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最近、“Studio K.K.”の空気が、異様に平和ボケしている。
…極、一部だけ。
「ヤマちゃん、アイブロウお願い」
「はいっ」
助手として甲斐甲斐しく働く山之内と、そんな彼を満足げな顔で眺めるテンは、客から見れば普通でも、スタッフから見ると、ただのバカップルだ。
何故なら、客が帰った後に、「ヤマちゃんも上手くなったやん〜」「仮にも自分の彼女に負けてられないからね」なんて会話が、2人の間に飛び交うからだ。
「…どうせオレなんて、八つ当たりされるだけの存在だよ」
道具の散乱したワゴンを片付けつつ、そう言って、奏が皮肉っぽく片眉だけを上げる。その表情を隣で見ていた氷室は、苦笑しつつも頷いた。
「確かに、何だかんだで、奏はいつも損な役回りだよな」
「ま、いいけどさ。オレに思う存分罵詈雑言をぶつけまくったおかげで、山之内との仲が1歩前進したらしいから」
「袋小路に入ってた気持ちが、爆発したことで落ち着いたんだろうな。まあ、テンらしい、と言えばテンらしいけど」
「…いや、そもそも、オレに気があった、ってのも、ただの氷室さんの勘違いだったんじゃない?」
「…だったら、あの後暫く、山之内の視線が痛かった説明がつかないだろ」
「…痛かった、よな」
「グサグサ突き刺さってた」
「氷室さーん」
噂の主の声が割って入り、奏も氷室も、慌てて口を閉じた。
パタパタと走ってきたのは、テン1人だった。
「3時半からの天野様が、15分ほど遅れるそうですー」
「あ…ああ、そう。わかった」
直前までテンと山之内の噂話をしていたため、氷室の笑顔も、明らかに嘘っぽくなってしまう。ドングリ眼をキョトンと丸くしたテンは、奏と氷室の顔を不思議そうに交互に見比べた。
「なんか、あったん?」
「い、いや、別に…。山之内も成長したな、って話してたんだよ。な、氷室さん」
「ああ。あの調子だと、近々、テンも山之内に追い越されるな、って言ってたんだ」
2人が出まかせを言うと、テンは途端に上機嫌な顔になり、ニカッ、と笑った。
「そやろ〜。ウチの指導の賜物や。いっちゃんは勿論のこと、そのうち氷室さんも抜かれんで」
「…それは言い過ぎだろ…」
テン自身がまだ氷室を抜いていないのに―――だが、奏の呟きは、テンには届かなかった。
「ヤマちゃんは、講師目指してるから、生徒集めるためにも有名にならなアカンねん。ウチは当面、ここ以外の仕事はせぇへんつもりやけど、ヤマちゃんはどんどん外の仕事取ってもらわな」
「え…、テンは、外の仕事、やんないのかよ」
意外に思い、思わず奏が訊ねる。野心家でアグレッシブなテンのことだから、腕に自信がついたら、単独の仕事もどんどん取りに行くだろうと思っていたのだ。
「ウチ、素人さんの、普通のメイクがしたいねん。素人さん相手の外の仕事となると、限られとるやろ? まだ先のことはわからへんけど、もっとやりたいジャンル見つかるまでは、この店1本で頑張るわ」
「ふーん…」
「まあ、確かにテンには、日常的メイクの方が合ってるかもな」
氷室の言うとおり、奏も、テンは「素人向き」だと感じている。それは、テンのメイクがどう、ということより、むしろテンのキャラクターのせいだ。“Studio
K.K.”の常連でテンの固定客は、大抵、テンの腕以上に、テンの「喋り」を楽しみに来ている。世間話やメイク談義を楽しみながら、気分もメイクもリフレッシュ、ということらしい。
―――オレの場合、どうかなぁ…。
ふと、自分自身について、考えてみる。
瑞樹と仕事がしたい、という、メイクそのものとは外れた理由から、撮影現場を念頭に置いていたが―――自分は、どのジャンルが合っているのだろう? この店での仕事も好きだし、撮影現場での緊張感も好きだし、結構絞るのが難しい。ただ……納得いくまで手間隙かけられる、という点では、やはりプロメイクの方がやる気が起きるかもしれない。
ただ…ここ最近、また新たに外の仕事を取りに行こう、という気が失せているのは、やっぱり……リカのせい。
モデル本人やモデル事務所からお声がかかる形が多い職業なだけに、単純に腕だけを信頼されてオファーが来るとは限らないのだ、ということを、奏は、今回の一連のことから嫌というほど理解してしまった。いや、勿論、腕もなければ、いくら他の理由があってもオファーが来る筈もないことは、重々承知しているが―――承知していてもなお、純粋に「仕事にプラスになる」という理由以外の邪な考えがオファーに混じることには、どうしても抵抗感を覚えてしまう。
結構、いい加減な人生を送ってきたつもりだが、こと、仕事に関しては、案外潔癖症なところがあるのかもしれない―――女性デザイナーをたらしこんで仕事を掴んでくるモデル仲間を、よくやるな、と冷めた目で見ていた駆け出しの頃の自分を思い出し、奏は密かに苦笑した。
「あれっ」
一瞬、もの思いに耽っていた奏は、訝しげなテンの声で我に返った。
見ると、テンは、店の入口の方を見て、ちょっと険しい顔をしていた。
「どうした?」
「…男の人が、中の様子窺っててん。女性客狙っとる変質者やろか」
「はぁ? 変質者?」
いきなりそこに考えが行くのは、極端だろう。一体どんな奴が覗いてたんだ、と、氷室と奏は、入口の方を窺った。それとほぼ同時に、ガラス張りのドアから、僅かに男の顔が覗いた。
その顔を、確認した途端―――奏の目が、大きく見開かれた。
「―――…!!!!」
「ん? まさか、奏の知り合い?」
奏の表情の変化にいち早く気づき、氷室が首を傾げる。だが、今の奏に、それに答える精神的余裕はなかった。
「…っ、ちょ、ちょっと、ごめんっ!」
氷室とテンにそう告げると、奏は猛ダッシュで店の入口へと走っていった。幸い、今店内にいる客からは鏡で遮られて見えない状態だったので、不審がられることもないだろう。客の少ない時間帯で助かった。
ドアの向こうに立つ男は、駆け寄ってくる奏の姿を見つけ、「あ、いたいた」という笑顔になった。全く―――何無邪気にホッとしてるんだよ、と内心毒づきつつ、奏はガラス張りのドアを開けた。
「やあ、奏君」
「…何が“やあ”だよっ」
平和そうな笑顔に、小声で怒鳴る。後ろ手でドアを閉めた奏は、なんでいつもこの人はこんな風なんだろうか、と、深い深いため息をついた。
「―――…いつ、日本に来たの、
ため息の最後に、奏が訊ねると、彼―――時田郁夫は、平然と答えた。
「今朝早くだよ」
「…電話くらいしてこいよ。連絡もなく、しかも職場にいきなり現れたら、驚くだろ?」
「そんなこと言っても、着いたのが今朝じゃあ、どのみち奏君、仕事中だろ?」
「そーじゃなくてっ! ロンドン発つ前に連絡よこせってことだっつーのっ!」
そのくらい理解しろよ、と苛立った口調で奏が言うと、時田は、満面の笑みで答えた。
「まあまあ。突然の再会の方が、ドラマチックじゃないか」
「……」
―――叔父と甥の再会で、何がドラマチックだよ…。
相変わらず、時田という男は、何を考えているのやらさっぱりわからない。はぁ、とため息をついた奏は、もう連絡をよこさなかったことについて追及するのはやめることにした。
「しかし、アレだね、奏君がモデル辞めてメイクアップアーティスト目指すって聞いた時には、全然ピンと来なかったけど―――実際に店にいる姿を見ると、案外違和感ないもんだね」
「…オレが働いてるとこ見るために、日本まで来たのかよ」
「ハハ、まさか。実は、奏君に、ちょっと頼みたいことがあってね」
あっさり時田が口にした言葉に、奏の顔に、緊張の色が走った。
「―――何、頼みたいこと、って」
にわかに警戒心を露わにする奏に、時田は苦笑し、その背中をポン、と軽く叩いた。
「そう警戒することもないよ。頼みたいのは、今夜の飲み会のセッティングだから」
「飲み会?」
「成田君たちも誘って、夕飯を食いがてら、1杯飲もうと思ってね。どうせなら奏君も一緒がいいし、できれば―――奏君の彼女も、是非会ってみたいしね」
「え…っ」
意外な「頼みたいこと」に、ちょっと目を丸くする。
時田は、瑞樹にとっては師匠ともいうべき存在ではあるし、一時は蕾夏も時田のアシスタントという立場であったのだから、時田が来日した際に3人で飲みに行くのは、毎度のことだと思う。でも、その席にわざわざ自分が招かれたことは、これまで一度もない。来てるよ、と連絡があれば、適当に時間を作って、宿泊しているホテルのラウンジなどでお茶やお酒に付き合う、という程度で、毎回時田と2人きりだ。
なのに、今回に限って、瑞樹たちと一緒―――咲夜に会ってみたい、というのは本当だろうが、だったら奏と咲夜だけでもいい筈だ。なんだって、瑞樹や蕾夏と一緒である必要があるのだろう?
「…何、企んでるんだよ、郁」
絶対、裏がある。そう確信した奏の声が、若干低くなる。
だが、時田は少しも表情を変えず、もう一度奏に頼んだ。
「企みなんて、何もないよ。…どう? 成田君たちは僕が誘っておくから、奏君は彼女を誘ってもらえないかな」
「…それは、別に、いいけど…」
咲夜を時田に会わせることに異存はないし、咲夜は瑞樹や蕾夏とも顔見知りだ。とりあえず、その点についてはOKした奏は、ふと、今日が木曜日であることに気づいた。
―――あ、そうか。木曜日か。
その瞬間、今夜の予定は、あっさり決まった。
***
「ふーん、咲夜ちゃんて、こういうお店で歌ってるんだ」
もの珍しさからか、席に着いた蕾夏が、しきりにキョロキョロと周囲を見回す。隣に座る瑞樹に髪を軽く引っ張られて初めて、注文を取りに店員が来ていることに気づき、慌てて「あ、私は、ウーロン茶で」と自分の分をオーダーした。
「なんか、思ってたよりオシャレ。瑞樹って、大学の時、ジャズ同好会に強制入会させられてたんでしょ? こういうお店、来たことある?」
「…名前貸してただけなんだから、ある訳ねーだろ」
佐倉も会員だったという大学のジャズ同好会のことは、瑞樹にとっては、ただ迷惑な思い出にすぎないらしい。まあ、同好会としての条件を満たすための人数集めに名前だけ使われた、というのが実態らしいので、本人には「同好会に在籍していた」という自覚自体、ほとんどないのかもしれない。
「なかなかいい店だよなぁ。リバプールに、隠れ家的なライブハウスがあるけど、あそこに似てるな」
ご満悦そうにそう言う時田の前には、既に黒ビールが置かれている。一足早く来たので、オーダーも若干早かったのだ。時田の言葉に頷きつつも、蕾夏が、ちょっと不思議そうな顔をした。
「それにしても時田さん、急にいらっしゃったんですね。いつもは事前に一報入るのに」
「ああ、うん。まあね。雑用も溜まってきてたし、色々とヤボ用も発生したんで、思い立って来ちゃったんだよ」
「…いきなり来て、師匠命令だから絶対参加、だからな。撮影ない日で幸いだったけど」
「郁……」
瑞樹のぼやきに、奏が時田を睨む。首を竦めた時田は、大人しく黒ビールを口に運んだ。
「大体郁は、仕事じゃ全然アシスタントを置かない癖に、プライベートで人使いが荒すぎんだよ。成田を通販代わりに使うし、オレを配達業者の代わりにするし…」
「はいはいはいはい」
と、そこに、瑞樹と蕾夏が頼んだ飲み物が運ばれてきたので、奏も文句を言う口を一旦閉じた。それから、チラリと腕時計を確認して、飲み物を置いて去って行こうとする店員を呼び止めた。
「はい?」
「えーと、ライブ終わる時間に合わせて、きのこリゾット1つ、運んでもらえるかな」
カウンター席に2、3度足を運んだこともあり、奏の顔は、大体の店員に覚えられている。当然、咲夜とセットで。奏のオーダーの意味を察し、店員は心得たという顔をした。
「じゃあ、9時半頃で?」
「うん、そんなもん」
「先ほど頼まれた他のお食事も、一緒に合わせた方がよろしいでしょうか」
「あ、いや、オレらの分は、持ってきちゃっていいから」
「かしこまりました」
にっこりと笑うと、店員は伝票にオーダーを書きつけ、去って行った。ほっと息をつき、カクテルグラスを手に取った奏は、そこで、自分に注がれている3つの視線に気づいた。
「……」
今のオーダーの意味がわからず、怪訝そうにしている、3人の視線。その中で、やはり一番鋭い蕾夏が、いち早く意味に気づき、ポン、と手を打った。
「あ、そっか。咲夜ちゃんの分のオーダーなんだ」
「……っ、」
「へー、あったかい状態で食べられるように時間合わせてオーダーするなんて、優しいね、奏君て」
「ああ、なるほど、そういうことだったのか」
蕾夏の言葉に、時田も納得したように頷く。にんまりと、意味深な笑い方をする時田を見て、奏は、体温が1度ほど上がった気がした。
「な…っ、なんだよっ。別にいいだろっ」
「いやー、奏君、僕は嬉しいなぁ。いつもフラフラ遊び歩いてばっかりいたあの奏君が、彼女のためにリゾット注文するまでに成長してくれて」
「うるせーよっ」
時田には、最低な時期を間近で見られていただけに、余計気まずい。不貞腐れたように言い捨てた奏は、手元のカクテルを自棄気味に飲んだ。綺麗な青のグラデーションをしたカクテル―――このカクテルの由来なんぞを知られた日には、更にからかわれること確実だろう。
チラリと瑞樹の様子を窺うと、案の定、口には出さないものの、笑いを噛み殺しているせいで肩が微かに揺れている。
「…何か言いたげだな、成田」
「別に。でも、面白いもん見れたから、時田さんのわがままは許してやるよ」
「……」
―――勝手に言ってろっ。
ますます口を尖らす奏だったが―――それでも、瑞樹や蕾夏に対しては、時田に対しては感じない種類のくすぐったさを、ちょっと感じてしまう。おもしろがり、からかっているその裏で、内心では「よかったな」と言っているのを、感じるから。
今、こうして、蕾夏を眺めると、胸の内に湧いてくる思慕はそれほど前と変わってはいないのに……やはり、その「質」が違ってきた、ということなのだろうか。「好き」という感情にも色々あることは一応理解していたつもりだが、誰かに対する「好き」の種類が、こんな風に穏やかに移ろうものだなんて、想像していなかった。
…いや。こんなにも穏やかにその種類を変えることができた自分は、多分、とてもラッキーな人間なんだと思う。
照れ隠しに口に運んだグラスを奏が置くのとほぼ同時に、店内のBGMがフェードアウトした。
照明が次第に暗くなり、客のざわざわという声も、自然と収まっていく。特に説明はしていなかったが、ライブの時間に合わせて待ち合わせもしていたので、他の3人にも、これからライブが始まるとわかったようだ。3人とも、手にしていたグラスを置き、ステージの方に向き直った。
薄暗がりの中、スタンバイが完了し、ステージをライトが照らす。
「こんばんは。ようこそ“Jonny's Club”へ」
その中央に立った咲夜は、拍手の中、お馴染みの挨拶を笑顔で告げると、奏たちの席の方にちらっと目をやった。咲夜自身がリザーブした席なので、そこに4人がいることは了解済みだ。奏が軽く手を挙げると、咲夜は一瞬だけ顔をほろこばせ、また真正面に向き直った。
今日のナンバーは、咲夜の十八番の曲にも通ずる軽快さを持った名曲『On the sunny side of the street』から始まった。
一時期は、上手く歌えない、と悩んでいたこの歌も、今ではすっかり馴染んだらしく、咲夜曰く「前奏だけで、考えなくても自然と音と歌詞が口から出てくる感じ」のようだ。やっぱりこういう歌は、咲夜によく似合う―――心からジャズを楽しんでいるのが、声に、表情に、体全体に滲み出ている感じだ。
さすがに上手いね、などと拍手しながら言っていた奏以外の3人だったが、2曲目になると、その目つきが、がらっと変わった。
「What's new.....? How is the world, treating you......? You haven't changed a bit...... Handsome as ever, I must admit......」
これまた、咲夜の得意のスロー・ナンバー。『What's New』だ。
あっという間に、店内を覆う空気が、変わる。咲夜の独特の間合いに見事に合わせた、一成のピアノと、ヨッシーのベース。その微妙なリズムの揺らぎが、歌が醸し出す情感をより一層高めている。
それに、なんと言っても、咲夜の高音域―――初めて聴いた時ですら、思わず奏も身震いしてしまった、あの声。メロウで、どこまでもクリアで、迫力系ではない美声の類だというのに、空気をまっすぐに切り裂くほどのパワーを感じる。店内の空気が、咲夜の声で微かに振動しているような気がするほど。
「…す…っごいね、咲夜ちゃんて」
『What's New』の演奏が終わると同時に、蕾夏がそう言って、ほうっ、と息をついた。
「なんか、鳥肌たっちゃった。バックの2人との呼吸も、まるで3人で1人になってるみたいに、ピッタリだったし…」
「確かに、この程度の店に埋もれてる器じゃないな」
瑞樹も、少し興奮気味の蕾夏の言葉に賛同する。2人とも、前に撮影現場で咲夜の歌う『Amazing Grace』を聴いている筈だが、あの場で聴くのと、こうして改まった場所で聴くのとでは、また感じ方もかなり違っていたのだろう。
郁はどう感じたのかな、と時田の表情を窺うと、時田はまだ、ステージ上の咲夜から目を離していなかった。思いのほか真剣な表情で、腕組みをした姿勢でじっとステージを見ている。
―――…郁…?
時田の表情の意味がよくわからず、奏は思わず、眉をひそめた。
何故、そんなに真剣な顔をしているのか、訊ねようと思ったが―――3曲目が始まってしまい、奏はそのチャンスを逸した。そして3曲目の間もずっと、時田はステージ上の咲夜を、真剣な眼差しで見つめたままだった。
***
初めて会う、奏の叔父―――時田郁夫は、思いのほか、あたたかな印象の人物だった。
「…如月咲夜です」
柄にもなく、少しばかり緊張して、会釈する。そんな咲夜に、時田は笑顔で右手を差し出してきた。
「時田です。申し訳なかったね、急に押しかけてきて」
「いえ」
時田の笑みに、緊張が少しは解ける。にこりと笑った咲夜は、差し出された右手を握り返した。
「時田さんのスタン・フォーリーのジャケット撮影、何年か前のテレビで見ました」
「へぇ、そうなんだ。よく覚えてたなぁ」
―――…なんか、不思議。
握手を交わしたまま、ハハハ、と笑う時田を眺めながら、咲夜は、今感じているものをどう表現していいか、よくわからなかった。
時田は、奏の育ての母・千里の弟。つまり…叔父とはいえ、奏とは血縁関係にない。拓海と咲夜と同じ筈だ。実際、目の前にいる時田と奏の顔に共通項は、あまり見受けれない。
けれど、何故だろう―――テレビの時にはわからなかったが、今、こうして実際に会って話をしてみると、思いのほか、時田を身近に感じる。なんだか、初めて会った気がしない、というか、なんだか日頃から似た空気に触れている気がする、というか……。
―――やっぱ、奏の叔父さんだ、って思うからかな。
血が繋がっていなくても、奏の叔父だ、という前提が、咲夜の先入観の中にあるから、なのかもしれない。説明のつかない感覚に、咲夜はとりあえず、そう暫定の答えを出しておいた。
「…おい。いつまで握手してんだよ」
不機嫌な奏の声で、時田との握手は終わった。視界の端に、瑞樹と蕾夏が笑いを堪えているのが見えたが、あえて見なかったことにした。下手に反応すると、自分たちの首を絞める結果になりそうだ。
「しかし、ステージの上とは随分違うね」
奏の隣に座り、とりあえず水を一口飲む咲夜に、時田はそう言って黒ビールのグラスに手をかけ、どことなく不敵な笑みを浮かべた。
「まさか、奏君が見つけたのが、こういう子だとは思わなかった。いい被写体だよ」
「えっ」
被写体?
驚きに、目を丸くする。奏も意外だったらしく、同じように驚いた顔をしていた。
「も…もしかして郁、さっき、ステージの上の咲夜をやたら真剣に見てたのって、そのせいかよ」
「そうだよ。藤井さんとは正反対の意味での“いい被写体”だな―――藤井さんは天然素材というかスナップ向きというか…。この子はむしろ、本業のモデルよろしく、思い切り凝った構図で撮ってみたいな。素の顔に変なアクや嫌味がない上に、ステージ上とのギャップが激しい―――化けるタイプだよ」
「化ける……」
…のだろうか。果たして。
「久々だなぁ、撮る気の起きる人間の素材ってのも。1月にまたこっちに来るから、本気でスタジオ押さえるかな」
ぽかん、とする咲夜をよそに、時田はそんなことをぶつぶつ呟いた。それを聞いて、なんだか微妙な顔をしていた奏が、怪訝そうに眉をひそめた。
「え? また1月に来る、って?」
「ああ、それそれ。それを言うの忘れてた」
奏の指摘に、グラスを置いた時田は、奏と瑞樹、それに蕾夏の顔を順に見た。
「年末年始の休みを利用して、みんなで日本に来ることになったんだ」
「は?」
「みんな?」
って誰だよ、という顔を奏がすると、時田は、さも当たり前のように答えた。
「みんな、は、みんなだよ。カレンも含めて、一宮家ご一同4名様」
「はあぁ!?」
さすがに、奏の声も素っ頓狂になる。瑞樹や蕾夏も初耳だったようで、蕾夏は勿論のこと、ポーカーフェイスな瑞樹も目を丸くしていた。
「な…っ、なんで…」
「年始早々、淳也さんが日本に出張しなきゃいけない用事が出来たんで、それに便乗した、カレンの里帰り…ってところかな。なんだかんだで、日本に帰ってきてないだろ、カレンも。墓参りでもして、新しい家族を天国のご両親に紹介したい、ってことだろう」
カレン、というのは、累と結婚した女性の名だ。生粋の日本人だが、早くに両親と死に別れ、日本にはほとんど血縁のいない状態だと奏から聞いた。なるほど―――他界したとはいえ、両親の墓前に、せめて夫となった人を連れて行って紹介したい、という気持ちは、母を失っている咲夜にも、なんとなく共感できた。
「じゃあ、千里さんも?」
少し弾んだ声で蕾夏が訊ねると、時田はふっと笑い、頷いた。
「ああ。姉さんも来るよ。あの人、半ば親代わりみたいな気でいるからね、成田君と藤井さんに対しては。2人に会えるのを楽しみにしてた。それに―――咲夜ちゃんにも、ね」
「え?」
ふーん奏の家族が来るんだ、と他人事のように聞いていた咲夜は、突如自分の名前が出され、思わず自分で自分を指さした。
「えぇ? わ、私も?」
「そりゃそうだよ。奏君の彼女だよ? 姉さんのあの性格じゃ、奏君が紹介するまで大人しく待てる訳がないさ。なあ?」
時田はそう言って、瑞樹に同意を求めた。唐突に話を振られた瑞樹は、少々困ったように蕾夏に視線を流し、結局、それを受け止めた蕾夏が、ぎこちない笑みで答える羽目になった。
「う、うーん…、そうかも。千里さん、息子2人の恋愛に、興味津々だったから」
「げっ。マジかよ」
息子2人のうちの1人が、顔色を変える。
「うん…女の子なら恋愛相談されたりするのに、息子だと何も教えてくれないから面白くない、って」
「…うわ…、そんな話、勝手に人にするなよ、全く…」
「成田君たちも、なんだかんだと冷やかされてたみたいだから、君らも覚悟しといた方がいいだろうねぇ。そんなペアの腕時計なんかしてたら、突っ込むネタを提供してるも同然だよ」
「!!」
時田に指摘され、奏と咲夜は、それぞれ自分の手首に視線を落とした。
そこには、お互いの誕生日プレゼントに贈った、G-SHOCK―――ペアと間違われてもおかしくない、色も形も似たモデルだ。
「ち…っ、ちげーよっ! これはペアじゃないって、よく見ろよっ!」
「ハハハ…、ムキになればなるほど、面白がられること確実だよ。あの人の性格を一番よく知ってる筈なのに、懲りないねぇ、奏君も」
「ほんとにペアじゃねーんだってっ!」
「さ、咲夜ちゃん! リゾット、早く食べないと冷めちゃうから」
「あ…、うん」
蕾夏が慌ててそう口添えしてくれたおかげで、咲夜はなんとか、再び夕飯に手をつけることができた。
咲夜の隣でエキサイトしていた奏も、それで少し気がそがれたのか、まだブツブツ言いながらも、放り出していたフォークを握った。
―――奏には悪いけど、時田さんの方が正論だよなぁ…。
リゾットを口に運びつつ、奏の横顔を盗み見て、思わず苦笑する。勿論、咲夜だって、こういう冷やかしは勘弁して欲しいけど―――奏みたいにいいリアクションをしてしまったら、からかいたくてウズウズしてる連中に、余計エサを与えるばっかりだ。…まあ、こういう奏だからこそ、周囲に愛されているのだけれど。
「まあ、そんな訳で、4人を引き連れてまた日本に来る訳だけど―――成田君たちは、年末年始の予定は?」
「いや、まだ、特には。…去年は、31はこっちだよな」
「うん。で、お正月にそれぞれの実家に分散して、2日に戻ってきて……多分、今年もこんな感じじゃないかな」
「そうか。やっぱりみんな、大晦日と三が日は予定があるよなぁ…。じゃ、そこを避ける方向で伝えておくよ」
ジャケットの内ポケットから手帳を取り出した時田は、軽く頷きながら、そこに何かを書き付けた。そして、手帳をパラパラめくりながら、まるでついでのように、付け加えた。
「ああ、それと―――成田君も奏君も、明日、事務所の方に、正式なオファーが行くと思うから」
「……」
その場の空気が、ピタリと止まった気がした。
グラスを口に運びかけていた瑞樹にも、サラダをつまもうとしていた奏にも、突然、緊張が走る。特に、奏は―――酷く強張った顔で、時田の涼しい顔を凝視していた。
「…オファー、って…」
「累君の結婚式のために帰って来た時話した、アレだよ。かなりモデル選考が難航してたみたいだけど、やっと奏君に決まったらしい」
「ちょっと待てよ」
奏の表情が、一気に険しくなった。カタン、とフォークを置いた奏は、怒鳴りたいのを辛うじて我慢しているのか、テーブルの上で握った拳を、微かに震わせていた。
「成田にもオファーが行く、って…つまりは、カメラマンが成田に決まった、ってことかよ」
「らしいよ」
「…っ、卑怯だろ!? 成田は関係ないじゃないか! 巻き込むなよっ!」
「奏、」
気色ばむ奏を、当の瑞樹が落ち着いた声で制する。一方、奏に食ってかかられた時田は、小さくため息をつくと、手にしていた手帳をパタンと閉じた。
「……って、奏君がエキサイトするだろうと思ったから、正式オファーが行く前に、一応僕が馳せ参じた訳だ。飽くまで僕は部外者だけど、一応、選定の経緯をゼロから見てきた立場だからね」
「…何が部外者だよ。大体、情けねーよっ。何のこのこ相談になんか乗ってんだよ、郁は。あんな女の相談になんか乗るなよっ」
「奏!」
斜め前の席から、瑞樹が腕を伸ばし、奏の腕を掴んだ。もうやめとけ―――目でそう言われ、奏は唇を噛み、口を閉ざした。
―――な…、なん、だろ。これ。
隣に座る奏の横顔は、普段の奏とはまるで違っていた。確かに、普段から感情の起伏は激しいが、こんな―――こんな、じっとしていられないほどの憤りを感じさせる横顔は、初めて見るかもしれない。
「…あ…、あの、時田さん」
それまで、咲夜ほどではないが、いまいち事態が飲み込めない様子で黙っていた蕾夏が、おずおずと口を開く。その表情は、何かを確信してか、瑞樹とよく似た緊張感を伴っていた。
「もしかして、瑞樹と奏君に来るオファー、って―――“
「―――ああ。そうだよ」
「……」
時田の返事に、蕾夏の表情が、複雑なものに変わる。“VITT”……咲夜にとっては、初耳の名前だ。
「“VITT”からのオファーと聞けば、奏君はきっと、私情が絡んだオファーと思うだろう? まあ、無理もないけど…その点は、彼女の自業自得だしね。そう思われるだろうことを、彼女自身もわかっていたからこそ、僕に相談してきたんだよ。誤解され、拒絶されるだろうことは、想像に難くない。それでも―――どうしても、君以上にイメージにピッタリなモデルは思い浮かばない、ってね」
「…誤解、なのかよ。ほんとに」
少し掠れた声で、奏が呟く。その声には、明らかに疑いが滲んでいた。
すると時田は、ふっ、と、どこか自嘲気味な笑いを、口元に微かに浮かべた。
「もし、少しでも私情を挟んでいるオファーだったら、この僕がそれを許すと思うかい?」
「……」
「“VITT”の私情の絡んだオファーを、最後の最後まで拒絶しとおした僕だよ。それが奏君に対するものでも、許す訳がない。“VITT”は、いい関係を保っているビジネスパートナーではあるけど、その点は今も信念を曲げてないよ、僕は」
「……」
「あの、咲夜ちゃん」
重たい空気の中、唐突に、蕾夏が口を挟んだ。ぼんやりと事態を傍観していた咲夜は、え? と目を丸くした。
「ごめん、ちょっといい? お手洗い行きたいけど、場所わかんなくて…」
申し訳なさそうな笑みとともに手を合わせる蕾夏に、咲夜も、蕾夏の意図を察した。
「あ…、ああ、じゃ、私も一緒に」
男3人をその場に残し、咲夜は、蕾夏の先に立って、席を離れた。
「ごめんね…、強引に連れ出しちゃって」
女性用トイレのドアが閉まると同時に、蕾夏は、小さくため息をつき、そう言った。
「…いえ。多分、第三者がいない方が、話がしやすいんだろうし」
「でも、結局、リゾット冷めちゃうね」
くすっ、と笑う蕾夏に、咲夜も苦笑を返した。
「なんだかんだで、半分近くまでは、温かいうちに食べられたから」
「残り半分も、多少ぬくもりが残ってるうちに食べられるといいんだけど」
そう言った蕾夏は、はぁ、と息を吐き出すと、額を手で押さえた。
「もー…、時田さんも、気遣い足りないなぁ。何も、こんな席で、あんな話しなくても―――ああ、でも、もしかしたら、奏君が咲夜ちゃんに相談しやすいようにするためかもしれないなぁ…。無茶なやり方だけど、時田さんて、本当は奏君のこと、凄く可愛がってるし…」
「…あの、蕾夏さん」
蕾夏が咲夜を連れ出したのは、単に、話がしやすいよう2人して席を外すためだけではないだろう。密かに唾を飲み、咲夜は、少し声のボリュームを落とした。
「何、なんですか。“VITT”って」
「……」
顔を上げ、咲夜を見る蕾夏の目が、僅かに揺れる。けれど、蕾夏は、逡巡を見せつつも答えてくれた。
「…イギリスのファッションブランドなの。日本にはまだ直営店はないから、知らなくて当然だと思う。私たちがイギリスに行ってた頃、奏君が1年契約でそこの専属モデルやってて……時田さんに、ポスター撮影のオファーがあったの」
「…もしかして、それが、さっき時田さんが言ってた“私情の絡んだオファー”?」
「そう。…実はね、時田さん、そのオファーを何度断っても断りきれなくて、結局、瑞樹が撮ったの」
「えっ」
さすがに、驚いた。時田といえば世界で名の通るカメラマンだが、その当時の瑞樹は、ただのアシスタント……ほとんど素人だ。唖然とする咲夜に、蕾夏は少し苦笑し、唇の前に人差し指を立てた。
「オフレコね、この話。一応、世間的には、あれは全部時田さんが撮ったことになってるから」
「い…いいのかな、そんなことしても」
「あはは、よくないよ、勿論。でも…どうしてもそうせざるを得ない位、時田さんにとっては、絶対やりたくない仕事だったの。最終的には納得いくものが出来たから、奏君も瑞樹も満足はしてるけど…2人も、本当は、できることならやりたくなかったと思う」
「なんで…?」
咲夜の当然すぎる問いに、蕾夏の表情が曇った。
「私情が絡んだ、って…一体、どういう…。時田さんだけじゃなく、奏も?」
「―――それは、私からは、教えられない」
強い口調ではないが、きっぱりと、そう言い切る。どこか悲しげな笑みを浮かべた蕾夏は、咲夜を真っ直ぐに見据えた。
「多分…奏君自身が、咲夜ちゃんに話してくれると思う。ううん、きっと、聞いてもらいたい、って思ってる筈だから、もしそんな素振り見せたら、咲夜ちゃんの方から訊いてあげて」
「……」
「今度の仕事を受けるにしても、蹴るにしても―――奏君はきっと、咲夜ちゃんの意見を聞きたがると思うから」
…そういえば―――咲夜はふと、何ヶ月か前、奏と交わした会話を思い出した。
『んー…、まだ、そういう依頼がある、って具体的に決まった訳じゃないけど―――あるかも、って情報は、ちょっと小耳に挟んだから』
『へぇ…、そうなんだ』
『とか言って、オレにオファー来なかったら、ただの笑い話なんだけど。本当にオファーが来たら、咲夜にもちょっと相談するかも。お前がどう思うか、オレも聞いてみたいし』
『…なんか、複雑そうだね。面倒な筋からの話?』
『まあ、そんなとこ』
『ふーん…。じゃ、覚悟して待っとこ』
半ば、忘れかけていたが……あれは、この“VITT”からのオファーの話だったのに違いない。さっき時田が言っていたこととも合致する。
「…なんで、私の意見を聞きたがると思うんですか?」
奏の言葉を思い出しながら咲夜が訊ねると、蕾夏はくすっと笑い、答えた。さも、当たり前すぎる答えを言うかのように。
「もし私が、奏君と同じレベルの迷いを抱えたら―――やっぱり、瑞樹の意見を聞きたい、って思うから」
***
「…蕾夏に、何か、聞いた?」
時田たちと別れ、2人きりになると同時に、奏はちょっと身を屈め、隣を歩く咲夜に訊ねた。
あの緊張した場面の途中で、2人して席を立ったことの意味くらい、奏にだってわかっている。実際、2人が席を外してくれたことで、遠慮なく時田や瑞樹と話ができた。でも…蕾夏と2人きりになれば、咲夜が何も訊かない筈がないことも、勿論わかっている。
だが、蕾夏と咲夜は、十分な時間を置いて席に戻ってくるや、その場の話題をころっと変えてしまった。2人の連携プレーで、場の空気はあっという間に新しい話題に染まってしまった。だから、5人でいる間、咲夜の表情から、咲夜が何をどこまで聞いているのか読み取ることは不可能だったのだ。
隣を歩く咲夜は、時田らと別れてもなお、別段普段と変わらない表情をしている。奏の問いかけに、僅かに奏の方に顔を向け、曖昧な笑みを浮かべる。
「何か、って、何?」
「い、いや、だから―――オレたちの話、咲夜からすれば、全然わけわかんなかっただろ? だから、蕾夏から何か説明受けたんじゃないかと思って」
「…ん、一応ね」
思いのほかあっさりそう答え、咲夜は再び、視線を前に向けた。
「“VITT”ってのが、4年前、奏が専属モデル務めたイギリスのファッションブランドで、時田さんが撮ったことになってるポスターは、実は成田さんが撮ったものだ、ってことまでは、聞いた。時田さんが、絶対撮るの嫌だ、ってごねたかららしいね」
「…そっか」
じゃあ、問題の核心部分には、触れないでおいたのか―――奏自身の口から、説明させるために。勿論、たとえそれが蕾夏であっても、やっぱり他人にプライベートな秘密を明かされたくはない。蕾夏らしい気遣いに、奏は感謝した。
「…なんか、ごめんな。まさか、あんな面倒な話が出るなんて思わなかったから…」
「あっは、いいよ、別に」
しょげる奏に、咲夜はそう言って、髪を掻き上げつつ奏を仰ぎ見た。
「時田さんに会えただけで、私にとっては大収穫じゃん。あ…、そう言えば、次来日した時には私のこと撮りたい、って言ってたね。実現したら、世界的カメラマンに撮ってもらう大チャンスだよ」
「げ…、やめろよ」
思わず、露骨に嫌な顔をしてしまう。だが、咲夜にとっては、奏のそのリアクションは意外だったらしい。その目が、不思議そうに丸くなる。
「なんで? いいじゃん、別に」
「…なんかなぁ…。いい被写体だ、って褒められるとこまではいいにしても、撮らせろ、ってとこまでいくと……いくら相手が郁でも、なんか面白くない」
「面白くない??」
「…ま、咲夜にはわかんないよな、多分」
―――成田なら、全力で同意してくれそうだけどな。
蕾夏を決して自分以外には撮らせようとしない瑞樹なら、奏のこの説明し難い感情を、我がことのように理解してくれるだろう。たかが写真のモデルじゃないか、と言われようと、嫌なものは嫌なのだ。刺激された独占欲に、奏はおもむろに、咲夜の肩をぐい、と抱いた。
『成田君には、奏君に話す前に、話してあったんだ』
蕾夏と咲夜が席を外している間に、時田は落ち着いた表情で、そう説明した。
『奏君がイギリス来る前、成田君がスナップを撮っただろう? あれは、“VITT”のためのポートフォリオだったんだ。もし奏君を候補に入れるのなら、少しでも、奏君の望む奏君が写っている写真で判断して欲しい―――僕がそう思い、成田君もそれに同意したから。成田君がカメラマンに選ばれたのは、奏君の採用の決め手となったのがあのポートフォリオで、それを撮影したのが成田君だったから……ただ、それだけだよ。君が考えているような理由じゃ―――君にイエスと言わせるため、君が一緒に仕事をすることを望んでいる成田君をあえて採用した訳じゃないんだ』
つまりは―――瑞樹から託され、時田のために持って行った荷物の中に、街中を歩きながら撮ったあの写真が含まれていた、という訳だ。どうりで、何に使うのか奏が訊ねても、瑞樹が曖昧にしか答えなかった筈だ。
言われていたら、絶対、断っていた。
“VITT”のためだなんて―――そんな写真、二度と撮られたくなかったから。
『時田さんも、細かいコンセプト、聞いてないんだろ。とにかく、オファーの中身を聞いてからだよな、プロとしては』
飽くまでビジネスライクに考えようとする瑞樹は、クールにそう言ってのけた。が…それでも最後に、こう付け加えた。
『ただ―――俺が撮った写真でお前が選ばれたんなら、そんなに悪い仕事じゃない筈だ。…“人間”一宮 奏が、今の“VITT”が求めてるキャラクターだって、俺が保証してやる』
「―――…なあ、」
「ん?」
「…咲夜には、絶対、話すから―――もうちょい、待っててくれるかな」
何故、あんなに、奏が今回のオファーに過剰反応したのか。
何故、“VITT”の社員でもない時田が、こんな話を奏や瑞樹に持ってきたのか。
気になって、当然だ。そして……咲夜に聞いてもらいたい、と奏が思うのも、当然だ。
このオファーを、受けるべきか、それとも蹴るべきか―――奏にはまだ、この段階になっても、到底1人きりで決断を下すことはできそうにないのだから。
「…ん、わかった」
ふっ、と笑った咲夜は、そう言って手を伸ばし、奏の頬に軽く触れた。
「いいよ、いつでも。…言ったじゃん。“覚悟して待っとく”って」
「…サンキュ」
―――…明日。
全ては、明日、話を聞いてからだ。
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