←BACKHome. TOPNEXT→




― Shade of rose(後) ―

 

 イギリスを発つ日。
 空港まで送るよ、と、平日でも比較的時間の取れる時田が車を出してくれた時、奏はその申し出に、特に疑問を感じなかった。
 けれど―――後になって、思った。あの日、突然送ると言い出したのは、本当は「あの話」をするためだったのかもしれない、と。


 「年内に、“VITT”からオファーがあるかもしれないよ」
 「……」
 突然の時田の言葉に、奏は、思わず目を見開いた。
 運転席に座る、涼しい表情の横顔を、じっと凝視する。そこからは、どんな心境で今のセリフを口にしたのかは読み取れなかった。
 「…まさか、受ける気なのかよ、郁」
 そんなことは時田の自由だ、と重々承知していても、そう確かめずにはいられない。なのに時田は、そんな奏の質問に、苦笑を返した。
 「ハハ…、誰も“僕に”なんて言ってないよ」
 「え?」
 「君にだよ」
 時田の目が、一瞬だけ、フロントガラスを外れて、奏の方に向けられる。
 「奏君を、モデルに起用したい、って話が出てるんだ。まだ極秘だけどね」
 「―――…」
 始め、ポカンとした表情だった奏の顔が、やがて、険しいものへと変わった。
 「なんだよ、それ…」
 「言ったまんまだよ。ある企画が持ち上がっていて、そのモデル候補として、君の名前が挙がっている―――それだけのことだ」
 「“極秘”なんだろ。なんでそれを、郁が知ってるんだよ?」
 「…それを、今更訊くかい? 僕に」
 「……」
 今更―――訊くまでもない。“極秘”情報の出所など、奏にだって見当はついている。不愉快そうに眉を顰めた奏は、ぷい、と顔を窓の方へと背けた。
 「勘違いしないで欲しいんだけど、僕は、つい最近までまた“VITT”の仕事をさせてもらっていた関係から、その企画に関する事前情報を、多少耳に入れていただけだよ。日本に関係する仕事だったんで、引き続きやってみる気はあるか、と打診されたけど、断った。元々、ファッション関係は僕のフィールドじゃないしね。その時に、モデルに関する情報も聞いたんだよ」
 「…どうせ、シャレたレストランでワインでも傾けながら、だろ。それじゃなきゃ、ベッドで寝物語にでも聞いたとか?」
 思わず、皮肉めいた口調で吐き出す。言っていて自分でも胸糞が悪くなるなら黙っていればいいのだろうが、皮肉の一つも言わないことには、この不愉快さが治まりそうになかった。
 「いい線いってるけど、“VITT”本社の社長室のソファで紅茶を飲みながら、が正解だよ」
 「…あっそ」
 「で、だ。僕は、奏君の叔父で、奏君が日本で所属している事務所の連絡先も知っている。そのことを“VITT”も予測済みらしく、僕に“一宮 奏の所属事務所の連絡先を教えて欲しい”と頼んできたんだが―――教えてもいいかな」
 「いい訳ないだろ」
 「でも奏君、機会があればまたショーに出てくれ、と言われて、OKしたそうじゃないか」
 「はぁ?」
 いつそんなこと言ったよ、と訝しげに時田を流し見た奏は、問題の人物との最後の電話を思い出した。

 『じゃあ―――また。いい仕事ができて楽しかったわ。機会があれば、またうちのショーに出て頂戴』

 電話の締めくくりにそう言われ、確か奏は、「ああ」とか「またな」とか、そんな返事をしたと思う。
 「…っ、そんなの、電話切る時の社交辞令の挨拶だろっ! 本音は“二度と出るもんか”に決まってることは、郁が一番よく知ってるじゃないか!」
 「―――どんな仕事でも?」
 ちょうどそこで、赤信号に引っかかった。
 車を止めた時田は、この話が始まって初めて、きちんと奏の方を向き、奏の目を静かな目でしっかりと見据えた。
 「君にとってプラスとなる、本当にやりがいのある仕事であったとしても―――それが“VITT”の依頼である限り、絶対にノーと言い続けられるかい?」
 「……」
 「話も聞かずに拒否したせいで、君は、モデルとして大きな満足を得られるチャンスを失うかもしれない。…拒否する理由の中に、僕自身が多少なりとも含まれるだろう、と予想できる僕が、せめて話だけは聞いてみて欲しい、と願うのは、傲慢かな」
 「…郁は、引き受けた方が、オレのプラスになると思ってんの?」
 「それは、僕には判断できないよ。僕は奏君ではないし、モデルでもない。判断できないからこそ、君自身の耳で聞き、君自身が判断できる機会を、僕の勝手な判断で握りつぶすことはしたくないんだ」
 「……」
 ここまで理論的に言われて、それでも拒み通せるほど、奏も子供ではなかった。大きなため息をひとつつくと、
 「―――…わかった。教えていいよ」
 と答えた。
 時田の表情が少しホッとしたようなものになった直後、信号が青に変わった。サイドブレーキを下ろしつつ「ありがとう」と言う時田を、奏は、複雑な心境で見つめた。


 ありがとう……、か。
 オレの意志や仕事を尊重してくれるあんたが、あの女の代わりに、オレに礼を言う。…これって、あんたたちの中では、まるで矛盾してない、当たり前のことなんだろうか。

 …なあ、郁。
 あんたたちにとってのオレって―――何?


***


 「フィナーレを飾るには最適な依頼が来たわよ」
 時田たちと会った翌日の夜、奏を事務所に呼びつけた佐倉は、数枚のFAXと手帳を手に、ニッ、と笑った。
 勿論、どこからの依頼かは、既にわかっている。憂鬱と緊張がないまぜになった気分で、奏はミーティングデスクを挟んで佐倉の真正面に座った。
 「…どこから?」
 「“VITT”。一宮君自身、イギリス時代に1年間専属務めたんでしょ?」
 「あー…、うん、まあ」
 曖昧な口調で返事をしつつ、ポケットを探る。最近、若干本数を減らし気味の煙草を引っ張り出し、1本口にくわえた。
 「で、どんな内容?」
 「んー、端的に言うなら、“VITT”が来年、日本の大手百貨店に初めて出店するんで、それに合わせたショーと、イメージスチール撮影ね」
 そう言って、佐倉は手元のFAXをバサバサとめくった。
 「ええと―――撮影が先ね。1月28日の水曜日。ショーの方は、もうちょっと先で、3月9日火曜日。百貨店に入る“VITT”のオープンが、ゴールデンウィーク見据えて4月23日だから、ちょうどその頃に出るファッション雑誌にショーの模様をギリギリ滑り込ませる作戦ね、きっと」
 「日本じゃ、かなりのブランド通でないと知らないからな、“VITT”は」
 くわえ煙草で手帳にメモしつつ、呟く。
 “VITT”は、アメリカで誕生し、途中で本拠地をイギリスに移し、現在はヨーロッパを中心に5カ国に店舗を構えるファッションブランドだ。その歴史は20年ほどで、並み居る老舗高級ブランドに比べてまだまだ若造―――本拠地イギリスやアメリカ、出店している国では中堅の地位を確立しているが、まだ店舗のない国では、知名度はまだまだ。日本人の感覚で言えば、“VITT”の服を一番よく目にするのは、洋画の中か海外スターの写真や映像の中……あとは、ニューヨーク・コレクションやロンドン・コレクションの現地レポートの記事くらいだろう。パリ・コレばかりが注目を浴びるご時世なので、業界の人間か、相当なブランド通以外は、名前すら知らない可能性の方が高いくらいだ。
 「ショーに出るモデルは現在選定中…本国からゾロゾロ引き連れて行くんじゃ割に合わないから、全員日本で調達予定みたい。イメージスチールに関しては、メンズは一宮君、レディースはベテランの京香さんを起用予定で、撮影は男女別々―――テレビメディアについては何も言ってなかったから、多分、日本国内での知名度の高い京香さんを使うんでしょうね」
 「“VITT”は元々、レディースから始めたし、日本でもまずはレディースの方に力入れるんじゃない?」
 「そうね。本国じゃ、今はむしろ、メンズスーツの方が評価されてるらしいけど。…でね。キミにとっての、一番の朗報。メンズのカメラマン―――成田ですって」
 「……」
 …いや、確かに朗報なのだが。でも、既に知っているネタでは、リアクションに困る。
 「あら、嬉しくないの?」
 奏が微妙な表情のままでいるのを不審に思い、佐倉が眉をひそめる。慌てて首を振った奏は、ぎこちない笑みを佐倉に返した。
 「い、いや、嬉しいに決まってるだろ? ちょっと、驚いただけだよ」
 「まあ、驚くのも無理ないわよねぇ…。海外ブランドが、国内でさえ有名とは言い難い成田に依頼する、って、かなりレアだものね」
 「ああ。でも…よく考えてみると、“Clump Clan”の時、海外ブランドは成田も体験済みなんだよな」
 奏が日本に来るきっかけとなった、ファッションブランド“Clump Clan”の仕事―――あの時は、奏の推薦で瑞樹がカメラマンに決まったようなものだが、何にせよ、経験は経験だ。瑞樹本人は「たった1回の実績が勝手に一人歩きするのは困る」と言っているが、あの仕事をきっかけに、瑞樹への広告撮影の依頼が増えたのは、やはり事実らしい。
 「で、佐倉さんは、成田が撮る仕事だから、フィナーレには最適だ、ってさっき言った訳?」
 「それもあるし、ショーの方にも出させてもらえるなら、キミが一番好きだったステージの仕事が、本当の意味で最後の仕事になるし。それに、何より―――今回の“VITT”の出店内容が…というか、イメージスチールの内容が、興味深いのよ」
 「興味深い?」
 怪訝そうに訊き返す奏の目の前に、佐倉は、1枚のFAXをすっ、と置いた。
 「この部分、読んでみて」
 「……」
 口で言えばいいのに、と思いつつも、奏はFAXを手に取り、そこに並んだ文字を軽く読んでみた。
 日本出店に合わせ、既に日本国内に事務所がオープン済みらしく、送られてきた文書の大半は日本語で書かれている。一部、本社の文書そのままの英語の部分もあるが、佐倉が読めといった箇所は日本語だった。

 『―――…におけるニーズを発掘するため、フォーマルライン、ビジネスラインに加え、新ライン“VITT JEAN”を含めた複合型店舗をオープンいたします』

 「…“VITT JEAN”…」
 その名前を目にして、奏の表情が、僅かに変わった。
 「そう。ずーっとフォーマルやビジネスを貫いてきた“VITT”が、去年、初めて立ち上げたカジュアルラインの“VITT JEAN”を、日本にも持って来る訳よ。フォーマル、ビジネス、カジュアルの売れ筋商品をピックアップして、1つの店舗に全部並べちゃおう、っていう戦法。アジア第一号店だから、今度の新店舗をアジアのアンテナショップにして、“VITT”のどのラインが支持されるかを見よう、って魂胆でしょうね」
 「…“イメージスチールは、3つのライン全てについて撮影し、ターゲット層に合わせて使用する”…。雑誌によって、フォーマルバージョン載せたりカジュアルバージョン載せたりする、ってことか?」
 「まあ、メディア媒体もそうでしょうけど―――たとえば、広告ポスターを駅に貼る場合でも、高級志向なエリアやビジネス街ではフォーマルやビジネス、比較的若い社会人の集まるエリアではカジュアル、なんてことも考えてるんじゃない?」
 そう言うと、佐倉はニッ、と口の端を吊り上げ、まだFAXから目を離さずにいる奏を見つめた。
 「…どう? あたしが“フィナーレには最適”と言った意味、わかるでしょ。優美さのフォーマル、クールさのビジネス、快活さのカジュアル―――1つの仕事で、3つの顔を演じ分けられるのよ。これって、モデル人生の集大成じゃない?」
 「―――…」

 …確かに。
 これまで演じてきたいくつもの“自分”。その全てを、この仕事では活かすことができる。フォーマルでは出せない自分はカジュアルで、カジュアルでは出せない自分はビジネスで、ビジネスでは出せない自分はフォーマルで出せる。
 それに、何といっても、“VITT JEAN”―――元大手ジーンズメーカーのデザイナーと組んで立ち上げたという、良質なジーンズを基本とした、“VITT”初のカジュアルライン。

 『一度、見てみたい気がする。カジュアル路線の奏』
 『なんで。毎日見てるだろ?』
 『だからだよ。日頃の服装のまんまの奏が、モデルとしてカメラの前に立ったらどんな風に写るのか、興味があるってこと』

 いつだったか、2人で服を買いに行った時、咲夜が言っていたことが、脳裏に甦る。
 イギリスにいた頃は、一応、僅かではあるがカジュアル系の仕事もやったことがある。が、外見的な問題なのか、日本に来てからは、奏はまだ、カジュアル系の依頼を受けたことがなかった。

 ―――…やってみたい。
 想像しただけで、武者震いに似た震えが、全身に走る。やりたい……モデルとして最後の仕事だからこそ、やってみたい。この仕事。
 …けれど。
 一方で、どうしても納得させることのできない、もう一人の自分がいる。

 モデルとして最後の仕事が、あの“VITT”で、本当にいいのか―――…?

 「どう? キミが宣言した引退時期より後ではあるけど、これを上回る仕事が年内に入るとは、到底思えないわよ?」
 「……だよな」
 奏だって、そんなことは、十分わかっている。瑞樹も「お前が受けるなら引き受けてやる」と言ってくれているのだ。これは、引き受けるべきオファー…いや、断る奴がバカだ、と言ってしまって構わないかもしれない。
 でも―――それでも、どうしても。
 小さく息をついた奏は、煙草を灰皿の端っこでもみ消し、ようやく目を上げた。
 「1日、考えさせてもらってもいいかな」
 奏の言葉は、佐倉にとっては意外なものだったのだろう。佐倉の目が、少し驚いたように丸くなった。
 「どうして? 何か、引っかかる点でもあるの?」
 「…いや、そういう訳じゃ、ないんだけど」
 「この仕事を引き受けたからって、年明け以降の他のオファーを一宮君に持ってきたりはしないわよ?」
 なんだかんだと引退を先送りさせられることを警戒しているのでは、と思ったのか、そんな風に念を押す。苦笑した奏は、軽く首を振った。
 「そんなこと、思ってないって。…間違いなく、最後のモデルの仕事になる訳だから、即答じゃなくじっくり考えてから返事がしたいんだよ。来年以降の仕事となると、メイクの方の仕事との兼ね合いも出てくるしさ」
 「…まあ、確かにそうね」
 奏の説明には、佐倉も納得だったらしい。多少不服そうな色合いは残しながらも、手元の紙の束を、トントン、と整えた。
 「じゃあ、資料のコピー渡すから、週末かけて、じっくり考えてちょうだい」
 「…ん、わかった」
 「事務所社長としては当然だけど、佐倉みなみ個人としても、できるだけ前向きに考えて欲しいのよ。この仕事」
 そう言うと佐倉は、“社長”や“マネージャー”の顔を消し、プライベートな笑みを微かに浮かべた。
 「あたし自身、“Clump Clan”のステージでとても幸せな引退の花道を飾ったから―――その“Clump Clan”のステージを一緒に踏んだ一宮君にも、下手な妥協なんかせず、一番納得のいく仕事を、最後の仕事として選んで欲しいのよ」

***

 ―――…なあ、郁。
 あんたたちにとってのオレって、何?

 『僕にとっては、自慢の甥だよ』
 『…“あいつ”にとっては?』
 『―――じゃあ、キミにとっての“あいつ”は、一体“何”?』


 トン、と、誰の物ともわからないボールを、地面で弾ませる。
 両手でサッカーボールを弄びながら、ブランコに腰かけた奏は、そう言えば、以前咲夜と一緒にこの公園に来た時も、こんな感じでサッカーボールが落ちてたっけ、とぼんやり思った。もしかして、あの時落ちてたのと同じボールだろうか、とも思ったが、あれはまだ寒い時期の話―――半年以上経っている割に、ボールはまだ真新しい。よくボールの落ちてる公園だな、と意味もなく苦笑した。
 「…オレにとっての“あいつ”、か…」
 本当に、“何”なんだろう。
 キィ、キィ、と錆びかけたブランコが音をたてる。鎖に頭をもたせかけた奏は、その音に聞き入るように、目を閉じた。

 …本当は。
 本当に嫌なのは、もしこれが、また私情の絡んだオファーだったら、という懸念とか、最後の仕事が“VITT”になることへのこだわりとか、そんなことじゃないのかもしれない。
 “VITT”に関われば、また、会う羽目になる気がして。
 仕事にかこつけて、会いに来るのではないか―――なんだか、そんな予感がして、その予感が決断をためらわせているのかもしれない。
 でも、一方で、こうも思う。会いに来るんじゃないか、なんていう想像は、案外、単なる自意識過剰なのではないか―――と。もし、自意識過剰になっているのだとしたら、そういう自分が、もの凄く腹立たしい。会いたくねーよ、来るんじゃねーよ、なんて言っていて、実は相手は全然来る気がない、なんて、まるで……まるで、こっちが来ることを期待しているみたいで、最悪だ。

 受けるか、受けないか、受けるか、受けないか―――ブランコの音に合わせるようにして、暫し、右に左に考えが揺れる。冷静に自分の本心を分析しようとしたが、結局……10分後、自分には無理な作業だと、諦めた。
 キィ、といって、ブランコが止まる。
 手にしていたボールが、地面に落ち、闇の向こうに吸い込まれるように、コロコロと転がっていった。その行方を目で追った奏は、ボールの姿が完全に見えなくなると同時に、立ち上がった。

 

 「遅かったじゃん」
 呼び鈴に応えてドアを開けるなり、咲夜はそう言って、どこかホッとしたような笑みを見せた。
 「なかなか帰って来ないんで、佐倉さんと揉めてるんじゃないか、って心配してたよ」
 …確かに、心配されても仕方ない時間だ。ちょっと済まなそうに奏が「ごめん」と小声で呟くと、咲夜は苦笑を見せ、「いいよ」と部屋に招き入れてくれた。
 「夕飯て、何か食べたの?」
 「あー…、いや、全然」
 「この時間まで? かなりおなか空いてんじゃないの、それじゃあ。野菜炒めあるけど、食べる?」
 「いや」
 短く言うと、奏は、キッチンに向かおうとした咲夜の手を掴んだ。
 空腹な筈なのに、いまいち食欲が湧かない。多分、今抱えている迷いを吐き出してしまわないと、食欲なんて湧いてこないのだろう。
 「それより―――話、聞いて欲しいんだ」


***


 「いい話だと、私は思うけど…」
 “VITT”からのオファーについて一通り聞いた咲夜は、まずはそう答えた。
 咲夜が答えるのとほぼ同時に、砂時計の砂が下に落ちきった。ティーポットを手に取った奏は、ローテーブルの上のティーカップ2つに紅茶を注いだ。
 「うん―――オレも、いい話だと思う。佐倉さんも、モデル生活の最後を飾るには最適じゃないか、って言ってたし」
 「そっか」
 モデルの仕事について詳しい訳ではないが、日頃奏が口にしている仕事に対する考えをある程度理解しているつもりの咲夜には、今回のオファーに奏が魅力を感じない訳がない、と確信できた。モデルはただのマネキンじゃない、表現者だ―――そう考えている奏にとって、3つの自分を演じ分けなければならないこの仕事は、ある種、自分のモデル人生の集大成になるに違いない。
 「…なのに、そういう顔してる、ってことは…」
 カタン、とティーカップを咲夜の前に置く奏の表情は、どう見ても、今回のオファーを手放しで歓迎している顔ではない。
 「迷ってるんだ、やっぱり」
 「……」
 「奏にピッタリの内容で、カメラマンは成田さんで、上手くしたら本当の締めくくりが奏が一番好きなステージの上になるかもしれないのに―――それでも迷うほどの“何か”が、“VITT”にはある、ってことなんじゃない?」
 「…他人から見たら、馬鹿馬鹿しいことかもしれないけど、な」
 呟くようにそう言って、奏は、自分のティーカップに口をつけた。咲夜もそれに倣い、淹れたての紅茶を一口飲んだ。
 暫し、黙ったまま、2人して紅茶を飲む。
 ―――その“何か”が“何”なのか、話す気はないのかな…。
 話したそうにしていたら聞いてやってくれ、と蕾夏は言っていたけれど、さっき奏が聞いて欲しい言ったのが、奏と“VITT”の間にある“何か”のことなのか、それとも今話したオファーの件なのか、いまいち判断がつかない。こちらから訊くべきなんだろうか―――奏の様子を窺いつつ咲夜が迷っていると。

 「…オレの、本当の親の話、さ」
 おもむろに、奏が口火を切った。
 「母親の方は―――“サンドラ・ローズ”の話は、前にしただろ」
 「うん」
 “サンドラ・ローズ”―――奏と累の、本当の母親。2人を病院に置き去りにし、アメリカに渡ってモデルとしての名声を手に入れた女だ。奏が嫌悪する“Frosty Beauty”と似た、無機質な美を持った、伝説のモデルだったという。もっとも、活躍したのは僅かな期間で、彼女をアメリカに引っ張っていったカメラマンに捨てられると同時に、“サンドラ・ローズ”は、まるで存在しなかったみたいに世間から消えてしまったそうだが。
 「でも、父親の話は、イギリスに留学で来てた日本人、としか話してなかったよな」
 「? …うん…」
 そこで一瞬、躊躇するような表情を見せた奏だったが、意を決したように、一度きつく唇を引き結んだ。
 「―――郁、なんだ」
 「……」
 「オレと累の、本当の父親は……郁なんだよ」

 時田さん、が―――…。

 想像もしなかった真相に、唖然とする。
 が……その一方で、限りなく本能に近い部分が、深く納得した。何故一宮夫妻が双子を引き取ったのか、その経緯も、弟の子供であることを考えれば実に自然な話だし、それに―――昨日、初対面の筈の時田に会った時、なんだか初めて会う気がしなかったその理由も、奏と血の繋がった父親であることを考えれば、なんとなく理解できる。
 「…それ…、奏や累君は、最初から知ってたの?」
 咲夜が訊ねると、奏はティーカップを置き、首を振った。
 「…21か22の時、だったかな。クリスマスの夜に、偶然、父さんと郁が話してることを、家の廊下で立ち聞きして―――それで、初めて知った。けど、聞いたことは、誰にも黙ってたんだ。郁の方が名乗り出てこないってことは、両親も郁も、オレたちにはそれを知られたくないからなんだろうな、と思って」
 「…そっか…」
 「前に、咲夜にも話ただろ? オレがモデルになった動機のひとつは、郁の存在だった、って。なのに、オレが“Frosty Beauty”なんて呼ばれるようになって、郁レベルのカメラマンからもオファーが来るようになっても、郁はなんでか、オレを撮ろうとしてくれなかった。そういう仕事が来ても、断るんだよ。弟の累には、自分のエッセイの手伝いなんかをさせる癖に、なんで―――ずっと、納得いかなかった。郁の写真がずっと好きだったからこそ、悔しかったんだ」
 そこで言葉を切ると、奏は、はあっ、と大きなため息をつき、前髪をくしゃっと掻き上げた。
 「そんな時、郁が、本当の父親だ、ってわかって―――凄く納得したけど、それと同時に、なんで郁がオレを撮ろうとしないのか、その理由が“それ”にあるんじゃないか、って思ったんだ」
 「“それ”、って―――奏が時田さんの息子であることが、撮らない理由なんじゃないか、ってこと?」
 「そう。…もしかしてオレは、オレのまだ知らない、オレたちを捨てた女に似てるんじゃないか、って」
 「……」
 「子供の頃、ホイホイ写真撮ってくれたのは、まだガキで顔が出来上がってなかったからなのかもしれない―――大人になったオレたちは、オレの母親そっくりな顔で、その女に対する恨みつらみのせいで、郁は同じ顔したオレを撮りたくないんじゃないか、って……その頃はまだ、“サンドラ・ローズ”の顔どころか存在すらオレは知らなかったんだけど、郁が頑なにオレと仕事するのを拒否する理由なんて、それ位しか考えられない、って思ってたんだ」
 「…そうだったの?」
 咲夜の問いに、奏は、即答しなかった。視線をテーブルの上に落とし、軽く唇を噛んだ後、ぽつりと答えた。
 「―――そうだった、とも言えるけど、微妙に違ってた」
 「……?」
 「後になってから、わかったんだけどさ。…郁がオレを撮らなかったのは、オレが、オレたちの母親に似てたからじゃない―――“Frosty Beauty”が、“サンドラ・ローズ”に似てたからだよ」
 「……」
 「普段のオレじゃなく、“Frosty Beauty”を演じてる時の、オレ。オレたちの母親じゃなく、郁を裏切って、他の男のカメラの前に立った時の、“サンドラ・ローズ”―――“サンドラ・ローズ”は、芸名だからな。オレも彼女も、カメラの前と素顔は、まるで違う顔だったんだ」
 その言葉を聞いて、咲夜は、MP3プレーヤーの撮影現場で、奏が蕾夏に言った言葉を思い出した。

 『今のオレ、似てないよな? “サンドラ・ローズ”に』

 あの時、確か蕾夏は、こう答えていた―――大丈夫、サンドラ・ローズに似てたのは、“Frosty Beauty”であって、“一宮 奏”じゃないでしょ? と。
 まるで違う素顔を持っているのに、仕事のため……カメラマンたちから必要とされる自分になるため、奏は“Frosty Beauty”の仮面を被った。それと同様に、奏の母もまた、名声を手に入れるために、カメラマンの要求する自分を―――“サンドラ・ローズ”の仮面を被った。
 時田が嫌悪していたのは、かつて愛した、そして自分を裏切った女の、素顔ではない。自分たちを捨てた対価として、彼女が被った仮面―――“サンドラ・ローズ”の顔だ。それを彷彿させる“Frosty Beauty”を、時田は撮れなかった。…つまりは、そういうことだ。
 「…皮肉な話だね」
 奏は、何も知らなかったのに―――知らずに、ただ、市場に求められる自分を演じただけなのに。敬愛する人の憎悪の対象そっくりな顔を演じなくてはいけなくなっていた奏が気の毒で、咲夜は沈痛な面持ちになった。
 咲夜の言葉を受け、奏も、どことなく皮肉めいた笑みを、一瞬、口元に浮かべた。が、すぐにそれを消し、一旦話を区切るように、ティーカップを口に運んだ。
 紅茶を一口飲んで、カップを置いた奏は、それまでずっとテーブルの中央に落としていた視線をようやく上げ、咲夜の目を見た。
 「オレがそういう話を知るきっかけになったのが、“VITT”の仕事なんだ」
 「…えっ」
 思わぬ形で、メインの疑問に繋がった。驚きに少し目を丸くする咲夜を、奏は覚悟の決まった目で見据え、続けた。
 「4年前―――“VITT”から、1年間専属契約をしないか、っていうオファーが来た時、オレが所属してたモデル事務所は大喜びだった。“VITT”はその年、国内の有名な女優や俳優が何人か愛用してたこともあって、注目されているブランドだったんだ。当然、オレも、二つ返事で引き受けた。引き受けてから、12月と5月の2回行われるポスター撮影を、郁が担当する、って話を知ったんだ」
 「…それが、昨日言ってた、あの仕事なんだ」
 「そう。…聞いた時から、嫌な予感はしてた。案の定―――郁は突然、日本からアシスタントを連れてきて、“VITT”側には内緒でそいつに撮らせる、って言ったんだ。…それが、成田。オレは、成田が構えるカメラの前で、“VITT”側が要求するとおりの“Frosty Beauty”を、完璧に演じたんだ。成田の奴、怒ってたよなぁ…。これならオレそっくりなマネキン作って、それに服着せて撮るのと全然変わらないじゃねーか、って」
 当時を思い出してか、奏はふっ、と苦笑を浮かべ、頬杖をついた。
 「成田は、人形なんか撮っても意味はない、たとえそういうオファーが来ても、人間を撮ることで、その無意味さをわからせてやる、っていうポリシーの持ち主だったからな。1回目のオレの撮影には、いろんな意味で納得できなかったらしい。5月にある2回目の撮影は、絶対やりたくない、って郁に言ったんだ。…まあ、そう言った背景には、“VITT”や世間を騙す行為が嫌だ、っていう気持ちとか―――蕾夏に対するオレの気持ち、って問題も、あったんだろうけど」
 「……」
 さすがに、ちょっと、胸が痛む。
 奏が拓海に対して複雑な感情を抱いているように、咲夜にとっての蕾夏も、100パーセント穏やかな目で見られる人物ではない。奏がズタズタになるほど愛した女性だ。それが過去の話で、今は咲夜を一番に想ってくれていると信じてもなお、やはり蕾夏の話になると、心の片隅が不必要にざわついてしまう。
 「成田にそう言われても、郁は、自分が撮る、とは言わなかった。オレが詰め寄っても、イエスとは言ってくれない。今回の仕事だけは絶対に撮る訳にはいかない、って、理由も言わずに、一歩も譲らなかった。そんな郁の態度に、オレも、精神的にだんだんおかしくなってきて―――…」
 そこで言葉を切り、奏は、暗く陰った目を僅かに歪め、視線をまた落とした。
 「―――…その結果、蕾夏に、乱暴働く羽目になった」
 「……っ…、」
 「…完全に、八つ当たりだよな。郁とのことは、蕾夏には関係ないのに」

 ―――…そ…っか…。
 奏が蕾夏を傷つけた話を聞いた時から、実は、心の片隅に引っかかっていたのだ。いくら奏が直情的な人間だと言っても、ただ蕾夏への思慕の念だけでそこまでの行動を取るなんて、少々信じがたいことだ、と。
 でも、今の話で、わかった。
 時田に対する想いと、蕾夏に対する想い―――2つの満たされない想いで、今にもパンクしそうになっていた奏は、時田の頑なな拒絶で、とうとう破裂してしまった。そして、爆ぜて行き場がなくなってしまった2つ分の憤りが、蕾夏に向けられてしまったのだ。

 「…あんなことしたオレは…」
 「いいよ、その話は」
 奏が、またあの自己嫌悪に陥っていくのを感じて、咲夜は即座にそう遮った。僅かに目を上げた奏に、咲夜は、なだめるような笑みを返した。
 「前に、聞いたじゃん。成田さんや蕾夏さんの話は。…それで? そんなことがあったのに、結局、2回目の撮影も成田さんがやったんだよね。時田さんが最後までイエスって言わなかったから?」
 話の先を咲夜がそう促すと、奏は、少しほっとしたような表情をして、再びきちんと顔を上げた。
 「…いや。オレのわがままで、成田に協力してもらったようなもんなんだ」
 「奏の?」
 「実は、成田のやつ、古い雑誌で偶然“サンドラ・ローズ”の写真を見つけて、もしかしてこいつがオレの実の母親なんじゃないか、って目をつけてたんだ。オレより先に」
 …それは、凄い。奏自身ならまだしも、第三者が写真1枚でその推論をするとは、大したものだ。咲夜は思わず口笛を吹いた。
 「名探偵じゃん、あの人」
 「…っていうか、成田だから気づけたんだと思う。正直、普通に見たら、大して似てる顔じゃなかったんだ。ただ1点―――目だけが、寒気がするほど同じだった。オレと、じゃなく、“Frosty Beauty”と」
 なるほど。確かに、ファインダー越しに無機質な物体と化した奏の目を見た瑞樹だからこそ、気づけたのかもしれない。普段の奏は、常に感情に忠実な目をしている。こういう奏しか知らなかったら、真相に気づかないままだっただろう。
 「成田からその写真をもらったオレは、累と一緒に、郁を問い詰めに行ったんだ。…もう逃げようがないって悟ったのか、郁は洗いざらい、全部話してくれた。お針子しながらモデルとして有名になることを夢見てた女が、有名なカメラマンに口説かれて、オレたちを捨てて一流モデルの道を選んだ、その経緯を全部」
 そこまで言うと、奏は、はぁ、と小さくため息をついた。
 「“サンドラ・ローズ”は、たった2年で表舞台から姿を消して、その後は行方知れず―――と世間では思われてるけど、実は違ってた」
 「え?」
 「顔の一部を整形して、“サンドラ・ローズ”とはまるで違うキャラを作って、またモデルとして復帰してたんだ。本名の方で。まあ、そこそこ売れたみたいだけど、大して活動しないうちに、さっさと引退。で……“サンドラ・ローズ”として稼ぎまくった金と、元お針子である腕を生かして、自分のファッションブランドを立ち上げた」
 ―――まさか。
 その先が、見えた気がした。その予感に肩を強張らせる咲夜に、奏は、淡々とした口調で告げた。
 「“サンドラ・ローズ”の本名は、サラ・ヴィット―――あの“VITT”の社長だってさ」
 「……」
 サラ・ヴィット。
 “VITT”の社長が、奏の実の母親―――…。
 「オレを“VITT”の専属に抜擢したのも、サラ・ヴィット。ポスター撮影を郁に依頼したのも、サラ・ヴィット。全部、あの女の仕組んだゲームだったんだ」
 「…ゲーム?」
 「サラは、“サンドラ・ローズ”を、郁に認めさせたかったんだよ」
 奏の目が、微かに殺気を帯びる。初めて見るくらいの冷たい目に、咲夜の背筋に、ゾクリとしたものが走った。
 「郁が、一切聞く耳持たない態度で、サラを突っぱね続けてたからかもしれない。女としてだけじゃなく、モデルとしても、やり直すことも、もう一度カメラを向けることもしてくれない郁に、サラは意固地になってたんだと思う。自分を撮ってくれないのなら、せめて―――せめて、郁が絶対認めようとしない“サンドラ・ローズ”とよく似た、しかも自分の血を引いてるモデルを、郁に撮影させようとしたんだ。“VITT”の仕事は、サラ・ヴィットのそういう私情が絡みまくった、サラが仕組んだ茶番劇だったんだよ」
 「……」
 「オレは、ゲームの駒にされるのは、絶対嫌だった」
 唇を噛んだ奏は、コツン、とテーブルを拳で軽く殴った。
 「で、成田に頼んで、サラが火ぃ噴いて怒りそうな写真を撮ってもらったんだ。笑ってるオレ、泣いてるオレ―――“Frosty Beauty”の仮面を取った、生身の“一宮 奏”の写真を」

 それが、奏が“Frosty Beauty”を捨てた、きっかけ。
 人間を撮ることで、人形を撮ることの馬鹿馬鹿しさを証明する、と言った瑞樹と、天賦の感情表現の才能を持つ奏のことだ。きっと証明したのだろう。“Frosty Beauty”の無価値さと、本当の一宮 奏の価値を。
 そうして、サラ・ヴィットは、ゲームに負けた。“Frosty Beauty”の何百倍も輝いている人間・一宮 奏の写真を目の当たりにして、自ら認めるしかなくなった。
 “サンドラ・ローズ”なんて、何の価値もないモデル―――奏を、累を、そして時田を捨ててまで手に入れたものは、ただ綺麗なだけの人形にすぎなかったのだ、と。

 「…そっか…」
 肩の力を抜きながら、大きく息を吐き出す。
 「奏は、今回のオファーも、またサラ・ヴィットの私情が絡みまくったゲームかもしれない、って思ってるんだ…」
 やっと、全容が見えた気がした。髪を掻き上げつつ、咲夜がそう確認をすると、奏は複雑な表情になり、曖昧に頷いた。
 「郁の話を100パーセント信じるなら、サラは飽くまで、今回の仕事のイメージにオレがピッタリだったから選んだだけで、そこに私情は一切混じってない、て話なんだよな」
 「…100パーセント、信じてない訳」
 「…信じられるかよ。私情ありまくりなゲームに、何も知らないオレを巻き込んだ女なのに」
 ―――ごもっとも。
 咲夜だって、サラが全くの白紙の気持ちで奏を選んだとは、ちょっと信じられないでいる。よほど非情な女なら別だが、サラはむしろ、時田や息子たちに強い執着心を持っているように思う。完全に私情オンリーで選んだ訳ではないだろうが、そこに数パーセントの私情が混じっているのは、むしろ自然なことかもしれない。
 「別に何を企んでる訳でもなくても…さ。やっぱり、“VITT”って聞くと、本能が拒否する、っていうか―――上手く説明できないけど、なんか嫌なんだよ」
 自分の中にある拒絶感を上手く表せないことに苛立ったみたいに、奏はぐしゃっ、と髪を掻き混ぜ、背後のベッドの縁に背中を預けた。
 「二度と会いたくないし、二度と係わり合いになるもんか、って思ってたんだ。そういう女の絡んだ仕事が、オレの最後の仕事にして、本当にいいのか? っていう迷いが、どうしてもある。サラの会社である以上、気持ちの中にどうしても引っかかりはあるし、そういう気持ちで臨む仕事が、オレのモデルとしての締めくくり、っていうのもさ」
 「…うん…、なんとなく、意味は、わかる」
 「オレって、仕事に関しては、潔癖症なのかもしれないなぁ…」

 ―――日常生活は、どう見ても、潔癖症とは思えないけど。
 ぐったりと背中をベッドの縁にもたれかけさせ、ぐしゃぐしゃと頭を掻き毟る奏を眺めつつ、心の中でだけ呟く。
 でも……確かに、仕事に関しては、潔癖症な部分があるのかもしれない。リカのことにしても、リカが隠していた本心を知るや、二度と一緒に仕事はしない、と宣言してしまったというし―――仕事だけは、一切の私情を交えず、実力でのみ選ばれ、いいものを作り上げるためだけに力を合わせたい、と強く思うタイプなのだろう。咲夜もその傾向があるので、奏の気持ちは、なんとなくわかる。
 ティーカップを手に取り、咲夜は暫し、奏の様子をじっと見つめた。奏の本心を―――奏の迷いが、今どちらに傾いているのかを、見極めるために。
 でも、それは、さして難しいことではなかった。
 さっき、奏が見せた、あのゾクリとするほどの、冷たい目。あの目を見た時から、奏の迷いの均衡は、咲夜には大体想像ができた。

 一度、自分をゲームの駒として利用した女の……実の母の絡んだ仕事。
 あんな殺意に近い目をして拒絶している存在が関わっているというのに―――それでも、迷っている。受けるべきか、蹴るべきかを。
 個人・一宮 奏としてより、1人のモデルとして、奏は、このオファーに惹かれている。どうしようもないほどに。

 「…ねえ、奏」
 冷たくなってきた紅茶を二口ほど飲み、ティーカップを置いた咲夜は、唐突に口を開いた。
 「1つ、質問」
 「…え?」
 突然の言葉に、奏はキョトンと目を丸くし、髪を掻き混ぜていた手を止めた。
 「奏のことを、自分の息子だから、っていう理由で選ぶことが“私情”だとしたら、さ。逆のことも言えない?」
 「逆?」
 「―――…依頼主が“VITT”だから……実の母の会社だから、っていう理由で“断る”のも、それに負けないくらい、仕事に“私情”を持ち込んでることにならない?」
 「……」
 奏の表情が、変わった。
 咲夜の言う意味を瞬時に察し、奏の瞳が、動揺したように揺れる。それを見て、咲夜はニッ、と笑ってみせた。
 「私もエラソーなこと言えないけどさ。もし、うちの親父様が、誕生日に私が一番得意な歌を一成のピアノで歌ってくれ、って大枚差し出してきたら、いくらムカつく男でも、そのオファーは受けるべきなんだろうと思う。本当にそうできる自信は、あんまりないけど」
 「……」
 「プロなら、さ。客が自分にとってどういう人間でも、依頼内容が納得のいかないものなら蹴るべきだし、依頼内容に魅力を感じるなら、私情の方の折り合いつけてでも、受けるべきなんじゃない?」
 「…でも…」
 背中を起こした奏は、一度目を逸らし、唾を飲み込んだ。それから、再び咲夜の目を真っ直ぐに見据え、迷いの続きを口にした。
 「でも、もし“VITT”にまた関わったら―――会うことになるかもしれないんだぜ? サラに」
 「……」
 「特に、ショーの方はさ。絶対あの女なら、イギリスから飛んできて、デザイナーとして舞台に上がる。これまでの“VITT”のショーでは、必ずそうしてたんだ。アジアに進出できるかどうかの鍵になるようなステージを、代役に任せる訳ない。絶対に」
 「…じゃあ、会えばいいじゃん」
 あっさり咲夜が答えると、奏はムッとしたように眉を顰めた。
 「簡単に言うなよ」
 「だって、奏、ステージが一番好きなんでしょ? 撮影だけ受けてステージはパス、なんて、奏らしくないよ。奏のモデル人生の最後がステージだなんて、最高じゃん」
 「その代わり、二度と係わり合いになるもんか、って思ってた女と、舞台の上で笑顔で挨拶すんのか? 想像するだけで、寒気してくるのに」
 「舞台の上にいるのは、奏の産みの親じゃなくて、“VITT”の社長でしょ」
 ぐ、と奏が言葉に詰まる。
 …まさに、咲夜の言うとおり。ステージは、プロの世界だ。モデルの手を取り、笑顔で観客の歓声に応えるのは、“VITT”の社長でありデザイナーである女性―――そのプライベートが誰の何に当たろうが、そんなことは関係ない。ステージの上での彼女と奏の関係は、母と子ではない。デザイナーとモデルだ。
 くすっと笑った咲夜は、膝歩きで奏の傍に歩み寄り、ちょっと憮然とした表情で口を尖らせている奏の頭を、くしゃっ、と撫でた。
 「―――…見せてよ、奏」
 「……」
 「3つの顔を、奏がどう演じ分けるかも見たいし、最後のステージを奏がどんな風に歩くかも、この目でちゃんと見たい。…私に見せてよ。モデル・一宮 奏の集大成とやらを」
 「…咲夜…」
 「もしかしたら、そのために、プライベートの一宮 奏が、辛かったり苦しかったりすることも、起きるかもしれないけど…」
 そう言うと、咲夜は首を伸ばし、奏の唇に、軽く自分の唇を触れさせた。そして、離した唇がまだ相手の唇を掠めてしまうほどの距離で、悪戯っぽく笑ってみせた。
 「その時はまた、いつもみたいに、ビール飲みながら散々愚痴ればいいじゃん。私と一緒にさ」
 「―――…」

 次の瞬間、いきなり頭を引き寄せられ、少々強引に唇を奪われた。
 あまりに急だったので、危うくバランスを崩しそうになる。一瞬慌てた咲夜だったが、咲夜がひっくり返るより早く、奏は咲夜を抱きとめ、ほとんど力任せと言わんばかりの力で、咲夜を抱きしめた。
 ―――く、苦し…。
 熱烈に感謝されているのはわかるが、感情任せな奏のリアクションに、目の前がチカチカした。やがて、少し落ち着いたのか、奏の腕が僅かに緩み、肩口に埋められていた顔が起こされた。
 「…サンキュ」
 「……」
 「言われて、わかった。オレ、咲夜に背中押して欲しかったんだ、って」
 「ハハ…、」
 ぽんぽん、と咲夜が奏の腕を軽く叩くと、奏はもう少し腕を緩めた。その距離10センチほどの至近距離で小さく笑いあった2人は、改めて唇を重ねた。


 ―――…うん、そう。
 人間なんて、そんなに上等には、できていない。
 プロなんだから、なんて言っても、完全に私情抜きでなんていられない。モデルとして、歌い手として、スポットライトの中央に立っている瞬間も、その背後に、長く尾を引く“私”の影を引きずっている。

 その影が、どんなに、どんなに、暗くて重たい影でも―――それでも、どうしても立ちたい。
 そんなステージがあるなんて、素敵なことなんじゃない…?


 いつか自分にも、それほどまでに立ちたいと思えるステージが用意されてるだろうか。
 絶対に譲りたくないものを譲ってでも、この仕事がしたい―――そう思えるほどの仕事に、いつか自分も出会えるだろうか。

 咲夜は、まだ知らない境地。その境地を垣間見ているのであろう奏を、咲夜は少しだけ、羨ましく思った。奏の恋人としてではなく、奏と同じ、1人の“表現者”として。


←BACKHome. TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22