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― Fever ―

 

 その日は、朝からとてつもなく蒸し暑かった。

 「……あぢー……」
 「死にそうな顔してるわね。大丈夫?」
 眉をひそめる佐倉に、奏はなんとか、大丈夫、と答えた。が、あまり大丈夫ではないことは、奏の生気のない目を見れば明らかだ。
 「…危なそうねぇ。やめとく? 打ち合わせ」
 「いや、いける。ちゃんと頭は動いてるし、冷房で冷やされればマシになるから」
 実際、地獄のような暑さから逃れてビルの中に入ってからは、歪んで見えていた世界は、若干まともに見えるようになっていた。エレベーターに乗り込んだ奏は、はぁ、と大きく息をつき、一番奥の壁にぐったりと頭を預けた。
 「前から暑さは苦手そうだったけど、今日はまた随分ダメージ受けてるみたいね」
 「んー…、あんまり休んでないからなぁ…」
 奏が言うと、佐倉がちょっと表情を変えた。
 「そうなの?」
 「先週の日曜も、シフトの関係で店に出ざるを得なくてさ。火曜日は姫川リカの撮影だったから、拘束時間も仕事量も店出る日よりは少なかったけど……やっぱり緊張感が違うから、普段より疲れたし。昨日は昨日で、店終わってから技術研修で終電近くまで居残ったし―――まるまる2週間休んでないと、さすがにだるいよなぁ」
 「…ちょっとオーバーワークなんじゃない? それ」
 さすがに、佐倉の声が心配げになる。今日は、日曜日―――本来なら、奏にとっては休日だ。まさか先週も休みなしだったとは思わなかったので、クライアント側の希望日をそのまま奏に伝えてしまったが、2週連続休みなしと聞かされては、心穏やかではない。
 「そういう時は、前持って言ってくれないと。今日しかダメって訳じゃなかったんだから、別の日に調整することもできたのに」
 「今日は、どのみち午後から、リカの仕事の打ち合わせが入ってたから」
 「バカね、そういう時こそ、残った僅かな時間を休息にあてなさい、ってことよ。まぁったく……そんな風に仕事に追いまくられてる生活じゃあ、咲夜ちゃんに愛想尽かされるわよ?」
 「……」
 佐倉のセリフに、グロッキー状態の奏の眉が上がるのと同時に、エレベーターが目的の階に到着した。
 「ほら、行くわよ。しっかりして」
 エレベーターの開閉ボタンを押しつつ、佐倉が奏を急かす。だるそうに頭を起こした奏は、のろのろとエレベーターを降りつつ、しっかり佐倉に反撃した。
 「…佐倉さんこそ、こんな仕事漬けな人生じゃあ、今世紀中に麻生さんと復縁すんの、無理じゃない?」
 「……」
 直後―――エレベーターを降りた奏の背中を、佐倉の持つブリーフケースが直撃した。


***


 「ほら、ウーロン茶」
 「あ、さんきゅ」
 一成が放ったウーロン茶の缶をキャッチして、咲夜は、ピアノに一番近い席の椅子に腰掛けた。
 「あっついねー、今日。湿度が凄くない? サウナみたい」
 「地球温暖化で、亜熱帯気候から熱帯にシフトしてるのかもな。そのうち日本がアマゾンみたいになるぞ」
 これだけ暑いのに、本日休業中の“Jonny's Club”には、冷房が全く入っていない。練習のためにタダで自由に使わせてもらっている分、必要最低限以外の電気代のかかる真似はNGなのだ。
 といっても、何もしなかったらぶっ倒れることは必至なので、控え室から持ってきた扇風機を回してはいる。が、この程度では全然追いつかない。軽い気持ちであおったウーロン茶は、一気に半分まで減ってしまった。
 「俺の家で練習できればいいんだけどな…。タダだし、冷暖房完備だし」
 ピアノの前に腰を下ろし、一成がポツリと呟く。
 一成の家は、音楽一家だけのことはあり、実に立派なピアノ室がある。勿論、冷暖房完備だ。一成が咲夜を路上で拾って間もない頃は、実際、そのピアノ室で練習をしていた。
 が、そんな快適な練習環境は、仕事で海外へ行っていた一成の父が帰国してしまったことにより、失われた。自分の留守中に完全にクラシックからジャズに転向してしまった息子を見て、一成の父は大激怒。ジャズ仲間である咲夜やヨッシーは「息子をたぶらかした連中」と見なされてしまい、藤堂家においては完全に悪役(ヒール)扱いだ。現在では、練習どころか、藤堂家の敷居をまたぐことすら許されなくなっている。
 「ま、いいじゃん。短時間だから、耐えられないほどじゃないよ。1人にばっかり負担かけるのもフェアじゃないしさ」
 少し責任を感じているような顔をしている一成に、咲夜は軽い調子でそう言った。苦笑を返した一成は、ウーロン茶の缶を置き、ピアノの上の楽譜を手に取った。
 「けど…今日の曲は、咲夜よりむしろヨッシーと事前に合わせておきたかったよなぁ」
 「ああ、歌なしの部分、多いもんね。でも、久々とはいえ前にやってた曲だから、ヨッシーなら大丈夫でしょ。私らみたく兼業じゃなく、専業で毎日演奏してんだし」
 「とは思うけどね。まあ、子供できたばっかりで、今一番メロメロの状態だからな、ヨッシーは」
 「ハハ、そうそう、まさにメロメロ。新曲ならまだしも、念のための練習に休日に呼び出すのは酷だよ」
 「平日にもうちょっと練習する機会があればいいんだよなぁ…。咲夜だって、休日潰したくないだろ」
 「え? 私は別にいいよ?」
 キョトン、と目を丸くする咲夜に、一成は、少し呆れたような顔になった。
 「お前は良くても、一宮は不満なんじゃないか?」
 「なんで?」
 「なんで、って…。休みの日くらい、一緒に過ごしたいとか思うだろ? むしろ女の方がそういうこと言うぞ」
 「うーん…」
 一般に女の方がそういうことを言うのは、経験上(と言っても自分の、ではなく、周りの、だが)わかる気はする。が、咲夜にはいまいちピンと来ない感覚だ。咲夜は、困ったように首を傾けた。
 「でも、一緒にも何も、隣に住んでるから、会おうと思えば玄関から1秒だしねぇ。ほぼ毎朝顔合わせてるし、3日に1度は夕飯一緒に食べてるし。第一、奏も今日、仕事でほぼ1日中いないよ。私以上に多忙だもん、あいつ」
 「……大丈夫か、お前ら。そんな風で」
 「いいんじゃない? 逆にその“休みの日くらい〜”とかいう奴が奏の彼女だったり私の彼氏だったりしたら、今頃キレてるよ。二足のわらじ履いてる時点で、そういうタイプの相手は選べないよ」
 「…確かに、なぁ…」
 一成も身に覚えがあるだけに、なんだか妙に頷ける。以前付き合っていた子と別れる羽目になったきっかけが、まさしく「私と音楽、どっちが大事?」なんて口論だっただけに。
 「はー、やっと落ち着いてきた。そろそろ始める?」
 話を打ち切るように、咲夜がそう言って席を立つ。
 2人の間で、恋愛絡みの話は、タブーというほどではないが、少々気まずい話題だ。特に―――まだ一成がフリーで、咲夜の方には彼氏ができてしまった、という今の状態は、どちらかと言うと咲夜の方が余計に気まずいのだろう。話している間から、既に、早くこの話題を切り上げたがっている空気を、一成は感じ取っていた。
 「…ん、そうだな」
 意外と気を遣う奴だからな―――と軽く苦笑した一成は、手にしていた楽譜を譜面台に戻し、ピアノに向き直った。


***


 ―――ヤバ…、結構、きてるかも。

 「どうしたの? 一宮さん」
 「……え、」
 テーブルに肘をついて額を押さえていた奏は、怪訝そうな声に、のろのろと顔を上げた。
 大きな丸テーブルを取り囲んだ中で、奏から見ると右斜め前に座っているリカが、僅かに眉をひそめてこちらを見ている。その隣に座るマネージャーも、心配げな顔で奏の様子を窺っていた。
 「そろそろクライアントいらっしゃいますけど…大丈夫ですか?」
 おどおどとしたマネージャーの言葉に、奏は気力で背筋を伸ばし、なんとか笑顔を作った。
 「だ、大丈夫です。ちょっと暑さ負けしてるだけなんで」
 「暑いですものねぇ、今日。あ、よろしかったらお水か何か」
 「…梅ちゃん。あんた、この会社の人間じゃないでしょ。黙って座ってなさいよ」
 マネージャーの言葉を、リカがぴしゃりと遮る。慌ててマネージャーが口を噤んだ直後、人数分のアイスコーヒーの乗ったお盆を持って、社員らしき女性が入ってきた。あまりのタイミングに、マネージャーはバツが悪そうに赤くなり、この様子を傍観していたカメラマンやデザイナーが密かに苦笑した。
 ―――まずいな。やっぱり傍目にも相当きてるように見えるのか…。
 どうぞ、とアイスコーヒーを置く女性に軽く会釈をしつつ、Tシャツの襟を指で肌から引き剥がす。服が汗で張り付く、ということは、ちゃんと汗をかけている証拠だから、まだ問題ないとは思うのだが―――痛い。頭が、ガンガンする。

 元々、奏はそれほど、夏を苦手としている訳ではない。暑いのも寒いのも割合平気な方だし、体力もある方だ。イギリスに暮らしていた時は、一番好きな季節を夏と言っていた位だ。
 だが……日本の夏は、暑いだけじゃない。この、独特の湿度が、かなりの曲者だ。
 一昨年、10年以上ぶりで日本の夏を体験した時、日本ってこんなに蒸し暑かったか!? と子供の頃の記憶とのギャップに驚いた。10年間で気候が変わってしまったのか、それともイギリスの涼しく短い夏に体が慣れきってしまったのか―――とにかく、奏の体は、日本の夏に対応しきれなかった。柄にもなく暑さ負けでダウンしてしまい、その経験から、去年の夏は体調管理にいつも以上に気をつけた。
 勿論、今年だって気をつけていた筈なのだが……やはり、佐倉の言う通り、オーバーワークなのだろうか。佐倉と一緒に赴いたモデルとしての打ち合わせの時から、既に頭の血管がドクドクと脈打つような痛さがあった。昼食をとった時に少しマシになったと思ったのだが、その後の移動でまたぶり返し、今では午前中の痛みの2割増し、といった感じだ。
 塩分をとりなさい、と、別れ際、佐倉が塩昆布をプレゼントしてくれたので、それを食べながら水を飲んでこの打ち合わせに臨んだものの―――少々、処置が遅すぎたらしい。少しでもマシになれば、と思って口にしたアイスコーヒーは、体が受け付けてくれず、一口でやめてしまった。
 ―――っつーか、こういう時、カフェイン入りの飲み物はまずいんじゃなかったっけ?
 うろ覚えの知識に、危険物をちゃんと拒否する自分の体に、ちょっと感心した。
 足元に置いた鞄から、飲み残したミネラルウォーターのペットボトルを出し、口の中に残るコーヒーの味を洗い流すかのように水を飲む。そんな奏を見て、マネージャーは余計顔を赤らめ、リカは呆れたようにマネージャーを流し見ていた。

 「お待たせしました」
 奏がペットボトルを再び鞄に戻した直後、クライアントが会議室に入ってきた。
 場の空気が、一気に張り詰める。奏も軽く深呼吸をし、表情を引き締めた。


 打ち合わせ自体は、そこそこ順調に終わった。
 撮影日は、約1ヵ月後の、9月5日。来年の成人式用の振袖が商材なので、当然服装は振袖だ。実際に着る着物と同じ色柄の反物を持ってきてもらったので、メイクを担当する奏にとってはいい参考になった。
 「一宮さんっ」
 散会となり、バラバラと人が会議室を後にする中、リカがすかさず、奏のもとに駆け寄ってきた。マネージャーもそれに続こうとしたが、振り返ったリカが「梅ちゃんには関係ない話だから、先帰って」と冷たく言い放ったため、すごすご引っ込んでしまった。
 お先失礼します、と廊下に出るマネージャーを苛立ったような表情で見送ったリカは、別人のようににこやかな顔になり、奏を仰ぎ見た。
 「ね、この後、時間取れる?」
 「時間?」
 「言ったじゃないー、今度イギリスの話とか聞かせてくれるって」
 「ああ…、そんな話もしたな」
 申し訳ないが、そんな話、すっかり忘れていた。
 というか、それどころじゃない。打ち合わせの最中は緊張感でなんとか持ちこたえていたが、緊張から解放された途端、どくん、どくん、と脈打つような痛みが頭全体を覆い始めている。
 「…悪いけど、また今度な」
 僅かに顔を歪め、手でこめかみの辺りを押さえて奏が答えると、リカは目に見えて膨れた顔になった。
 「えぇ、なんで? まだ昼間じゃない。まさか、また先約入ってるの?」
 「そういう訳じゃ、ないけど…」
 「じゃあ、いいじゃない。ね、どこかでお茶しながらでも―――…」
 言いかけて。
 奏の表情が、打ち合わせ前以上に生気を失っていることに、さすがのリカも気づいたらしい。ハッとしたように目を見張ると、リカは、若干うつむき加減の奏の顔を覗き込んだ。
 「…もしかして、具合、悪いの?」
 「え? あー…、いや、大丈夫」
 と答えつつ、奏の体は、グラリと傾いでしまう。
 体中が、熱を持ったみたいに、熱い。血管という血管が膨張して、沸騰した血が駆け巡っている、そんな感じだ。
 「全然、大丈夫そうじゃないじゃない! ど、どうしたの? 風邪?」
 「いや、だから、暑さのせい。熱射病で、頭が痛……」
 がくん、と、足の力が抜ける。崩れ落ちるところを、引いたままだった椅子が運良く受け止めてくれた。が、リカに事態の深刻さを伝えるには、それだけで十分だった。
 「ちょ、ちょっと、しっかりしてっ!」
 「大丈夫大丈夫。あと、家帰るだけだから」
 「冗談でしょ!? びょ、病院…っ」
 「いいって。軽い熱射病だから、少し休めば帰れるから。リカも、もう帰っていいよ」
 「でも…っ」

 と、そこで、奏の気力は、尽き果てた。
 「―――…あったま、いてー…」
 リカが、更に何か言ってきたが、もうその言葉は、奏の頭にはまともに届いていなかった。


***


 「…ったく、碌なもん入ってないなー」
 郵便受けから、大量のチラシを引っ張り出して、思わずひとりごちる。
 全く、女の部屋の郵便受けに、アダルトビデオの宅配だの出張ヘルスだののチラシを投入するなんて、資源の無駄使いもいいところだ。目にするだけで気分が悪くなるそれらのチラシを、咲夜は、訳のわからないチラシと一まとめに雑巾絞りにしてやった。
 ―――奏も、打ち合わせ終わってる頃だよな…。そろそろ帰って来るかな。
 チラリと時計を見て、そんなことを思う。
 帰ってきたら、相談して食料の買出しとコインランドリーにでも行くか―――などと考えつつ、階段へと足を向けた咲夜だったが、車のブレーキ音を間近で聞き、足を止めて振り返った。
 見れば、1台のタクシーが、アパートの前に停車していた。誰だろう? と見守っていると、やがて後部座席のドアが開き、若い女が出てきた。
 いや、出てきた、というより、足だけ外に出した、という感じだ。どうやら隣に座っている人間を引っ張り出そうとしているらしい様子が、咲夜の位置からも見てとれた。
 「し、しっかりして、一宮さんっ」
 ―――え…っ、そ、奏!?
 微かに聞こえた名前に、咲夜の顔色が変わる。
 咲夜と大差ない体格の女の子に支えられ、奏が車から降りてきた。そのぐったりした様子を目の当たりにして、咲夜は慌ててタクシーに駆け寄った。
 「奏!」
 咲夜が叫ぶと、奏を支えていた女の子がびっくりしたように振り返った。
 奏も、半ば閉じかけていた目を開け、咲夜の方を見る。そして、その顔を咲夜と認識するや、どこかホッとしたように、力ない笑みを浮かべた。
 「…よ。ただいま」
 「ただいま、じゃないって! ど、どーしちゃった訳!?」
 「ハハ…、暑さにやられた」
 「……っ、と!!」
 自分を支えてくれていた女の子の肩を軽く押し、彼女の手から離れた奏は、今度は咲夜の方に倒れ込んだ。反射的に抱きとめたが、さすがに体格差で、思わず2歩ほど後ろによろけてしまった。
 ―――うわ、こりゃ熱射病だな。
 こめかみの辺りに当たった奏の頬が、異様に熱い。英国原産の奏には、日本の夏は厳しすぎたらしい。そう言えば、このところ休みなく働いていたしなぁ、と、咲夜は眉をひそめた。
 「悪ぃ…、部屋、連れてって」
 「わ…わかったから、もうちょい遠慮してよ」
 全力で寄りかかってくる奏を、ぐぐぐ、と押し返す。一応、押し返してもちゃんと立っているところを見ると、支えさえあれば自力で歩ける状態らしい。この異様な脱力状態は、甘えてるか、ホッとして気が緩んでるか、だろう。はぁ、と息をついた咲夜は、奏の背中に腕を回し、ちゃんと立て、と奏を促した。
 ―――おっと、そうだ。さっきの子…。
 奏を連れてきてくれた女の子の存在を思い出し、顔を上げる。
 彼女は、まだドアの開いているタクシーの傍で、ピンと気を張ったような表情をして立っていた。日本人形のような真っ黒な髪、インパクトの強いはっきりした顔立ち―――そういった外見に初めて気づき、その正体をほぼ確信した。ああ、この子が例のモデルさんか、と。
 咲夜と目が合うと、彼女は、タクシーに乗るべきかどうか迷っているみたいに、タクシーと咲夜とを見比べた。
 わざわざ送ってきてくれた人を、このまま帰してしまっては失礼というものだろう。よいしょ、と奏を抱え直した咲夜は、彼女に微笑を返した。
 「よかったら、お茶だけでも飲んでいかない?」

***

 「…一緒に暮らしてるの?」
 背後から投げかけられた質問に、コンロの火を止めた咲夜は、「は?」という顔で振り向いた。
 床にぺたん、と座る彼女は、名を姫川リカといった。
 モデルと聞いて、もっと背の高い女性を想像していたが、リカの背丈は咲夜とほぼ同じだ。前に奏が語った話では、テレビやファッションショーはやらない、との話なので、あまり背丈は重要じゃないのかもしれない。いや、背が足りないから、そうした仕事が来ないのかもしれないが。
 「一緒に住んでるなら、鍵持ってる筈でしょ」
 「あ…そうか」
 リカだって、さっき、奏の部屋に入る際、咲夜が奏のポケットから鍵を拝借したのを見ている。言われてみれば当然なことに、リカは気まずそうに視線を彷徨わせた。
 「じゃ、じゃあ、今日はたまたま…?」
 「残念。それも不正解」
 くすっ、と笑った咲夜は、ベッドの上に撃沈している奏を通り越した壁を、指さした。
 「私、隣に住んでるんだ」
 「えっ」
 「奏とは、元々“お隣さん同士”な訳。日頃から行き来してるから、大体の物の配置は知ってるけど、飽くまで生活は別々だよ」
 「ふぅん……」
 別に何が見えるでもないが、咲夜の指さす先を、リカの目も追う。それ以上説明することも特にないので、咲夜は再びキッチンの方に体を向け、紅茶のポットに沸かしたばかりのお湯を注いだ。
 紅茶なら、本来、奏の得意分野なのだが、ご当人は現在完全ダウン中だ。冷凍庫の中に眠っていたありったけの氷を引っ張り出し、簡易氷嚢を作って頭や首を冷やしているので、そのうち元気になるだろう。
 「咲夜ぁー…、先にカップ温めとけよー…」
 ダウンしている癖に、そんな指南の声が飛んでくる。人が淹れる紅茶の心配をしてる場合か、と、思わず苦笑してしまう。
 「だぁいじょうぶ、ちゃんと温めてるって」
 「オレにも一口飲ませて」
 「だーめ。また今度」
 いつも淹れる側だから、咲夜が淹れた紅茶の味に興味があるのだろうが、熱射病の人間に温かい紅茶なんぞ飲ませる訳にはいかない。ぴしゃりと咲夜が拒否すると、ベッドの方から冷てぇだのケチだのといった暴言が飛んできた。
 ―――熱で、自分の言ってること、半分理解してないんだろうな…。
 リカがいることも、今は頭から抜け落ちているに違いない。あんまり喋らせない方がいいな、と咲夜は判断した。
 「そういえばリカちゃん、この前、うちの店来てたでしょ」
 紅茶をカップに注ぎつつ、リカに話を振る。
 咲夜と奏のやり取りを聞いていたリカは、急に振られた話題にちょっと戸惑った様子だった。が、すぐに気を取り直し、軽く頷いた。
 「一宮さんに、色々話が聞きたかったから」
 「そうなんだ。でも、あの日、1人で帰らせちゃう形になったけど、大丈夫だった?」
 「え? 大丈夫、って?」
 「だってあの辺、飲み屋も多いし、柄の悪いのがうろついてることも多いしさ。リカちゃんみたいな女の子が1人で歩いてたら、変な奴らに目ぇつけられそうだから、1人で帰しちゃったって聞いて、ちょっと心配してたんだ」
 「…そう危ない所とも思えなかったけど…」
 首を傾げたリカは、続けてサラリと告げた。
 「でも、あの後、いつもの取り巻き連中に電話して迎えに来てもらったから、リカが1人でいたのなんて、ほんの5分か10分だし」
 「取り巻き?」
 「リカのファン、なのかな。モデル始める前から、何人かいて……今は10人ちょっと。男の方が多いけど、女の子もいるし。呼べば必ず5、6人は集まってくるし、足代わりにもなってくれるから、超便利」
 「へーえ…」
 感心したように相槌を打ちつつも、咲夜にはいまいち、どんな連中なのか想像がつかなかった。友達でも仲間でもない“取り巻き”なんてものを持っている輩は、咲夜の周りには誰一人いなかったから。
 「よくわかんないけど、電話1本で馳せ参じちゃうようなのが10人ちょっといる訳だ。でも、男もいるんじゃ、結構大変じゃない? 彼氏の座、狙う奴、多いだろうしさ」
 ティーカップをローテーブルに置きつつ咲夜がそう言うと、リカはどこか投げやりな笑みを口元に浮かべた。
 「大丈夫。あの連中のボスみたいな奴が、熱狂的なリカのファンなの」
 「へー、ボスなんているんだ」
 「ボス、っていうか、一番立場の強い奴、っていうか…。立派な彼女もいるし、いい大学に通ってる奴なんだけど、リカのこと、凄い偶像崇拝してて―――前に一度、取り巻きの中の1人がリカに手を出そうとした時には、事前にそのボスにバレて、キスもしないうちにボコボコにされちゃった。全治2週間で、それ以来その人の顔見てないわ」
 「……」
 「そんなことがあったの、みんな知ってるから、リカに何かしてこようとする男なんて、あの中には誰一人いないの。世界一安全な奴らよ」
 ―――こ…怖い世界だなー…。
 咲夜にも、それなりにファンを自称してくれる客がいるが、そこまで極端な者は、さすがにいない。やっぱり、別世界だ。
 「ま、まあ…、そんだけリカちゃんを大切にしてくれるファンがいるなんて、ありがたいんじゃない」
 フォローとも何ともつかず、咲夜が、若干引きつり気味の笑顔で、そう言う。
 が、リカはその言葉に、何も答えなかった。無言のまま、小さなため息をついて、視線を僅かに落としただけだった。
 「…とりあえず、紅茶、どうぞ」
 「あ…、いただきます」
 咲夜の勧めに応じ、リカの白い手が、ティースプーンを取る。それを見届けて、咲夜も自分のティーカップを口に運んだ。

 それにしても、本当に、お人形みたいな子だな―――紅茶を飲むリカを改めてまじまじと見て、そう思う。
 黒髪に色白、と聞いて蕾夏を想像した咲夜だったが、こうして見ると、蕾夏とはまるっきり違うタイプだ。同じ黒髪・色白でも、蕾夏は優しい緑や無色透明の風を連想させるが、リカはそうした自然をイメージできない。じゃあどんなイメージなんだ、と言われると……やはり、ショーケースに飾られた、愛くるしい顔立ちのアンティーク・ドールだ。
 ―――そりゃ、これだけ整った可愛い顔なら、素人時代からファンがいたのも頷けるよなぁ…。
 高校の1年先輩に、やはり飛びぬけて優れた容姿の女子生徒がいたが、彼女にも“取り巻き”と呼ばれる類の人間が、常に周囲にいた。彼女の場合、どちらかというとキリッとした美貌の持ち主だったので、異性より同性のファンが多かった気がする。先輩に彼氏が出来た時は、多くの女子生徒と一部の男子生徒が涙した。彼氏になった男は、卒業までの数ヶ月、幾多の嫉妬の目に晒されて相当息苦しい思いをしたらしい。
 リカの彼氏になる男も、結構大変かもしれない、なんてことを考えながら紅茶を飲んでいたら、それまで無言だったリカが、おもむろに顔を上げ、まっすぐに咲夜を見つめた。
 「あの、」
 「? 何?」
 「1つ、お願いして、いいですか」
 「お願い?」
 急に丁寧語になったリカは、真摯な表情で頷いた。何だろう、と咲夜の方まで身構えてしまう。
 「何、お願いって」
 「歌って欲しいんです。“Amazing Grace”を」
 「え、」
 「一宮さんから、聞いたから。去年出たMP3プレーヤーの、女性みたいな写真―――あれを撮る時、あなたが歌ってくれた、って」
 「……」
 「どんな歌を聴いて、一宮さんがあの表情したのか……聴いてみたいの」
 ―――…なんか、不思議な子。
 なんでそんなことに興味があるのか、いまいち、わからないが―――断る理由も、特にない。別にいいけど、と小さく答えた咲夜は、すっ、と息を吸い込み、歌い始めた。

 「Amazing grace, How sweet the sound... That saved a wretch like me...」

 リカは、目を閉じることなく、じっと咲夜を見つめたままで聴いていた。
 1番を歌い終えても、特に制止が入らなかったので、そのまま2番も歌い……結局、フルコーラス歌ってしまった。最後の1音が完全に消えても、まだリカは、じっと咲夜を見つめたままだった。
 「…えーと、終わったけど」
 困惑気味に、咲夜がそう言うと。
 「…咲夜ー…」
 眠ったかと思うほど静かだった奏が、だるそうな声を上げた。
 突如、外野から挟まれた声に、咲夜もリカも、少々びっくりして奏に目を向ける。見れば、奏は、額に当てられていた氷嚢を若干ずらし、首を起こしてこちらを見ていた。
 「何?」
 「…もう1回、頼む」
 「は?」
 「スゲーいい気分で眠れそう」
 …なるほど。子守唄代わり、という訳か。くすっと笑った咲夜は、「いいよ」と一言返し、もう一度歌った。

 合計2回の『Amazing Grace』を、リカは、ずっと黙って聴いていた。
 黙ったまま、美しい調べを歌い上げる咲夜の顔と、どこか安心しきった表情でその歌声に聴き入っている奏の顔を、時折見比べていた。
 2回目の『Amazing Grace』が歌い終わると、リカは大きく息を吐き出し、暫しうつむいた。が……再び顔を上げた時、リカは、薄い笑みをその顔に浮かべていた。
 「…うん。なんか、わかった気がした。今の歌聴いて、あの表情になるのが」
 「ホント? よかった」
 「神様って、ずるいなぁ」
 リカの目が、咲夜を通り越し、どこか遠くを見つめる。
 「恵まれすぎてて、ずるい。リカにくれればいいのに」
 「……」

 …恵まれすぎてて、って、誰が?
 リカにくれればいいのに、って……何を?

 なんだかよくわからないリカの呟きに、咲夜の目が点になる。
 だが、再び咲夜に視線を戻したリカは、ふふっ、と笑うだけで、その言葉の意味までは教えてはくれなかった。


 結局、リカは、紅茶1杯を飲み終わると、帰って行った。
 「今日は、ありがとね。奏に付き添ってくれて、凄い助かった」
 見送りに出た咲夜がそうお礼を言うと、リカは首を振り、にっこりと微笑んだ。
 「一宮さんのお部屋も見れちゃったし、咲夜さんの歌も聴けたから、トクしちゃった」
 「歌聴きたければ、いつでもお店来てよ。私らの出演は、火、木、土だから」
 「はぁい。じゃ、お邪魔しました」
 そう言うと、リカは軽く会釈し、帰って行った。その背中を見送った咲夜は、あることに気づき、もう一声かけた。
 「ねぇ、駅、どっちかわかる!?」
 階段を下りる直前だったリカは、振り向き、にこやかに頷いてみせた。本当かな、と少々訝った咲夜だが、奏をほったらかしにして送っていく訳にもいかない。リカに笑みを返し、部屋に引っ込んだ。
 パタン、と、ドアを閉じる。
 と同時に、咲夜の顔から、笑みが消えた。

 ―――…うーん…。
 あの、作り笑いの意味は、何なんだろう?

 リカが咲夜に見せた、鮮やかすぎる美しい笑顔―――それを額面通り受け取るほど、咲夜は鈍感ではなかった。
 取り巻きにいつも囲まれている、というリカ。けれど、咲夜が、今日リカが見せた数々の表情から感じたのは……何故か、「孤独」だった。

***

 「……37度4分、か」
 体温計の目盛りを読み取り、ため息をつく。
 これだけ冷やしたのに、この体温。あと少し無理をしていれば、完全に救急車クラスだっただろう。これだから健康を過信する奴は、と奏を軽く睨みつつ、咲夜は体温計をぶんぶんと振った。
 「奏、ちょっと頭起こして」
 「…んー…」
 僅かだが、頭が持ち上がる。枕と頭の隙間に手を突っ込み、置いてあったタオルを引っ張り出した咲夜は、額に乗せていた氷嚢と一緒に、それをキッチンに持って行った。
 「リカって、帰ったんだっけ…」
 咲夜の背中に、奏がだるそうに声をかける。
 「…もう30分も前に帰ったよ。奏も、お礼言って送り出してたじゃん」
 「覚えてねー…」
 「…重症すぎ」
 タオルで包んでいた氷は、ビニール袋の中で、ものの見事に水に変わっていた。そろそろ氷が出来ている筈だ。咲夜は冷蔵庫を開け、新しい氷嚢と氷枕を準備しだした。

 疲れがたまっていることも自覚せずに、どんどん仕事を入れて無理をした挙句、本来「客」であるリカに家まで送り届けられてしまった奏には、正直、呆れる部分もある。一方、ぐったりとした奏を見ていると、胸が痛む部分もある。
 けれど―――本音を言えば、咲夜は、ちょっとこの状況を喜んでいた。
 拓海とのことがあって、咲夜自身が体を壊して以来―――咲夜は、奏に迷惑をかけてばっかりだった。食事のことでは随分心配もさせたし、色々と協力もしてもらった。先日の出雲の件にしても、結局は最後に奏が説得してくれた形になった。咲夜は奏に対して、借りが増えるばかりだ。
 だから、こんな風に、奏の看病ができるのが……ちょっと、嬉しい。
 特に、それまで支えられつつも一応自力でなんとか立っていた奏が、咲夜の顔を見た途端、一切の遠慮なしにぐったり寄りかかってきた時には、内心、付き合い始めてからこんなに嬉しい瞬間ってなかったな、と思うほどに、嬉しかった。
 ―――って、氷枕用意しながら口元緩んでるって、ヤバイって。
 さっきのことを思い出し、無意識のうちに笑みを浮かべていた咲夜は、慌てて口元を引き締めた。

 「はい、新しいの、できたよ」
 氷枕と氷嚢を抱えて、咲夜が再びベッドに戻ると、奏は閉じていた目をうつろに開けた。
 「悪いなー…、休みの日なのに」
 「何言ってんの。ほら、もう一度頭上げて」
 その言葉に反応して、奏がノロノロと頭を上げる。が、あまり上がりそうにない。咲夜は、氷嚢を布団の上に置き、空いた手で奏の頭を支えるようにして氷枕を置いた。
 ところが。

 「咲夜ー…」
 支えていた頭を枕に戻した途端、奏の手が、咲夜の後頭部に回った。
 「え、」
 何、と言いかけて。
 言いかけた唇が、塞がれた。

 「―――……」
 熱い。
 そりゃそうだ。相手は、現在熱射病真っ只中の、病人だ。熱くて当然だ。
 ……じゃなくて!!!

 一瞬、ストップしかけた頭が、回りだした。
 思わず、枕の横についた手を思い切り伸ばし、奏から離れようとする。が、病人の筈の奏の手は、少しも緩むことがなかった。それどころか、更に唇を押し付けるように、咲夜の頭を掻き抱いてくる。
 ―――ちょ…っと、奏! 何やってんの、こんな時にっ!
 必死にあげた抗議の声は、キスで遮られ、全く言葉にならなかった。
 恋人同士になってからでは、多分これが、一番濃厚なキスなんじゃないだろうか―――それが病気で朦朧としている最中って、どうなんだろう? なんて方向違いに冷静なことを無理矢理考えた時、咲夜のわき腹に、何かが触った。
 「……っ!?」
 くすぐったさに体を縮めた咲夜は、閉じていた目を開け、なんとかキスから逃れようとした。が、それもままならないうちに、Tシャツの中に、やたら熱い手が潜り込んできた。
 「…っ、そ、奏っ!」
 僅かに唇が離れた隙に、やっと声をあげる。でも、離れた唇を肩に押し付けられ、せっかくあげた声が喉でひっかかってしまった。
 ―――じょ…冗談…っ、なんでこんなことになってる訳!? 急にこんなことされても、困るって!
 焦る咲夜を無視して、奏の手は、あろうことか咲夜の胸を無遠慮に掴んだ。
 そして―――そのまま、ピタリと、動きを止めた。

 「……?」
 突如、全く動かなくなってしまった奏に戸惑い、咄嗟に声が出ない。息をつめ、じっとする咲夜の耳元に、数秒後、奏が一言呟いた。
 「…あー、なんか、落ち着く」
 「……」
 「暫く、こーしといて…」
 最後の方は、ほとんど聞き取れなかった。
 3秒後、穏やか過ぎる奏の寝息が、耳のすぐ傍から聞こえてきた。

 ソロソロと腕を伸ばし、体を起こしてみる。
 後頭部に回っていた奏の手は、あっけなくパタン、と枕の横に落ち、眼下に奏の幸せそうな寝顔が見えた。が……どういう根性なのか、Tシャツの中で胸を掴んでいる手だけは、離れなかった。
 「……」

 ―――…暫く、こーしといて、って。
 このままでいろ、ってことですか。もしかして。
 ってゆうか、奏。女の胸掴んで「落ち着く」って―――…。

 「…つくづく、変な奴…」
 なんだか、無性に泣けてきた。
 が、あまりにも奏が気持ち良さそうに眠っているので、咲夜は結局、その手を引き剥がすことができなかった。


***


 翌朝。

 「あ、おはよ」
 隣の窓から顔を出した咲夜は、いつも通りの笑顔。だが。
 「……はよ」
 それに応える奏の笑みは、少しばかりぎこちなかった。
 「どうよ、熱射病は。完治した?」
 マグカップを口に運びつつ、咲夜が訊ねる。昨日、咲夜が帰る時には、鍵を閉めるために奏も起きて玄関まで行ったのだが、その時の状態がまだ夢うつつのフラフラ状態だったので、心配していたらしい。
 「あ、ああ。完全復活。夜中にシャワー浴びて、適当なもん食ったら、すっかり元気になった」
 「そっか。良かった」
 「…迷惑、かけたな。ほんと」
 すまなそうな顔をする奏に、咲夜は、あはは、と明るく笑ってみせた。
 「この位、迷惑のうちに入んないよ。私の方こそ、摂食障害で随分迷惑かけたじゃん」
 「あんなの、別に迷惑じゃ―――…」
 弱々しい笑みで、そう返しかけた奏だったが―――やはり、心に引っかかることがある状態だと、どうにも上手く振舞えない。気まずそうに咳払いをひとつすると、奏は改めて、咲夜の顔をじっと見据えた。
 「なあ、咲夜」
 「ん?」
 「変なこと訊くけど―――オレ、昨日、何かとんでもないこと、やらかさなかった?」
 「……」

 マグカップに口をつけたまま、咲夜の動作が、一瞬、止まる。
 その一瞬のフリーズに、奏の頭の芯が凍った。

 「…んー、別に? 何もなかったと思うけど」
 マグカップを下ろした咲夜は、そう言って、本当になんでもないように笑ってみせた。
 「リカちゃんが帰ったのを覚えてないとか、その程度のことなら、あったよ。熱で朦朧としてたんだろうから、しょうがないけどさ。何、もしかして、何かとんでもないことをした夢でも見た訳?」
 逆に問われ、冷や汗が吹き出してくる。それを誤魔化すように、奏は引きつり気味ながらも、なんとか笑みを作った。
 「い、いや、そういう訳じゃないけど。何もなかったんなら、別にいい」
 「ん、何もなかったよ」
 「…じゃ、オレ、まだ朝飯食ってないから」
 トーンダウンした声でそう言い、窓の内側に引っ込む。ぴしゃりと窓を閉めて間もなく、隣の窓も閉まる音がした。

 ―――ヤバイ。
 ヤバイ。絶対ヤバイ。あれは、どう考えたって「何かあった」反応だろ…!

 唇と手のひらに残る、やたらリアルな感触は、やっぱり気のせいじゃなかったらしい。
 「……オレのバカヤロウ……」
 シラを切り通すか、それとも、真相を問いただして土下座して謝るか―――平熱に戻った奏は、どっちに転ぶのも厳しそうな二者択一に、ひとり悶絶するのだった。


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