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― Welcome Back ―

 

 外回りから戻る道すがら、今日の昼食はどこで取ろうかな、と考えを巡らせていた咲夜は、フロントガラス越しに見つけた人影に、思わず目を丸くした。
 ―――あれって、カレンさんじゃん。
 会社の駐車場辺りでポツンと立っていたカレンは、近づいてくる黄色い軽自動車に気づき、視線をこちらに向けた。明らかに人待ち顔のカレンの周りに、他の家族の姿は見えない。どうやら、カレン1人で来て、咲夜が現れるのを待っていたようだ。
 困ったな、と、ちょっと眉をひそめてしまう。昨日の食事会でも、カレンとはほとんど話をしていないのだ。むしろ、千里だか淳也だかに話した職場の話を、聞いている風でもなかったカレンがよく覚えていたな、と驚く。恐らく誰かに訊くなり自分で調べるなりして、勤務先の住所を知ったのだろうが―――そこまでして、何故カレンが会いに来たのか、そこがさっぱりわからないから、困ってしまう。
 だが、こちらを向いたカレンは、心もとなそうだった表情を、一瞬でホッとしたものに変えた。見つかってしまっては、今更スルーする訳にもいかないか、と、咲夜も覚悟を決め、駐車場に車を停めた。
 「やっぱりここで合ってたんだ」
 運転席のドアを閉める咲夜に、カレンは小走り気味に駆け寄りつつ、安堵した声でそう言った。
 「“カフェ・ストック”で調べたら、都内にいくつかあるじゃない。困って、奏に電話して訊いちゃった」
 「…ああ、」
 だからここに居る訳ね、と納得。と同時に、そんなことで仕事中の奏に電話するなよ、と少し苛立ちもするが。
 「ね、お昼って、まだ? だったら一緒にどう?」
 「え、でも…他の人たちは?」
 「千里さんと時田センセは、なんか2人で行く所があるみたいで、朝早くから出てるの。累は淳也さんと一緒に、東京の支社に挨拶にあいさつ回り。1人になっちゃうし、あたしも行けばいいって言われたけど―――畑違いなあたしがあの中に混じっても、ね」
 そう言うカレンの微妙な表情は、仕事先へ行く累に気を遣っているようにも見えるし、逆に部外者でしかありえない自分をちょっと寂しく思っているようにも見える。昨日はわからなかったが、わがままそうに見えるカレンも、実は結構家族に気を遣って生活しているのかもしれない。
 ―――1人で放り出しちゃ、確かに気の毒かな。
 そう考え直した咲夜は、あまり気の進まなかったカレンとのランチを、承諾することにした。

***

 結局、昼食は、咲夜が今日行くつもりでいたパスタ屋になった。
 「これ、いる?」
 注文を終えた直後、カレンがそう言って、何かを咲夜に差し出した。眉をひそめた咲夜は、少し身を乗り出すようにして、カレンの手元を覗き込んだ。
 「いちごミルク?」
 「そ。昨日あの後、コンビニで手に入れたの」
 見れば、カレンのバッグからは、いちごミルクの袋が半分顔を覗かせている。袋ごと持ち歩いているらしい。
 「イギリスでは売ってないから、向こう行ってからは、時田さんにお土産で買ってきてもらう以外食べられなくてね。仕方なく他のキャンディで誤魔化してたけど、もー、全然別物。ストロベリーキャンディでは、やっぱりサクマのいちごミルクが最強よね」
 「……」
 ―――なんか、調子狂うなぁ…。
 昨晩、ほとんど喋ることのなかったカレンが、異様に打ち解けたムードで無邪気にいちごミルクなぞを差し出してくるのだから、どう対処すればいいか、少々困る。が、ストロベリーというよりむしろミルクが勝っているいちごミルクを「最強」と評して喜んでいるカレンは、結構嫌いじゃない。苦笑した咲夜は、
 「もう何年も食べてないから味忘れちゃったけど、そんなにお勧めなら、もらおっかな」
 と言って、カレンから小さなキャンディを受け取った。
 するとカレンは、少しホッとしたような顔をし、自らも袋からキャンディを1個取り出した。食事前だというのに、今からなめる気でいるらしい。
 「ふふ、助かっちゃった。東京なんて元々詳しくないし、しかも向こうに行ってから10年も経つから、母国だなんて名ばかりで、完全に異世界なんだもの。累が散々心配してたけど、咲夜ちゃんと一緒だったって言えば、安心するわね、きっと」
 「元々はどの辺に?」
 「所沢。休み毎に東京に遊びに出る子もいたけど、あたしはそういうの、全然だったから」
 「へぇ…、意外。モデルを志望する位だから、流行の最先端に触れに、足しげく通ってそうなイメージなのに」
 「貧乏だったから」
 あっけらかんとした口調ながらも、カレンは苦い笑みを浮かべ、いちごミルクを口に放り込んだ。
 「ダメ親父を1人、抱えてたからね。中2になった頃からは、入退院繰り返して、仕事にもまともに行けなくて―――あたしが5つの時に、お母さんと妹が事故って死んでるんだけど、その時の保険がなかったら、完全に破産してたと思うわよ。真面目で優しい人だったけど、死んだ時、悲しさより解放感の方が強かったなぁ…。ああ、やっと自由になれる、これでお金の心配しなくて済む、って」
 いちごミルクをカラカラいわせながらそう言ったカレンは、そこでハッとした表情になり、しまった、とでもいうように口元に手を置いた。
 「あ…っ、と、ごめん」
 「は?」
 何が? と目を丸くする咲夜に、カレンは気まずそうな表情で恐る恐る言った。
 「…咲夜ちゃんて、お母さんと死別してるんだよね。昨日、累から聞いた」
 「ああ…、うん」
 「いくら自分がそう思ってるからって、同じように親亡くしてる人の前で言うセリフじゃないわよね。ごめん」
 「え、別に謝ることないよ」
 当然のように咲夜がそう言うと、カレンは意外そうに、眉をひそめた。
 「看病は綺麗事だけじゃ済まないの、わかってるしね。程度の差はあれ、ああ終わった、ってホッとする気持ちがある方が、むしろ自然な位じゃない?」
 「…咲夜ちゃんも、そう思った訳?」
 カレンの問いに、咲夜は一瞬、パチパチと瞬きをし、それからふっと笑った。
 「―――肩の荷が下りた、って感じるには、まだ子供すぎたかな」
 「…そうなんだ…」
 どことなく済まなそうな口調でそう相槌を打ったカレンは、やがてはーっと大きくため息をつき、ラタン椅子の背もたれに深く寄りかかった。
 「あーあ、でも、緊張して損したなぁ」
 「緊張?」
 「日本来る時。奏の彼女も迎えに来る、って聞いて、すっごい緊張してたんだから」
 カレンがそう言うのと同時に、サラダが運ばれてきた。が、カレンは気にする素振りも見せず、続けた。
 「奏に彼女出来たって聞いて、あたし、相手の子はきっと藤井さんみたいなタイプなんだろうな、って思ったの。あ、藤井さん、て知ってる?」
 「え? あ、うん…、知ってるし、会ったこともある」
 「あたし、あのタイプって、すっごく苦手で」
 心底苦手らしく、カレンは眉根をぎゅっと寄せた。
 「いかにも、世の中の悪いことに全然染まってませーん、って感じの見た目でしょ。クラシックが好きで、学校で合唱隊なんかに入ってたり、クラスメイトの推薦で学級委員やっちゃってたりとか。男の人と話すなんて、そんな恥ずかしいことできません、みたいな。家にピアノがありそうで、犬猫より小鳥飼ってそうっていうか」
 「…なんかいろんなキャラ混じってるけど、どういうタイプを言いたいかは、わかる気する」
 つまり、「世間知らずで育ちの良いお嬢様タイプ」な訳だ。カレンから見ると。
 正直なことを言えば、咲夜の目には、蕾夏はそういうタイプには映らなかった。初めて会ったのが仕事現場だったこともあるのかもしれないが、世間知らずのお嬢様というより、むしろ、凛とした清廉さを持つ賢い女性に見えた。その時抱いたイメージは、奏から過去の経緯を聞かされたことで、より強固なものとなっている。わかりやすい強さで比べれば、佐倉の方が「強い女」と思われがちだが、咲夜が知る限り、蕾夏の強さは佐倉の比ではない。あんな外見をして、中身はダイヤモンド級の強さだ。
 とはいえ、蕾夏の見た目に騙される人間が多いだろうことは、なんとなくわかる。そして、蕾夏のような“見た目”を、カレンが苦手とするであろうことも。共感できる要素の少ない人間に対して、人は、憧れを抱くその裏で、嫉妬や憎悪も抱くこともある。カレンのように極端な人生を歩んでいる場合は、特に。
 「まあ、あの人も、見た目とは結構ギャップある性格らしいけど―――あたし、よく知らないし。ああいうタイプの人だったら嫌だなぁ、って思ってたのよ。イギリス発つ前から」
 「なんで蕾夏さんタイプだと思ったの?」
 「だって、奏が本気で好きになった女って、あの人しか知らないんだもの」
 「……」
 不覚にも、ドキリとしてしまった。
 知っていることなのに、改めて他人に言われると、全く動揺しない、という訳にもいかないものらしい。
 「遊び相手や付き合った女の子は何人か知ってるけど、“好き”って気持ちを認めたがらない位思いつめた相手って、あの人だけだもの。あの奏が、今好きな子が自分の居場所だから、なんて言って、あたしと累に実家の空き部屋譲ったら、ああ、同じタイプなんだろうな、って想像するのが当然じゃない?」
 「…まあ…そう、かも」
 「もー、憂鬱だったわよぉ。藤井さんて、奏だけじゃなく、千里さんもすっごく気に入って、自分の子供みたいに思ってた位だから。ただでさえ、累の友達に“妻です”なんて紹介されると、露骨に“うわ、似合わない”って顔されることが多いんだもの。累の家族に比較され、奏の彼女に比較され、ダブルパンチ食らうんじゃないか、ってもの凄くブルー入ってたんだから」
 ―――なるほど。
 妙に、ストン、と納得した。“累の家族”―――この言葉に。
 スクールカウンセラーに出版社勤務、と、比較的アカデミックなムードを持つ一宮家の中で、カレンはまだ、その一員になったという実感を持てずにいるのだ。千里の様子を見る限り、一宮家側はもう十分カレンを受け入れているようだが、カレン自身は、コンプレックスを募らせたり、自分の殻に閉じこもったりすることも、まだまだ多いのかもしれない。
 そんな中で、唯一、カレンが自分と同系色と感じている存在―――それが、奏で。
 その奏が、かつて、人生が180度変わってしまうほどに心惹かれた相手が、これまたカレンが苦手な優等生タイプであったから、まだ見ぬ咲夜に、警戒心を抱いたのだ。居場所がなくなる―――ますます自分は孤立してしまう、と。
 「なのに、会ってみたら、ぜーんぜん。藤井さんとはまるで別タイプな上に、あたしの牽制なんてものともしないツワモノときてるじゃない。後で聞いたら、子供の頃にお母さんは亡くしてるし、コーヒーの宅配なんて大卒らしからぬ仕事はしてるし―――騙された、って感じ」
 「ハハ…」
 自分が1人で勝手に想像していただけなのに、騙されたもないだろうに。唇を尖らすカレンに、咲夜は苦笑を浮かべた。
 「あ、喋ってばっかりじゃ、咲夜ちゃんの昼休み終わっちゃうわね。食べなきゃ」
 遅ればせながら、運ばれてきたサラダに気づいたらしく、カレンはそう言ってフォークを手に取った。それでようやく、咲夜もフォークを取り、サラダにありつけることとなった。

 ほどなくパスタも運ばれてきて、2人の会話のテンポは幾分ゆっくり気味になった。
 「昨日空港で会った人って、義理の叔父さんて話だったよね」
 突如、あまり触れられたくない人物に話が及び、パスタをフォークに巻きつけていた咲夜の手が、思わず止まった。
 「あー…、うん、まあ」
 「叔父さんレベルであんなに打ち解けた感じになってる、ってことは、お父さんの再婚相手ともいい関係なんだ?」
 「…まあ、別に険悪ではないかな」
 ―――良好とも言い難いけど。
 でも、父とはあれだけ言い合いをしたり暴力沙汰になったりした咲夜だが、思い返してみると、蛍子と反目しあったことは、一度もなかったように思う。もっとも、蛍子の「咲夜“ちゃん”」という呼び方からもわかるとおり、実の親子のように仲睦まじく、という関係からは程遠いが―――亘や芽衣と差をつけられた覚えもないし、実の母親でもないくせに、なんて悪態をついたこともない。これでも、傍目には十分、「良好な関係」なのかもしれない。
 「難しくない? 元々、家族でも何でもなかった人と、ある日突然、家族になるのって」
 「そりゃあ、難しいでしょ。私も違和感だらけだったし」
 「でも、昨日の人とは、叔父と姪に……っていうか、血縁関係独特の親密さと、凄い近いものを感じたわよ?」
 「それは―――…」
 言いかけて、さすがに、口を噤む。別にやましいことがある訳ではないが、一時、拓海に引き取られていたことは、軽々しく話すべきではないだろう。15歳という年齢差も、中1という当時の咲夜の年齢も、受け取る側の基準如何で、あらぬ誤解を呼ばないとも限らない―――そんなこと位、既に中学時代、身を持って思い知らされている。
 「…拓海は、ジャズピアニストだから」
 「えっ、そうなの?」
 「うん。私がジャズ始めたのも、拓海に聴かせてもらったのがきっかけだし。ただの義理の親戚よりは、そういうのがあるから、親密に見えたんじゃないかな。それに、10年以上も親族やってれば、それなりには…ね」
 「10年かぁ…」
 そう呟いたカレンは、カチャリとフォークを置き、はあっ、とため息をついた。
 「イギリスに渡って10年の間に、あたし、何度も千里さんや淳也さんに会ってるし、一緒にご飯食べたことも、あの家に泊まったこともあるのよね。でも―――なんでかな。累や奏の友達としてあの家に行ってた時より、今の方が、千里さんや淳也さんに対して身構えちゃうのよ。友達より家族の方が、近い存在の筈なのに」
 「……」
 「あと10年経てば、あたしも“家族”って実感、湧くのかな」
 「…別に“家族”とかいう単語に押し込めなくても、“同居人”でいいと思うけど。(しゅうと)(しゅうとめ)を実の親と思える人の方が稀だろうし」
 なんだか、家族という言葉に縛られているように見えてしまい、思わずそう口を挟む。するとカレンは、暫し沈黙した後、陰のある微笑を浮かべた。
 「―――多分、あたし自身が、そう思いたいんだろうな」
 「?」
 「うちの父親って、変に細かくて、口うるさい割には病弱であたしの世話になってばっかりで、ホント、いい思い出なんてほとんどないの。こんな親持ったせいで、友達と自由に遊びに行くこともできない、他の子が心配しなくて済むお金の心配しながら、受験しなくちゃいけない―――そりゃあ、働いてあたしを育ててくれたのは本当だけど、生きてる間にお父さんに感謝したことなんてなかったし、死んでからも、お父さんがいてくれたら…なんて思ったこと、1回もなかった」
 「……」
 「…でも、今年の夏、家で初めて和食を食べて―――淳也さんに言われたの。“カレンはお箸の持ち方が綺麗だね”って」
 そう言って、カレンはくすぐったそうに、ふふっ、と笑った。
 「“亡くなったお父さんがよく躾けてくれたんだろうね。立ち居振る舞いは、お金じゃ買えない貴重な財産だよ”―――そう言われて初めて、ちょっと後悔した。10年も、墓参りひとつしなかったこと」
 「……」
 「“家族”って単語にこだわっちゃうのは、そのせいかもね。実際に何かしてもらいたい訳でも、何かしてあげたい訳でもないけど―――ただ、“親”っていう存在が、欲しいのかも。なんていうのかな……ただ居てくれるだけで、グラグラしてる自分の足元を、キチンと安定させてくれるような気がして」
 「…ふぅん…」

 ―――それって、別に“親”じゃなくてもいいんじゃないの?
 仲間でも、友達でも―――ううん、“家族”に限定したとしても、夫や子供でもいいんじゃない?

 そう思ったが、さすがに口に出すことはできなかった。
 多分咲夜の意見は、本当に天涯孤独の身になったことがないから言える甘えた意見に過ぎないだろうし、カレンの意見も、“親”に対して幻想を抱き過ぎな部分が大いにあるだろう。持てる者に、持たざる者の気持ちは、わからない―――また、その逆も、しかり、だ。
 「でも、まあ、カレンさんも私も、順番どおりではあるよね」
 反論したり励ましたりする代わりに、咲夜は再びパスタをフォークに巻きつけつつ、あっさりそう言った。
 「自然の順番でいけば、人類みな、いつかは“親のいない子供”になるじゃん。人よりちょっと早く“その時”が来ちゃったけど、別段特殊なことでも、コンプレックス感じることでもないんじゃない?」
 「……」
 突然な話にキョトンと目を丸くしていたカレンは、やがて息を吐き出し、くつくつと抑え込んだような笑い方をした。
 「あっは―――やぁだ、あたしってば、冴えてないなぁ」
 「は?」
 「そういえば似てるわ、成田さんに。どうりで奏がハマる訳よね。あははははは」
 「??」
 ―――成田さん、て、えーと……“あの”?
 瑞樹の顔を思い出し、どこが似てるんだ、と首を捻る。それに、瑞樹に似ていると何故「奏がハマるのも道理」になるのか、さっぱりわからない。
 けれど、自己完結してしまっているらしいカレンは、納得したように大笑いするばかりで、咲夜には何も説明してくれなかった。


***


 「―――…ここね?」
 言葉で確認しなくても、名札を見れば一目瞭然だ。それでもなお、千里は隣に立つ弟に、そう訊ねてしまった。
 目で頷いた時田は、一旦はドアノブに手をかけたが、もう一度千里に目を向けた。
 「…いいかな」
 「ええ」
 もう、迷いはない。千里はしっかりと頷き、毅然と顎を上げた。それを確認し、時田はようやく、ドアを開けた。

 しん、と静まり返った室内は、見渡す限り、白1色だ。
 消毒薬や薬品の入り混じった病院独特の臭いが、ドア1枚で遮られる。4つ並んだベッドのうち、窓際右側に、今日2人が訪ねて来た人物が横たわっていた。
 老婆―――そのようにしか、表現のしようがない。ちょうど昼食が終わったところのようで、上半身を起こしたベッドの上にはテーブルが渡され、その上に綺麗に空になったプラスチックの食器が雑然とならんでいる。そして老婆は、老人特有の表情のなくなった顔で、午後のドラマの再放送を見るともなく見ている。千里と時田が近づいてきても、そのことに気づいてすらいないようだ。
 こんな顔だっただろうか―――記憶の中にある顔の断片だけでも見つからないか、と、千里は老婆の顔をまじまじと見つめた。その視線に気づいたのか、それとも偶然か、老婆がふいに、2人の方に顔を向けた。
 「―――…」
 澱んだ瞳が、千里と時田の顔を、ぼんやり見上げる。
 気づくだろうか―――気づかないまでも、何かを感じるだろうか? 自分と同じ血が、目の前のこの2人の体にも流れていることを、ほんの少しは感じ取れるだろうか?
 期待するでもなく、じっと老婆の動向を見守っていると、やがて老婆は不愉快そうに眉根を寄せ、口を開いた。
 「ちょっと、あんた」
 しわがれた、不明瞭な声―――間延びして聞き取り難いが、まだ頭ははっきりしているらしい口調だ。正真正銘、余命半年を宣告されたがん患者の筈だが、この年齢の老人としては、まだ元気な方かもしれない。
 「あんた、何ぼーっと、突っ立ってるの。さっぱり、片づけが、来ないのよ。さっさと看護婦を呼んでよ」
 「……」
 「ああ、ほんとに、使えない奴ばっかりだわ…。碌なのがいやしない」
 「……」
 「時田さーん」
 突如割り込んだ明るい声に、固まっていた千里もハッと我に返り、振り返った。そこには、正真正銘、白衣を着た看護士が、対老人用のスマイルを満面に作り、中腰状態で立っていた。
 「あら、今日も綺麗に食べたんですねー。偉い偉い」
 千里や時田に目だけで挨拶した看護士は、見事に空になった食器を見て、まるで3歳児でも相手にしているかのような口調で、そう言って老女を褒めた。
 「はい、これ、お昼のお薬ですからねー。ちゃんと飲んで下さいねー」
 「やだよ。まずいんだよ、そのくすり。まずくて飲めたもんじゃない」
 「またそんなこと言って。せっかく息子さんと娘さんが来てるのに、わがまま言ったら恥ずかしいですよー?」
 「まずいもんばっかりで、全く、碌なもんじゃないよ。ああ、君子さんの肉じゃがが食べたい」
 「はいはい」
 「お寿司が食べたい」
 「はいはい、元気になれば、また好きなだけ食べられますよー」
 てきぱきと食器を片付ける看護士の傍らで、老女は渡された錠剤を舌に乗せ、ノロノロとした手つきで水差しを口に含んだ。
 ゴクリ、と薬を飲み下すと、はーっ、と大きく息を吐き出す。そして、看護士の顔も、時田や千里の顔も見ないまま、またテレビに目を向けてしまった。
 「…すみません。失礼なことばかり言って」
 さすがにいたたまれなくなり、千里が済まなそうにそう言うと、カートに食器を移し終えた看護士は、少しも気にしていない様子で笑ってみせた。
 「おじいちゃんおばあちゃんは、みんなこんなもんですよ。暴れたりしない分、時田さんはまだ優等生です」
 「つまんないねぇ」
 看護士の言葉に被るように、また間延びした口調で、老女が呟いた。
 「くだらない番組ばっかりだ。碌なもんじゃない」
 「……」
 そう言いながらも、老女の目は、テレビ画面から外れない。
 くだらない、つまらない、碌なもんじゃない、と言いながら、看護士も、時田も、千里も無視して、テレビに見入っている。

 ついさっきまで、40代で止まっていた女性の、これが、今の姿。
 これが、現実―――これが現実だ。

 既に看護士は、向かいのベッドの対応に移っていた。
 もうこれ以上、ここにいても、意味はない―――深いため息をひとつつき、千里は時田を無言で促した。


 「…終末医療(ターミナルケア)の現場も、ある程度は見てきたつもりだけど…」
 病院の自動ドアを抜けると同時に、千里はそう言って、真冬の空を見上げた。
 「自分の親となると、やっぱり完全には客観視できないものね。情けないわ」
 「…そう言うなよ。プロだって人間なんだから」
 「そうね」

 人間―――聖人のような顔をしていたところで、人である以上、綺麗な感情だけで生きていける筈もない。多かれ少なかれ、誰もが泥濘のような感情を内側に抱え込んでいる。だからこそ、千里のような職業があるのだ。
 そして、その「人間」の中に、千里自身もいる。
 ドロドロとした感情を自らも抱えたまま、日々、迷える人々の前に座り、彼らの苦しみを受け止めている。

 『人は誰でも、闇を抱えているの。ただ、それに気づくか気づかないかだけの違いなの。気づかない人や、気づかないふりをする人が多い中で、あなたは真正面から己の闇と向き合ってしまった―――ただ、それだけよ』
 『自分の抱える闇に気づき、それと向かい合い、苦しんだことがある者だけが、他人の闇にも気づける―――あなたの抱える闇は、カウンセラーの必須条件よ。…己の闇を恥じず、納得のいくまで向き合いなさい、千里。多くの闇に気づけば、それだけ多くの人を理解できる―――多くの人を助けられるカウンセラーになれるわ』

 ―――…もう十分、向き合ったってことなのね、きっと。
 遠い昔、恩師からもらった言葉を思い出し、自分なりにそう納得した。
 二度と帰ってくるな、と追い出された日から、数十年……淳也に出会い、奏と累に出会い、その子供たちがあんなに大きくなるほどの長い年月、この闇と向き合い続けてきたのだ。もう十分―――十分過ぎるほど、向き合い尽くした。
 「散々迷ったけど、来てよかったわ」
 ふっと息を吐き、千里は時田を見上げ、微かに笑った。
 「君子さんの肉じゃがは恋しいけど、娘のことはなんにも覚えてません―――まあ、想像どおりではあったけどね。想像に過ぎなかったことが、事実だと確認できて、よかった。兄さんの暴言も、次からは心穏やかに聞き流せそうだわ」
 「…最初から聞き流せばいいんだよ。あの手合いは、相手がへこむの見て満足するタイプなんだから」
 「で、相手に無視されると、余計頭に来て憎悪を膨らませるタイプ。…ふふ、そんなこと、私が言わなくたって、あんたが一番よく知ってるわよね」
 千里が、時田家自慢の娘から一転、時田家の恥さらしと呼ばれるようになった時、兄は、積年の嫉妬と憎悪を晴らすべく、嬉々として千里を罵倒し、詰った。それを千里は真正面から受け止め、泣きながら膝を抱えてしまったが、弟の時田は、「バカにバカと言われても痛くも痒くもないね」と鼻で笑ってみせた。結果、口では勝てない兄は、暴力にものをいわせるようになった。本来憎まれていた筈の千里が殴られず、元々バカにしていた筈の時田だけが殴られたのは、決して千里が女だったせいではないだろう。第一、あの頃の兄は、既に千里を女とみなしていなかった。子供が産めない女は、もう女ではない―――最も千里を傷つけたこの一言は、兄自身が口にした言葉なのだから。
 「…言葉って、怖いわね。お前はダメな奴だ、って言われ続けて育つと、少しもダメじゃなかった人間も、究極のダメ人間に育ってしまうのかもしれない。言葉の持つマイナスパワーでね。…兄さんだって、子供の頃は、少しは人の痛みもわかるまともな人間だったと思う。けど……お父さんにしごかれ、罵倒され続けた結果、およそ人としての優しさというものをほとんど持ち合わせない人間になってしまった―――あの人も、別の側面から見れば、犠牲者よ」
 「またそうやって、同情する」
 呆れたような声を上げる時田に、千里は「大丈夫よ」と笑ってみせた。
 「郁夫が有名になった途端、自分がやったことも忘れてイソイソ連絡してきた段階で、私の中の同情心はほぼ跡形もなく消え去ったから。むしろ、あんたの方がよっぽど同情的じゃないかしら。無心されるままに、お金渡しちゃうなんて」
 「親の入院費用だから出したんだよ。会社の赤字の穴埋めには使うな、って釘刺したら、ぶちキレてたよ。誰のおかげで留学できたと思ってるんだ、ときたよ。どの口が言ってるんだか…」
 「留学費の出所も、何十年のうちに、自分の都合のいいように記憶が書きかえられてるんでしょう。誰だって、自分が他人を傷つけたとは思いたくないものね」
 千里だって、思いたくはなかった。
 父が亡くなったことを時田からの連絡で知った時、兄の「わざわざ海外から戻ってこなくていいぞ」という言葉を無視してでも帰国しなかったことを、随分悔やんだ。奏や累に、祖父母について嘘を教えていることにも、罪悪感を覚えいた。母の余命を聞かされた時、涙の出なかった自分を、責めたりもした。同じ女なのに、千里の痛みを理解してくれなかった母―――それでも、あの人だって元々は、そこまで非道な人間ではなかった。父の横暴に感化された被害者なのだ。もしかしたら、実の母の死を目前にしてもなお一度も顔を見せない千里は、酷い娘なのかもしれない。…もしかしたら自分は、想像以上に両親を傷つけてきたかもしれない、と考えるのは、とても辛かった。
 でも……もう、いい。
 今の母は、兄嫁の肉じゃがを恋しがってはいるが、かつて切り捨てた息子や娘を恋しがってはいない。自分は必要とされていない―――それが、よくわかった。
 そして、はるか昔、奏と累の存在を手紙で伝えた時、両親が返してきた答え―――そんな無責任な女の産んだ子供など、時田家の孫とは認めない、絶対に連れてきてくれるな、というあの言葉も、嘘ではなかったのだと改めて実感した。
 「あの子たちには、黙っておくわ」
 最後まで残っていた迷いをはらい、千里はきっぱりと、そう言い切った。
 「今更、自分たちが生まれる前に死んだ筈の“時田のおばあちゃん”が出てきても、2人とも混乱するだけだものね。それに、あの子たちを時田の家のゴタゴタに巻き込みたくない。お父さんが亡くなった時のこと、覚えてるでしょ? 血の繋がった孫が2人も増えたら、見せたくもない身内の醜態をあの子らの前に晒すことになるわ」
 「…そうだな」
 時田も無論、奏や累にこのことを伝える気はなかった。苦笑とともに頷き、あーあ、と空を仰いだ。
 「虚しいねぇ。ワンマンな独裁者だった親父も、生きてるうちに築いた財産、次から次へと兄貴に食い潰されて―――高慢だったおふくろも、今じゃ孫より若い子に3歳児扱いされて。人間、元気なうちに金貯めるより徳を積むが肝要、っていう典型だな」
 「…ほんとね」
 「子供がいるのも、良し悪しだな。死んだ後も、余計な心配がついて回る」
 ―――どっちの立場で言ってるのかしら。
 弟の横顔をチラリと見やり、その心中に思いを馳せる。
 時田の立場は、実に曖昧だ。生物学的には親なのに、実質的には親ではない。おなかを痛めて子を産む女性とは違い、自分の子であると実感する機会もあまりなかっただろう。こういう場合―――時田の目に、奏や累は、どのように映っているのだろう?
 そして、十月十日も育んでおきながら、その子らを置いていってしまったサラの目には……当時の自分をはるかに追い越した我が子は、どう映っているのだろう?
 「―――どうかした?」
 千里の視線に気づき、時田は怪訝そうな目を千里に向けた。
 「…ねぇ、郁夫」
 「ん?」

 ―――サラは何故、奏をモデルとして起用したのかしら。
 アジア第1号店とはいえ、わざわざ社長自ら立ち上げの陣頭指揮をとる気でいるのは―――日本に来る気でいるのは、本当は「日本に奏がいるから」なのではないかしら。
 サラだって、人間ですもの。仕事に一切の私情を持ち込まないなんて、不可能な筈。だとしたら……サラの本音は、一体どこにあるの?
 ただ、実の息子と、同じ仕事をしたいだけ?
 それとも―――…。

 「……いいえ」
 ふっと笑った千里は、そう言って首を横に振った。
 「いいえ、何でもないわ」
 これは、自分が口を出すべきではない問題。
 子供たちも大人になり、時田とサラも一つの区切りを迎えた今、自分が口出しするのは、ただのエゴに過ぎない。だから―――あえて、聞かないでおこう。
 そんな千里のこころの内を知らない時田は、いつにない姉の曖昧な態度に、不審げな顔をするだけだった。


***


 「あれっ、姉ちゃん?」
 突如背後からかけられた声に、咲夜はギクリとし、慌てて振り返った。
 見ればそこには、私服姿の亘が、帆布製のバッグを斜め掛けして立っていた。一瞬、誰これ、と思ってしまったほど、随分背が伸び大人びているが、キョトンと丸くなった目は、子供の頃から全然変わっていない。
 「あ、あー、亘じゃん。あけましておめでと」
 「…おめでと。もう6日も経ってるけど」
 「ハハ…。何、塾の帰り?」
 亘は間もなく、高校受験を控えている。結構厳しいレベルのところを受けるらしく、秋から塾の集中講座に通っているのだ。だが、亘は首を横に振った。
 「ううん、友達んとこの帰り。塾はこんな早く帰ってこれないよ」
 「早く、って…もう7時半だよ?」
 「塾ある日は、9時近くになるんだ」
 「…大変だねぇ、まだ中学生なのに」
 咲夜は小中高の12年を通じて、1度も塾通いをしたことがない。父はあれこれ口やかましかったが、咲夜は「進学先は身の丈に合ったところで十分」と言い、聞く耳を持たなかったのだ。そんな自分の子供時代を思い出し、咲夜はハッとして亘の顔を覗きこんだ。
 「もしかして、お父さんに無理矢理行かされてるの?」
 「え?」
 「塾。あの人、あんたに無茶なとこ受けさせようとしてるんじゃない?」
 「いや? 志望校はおれが決めたんだし、塾もおれが自分から頼んで行かせてもらってるんだ。父さん、おれにはあんまり、勉強しろとかうるさく言わないし」
 「あ…、そう」
 思わず、ホッとした顔をしてしまう。言い争いの末、手まで上げられた経験を持つ咲夜だから、弟が同じ目に遭ってはいないとわかり、心底安心した。
 そんな咲夜の表情を見て、亘は僅かに瞳を揺らし、それから視線を斜め下に落とした。
 「…姉ちゃんとは、やっぱり違うのかな」
 「え?」
 「高校受験は覚えてないけど、大学受験の時、姉ちゃんて、父さんにガミガミ言われてただろ。傍にいた芽衣が、怖がって泣いた位に。でも、おれには全然なんだよな。どう考えても、おれの方が姉ちゃんより成績悪いのに」
 「いいことじゃない。怒鳴れば子供が自分の言いなりになると思ってる方が間違ってんだって。私で失敗したから、亘にはのびのび勉強させた方がいいのかも、って改心したんじゃない?」
 「そうかな」
 目を上げた亘は、どことなく不安そうな顔で、思いがけないことを口にした。
 「やっぱり、実の子じゃないからかな」
 「は?」
 「姉ちゃんと違って、おれは父さんの子じゃないから―――だからあんまり、期待してないのかな、と思って」
 「……亘……」
 そんなことを考えていたのか―――両親の再婚の経緯を知った亘が、そんな風に考えるようになるなんて、全く予想外だ。
 もしかしたら、塾通いを自ら申し出るほどギリギリなレベルの高校を志願したのも、父に期待されていない、という思い込みのせいから、精一杯背伸びしていることの表れなのかもしれない。全く―――苦笑した咲夜は、ポケットに突っ込んでいた手を引き抜き、亘の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
 「バッカ、そんな訳ないじゃん」
 「…でも」
 「つーか、私にガミガミ言ってたのだって、別に期待してたからじゃないよ? 勉強しろ勉強しろ言ってたけど、あれは別の意味だから」
 「別?」
 「そ、別」
 不思議そうな顔をする亘に、咲夜は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
 「あれはね。“ジャズを歌うな”って意味」
 「……」
 「文句言わせないためにいい成績維持してても、まだ“勉強しろ”って怒鳴る理由は、それしかないよ。自分が下賎と決め付けた趣味を、私がさっぱり辞めようとしないから、ヒステリックになってただけ。…アホらし。さして音楽に造詣が深い訳でもない癖に」
 いや―――本当は、微妙に違うのだけれど。
 “勉強しろ”の本当の意味は、“拓海から離れろ”―――“あんないい加減な男とは縁を切れ”だ。…ますます、アホらしい。アホらしすぎて、亘に説明する気にもなれない。
 「…ま、亘が志望校に合格すれば、どこでも祝福してくれると思うけどさ。それでも、少しでもレベルの高いとこ受かれば、お父さんも鼻が高いと思うよ」
 そう締めくくってポンポン、と頭を叩いてやると、亘はまだ少し不安そうながらも、一応笑顔を見せてくれた。
 「うん。…あ、それより、ちょうど帰ってきたとこだったんだろ? 寒いし、早く入ろうよ」
 「え…、あ、うん」
 実は、呼び鈴を押すか押さないか迷っていたところに、ちょうど亘が帰ってきたのだが―――この展開でこのまま帰ったら、亘が余計怪しむだけだ。曖昧に笑った咲夜は、亘に従い、久々に我が家の玄関をくぐることにした。

 「咲夜ちゃん?」
 ドアを開けに出てきた“母”は、亘の背後に立つ咲夜を見ると、驚いたように目を丸くした。が、すぐに嬉しそうな笑顔になり、
 「まあ、こんな時間に珍しい! お帰りなさい」
 と言った。常日頃、咲夜が実家に立ち寄るのは、絶対に父がいないであろう時間帯に限られているのだ。
 「ただいま。…ちょっと、近くまで来たもんだから」
 「さ、早く入って。ええと…ちょっと待ってね。お夕飯、咲夜ちゃんの分を何かこしらえるから」
 母はそう言い、荷物を置きに行った亘を追うようにそそくさとキッチンに戻ろうとした。しまった―――こんな夕飯時に、アポなしで帰ってきたら、こういう展開になるのは当然だ。慌てて手を伸ばし、母のセーターの腕の辺りを掴んだ。
 「い…いいって! ちょっと顔見に来ただけだから、長居する気ないし」
 「え? そんな訳にはいかないわよ。遠慮しないで。すぐできる簡単なものだから」
 「いや、ほんとに」
 「咲夜?」
 突如、廊下の奥から聞こえてきた声に、咲夜はびくっ、と体を強張らせ、視線をそちらに向けた。
 居間のドアから半身を乗り出しているのは、新聞紙を片手に持った、父―――普段なら、この時間にはまだ帰宅していないだろうに、今日はたまたま早く帰ってきていたらしい。
 久々に見る父は、最後に会った時より、若干白髪が増えたように思える。もっとも、光の加減に過ぎないのかもしれないし、仕事帰りの疲れた状態だからかもしれないが……重ねた年齢の分だけ、くたびれたような印象がある。それでも、咲夜に向けられた視線の厳しさは、この10年、少しも変わってはいない。
 「帰ってたのか」
 「…ただいま」
 こちらに歩み寄るでもなく、半身を乗り出したまま言う父に、咲夜は呟くようにそう挨拶した。双方、感情のこもらない、淡々とした声―――その間を、母が明るい声で取り持った。
 「あなた。お夕飯、ちょっとだけ待っていただけます? あり合わせだけど、咲夜ちゃんの分、ささっと用意しますから」
 「なんだ、連絡してきてなかったのか」
 そう言うと、父は眉間に皺を寄せ、咲夜の方をきつく見据えた。
 その目を見ただけで、咲夜には、次に来るであろうセリフが容易に想像できた。そして、その想像どおりの言葉が、父の口から咲夜に投げかけられた。
 「日頃さっぱり寄りつかんのだから、帰る時には電話位入れろ。お母さんを困らせるんじゃない」
 「あなた、」
 たしなめるような声を、母が上げる。が、咲夜はそれを無視して、わざとらしい位明るい声で答えた。
 「あー、ごめんごめん。たまたまこの辺に来たんで、ちょっと顔出そうかな、って思っただけだからさ。夕飯は仲間と食べる約束してるから、玄関までで帰るよ」
 「そんな、咲夜ちゃん…」
 「あ、お母さん、芽衣は?」
 困ったような顔をする母に、笑顔のまま訊ねる。こうなったら咲夜が引かないこと位、母も長年の付き合いから十分承知してる。軽くため息をついた母は、咲夜を引き止めることを諦めたように、キッチンに戻りかけていた体をきちんと咲夜に向き直らせた。
 「…それがあいにく、昨日から風邪ひいて寝込んでるのよ」
 「あらら…、大丈夫? 酷いの?」
 「大丈夫。熱は下がったし。ただ、咳が酷くてね。咲夜ちゃんが帰ってるって知ったら飛び起きるだろうけど、あの調子じゃ咲夜ちゃんに風邪をうつしちゃいそう」
 「そっか。じゃ、また電話するって言っといて」
 そう言って口の端を上げた咲夜は、改めて、廊下の奥に目を向けた。
 父は、憮然とした表情のまま、さっきと1ミリも変わらない姿勢でこちらを見ていた。さっさと家を後にしようとする咲夜に腹を立てているのか、それとも「さっさと帰れ」と思っているのか―――長年、こういう顔ばかり見てきたので、その2つの違いを見分けることすら難しくなってきた。
 「じゃ、帰るわ」
 咲夜がそう言うと、父は「うむ」という感じの不明瞭な返事をし、居間へと引っ込んでしまった。そんな夫の態度に、母はあからさまなほど大きなため息をつき、済まなそうな顔で咲夜を見た。
 ―――何も、ため息をつくようなことじゃない。
 咲夜は、ことさらに笑顔を作り、母の肩をポンと叩いた。
 「じゃあ、また」
 「…気をつけてね」
 「うん」


 ―――バカだよね、私も。

 カレンさんの話聞いて、ちょっとばかし罪悪感が疼いたからって。
 奏の家族と会って、家族っていうもんに、ちょっとばかし懐かしさを覚えたからって。

 おかえり―――その一言すらない実の父。…その現実は、百も承知していた筈なのに。

 「…帰ってくるんじゃなかった」
 閉じた玄関の向こうには決して聞こえない声で、咲夜は、2年前と同じセリフを、小さく呟いた。


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