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― Boy friend ―

 

 「えー! わざわざ、友達の出産祝いのために、土日潰したの!?」
 「そういうこと」
 驚く由香理の向かいの席で、智恵が、社員食堂のランチを口に運びながら憮然とした表情で頷いた。
 「子供好きじゃないし、それが赤の他人の子供となると余計どうでもいいんだけど、ほとんど強制連行よ。あの子も来る、この子も来る、って大学の仲間全員その日に呼び出してさぁ…。帰りの新幹線で話をしてみたら、全員“○○ちゃんも来るって”って言われて、じゃあ1人だけ抜ける訳にはいかないのか、って諦めて行くことになった訳よ」
 「…何それ。なんでそこまでして、友達呼びたがるのよ」
 「決まってるじゃない。可愛い我が子を自慢したくてしょーがないのよ」
 「可愛かった?」
 由香理が問うと、智恵の顔が、目に見えて渋くなった。
 「…正直に言わせてもらえば、おっさん顔だったわね。名前は“夢子ちゃん”なんてメルヘンチックだったのに」
 「…うわー…、引くわー、それ…」
 「しかも! こっちが何も言わないうちから“あ、出産祝いは、ミキハウスファーストの白レースのドレスをお願いね”だって! 他の友達も、それぞれ高額ベビーグッズをたかられてたわよ。全員ボーゼンよ」
 「ヤな女ねー。勘違い親バカの典型じゃない」
 幸い、由香理の知人・友人に、そこまでの典型例は今のところいない。が、多少近い傾向の持ち主は経験しているので、その時のことを思い出しつつ、由香理も眉間に皺を寄せた。
 「わざわざ大阪まで行って、向こうの態度が“可愛い可愛い夢子ちゃんのためなら馳せ参じて当然”じゃあ、智恵も気の毒だったわねぇ…」
 「全くもう…バリバリキャリア志向の女だったのに、できちゃった結婚した途端、これだもの。がっかりよ」
 そう言ってため息をつく智恵に、由香理もため息をついた。
 「でもさぁ…、よほど優秀で、誰からも文句を言われないような人間でない限り、結婚して子供作っちゃった人間が勝ちになっちゃうのが、今の日本の現実じゃない? 女の場合。負け犬だの勝ち組だのって嫌な言葉も流行っちゃってるし―――負け犬になりたくない、って思い始めちゃうと、自分の才能に見切りをつけて適当な相手で手を打つ方が得策、って考える中途半端キャリア女がいても、別に不思議はないと思うわよ」
 「…ふむ。久々に由香理っぽい意見が出て来たわね」
 女の勝ち負けは、結婚相手で決まる―――ついこの前までの、由香理の主張だ。ニヤリ、と笑う智恵を、由香理はちょっと気まずそうな目で軽く睨んだ。
 「だから、私がどう思うか、じゃなく、世間的にはやっぱりそうなんじゃない? ってことよ。男なら独身でも文句言われないのになんで、って頭くるけど、結婚出産至上主義は、まだまだ社会の本流でしょ」
 「まあねぇ…。でも、情けないったらありゃしないわよ。結婚する女はバカだ、みたいなこと言ってた張本人が、立場変わった途端、今度は結婚してない同級生に“結婚しなさいよ”とくるんだから」
 「プレッシャーと引け目から解放されて、頭の中がお花畑になってるんじゃない? 智恵だって、結婚したらわかんないわよ」
 「冗談。反面教師にヒラヒラのベビードレスをプレゼントしちゃったトラウマは、生涯癒えないわよ」
 智恵がそう言って頬杖をついた時、誰かが背後から、由香理の背中をぽん、と叩いた。
 「よっ。奇遇だね」
 「あ、河原君」
 ランチの乗ったトレーを持った、河原だった。自然、由香理の表情が笑顔に変わる。
 「おっと…もしかして、お邪魔かな」
 向かいに座る智恵の仏頂面に目をやり、河原が微妙な顔をする。頬杖をついたまま、智恵はだるそうに手を振った。
 「全然。辛気臭い話してたとこだから、いっちょ笑わせてよ」
 「どうぞどうぞ」
 由香理がそう言って隣の椅子を引くと、河原は「じゃあ、お言葉に甘えて」と言って、由香理の隣の席にトレーを置いた。

 社内の飲み会で河原と知り合ってから、2ヶ月弱。この間、由香理が河原と飲み食いしに行った回数は、ちょうど両手の指の本数程度になる。
 そのうち2回ほどは智恵も一緒に3人で飲んだし、更に2回は逆に河原が社内の友人を誘って3人で飲んだのだが―――まあ、河原のノリも由香理のノリも、2人きりの時も3人の時もほとんど変わらない。いわゆる「いい友達」といった感じだ。
 河原は、由香理が知る男性の中では比較的饒舌な方で、話題も豊富だ。といっても、昨日こんなことがあった、とか、新聞でこんな記事があった、といった普通の話題が大半なのだが、河原はその普通の話題を面白おかしく語ることに長けている。社内での河原に対する共通した印象は「面白い人」である。実際、河原と飲みに行くと、由香理は毎回笑ってばかりいる。
 こういうのは、初めてかもしれない。
 学生時代から、異性との付き合いはそれなりにあった由香理だが、いわゆる「友達」と呼べる異性はいなかった。「高学歴・高収入で容姿も完璧な男との結婚」という最終目標のために生きているに等しかったかつての由香理は、その最終目標を常に念頭に置いた状態でしか、男性を見てこなかったから。
 そして、男性の友人を持ってみた感想は―――もの凄くラク、だった。
 同性だと、女として張り合う部分や、劣等感を抱いてしまう部分が、多少なりとも出てきてしまう。でも、男性だと、そもそも比較対象にならないから、もの凄くラク。智恵などは、同じ営業畑なので「結構デキる奴じゃない?」とライバル心を密かに燃やしていたりするのだが、由香理にはそういう仕事上の事情も一切ない。河原は由香理にとって、いい話を聞いても悪い話を聞いても、常にニュートラルなスタンスでいられる、とてもありがたい存在なのだ。

 「そうだなぁ、この位はあったな」
 片手に箸を持ったまま、河原はそう言って、両手を使って50センチほどの長さを示してみせた。
 「僕もあれだけの大物は初めてで、油断してたら竿ごと持っていかれそうになったんで、慌てて友達に助っ人頼んだくらい」
 「嘘、そんなに?」
 「おおかた、逃した魚は大きかった、の類なんじゃないの」
 あっさり話を信用して目を輝かせる由香理とは対照的に、智恵の方は疑いの眼差しを崩そうとしない。心外だ、とでも言うように、河原は口を尖らせた。
 「友達が記念に写真撮ったから、証拠に提出してもいいですよ?」
 「…はいはい。信じます信じます」
 「河原君て、あんまりアウトドアなイメージなかったけど、川釣りなんてやるのね」
 過去、河原から聞いた休日の話を思い返してみると―――宇佐見や中田とだれそれのコンサートに行った、中田と買い物に行った、宇佐見とおいしい蕎麦を求めて信州に行ってきた(そう、河原の遊びの話には、大抵この“宇佐見”や“中田”が出てくる。どちらも彼の大学時代からの友人らしい)等々、スポーツやアウトドアといったイメージとは違う話が多かった。見た目も文科系だし、日焼けしているタイプでもないので、釣竿を振っている河原、というのは、ちょっと想像しにくいものがある。
 「うん、まあ、僕が釣りが好きで行ってる、っていうより、宇佐見が釣りが好きで、時々僕らを誘うこともある、って感じなんだけどね。学生時代から何度か付き合いで行ってるうちに、マイ釣竿が3本になってたりして」
 「それじゃあ、今は半分、河原君自身の趣味なんじゃない」
 「うーん。それもそうか。同じように誘われても、黒姫登山に行こうぜ、なんて言われると、全力で断ってるもんなぁ」
 どうやら、宇佐見の方は、相当なアウトドア派のようだ。マッチョな宇佐見に引っ張って行かれそうなのを、必死に拒否している河原の図を想像して、由香理も智恵も思わず笑ってしまった。
 「友永さんは、昨日って、どこか行った?」
 「あ、うん。詩織と一緒に、映画見に行ったの」
 自分の話はおしまい、とばかりに話を振られ、今度は由香理の方が話を始めた。
 「へぇ、映画か。今って何やってたっけ」
 「ああ、でも、あんまりメジャーじゃないのよ。フランス映画で、もの凄く小さい映画館でやってたし。詩織の知り合いが“凄くいいよ”って勧めたらしくて、じゃあ、ってんで見に行ったんだけど…」
 「面白くなかった?」
 「…それが、ねぇ。途中、中だるみした箇所が結構な時間あって、私も詩織も、そこで眠っちゃったのよね」
 「えっ」
 「で、目が覚めたらラストシーンで、周り中の女性客が泣いてて、2人してポカーン、よ」
 「ハハハハ」
 河原の笑い声と、智恵の笑い声がかぶった。
 「笑えるわねー、女2人が爆睡する映画なんて。一体何の映画だったの?」
 「恋愛映画。好きなジャンルだし、前半見る限り話の筋は良さそうだったんだけど…」
 「わかるわかる。フランス映画って、こう、独特の気だるさというか、眠気を誘う何かがあるよなぁ」
 結構映画を見る方らしい河原は、そう言って納得したように頷いた。が、残念ながら、由香理には、その河原の意見には賛成も反対もできそうになかった。
 「確かに、昨日の映画は気だるかったけど、他のフランス映画って知らないのよねー…。もし全部ああいうテンポだとしたら、私には合わないんだわ、きっと」
 「日頃はハリウッド派? それとも邦画?」
 「そういう感じじゃないのよね。好きな俳優さんが出てる映画だと行く、って感じで」
 「へー。例えば?」
 「そうねぇ…洋画だと、トム・クルーズとか、オーランド・ブルームとか」
 「…あんまり似た感じじゃないな、その2人」
 「単に、最初に見たその人の映画の役柄がカッコよかった、って程度だもの。トム・クルーズは基本的に好きだけど、オーランド・ブルームなんかは、最初に見たのが別の役だったら、多分全然好きにならなかったと思うわ」
 「ふぅん…。あ、トム・クルーズって言えば」
 何を思い出したか、河原は箸を置き、体ごと由香理に向き直った。
 「来月公開の“ラスト・サムライ”。よかったら、一緒に行ってくれないかな」
 「え? 何、急に」
 「いや、実は―――親がタダ券を仕事先からもらって、全然興味ないから、って僕に寄越してきたんだよ。合作モノで興味あったし、ペア鑑賞券だから適当に友達でも誘って行こうかな、と思ってたんだけど、あいにく、どいつもこいつも、配役聞いた途端パスしちゃって」
 「…配役…」
 「…トム・クルーズ嫌いが揃ってるんだよ。僕の友人関係」
 男性に人気がないってことなのか、それとも自分の好みが変なのか―――確か日本でも人気ある俳優だったよね? と心の中で反問しつつ、由香理は複雑な顔をした。
 「どう? 行く?」
 「うーん、そうねぇ…せっかくなら、行こうかな」
 あっさり、由香理がそう答えると、河原はホッとしたような笑みを見せ、再び箸を手に取った。
 「そう。よかった。なまじ自分が見たいと思ってる映画だから、他人に譲るのも惜しくて、ちょっと考えあぐねてたんだ。助かったよ」

 じゃあ公開されたらまた改めて行く日を決めるか、ということで、その話は終わった。
 その後は、昼休みの残り時間も僅かになってきたので、3人とも、おしゃべりより昼食を平らげることの方に集中してしまった。


 「しかし、驚いたわね」
 仕事に戻る前、化粧室で口紅を直しながら、智恵が呟いた。
 同じく口紅を直していた由香理は、鏡の中の智恵に、「何が?」という目を向けた。
 「詩織ちゃんのことよ。さっき由香理、名前出してたじゃない」
 「出してたわよ。それが何?」
 「河原が“誰それ?”って訊かないってことは、由香理、詩織ちゃんのことも河原には話してあるんだ」
 「…ああ、」
 そういうことね、と、智恵の言わんとするところが、やっとわかった。
 詩織―――由香理にとっては、幼馴染であると同時に、長年、劣等感と置いていかれた寂しさから、自分勝手な恨みの念を抱いていた相手でもある。今は和解しているとはいえ、そういう過去のある相手なので、由香理も詩織の話は周囲にほとんどしていない。唯一、智恵には夏頃に話したのだが、それ以外では、詩織の存在を知る者など、由香理の関係者の中にはいなかった。
 「この前、河原君と食事しに行った時、たまたま詩織から電話がかかってきたのよ。誰? って訊かれたから、幼馴染だってこととかイラストレーターだってこととかを話した程度よ」
 「ふーん…。平然と話せる程度になった、ってことなのかな」
 「そう…かな? んー、でも、相手が河原君だからついしゃべっちゃった、ってのもあるけど」
 「おや。意味深ね」
 鏡の中の智恵の目が、キラリと光る。むしろ、そう言う智恵の目の方が意味深だ。ちょっとうろたえ、由香理は軽く眉根を寄せた。
 「な、なによ、意味深て」
 「“河原君だから”って辺りが、ねぇ。短期間で、随分と気を許しちゃったもんね、由香理ともあろうものが」
 「あろうものが、って…」
 「男はじっくり見定めて、ターゲット決めたら綿密な計算のもとに相手好みの女を演じきるのを信条としていた由香理なのに」
 「やーめーて。前みたいな男の選び方はもう辞めたし、第一、河原君はただの友達だし。下心も何もないから、いい友達関係でいられるのよ。変な色眼鏡で見ないでよ」
 「…へえぇ…」
 ちょっと感心したように、智恵が息をつく。
 「本気で変わったわね、由香理」
 「…そうかな」
 「いつまでも樋口係長を忘れられない、ってのも、後ろ向き過ぎてどうなんだか、って思ってたけど―――そこまでの意識改革を起こしちゃった相手じゃあ、そう簡単に忘れかねるのも、当然かもね」
 「……」
 「河原っていい奴そうだし、由香理とも相性良さそうだから、ここはひとつ樋口係長を忘れさせるためにもプッシュするかな、って思ってたんだけど…やめとくわ」
 そう言うと、智恵はにっこり笑い、由香理の背中をバシン、と平手で叩いた。
 「せっかく好きになった男だもの。忘れられない間は、無理に忘れようとせず、河原や私や詩織ちゃんと楽しく日々を過ごすことの方に専念すべし!」
 「…ん、ありがと」

 片想いだったし、己の想いに気づくより先に失恋していたし、相手は既に結婚しているし、多分二度と会うこともないし。
 忘れてしまった方がいい、ということは、由香理だってわかっている。けれど……その一方で、忘れたくない、と思っている自分もいる。
 樋口を好きになった自分を、忘れたくない―――そういう気持ちも、もしかしたら、自分の中にはあるのかもしれない、と、この時由香理は、初めて思った。

***

 「サイン、ここでいいの?」
 「はい、そこで」
 書類の上を、ペンが走る。サインを終えた書類が、由香理に差し出された。
 「ありがとうございます」
 一礼した由香理は、受け取った書類をクリアファイルに収め、ホッと息をついた。

 ―――ちょっと、一服していこうかな。
 エレベーターホールに出たところで、ふとそんなことを考える。
 午後はずっと書類整理に追われて、少々疲れた。肩をぐるぐると回した由香理は、エレベーターのボタンを押すのをやめ、休憩コーナーへと足を向けた。
 そして、30秒後、ティーブレイクなんてバカなこと、思いつかなければよかった、と後悔した。

 「……」
 休憩コーナーの窓際で、煙草に火をつけている男は―――由香理の目下の天敵・真田だった。
 ―――最悪…。
 ただでさえ疲れ気味だったところに、この男の登場だ。休憩どころか、余計疲れる。
 このまま回れ右して戻ろうかな、と思ったが、既に真田とはバッチリ目が合ってしまっていた。今、踵を返してしまえば、真田は由香理が逃げたものと解釈するだろう。そんなことは、由香理のプライドが許さなかった。
 ヒールをコツコツ言わせながら、真田から2メートルほど離れた場所にある自動販売機に向かう。傍にあった丸テーブルにクリアファイルを置くと、由香理は、制服のポケットから小銭入れを取り出し、自販機のコイン投入口に100円玉を突っ込んだ。
 ホットコーヒーのミルク・砂糖増量タイプのボタンを押すと、紙コップがコトン、と音を立てて出て来た。右頬の辺りに真田の視線を感じるから、下手に顔を上げることもできない。由香理は黙って、プラスチックの扉の向こうで紙コップにコーヒーが注がれていく様をじっと見つめ続けた。
 「…珍しいな、この階の休憩コーナー使うなんて」
 思いがけず、真田の方から声をかけてきた。
 それと同時に、コーヒー抽出の進行具合を示すランプが、消えた。由香理は膝を折り、努めて冷静にコーヒーを取り出した。
 「書類にサインもらってきた帰りなのよ」
 「…あ、そ」
 「真田さんこそ、日中に社内なんて、珍しいわね」
 皮肉ではなく、事実だ。実際、真田が日中に社内をうろついているなんて、以前からは勿論のこと、特にここ最近は滅多にないことだった。社員食堂で真田に会うなんてゼロだし、休憩コーナーもしかり。だからつい油断して、真田が所属する営業1課のあるこの階の休憩コーナーを利用してしまったのだ。
 「このところ行き詰ってた案件が、無事終わったんでね。後回しになってた社内事務が溜まってるんだ」
 特に返事を期待はしていなかったが、意外なことに、真田はあっさりと返答した。少し驚いた由香理は、両手で紙コップを包み、丸くなった目を真田に向けた。
 真田は、窓枠にもたれかかって、煙草を吸いながらコーヒーを飲む、という味覚上どうなんだろう、と言いたくなるような休憩の仕方をしていた。だらっ、とだらけきった姿勢は、由香理以外の女子社員が見たら、ちょっと幻滅モノかもしれない。こんな油断した態度取る人だったっけ? と首を傾げかけた由香理は、ふいに、その理由に思い当たり、納得した。
 ―――私にはもう素の顔がバレちゃってるから、体裁繕う必要がない、って訳ね。
 女子社員の前では、常にイメージどおりの“爽やかで有能でびしっと決まっているキャラクター”を見事に演じ切っている真田だが、由香理1人の前でそんな演技をするのは、かえってコントみたいで笑えるかもしれない。ここに誰か別の人間が現れれば、すぐにいつものキャラに戻るのだろう。
 「行き詰ってた案件、って?」
 「…他社との競合」
 短く答えると、真田はため息をつき、眉間に皺を寄せながらコーヒーを口に運んだ。
 「赤字ギリギリの線でなんとか踏みとどまったけど、今回は本当に危なかった」
 「…そう」
 あの自信家の真田がそこまで言うのだ、相当に危ない状況だったのだろう。それでなくとも、真田は今年、大きなミスを犯してどん底まで落ちている。今は小さなミスすら許されないといった心境に違いない。
 幸いにして由香理は、プライベート面ではズタボロだが、仕事面ではむしろ、今年に入ってからぐっと充実してきている。多少のミスも時には犯すが、以前見た、樋口と共に真田が部長に頭を下げていたシーンのような深刻な事態は、いまだ体験していない。総務でそこまでの状況に陥るミスとはどんなミスだろう、と考えてみたが、適当な例が見つからなかった。
 「私、総務でよかったかも…」
 「は?」
 無意識のうちに由香理が呟いた言葉に、真田が怪訝そうに眉をひそめる。慌てて由香理は、なんでもない、と首を振って、紙コップに口をつけた。

 ―――なぁんか…変な感じ。
 無言でコーヒーを飲みながら、チラリと真田の様子を盗み見、微妙な気分になる。
 真田という男は、自分にとって、どういう存在なのだろう? 元カレ? いや、恋人同士だった訳でもないので、その表現は間違っている気がする。由香理を弄び、捨てた男―――確かにそうだが、こちらも、あまり偉そうなことを言えた立場ではない。愛もないのにあるフリをした、という点では、由香理も真田も同罪だ。…では、どう表現すばいいのだろう?
 ただ、真田といると、居心地が悪い。
 お互い、社内でのゴシップは既に沈静化し、同情の目や好奇の目で見る輩も格段に減った。社内が穏やかな場所へと変わっていく中、唯一、あの頃の自分を強く意識せざるを得なくなる相手―――この居心地の悪さは、恨みつらみからくる、というより、そういう「過去の自分」を思い出してしまうことへの気まずさなのかもしれない。
 「そっちは、相変わらずみたいだな」
 暫しの沈黙を挟んで、唐突に、真田がそう言った。
 ぼんやりしていた由香理は、一瞬、反応が遅れてしまった。が、真田の言葉がきちんと脳に届いてもまだ、その意味はよくわからない。
 「相変わらず、って?」
 当然のように由香理が訊ねると、真田は、ふん、と鼻で笑うみたいな皮肉な笑い方をした。
 「河原のことだよ」
 「河原君?」
 「噂になってるよ。友永さんの今度のターゲットは、河原か、ってね」
 「何よ、それ」
 思わず、眉がつり上がる。一方真田は、「何を言ってるんだ」とでも言いたげな顔をした。
 「おいおい…、あれだけ大っぴらに飲みに行ったり立ち話しておきながら、バレてないとでも思ってたのか?」
 「バレるも何も、そんなんじゃないわよ、河原君は。ただの友達だもの」
 「友達? ハハ、まさか」
 「まさかって、何よっ」
 気色ばむ由香理に、真田は、さも当たり前とでもいう風に答えた。
 「だって、営業1課で、うちの大学の出身で、フリーだろ? 友永さんからすれば、もろ、ターゲットにぴったりじゃないか」
 「……え?」
 ―――うちの大学の出身?
 由香理の目が、丸くなる。その反応に、真田の苦笑が消え、困惑の表情に変わった。
 「…え、知らなかったのか? 河原の出身校」
 「…真田さんと、同じ大学なの?」
 「ああ」
 全然、知らなかった。
 というか、なんだか、イメージではない。
 真田の出身大学は、偏差値の高さも有名だが、入学金や授業料が若干高めで、なんとなく「いい家のご子息が行く大学」といったイメージが世間的に持たれている。事実、そこの学生は、親のすねかじりの状態でありながら高級外車を乗り回していたりするし、着ている物もブランド物が多い。まさしく、真田にはピッタリな大学だ。
 けれど、河原は、そのイメージからは大きく逸脱している。着ているスーツも国産の平均的なスーツだし、車の話もしたが、確か燃費重視の堅実な車種だったと思う。それに、友人関係の話を聞いていても、宇佐見にしろ中田にしろ、みんな庶民的な連中ばかりで、おおよそ、真田と同種とは思えなかった。
 「…あの、ほんとに? 何かの間違いなんじゃないの?」
 どうしても信じられず、由香理がそう訊くと、真田はムッとしたように僅かに眉を寄せた。
 「間違いないだろ。履歴書に嘘を書いたんなら別だけど」
 「…えぇー…」
 なんか、嫌だ。
 というトーンが、声にモロに出ていたのだと思う。真田がますます、眉根を寄せる。
 「なんなんだよ、その“えぇー”は。そんなに嫌がられるような大学だった覚えはないぞ。第一、友永さんだって、俺の出身大学聞いて“凄い”だの“憧れる”だの散々言ってたくせに」
 「ああ…、それはそれ、これはこれよ。大学が立派なのは認めるけど―――なぁんか、ねぇ。河原君のイメージじゃないのよね。もっと庶民的な、苦学生っぽいイメージの方が似合ってるのに」
 「……」
 本気で不服そうな由香理の顔を、真田は、ちょっと呆気にとられたような顔で眺めた。そして、短くなりすぎた煙草に気づき、灰皿を手元に引き寄せ、煙草をもみ消した。
 「…本当に、知らなかったのか」
 改めて、由香理に問う。当然、由香理は頷いた。
 「ええ。今、初めて聞いたわ」
 「結構な回数、飲みに行ってるんだろ? なんで訊かなかったんだ?」
 「なんで、って……別に、必要ないじゃないの、どこの大学出てるか、なんて情報は。私だって特に話してないし」
 「でも、友永さん的には、絶対必須の情報だったんじゃないか? 高学歴・高収入の男しか眼中にないんだろ?」
 「だから、河原君は、ただの友達だ、って言ってるじゃないの」
 「……」
 「河原君がどこの大学出身だろうが、何課に配属されてようが、どうでもいいわ。気も合うし、話してて楽しいから、それだけで友達の条件としては満点じゃない?」
 「…なんだか…」
 きっぱりした口調の由香理に、真田は、まだ呆気にとられたような表情で、呟いた。
 「随分、変わったんだな」
 「…えっ」
 「たった半年やそこらで、よくそこまで、考え方が変わるもんだよ」
 「……」
 そう言うと、真田は大きく息をつき、残っていたコーヒーを一気に飲み干した。そして、空になった紙コップをくしゃっ、と握りつぶすと、普段の真田の表情に戻り、由香理を見た。
 「俺の件で、懲りたとか?」
 「…それも、あるけど」
 「前、失恋した、って言ってたよな。…そいつの影響か」
 ズバリ、言い当てられる。動揺が顔に出てしまったのか、真田の表情が、やっぱりな、という苦笑に変わった。
 「大したもんだ。玉の輿願望の権化みたいだった友永さんを、ここまで変えるなんて」
 「…どうせ、玉の輿願望の権化だったわよ」
 「誰?」
 さらりと訊ねられ、胸がドキン、と跳ねた。
 誰―――当然、由香理を変えた人物のことを訊いているのだろう。由香理の瞳が、大きく揺れた。
 別に、知られても、問題はない。けれど……真田は、樋口を良く思っていない。むしろ敵視している。樋口の名前を口にしたら、ここぞとばかりに、また樋口の悪口を言うかもしれない。もうここにいない人とはいえ、彼の悪口を耳にするのは、やはり嫌だ。
 かといって、秘密にするのも、思わせぶりっぽくて嫌な感じがする。どうしようか……迷った末、由香理は、正直に答えることにした。
 「―――…樋口さんよ」
 「……」
 真田の顔に、あからさまな驚きの表情が浮かぶ。
 驚愕に目を見開いたまま、真田が、黙り込む。何か言ってくるのでは、と待ったが、真田は軽く1分、黙りこくったままだった。そして1分後、詰めていた息を大きく吐き出すと、真田は僅かに俯き、参ったな、という苦笑を口元に浮かべた。
 「…なるほど。あの人か」
 「……」
 「悔しいな」
 短く真田が呟いた言葉に、由香理は、え? と少し目を丸くした。
 色々な意味合いに取れるセリフ。けれど―――顔を上げた真田が口にしたのは、全く予想外の言葉だった。
 「俺の方が、樋口係長と長時間一緒にいた筈なのに、俺は、友永さんほど変われていない。…なんか、遅れをとった気分だ」
 「……」
 「…ま、君も、俺の前だから虚勢張って偉そうなこと言ってるだけで、中身がそこまで変わってるかどうか、怪しいところだけど」
 むっ、と不愉快そうな顔を由香理がすると、真田はふっと笑い、潰れた紙コップをゴミ箱に捨てた。そして、由香理の反論を聞くことなく、休憩終了、とばかりに、休憩コーナーを後にしてしまった。
 ―――余計な一言が、長い上に失礼極まりないのよっ。
 遅れをとった、なんて珍しく敗北を認めるセリフを吐いたと思ったら、すぐこれだ。真田の背中を見送りながら、由香理は心の中で真田に悪態をつき、残りのコーヒーをぐいっ、とあおった。

 …でも。
 でも、もしかして―――真田さんは真田さんなりに、樋口さんのこと、認めてたのかしら…。

 悔しい、と言った真田の言葉が100パーセント嘘とは思えなくて、由香理は、真田の意外な一面に、ちょっと驚いていた。

***

 その日は、7時過ぎには会社を出ることができた。
 このところ外食が続いていた由香理は、久々に自炊するか、と、地元の駅前のスーパーに寄って、食材を買い込んだ。

 「重たぁ…」
 今日は、書類整理やら台帳の作成やらで、やたら肩がこっていた。牛乳やじゃがいもの入ったスーパーのレジ袋が、ずしりと肩にこたえる。
 もっと買い物を減らせばよかった―――後悔したが、冷蔵庫の中身を思い浮かべても、ものの見事に空っぽの状態なのだから仕方ない。あれも買って、これも買って、とやっていたら、両手に下げたレジ袋が両方いっぱいになる分量になってしまった。
 ―――河原君と知り合ってから、外食頻度、高くなったものねぇ…。そりゃ冷蔵庫も空っぽになるわ。生活費のためにも、少し外食を自粛した方がいいのかも…。
 よいしょ、とレジ袋を持ち直した時、ふと、由香理の脳裏に、今日の昼休みの河原との会話が浮かんだ。

 『来月公開の“ラスト・サムライ”。よかったら、一緒に行ってくれないかな』
 『うーん、そうねぇ…せっかくなら、行こうかな』

 「……」
 映画、かぁ…。
 …男の人と2人きりで映画、って、凄く久しぶりかもしれない。
 というか―――もしかして、これって、デート?

 「まさか」
 デート、という単語が浮かんだ途端、思わず口に出して、否定した。
 いくら男女とはいえ、友人同士なのだ。デート、なんて単語は、おかしいだろう。変な単語思い浮かべちゃったな、と、由香理は苦笑し、軽く首を振った。
 と、その時―――由香理は、少し前を歩く、どこかで見たような後姿を見つけた。
 濃紺のチェックのハーフコート。あのハーフコートは、昨年の冬の始め頃や今年の春直前に、何度も見かけた。間違いない。優也だ。
 「優也君―――…!」
 由香理が声をかけると、後姿が、一瞬びくっ、と反応した。
 振り返った優也は、そこに由香理の姿を見つけ、酷く慌てたような顔になった。
 「と…っ、友永、さん?」
 「そうよ。こんばんは」
 「こ…こんばんは」
 由香理が追いついて来るまで、優也は足を止めて待っていた。小走りに駆け寄った由香理は、両手に提げたレジ袋の重さに、また「重たー…」と無意識に愚痴ってしまった。
 「…あ、買い物ですか」
 「ええ、そう。何も食材がないもんだから、つい買い込みすぎちゃって」
 「僕、持ちます」
 優也はそう言って、由香理の右手に提げられたレジ袋をさっそく手にした。えっ、と驚いた由香理は、慌てて優也の手を制した。
 「いいわよ。この位、大丈夫だから」
 「いえ、持ちます。弱く見えると思うけど、一応、僕の方が力はあると思いますから」
 「……」
 ―――そう、かしら。
 思わず、疑いの眼差しで見てしまう。
 アカデミックで典型的文科系な優也は、性格的なものも手伝ってか、あまり力があるようには見えなかった。確かに由香理より背は高いし、男性でもあるのだから、由香理より力があって当然なのかもしれないが、なんだか自分より弱々しいイメージがある。
 大丈夫かしら、と半ば心配しながら見ていた由香理だが―――優也は、由香理がなんとか提げていた両手の荷物を、実にあっさりと自分の両手に提げてしまった。よいしょ、という感じは全くなく、その顔には、適度な重さの物を持っている、といった程度の表情しか浮かんでいない。
 「…大丈夫?」
 「え? あ、はい、大丈夫です」
 「…そう」
 なんだかんだ言っても、男の子なのか―――なんだか、いつまでも弱々しくて小さいばかりだった弟が、大人になったのを見てしまったような気分だ。由香理は、感慨とも寂しさともつかない微笑を、うっすらと口元に浮かべた。

 「バイト帰り?」
 並んで歩き出しながら由香理が訊ねると、優也は、ちょっと気まずそうな苦笑いを浮かべ、軽く首を振った。
 「いえ。友達と、映画行った帰りです」
 「ふーん。なんて映画?」
 「フランスの映画で、“アダージョ”っていう…」
 「えっ、“アダージョ”?」
 思わず、声が1音、高くなる。
 「やだ、“アダージョ”なら、私、昨日友達と見てきたばっかりよ」
 「え、そうなんですか?」
 「そう。といっても、途中で眠くなっちゃって、後半は全然見てないんだけど…」
 由香理が言うと、優也は可笑しそうに笑った。
 「あはは…、わかります。途中、葛藤続きでぐずぐずしてて、もの凄く中だるみしてた部分、ありましたよね」
 「優也君は眠らなかった?」
 「一応。隣に座ってる友達が、かなり真剣に見続けてたから、なんか退屈そうに見てたら悪い気がして」
 「…友達も眠っちゃったものね、私たちの場合…」
 それにしても―――意外だ。由香理は、優也の横顔を、思わずまじまじと見つめた。その視線に気づき、優也が由香理に目を向け、焦ったように由香理との距離を1歩広げた。
 「な、何か、ついてますか?」
 「え? あ、いえ、そうじゃないのよ。ただ…ちょっと、びっくりして。優也君みたいな男の子も、ああいう映画、見るんだなぁ、って」
 「…いや、あんまり見ないんですけど、今日は、その―――僕も、ちょっと見たかったのはあったんですけど、相手の子が…」
 「相手の子?」
 その言い回しに、由香理の目が、丸くなった。
 友達と、と聞いて、一緒に映画に行ったのは、蓮だとばかり思っていた。あの蓮が恋愛映画なんて、と、その点でも余計に意外だったのだが―――今度は別の意味で意外だ。
 “相手の子”。…こういう言い回しは、普通、男には使わない筈で。
 「―――もしかして、彼女、できたの?」
 由香理が訊ねると、優也の目が、みるみるうちに、さっきの由香理と同じくらい、丸くなった。
 「ち……っ、違いますよ!」
 「え、違うの?」
 「違いますっ。友達です。ただの友達」
 「友達…」
 「本当に、下心も何も、ないですからっ! た、確かに女の子だけど、間違いなく友達ですっ」
 「…そ、そうなんだ。ごめんね。女の子と―――…」

 “女の子と2人で映画だなんて、てっきり彼女だとばかり…”。

 バツの悪そうな笑みでそう言いかけた由香理は、はた、と自分の言いかけた言葉の意味に気づき、立ち止まった。
 「―――…」
 「? 友永さん?」
 突如立ち止まった由香理に、優也も立ち止まり、不思議そうな顔をする。
 「ど、どうしたんですか?」
 「……ねえ、優也君」
 複雑な表情をした由香理は、ちょっと上目遣いに優也を見、訊ねた。
 「友達同士2人きりで映画に行く、って―――異性同士でも、アリ、よね?」

 河原君と私が映画に行くのって、いわゆる“デート”じゃないわよね?

 由香理の質問に、優也は暫し、硬直した。が、数秒後、微妙に引きつった笑い方で、明るく答えた。
 「あ、アリ、ですよ、勿論!」
 「そ、そうよね」
 「たまたま、性別が違ってるけど、友達と2人で映画、って、普通のことですから」
 さすが優也、理論的な裏づけまでしてくれた。ホッとした由香理は、やっと晴れやかな笑みを見せた。
 「そうよね。うん、やっぱりそうよ」


 よかった。
 相手が異性だからって、友達なら、別に変に意識することはないんだ。

 図らずも、全く同じ時期に、全く同じ「初めての異性の友達」というものを持ってしまった優也と由香理は、すぐ傍にお仲間がいることを知り、ちょっと安心したのだった。


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