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― Dash out! ―

 

 せっかくの日曜日だしなぁ、とか。
 明日も、世間は祝日でも、こっちは成人式の予約客だらけで、むしろ地獄だしなぁ、とか。
 いろいろ、いろいろ、本当にいろいろ難癖つけては、出かけるのを渋っていたのだけれど―――結局、最後に背中を押したのは、やっぱり咲夜だった。

 「そんだけ愚図る割に、1回も“やめた”って断言しないんだから、行けば?」

 …癪だけれど、咲夜の言うとおり。
 奏は、謎を謎のまま放置することが、とても苦手だ。「なんだろう?」と引っかかると、その正体を確認したくなる。確認しないままスルーすると、大抵後から「あれって何だったんだろうなぁ」と引きずるのだ。
 だから、どんなに気の進まない場所でも、どんなに会いたくない相手でも、「やっぱ行くのやめた」とは言えない。登校拒否児よろしく、行きたくねー、行きたくねー、と愚図りはするが、結局、行く方を選んでしまうのだ。


 「一宮さん」
 スタジオの外でウロウロしていた奏は、見知った顔に手招きされ、慌ててそちらに駆け寄った。
 「すいません、遅れて」
 「いえ。あの、これ、パスです。もう撮影始まってますから…」
 だからお静かに願いますね、と口に出さず告げたリカのマネージャーは、奏に関係者パスを手早く渡し、早々に現場へと戻ってしまった。
 以前、撮影現場で会った時は、リカがキツ過ぎる突込みを入れたくなるほどに、結構媚びた態度を取っていたマネージャーなのに―――なんだかなぁ、という気がしないでもないが、こういうあっさりした応対の方が、奏としても助かる。早くもドアの向こうに消えてしまったマネージャーを追って、奏もスタジオ内に足を踏み入れた。
 ―――考えてみたら、なかなかないシチュエーションだよな、これ。
 撮影スタジオという場所そのものは、仕事で飽きるほど訪れている場だが、モデルとしてでもなく、メイクスタッフとしてでもなく、ただの見学者として訪れる、というのは、これが初めてかもしれない。見慣れた感すらある受付ロビーや廊下なのに、今日はなんだか違って見えるから不思議だ。
 一言も交わすことなくマネージャーに続いて現場に入ると、言われたとおり、既に撮影は始まっていた。
 ホリゾントの中央に、衣装を身にまとったリカが立っている。その姿を見た瞬間、思わず「うわ」と言いそうになり、すんでのところで抑えた。
 過去に何度か撮影に立ち会っているとはいえ、久々に見ると、あまりのヒラヒラフリフリぶりに、改めてゲンナリする。そういえば、この前、デジカメを下見しに秋葉原に行ったら、ああいう服を着た目と胸のデカいキャラクターのポスターが、あちこちに貼ってあったなぁ―――こんなの好きな奴なんてせいぜい中学生までだろ、と首を捻りたくなった奏だったが、昨年、中学時代の同級生宅にちょっと立ち寄った時に、こういう服を着たキャラのフィギュアが棚の上に置いてあったのを思い出し、余計ゲンナリした。
 「はい、リカちゃん、視線こっち!」
 黒基調の典型的ゴシック・ロリータ姿のリカは、カメラマンの指示を受け、それまで斜め右に向けていた視線をカメラの方へと向けた。
 僅かに背を反らしたような姿勢のまま、ワンピースのスカートを軽くつまんだリカは、カメラに向かってニコリと微笑んでみせた。その様子を見て、奏は少し表情を変え、腕組みをして撮影の様子にじっと見入った。
 ―――へぇ…、進歩してるじゃん。
 相変わらず、笑顔はぎこちなく、ポーズも洗練されているとは到底言えない。が、ただ漠然と立っていただけの最初の頃とも、必死さばかりが先に立っていた最後の撮影の時とも違う。奏が教えたことを実践しようと懸命にポーズを考えているのがわかるし、最後まで思い至らなかった「表情を作る」という点も、少しずつではあるが試せるようになっているようだ。

 『撮影終了後、先輩である一宮さんに、どうしても意見をうかがいたいです』

 どういう意図なのか、あのメッセージからは、いまいち読み取れないが…やはり、もう少し上手くできるようになりたい、という相談なのだろうか。それとも、多少なりとも以前よりはマシになっている自分を、奏に見て欲しかったのだろうか。
 わからない。けれど、1つだけ、わかる。それは、奏が現場を離れた後も、リカが奏のアドバイスを守り、ちゃんと努力し続けていた、ということだ。それがわかっただけでも、来た意味はあったのかもしれないな、と、リカを眺めつつ奏はぼんやり思った。

 撮影は、なかなか順調に進んでいる様子だった。
 先ほどのは記事内に使う写真だったようで、ある程度の枚数を撮り終えると、リカはホリゾントを下り、控え室へと向かってしまった。多分その時に、奏が来ていることを確認したのだろう。衣装を替えて戻ってきたリカは、真っ先に奏の方に会釈した。
 リカが着替えている間に、ホリゾント上には、年代ものと思しきロッキングチェアやアンティークローズ色の薔薇が運び込まれ、表紙撮影のためのセッティングが行われていた。ダークな色合いの赤いドレスに着替えたリカがその中央に納まると、まるでアンティークドールそのものだ。やっぱりこの雑誌はこういうコンセプトなんだな―――わかりきったこととはいえ、等身大の人形よろしく椅子に座らされるリカを見て、思わずため息をついてしまう。
 ロッキングチェアにくたっともたれたリカは、カメラマンの指示で、座っているなりに色々なポーズをとってみせた。元来、笑うのが苦手なようで、相変わらず笑顔はどれも硬い。が、どの表情も、以前と同じようで、全く違っている。指示の意味も意図も考えず、ただ無表情にポーズを取っていた頃とは違い、今のリカの表情は、どれもリカの意志を伴ったものだ。
 モデルとして絶望的、と感じたことすらあったリカだが……これなら、そこそこ、やっていけるかもしれない。他のモデルにはないアクの強さを逆に武器にすれば、リカなりのジャンルで、納得のいく仕事をやっていけるのかもしれない。
 でも―――…。

 ―――なぁんか、違うんだよな…。
 何が、どう、と明言できないところが、もどかしいのだけれど。
 ついこの前、ド素人である筈の咲夜の、しかもプライベートな撮影に過ぎない現場に立ち会って―――なのに、あの時初めて感じた、もっといい作品にしたい、もっとモデルの魅力を引き出したい、という、職業的欲求。
 撮影現場にまた来れば、もう一度味わえるかもしれない、と、実は淡い期待を抱いて、今日もここに来たのだが…結果は、NOだ。
 勿論、今日のリカのメイクは自分が担当している訳ではないから、咲夜の時とは違っていて当然だろう。けれど、もし自分の担当であっても、結果は同じだったような気がする。
 才能の違い? 「スポットライトを浴びて立つ」ということに対するキャリアの差? それとも、何か性格的な違いだろうか?
 咲夜以外のモデルでも、あの時と同じものを感じることは、あるのだろうか。
 どうしたら、あの時感じたような充実感を、また現場で感じることができるんだろう―――?

 「ハイ、オッケー! お疲れ様でしたー」
 編集者の声に、ハッと我に返ると、ちょうど撮影が無事終了したところだった。
 お疲れ様、などの声が飛び交う中、リカも立ち上がり、いつもの営業用スマイルで周囲に声に応えていた。が、それもすぐ切り上げ、小走りで一直線に奏の所へと駆け寄った。
 「一宮さんっ」
 息を弾ませたその第一声を耳にして、奏はギョッとして、思わず1歩、足を引いてしまった。
 同世代の女性の中でも、高い方に位置するであろう、日頃のリカの声。なのに、今の一言は、凄まじい掠れ声―――ハスキーボイスどころか、いわゆる「ダミ声」だ。
 「な…っ、なんだぁ!? その声!」
 「ああ、これ?」
 苦笑いしたリカは、説明しようと口を開き、そのままケホケホと咳き込んだ。
 「じっ、つは、お、おしょーがつから…」
 「と、とりあえず、咳止まってからにしろって」
 奏が慌ててそう制すると、リカは更に咳き込み、一頻りゴホゴホやり尽くすと、ハーッ、と大きく息を吐き出した。
 「風邪か」
 聞く前から、事情はわかってしまった気がする。奏が眉をひそめてそう言うと、リカは鬱陶しそうに髪を掻き上げながら、2度頷いた。
 「…もう熱ないし、声もだいぶ戻ったんだけど、ずっと喋らずにいると、話し始めがこうなっちゃって」
 そう答える声は、いつものリカよりまだ低いが、確かにさっきのダミ声とは段違いだ。
 「無理しないで、そこ座ったら」
 さすがに気の毒になってそう勧める奏に、リカは顔を上げ、ちょっと驚いたように目を丸くした。
 「……」
 「? どうした?」
 「う、ううん、なんでも」
 ふるふる、と首を振ったリカは、ちょっと視線を彷徨わせた後、遠慮がちに告げた。
 「―――じゃあ、お言葉に甘えて…ちょっと場所変えてもいい?」

***

 「はい」
 コトン、とテーブルの上に置かれたのは、紙コップに入ったホットココアだった。
 「わざわざお休み潰して来てもらったんだから、お茶くらいおごるべきなんだろうけど…このスタジオ、カフェラウンジがないから」
 「…サンキュ」
 ―――なんつーか…変な感じ。
 常識のある大人なら当然なことなのに、あのリカからされると、なんというか…居心地が、悪い。自分が居心地の悪さを感じる必要など微塵もない筈なのだが、やはり、優也との付き合いに余計な疑いを持ってしまったことが、多少の負い目となっているのだろうか。
 そんな奏の複雑な心境など知らないリカは、少しためらった後、奏の真向かいに腰を下ろした。
 自分の分のココアを一口飲み、ほっと息をついたリカは、奏も一口飲み終えるのを待って、ようやく本題を切り出した。
 「…ねえ、一宮さん」
 「ん?」
 「今日の撮影のあたし、どうだった?」
 じっ、と見据えられ、奏はココアのカップを置いて、素直に感想を述べた。
 「随分、良くなってたんで、正直驚いた」
 「ホント?」
 「ああ。最後の撮影の時より、ずっと表情があったし、考えてポージングしてたと思う」
 「……」
 「ちゃんと努力してたんだって、わかるよ。あの後も、ずっと」
 奏の答えを聞いて、リカは少しホッとしたような笑みを見せ、小さく「よかった」と呟いた。が、すぐにその笑みを消し、また奏の目を見据えた。
 「これなら、モデルとして、やっていけると思う?」
 「え?」
 「他のモデルさんと、同じ土俵に立てる?」
 「そりゃあ…大丈夫だろ。まだ表情硬いけど、こういうのは慣れもあるし」
 「どの辺までいけそう?」
 「どの辺?」
 「コアな趣味の人向け雑誌の表紙止まり? 中堅の雑誌の商品写真程度? メジャーなファッション誌の表紙もいける? このまま、」
 妙に真剣な表情のリカは、一瞬言葉を切り、ぐっ、と身を乗り出してきた。
 「このまま続けていって、もっと慣れれば、一宮さんみたいに、世界の有名ブランドのイメージモデルをやれるとこまで、いけると思う?」
 「……」
 リカのあまりの勢いに、思わずゴクリと唾を飲んでしまう。
 一体何をそんなに意気込んでいるのだろう? どういう答えを期待しているのだろう? 励ませばいいのか、諭せばいいのか、その必死とも言える表情からは判断がつかない。困惑気味に眉根を寄せる奏に、リカは、テーブルの上についた自らの手を、ぎゅっと握り締めた。
 「正直に、言って」
 「……」
 「他に誰も、本当のこと言ってくれる人、いないの。“モデル・姫川リカ”って素材に、どの位の可能性があるのか、プロの正直な評価が聞きたいの」
 「…正直で、いいんだな? ほんとに」
 リカがはっきりと頷くのを確認した奏は、意を決したように、一度唇を引き結んでから、答えた。
 「―――真剣に努力すれば、メジャー雑誌の商品写真位までなら、いけるかもしれない。けど……そのレベルのモデルは、山ほどいる」
 「……」
 「同じ力量なら、リカじゃなく、他のモデルを選ぶクライアントの方が、多いと思う。残念だけど」

 アクが強すぎるのだ、リカは。
 モデルは、多種多様な服を着こなせてナンボの仕事だ。モデルの必須条件とも言えるスレンダー体型だって、グラマラスな体型では着こなせる服が制限されるからだ。モデルにも個性は必要だが、ジャンルを選ばざるを得ないほどの個性は、むしろマイナスになってしまう。
 極普通のOLや女子大生が日常的なファッションの参考とするような雑誌で、リカを大々的に使うのは、無理がある。 かといって、金持ち向けなオートクチュールをやるには、醸し出すムードが子供すぎる。ショーで使うには背丈が足りず、芸能活動は本人が望んでいない。今のこの活動範囲の狭さは、事務所の営業努力以前の問題―――姫川リカという素材の潰しのきかなさが原因だ。
 スポットライトを浴びることを楽しめないとか、ファッションからくる自己暗示にかかり難いとか、表情を作るのが苦手とか、そういう才能面での問題も、確かにある。が……リカがモデルとして大成しないだろう、と奏だけでなく佐倉までもが断言したその理由は、「リカがクライアントにとって使い難い素材だから」なのだ。

 奏の言葉を聞いて、リカは暫し、じっと動かずに奏の顔を見つめ続けていた。が、やがて、はーっ、と大きく息を吐き出したかと思うと、不思議なほど安堵したような笑みを、その顔に浮かべた。
 「良かったー…」
 「は?」
 「これでやっと、あたしは間違ってなかったんだ、って、心から思える」
 「??」
 何のことだか、さっぱりわからない。怪訝そうな顔をする奏に、再び椅子に腰を下ろしたリカは、ちょっとバツが悪そうな表情で奏と向き合った。
 「実はね。今日の撮影、あたしの最後の仕事だったの」
 「最後?」
 「うん。…辞めたの、モデルを」
 「はあっ!?」
 思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。通りがかりのスタッフの不審げな視線を感じ、奏は慌てて声のボリュームを絞った。
 「や、辞めた、って…」
 「事務所との契約更新があったんだけど…更新、しなかったの。今日の仕事は、出版社との間で表紙モデルとして1年契約してたから白紙にならなかったけど、今日撮った3月号の分でその契約も終了になるから、これでおしまい。まだ次の仕事見つけてないから、暫く無職ね」
 「なんでまた…」
 半ば呆然と奏が訊ねると、リカはココアのカップを両手で包み、ポツポツと話し出した。
 「…本音では、ずっと辞めたいって思ってたの。チヤホヤされて、周りから持ち上げられて生きてきたけど、そういうのに辟易してるあたしは、多分こういう世界に向いてないんだろうな、って感じてたから。でも…今、辞める訳にはいかない、って思ったの。こんな中途半端で辞めたら、一宮さんに……もっと、軽蔑されると思って」
 「……」
 「才能ないとか、向いてないとか言うのは、単なる逃げだって思われちゃう、だから、精一杯頑張って、一宮さんに認められるだけのモデルにならなきゃ、って―――認めてもらえたら、少しは許してもらえるかな、って思ったの。これまであたしがやってきたことを。でも……」
 「…でも?」
 「…蓮に、言われた。“誰の人生だ”って」
 意外な人物の名前が飛び出してきて、奏の目が丸くなる。その反応に、リカはちょっと苦笑した。
 「ほら、イブの日。あの時あたし、優也に貸した写真集の間に、契約更新に必要な書類挟んだまんまにしちゃって、それで慌てて優也の部屋を訪ねたとこだったの。でも、優也が留守で、半分パニクっちゃって…それで、蓮のとこで待たせてもらってる間に、仕事の話をしたの。向いてないと感じてる仕事を続けるのは苦痛だけど、一宮さんに言われたことを実現するまでは絶対辞められない、って。そしたら蓮の奴、すっごいバカにした顔で、言ったの。“親に褒められたいから、一宮さんに嫌われたくないから、って、自分の人生決めるのに、人を理由にしてばっかりだな”って。あたしが居るせいで、事務所に入れないモデル志願者だっているかもしれないんだから、才能もやる気もないなら、さっさと辞めればいい、なんて言うのよ。キツイでしょ」
 「へー…、あいつが、そんなことを」
 無口な奴だと思っていたので、蓮がそうしたことを饒舌に語る姿など、想像ができない。いざとなれば結構言う奴なんだな、と、奏は密かに認識を改めた。
 「何様のつもりよムカツク、ってその時は思ったんだけど…ムカツクのは、痛いとこ突かれたから、かも。才能なくても、本当にこの仕事が好きなら、続けていく意味はあると思うし、あまり気が乗らなくても、隠れた才能があればやっていく価値はあると思う。けど……あたしには、どっちもないんだもの。そうか、あたしがモデルを続けようとしてるのは、一宮さんが一流モデルで、あたしにアドバイスをくれた人だから―――それだけの理由なのか、って、改めて自覚させられちゃった。どこかでわかってたから余計、指摘されて、悔しかったのかもしれない」
 そう言うと、リカはホッと息をつき、真っ直ぐ奏を見つめた。
 「そんな最中に、一宮さんの伝言を、優也から聞いてね。やっと、決心ついたの。今のあたしにできる精一杯を一宮さんに見てもらって、それで最後にしよう、もう辞めよう、って」
 「…そ、っか…」
 「でもねぇ―――決めたはいいけど、梅ちゃんがもう、うるさくてうるさくて」
 事情を報告し終えてホッとした部分があるのか、リカは、緊張から解放されたように、明るい声になった。
 「担当モデルが契約更新しないのって、そんなにマネージャー評価に響くのかな。せっかく評判良くなってきたのにもったいない、とか、テレビの仕事に転向すれば絶対成功する、とか、色々言ってきて。辞めさせたくないからお世辞言ってるのかもしれないけど、あんまり言うから、ちょっと不安だったの。やっぱりあたしが根性ないだけなのかな、本当はモデルに向いてて、ここで辞めるのはもったいないことなのかな、って」
 ―――まあ…お世辞9割、だろうなぁ。
 リカの才能がどうこう、というより、あのマネージャーが、そこまでリカの将来性について真剣に考えていたとは思い難い。事務所の事情は知らないが、やはり、担当モデルが辞めるというのは、マネージャーにとって痛いことなのだろう。
 「だから、今、一宮さんの本音聞いて、ホッとした。良かった、間違ってなかった、って思えて」
 「…じゃあ、もしオレがお世辞でも“頑張れば一流になれる”って言ったら、どうする気だったんだよ」
 「言う筈ない、って、確信してたもん」
 そう言ってふふっ、と笑ったリカだったが、
 「でも―――万が一、本当にそんなこと、一宮さんに言われてたら……迷っちゃったかもしれない。やっぱり、一宮さんの期待に応えたい、って、どうしても思っちゃうから」
 「……」
 「だからこそ、ホッとしたの。本当のこと言ってもらえて」
 その気持ちは、ちょっと、わかる。「そっか」と言って奏が微笑すると、リカも僅かに笑みを返した。
 「で、この先どうするか、決めてんのか」
 「ううん。とりあえず、運転免許だけは取ろうかと思って。今まで散々暇あった癖に、なんだか取りそびれてたから。車校通いながら、ゆっくり探すつもり。あたしが本当にやりたいことが、何なのか」
 「…見つかるといいな」

 自分が、自分らしくなれる場所が。
 誰かに認めてもらうためじゃなく、自分で自分を褒めてやれるように。

 ―――そうなんだよな…。
 リカのための言葉なのに、無意識のうちに、そんな相槌を心の中で打ってしまう。
 一瞬、虚ろな表情を見せた奏に、リカがちょっと不思議そうな顔をする。それに気づいた奏は、慌てて、はっきりとした笑顔を作ってみせた。
 そう―――まるで、自分自身の迷いを、誤魔化すかのように。

***

 「一宮さーん」
 受付の方からの山之内の声に、奏はチークブラシを置きつつ「はーい」と答えた。
 ちょっと失礼します、と客に断りを入れ、足早に受付カウンターに行くと、電話を保留にしたまま、山之内がちょっと困った顔で予約表を指差してみせた。
 「小沢様が、明日の午後で予約入れたいそうなんですが…」
 「明日? えーと、明日って、どうなってたっけ」
 こまごました予約の有無など、全部頭に叩き込める筈もない。ひょい、と予約表を覗き込んだ奏は、直後、見なけりゃよかった、と激しく後悔した。
 「―――…」
 「…断りましょうか」
 山之内の眉が、気の毒そうにハの字に下がる。そうした方がいいか、と一瞬思いもしたが、結局奏はため息とともに首を横に振った。
 「…いや。この、4時45分からのとこお勧めして、そこが無理ならテンに回して」
 「わかりました」
 テンに回して、と言ったところで、恐らくそうなる前に「だったら今回は諦めるわ」となるのだろう―――これを機会にテンを指名してくれるようになればいいのに、と奏は密かに思っているのだが、世の中、そう思惑どおり行かないものなのだ。


 「しっかし、見事やなぁ…。すっかり看板スタッフやん」
 ブリックパックのりんごジュースをずずずっ、とすすりつつ、テンが感心したような声を上げる。同じくブリックパックのコーヒーにストローを突き刺したばかりの奏は、そんなテンの言葉に、面白くなさそうに口を尖らせた。
 「…看板スタッフは、今だって氷室さんだっつーの」
 「ほんでも、稼ぎ頭なのは、間違いないやろ。予約表見ても、いっちゃんの欄が一番真っ黒やん」
 「それは、目の錯覚。氷室さんがずーっと店に出てたとして計算したら、オレの比じゃないよ」
 氷室は現在、個人で請ける仕事のために、週に1、2日は必ず店をまるまる空けることになる。美容院やエステと違い、メイクの予約は、パーティーなり旅行なりお見合いなり、「その日に」何か予定があるからこそ、プロにメイクをしてもらおうと思うのが大半だ。よって、氷室が不在の日にそういう予定が重なってしまった客は、諦めるか、他のスタッフに振り替えてもらうしかないのだ。
 結果、氷室の予約表は、週に2日ほどの空欄を挟み、それ以外の日も適度な密度に収まる形になっている。当然、もしずっと店に出ていたのなら、もっと違った形になる筈だ。
 ―――ていうか、オレの欄がおかしいだけなんだよな。
 平日の昼以降が、不自然なまでに真っ黒けな自分の予約欄を見つめ、胃の辺りがムカムカしてくる。
 「…いっちゃん。更衣室をコーヒーまみれにせんといてな」
 無意識のうちに、ブリックパックを握る手に力が入っていたらしい。テンの指摘を受け、奏は気まずそうに、ストローに口をつけた。
 「一体、何が不満なん? ウチから見たら羨ましいわ、こないに固定客がぎょーさんおって」
 「…誰も不満だなんて言ってねーよっ」
 「言ってないけど、顔がむちゃくちゃ不満そうやん」
 別に、不満な訳じゃない。
 不満じゃない、けれど―――満たされている、とも言い難い。特にここ最近は、固定客からの予約が入るたび、嬉しさより気の重さが先に立つ。まだ固定客など持てる立場にない山之内が聞いたら爆発モノだろうが、それが奏の率直な気持ちだ。

 多分、火種は、もっとずっと前から、既にくすぶっていたのだと思う。
 何かが違う、何かがおかしい、そう思ってはいたが、日々の仕事に精一杯で、その正体を見極めるだけの余裕が、去年までの奏にはなかった。特に、夏から秋にかけて、リカとの件があったから、尚更―――奏の頭脳は、悲観的になるほどロースペックではないものの、あまりマルチタスクには適していない。あの一件で手一杯になってしまっていた、というのが正直なところだ。
 リカの件が一旦収まり、“VITT”を最後にモデルの引退も決まり―――やっと落ち着いてきたところで、「あれ」が起きた。思い出すだけでも腹立たしい、大河内夫人の暴挙が。
 そして、気づいた。研修が終わり、スタッフの中核を担うようになって以来、予約表の奏の欄が、やたらハイペースで埋まっていっていることに。
 勿論、奏を指名してくるのだから、みなリピーターである。しかも、奏のスケジュールに合わせて日時の融通をしてくれる、ありがたい客ばかりだ。だから、奏の欄は、空欄が綺麗に埋まっていく。それが、いかに不自然なことか―――氷室の、ぽつぽつと空きのある予約表を見れば、一目瞭然だ。

 「客の都合で予約が入るもんだろ、普通は」
 苛立ちに眉根を寄せ、奏は、早くも空になったブリックパックをぎゅっ、と握り締めた。
 「何月何日にこういう用事がある、だからメイクして欲しい、ってんで予約が入る筈だろ? 先にメイクを必要とする用事ありき、な筈なのに……なんでオレの都合がつかないと“じゃあ別の日で”になるんだよ? おかしいだろ、どう考えても」
 「…そんなん、今更、言わずもがな、ってやつやん」
 ずずっ、と最後の一口を飲み干し、テンはサバサバした調子で断言した。
 「いっちゃんの常連さんの中に、まずはいっちゃんありき、で、メイクを必要とする用事を作る客が、少なからずおる、っちゅうことやろ?」
 「……」
 「そろそろ奏ちゃんに会いたいわぁ。じゃあお茶会でも開こうかしらぁ。あらその日は奏ちゃん休みなの? じゃあ別の日で〜。…てなもんやろ。けど、そんなん、今更ちゃう? ウチのご贔屓さんかて、なにもメイク技術だけ気に入って指名してくれる訳ちゃうで?」
 「…わかってる」
 テンを指名する常連客は、メイク以上に、テンのトークが好きで彼女を指名する場合が多い。氷室の場合は、あまり口数が多くなく物腰も柔らかなので、煩雑なコミュニケーションを嫌う女性にウケがいい。フェイシャルマッサージのスタッフだって、技量では同じレベルでも、客によって好みが分かれる。
 この仕事に限らず、どの業界でも、純粋に技術や品質だけを評価して選択する客など、ほとんどいないだろう。値段には表れない付加価値部分が、実は取捨選択の大きな鍵となる。それは、人間と人間が関わる以上、当たり前のことだ。
 「いっちゃん指名するお客様かて、顔オンリーで指名してる訳やないし。女にとってメイクっちゅーのはハンパなことは許されへん領域やん。いくら二枚目でも、自分の顔気に入らんようにメイクされたら、次から絶対指名せぇへんわ。みんな、いっちゃんの顔だけ評価してるんやなく、メイクの腕も、接客態度も買ってるんやろ?」
 「わかってるって、そんなこと」
 イライラのあまり、つい口調が乱暴になる。舌打ちした奏は、丸めたブリックパックの残骸を、ぽい、とごみ箱に放り込んだ。
 「あんまり立て続けなんて、ちょっとウンザリ気味になっただけだって。ただの愚痴なんだから、そんなマジに突っ込むなよ」
 「…そんなら、ええけど…」
 ただの愚痴、という奏の言葉を、あまり信用していないのだろう。テンは、まだ怪しむような目つきで、眉をひそめていた。
 「星さんも言うてたけど、ここでメイクしてもらう時間は、お客様にとって、日常から離れたリラクゼーションタイムなんやから、あんまりカリカリせんといてや」

 ―――違う。
 ただの愚痴、などではない。
 言えないだけで―――この店のコンセプトに適応しているテンには、言い難いだけで。


 奏は何も、自分が技術より顔で評価されているらしいことに腹を立てて、イライラしている訳ではない。
 人気商売なら、多かれ少なかれ、そういった要素もあること位、わかっている。割り切れ、と言われれば、割り切る努力はできる。その位、“Frosty Beauty”の仮面を被り続けてきた奏には、簡単なことなのだ。
 苛立っている、その本当の理由は―――気づいて、しまったから。
 自分がやりたいと思っていることと、この店でやらねばならないこととの、大きすぎる違いに。

 この前、時田と咲夜の撮影に立ち会って初めて、メイクアップアーティストとしての職業欲に駆られた。
 メイクを施し、ステージ上に送り出したらハイ終わり、ではなく、刻一刻と変わりゆく現場で、その瞬間の最高の美を、全員で作り出そうとする作業―――奏が求めるメイクの現場は、非日常のリラクゼーションではなく、日常の戦いの場だ。
 勿論、メイクアップアーティストを志したからには、いずれはそうしたプロ相手のメイクにシフトしようとは思っていた。が、奏の意識は、自分で想像した以上に早く、シフトチェンジを必要とし始めているらしい。となれば、そうした個人オファーを積極的に取りに行かなくてはいけない。今、奏に必要なのは、攻めに転じるための「自由」だ。
 なのに、事態は、その逆をひた走っている。
 “Studio K.K.”での固定客が増えれば増えるほど、奏の自由は減っていく。基本給プラス歩合給である立場を考えれば、客が増えることはありがたい。が、本当にやりたいことを考えれば、どんどん、どんどん、窮屈になっていく。
 ―――いいのかよ、こんなことしてて。
 前から漠然と抱いていた疑問が、大河内夫人の件や咲夜の撮影を機に、より鮮明に、より大きくなってしまった。それが、奏がここ数日、イライラしている本当の理由。つまり、なんとかしなければ、という「焦り」だ。
 リカが、思い切りよくすっぱりモデルの仕事を辞めてしまったことも、奏の焦りに拍車をかけているのかもしれない。だからこそ、仕舞い込んでいた葛藤をテンにまで見抜かれる羽目になったのだろう。


 ―――オレは、この店で、オレらしく仕事をしてるんだろうか。
 “Studio K.K.”の稼ぎ頭と言われるようになった自分を、オレは、誇りに思っていいんだろうか…?


***


 拍手の中、深々と一礼した咲夜は、逆光になった客席の中に招かれざる客を見つけ、一瞬、眉を軽く顰めてしまった。
 ―――また、来てるし。
 “客”と呼ぶのは、正しくないのかもしれない。
 では、何と呼ぶのがふさわしいのか―――招かれざる経営者? 招かれざるオーナー? いや、まだオーナーになった訳ではないのだから、やっぱり“客”でいいのだろうか。


 「やっぱり、オーナーの具合が芳しくないのかもなぁ」
 控え室に戻って早々、ヨッシーがそう呟く。途端、スポーツタオルで汗を拭っていた一成と、ウーロン茶のペットボトルをあおっていた咲夜が、それぞれにピタリと動作を止めた。
 「…何か、聞いてるのか」
 探るように一成が訊ねると、ヨッシーはため息をつき、疲れたように首を振った。
 「いや、なーんも。…てか、聞かなくたって、ある程度想像はつくだろ。次期オーナーが、ああも足しげくライブを聴きに来る、その事情は」
 「……」
 「しかも、これ見よがしに、電卓叩いてメモ取りながら、だからな。あれで純粋にジャズを楽しみに来たって言うんなら、随分と斬新な楽しみ方だよ」
 「…あの眉間の縦皺は、“楽しむ”の対極だろ」
 吐き捨てるような一成の一言に、咲夜はため息をつき、ぐったりとうな垂れた。
 “Jonny's Club”のオーナーが体調を崩し、入退院を繰り返しているらしいことは、前から知っていた。
 月・水・金を担当するバンドの問題も相まって、店の行く末に暗雲が立ち込め始めたな、とは思っていたが、年明け早々、客席にオーナーの息子らしき姿を見つけてからは、暗雲はかみなり雲へと変化し、今にも激しい雷雨に襲われそうな気配でいっぱいだ。
 咲夜たちの耳に入っているのは、次期オーナー氏は、他にも飲食店を経営しており、なかなかの手腕を見せているらしい、ということ。既に“Jonny's Club”の経営にも一部関わっているらしい、ということ。そして―――オーナーとは違い、彼はジャズを全く愛していない、ということ。
 「最悪のシナリオは、さすがにないだろう。ここは立地条件がいいし、客もかなり入ってる。トールが心配してるような“閉店”なんて事態は、計算高そうなジュニアは、まず考えないと思う」
 「…となると―――…」
 ヨッシーの推理を受け、3人で、顔を見合わす。実際に口に出したのは、結局、一成だった。
 「―――…生ライブの廃止、か」
 それしかない。
 電卓片手に、葬式みたいな顔でライブを聴いていたオーナージュニアは、恐らく、有名人でもないバンドに金を払って演奏させることが、店にとってどれだけの経済効果を生んでいるかを、緻密に計算していたのだろう。そこには、ライブをこそ楽しみに足を運んでくれている常連客の数も含まれているのだろうが―――それ以上に、ライブが客の回転率に与える影響や、ライブタイムとそれ以外での1席辺りの収益の違いなどが、事細かに挙げ連ねられているのに違いない。
 「どうしても、ライブの時間帯前後に、客が集中するからなぁ…。特に、俺らの時は。いい場所にあるから、もっと客の回転を良くして、コンスタントに収益上げられるようにしたい、って思っても不思議じゃあないよな」
 「その理屈でいくと、私らよかフロアBGM状態の月水金の方が、ジュニア的には“使えるバンド”なんだろうね」
 なんだかなぁ―――3人揃って、ため息をついてしまう。今の3人の気分は、執行の時を待っている死刑囚に近いかもしれない。
 「…でも、ここの仕事がなくなれば、ちっとは自由がきくようになるんだし。なるべくポジティブに考えろよ」
 どうしても暗くなりがちな一成と咲夜に、少しは割り切れているヨッシーが、そう言って励ます。これも、ここ最近のお決まりのパターンだ。
 実際、他にもバックバンドやセッションなどでいくらでも演奏する場のあるヨッシーから見れば、夜だけとはいえ、確実に週3日拘束される“Jonny's Club”の仕事は、重荷になったことも何度かあったに違いない。いや、一成だって、本職としている楽器店のイベントなどで駆り出されることも多いのだし、もっと割のいい仕事をこの店のために蹴るしかなかったこともあったかもしれない。咲夜にしても、他のライブハウスでのセッションライブを、「土曜日だから」と断ったことが1回ある。勿論、咲夜はそれを重荷とは感じなかったが、見方を変えれば、ここでのライブが足枷になっている、と見えなくもないだろう。
 でも―――…。

 ―――でも、そういう問題じゃないんだけどな…。
 週3回、6ステージも歌える場所なんて他にないから、とか、常連客が多くて気心が知れてるから、とか、そんな現実的な理由で、生ライブ廃止を嫌がっている訳ではない。だから、いくら廃止になることのメリットを並べられても、心が動かないのだ。
 ただ、失いたくないだけ。
 たとえ咲夜自身が二度とこの舞台に立つことがなくても…この舞台を、失いたくない。他の誰かに譲ってでも、ここを守りたい。ジャズを愛したオーナーの、客たちの、自分たちのステージを、守りたい。…ただ、それだけだ。

 ヨッシーや一成は、そういう気持ちが、ないのだろうか―――渋い顔をしつつも、少しずつ、来るべき「終わりの日」を覚悟し始めている2人の顔をチラリと見、咲夜は、なんとも寂しい気持ちになった。

***

 「Come on-a my house my house, I'm gonna give you candy」

 よいしょ、と、ポケットから温かい缶コーヒーを引っ張り出し、プルトップを引く。
 無糖タイプのブラックは、パンチが効いていて、寒さを忘れさせるにはなかなか悪くない。一口飲んだ咲夜は、はーっと息を吐き出し、壁にもたれかかった。

 「Come on-a my house, my house, I'm gonna give a you apple a plum and apricot too a, Come on-a my house, my house a come on...」

 と、そこで、近づいてくる足音に気づき、体を起こした。
 「―――…あれ、咲夜?」
 エントランス脇に佇む咲夜を見つけ、奏が、驚いたように目を丸くする。ニッ、と笑った咲夜は、缶コーヒーを持った右手を掲げ、軽く振ってみせた。
 「遅かったね」
 「ああ…、黒川さんが突然日本に来てさ。飲み会兼ねてミーティング」
 「へぇ、神出鬼没だね、黒川さんも。また今度もすぐ帰っちゃうの?」
 「いや、暫くいるって。…で、何してんだよ、こんなとこで」
 「呼び鈴鳴らしても出なかったから、ここで奏が帰ってくるの待ってた」
 そう言った咲夜は、左のポケットからもう1本、缶コーヒーを引っ張り出し、奏に差し出した。キョトンとしていた奏も、苦笑を浮かべ、「サンキュ」と言って缶コーヒーを受け取った。

 1月の寒空の下、自宅のエントランスで、2人して缶コーヒーを飲む図、というのも、かなり妙かもしれない。階段を上れば、そこに暖かい我が家があるのだから、そこで話せばいいじゃないか、と突っ込まれそうだ。
 でも、なんとなく、こんな風に話をしたい気分だった。
 そういえば前にも、こんな風にアパートの入り口を挟むように並んで、林檎を食べながら話したことがあった。人は、どういう時、夜風に吹かれながら佇みたくなるのだろう? 自ら経験していながら、咲夜にも、そして奏にも、よくわからなかった。

 「どう、店の方は」
 プルトップを引き、奏が訊ねると、咲夜は難しい顔で眉根を寄せた。
 「うーん…なんか、ますますジュニアが幅利かせてる感じ。電卓叩きながらライブ聴いてた」
 当然、奏も、オーナーが病気であることやその息子が採算最優先のジャズ音痴であることを、咲夜から聞かされてよく知っている。やっぱりか、とでも言うように、奏の顔に落胆の色が浮かんだ。
 「オレ、経営のこととか、よく知らないけど…電卓より、周りの客見た方がいいんじゃねぇ? そういうのって」
 「…と私も思うけど、ジュニアは数字が命みたい。ライブ目当ての客が全員離れちゃうよ、って進言しても、“それを裏付ける資料を出せ”で終わりそう」
 「なんだかなぁ…。他の店の経営は順調とかって、ほんとかよ」
 「どーだか。なんにせよ、ただの雇われバンドな私らが、店の経営に口出せる訳ないよ」
 はあぁ、と大きくため息をついた咲夜は、鬱陶しそうに髪を掻き上げ、奏の方を流し見た。
 「で? そっちは?」
 そっち、が何を意味するかは、奏にも重々わかっている。今度は、奏の眉間に深い皺が寄った。
 「やっぱり、しっかりチェック入りやがった」
 奏の忌々しげな返答に、咲夜はちょっと目を丸くした。
 「うわ、やっぱ本気だったんだ?」
 「本気も本気。念のため外しといて正解だったけど、鳥肌もんだったぜ。“ちゃんと私の言いつけを守ってるようね、イイコイイコ”だとさ。あああ、むっかつくー!」
 思い出したように語気を荒げる奏の左手首には、今はちゃんと、大河内夫人がボロクソにこき下ろしたG-SHOCKがはめられている。この腕時計に思い入れがあるからこそ、理不尽有閑マダムの横暴のために外さざるを得なかった奏の憤りは、並大抵ではないのだろう。
 クリスマスイブに、奏をペットもしくはホスト扱いして、奏を思いっきりぶちキレさせた大河内夫人だったが、懸念された店側へのクレームも報復措置も、今のところ一切ないらしい。それどころか、新年早々、さっそく来店したというのだから、ご執心もここまでいくとあっぱれだ。G-SHOCKの有無ごときであっさり機嫌が良くなるなら、ちょろいもんだ―――と考えられないところが、奏の不幸なところかもしれない。
 「なんか、どのリピーターも、オレの技術なんて関係なくオレを指名してるような気がしてさぁ…。一旦そういう疑念持っちまうと、駄目なんだよな。モチベーション下がる一方で」
 「…ま、奏のスケジュールに合わせて客のスケジュールが動く、なんて不自然な現象目の当たりにすりゃ、疑念抱くのも無理ないでしょ」
 「もう、辞めてやろうかな、マジで」
 大河内事件以来、もう何度目かわからない奏のセリフに、咲夜は思わず苦笑し、
 「でも、ここまで育ててもらった恩義があるし、ただでさえ人手不足なのに、我がままを言う訳にもいかない―――でしょ?」
 と言葉の先を継いだ。ムッ、としたように口を尖らせた奏だったが、当然、反論の余地などなく、不貞腐れたようにくいっ、と缶コーヒーをあおっただけだった。

 でも、なんとも、奇妙な巡り合わせだ。
 メイクアップアーティスト・一宮 奏が誕生した場所、“Studio K.K.”。
 ジャズシンガー・如月咲夜が誕生した場所、“Jonny's Club”。
 黒川の助手をしていたり、拓海にジャズを教えられたり、それぞれに下地となる時代があるけれど―――“プロ”としての2人が生まれ育った場所。いわば、それぞれの故郷(ふるさと)だ。その故郷を舞台に、今、2人して、もがいている。どこか似ていながら、まるで正反対なシチュエーションで。
 一方は、その故郷を、捨てたくても捨てられずに、もがいていて。
 また一方は、失われゆく故郷を、捨てたくなくて、もがいていて。
 相反する、2つの想い。でも―――突き詰めていくと、辿り着く場所は、同じなのかもしれない。
 故郷は、温かくて、懐かしくて、未熟な自分たちを守ってくれる場所。でも、時には重い足枷となり、時には断ち難いしがらみとなり―――そして、いつかはそこから巣立つ運命である場所だ。

 「ほんと、上手くいかないねぇ」
 苦笑混じりに、咲夜がそう呟くと、
 「上手くいかねーよなぁ…」
 奏も苦笑を返し、そう呟いた。
 そういえば、仕事ではなく恋愛に関して、今と全く同じセリフを、去年の今頃はお互いに言い合っていたっけ―――久々に聞く「上手くいかないなぁ」に、2人は同時に、くすっと笑った。


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