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そっとドアを開くと、ちょうど、BGMが小さくなりかけているところだった。
よかった、最高のタイミングらしい―――ホッと息をついた蓮は、“Jonny's Club”の扉を後ろ手に閉め、軽く店内を見渡した。
狙っているのは、店の一番奥、壁際の最後列の丸テーブル席。ステージは少々見づらいが、カウンターやレジ周辺の照明から完全に外れ、ステージ上からはまず目につかない、目立たない席なのだ。
見ると、今日は無事空いているようだ。ほとんど照明が落ちてしまった中、蓮は、カウンター席の照明で目だってしまわないよう、若干腰をかがめるようにしながら、目的の席に向かった。
途中、カウンターにチラリと目をやると、相変わらずの顔がそこにはあった。
アイドル並みに甘いマスクの、人気バーテンダー。理加子の話を聞いた後、彼が「トール」と呼ばれているのを耳にした時には、我が耳を疑ったものだ。
―――まだ働いてたのか…。
自然、蓮の表情が、渋くなる。
トールに一言、言ってやりたい気持ちはあるのだが、それをする訳にはいかない。トールと接触を持てば、咲夜に蓮のことが伝わってしまうだろう。自分が店に来ていることは、できれば、咲夜には知られたくない。女性客と談笑するトールの横顔をこっそりと睨みつつ、蓮は静かに席に着いた。
席に着いてすぐ、店員が水を持ってやって来たので、ビールを注文した。今日はバイクではないので、1杯くらいは飲んでもいいだろう。
一息ついたところで、ステージ上がパッと明るくなった。
「こんばんは。“Jonny's Club”にようこそ」
店内に響いた挨拶の声に、蓮はステージに向き直ると、テーブルに頬杖をついた。
1度目は4ヶ月前の歓迎会、2度目は1ヶ月ほど前の実家からの帰り道―――蓮が“Jonny's Club”を訪れるのは、今日で5回目になる。
バイトが休みの日や早く上がった時に、ふと思い立って、ここに来る。勿論、目当ては、ジャズライブを聴くこと。いや……演奏の方は、正直、素人だしよくわからない。だから正確には、「歌を聴くこと」だ。
「The falling leaves drift by the window.... The autumn leaves of red and gold....」
この季節にピッタリな『Autumn Leaves』が、体に染み渡っていく気がする。
音楽は、耳だけじゃなく、目や皮膚でも聴くものなのかもしれない、なんてことを、運ばれてきたビールを口にしながら、ふと思った。
***
「ご、ごめん…どうしても来たいって言うから…」
「……」
照れ笑いのような、誤魔化し笑いのような、複雑な笑顔でそう言う優也の向かいには、お人形が1体、座っていた。
お人形は、トレーを持って傍らに立つ蓮の姿を頭のてっぺんからつま先まで眺めると、コロコロと面白そうに笑った。
「えー、意外ーっ! 似合うじゃない、ギャルソン姿!」
「…ご注文は?」
淡々とした蓮の一言で、理加子の笑い声はピタリと止まった。
テーブル席の2名と従業員1名の間に、形容し難い空気が流れる。むっ、と気分を害した顔になった理加子は、手元のドリンクメニューを軽く流し見た。
「…カシスソーダ」
「え、えっと、僕は…ウーロン茶で」
「カシスソーダ1つに、ウーロン茶1つですね。少々お待ち下さい」
「ちょっとっ」
さっさと伝票にオーダーを書き入れて去って行こうとする蓮を、理加子がギャルソンエプロンの端を掴んで引き止めた。
「何よそれ。愛想なさすぎっ。親友が来たんだから、ちょっとくらい話していったらどうなのよっ」
「リ、リカちゃん、いいって」
慌てて止めた優也の言葉に、蓮が僅かに眉をひそめた。
「“リカちゃん”?」
―――つい1週間前、“理加子さん”とか呼んでなかったか、お前。
急に変わった呼び名に蓮が戸惑っていると、優也ではなく、理加子の方が説明した。
「あたしからお願いしたの。だって優也、“理加子”だとどうしても“さん”付けになっちゃうんだもの。友達に“さん”付けって、なんか変な感じだし、優也の方が年下でもあたしよりしっかりしてるから、“ちゃん”の方が違和感ないの」
「ふぅん…」
お人形の代名詞である“リカちゃん”という呼び名は、本人が一番嫌がると予想していたのに―――そんなことより、“さん”付けされる方が嫌だった、ということか。少々意外だ。
以前聞いた話から察するに、もしかしたら理加子は、「友達」という単語に対する思い込みというか理想というか、そういうものが極端に強いのかもしれない。下手に意見すると面倒だな、と考えた蓮は、理加子に対しては相槌だけ打って、視線を優也の方に向けた。
「まさか、来るとは思わなかった」
「…ごめん」
蓮の困ったような顔を見て、優也は申し訳なさそうに体を縮めた。
「バイトの邪魔、しないようにするから」
「…まあ、いいけど。メシは?」
「あ、ここで食べるつもりで来たんだ。穂積、9時で終わりなんだよね? それまでここにいる予定なんだ」
つまり、蓮のバイトが終わるのを待って、2人で理加子を駅まで送ろう、という考えらしい。そうか、と頷いた蓮は、2人に目だけで挨拶し、仕事に戻った。
「おい、穂積っ」
オーダーを持ってカウンターに戻ると、バイト仲間の1人が駆け寄ってきて、蓮の腕を掴んだ。同じ大学3年生だが、2年留年しているという、先輩アルバイトだ。
「誰だよ、あれ」
「は?」
「B7テーブルの客だよ。今、オーダー取りに行って、何か話してただろ? 知り合いか?」
「…ああ、まあ」
「何者だ!? どう見てもシロートじゃないだろ、あれって」
「…モデルらしいです」
「らしい、って何だよ、友達なんだろ!?」
異様に熱心に訊ねる先輩に、蓮は僅かに眉根を寄せた。
―――なるほど。こいつが興味持ってるのは、秋吉じゃなく、あっちだな。
変に親しいと思われては迷惑だ。彼に掴まれて少々着崩れてしまったカッターシャツをぴしっと直しつつ、そっけなく答えた。
「友達の、友達です」
「はぁ? …てことは、あの一緒にいる奴が、穂積の友達? あの女の子って、あのメガネの友達なのか。えぇ…なんか、アンバランスだなぁ」
優也と理加子が座る席をチラリと確認し、彼は露骨に嫌な顔をした。その表情が、いかにも「あんな冴えない男とあんな美少女が親しいなんて」と言いたげで、蓮は少々ムッとしてしまった。
「…そうですね」
冷ややかに言い放ち、軽く先輩を睨む。
「あんな頭も性格も悪い女に、あいつみたいな頭も性格もいい男なんて、もったいない」
「…えっ」
「オーダーあるんで」
失礼します、と、半ば呆ける先輩を放置して、蓮はカウンターの内側に入り、カシスソーダとウーロン茶を用意し始めた。
つくづく、嫌になる。
まだ物欲しげな顔でB7テーブルを振り返っているこの先輩は、確か、付き合って半年になる年下の彼女がいた筈だ。なんでこいつがあんな可愛い子を、と彼と親しいバイト仲間が嘆いていたほどだから、蓮は見たことがないが、結構可愛いのだろう。
―――そのくせ、ああいうのが店に来ると、ホイホイ目移りする訳だ。
最悪だな、と、カシスソーダの蓋を閉めつつ、先輩の横顔を一瞥する。所詮その程度の気持ちなのか―――愛しの彼女が、この鼻の下を伸ばした顔を見たら、百年の恋もいっぺんで冷めるに違いない。
ちょっと綺麗な子がいれば、すぐに気持ちが浮つく。気に食わない態度を取られると、すぐに嫌気が差す。
その程度の気持ちを、人は何故、そうも簡単に「恋」などと呼べるのだろう? 「好き」だなんてセリフを、何故そんなに簡単に口にできるのだろう?
誰かを好きになったら……本当に、本当に好きになったら、その想いがなくならない内は、好きな人しか目に入らないんじゃないだろうか。他の人に目移りしたり興味を持ったりするのだとしたら、それは、本当に好きな訳じゃなく、当面のお気に入りを「恋人」扱いしているだけに過ぎないのではないだろうか。
こういう場面に遭遇するたび、人が「恋」と呼ぶ感情は何なんだろう、と疑問に感じ、うんざりする。
わからない―――少なくとも、蓮には理解できない。理解できないし、理解したいとも思わなかった。
「うっかり、穂積がカフェでバイトしてる、って話をしちゃったら、是非是非見たい、そのお店行こう、って大ノリ気になっちゃったんだ」
理加子を見送り、蓮と2人だけになると、優也はボソボソとそう切り出した。
「バイトの邪魔になるかな、とは思ったけど…大人しくしてるから、って言われちゃうと、断りきれなくて。ごめん」
「いいよ。実際、大人しくしてたし」
蓮が飲み物を運んできても、理加子は蓮の顔をあまり見ず、ひたすら優也にだけ話しかけていた。その態度は、初対面の普通の従業員に対するものと同じだった。本当に気にしていないのか、それとも最初の蓮の態度にムッとしてわざと無視していたのかは、いまいち判断がつかないが。
「やっぱりさぁ…、リカちゃんはリカちゃんなりに、穂積がどう思ってるか、気にしてるみたいだよ?」
吊り革に掴まった腕に頭を預けるようにして、優也は蓮を見、少し眉根を寄せた。
「なんで?」
「だって―――いくら言葉では“友達の友達であって直接関係はない”って言ってもさ。友達の友達から嫌われてる、って思えば、そりゃあ気になるもんじゃない?」
「…そうかな」
言いつつ、首を傾げる。普通そうだ、と言われればそんな気もするが、蓮自身は、優也の友達が自分を嫌っていたとしても、優也本人の態度が変わらなければそれで問題ない、と思うのだが。
「それって、俺じゃなく、秋吉の気持ちを気にしてるんじゃないか?」
「僕?」
「俺の影響で秋吉が自分から離れていくかもしれない、って考えてるんだろ、きっと」
「うーん…、そういう理由で、“友達の友達”にどう思われてるかが気になるのかなぁ…」
「他人から好かれる自信ゼロみたいだからな」
「…やっぱり、穂積は嫌い? リカちゃんのこと」
窺うような目をして、優也が訊ねる。
「嫌い、って訳じゃ…」
「じゃあ、好き、嫌い、なんとも思ってない、で表現すると?」
「…若干嫌い寄りの、なんとも思ってない、かな」
「…そ、か…」
「俺がどう思ってようが、秋吉の態度が変わらなければ、あの子もいずれ、俺のことなんて気にしなくなるよ」
「うん…」
頷いてはみたものの、優也はやっぱり浮かない顔だ。ため息をついた蓮は、吊り革を握り直し、優也に向き直った。
「秋吉は、俺の意見ひとつで誰かに対する気持ちが変わってしまうほど、意志薄弱な奴じゃないだろ?」
「……っ、そ、それは、勿論っ」
「俺がどう思おうが、あの子が好きだろ?」
好き、という単語に、優也の頬が僅かに染まる。
「す…好き、だけど、それは飽くまで、」
「友達の“好き”、だろ? わかってる」
「…うん」
「この先、秋吉があの子をもっと好きになろうが嫌いになろうが、俺は全然構わないけど―――」
そこで言葉を切った蓮は、優也の目を真っすぐに見据えた。
「―――絶対に、俺を理由にしないでくれ」
「……」
蓮の目に、普段とは違う何かを見つけたのか、優也はゴクンと、一度唾を飲み込んだ。
「わ…わかった」
そう答えた優也に、蓮は表情を和らげ、微かに笑ってみせた。
***
「穂積、抜けていいぞ」
ぽん、とマネージャーに肩を叩かれ、店の時計を見ると、本日の蓮のシフト時間は既に過ぎていた。
別に、この後に予定があって、早番にさせてもらった訳でもない。単にそういうシフトになったから。それだけだ。
「客多いですし…」
もう少し構いませんよ、というニュアンスを込めて蓮が申し出ると、マネージャーは苦笑し、首を振った。
「その同じセリフで、今月だけでもう2回も居残りさせてるだろ? 他の従業員の手前、穂積だけシフト外勤務が多いってのも、ね」
「…はぁ…」
多分、平等にしておかないと、蓮にはわからない類の不都合が色々とあるのだろう。変に食い下がってもまずいな、と考え、蓮は素直に仕事を切り上げた。
―――今日って、火曜か…。
更衣室で着替えながら、カレンダーを頭の中に思い浮かべる。火曜……“Jonny's Club”で、咲夜たちがライブをする曜日だ。
1回目のステージには間に合いそうにないが、2回目なら余裕だろう。聴きに行くか、それとも真っすぐ帰って久々にのんびりするか―――どっちにするか決めかねたまま、ロッカーを閉め、店を出た。
すると、まるで従業員専用の裏口のドアが閉まるのを待っていたみたいに、ボディバッグの中の携帯電話が鳴った。
「……っと」
あまりのタイミングの良さに、一瞬、本当にどこかで見張っていたのでは、と疑いそうになる。慌てて立ち止まった蓮は、携帯電話を取り出した。
「もしもし」
『―――…蓮?』
聞こえてきたのは、女の声。誰だ? と眉をひそめた蓮の脳裏に、刹那、1人の人物が浮かび上がった。
まさか―――蓮がそう思うと同時に、脳裏に浮かんだとおりの人物が名乗った。
『…和美だけど』
「……」
一瞬のうちに、携帯を握り締める蓮の顔が険しくなった。
和美―――幼なじみで、かつ、兄の婚約者。そして何より、蓮がこの世で最も嫌悪する女だ。
『…っ、き、切らないで!』
蓮が電話を切ろうとする空気を察したのか、和美がすかさずそう叫んだ。実際、問答無用で切ろうとしていた蓮は、遠ざけかけた電話を、仕方なく再び耳に当てた。
「…何の用だよ」
『……』
「用ないなら、切る」
『話がっ』
元々、ハスキーボイス気味の和美の声が、余計掠れる。引っかかってしまった言葉に一度咳き込むと、和美はもう一度言い直した。
『話が、したいの』
「してるだろ、今」
『そうじゃなくて! 会って、話したい。きちんと』
「…会ってる時間なんて、ない」
『…でも…』
「言いたいことがあるなら、今話せよ」
『……あ……』
言いかけて、言葉に詰まる。
10秒黙ったら電話を切ってやろう、と蓮が考えていると、まるでその考えを読んだかのように、8秒の沈黙の後、和美が口を開いた。
『…あたし、本当に結婚して、いいのかなぁ…』
「…は?」
『要と結婚すべきかどうか、迷ってる』
「……」
―――何、言ってるんだ、こいつ。
あり得ないセリフに、思わず呆けてしまう。
結婚すべきも何も、兄と和美の結婚式は、1月12日―――既にあと2ヶ月を切っている。いや、大体、年内に入籍し、和美も穂積家に引っ越す運びなのだ。
「バカじゃないのか? もう迷ってるような段階じゃないだろ」
『…あ…あたしだって、わかってる』
呆れたような連の言葉に、和美は、少し上ずった声で答えた。
『今頃迷ってるようじゃ、ダメだよね。わかってる……わかってるんだ。答え出さなきゃいけないのは』
「…出さなきゃ、って…出したから、結婚決めたんじゃなかったのか?」
『その、つもりだったけど…』
「けど―――何だよ」
『…けど…』
「何だよ」
『…そうやって、蓮はいっつも、何もわかってないフりするんだね』
和美の声に、僅かに非難の色が滲む。それに比例するかのように、蓮の眉もムッとしたようにつり上がった。
「何が言いたいんだよ。はっきり言えよ」
『本当は聞こえてたんでしょう!?』
和美がぶつけてきた言葉に、蓮の心臓が、大きく跳ねた。
『あの時……蓮、本当は聞いてたんだよね!? 聞いてたから、あたしのこと嫌いになったんでしょ!?』
「……」
あの、時。
人が変わったかのような、兄の顔。
耳に突き刺さる、和美の悲鳴。
体中を苛む激痛。痛い……痛い、痛い、痛い。
フラッシュバックする、記憶―――この数年間、絶対に思い出すものか、と心に決めていたのに、その記憶は鮮明だった。
『か…要にはあたし、勘違いした、って言ったけど…っ…、本当は、違う。違うってこと、蓮も気づいてたんだよね?』
「…うるさい」
『だから、あたし……蓮の足に生涯残る傷負わせちゃったことは、蓮がいくら気にするなって言っても、』
「うるさい!」
裏通りに響くほど、大きな声だった。
日頃、激昂などまずしない蓮が、多分、生涯で初めて見せた、激しい怒り。電話の向こうの和美も、その感情的な声に、ハッとしたように息を呑んだ。
体が、震えた。
一度も表に出さないまま、ずっと飲み込み続けてきた、2人に対する憤り。押さえ込みすぎて、隠し続けすぎて、もう消えかけていると自分でも思っていた憤りに―――体の震えが、止まらない。
「…あんたにも、兄貴にも、もうウンザリなんだよ…」
『……』
「俺は、何も関係ないのに―――兄貴の勝手な思い込みと、あんたの一方的な想いのせいで、いつだって俺が一番損をしてる。あんたたち2人の間に何かあるたびに、2人して俺を理由に出してくる。…迷惑なんだよ。いい加減にしろよ。あんたたち2人のことは、2人だけの問題だろ!? 俺を巻き込むな! 俺を理由に使うなよ!!」
『―――…』
蓮の剣幕に、和美は、すっかり黙り込んでしまった。
挙句に、電話からは、すすり泣くような声まで聞こえてきた。
―――いい加減にしてくれ…。
最後は泣き落としか。…最悪だ。まだ憤りに震える喉を押さえ、蓮は疲れたように、大きく息をついた。
兄と和美の間に横たわる、決して言葉にはしない深い溝のことなど、誰も知らない。多分……兄本人ですら、その真の正体には、完全には気づいていないだろう。蓮だけが―――和美の言葉を聞いた蓮だけが、その真相を知っている。
…誰にも、言えなかった。
どれだけ自分が苦しい立場に立たされても、絶対に真相は口にしなかった。
周囲の人間を悲しませるから、とか、和美を庇うため、とか、そんな綺麗事のためじゃない。言えなかった理由は、ただ1つ―――蓮自身が、その真実に、吐き気がするほどの嫌悪感を抱いていたからだ。
口にするのもおぞましい。こんな話、誰にも言えない。…だから、どんな時も、まるで貝のように口を閉ざしていたのだ。
誰のために、家を出たと思っている?
誰のせいで、あの家に居られなくなったと思っている?
父を愛し、母を愛し、家族を愛しているからこそ、あそこには居られない。居られる筈もない。兄にはわからずとも、和美にはそれがわかっていた筈だ。わかっていて、結婚し、あの家で同居することを決めたのだ。
なのに、そうやって蓮を追い詰めて、居場所を奪っておいて―――今更「結婚を迷っている」? …大笑いだ。心底、呆れる。
「…和美がマリッジブルーって、全然似合わないから、やめろよ」
『……』
「なんだかんだ言って、結局、1度だって別れたこと、なかっただろ。それが和美の答えだと、俺は思う」
『…あたし…蓮のお姉さんになる自信、ない』
「―――だから。そういうこと、兄貴には絶対、言うなよ」
念を押すように蓮が言うと、電話から聞こえる泣き声に混じって、小さく「うん」という答えが返って来た。
「じゃあ、切るから」
『待って、蓮、』
「切るから」
『……うん。わかった』
「じゃ」
これ以上の会話は無理だった。蓮は、まだ何か言いたそうな気配を残す和美を突き放し、電話を切った。
途端―――もうとっくに痛みなど感じない筈の古傷が、ズキン、と痛んだ気がした。
***
「I'm a fool to want you... To want a love that can't be true... A love that's there or others too... I'm a fool to hold you......」
店に入ると同時に、咲夜の歌声が、店内から流れてきた。
2回目のライブは既に始まってしまっていたらしい。自覚はしていなかったが、ぶらぶら歩いているうちに、相当な時間をロスしてしまっていたようだ。何はともあれ、一応間に合ったことに、蓮はホッとした。
客の入りがいいらしく、空いている席はほとんどない。選ぶまでもなく、蓮は、一番出入り口に近い席に腰かける羽目になった。ほどなく、オーダーを取りに店員がやって来たので、反射的に「マルガリータ」答えた。
酔わないと、やっていられない―――普段なら選ばない、比較的アルコール度数が高めのカクテルを注文した理由は、ただそれだけだ。
「I'm a fool to want you..... Pity me, I need you......」
―――よりによって、この曲か…。
これまで聴いた咲夜の歌の中で、最も切なくて、最も情感が伝わってきた歌。狂うほどにあなたが欲しい―――普段の自分には理解できないその感情を、この歌を聴いている間は、少し理解できた気がしたものだ。
ステージ上の咲夜は、スタンドマイクに両手を添え、時折目を伏せながら歌っている。
洗いざらしのジーンズに、何の変哲もない白いシャツ。豪華でもなければ女らしくもない服装なのに、その姿は、普段見る咲夜とは別人ではないかと思うほど、どこか妖艶でしっとりとして見える。歌の内容のせいなのか、それとも、閉じた瞼の裏に、狂おしいほどに欲しい人を映しているせいなのか……それは、わからないけれど。
誰かを「愛しい」と想っている人間は、本当は、ああいう表情をするものなんだろうか。それとも、所詮舞台の上、あれは歌という名の演技で、実際の恋愛とは別物なんだろうか。
…兄や和美を「醜い」と思う自分は、間違っているのか。
それとも、やはり彼らは、自分が感じるとおり、醜い連中なのだろうか。
「蓮君?」
ぼんやりしていた蓮は、頭上からかけられた声に、ハッと我に返った。
慌てて視線を声の方に向けると、そこには、少し目を丸くした咲夜の笑顔があった。しまった……考え事をしているうちに、ライブが終わってしまっていたようだ。席もお世辞にも目立たない場所とは言い難い。見つかってしまったのも当然だろう。
「こ…、こんばんは」
「また来てくれてたんだ。えーと、1ヶ月ぶりくらい? もうちょっとかな」
咲夜は、バイクに2人乗りした時以来の来店だと思っているのだろう。実はその後、3度も来店しているのだが―――そんなことを言うつもりもないので、蓮は曖昧に笑っておいた。
「1人? それとも優也君と一緒?」
「…1人です。バイト帰りで…」
「そっか。あれ? 今日はカクテル飲んでるってことは、バイクじゃないんだ。なんだ、残念」
冗談か本気か、そんなことを言って笑う咲夜に、蓮も一緒に笑おうとした。
けれど。
笑おうとした口元が、強張る。
ひきつった顔は、蓮の思い通りの表情を作ってはくれなかった。気づけば、視界が、薄く霧でもかかったように、ぼやけていた。
「……っ!」
自分で自分に驚き、咄嗟に顔を逸らす。その弾みで、目に浮かんでいた涙が、僅かに頬に伝った。咲夜の驚いたような視線を感じて、蓮は慌てて、零れ落ちた涙を指で拭った。
「ちょ…っ、ど、どうしたの、蓮君」
突如涙を零した蓮の様子に、さすがに咲夜も焦っているようだ。ガタガタと蓮の向かいの椅子を引いて腰かけると、身を乗り出すようにして背けられた蓮の顔を覗き込んだ。
「なんか、まずいこと言った?」
自分の言動が蓮を泣かせたのでは、と危惧しているらしい。顔を逸らしたまま、蓮はく首を振った。
「何か、あった訳?」
「…いえ…、すみません」
「……」
「…すみません。別に、何も。…ただ―――…」
ただ―――何だと言うのだろう。
何を言うつもりなのか、自分でもよくわからない。言葉に詰まった蓮は、口元に手を置いて俯き、震える唇を必死に押さえた。
足のことなど、どうでもよかった。
確かに、陸上選手としての道は断たれたが、日常生活に支障はない。速く走ることは無理だが、そこそこ普通に走ることだってできる。兄のことも、和美のことも、足の怪我については一切恨んでなどいなかった。
蓮が何故、兄や和美から遠ざかったのか。その本当の理由を、兄も和美も、よくわかっている。
でも2人は、わかっていて、それを決して口にはしなかった。だから蓮も、何も言わず、記憶を消し去る努力をしたのだ。
それなのに―――今になって、昔のことを蒸し返して、蓮を追い詰めたり、束縛しようとしたりする。兄が和美に対して高圧的になる理由に、和美が兄に対して卑屈になる理由に、蓮の名前を出してくる。2人の気持ちが離れそうになる理由を、蓮に求めてくる。
…うんざりだ。
可愛いとも思っていない弟を心から気遣うフリをする兄にも、責任という名のもとに蓮との繋がりを離そうとしない和美にも。そして何より―――そんな2人に対して、背を向けることでしか対抗できない、無力な自分にも。
…悲しい。
悲しくて、悔しい。
兄を尊敬し、頼りに思っていた。和美だって、幼い頃の目標だった。そんな2人を、醜いとしか感じられないことが、悲しくて、悔しい。
「…す…みません…」
5分もそうしていただろうか。ようやく震えが収まった。大きく息を吐き出すと、蓮はやっと顔を上げた。
向かいの席に座る咲夜は、テーブルに頬杖をついて、意外なほど平然とした表情で蓮を眺めていた。蓮と目が合うと、頬杖をやめ、少し前のめりだった姿勢とは逆に椅子の背もたれに悠々ともたれると、脚を組んでニッ、と口の端を上げてみせた。
「マルガリータ、あんまり放置しとくと、まずくなるんじゃない?」
「え…」
「ただし、空きっ腹で飲むと痛い目見るから、何か食べた方がいいかもね。男だからって油断してると、年下好きのマダムやゲイの餌食にされるから、酔っ払わないように気をつけないと。この辺も、1本裏道に入ると、結構ヤバイから」
「……」
「じゃーね」
そう言うと、咲夜は席を立とうとした。あまりにあっさりしたその態度に、思わず蓮は身を乗り出した。
「あ、あのっ」
「ん?」
呼び止められ、咲夜は「何?」という顔で、首を傾げた。
―――子供でもない男が、いきなり涙ぐんだりして、変に思わないのかな、この人。
咲夜のリアクションの少なさを、一瞬疑問に思った蓮だったが、ふと彼女の恋人のことを思い出して、咲夜があっさりしている理由が、少しわかった気がした。蓮よりはるかに年上なのに、笑ったり怒ったり、感情表現が実に素直で豊かな人―――ああいう人物を見慣れている咲夜なら、蓮が多少の感情の乱れを見せたところで、さほど戸惑ったり動揺したりはしないのは当然かもしれない。
…いや、そういう問題じゃ、ないのかもしれない。
この前、バイクの2人乗りをした日、蓮は、まるで違う自分と咲夜の間に、ある種の共通項を見つけた気がした。恋愛に憧れるより先に、現実の恋愛の醜悪さを実感してしまった経験があるのかもしれない―――咲夜の反応から、そう感じた。
もしかしたら、咲夜自身、色々なものを裏に潜めている人間だからこそ、蓮が涙を見せても冷静でいられるのかもしれない。勿論、その本当のところは、わからないけれど。
「…1つ、訊いていいですか」
無意識のうちに、そう口にしていた。
首を傾げていた咲夜は、暫し黙って蓮の目を見返していたが、やがて、浮かしかけていた腰を下ろし、また脚を組んだ。「いいよ」という返事と受け取った蓮は、考えをまとめながら、ゆっくりと切り出した。
「俺、あんまり女の人の気持ちとか、そういうの、知らなくて……だから、普通がどういうものなのか、よくわからなくて」
「女の人?」
「…兄貴の、婚約者、です」
言いながら、喉の奥が、引きつる。古傷が疼くのか、蓮は知らずテーブルの下で右膝を手で押さえた。
「そいつ、俺たち兄弟とは、幼馴染で―――もう随分昔から、兄貴と付き合ってたんです。親同士も公認の仲だし、どこからどう見ても相思相愛で……結婚が決まったのはここ2年ほどの話だけど、いずれは結婚するんだろう、って、親も思ってたし、俺もそう思ってた。けど……」
「…けど?」
「…俺、知ってるから」
視線が、斜め下に落ちる。蓮は、唇を軽く噛んだ。
「子供の頃から、兄貴一筋できてた筈なのに―――あいつ、途中から、他の男にも興味持ち出して」
「え?」
「…兄貴と付き合ってるのに、別の男のことも好きになって…関係、持とうとした。その男と」
「……」
「…兄貴が、可哀想だ。あんな女と結婚なんてとんでもない、って思った。けど―――兄貴は、本当に、あいつのことが好きだから。あいつのことになると、ちょっとおかしくなるくらいに、あいつしか見えてないから。…だから、俺も、何も言わなかった。結婚を決めたってことは、やっとあいつも兄貴1人に落ち着くんだな、って、少し安心したくらいだったんだ。……なのに……」
「まだ、好きだって?」
先を読んで、咲夜が訊ねる。蓮は俯いたまま、小さく頷いた。
「…入籍も、式も、もうすぐそこまで近づいてるのに……心の中では、まだ兄貴を裏切ってたなんて」
そう言うと、蓮は、はあっ、と息を吐き出し、乱暴に髪を掻き上げた。
「―――俺には、全然、わからない」
「……」
「兄貴のことは変わらず好きだけど、もう1人の男も好きだなんて―――理解、できない。深い仲の恋人がいるのに、他の男にも手を出そうとするその気持ちが理解できないし、他に好きな男がいるのに、それまでと変わらず兄貴に抱かれ続けられる、その神経も理解できない。…結局、どっちも本当に好きな訳じゃないんだ、としか思えない」
「…そ、か…」
どこか虚ろな声で、咲夜がそう相槌を打つ。顔を上げた蓮は、咲夜を真っ直ぐに見据えた。
「俺、間違ってますか」
「……」
「好きな人がいるのに、他の奴に体を許すようなことは、許せない―――本当に好きなら、その想いがあるうちは、その1人だけを見つめて欲しい……いや、見つめるべきだ、って思う俺は、おかしいですか」
「……」
咲夜の瞳が、僅かに、揺れる。
硬い表情の咲夜は、それでも蓮の目から視線を外すことなく、真っ直ぐに蓮を見返していた。
無言のままに見つめられているうちに、なんだか、一方的に身内の恥を晒してしまったことが、無性に気まずくなってくる。先に目を逸らした蓮は、カクテルではなく、水の入ったグラスの方を手元に引き寄せた。
「―――別に、おかしくないよ」
蓮が、手にしたグラスの水を半分ほど飲み干したところで、唐突に、咲夜がそう答えた。
蓮と目が合うと、咲夜は、少し目を細めてくすっと笑い、もう一度言った。
「おかしくないよ。蓮君の言ってること。…ていうか、ついこの前まで、そっくり同じことを、私自身が言ってたし」
「え…っ」
「恋は、一生に一度でいい。好きになった人をいつか裏切るくらいなら、たとえ報われなくてもいい、一度好きになった人を生涯愛し続けたい―――人生の半分、ずっと言い続けてた、私の座右の銘。…ちょっと驚いた。蓮君も同じようなこと言うから」
恋は、一生に一度―――…。
そんなことを、咲夜が言っていたなんて。蓮の方こそ、驚いた。
ところが咲夜は、呆ける蓮の前で、更に意外なことを言い放った。
「でもねー、残念。その座右の銘、私はもう、言う資格ないんだ」
「え?」
資格がない?
意味がわからず、蓮が眉をひそめると、咲夜はあっけらかんと答えた。
「だって、好きな男いたのに、奏を好きになったし」
「……」
「報われなくてもいい、ずっとこの人だけ想い続けるんだ、って決めた人がいたのに、その人のことも、まだ好きなままだったのに―――気づいたら、奏のことも、好きになってた。…本当に好きなら、その想いがあるうちは、その1人だけを見つめたかったんだけどね」
―――…ショックだった。
いや、咲夜が、座右の銘に反することをした、ということに、ショックを受けているのではない。もっと根本的なこと―――咲夜に、奏より前に好きだった人が……それも、一生その人を想い続けようと決めていたような人がいた、という事実が、ショックだった。
初めて会った時から、蓮は咲夜のことを、愛だの恋だのといったものとは遠い存在だと、根拠もなくそう感じていた。奏という恋人がいると知って少々驚いたが、友人の延長線上にあるような2人の雰囲気に、まあこういう恋人同士がいても不思議ではないか、とある程度納得できた。
でも……今聞いたような話は、想像できない。あまりにも、咲夜のイメージからかけ離れている。そのギャップが、思いのほか蓮にとってはショックだった。
呆けている蓮の様子に苦笑した咲夜は、サラリと前髪を掻き上げると、普段より幾分ゆっくりした口調で続けた。
「正直…凄く、苦しかったよ。蓮君と同じで、同時に2人を好きになるなんてあり得ない、って、そういうこと言う奴を軽蔑してたのに、自分自身がその立場になって―――自己嫌悪にどっぷり浸かった。長い…ながーい片想いだったからね。報われなくてもいい、なんて口では言ってたけど、あまりに長すぎて、奏に逃げたくなったんじゃないか、なんて思ったりもした。この世で一番大事な親友を、苦しい恋から逃げるために利用するなんて、って、ますます自分が嫌になった。…本当に、ついこの間まで、そうだった」
「……」
「でも、何度も何度も、自分の気持ちを確かめて―――どちらに対する気持ちも、間違いなく“恋”なんだ、ってやっと認めた。そういうことも、この世にはあるんだ、って、認めるしかなくなった。恋は、一生に一度じゃなかった―――身を持って体験しちゃったら、もう、あのセリフ言うことは、私にはできないよね」
「…今もまだ、2人とも好きなんですか…?」
「好きだよ」
あっさり、肯定した。
「10年も想い続けた男だもの。嫌いになる訳、ないじゃん」
「…10年…」
「でも、その人のことは、全然報われないまま10年も黙って見てられたのに……奏に対しては、ダメだったんだよね」
ふふっ、と笑った咲夜は、なんとも形容し難い微笑を浮かべた。
「奏が欲しい、って思っちゃったから」
「……っ、」
「奏の方も、同じように思ってくれている、ってわかったから、余計、そう思ったのかもしれないけど……ただの親友のフリして、微妙な距離を置き続けるなんて、絶対無理だって思った。傍にいれば触れたいと思うし、抱きしめたいし、抱きしめられたい。…同じ“恋”でも、あの人に対する気持ちがまだ消えてなくても、そう思う自分を無視することは、少なくとも私にはできなかった」
“I'm a fool to want you”―――さっき聴いたあの歌から伝わった、あの、狂おしいほどの想い。その原動力が、今、わかった気がした。
舞台の上のフィクションなんかじゃない。あれは、咲夜自身の想い―――気が違うほどに欲しい人がいる、そういう体験を、咲夜自らが経験していたからこそ、あんな歌が歌えるのに違いない。
「…で、お兄さんの婚約者だけどさ」
話が再び和美の件に戻り、蓮は一瞬ドキリとした。反射的に緊張する蓮に、咲夜は、一旦言葉を切り、少し待ってから続けた。
「いろんな可能性が、あると思う。蓮君が言うように、お兄さんのことももう1人の人のことも、中途半端にしか好きじゃないのかもしれないし、1人じゃ飽き足らない、どうしようもない女なのかもしれないし―――私と同じで、どちらも本物の“恋”かもしれないし」
「……」
「もし、同時に2人の人を好きになってしまったんだとしたら……苦しんでると思う。答えが出なくて」
「…結婚を決めたのに?」
結婚を決めたってことは、答えを出したってことじゃないか―――言外にそう言って蓮が眉をひそめると、咲夜はふっ、と笑った。
「奏の気持ちを知る前、私も1回、答えを出したつもりになってたこと、あったよ」
「え…」
「どっちも選ばない―――どちらに対する恋心も封印してしまおう。…本気で、そう決めたつもりになってた」
「……」
「私は、比較的早く、真実に辿り着くことができたけど……難しいんだよ。自分自身の本当の気持ちに気づくのって」
―――本当の…気持ち…?
自分で自分の気持ちがわからない、なんて…そんなこと、あるのだろうか?
しかも、昨日今日始まった話ではなく、もう5年以上も続いていることなのに―――…?
蓮の、知らない世界―――自分で自分の気持ちを見失ったことなど、蓮は、まだ経験したことがなかった。
***
「一緒に帰ってあげられなくて、ごめんよー」
蓮を見送るために店の外まで出て来た咲夜は、そう言って茶化すように笑った。
「…別に、一緒に帰りたかった訳じゃ…」
―――そりゃあ、ミーティングがある、って言われなければ、一緒に帰りますか、と言うつもりではいたけど。
蓮が眉をひそめると、咲夜は面白そうに笑って、蓮の肩をバン! と叩いた。
「ハハハ、冗談だって。真面目だねー、蓮君」
「……」
…真面目に反応した自分が、バカだった。
疲れを感じた途端、さっき飲んだマルガリータが、一気に体中に回った気がした。額を押さえた蓮は、姿勢を正すと、咲夜に深々と頭を下げた。
「…すみませんでした。ミーティングの開始を遅らせてしまって」
「いいよ、別に。30分かそこいらじゃん。それよか、何も食べてかなくていいの?」
マルガリータ1杯で店を後にすることとなった蓮を気遣い、咲夜が首を傾げる。顔を上げた蓮は、口元だけに笑みを作り、頷いてみせた。
「たまには、自炊しないと」
「ふーん。偉い偉い」
「…色々、ありがとうございました」
別に、何が解決した訳でも、ないけれど。
部分的にとはいえ、咲夜に話したことで、少しだけ気が軽くなった。…それは、間違いない。礼を述べながら、蓮は再び、軽く頭を下げた。
そんな蓮に笑顔で応えた咲夜だったが。
「―――あのさ。最後に1つ、訊いていい?」
数秒前の続きみたいな軽い口調で、そう言いだした。何だろう、と思いつつも、蓮は頷いた。
「お兄さんの婚約者が、好きな人。…その人の方は、彼女のこと、ちょっとでも好き?」
「……」
一見、当然すぎる質問。
けれど―――咲夜の目を見て、蓮は、自分が大きな失敗をしてしまったことに気づいた。
「…いいえ」
心臓が、ざわつく。そのざわつきを必死に無視しつつ、蓮は努めて冷静に、きっぱりと否定した。
「全く? 少しも?」
「…女として見たことは一度もない―――って、本人は言ってました」
「…そっか」
はぁ、小さく息をついた咲夜は、どこか同情するような笑みを目元に浮かべた。
「難しい立場だね、蓮君も」
「……」
「じゃ、おやすみ」
ぽん、と再び蓮の肩を叩くと、咲夜は“Jonny's Club”のドアの向こうへと消えた。
―――…本人は言ってました、か。
…我ながら、意味のないフォローだ。
自分では、上手く誤魔化したつもりでいたのに―――飽くまで他人事のように話したつもりでいたのに。
あの目は、間違いなく、見抜いていた。和美が今も想いを引きずっている相手―――それが、誰なのかを。
兄貴が、変わらない限り。
和美の気持ちが、離れてくれない限り。
俺は、あの家には、帰れない―――帰る訳には、いかない。
咲夜に叩かれた肩を押さえた蓮は、大きなため息をつき、空を仰いだ。
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