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ぱらっ、とめくった資料の1ページに目を留め、奏は少しばかり、眉をつり上げた。
―――へー、ロンドンの“VITT JEAN”は、こいつがやったんだ。
本家本元“VITT JEAN LONDON”の、それは今期のメインポスターの縮小版だった。
奏から見たら5つ年下で、奏がロンドンを離れた頃、ちょうど頭角を現してきたモデルだ。ちょっとやんちゃなキャラクターが評判が良く、カジュアル雑誌でよく使われていたが……なるほど、確かに良質なカジュアルをコンセプトとする“VITT
JEAN”にはピッタリだ。
―――でもコイツ、オレを変にライバル視してたんだよな。先輩をモロに敵視すんなっつーの。
何かの現場で会った時、まともに敵意剥き出しな目線を向けられたことを思い出し、奏の眉はますますつり上がる。チクショー、負ける訳にはいかないぜ、と、やや乱暴にページをめくった。
次のページは、従来どおりの“VITT”らしいノーブルなスーツ姿のポスター。“VITT”本体のメンズ部門の、今期のポスターだ。こちらは、奏の知らないモデルだった。なかなか端正な顔をしており、いかにもスーツ専門のモデルといった感じだ。多分こういう仕事が日頃から多いんだろうな、と想像できる。
「一般発表前に取り寄せたものですが、
20代半ばと思しき女性担当者がそう言うと、“VITT JAPAN”広報部部長の肩書きを持つ壮年の男性が、瑞樹と奏の顔を見比べ、ニコリと微笑んだ。
「まあ、これは参考程度ですが…いかがです? 従来の“VITT”と“VITT JEAN”との違いは、比較的顕著に出ていると、私は思うんですが」
「…そうですね」
軽く眉根を寄せて写真を見つめていた瑞樹は、目を上げ、“VITT”の方の写真を広報部長の方に向けた。
「“VITT JEAN”はいいとして、こちらは、一宮さんならもっと動かした方が躍動感が出ると思うんですが」
「ああ、3、4年前に、一宮さんを起用して時田先生が撮られたポスターなんかは、確かにそうでしたね」
瑞樹に「一宮さん」と呼ばれるのもくすぐったいし、あれは時田ではなく実は瑞樹が撮ったのだから、二重の意味で居心地が悪い。チラリとこちらに向けられた広報部長の視線に、奏は無言でぎこちない笑みを返した。
「あの時も、撮影後、従来イメージと違いすぎる、ってことでかなり揉めたんですが―――ラフにあるような静かなイメージでなければ、やはりまずいですか」
「いえ、そういう訳でも…。ラフ画は、下手な指示はない方がいいか、ということでシンプルなものを提出していますが、現場で色々動いていただいて、一番良かったものがロンドンのものより大胆なものになっても、特に問題はないと思いますよ。そもそも今回は、既存の“気品・高級感”オンリーというイメージからの脱却も、重要なファクターとなっていますので」
気品・高級感―――ああ、そんな単語をよく並べられたっけ、と、奏の口元が自然と歪む。そのイメージを初めて覆した仕事が、同じ気品・高級感で売っていた“VITT”の仕事だったなんて、なんとも皮肉な話だ。
「今月末か来月頭には社長が来日するんですが、もし事前に本社の意向を確認されたい点があれば、その前に私の方から本社に問い合わせさせていただきますので」
「え、」
何気なく広報部長が発した一言に、奏は思わず、小さく声を上げた。
その声の意味を、瑞樹は即座に察しただろうし、それ以外の人間は想像すらしていないだろう。一斉にこちらに向けられた視線に、にわかに冷や汗が滲む。勿論、本当の理由など、絶対に知られてはまずい。自分の迂闊さに内心舌打ちしつつ、奏はできる限り大した問題ではなさそうに訊ねた。
「あの、社長が来る、いや、来日されるんですか?」
「ええ。ショーモデルや衣装のチェックのために、数日間滞在の予定です。…どうかされましたか?」
「いえ、その―――前にあっちで仕事させていただいた時、随分多忙な人だな、と思ったもんですから。わざわざ日本に自ら出向いてくるとは、ちょっと予想してなかったんです」
「ああ、それで…。まあ、日本進出は、社長の悲願でしたから」
「悲願?」
「随分昔、出店を試みたものの、諸事情により断念したことがありましてね。いわばリベンジなんですよ、今回の出店は」
「……」
日本に出店を―――初めて聞いた。一体いつ頃の話だろう?
「欧米人以外を顧客とするのも、今回が初めてですから、社長もいつも以上に気合が入ってますよ。お二人にも、頑張っていただかないと」
ニコニコと檄と飛ばす広報部長に、それ以上、今回の仕事と無関係な質問をする訳にもいかない。奏も瑞樹も、「がんばります」と頭を下げた。
***
「そんな暇、ぜってーねぇくせに」
思わずそう吐き出しつつ、何故か地面に転がっていたペットボトルの蓋を蹴り上げる。が、軽いプラスチック製の蓋は、奏のスニーカーのゴム底をガガガッと擦っただけで終わった。
「現場主義も結構だけど、いい加減、社長がなんでも顔出す規模の企業でもなくなってきたんだからさ。無理矢理来日なんかせずに、全部支社の人間に任せりゃいいのに。そんなに部下が信用できないのかよ」
「―――と、ここで愚痴ってもしょうがねーだろ」
ジャケットを羽織ながら瑞樹が呟いた一言に、まだ不満顔の奏も沈黙せざるを得なかった。
“VITT”のポスター撮影は、今月28日―――サラが来日するのも、ちょうどその辺りだ。
ロンドン時代、奏が“VITT”で仕事して感じたことは、「この会社は典型的トップダウン方式だな」ということだった。まあ、他の業種に比べて、デザイナーが社長をやっているようなファッションブランドというのは、その傾向が強くなるのも無理はないのかもしれない。社長が生み出すデザインこそが、会社の生命線なのだから。
時田から注文されていたのか、ポスター撮影の現場にこそ姿を見せなかったが、ショーやその前段階の衣装合わせなどには、サラは必ず顔を出し、自らモデルに指導し、アシスタントデザイナーやお針子に次々指示を出していた。その姿は、一番忙しい時の佐倉と、ちょっと似ていなくもない。大量のデザイン画と打ち合わせ資料を抱えながら、片手では携帯電話で商談先へ向かう営業マンに活を入れ、手振りでリハーサルの進行指示をする……といった具合だ。
ショーモデルに対しても、単に全員集めて挨拶するだけではなく、個別に握手つきで挨拶をかわし、ショー本番までには全員の顔と名前を覚えていた。そんなもの、ショー担当者に任せればいいだろう、と思うが、サラから言わせれば「社長たるもの、それができて当然」らしい。
だから、あのサラ・ヴィットなら、たとえ現場が日本であっても、ここぞという場面では自ら足を運ぶだろう―――勿論、奏にだってわかっていたことだ。
「どうせ何らかの形で顔は合わせる羽目になるんだろうな、って、覚悟してはいたけど」
両手をダウンジャケットのポケットに突っ込み、奏は背中を丸め、ため息をついた。
「いざとなるとなぁ…。オレたちを捨てた女だ、ってわかってんのに、一体どんな顔して会えばいいんだか…」
「―――お前らを捨てた女、じゃないだろ」
奏のぼやきに、隣を歩く瑞樹が、そう切り込んできた。少し目を丸くして奏が目を向けると、瑞樹も奏の方を見、サラリと続けた。
「サラ・ヴィットは、“クライアント”だろ」
「……」
「どういう素性の相手であれ、オファーを受けた時点でクライアントだ。そう思えないんだったら、今からでも降りろよ」
「わ、わかってるって。わかった上で引き受けたの、あんただって知ってんだろ?」
私情に引きずられるようなら、やめておけ―――オファーを受ける前にも、最終確認として、そう言われた。
引き受ける前なら、いくらでも私情を挟んでいい。理不尽な理由で承諾を渋ったり、身勝手な事情から何がなんでも引き受けたいと思ったり―――誰だって、人前に出せる理由だけで物事を決めている訳ではない。人間に感情がある限り、わがままも被害妄想も選り好みも
けれど、引き受けた限りは、それは許されない。プロならば、相手が誰であれ、どんな仕事であれ、プロとしてのベストを尽くさなくてはいけない。嫌いな奴からの命令であっても、それが仕事上ベストな命令であるなら従うし、逆に恋人の頼みであっても、仕事にマイナスと判断すればばっさり切り捨てる。それができそうにない仕事は、そもそも引き受けてはいけないのだ。
「現場に入りゃあ、ちゃんとベストを尽くすって。仮にもプロなんだから。でも…プロだって人間なんだから、コンピューターみたいにスイッチひとつで切り替えられないだろ。他のクライアントと同じ、って今は思えても、いざその時になったら…」
「その時になったら?」
ピタリ、と足を止めた瑞樹は、軽く首を傾けるようにして、奏の目を見据えた。
「その時になったら、どうなると思ってるんだ?」
「え、」
「よくも捨てやがったな、と殴りかかりそうなのか、仕事そっちのけで恨みごと言いそうなのか、生き別れになった親子の感動の再会になりそうなのか―――どうなりそうで不安なんだよ、お前は」
つられるように足を止めた奏は、2、3度瞬きを繰り返し、続いて眉をひそめた。
「―――…」
数秒、考えてみたが、具体的な場面は何も思い浮かばなかった。答えに窮する奏を見て、やっぱりな、とでも言わんばかりに、瑞樹はふっと笑った。
「…ま、気まずい、ってのは、俺もわかる。だったら、気まずそうな顔して会えばいいんじゃねーの」
「まんまかよっ」
「第一、それだけ忙しい女に、仕事の現場で私情挟んでる暇なんて、ある訳ないだろ」
再び歩き出して瑞樹が放ったこの言葉には、奏も「なるほど」と納得するしかない。案外、サラはひたすら仕事のことを考えているだけで、自分1人が自意識過剰なのかもしれない―――そんな可能性が頭をよぎり、知らず眉を顰めた。
「それより、累たち、今日帰るんだろ? この後、見送りに行くのか」
サラの話をこれ以上引っ張らないためか、それともこの話に飽きたのか、瑞樹があっさり話題を変えてきた。内心ちょっとホッとしつつ、奏は首を横に振った。
「いや、予約入ってるから、店戻らないと。オレが店入る時間伝えてあるんで、空港から一度、電話もらうことになってる」
「そうか…。それにしても、随分慌しいな」
「んー、それぞれ仕事持ってっからなぁ…。父さんと累は仕事兼ねてるからいいけど、母さんはもう学校始まってるし。里帰りしようにも親族いないし、カレンの両親の墓参りして、オレたちや成田たちに会ったら、あとは東京を軽く観光して回れば十分なんじゃない?」
「まあな」
と同意した瑞樹だが、ふと思い出したように眉をひそめた。
「…そういえば、あれ、どうなった?」
「え?」
「撮るって言ってただろ」
誰を、とは言わずに向けられた瑞樹の視線に、奏の表情が一気に渋くなった。
「―――その話なら、明日が本番」
「本気だったのか、あの話」
「昨日って、郁にも会ったんじゃなかったの?」
「会ったけど、そんな話題、出なかったからな」
勿論、瑞樹の言う「あれ」とは、時田が咲夜を撮影する話だ。
一宮家一同は今夜帰国してしまうが、時田はまだ少しの間日本にいる。こっちにも仕事がいくつかあるのだ。そして、明日―――時田は、咲夜を撮影する。
「しかも、プライベートな撮影のために、ほんとにスタジオまで押さえたんだぜ? ありえねー」
「…そりゃ随分と力入ってんな」
さすがに、瑞樹の目も丸くなる。普段プライベートでは人物をほとんど撮らない時田が、1度会っただけの、しかも素人の咲夜を、自ら撮りたいと言っただけでも十分珍しいことだ。その上、わざわざ身銭を切ってスタジオまで借りたというのだから、驚くのも無理はない。
「郁が咲夜を撮る話聞いてからカレンが機嫌悪い、って累が言ってたけど、そりゃ機嫌悪くもなるよなぁ」
「まあな」
もっとも、仕事でいくらでも撮る機会のある人間を、わざわざプライベートでも撮りたがるとも思えないのだが。それでも、カレンのプロとしてのプライドが少なからず傷ついたのは事実だろう。咲夜が特別目立った容姿でも何でもないから、特に。
「―――…なぁ、成田」
「ん?」
「成田は、咲夜のこと、どう思う?」
歯切れの悪い奏の質問に、瑞樹は怪訝そうに眉をひそめた。
「どう、って、何が」
「被写体としてだよ。郁みたく、咲夜のこと撮りたいとか思う?」
「いや」
あっさり、即答。だがそれは、対象が咲夜だから、ではなかった。
「蕾夏以外、撮りたいと思ったことねーし」
「…そうだったよな」
被写体の魅力を的確に見抜き、実に人間味溢れる写真を撮るカメラマン、成田瑞樹。ただし、仕事限定。基本的に人間は撮らない主義―――ただし、蕾夏を除いては。
勿論、そう言いつつも、瑞樹がプライベートで人間を撮ることも、たまにある。何かの写真展に出す作品のために、友人の手だか足だかを撮らせてもらった、なんて話も聞く。けれど、そういう時の瑞樹の感性は、常にフラットだ。プロ転向への道を拓くこととなった屋久杉の写真のように、「撮りたい」という衝動に駆られてシャッターを切っている訳ではない。いい構図だ、いい表情だ、よし撮っておくか、といった感じで、日常の諸動作の一環として、撮る―――まるで呼吸するように、シャッターを切る。
人間に対して常に平静であり続けた瑞樹の本能を掻き乱したのは、後にも先にも、蕾夏だけ。瑞樹に「撮ってくれ」と頼んだ人間は数知れないが(かく言う奏もその1人だ)、瑞樹が「撮らせてくれ」と頼んだ相手は、蕾夏ただ1人だ。
「けど、悪い被写体じゃないとは思うぜ」
否定はしたものの、瑞樹はそう付け加えた。一旦脱力しかけた奏は、途端、歩き続けながらも上半身全部をグルリと瑞樹の方に向けた。
「マジ!?」
「は? ああ…まーな」
「どの辺が? 顔? スタイル? どっか人と違う何かがあるとか?」
「…なんで時田さんが歌姫撮りたいって言ったかは、本人に訊かないとわからないだろ」
ズバリ、指摘されて、言葉に詰まった。
まさに、そのとおり。奏が瑞樹にやたら熱心にこんなことを訊くのも、ひとえに、何故時田が咲夜を撮りたがっているのか、その真意がわからずにいるからだ。
「そ…っ、それはそうだけどさ。…でも、撮影前に、郁本人には訊き難いっつーか―――なんか、撮られたくないと思ってるんじゃないか、って思われるんじゃないかと思うと」
「“思う”だらけだな」
動揺して言葉が変になっている奏に、瑞樹はくっくっ、と可笑しそうに笑い、その頭をポン、と叩いた。
「ま、どうせお前も行くんだろ? 撮影見てりゃ、時田さんが歌姫選んだ理由もわかるだろ。それでもまだわかんねー時は、本人に訊けよ」
「…ちなみに、成田は?」
つい、未練がましく食い下がる。まだ訊くか、と僅かに眉を上げた瑞樹だったが、
「普段の素顔は別に何とも思わねーけど、ステージの上のあの子は、絵になると思う」
「ステージ限定か…」
「時田さんも“化けるタイプ”って言ってただろ。俺は別に“撮りたい”とは思わねーけど、表現力ゼロのモデルよりは使えそうだし、あのタイプに触発されるカメラマンもいるだろうな」
触発……時田も、何か触発されるものを咲夜に感じたのだろうか。
―――確か郁って、蕾夏のことも撮りたいって言ってたんだよな。本人と成田が、最後まで拒否ったから、結局実現しなかったけど。なんでオレが好きになる女に限って、郁も撮りたがるんだよ。絵になりそうな素材なら、イギリスにも日本にも、いくらでも転がってるってのに。
案外、同じDNAの成せる業だったりして―――ほんの一瞬、そう考えてしまった奏は、なんだかわからない不愉快さに、思いきり眉を顰めた。
***
店に戻り、ちょうど着替えを終えたところで、携帯電話が鳴った。
『奏か?』
「お、父さんじゃん。珍しいな、母さん一緒にいて、父さんがかけてくるのって」
『母さんが最初だと、話が長くて時間切れになりそうだからな』
家族の中で最もおしゃべり好きなのは、当然、母だ。苦笑混じりな父の声に、奏も思わず苦笑した。
「もう出国手続き終わった?」
『ああ。累とカレンは、今頃になって土産物買うの忘れてたって言って、免税店で必死に買い物してるよ』
「ハハハハ、抜けてんなー、あいつら」
『すまないなぁ、バタバタ押しかけた上に、こんなに慌しく帰って』
「いいって。オレも、せめて見送りに行けたらよかったんだけどなぁ…」
『わざわざ見送りなんていらないさ。今生の別れでもあるまいし。それより、奏』
と、急に声色を変え、父は妙にワクワクしたような口調で、思いがけないことを奏に頼んだ。
『近いうちに、咲夜ちゃんの歌をCDかMDかに録音して、送ってくれないかな』
「は? 咲夜の歌?」
『昨日、連れて行ってもらってね。ほら、“Jonny's Club”とかいう店。ちょうどいい時間だったんで、咲夜ちゃんの歌が聴けたんだよ』
「ああ…、らしいな。咲夜から聞いた」
昨日、瑞樹や蕾夏が一宮家一同と夕飯を食べに行ったのだが、それがまさに“Jonny's Club”だったのだ。さっき瑞樹に訊いてみたところ、どうやら発案者は時田らしいが、事前に何も聞かされていなかった咲夜は、ステージから一同勢揃いの光景を目の当たりにして、一瞬、歌いだしのフレーズを忘れてしまいそうになったらしい。ライブ後、慌てて挨拶しに行ったところ、既に一宮家一同は帰ってしまっており、瑞樹と蕾夏だけが残って、母とカレンのおしゃべりに付き合ったせいで食べ損ねていた夕飯を、必死に平らげていたそうだ。
『いや、もう、ジャズはあんまり聴かなかったけど、あのトリオの音は、耳にも頭にも心地よいというか、魂が震えるというか、特に咲夜ちゃんの声は、表情豊かでありながら、こう…』
「…わかった。とにかく、気に入ったんだよな?」
このまま「どんな風に気に入ったか」を延々説明されそうな気がしたので、早めに要点をこちらから振った。
『そう、凄く気に入ったんだよ。でも彼ら、まだCDデビューしてないんだろう? だから、あの店でのライブを一度録音して、こっちに送って欲しいんだよ』
「うーん…録っていいのかな、店内で。1回、咲夜に訊いてみる」
『そうか。頼んだぞ』
「おっけー」
『じゃ、ちょっと待って。千里と代わるから』
「え、」
―――締めの挨拶もなしかよ、おいっ。
…どうやら、母のおしゃべりがどうこう、というのは口実で、早く奏に録音を頼みたかったのが、父が率先して電話してきた本当の理由のようだ。「元気でやれよ」くらいあってもいいだろ、と思ったりもするが―――考えてみれば、父は奏に対して、昔からこうだった。母曰く「それだけあんたを信用してるのよ」だそうだ。本当かよ、と、奏自身は少々疑っているが。
『もしもし、奏?』
ごそごそという衣擦れの音と小さな話し声を挟み、電話から聞こえてきたのは、今度は母の声だった。
『まだ時間、大丈夫?』
「うん。半までは、一応大丈夫」
『そう、よかった』
安堵したように、ふふふ、と笑った母は、一呼吸おいて、思いがけないことを言った。
『でも、咲夜さんに会って、安心した』
「え?」
『付き合い始めた頃の奏、随分悩んでたみたいだったから』
「う…っ、あ、あーれーはー…」
自分らしくない、と思うなら、辞めちゃいなさい―――突き放すようにそう言われ、一瞬、その言葉を本気に取ってしまったことを思い出し、奏の顔が知らず紅潮する。
「…悪かったよ、心配かけて」
『いーのいーの。息子の恋愛相談に乗るのが夢だったんだから、大歓迎よ。それに、実際日本に来てみて、電話じゃ見えなかった部分がよーく見えたしね』
「見えなかった部分?」
『いいこと、奏』
すぐ近くにいる父の存在を気にしたのか、母はここで、少し声のボリュームを落とした。
『より信頼されている、イコール、より愛されている、じゃあないのよ。咲夜さんが気を遣わなきゃいけないほど、あからさまな対抗意識燃やすのは、やめてあげなさい』
「……っ!!!」
図星のど真ん中をグッサリさされて、思わず足元がよろけた。ゴン、とロッカーにぶつかった音が携帯電話越しにも聞こえたのか、苦笑が電話の向こうから聞こえた。
『叔父さんの方は大物みたいねぇ。奏が全身の毛逆立てて唸ってても、手のりインコがさえずってる程度にしか思ってないような顔してたじゃない』
「う…うっせーよっ! どーせオレは小物だよっ」
『まあまあ、そう卑下しなくても。それにあの叔父さんも、見た感じはああでも、内心ではすごーく奏を意識してるかもよ? 可愛がってた姪っ子の彼氏ともなれば心穏やかじゃないだろうしね』
―――単に“可愛がってた姪っ子”ってレベルじゃねーんだよっ。
拓海と咲夜の関係を知れば、母だってさすがに奏が拓海を意識する気持ちも理解できるだろう。が…さすがにそれは、口にはできない。方向違いな嫉妬を抱いていると思われるのは面白くないが、奏はギリギリのところで、反論する口を閉じた。
『ともかく、あんたが柄にもなく妙に自信喪失してる理由は、今回でよーーくわかったわ。咲夜さんの性格も大きいけど、あの人の存在もかなり影響してる訳ね。納得だわ』
「咲夜の…」
うっかり聞き流しそうになった部分に、奏はちょっと表情を変え、携帯を持ち直した。
「何、咲夜の性格、って」
『え? ああ…ごめんなさい。問題があるって意味じゃないんだけどね。ただ、奏には結構ハードル高いだろうな、と思ったのよ』
「なんだよそりゃ」
『…うん。なかなか、手強いわ。あの子は』
妙な感慨のようなものを滲ませ、母はそう呟いた。意味がわからず、奏が困惑して黙っていると、軽くため息をついた母が、自分の方から続けてくれた。
『礼儀正しくて、頭の回転が速くて、受け答えもしっかりしてて―――きっと昔から、手のかからない、いい子だったんでしょう。もし彼女が
「は? いい子だと、カウンセラー泣かせになる訳?」
『そうよ? 感情のコントロールに長けた賢い患者ほど、難しい患者もいないわ。…たまーに、いるのよ。計算した上で、カウンセラーが納得しやすい答えを返してくる子供が。時には、一番触れられたくない領域を守るため、表面的な傷口を晒すことすら厭わない―――咲夜さんの背景はわからないけど、似たものを感じたわ。楽しそうに笑いながら、その裏でいっぱい血を流してる子供特有の、仮面のようなものを』
「……」
『だから、奏が、必要なのよ』
唐突な言葉に、奏は目を大きく見開いた。
「…え…っ、オ、オレ? なんで?」
『奏が、彼女とは全く逆の、感情のコントロールのできない正直な人間だから』
「?? …なんか、よく…」
困惑する奏に、母はふっと笑い、言い含めるように告げた。
『わからなくても、いいの。ただ、プラスとマイナスが引き合うように、奏と咲夜さんも、引き合う要素を持ってる、ってことよ』
「……」
『あんたが思うよりずっと、あの子はあんたを必要としてる―――その点だけは、自信持ちなさい』
そう言われたからといって、いきなり自信が持てる訳がないのだけれど。
でも、そこでちょうど、テンがロッカールームに顔を出して「そろそろ戻ってやー」と言ったので、結局奏は、母に「うん」と答えるしかなかった。
―――プラスとマイナス…かぁ…。
何故時田が、咲夜を撮りたい、と言い出したのか、その理由が気になっていたけれど、改めて考えてみると、自分自身のことだって、よくわからない。
一体自分は、咲夜の「何」に惹かれたのか。
奏の持つプラスと、咲夜の持つマイナスとは、一体何なのだろう―――…?
***
「えぇ!? ここで撮るの!?」
スタジオに1歩足を踏み入れた途端、咲夜が絶叫に近い声で訊ねた。
さほど広くはないスタジオ内に組まれたセットは、ただ1つ、モノトーングラデーションのバックペーパーのみ。咲夜が黒髪であることを考えてか、上は白で、下に行くほど灰から黒へと変わっていく形のグラデーションだ。
「シンプルな方が、素材が活きるからね」
ご機嫌な笑顔で答える時田に、咲夜は途方に暮れた顔になった。
「でもこれ、何すりゃいいんだか、さっぱり…」
「ああ、大丈夫だよ。やってみれば、なんとかなるもんだから」
「いや、なんとか、って」
「咲夜。マジになることないぞ。どうせ郁の道楽なんだから、適当にやっときゃいいんだ、適当に」
奏がそんな助言をすると、ファインダーを覗き込んで最終チェックをしいてた時田も、さすがに顔を上げ、面白くなさげに眉をつり上げた。
「道楽じゃないぞ。いい写真が撮れれば、当然、個展なんかに使う気でいるんだから」
「個展…」
ますます「引き受けるんじゃなかった」という顔になる咲夜を見かねて、奏はつかつかと時田に歩み寄り、「素人にプレッシャー与えるなっつーの」と、その背中を小突いた。
思い切り凝ったものを撮ってみたい、などと言っていた割に、時田が指定した咲夜の衣装は、実にシンプルだった。
襟首の大きく開いたダークカラーのセーターに、いつも穿いているジーンズ。アクセサリーも、いつもつけているピアスだけ。早い話、前回、咲夜が時田に会った時の服装そのままだ。
どういうメイクにするか迷った末、奏は、咲夜が特別なステージに上がる時に施してやることの多いメイクを選んだ。普段より色のメリハリをつけつつも、派手すぎない、どちらかというとクールなメイク―――何故か咲夜の場合、下手に媚びたような女っぽいメイクをするより、この方が格段に色っぽく見える。恋や愛の歌を歌うにはもってこいだろう。
「ちょっと上向いて」
「うん」
カメラの前に立つ直前の、最後の直しのために、紅筆を握る。咲夜は、ステージ前などで緊張すると唇を舐める癖があるので、必ず口紅の直しが入ってしまうのだ。
「んー……、よし、オッケー」
「サンクス」
はふ、と詰めていた息を吐いた咲夜は、難しい顔で手鏡を覗き込み、自分の顔を右から左から忙しなく確かめた。
「メイクは完璧なんだけどねぇ…」
「郁の指示に従ってりゃ、大丈夫だって」
「でも私、奏みたいなポーズとか、咄嗟にとれないよ? てか、改めてこういうとこ立つと、奏ってつくづく凄いよなぁ…。なーんもない空間で、しかもよく知らない人相手に、よくあんなに次々ポーズ決めたり表情変えたりできるね」
「そりゃまあ、プロだから」
「咲夜ちゃんは、無理にポーズとろうとしなくていいよ」
2人の会話を受けるように、時田がそう口を挟みつつ、撮影範囲から外れた場所に、何かをドカッと置いた。見れば、どこから持ってきたのやら、ポータブルなMDコンポがそこにあった。
「頼んでおいたやつ、持ってきてくれたかな」
「あ…、はい、奏に渡してます」
「これだろ」
さっき、咲夜から預かったMDをポケットから取り出し、時田に差し出す。咲夜が歌うのが好きな曲を10曲ほど選んで録音してきて欲しい、と事前に頼まれていたのだ。多分撮影のBGMに使うんだろうな、と予想していたが、やはりそのようだ。
「今からノンストップでこれ流すから、咲夜ちゃんはカメラの前で、好きなようにしててくれるかな」
「は? 好きなように、って…」
「流れてる歌にノッててくれれば、それでいい」
足元にしゃがみこみ、受け取ったMDをスロットに差し込んだ時田は、咲夜を見上げ、ニッ、と笑った。
「ステージみたいに思い切り歌ってもいいし、口ずさむ程度でも構わないし、体動かしたければ動かせばいいし。踊りたかったら踊ってもいいよ」
「…いや、踊りは、やめときます」
引きつり笑顔で遠慮した咲夜だが、実はカラオケに行くと、マイク片手に振り付きで歌ったりすることがある。ノリのいい曲だと、そのつもりがなくても踊りかねないな、と奏は密かに思った。
「咲夜ちゃんも一応プロだから、歌ってる最中でも、一応僕の指示は聞けるね?」
「えー…多分」
「OK。じゃ、好きなようにしてて、僕の指示があったらそれに従ってくれるかな。あ、奏君は、僕が合図出したら、こいつのスタートボタン押して、僕のすぐ隣に来といて」
てきぱきと指示した時田は、2人が返事するのを待たず、すたすたとカメラの方へと行ってしまった。
―――ま、いつもこんな風だけどな、郁は。
苦笑した奏は、ちょっと心もとない顔をしている咲夜の頭を、軽くポンポンと撫でた。
「モデルごっこのつもりで、気楽にやりゃあいいよ」
「…随分とお金かかった“ごっこ遊び”じゃん」
「独身貴族を50年近く続けてるから、金余ってんだろ。ごめんな、中年の贅沢な趣味に付き合わせて」
「ハハハ…、それ、時田さんに聞こえてたら、いくら奏でもただじゃ済まないよ」
笑ったことで、緊張が和らいだらしい。咲夜の表情が、目に見えて自然なものに変わった。その屈託のない、悪戯っぽい笑顔を見て、奏もちょっとホッとした。
―――下手にいい写真撮られて、咲夜の写真が個展なんかに並ぶのも、なんだかな…。
趣味程度で収まる、ほどよい写真が撮れれば、それでいいか―――などと考えつつ、奏は咲夜に立ち位置を指示し、時田の指示を待った。
「…ん、よーし、オッケー。奏君、スタートして」
その掛け声を受けて、奏は、MDコンポのスタートボタンを押した。
1曲目は、咲夜の十八番、『Blue Skies』だ。
耳慣れた軽快なピアノが、スピーカーから流れる。恐らく、自己練習のために一成に録音してもらったものだろう。案の定、所在なげに立ち尽くしていた咲夜は、音楽が始まると同時に、無意識のうちに体全体でリズムをとり始めた。
「Blue skies, smiling at me, Nothing but blue skies, do I see....」
ステージ用とも発声練習用ともつかない、中くらいのボリューム。朝、窓の外に向かって歌う時同様に、咲夜は目を閉じ、片手でカウントを取りながら歌いだした。
―――うーん…相変わらず、楽しそうだよなぁ…。
ポンと天井が抜けたような明るいこの曲は、咲夜のメロウな声によく似合う。咲夜自身も、歌っていて気分のいい歌だと言っていた。きっと、閉じた瞼の裏には、すっきりと澄み渡った青空が浮かんでいるのだろう。目を閉じた咲夜の表情は、楽しそうな笑顔だ。
やがて目を開けたが、カメラを意識してか、その視線はカメラから斜め右に外されていた。
「咲夜ちゃーん。こっち、奏君の方見てくれるかなー。奏君を観客だと思って」
時田の声が、スタジオに響く。
途端―――咲夜は、カメラのすぐ横に立つ奏の方を見、視線を奏と合わせた。
「I've never seen the sun shining so bright... Never saw things go'in so right...」
―――…あ。
今、スイッチが、入った。
思わず、心臓がドキンと音を立てたほどに、それは顕著だった。
朝の発声練習が、一瞬にして、ステージ上のパフォーマンスに変わる。いや、歌い方だけの問題ではない。表情が……歌以上に、表情が、変わった。微笑み程度の笑顔が、自信に満ちた明るい笑顔になり、目に力が宿る。そう、これが、“Jonny's
Club”で歌っている時の咲夜だ。
毎日のように見ているのに、こんな風に連続して見る機会などなかったから、気づかなかった。同じ歌でも、ステージ上と日常では、こんなにも変わっていたのか―――今更ながら、新鮮な驚きだ。
結局咲夜は、『Blue Skies』の残り部分を、全て、奏を観客に見立てた状態で歌った。咲夜の歌に集中していた奏は、時田がいつシャッターを切ったか、まるで気づけないまま、1曲終わってしまった。
2曲目も、咲夜お得意の軽快なナンバー、『You'd be so nice to come home to』。こちらは、ヘレン・メリルのアルバムに収録されていたものを録音してきたらしい。前奏に続き、「ニューヨークのためいき」と称されるヘレンのハスキーボイスが流れてきた。
今度は咲夜は、小声で口ずさむ程度で、本格的に歌わなかった。恐らく、一番好きな歌手であるヘレンの声に聴き惚れているのだろう。やっぱり片手でカウントをとりながら、カメラの存在を忘れたみたいに、ずっと斜め下を見ていた。
そして、3曲目。
やはり一成のピアノによる、『What's New』。この曲で、スタジオの空気が、一気に変わった。
「What's new...? How is the world, treating you?―――…」
…ゾクリ、と。
背筋に、冷たいものが―――いや、戦慄のようなものが、走った。
自らの腕を抱え込むようにした咲夜は、歌い出しでは、歌の世界に没頭しようとするかのように、目を伏せていた。が、一気に高音を歌い上げるところで、目を開け、どこかはるか遠くに目を向けた。
胸が痛むほど、切ない表情で。
誰、というのではなく、歌の中の「You」に、その想いを伝えようとするかのように、宙空のただ1点を見つめて。
―――こいつって…こんな顔、してたっけ。いつものステージで。
していた、と、思う。が、マイクがないだけで、背後に一成やヨッシーの姿がないだけで、距離が、舞台の高さが違うだけで、こうも……こうも、その表情が浮き立って見えるものだとは。
「I do... pardon my asking what's new.... Of course, you couldn't know I haven't changed... I still love you so....」
―――や…っばい。
不覚にも、視線が泳いでしまう。
歌の世界に陶酔している咲夜は、多分、気づいていないだろう。自分の今の表情にも、今のしぐさにも。
煽られる―――普段の咲夜なら絶対見せない、情念、欲望、情愛……そういった感情を剥き出しにした表情やしぐさに。動揺した奏は、思わず口元に手を当て、落ち着かなく時田に目を向けた。
当然ながら、時田は、この瞬間こそを待ってました、とばかりに、頻繁にシャッターを切っていた。思えば、時田を“Jonny's Club”に連れて行った時も、咲夜はこの歌を歌っていたっけ―――そして、やっぱりこの曲を境に、聴いていた瑞樹や蕾夏の目も変わった。時田は、ただ真剣にステージを見つめるばかりだったが、この曲を聴いた時こそ、咲夜を撮りたい、と思った瞬間なのかもしれない。
「もうちょっと、右向いてー……OK、いいよ、その角度で」
ライトが作る陰影を計算して、時田が時折、指示を出す。あんなに歌の世界に入り込んでいて、指示なんて聞こえるのか? と不安になったが、さすが、ステージの数をこなしているだけのことはある。一成やヨッシーからの指示に反応するかのように、時田の声に即座に反応した。
横顔に、影がさす。覗いたピアスに、光が反射する―――光や影が作り出した偶然の一瞬を捉えて、時田はシャッターを切る。そんな様子を見ていた奏の表情は、最初の動揺が鎮まるにつれ、次第に真剣みを帯びていった。
そう―――ちょうど、自分がカメラの前に立った時のように。
もしくは、ショーの最中、ステージに立つ仲間を、舞台袖から眺める時のように。
ただの道楽の筈が、少しずつ、空気がピンと張りつめ始める。気づけば奏は、咲夜のステージを見ていた時の時田とよく似た熱心さで、ライトの中の咲夜を見つめていた。
4曲目は、少しテンションが緩んで、『Falling in love with love』。そうそう、この歌聴いて、失恋直後だったテンとミサが抱き合って泣いたんだっけ―――変なことを思い出し、つい苦笑する。
咲夜にとっても、そして時田にとっても、小休止といった曲のようだ。チラリと時田に視線を送り、無言の了解を得た奏は、傍らに置いていた荷物の中から、仕事道具をいくつか引っ張り出し、咲夜のところへ駆け寄った。
「咲夜、ちょっと、こっち向け」
「え?」
突如、ライトの外から入ってきた奏に、咲夜はキョトンと目を丸くした。が、その手にブラシやら何かのパレットやらが握られているのを見て、心得たように奏に向き直った。
「そんなに崩れてる?」
「いや―――ちなみに、次は何?」
「えーと…確か“Calling you”。その次が“I'm a fool to want you”かな」
どちらも、奏もだいぶ聴きこんでいる歌だ。あらん限りの情感をこめて歌い上げる、パワーのいる歌―――時田の視点に立てば、シャッターチャンスの多い歌に違いない。
今かかっている曲は、あまり長い曲ではない。迷っている時間はなかった。
「目、閉じて」
「ん」
あまり弄らずにおいた目尻寄りの上瞼に、手早くモーヴのシャドーを描き足す。更に、今日はあえて使わずにいたリップグロスを唇に施した。
「奏君、そろそろ出て」
「もうちょっと…」
時田に急かされる中、いまいちバラつき加減に納得のいかなかった前髪を、指で梳く。右から見て、左から見て、最後に正面から確認し終えた奏は、ポン、と咲夜の肩を叩き、ライトの外へと抜け出した。
―――…不思議だ。
『Calling you』の、見る者の胸も苦しくさせるような、この緊張感も。
『I'm a fool to want you』の、妖艶さすら感じさせる、この圧倒的な情感も。
全部、ステージ上で見てきた筈。なのに……こうして切り出して初めて、気づく。絵になる―――魅せられる。佐倉は、咲夜のこの才能を見抜いた上で、目をつけていたのだろうか? と本気で思いたくなるほどに。
「視線、こっちに! 奏君の方見て続けて」
時田の指示に反応して、咲夜がこちらを見る。
狂おしいほどの情念を歌った、『I'm a fool to want you』―――それを、自分に向かって歌い上げる咲夜を見て、奏の中に湧いてきたのは、先ほどのような焦りや気恥ずかしさではなかった。
欲が、出てくる。
ただ、時田の気まぐれに付き合った、プライベートな撮影に過ぎなかったのに……正式なオファーでも感じなかった類の欲が、出てくる。
もっと、魅力的に見えるように。もっと、ライトに映えるように。もっと、もっと―――…。
それは多分、恋人としての視点を、プロとしての視点が上回ったせい。
奏が、新たに歩みだした、メイクアップアーティストという職業で、初めて欲を感じた瞬間だった。
***
結局、用意していた10曲全部を通すのはさすがにキツかったため、6曲目の『I'm a fool to want you』で撮影は終了した。
「あっつぅー…。これ、冬でよかったよ。もうフラフラ」
近距離でライトを浴びながら熱唱を続けたのだから、表面上はわからないが、セーターの中に着たTシャツは汗だくだろう。念のため、仕事に着ていく服と衣装を分けておいて正解だった。
「ここ、シャワールームも完備らしいぜ。オレと郁は片付けあるから、お前、帰る準備できたら、ここ戻ってこいよ」
という奏の勧めを受け、咲夜は小走りにスタジオを出て行った。シャワー室の場所、わかるかな、とその後姿を見送っていたが、どうやらここのスタッフをすぐに捕まえられたらしく、「あのー、シャワールームどこですか?」という声が廊下から聞こえてきた。
「おっと、もう10時近いな。急いで撤収しないと。奏君、手伝ってくれ」
「あ…、うん」
三脚からカメラを外す時田に目をやった奏は、さっそく、ライトの電気を消し、バックペーパーの撤去にかかった。
「それにしても、さすがは週3日、1日2度のステージを、継続して務めてるだけのことはあるねぇ。スタミナがある方とも思えなかったけど、意外にタフなんで、驚いたよ」
「…そうだな…」
曖昧に相槌を打った奏は、作業を続けながら、時田の背中を覗き見た。
暫し、迷う。が…、やはり訊かずにはいられない。意を決したように、奏は時田の方に向き直った。
「なあ、郁」
「うん?」
「なんで、咲夜を撮りたいって思ったんだ?」
奏の質問に、時田はカメラをしまう手を止め、振り返った。
「なんでか、今の撮影見てて、わからなかったかい?」
「いや、咲夜の被写体としての価値は、よくわかるんだけど……成田ほどじゃないにしても、人間をあんまり撮りたがらない郁が重い腰上げた、ってとこが、気になって」
「うーん…早い話、僕好みの被写体だった、ってことだろう。咲夜ちゃんが」
「でも、郁って前に、蕾夏を撮りたい、って成田に言ったんだろ? 咲夜とは相当違うタイプじゃない?」
「ああ、藤井さんか」
当時を思い出してか、時田は苦笑いを浮かべ、カメラケースを閉じた。
「藤井さんを、というより、成田君と一緒にいる時の藤井さん限定で、撮ってみたいと思ったんだけどね」
「成田といる時限定?」
「誰にも真似できないあのピュアさを撮りたかったんだけど、それを表に出すのは、成田君と2人きりの時だけだよ。だから、僕に撮れる筈がないってわかって、すぐ諦めた。諦めてないようなフリしてたのは、成田君をたきつけるためだよ」
「うわ…可哀想に、成田の奴…」
「失礼な。師匠としての愛だよ」
まあ、あながち、愛というのも嘘ではないのだろう。時田にとって、唯一の“弟子”だ。極端なほど本能的な写真家である瑞樹を職人として育てるには、少しばかり過激な罠も、時には必要だったのかもしれない。
「天然素材な藤井さんは、化けられるタイプじゃないんだ。僕は表現の幅が広いモデルが好きだから、咲夜ちゃんの方が被写体としての価値は上だよ」
「…もしかして、モデルとして引き抜こうとか画策してる?」
「ハハハ、まさか。あの子は、歌があってこその、表現者だよ。歌から引き離したら、価値は半減だ」
「……」
「歌という表現方法を与えられたことで、ああいうパフォーマンスを身につけた。最適な道具があってこそ、最高の表現が出来るんだ。もし歌と出会わなかったら、いきなりカメラの前に立たされたところで、何も表現できなかっただろう。歌があるから、表現できるんだ。奏君が、絵や音楽では表現できなかったものを、モデルとしてなら表現できるのと同じでね」
確かに、そうかもしれない。モデルをやるなら、毎回ああして歌う訳にもいかないのだから。スタジオに入った時の「何したらいいんですか」状態の咲夜を思い出し、歌を取り上げたらああなるのが関の山だな、と奏も思った。
「―――しかし、面白いね、君たちは」
ぼんやりと咲夜のことを考えていた奏は、時田の唐突な一言に、目を丸くした。
「面白い?」
「うん、面白い。同じように光を放ってるのに、その発生過程が正反対なとこがね」
「???」
全然、わからない。奏が困惑気味に眉をひそめると、時田はくすっと笑い、傍にあったパイプ椅子に腰を下ろした。
「奏君は日頃から、感情表現が豊かで、感じたままをストレートに表してる。カメラの前でも、同じことだよ。ただ、自分の中にある感情の引き出しから、今出すべきものを的確に出してきているだけ―――生まれついてのカリスマ性と、カメラマンの求めるものを読む才能で、輝いてる。そう……光で喩えるなら、太陽みたいなもんだな」
「…咲夜は?」
「あの子を光に喩えるなら……火花、かな」
「……」
「2、3回会っただけの僕が言うのも何だけど、彼女って、本音が見え難いタイプなんじゃないかな。ニコニコ笑いながら、実は裏でもの凄く傷ついてたり、賑やかそうに見えて、実はもの凄い孤独を感じてたり―――なんだか、そんな風に感じたけど」
実際、咲夜の本音の見え難さには、過去何度も振り回された経験がある。昨日、母が言ったこととそっくりな時田のセリフに、奏も素直に頷いた。
「押さえ込まれた感情が、スポットライトを浴びた瞬間、解き放たれるんだ。抑圧されてきた反動からか、凄いエネルギーを伴って、ね。歌っている瞬間だけ、太陽に負けない位に、輝く―――けれど、ステージを下りれば、また消える。…一瞬だけの、儚い火花みたいに」
そう言うと、時田は何故か大きく息をつき、遠くに思いを馳せるような目をした。
「色々つまづいたせいで、随分と捻じ曲がったけど―――本来僕は、単純明快なタイプでね。善と悪、白と黒、好きと嫌い……いつだって自分の中の基準ははっきりしてて、簡単に答えが出せたし、それを正直に口にしていた。ちょうど、奏君みたいにね」
「え…」
「だから今日、よくわかった」
時田の目が、奏を見据える。何故か…何かを懐かしむかのように。
「君が何故、咲夜ちゃんに惹かれたのか」
「……」
「…不思議だね。君と僕を似ていると思ったことは、これまで一度もなかったのに―――ファインダーを通して彼女を見た時、痛いほど実感したんだ。君と僕は、血が繋がってるんだな、ってことを」
「郁…」
正直なところ、時田が何故そう実感したのか、奏には全くわからなかった。
若い頃の時田が、自分とよく似た単純さを持っていた、というのはわかったが、その話と咲夜がどう結びつくのか、そしてそれが何故時田と自分の血の繋がりを実感させるのかも、さっぱりわからなかった。
奏が、この時の時田の言葉を、本当の意味で理解するのは、もう少し先のこと。
この時はただ、“父”と思うことの難しい時田と自分との間に、目に見えない繋がりがあるらしいことを知って、少しだけ―――ほんの少しだけ、くすぐったいような気分になっただけだった。
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