝って、普段以上にぞんざいな言葉を、取り巻き連中に返す。おーこわ、と言って、名前もよく覚えていない取り巻きの女は、リカの傍を離れた。
 が、取り巻きは、何も今の女1人ではない。
 「なぁ、リカ、いいバイト先知らねぇ? 実はバイト先潰れちゃってさぁ」
 「ねえ、今度の日曜って暇? アタシたちのバンド、ライブやるんだ。姫も見に来てよ。めちゃめちゃ弾けるから」
 「あ、これ、リカ姫が好きな曲じゃん。そんなもん置いといて、踊れよ」
 半ば強引に、いつものバカ騒ぎに引き戻される。諦めたリカは、手にしていた写真を封筒の中に戻し、仕方なく立ち上がった。

 リカの周りには、いつだって、大勢の人間がいる。
 ある者はリカの容姿に惹かれて。ある者はリカに心酔している強い人間に取り入るのが目的で。ある者は単に「モデル」の友達を気取りたいだけの目的で―――素人の頃から、一部でアイドル視されていた関係で、勝手に親衛隊を名乗ったりファンを名乗ったりしてまとわりついてくる連中はいたけれど、モデルとしてデビューしてからは、その数は格段に増えた。
 彼らは、いつもリカを褒める。
 いや……リカの容姿を、褒める。
 中には、リカの職業も容姿もどうでもいい、という人間も多少はいる。リカと同類の人間―――寂しいけれど、他に行く場所もない、という人間同士で群れているだけの人間だ。でも、彼らは、リカを褒めることもない代わりに、貶すこともない。基本的に他人に無関心―――リカに対しても、無関心なだけだ。
 一部の嫉妬した同性たちから中傷されたり悪態をつかれたり陰口を叩かれたりすることはあるが、それ以外で、リカに文句を言ったり、本気で怒鳴ってくるような人間は、誰もいなかった。そんなもんなんだろう、とリカも思っていた。
 ……けれど。

 ―――…ほんと、つまんない。

 今日、何度目かわからない心の呟きとともに、背後を振り返る。
 飲み物や食べ物の隙間に、無造作に投げ置かれた封筒―――それを暫し見つめたリカは、意を決したように、1歩踏み出した。


***


 「ごめーん、ギリギリセーフ!」
 「遅いぞコラ」
 ヨッシーに睨まれ、咲夜はもう一度「ごめん」と手を合わせておいた。
 7月ももう終わり―――夜とはいえ、外はうだるほどに暑い。店内の冷房が、汗ばんだ肌には心地よかった。はー、と息をついた咲夜は、荷物をテーブルの上にどかっ、と置き、疲れたようにパイプ椅子にへたりこんだ。
 「土曜に遅刻スレスレとは珍しいな。デートか?」
 コーヒーを飲んでいた一成に訊かれた咲夜は、へたりこんだまま、ご冗談を、といった風情で首を振った。
 「…んな訳ないじゃん。妹のピアノの発表会を見に行ってたの」
 「へぇ、家族サービスか。やるな」
 「ああ、頭ガンガンするー…。微妙なレベルのピアノ演奏を延々3時間聴くのって、結構くるねぇ」
 「…そりゃ、ご愁傷様」
 頭を抱える咲夜を、一成もヨッシーも苦笑して眺めた。が、ふとあることを思い出し、ヨッシーが軽く机を叩いた。
 「あ、しまった。咲夜、お前ノンビリへたってる暇ないんだったわ」
 「え? なんで?」
 「客が来てんだよ、客が」
 ゆらり、と頭を起こした咲夜は、その言葉に眉をひそめた。
 「客?」
 「ああ。ミーティングはいいから、とにかく行って来い」
 「……」
 ―――誰だろ。
 首を傾げつつも、立ち上がった。

***

 店のフロアに出向いてみると、すぐにウェイターが、その「客」とやらを教えてくれた。
 「いやいや、どうもどうも」
 という極めて意味不明な挨拶で出迎えてくれたその「客」は―――残念ながら、咲夜にとっては、まるっきり見覚えのない男だった。ますます訳がわからなくなった咲夜は、警戒心を滲ませた顔で、小さく会釈した。
 男は、年齢は恐らく30代半ばから後半。パッと見た瞬間、似てるな、と思ったキャラクターは、スノーマンだ。丸くて愛嬌のある顔をしている。真夏だというのにきっちりスーツを着ているのだが、全部ボタンを留められないらしく、1つだけ不自然に無理矢理留めてあった。
 「いやー、すみませんね、お仕事場に突然押しかけまして」
 「…はあ」
 誰ですか、という顔で咲夜が相槌を打つと、男はやおら、名刺入れをポケットから取り出し、咲夜に差し出した。
 「大友エージェンシーの、出雲と申します」
 「…どうも」
 名刺を受け取りつつ、曖昧に挨拶する。まあどうぞどうぞ、と出雲氏が勧めるので、その勧めに応じ、出雲氏の向かいの席に咲夜も腰を下ろした。
 「あっ、すみません、ここにビールを―――ビールでよろしいですか?」
 ウェイターを呼び止めた出雲氏が、咲夜に確認を取る。慌てて首を振った。
 「い、いえ、仕事前ですから…」
 「そうですか? じゃあ、えー…、ウーロン茶を2つ」
 そうオーダーする出雲氏の目の前には、ほぼ空になったウーロン茶のグラスが1つ、置かれていた。いつから待っていたのだろう? 咲夜は、軽く眉をひそめた。
 「えー、さっそくですが、大友エージェンシーはご存知で?」
 「はあ、一応は」
 大友エージェンシー。確かに、聞いたことはある。
 あまりテレビを見ない咲夜でも、この事務所の所属タレントを挙げろ、と言われれば、なんとか2人ほどは挙げられる。1人はグラビアアイドルで、1人は若手俳優。他にも色々いるのだろうが、ちょっと思い出せない。要するに、芸能界でも中堅どころといった感じの、芸能プロダクションだ。
 「わが社はこれまで、若手アイドルを中心に活動してきたプロダクションなんです。業界トップ3にはまだ及びませんが、この業界で既に20年のキャリアを持っています。最近では本格派の若手俳優なども所属してまして、社全体の方針もここ2年ほど、アイドル色から脱却して幅広い才能を育てていこうじゃないか、という方向へとシフトしております」
 「…はあ」
 まるで訪問販売の営業が如き流れるような説明を聞かされていると、早くも頼んだウーロン茶が運ばれてきた。ちょうど喉も渇いていたので、ひとまずそれを飲んだ。
 「で、ですね。我々が最近、特に力を入れているのが、音楽部門なんですよ」
 ウーロン茶で一息入れ、出雲が再び力説し始める。
 「20年前はアイドル全盛期で、歌唱力よりもルックスが命、って時代だったんですが―――R&Bの実力派が次々ヒットを飛ばしたりして、今はとにかく歌唱力のある本格派が命! な訳ですよ」
 「いい時代になりましたね」
 歌手が歌で評価されない時代なんて、暗黒時代だ。至極当然の感想として咲夜がそう述べると、出雲は、我が意を得たり、とばかりに身を乗り出してきた。
 「そうでしょう! そこでですね、如月さん。是非、うちのプロダクションに入っていただけませんか?」
 「は!?」
 ポン、といきなり飛躍した話題に、咲夜は、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
 隣の席やら後ろの席から、視線が突き刺さる。慌てて口を手で押さえた咲夜は、声のボリュームを一気に下げた。
 「―――…あ、あの、一体どーゆー…」
 「実はですね。現在、うちのプロでは、わたしを含め3人のスタッフが、あらゆるジャンルのライブやコンサートに足を運んでるんです。その中に、このゴールデンウィークに行われた、ジャズ・フェスタも入ってまして―――あ、聴きに行ったの、わたしじゃないんですけどね。とにかく如月さんの歌声に惚れ込みまして。で、その後わたしもこの店に2度ほど足を運んで、こりゃいい、これはいける、と。楽曲にさえ恵まれれば、オリコン上位間違いなしですよ」
 「は、はあ…」
 声に惚れ込んだ、と言われれば、そりゃあ嬉しい。が、咲夜は素直に喜べなかった。困惑した顔で、思わずこう返す。
 「でも、私が歌ってるのって、ポップスとかじゃなく、ジャズですよ?」
 その言葉に、出雲は、あまり大きくない目を見開き、当たり前のように言った。
 「それだけの歌唱力があれば、何でも歌えるでしょう。大丈夫ですよ」
 「……」
 「それに、如月さんの声は、ジャズよりはむしろソウルやR&Bに向いてますよ。軽すぎずマニアックすぎず、実にいい頃合の歌声です、ホント。野太い声じゃ転向もききませんけど、如月さんの声ならどのジャンルでもいけると保証しますよ。大体、ジャズなんてメディア露出も低くて大して有名にもならないし、その中でも若手じゃ売れる枚数もたかが知れてるでしょう? 同じ歌うなら、売れる歌、歌いたいじゃないですか」
 「…………」
 咲夜の表情が、どんどん険悪になっていく。
 だが、出雲はその変化に、まるで気づいていなかった。
 「どうですか。こんな店で歌う生活で満足せずに、ミリオンヒット飛ばして大きなコンサート会場で歌うような生活を、」

 そこで。
 出雲の言葉が、止まった。

 ビッ、と音を立て、出雲の目の前で真っ二つに裂かれていく、小さな紙切れ。
 咲夜は、2枚に裂かれた出雲の名刺を重ね、彼に見せ付けるように掲げた。
 「―――おあいにく」
 にっこり、と笑うと同時に、親指と人差し指でつまんだ名刺が、再度引き裂かれる。
 2枚が4枚、4枚が8枚、8枚が16枚―――小気味良くビリビリに名刺を破った咲夜は、3センチ角位になってしまった“元名刺”を、出雲の顔の前で、花吹雪よろしく散らしてみせた。
 唖然とした出雲の鼻先に、ひらひらと名刺の欠片が舞い落ちる。そのうちの1枚が、出雲の髪にひっかかる様を目で追った咲夜は、その紙切れを指で弾き飛ばした。
 「…ま、こーゆーことで」
 「……」
 「あ、これ、ウーロン茶代。はい、お疲れ様でした」
 自販機でジュースでも買おうと、あらかじめポケットに入れていた五百円玉を、テーブルに置く。まだ茫然自失な出雲に再びにっこり微笑みかけた咲夜は、さっさと席を立った。

***

 「ああああ、むっかつくーーーーーっ!!!!」
 ゴン、と壁にかかっている黒板を殴りつけた咲夜は、まだ収まらない憤りで、ゼーゼーと肩を弾ませた。そんな咲夜を見て、一成が呆れたように呟く。
 「…いい発声練習になったな、今の」
 「ご冗談。これでも抑えてるよ。…ったくもー、なぁにが“頃合のいい歌声”だよっ! “同じ歌なら、売れる歌、歌いたいじゃないですか”? ないですか、って、貴様はいつ歌手になったんだ出雲ぉーーーっ!!」
 「ははは、神々しい名前とは裏腹に、浅慮な奴だったみたいだなぁ」
 苦笑しつつそう呟いたヨッシーは、まだゼーゼー言っている咲夜の肩を、まあまあ、とばかりに軽く叩いた。
 「でもまあ、何であれ、歌声を褒められたのは喜ばしいことだ。だろ? 褒め方にセンスはないけど、一応“売れる”と太鼓判押された訳だし」
 「…センスなさすぎて、むしろ貶された気分だよ。大体、R&Bがジャズの発展系だってこともわかってないような素人が、ジャズに合う声・合わない声とか、よく言うよ。しかも、それが微妙に人のコンプレックス突くとこなだけに、余計ムカつく」
 「ああ…、お前、もっとしぶーいハスキー・ボイスに憧れてたもんなぁ、前から」
 そう。咲夜にとって、みんなが褒めてくれるこの声は、ちょっとしたコンプレックスでもある。
 綺麗な声―――それは確かに、褒め言葉だ。でも、その声を、時に人は違った表現をする。この声でアヴェ・マリアを歌ってみて欲しい、ジャズよりもクラシックの方が似合うんじゃないか―――ジャズには、もっと泥臭い、味のある声がマッチする。そう咲夜自身が思っているだけに、そこを指摘されると、褒め言葉がグッサリ胸に突き刺さる。
 「でもさ、咲夜のジャズの面白みは、その綺麗な声で、おっそろしく人間臭いソウルを歌う、ってとこだろ」
 「…そうやってジャズに絡めて褒められりゃ、素直に嬉しいよ。けど、“ジャズよりこっちが合う”って褒め方だと、飽くまでジャズを歌いたい私にとっては屈辱でしかないじゃんっ」
 「そうなんだよなぁ…」
 咲夜の叫びに、それまで黙っていた一成が、ため息混じりに呟いた。
 「勘弁して欲しいよな、“ジャズよりクラシック”。特に、ジャズよりクラシックが高尚、っていう偏見持ってる奴に言われると、もうそこから意見が一歩も動かないから、言わせておくより仕方なくなる。無視するにも鬱陶しいし、反論するとすぐ“親不孝”とか言うし」
 「―――…一成、まだ家族から狙われてんの?」
 自らの怒りも忘れ、咲夜がポツリと訊ねる。
 その一言に我に返った一成は、どことなく心配げなヨッシーと咲夜の視線を浴び、気まずそうに咳払いをした。
 「ま…、まあ、狙われている、ってのは言いすぎだけど」
 「でも、言われてるんだ? 楽団に戻って来い、って」
 「…時々」
 藤堂家は、音楽一家である。
 父親は某楽団のコンサートマスター、母はピアノ教室の先生、姉はフルート奏者―――そして、長男・一成は、芸大でピアノを学んだ。
 大学卒業後、一旦は、父と繋がりの深い楽団(姉もそこに在籍している)に予備ピアニストとして入団した一成だったが、ジャズへの情熱を忘れられず、僅か1年と少しで退団。今の職場に転職し……やがて、路上で歌う咲夜と、運命的出会いを果たした。
 クラシックに浸りきっている一成の家族は、これまでも時々、一成を「戻って来い」と諭した。一成のピアノの腕を買っているからだ。実際、一成の技巧的なピアノは、クラシックを弾かせても抜群に光る。とはいえ―――飽くまで、一成がやりたいのは、ジャズなのだ。
 「大丈夫かぁ? おい。2人揃って、別ジャンルから狙われてるんじゃ、このトリオの未来も危ういぞ」
 唯一、ジャズ界以外とは完全無縁なヨッシーが、オーバーな位に困った顔を作り、情けない声を出す。
 同時にむっ、とした顔になった咲夜と一成は、その表情のまま、お互いの顔をじっと睨み据えた。
 「頑張るよ、一成。ジャズ“も”いける、じゃなく、ジャズ“だからこそ”いける、って言われるように」
 「当たり前だ。お前も妙なプロダクションの勧誘なんかに耳を貸すなよ」


 決意も新たにしたところで、出番まであと10分となった。
 軽くウォーミングアップし、いつも通り上がった舞台から店内を眺めたら、出雲はまだあの席に、困惑気味の表情で座っていた。ミリオンヒットが狙える、と褒めたのに、何故怒ったのだろう? ―――スポットライトの下にいる咲夜を眺める出雲の目が、そう不思議がっているのがわかった。
 ―――誘いを待ってる人間と勧誘お断りな人間の見分けもつかないんじゃ、大友エージェンシーの未来も危ういな。
 が、大いに気分を害している咲夜としては、明日大友エージェンシーの株がストップ安になったところで、喜びこそすれ、悲しむ訳もない。勝手に滅びろ、と、心の中で呪詛しつつ、にこやかにマイクを握った。

 この夜の“Jonny's Club”のライブは、いつもにも増して迫力満点だったのは、改めて言うまでもない。
 気合の入りまくる咲夜と一成のパフォーマンスを傍らで眺めて、ヨッシーは1人、苦笑した。


***


 いらっしゃいませ、と迎えた、その日最後の客。
 ちょうどカウンターで、明日の予約客のチェックをしていた奏は、その顔を見た瞬間、その場に固まってしまった。

 「予約はしてないんだけど、メイク、やってもらえる?」
 この前同様の、どことなく高慢な態度でそう言ったのは、間違いなく、3日前、奏をとことんうんざりさせた、あのモデル―――姫川リカだった。
 なんだってこいつが、ここに。
 頭が、混乱する。が、それでも職業的条件反射で、奏の目は閉店まで残り30分の店内へと向けられた。
 店内にいるスタッフは、奏も含め、合計5人―――氷室は先ほど最後の客の接客に入ったばかり。サブスタッフの山之内がそのサブに入り、もう1人のスタッフは手が空いているが、マッサージ担当。店長もいるが、よほどのVIPでないと、店長になんて頼めない。
 ―――って、オレしかいないのかよ!? 空いてるメイク!
 消去法で、そうなる。気づいた途端、頭が痛くなってきた。
 「……えー…、どういったメイクをご希望でしょう?」
 20分じゃ終わりそうにない内容なら断ろう。そう心に決め、リカに問う。
 だが、リカの返答は、いたってシンプルだった。
 「この前、貸してくれる約束した口紅、塗って」
 「は?」
 「…何、忘れたの? 撮影終わった後、言ったじゃない」
 「……ああ!」
 思い出した。撮影の1着目で使った、独特のピンク色の口紅だ。その後のやりとりのせいで、すっかり忘れていた。
 「なんだ、あの口紅借りに来たのか。ごめんごめん、それなら今、」
 完全に素に戻って奏が言いかけると、すかさずリカが、その言葉を遮った。
 「待って! 違うの」
 「え?」
 「借りに来たんじゃないの。言ったでしょ、塗って、って」
 「……」
 ―――口紅塗るのだけ頼む客なんて、今まで、1人もいなかった…、よ、な。
 また随分と変なことを頼むものだ。一体どういうつもりなのか、と奏が眉をひそめていると、リカは一瞬怯んだような表情で視線を彷徨わせ―――だが、すぐに、元の挑むような目つきで、奏の目を見据えた。
 「正規料金分、ちゃんと払う。だから―――ちょっと、話させて」

***

 店内の、一番窓際の席に案内されたリカは、その途中、スタッフと客全員の視線を集めた。
 …まあ、当然だろう。モデルという職業をしている人間は、基本的に外見が高レベルにあるものだが、リカの場合―――その日本人形のような短い黒髪と、やはり人形のような造作をした顔のせいで、美人とか可愛いとか以前に「何者?」という視線の集め方をしてしまうのだ。これで和服でも着ていたら、携帯カメラで撮影する輩が続出するだろう。
 幸いにして、他の客とは幾分距離のある席。リカが何を話す気かわからないが、ひとまず安心だ。
 「―――…で?」
 とりあえず口紅専用のクレンジングをコットンに含ませつつ、リカを促す。
 ベアトップの乙女チックなワンピースを着たリカは、暫し、何から話すかを迷っているみたいに、視線を斜めに落としていた。そして、やっと考えがまとまったのか、顔を上げ、鏡越しに奏の顔を見つめた。
 「あれから、一宮さんの出たポスターとか、見させてもらったの」
 「えっ」
 「“Clump Clan”とか、なんとかいう音楽プレーヤーとか」
 「へぇ…。なんでまた」
 「…興味があったから。昔は今のリカと同じだった、って言った人が、今、どんな顔で写ってるのか」
 「……」
 思いのほか、あの時の奏の言葉を重く受け止めていた、ということだろうか。だとしたら、ちょっと意外だ。
 「あの、音楽プレーヤーの、女性バージョン。あれって、どんな風に撮ったの?」
 「どんな風に?」
 「その―――何考えてカメラの前に立ったか、とか、女性になりきるためにどうしたか、とか……色々」
 「うーん…」
 約1年前の、あの撮影を脳裏に思い浮かべる。が、リカの質問に対する答えは、結構言葉で説明し難いことばかりだ。少々唸りつつ、奏は、クレンジングの滲みこんだコットンで、リカが今つけている口紅を丁寧に取っていった。
 「そうだなぁ……。あれは結構、難しい仕事だったよなぁ。女に化けるなんて初めてで、最初、自分でメイクしてみて、お化けみたいな顔になったりしたし」
 「…一宮さんでも、そういうこと、あるんだ」
 「そりゃあね。人にメイクするのと自分にするのとじゃあ、勝手も違うし。で……、途中から“女”って考えるのは止めて、絵コンテから感じるイメージを表現することを考えた」
 「表現?」
 思いがけない単語を聞いたように、リカが眉をひそめる。
 「そう、表現。モデルってのは、一発芸の役者みたいな仕事だ、ってのが、オレの持論なんだ。シャッター切られる瞬間、広告プランナーが、デザイナーが、カメラマンがイメージしたモノを、オレの体で表現する―――表情、目線、ポーズ、醸し出すムード、その全部を使って、ね」
 「……」
 「あの時の絵コンテからイメージしたのは、“祈り”だった、かな。聖母マリアみたいな慈愛の顔をした人が、何かを静かに祈ってる場面をイメージしたんだよな。それを友達に話したら、そいつが歌ってくれたんだ。“Amazing Grace”―――って、知ってるかな」
 確認すると、鏡の中のリカは、小さく頷いた。
 「あの、賛美歌みたいな歌でしょ?」
 「そう。あの歌聴きながら目を閉じるとさー…、イメージがパーッと広がるんだよなぁ。イメージが広がって……気づいたら、演じたいと思ってたとおりの表情になってた」

 ―――…あの頃から、なんだかんだ言って、好きだったよなぁ…。
 リカに説明しながら、無意識のうちに、あの時のことをなぞるように、奏は目を閉じた。
 耳の中に、今も残っている―――咲夜が歌った、『Amazing Grace』。天上の調べ、というのはこういうのを言うんだな、と、あの時思った。魂を震わすような歌声に、なんだか別世界に連れて行かれるような気がした。

 『―――なんだ。できるじゃん。今、歌聴きながら、まさしくその通りの顔してたよ』

 魔法みたいに奏から表情を引き出した咲夜は、そう言ってあっけらかんと笑った。
 あの頃は、愛も恋も、2人の間にはなかった。女だとすら思ってなかった。ただ―――咲夜と2人でいる空気が、たまらなく、好きだった。
 あれからもう、1年以上経つのか―――いや、まだ1年と何ヶ月かしか経ってないのか。リカのことを忘れて、奏は一瞬、そんな感傷に浸った。

 「…とまあ、そんな訳で、当日もそいつにスタジオまで来てもらって、カメラの前に立つ直前、1曲歌ってもらった。その結果が、あの写真」
 目を開き、そう締めくくる。
 大人しく話を聞いていたリカは、鏡の中で奏と目が合うと、2度ほど瞬きをし、少し考え込むように目を細めた。
 「…そういうのって、すぐできるもの?」
 「いや」
 「でも、何年か前までの一宮さんも“お人形”だった、って言ってたじゃない」
 「まあね。ただ…オレは、駆け出しの頃から今と同じ考えでいた、っていう下地があるから。と言っても、演技力も、どう演じるかを計算する頭もないまま、感じたまんまを演じる奴だったから、当時は、“素”すぎて美的にアウトな写真が多かったんだよなぁ…。今思えば、感じたことの表現の仕方が拙かっただけなんだけど―――とにかく、そのせいで仕事が上手くいかないことの方が多かった。まあ、舞い上がってた年頃だったしな、ちょうど」
 「……」
 「結局、物体になりきって微笑んでる方が、オファーも多かったし、何も考えなくて済んで楽だったから、周りに持ち上げられるまま、そっちに流れちまった。…スゲー後悔してる。あの何年かを、今からでも取り戻したい位に」
 「…そう。後悔、してるんだ」
 「少なくとも、オレはね」

 言葉が、途切れる。
 視線を落として口を閉ざしたリカは、何か考え込んでいるのか、なかなか口を開こうとしなかった。ぼやっとしてても仕方ないので、奏はこの沈黙を利用して、さっさと口紅を塗ってしまうことにした。
 先日の撮影で使ったのと同じ色を選び、リップライナーに取る。パフの持ち手に指を通すと、パフで顎の辺りを軽く押さえながら、丁寧に筆を走らせていく。意図的なのか、それとも偶然なのか、使った口紅のピンクは、リカが着ているグリーン系統のワンピースに、とても良く映えた。
 一通り塗り終え、もう一段暗めの色を新たに筆に取り、唇に陰影をつけていく。それがほぼ完璧に仕上がった頃―――おもむろに、リカが口を開いた。

 「―――ホント言うと、リカにも、よくわかんない」
 抑揚のない声で、呟くようにそう切り出し、伏せていた目を上げる。
 「みんな、リカを褒めるの。綺麗だね、可愛いね、よく似合うよ、今日の撮影最高だったよ―――最初は、気分良かった。なんだ、モデルなんて楽勝じゃない、ただ笑って立ってりゃお金貰えるなんて、随分ちょろい仕事だな、って……そう思った。ううん、今も半分、思ってる。だって、ホントにそれだけで済んでるんだもの。あー、モデルって、外見良ければ簡単に稼げちゃう楽な仕事だなー、って―――そう思うリカ、間違ってる?」
 「…どうだろ。つか、つまんなくない? そんなの」
 「つまんない」
 キッパリと、即答する。リカの目が、少し鋭くなった。
 「つまんない。もの凄く退屈。モデルなんて仕事、全然好きじゃない。楽だからやってるだけだもん。でも……みんなが求めてるリカが“これ”なら、このまんまでいいんじゃない? 苦労して、みんなが求めてるリカじゃないリカになる意味って、あるの?」
 「……」
 「…わかんない。わかんないよ。自分でも、自分が、何をしたいのか」
 「…んなこと、オレには余計、わかんないと思うけど…」
 そう言って、奏は、更に一言、付け加えた。
 「でも―――今、鏡ん中のリカが、一番感情的な顔したのは、“つまんない”ってセリフの時だった」
 「―――…っ」
 リカが、僅かに、目を見張る。鏡の中で目が合い、奏は、ニッ、と笑った。
 「だから、リカは“退屈してる今を変えたい”んだろうな、と、オレは感じた。…ビンゴ?」

 リカは、答えなかった。
 答えないまま、ぎゅっと唇を引き結び、鏡越しに奏を見据え続けた。
 1分以上、沈黙が続く。やがて、椅子をクルリと回したリカは、鏡ではなく、直接奏を見上げた。
 「じゃあ、決まり」
 「は?」
 「経験者なんでしょ。後輩にその経験、伝授してよ」
 「は!?」
 なんだそりゃ、と目を丸くする奏をよそに、リカは、綺麗に描かれたピンク色の唇の端を、にっこり、と上げてみせた。
 「今日1日、結構苦労したんだから。先輩モデルと一緒の撮影は勝手な真似許されないし、雑誌社とべったりな関係の場合もアウト。リカの力で担当替えさせられる仕事なんて、案外少ないのよね。ちょっとがっかり」
 「…ちょ…っ、ちょっと、待」
 「とりあえず、4回」
 奏の眼下に、4本の細い指が突き出される。
 「1回目は、来月5日。立て続けだけど、2回目は10日。間が空いて、3回目は9月頭。で、最後は9月の下旬。あ、10日の仕事は、メイクじゃないから。9月下旬の仕事の打ち合わせね」
 「待てって! そんな、勝手に、」
 「もう逃げらんないわよ? クライアントに、名前も言っちゃったもん。次回の撮影のメイクさんは、“Studio K.K.”の一宮 奏さんにお願いしまぁす、って」

 すたっ、と椅子から下り立ち上がったリカは、少し前の殊勝な顔つきなど完全にかなぐり捨て、この前見た高飛車なお姫様の表情で、奏を見上げた。
 「まだ駆け出しだって言ったじゃない? 新人メイクとしては、悪い取引じゃないでしょ」
 ―――…い…痛いとこ突いてきやがって……。
 確かに、まだモデルから指名がかかるような立場には全くない、というかそういうコネクションを構築できていない新人の奏にとって、ご贔屓のモデルが1人でもつく、というのは、魅力的な話ではある。そこでいい仕事をすれば、リカのマネージャーが手がけている他のモデルの仕事にも使ってもらえる可能性が出てくるし、クライアントの目に留まることもある。新人が最も飢えているのは、「機会」だ。
 さすが、腐ってもモデル。下僕扱いしながらも、裏方心理をよく知っている。コノヤロウ、と悔しさを覚えながらも、奏は、紅筆を握る手を震わせるばかりで、何も言い返せなかった。
 「じゃ、OKね?」
 奏が諦めたことを悟り、リカは、フフフ、と小さく笑った。
 「とりあえず、撮影3回、打ち合わせ1回―――その中で、教えてよ。一宮さん流“モデル稼業の楽しみ方”を」


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