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― メッセージ ―

 

 世間的には、盆休み真っ只中である。
 単身者も多いこの界隈では、帰省している者の割合が高いのか、普段なら通勤通学の時間帯だというのに、外に人影はほとんどなかった。“ベルメゾンみそら”も、何人かは留守にしているらしく、いつもより静かに感じられた。

 「秋吉帰ってくるまで、もうちょっと待ってろよ」
 優也から託されたキャットフードをミルクパンにやりながら、蓮はそう声をかけた。するとミルクパンは、まるで意味を理解したみたいに、みゃあ、と愛らしい声をあげた。
 普段は優也がミルクパンに直食を与えているのだが、現在優也は岐阜に帰省中だ。マリリンも留守にするらしく、蓮が留守中の世話を仰せつかった。ミルクパンに懐かれている自信など微塵もなかったので少々不安だったが、蓮が与えるキャットフードを素直に食べてくれるミルクパンを見て、蓮はホッと胸を撫で下ろした。
 「…さて、と」
 蓮の夏休みは、バイトにつぐバイトだ。日中のバイトに出かける準備をそろそろ始めなければ、と、蓮は立ち上がり、階段を上り始めた。
 ところが。

 「……?」
 階段の上から、微かな声が聞こえた……気が、する。
 最後の1段にかけた足をぴたっ、と止め、蓮は耳を澄ました。
 「おい、咲夜…! 開けろって…!」
 周囲を気にしてか、声のボリュームはかなり絞ってある。が、ドンドン、とドアを叩く音といい、必死な感じの声音といい、それはどう考えても「懇願」といった声だった。
 足音を忍ばせ、最後の1段を上った蓮は、壁の端っこからそっと廊下を覗き込んだ。案の定―――201号室のドアを叩いて何やら必死に訴えているのは、このアパートには似つかわしくない風貌をした、202号室の住人だった。
 「そりゃ、100パーセント、オレが悪いよ。弁解の余地ないよ。けど! ちゃんと謝ってんのに、この仕打ちはないだろっ! いきなり窓閉めるって冷てーぞお前っ!!」
 「……」
 ドアの内側から返事があったかどうかは、蓮の位置からではわからない。あったにしても、プラスな返事ではなかったのだろう。ため息をついた奏は、ごん、と音がしそうな勢いで、ドアに額をくっつけた。
 「…もー…、シラを切ったんじゃなくて、マジ記憶が曖昧だったんだってー…。嘘ついた、って言うんなら、オレが訊いた時に正直に答えなかった咲夜の方が問題あるんじゃねぇ? 納得いかねー。ぜってー納得いかねーぞー」
 あーけーろー、と、まるでお経の如く、抑揚なく奏が呟き続ける。半分自棄になっているかのようだ。
 すると、根負けしたように、鍵の開く音がした。危うく、ドアで額をぶつけそうになったところを、奏は慌てて体を反らして回避した。
 「―――…全く…。何やってんの。もうすぐ店出るんでしょ?」
 蓮には、多分顔を出したであろう咲夜の姿は、ドアノブを掴んでいる腕しか見えないが、咲夜と対峙した奏の表情は、みるみる嬉しそうな顔になった。
 「大丈夫。駅までダッシュすりゃ、あと10分は余裕ある」
 「…とりあえず、入って」
 諦めたような咲夜の声に、奏は即座に従った。
 蓮の視界から、奏の姿も消える。パタン、とドアが閉じたところで、蓮は、いつの間にか詰めていた息を、大きく吐き出した。

 ―――なんか、よくわからないけど…。
 100パーセント自分が悪い、と言いつつ「納得いかない」って……矛盾してないか?

 つくづく、変な大人だ―――自分よりはるかに年上なのに、自分よりはるかに子供に見える奏の様子に、理解不能、とばかりに蓮は首を傾げた。


***


 「なんか、いいことでもあった?」
 昼休み直前、氷室にそう指摘されて、奏は少し目を丸くした。
 「オレ? なんで?」
 「なんで、って……その晴れ晴れとした顔見れば、いいことあったのかな、と思うよ、普通」
 「……」
 タオルを畳んでいた手を止め、鏡をマジマジと見つめる。だが、奏から見てその顔は、特にいつもと違う顔にも見えなかった。
 「普通だと思うけど」
 「一見、な。でも、昨日あれだけ1日中陰鬱な顔してた奴が、一晩でここまで復活には、いいことの1つ位ないと無理なんじゃないか?」
 「ハ、ハハハ、そーゆーことか」
 氷室の言わんとするところがやっとわかり、奏はバツが悪そうに笑った。
 「いや、別に、いいことがあった訳じゃないんだけど―――ただ、心の重荷が下りたっていうか、なんていうか」
 「え?」
 何それ、という顔をする氷室の視線を避け、奏はゴホン、と咳払いをひとつして、作業を続行した。本当は、今は客足の切れ目で、店内にいるのはマッサージを受けている客1名のみなのだが、必要以上にテキパキ動くことで、それ以上の氷室の追及を避けた。

 昨日の朝、咲夜の反応から、やっぱり自分の曖昧な記憶がどうやら現実だったらしいと察して―――丸1日、頭を抱えた。
 咲夜が「何もなかった」と言った上、咲夜から「何か覚えでもあるの」と逆に訊かれた時「別に」と答えてしまったし……このままスルーした方が無難なんじゃないか、という方向に何度も転がりかけた。が、結局、心が固まるより先に、このストレスに奏が耐え切れなくなった。
 今朝、再度日曜日の話を持ち出し、「記憶がほとんどないけど、なんかやったと思う。ごめん」と謝ったら、咲夜は怒ってしまった。後で聞いたら「こっちは、熱のせいだし何もなかったことにしてやろうと配慮したのに、今更蒸し返すなら、最初からシラを切ったりするな」ということらしい。全くもって、その通りである。でも、奏の性格をよく知る咲夜なだけに、最終的には機嫌を直してくれた。
 ―――やっぱオレって、気になることを棚上げし続けるのに不向きな性格してるよなぁ…。
 懸念事項から解放され、スッキリした気分で臨んだ本日の仕事は、昨日とはうって変わって、実に好調である。こんなことなら、たとえ咲夜が肯定しなくても、最初から正直な記憶を話して頭を下げてしまえばよかった。

 「奏、次の予約客って、何時だ?」
 氷室に問われ、壁に掛かった時計に目をやる。
 「ええと、1時半かな」
 「まだ余裕あるな…。横田さん、まだ接客中だし、テンの予約客ももうすぐ来るから、お前先に昼休み行くか?」
 「ああ、ちょっと待って。えーと、山之内は……」
 “Studio K.K.”の唯一の見習いである山之内の姿を探し、店内に視線を巡らす。そして、入り口のカウンター傍で彼の姿を発見した奏は、なんだか微妙な光景を目撃し、思わず眉をひそめた。
 カウンターには、テンが立っていた。予約表をチェックしているらしい。その傍らにいる山之内は、カウンターに頬杖をついて、何やら楽しげにテンと喋っている。接客業として、あるまじき態度だ。
 「あーいつー。だれてんな、全く」
 「ん? 何?」
 「山之内」
 憮然とした奏のセリフに、氷室も振り返る。そして、山之内とテンの様子を確認して、ああ、と小さく呟いた。
 「あいつ、ちょっと舞い上がってるんだよ」
 氷室が、若干ため息混じりに言う。意外な言葉に、奏は不思議そうな顔をした。
 「舞い上がってる、って…山之内が?」
 「そう。テンと付き合い始めたから、浮かれてるんだろう」
 「……はぁ!?」
 危うく、大声で反応してしまいそうになり、慌てて口を手で押さえる。
 特に、カウンターにいる2人に気づかれなかったか、と視線を向けるが、話に没頭しているのか、こちらを見る気配すらない。一気に声の音量を落とし、奏は氷室との間合いを詰めた。
 「な、なんだよ、それっ。オレ、全然知らないぞ」
 「ほんとか? 僕はテン本人から聞いたよ。当然奏も聞いてると思ってた」
 奏が知らなかったことが意外だったのか、氷室は少し戸惑ったような顔をした。
 「一体いつからだよっ」
 「山之内がテンにモーションかけてたのは、結構前からじゃないか? 付き合い始めたのは、ええと…7月のはじめ頃かな。ほら、奏が咲夜ちゃんと付き合い始めたって聞いた、少し後に―――…」
 そこまで言って、氷室はふいに、何かに気づいたかのように表情を変えた。
 一瞬、テンに目を向ける。そして氷室は、妙に納得したように何度か頷いた。
 「ああ……そういうことか」
 「は?」
 何がなんだか、さっぱりわからない。そんな奏に、氷室は苦笑を返した。
 「いや、こっちのこと。…人のことは言えないけど、奏も結構鈍感だよなぁ」
 「???」
 「いらっしゃいませー」
 奏が余計に怪訝な顔をした、その時、テンの声がカウンターの方から飛んだ。
 この時間の予約客は、テンを指名した客だけの筈だったな―――と思いながら入り口に目を向けた奏は、直後、信じられない人物の登場に目を丸くした。
 「ご予約はいただいてますか?」
 「いえ、今日は、お客さんとして来たんじゃなく、こちらのスタッフの一宮さんに…」
 姿勢を正した山之内とテンに、にこやかにそう答えているのは、姫川リカだった。
 答えつつ、奏の姿を探すかのように店内を軽く見渡したリカは、すぐに奏がこちらを見ているのに気づき、無邪気そうに手を振ってみせた。
 「ああ…、あれって、奏にメイク依頼してきたモデルじゃないか?」
 前回リカが店に来た時にもいた氷室が、ぼんやりとそう呟く。それに相槌を打つこともなく、奏は急ぎ、リカの所へ向かった。
 「こんにちは」
 いつもの如く、ヒラヒラ系のワンピースに身を包んだリカは、どうやら1人で来ているようだった。店内にも、ガラス製のドアの向こうにも、マネージャーの姿は見えなかった。
 「ど、どうしたんだよ、突然…。9月の仕事に、何か変更でもあった?」
 興味津々のテンと山之内の視線が突き刺さるが、とりあえず無視して、訊ねる。するとリカは、心外だ、とでも言うように拗ねた顔をした。
 「ヤダぁ、せっかく完全オフの日なのに、仕事の話なんてしないでよぉ」
 「あ、オフなのか、今日。…じゃ、何?」
 「様子見に来ただけよ。熱射病から復活したかな、って」
 「…へー。意外なとこで、気ぃ遣うなぁ」
 感心したように奏が言うと、リカはますます面白くなさそうな顔をした。
 ―――案外、普通の子なのかもな。
 電話1本で駆けつけてしまう熱狂的ファンがいたり、女王様のように扱われたりして、相当に歪んでそうだな、と最初は思ったのだが……奏にメイクを依頼してきてからのリカは、表面的には高飛車に振る舞いつつも、基本的には素直で嫌味のない印象だ。くすっと笑った奏は、元気になったことを強調するように、背筋をピンと伸ばしてみせた。
 「おかげさまで、このとおり完全復活いたしました」
 「そ。良かった」
 少しホッとしたように、リカが表情を和らげる。やっぱりそれなりに心配をかけてたんだな、と思うと、さすがに申し訳なくなった。
 「正直、仕事場から家着くまでの経緯がうろ覚えなんだけど―――悪かったな、色々面倒かけたみたいで。咲夜からも呆れられた。仕事の依頼主に迷惑かけてちゃ世話ないって」
 「依頼主、って……ギャラ払うの、リカじゃないし」
 「そうだけど、オレを指名したのは、リカだろ? 金くれる人じゃなく、オレを選んでくれる人が重要な商売だから、オレにとってのクライアントは指名してくれたリカだよ。あ、そうだ、タクシーで送ってくれたんだよな。ちょっと待って、タクシー代」
 ロッカールームに財布を取りに行こうとする奏に、リカは目を見開き、慌てて手を伸ばして引き止めた。
 「ちょ…っと、い、いいってば、それくらいっ!」
 「え、でも、」
 「年上だからって、カッコつけないでよっ。タクシー代くらいで困るほど貧乏じゃないもんっ。そりゃ、一宮さんほど稼げるモデルじゃないけど…っ」
 「……」
 ―――あ、しまった、かな。
 若干、トーンの落ちた声で付け加えられた言葉に、リカなりのプライドのようなものを感じ、奏は、今にも財布を取りに行こうとしていた足を引っ込めた。
 「じゃ、お言葉に甘えて」
 あっさり引いてみせると、リカは残念そうな様子も見せず、それでいいのよ、とばかりに頷いた。それから、気まずそうにあちこち視線を彷徨わせた後、上目遣いに奏を見上げた。
 「…じゃあ、仕事の邪魔しちゃ悪いし、もう帰る」
 「ああ、うん。わざわざありがとな」
 実際問題、間もなくテンの予約客が来る筈なので、こんな場所に居座られては困る。帰ろうとするリカのために、奏は、店のドアを開けてやった。
 しかし、開け放たれたドアから店の外に1歩出たリカは、ふと、そこで足を止め、奏を仰ぎ見た。
 「―――ねえ。1つ、訊いていい?」
 「? どうぞ?」
 「カノジョさんて、歳、いくつ?」
 「は?」
 咲夜の、歳??
 なんでそんなことを訊くのか、よくわからない。が、隠すようなものでもないので、奏は正直に答えた。
 「今、24。11月に25になるけど」
 「…ふーん」
 「それが、どうかした?」
 怪訝そうに奏が訊ねると、リカは意味深に口の端をつり上げた。
 「この前、一宮さんがカノジョにどっぷり甘えてるの見たから、若く見えるけど実は年上? って思ったの」
 「!!」
 「じゃ。お仕事頑張ってね」
 にっこり、と微笑むと、リカは軽やかな足取りで去って行った。
 ―――も…もしかして、咲夜に謝った件以外にも、色々やらかしてたのかな、この前のオレ。
 少なくとも、咲夜に謝った件は、リカが帰った後の出来事の筈だ。意識朦朧状態だった自分が、一体どんな醜態をリカの前で晒していたのか……想像すると、外気の蒸し暑さ以上の汗が、じわりと滲んでくる。
 少々へこんでしまったが、いつまでもこうしている訳にもいかない。ため息をついた奏は、静かにドアを閉めた。
 が。

 「―――…」
 なんだか、異様な視線が、背後から突き刺さってくる。
 振り向くとそこには、かつてないほど険悪な表情で奏を睨んでいるテンと、そんなテンにちょっと恐れをなしているように見える山之内の姿があった。
 「な、なんだよ」
 軽蔑とも受け取れるほどに冷たいテンの視線に、反射的にたじろいでしまう。
 だがテンは、その視線の意味を語ろうとはしなかった。
 「…別に、なんでもあらへんわ」
 地を這うような低い声で言うと、ぷい、とそっぽを向き、カウンターの中へと戻ってしまった。
 「ヤマちゃん、もうすぐ吉沢様いらっしゃるから、席準備しといてや」
 「は、はいっ」
 同じ歳とはいえ、山之内よりテンの方が立場は上だ。それに、テンの豹変振りが怖かったのだろう。山之内は、弾かれたように回れ右をすると、スタコラといった感じで窓際の客席へ行ってしまった。

 ……オレ、なんかした??
 それとも、オレがリカと話してる間に、山之内が何かしたのか???

 真相がわからず、途方に暮れて氷室に目を向ける。
 しかし、氷室は肩を竦めるばかりで、何も答えてはくれなかった。


***


 「お先、休憩もらいます」
 他のスタッフに一声かけ、蓮はバックヤードへと続くスイングドアをくぐった。
 ―――ああ、疲れたなぁ。
 立ち仕事である点でも疲れるが、客商売なのが何より疲れる。外の空気を吸いたくなった蓮は、厨房脇を抜け、店の裏手に出た。
 すると。
 「おっ、穂積じゃん。お疲れ」
 一足先に休憩に入っていた山中というアルバイトが、煙草を持った手を軽く挙げて合図を送ってきた。先客がいたとは、アンラッキーだ。だが、他に行き場所もないので、蓮はすぐ傍の自販機でスポーツ飲料を買い、彼の傍らの壁に寄りかかった。
 「どうだ、ちょっとはここの仕事にも慣れたか?」
 「え? ええ、まあ」
 「けどあれだな、お前、フットワークいいしオーダーミスもないけど、いかんせん、愛嬌が足りないなー」
 そう言って山中は、蓮の頬を指先でつついた。
 「まあ、“スマイル0円”みたく愛想振り撒く仕事じゃないけど、客が怯えるようだと、クビになっちゃうぞ」
 「…努力します」
 とは言ってみたものの、あまり自信はない。昔から蓮は、自分では多少愛想を良くしているつもりでいても、この鋭く見えてしまう目のせいで「穂積君、こわーい」などと言われ続けてきたのだ。もっと柔和な顔に整形でもしないと、飲食店向きな顔にはなれないかもしれない。
 「お前も、彼女とか出来ると、ムード変わるんだろうけどなぁ…」
 「…でも、出来る予定もなければ、作るつもりもないんで」
 「バカ、そう言ってる奴に限って、いきなり彼女が店に遊びに来たりするんだよ。あー、全くなーぁ」
 ため息混じりにそう呟いた山中は、なんだか黄昏たムードで、吐き出した煙の行方をぼんやり眺めた。
 直後―――その横顔が急激に歪み、山中の目から、涙がぽろっ、とこぼれ落ちた。
 「え…っ!? や、山中さん!?」
 突然のことに、思わず蓮が声を上げる。すると山中は、ぐるんと顔を蓮の方に向け、ぼろぼろ涙をこぼしながら、早口にまくしたて始めた。
 「なあ、穂積っ! 一体おれの、何がいけないと思う!?」
 「はっ!?」
 「そりゃ、特別ツラがいい訳じゃないこと位、自分でもわかってるよ。性格だってフツーだよ。1年浪人した上に、1年留年中だよ。金持ちでもないよ。けどさ、そんなの、日本人全体を見りゃ、極々普通で、別に情けなくなるほど悲惨な状態じゃないよな!? こんな男と付き合ってるなんて世間に知れたら恥ずかしくて表を歩けない、なんてレベルじゃねーよなぁ!?」
 にじり寄るようにして力説する山中に、蓮は気圧されたように無言で何度か頷いた。勿論、山中の言葉には賛成だ。だが蓮は、それより、山中が手にしている煙草の灰が、山中の指にどんどん迫っていることの方が気になった。
 「なのに、なんでなんだよ…っ!! あいつの方から告ってきた上に、2年も喧嘩することすらなく仲良く付き合ってきたのに―――イ、イケメン医大生に乗り換える、って、なんだよそれっっ!!」
 「…ああ、」
 そういうことか、と蓮が納得するのとほぼ同時に、山中の指先を、迫り来る煙草の灰が襲った。
 「っだああああぁぁぁっ!!?」
 もの凄い勢いで煙草を投げ捨てた山中は、焦がしそうになった指をもう一方の手で押さえ、悲鳴を噛み殺しながらぴょんぴょん飛び跳ねた。投げ捨てられた煙草の行方をしっかり見ていた蓮は、そんな山中を慰めるのは後回しにして、火事になる前に、煙草の吸殻をスニーカーで踏みにじって火を消しておいた。
 「大丈夫ですか、山中さん」
 「あ、ああ、大丈夫……あづづづづづ」
 「とりあえず、これで冷やしましょうか」
 まだ開けていなかった、水滴が表面に浮かんだスポーツ飲料の缶を蓮が差し出すと、山中は礼を言いながらそれを受け取った。あまり明るくない場所なのでよくわからないが、見る限り、直接火に触れた訳じゃなく、あと1センチほどに迫った火の熱で軽い火ぶくれ状態になったようだ。失恋した上にこの怪我とは…。今の山中には、貧乏神か何かが憑いているのかもしれない。
 「…まあ、良かったじゃないですか。顔や大学で男を選ぶような女、碌なもんじゃないですよ」
 蓮がため息混じりに言うと、山中はキッ、と蓮を睨んだ。
 「そんな風に思えるかっ! 2年も付き合ってきた上にベタ惚れしてた女だぞ、どんな理由だろうと、別れたくないに決まってるだろっ! お前はそーゆー目に遭ったことがないから、そんなクールなことが言えるんだよっ!」
 「……」
 「日頃どんぶり飯2杯軽く食べるおれが、この3日間、茶碗1杯も食えないんだぞっ。好きな女に去られるショックってのは、その位デカイんだからなっ」
 「…は、あ…」
 相槌は打ったものの―――いまいち、蓮にはピンと来なかった。

 勿論、失恋が悲しかったり苦しかったりするのは、わかる。恋愛に限らず、人から裏切られたり背かれたりするというのは、実に悲しいことだ。
 しかし、どんぶり2杯が茶碗1杯弱になるほどの問題だろうか? そこまで1人の人間に固執する山中の気持ちが、蓮にはよくわからない。
 しかも、相手は、いかに愛らしい皮を被っていようとも、男をブランド品を見るような目で判断する女だ。実はそういう底の浅い女だった、と判明したら、蓮なら悲しむより先に怒りを覚えるだろう。お前のために使った金と時間を返せ、と言いたくなるし、そんな女と見抜けずに人生を浪費した自分を後悔する筈だ。

 ―――こと、恋愛が絡むと、女はずるいし、男はバカだよな。
 だから嫌いなんだよ、こういうの。

 やっぱり、俺のような奴には、恋愛は最大の人生の無駄遣いにしからならないな―――うずくまって情けなく泣く山中を見下ろした蓮は、日頃から思っていることを、改めて実感した。

***

 「あれ? 穂積君?」
 駅のホームで定期券を取り出した蓮は、斜め前から聞こえた声に、顔を上げた。
 「ああ、やっぱり穂積君だ」
 そう言って、ヒラヒラと手を振ってみせたのは、今朝は腕から先しか見ることができなかった、201号室の住人だった。その隣にも後ろにも、奏らしき人影は見えない。どうやら1人らしい。
 「こんばんは」
 「こんばんはー。バイト帰り?」
 「はい。咲夜さ―――…如月さんは、」
 咲夜の名を口にしかけ、しまった、という顔で慌てて苗字を言い直す蓮に、咲夜は可笑しそうに笑った。
 「あはは、別にいいよ、咲夜で。優也君がそう呼んでるから、そっちで慣れてるんでしょ」
 「…すみません」
 その通りだ。優也の口から咲夜の話が出ると必ず「咲夜さん」なので、蓮にもその呼び方がうつってしまったのだ。
 「そんな気まずそうな顔しなくていいってば。なんなら私も、穂積君、下の名前で呼ぼっか? 優也君のこともそうしてるし」
 「えっ」
 下の名前―――ということは、“蓮君”、とでも呼ぶつもりだろうか。
 想像したら、なんだかむず痒くなってきた。微妙な顔をする蓮を見て、咲夜はまた可笑しそうに笑った。
 お盆休みの真っ只中のせいか、ホームには他に人影もない。並んで改札を抜けつつ、蓮は改めて訊ねた。
 「それで……咲夜さんは、お盆でも仕事なんですか」
 「うん。カフェストックの方は休みなんだけど、店の方は明日の水曜まで営業。奏んとこの店も明日までらしいから、お盆休み短い所のスタンダードかも」
 「へえ…、大変ですね」
 「蓮君は、バイト、何してんの?」
 さっそく、“蓮君”ときた。妙な気恥ずかしさに、蓮の視線が僅かに下がった。
 「…カフェバー、っていうのかな。歓迎会で行った店より明るい感じで、でも居酒屋よりお洒落な造りの。そこのホール係員です」
 「え、じゃあ、ボーイさん、ていうかギャルソン?」
 「…一応」
 「ふぅん、なんか意外な路線だなぁ。長いの、そこ」
 「いえ、一人暮らし始めてすぐに、食費稼ぐためにやりだしたバイトなんで」
 「そっか、偉いじゃん。あ、でも、居酒屋とかカフェバーのバイトにしては、帰るの早くない?」
 咲夜が、腕時計を確認してそう指摘する。時刻は午後10時半ちょっと前―――確かに、深夜まで開いている店の多いカフェバーにしては、この帰宅時刻は早いと感じるだろう。
 「うちの店、2交代制なんです。俺はその早い方の担当で…寄り道すると、大体いつもこの電車です」
 「あれ? バイクでは行かないの?」
 「ああ…、店の近所、駐輪場ないし、路駐もヤバそうな場所なんで」
 「はー、ホントにバイクを大事にしてるんだね。まるで恋人みたい」
 実際、蓮にとって、バイクは恋人みたいな存在だ。咲夜の感心したようなセリフに、蓮はきまりが悪そうにちょっと笑った。
 と、恋人、という単語が出たことで、ふいに今朝のことを思い出した。
 ―――こういうこと訊くのは、やっぱり不躾かな。
 知っても知らなくても、蓮の生活に何の影響もないことなだけに、ちょっと躊躇う。が、前から気になっていたことなので、思い切って訊いてみることにした。
 「あの…」
 「ん?」
 「咲夜さんは、一宮さんと、付き合ってるんですか?」
 その質問に、咲夜は驚いたように蓮の方を見、目を丸くした。
 その顔が、なんだか「なんてことを訊くんだ」と言っているように見えて、蓮は焦りを覚えた。
 「い、いえ、ただ、なんとなく前から気になってただけで、深い意味は…」
 「…へーえ…、そんなこと気にしてたんだ、2人とも」
 ―――いや、秋吉は、別に気にしてる風でもなかったんだけど…。
 だが、それを訂正するのもなんだか墓穴を掘ることになる気がして、蓮はあえて口を挟まずにいた。苦笑した咲夜は、実に端的に、明快に答えてくれた。
 「うん。2ヶ月ほど前から、付き合ってる」
 「……」
 「別に隠すようなことじゃないけど、かといってアパート中に宣伝して回ることでもないから、別に誰にも言ってないけどね。あ、でも、マリリンさんは知ってると思うよ」
 「……はあ、」
 ちょっと呆然としたような声が、蓮の口からもれる。妙な反応を見せる蓮に、咲夜は不思議そうに眉をひそめた。
 「何、どうかした?」
 「えっ。あ、ああ…、いえ、ちょっと意外だったんで…」
 実を言えば蓮は、2人を「ただの仲のいい友達」と思っていたのだ。訊いておいて、否定されるものと決めてかかっていた辺り、相当間抜けな話だとは思うが……やっぱり感想は、意外、だ。
 ところが咲夜は、意外という蓮の言葉を聞いて、何故か納得したような苦笑を見せた。
 「あー、そうだよね、意外だよね」
 「え?」
 「だってホラ、奏と私じゃ、ルックス的にもの凄い開きがあるでしょ。奏の彼女がこのランクって、周囲から見たら相当ミスマッチなんだろうと思うよ、自分でも」
 「え…っ、ち、違う違う、そういう意味じゃなくて!」
 要するに、外見の釣り合いが取れてない、という意味と受け止められてしまったらしい。とんでもない。蓮は慌てて首を振った。
 「2人が付き合ってるのが意外、っていうより、その―――咲夜さんに彼氏いるのが、意外だったから」
 「私?」
 咲夜が、キョトンと目を丸くする。その目が、なんで、と無言のうちに訊ねている。
 …困った。蓮は、心の内のことを説明するのが、大の苦手である。参ったな、と頭を掻いた蓮は、考えをまとめつつ、ぽつぽつと説明した。
 「だから、その……歓迎会の時の様子を見ても、秋吉の話を聞いても、なんか……咲夜さんのイメージって、何よりもまず“かっこいい”って感じで」
 「へー…、かっこいい、か」
 悪い気はしないらしい。咲夜の口元が、ちょっと嬉しそうに笑む。
 「中性的、ともまた違うけど、性別超えたクールさがある、っていうか……こう、男とべたべた恋愛してる咲夜さんなんて、全然イメージ―――…」

 そこまで、口にした時。
 蓮の脳裏に、ある光景が、まるでフラッシュバックのように蘇った。

 凛とした立ち姿。
 真夏のグラウンド、眩しげに見上げた、その人の姿。
 遠い、遠い、過去の記憶。幼い頃の―――もう10年も昔の、戻れない瞬間(とき)の残像だ。

 「……っ、」
 足が、止まる。
 全身の血が、一気に引く。まるで冷水でも浴びせられたように、蓮の全身は、総毛立っていた。
 「? どうしたの、大丈夫?」
 突然言葉を切り立ち止まった蓮に気づき、咲夜も立ち止まり、蓮の顔を覗き込んだ。
 不審がられては、まずい。蓮は、右手で左腕を爪が食い込むほど握り締め、なんとか笑みを作ってみせた。
 「だ……大丈夫、です。ちょっと眩暈しただけなんで」
 「眩暈? やだなぁ、日頃、ちゃんと食べてる?」
 心配げに眉をひそめる咲夜に、蓮はもう一度笑みを返し、再び歩き出した。歩き出してしまえば、鼓動は嫌な感じに乱れているが、蘇った記憶はどんどん遠ざかっていってくれた。

 ―――ま…ずいな…。
 蘇った記憶の人物と咲夜とは、まるで違う。見た目も違うし、中身も少しも似ていない。
 なのに……今、一瞬、蓮は咲夜に“その人”を重ねてしまった。いや、重ねたというより―――咲夜を呼び水にして、まるで似ていない“その人”を思い出してしまった。
 この世で最も嫌悪している人間と、咲夜を結びつけてしまうなんて―――まずい。とんでもないことだ。咲夜には気づかれないよう深呼吸をしながら、蓮はもう一度、左腕に爪を立てた。

 再び歩き出して間もなく、アパートに到着した。
 自分が絶句してしまったせいで会話が途切れていたので、気まずい時間がほんの数十秒で終わってくれたことに、蓮はホッと安堵の息をもらした。
 「みんな帰省してるせいか、なーんとなく寂しいよね、アパートの雰囲気も」
 8つ並んだ窓を見て、咲夜がそう呟く。
 「この辺のアパートは、みんなそんな感じですね」
 「単身者が多いからなぁ―――あれ?」
 とその時、郵便受けを開けようとした咲夜が、唐突に、妙な声をあげた。
 同じく、郵便受けの扉に手をかけようとしていた蓮は、その声に驚き、咲夜の方を見た。
 201号室の郵便受けを前にした咲夜は、郵便受けの扉を、怪訝そうに見つめていた。何かおかしなところでもあるのだろうか、と、蓮も1歩近づき、201の扉を見てみた。
 そして、ある異変に、すぐ気づいた。
 「……」
 蓮の記憶では、201号室の郵便受けには、ネームプレートを入れる場所に、ちゃんと「如月」と書かれた厚紙が入れられていた筈だ。
 なのに―――ない。201号室のネームプレートが、忽然と姿を消していた。
 ちなみに、202号室も、下の101号室も、ちゃんとある。消えているのは咲夜の分だけだ。
 「あっれぇ…? どこ行ったんだろ」
 キョロキョロと、咲夜が辺りを見回す。蓮も見てみたが、それらしき紙切れは、どこにも見当たらなかった。
 「昨日って、あったよな…。ここに立って見た時、何の違和感も覚えなかったし」
 「私も何も変に思わなかった、ってことは、あったんだろうなぁ、意識してなかったけど。うーん…」
 首を捻りつつも、咲夜は郵便受けを開けた。
 入っていたのは、全部チラシの類だったらしい。全くもう、などとブツブツ言いながら、咲夜はそれらを引っ張り出し、一まとめに雑巾絞りにしようとした。
 だが。

 「……?」
 何かが、チラシとチラシの間から出てきて、ふわりと宙に舞った。
 数枚の、白い紙片―――蓮はそれらの1つを、反射的に捕まえた。
 何だろう? と、紙片を握った手を開き、その正体を確認する。途端―――咲夜と蓮の表情が、険しくなった。
 紙片は、厚紙の切れ端だった。そしてそこには―――サインペンで書かれた「月」の文字の4分の1ほどがあったのだ。
 咲夜は、急ぎ、ぐしゃぐしゃにしかけたチラシの束を広げ、そこにまだ残っていた厚紙の切れ端を寄せ集めた。蓮も地面にしゃがみ、既に落ちてしまった2枚ほどを拾い上げた。
 真っ白なままのものもあり、また、文字の一部と思われるものが書かれたものもあり……その全てを、チラシの上に並べてみて、確信した。
 それは、郵便受けに掲げられていた筈の咲夜のネームプレートを、細かくちぎったものの、残骸だった。
 「悪戯にしても、悪質だな…」
 「誰がやったんだろ、こんなの」
 「…覚え、ありますか」
 蓮の問いに、咲夜は首を振った。さすがに気味が悪いのだろう。その顔にはうっすら不安の色が浮かんでいた。
 「…オーナーとか、海原さんとかに相談した方が…」
 蓮がそう提案すると、咲夜は顔を上げ、困ったように笑った。
 「やだな、そこまでしなくていいでしょ、この位なら」
 「でも、女性の部屋となると、ストーカーとかそういう可能性もあるし」
 「そういう気配感じたこと、いままで1回もないし。それに、近所の子供が悪戯でやった可能性もあるしさ」
 確かに、単身者が多めとはいえ、近所には小学生以下の子供も結構いて、お盆休み中でもその姿を時々見かける。留守宅が多いのをいいことに、悪戯をして回っている可能性はあるだろう。しかし……。
 「まあ、厚紙1枚なら大した損害じゃないし。暫く様子見て、また何かあるようなら、マリリンさん辺りに相談してみるから」
 ね? と蓮を安心させるように笑う咲夜に、蓮も強くは主張できず、頷いた。

 蓮の郵便受けの方は、特に異常は見られなかった。念のため、優也のところも覗いてみたが、特に何もなさそうだ。
 たまたま、咲夜の郵便受けが外側にあるから、目をつけられたのか。それとも……咲夜を狙ってのことなのか。
 ―――もう何も起こらないといいけど…。
 チラシ類を取り出しながら、蓮は、ちょっと不安げに眉を寄せた。


***


 ―――ったくもー、迷惑な悪戯だなぁ。
 新しいネームプレートを郵便受けに取り付け終え、咲夜は、両手を腰に当てて、ふぅ、と息をついた。
 蓮は随分心配そうにしていたが、咲夜はさほど深刻には受け止めていなかった。ストーカーの覚えはないし、恨みを買った記憶もない。第一、怨恨からやったにしては、また随分と可愛らしいレベルの嫌がらせだ。この程度なら、怖がるほどでもない。
 やっぱり悪ガキの悪戯かな―――そう結論づけ、部屋に戻ろうとした時。
 「あれ、咲夜じゃん」
 「…あ、おかえり」
 仕事帰りの、奏だった。笑顔になった咲夜は、ちょっと背伸びをすると、微かにするアルコールの香りを確認した。
 「よし。飲みすぎてないな」
 「…当たり前だろ。お前に今朝さんざん釘刺されて、これで飲みすぎで帰ったら何言われるか…」
 飲み会がある、と事前に聞いて、「疲れてるんだから、いつも以上に節制しなさい」ときつく言っておいたのだ。どうやら、約束は守ったらしい。よしよし、と咲夜は大仰に頷いた。
 「いい店だった? 今日の飲み会の店」
 「まあまあ。それより、テンが絡んでくるから、大変だったぜ、ほんとに…。あいつ、彼氏できても性格変わんねーなー」
 郵便受けを開けながら、奏が疲れたように愚痴る。
 ふーん、と聞き流していた咲夜だが―――その最後の部分に、目を大きく見開いた。
 「え……っ!? 彼氏!?」
 「そ。オレも今日初めて聞いた」
 信じらんないだろ、とでも言いたげに、奏が肩を竦める。確かに、咲夜にとっても、かなり驚きのニュースだ。
 「ええええー、何それっ。相手って誰? 一体いつから付き合ってんの??」
 「それがさぁ―――…」

 バン、と郵便受けを閉めた奏と一緒に、咲夜は2階の部屋へと戻り始めた。
 本当は、ネームプレートの件を、奏にだけは言っておこうと思っていたのだが―――思わぬニュースに気をとられてしまった咲夜は、結局、その話をするのを、完全に忘れてしまった。


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