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― 気まぐれに、二人旅。 ―

 

 バイトを終えるのが、予定よりちょっと遅くなってしまった。
 ひょっとしたら、間に合わないかもしれない―――少し焦りつつドアを開けた蓮は、ギリギリ間に合ったらしいことに気づき、ホッと胸を撫で下ろした。

 「's wonderful, 's marvellous, you should care for me.... 's awful nice, 's paradise, 's what I love to see....」

 軽快なアップテンポが、店内に流れる。咲夜が好きだという『Blue Skies』に近い、軽くて明るい曲だ。蓮にとっては初めて聴く曲だが、もしかしたら、彼らにとっては馴染みの曲なのかもしれない。
 ―――ほんと、楽しそうに歌うなぁ…。
 いや、楽しそう、というより、幸せそう、だろうか。ステージ上の咲夜を見ると、自然と蓮の表情もほころんでしまう。蓮は、空席を探すことも忘れて、暫し店の入り口に佇んだままステージに見入った。
 「お客様」
 そのまま、1曲終わるまでずっと聴いていそうになったが、程よいところで店員が声をかけてきた。
 ハッとして声の方に顔を向けると、そこには、そろそろ見慣れた感すらある顔が、意味ありげなニヤニヤ顔で立っていた。反射的に、蓮もムッとしたように眉をしかめたのだが、続いて相手から発せられた言葉は、従業員として至極真っ当だった。
 「申し訳ありません、ただいま、満席になっております」
 「え、」
 慌てて店内を見渡すと、確かに、空いている席はなさそうだった。いつもは余裕を持って来ているので、ギリギリなんとか空席があったのだが、やはり今日は完全に出遅れたらしい。
 「ライブが終わる頃には空席が出ると思いますが、お待ちになりますか?」
 「はあ…」
 蓮が迷ったような声を出すと、トールはわざわざ蓮の耳元に口を近づけ、ヒソヒソ声で付け足した。
 「ホントはさ、ライブやってる間のウェイティングは店の外で、ってことになってるんだけど、“聴き逃げしない”って約束してくれるなら、特別に見逃してあげるよ」
 「……」
 元来、そういう特別待遇は、あまり好きではない、のだが―――気まずそうにトールの顔をチラリと見た蓮は、結局、
 「…じゃあ、待たせてもらいます」
 と答えたのだった。


 それにしても、厄介な人物に、顔を覚えられてしまったものだ。
 きっかけは勿論、咲夜への感謝の気持ちを手渡してもらうよう、トールに頼んでしまったことにある。さすがは客商売、毎日大量の人間を見ているだろうに、トールは、咲夜への個人的なメッセージを託した人物の顔を、きっちり覚えていた。そして、次に蓮が来店した際、今日のようにわざわざ応対に出てきて、カウンターの空席に半ば無理矢理蓮を案内してしまったのだ。
 『この前、咲夜さんとなんか話してたじゃん。なになに、どういう関係?』
 興味津々なトールの顔を見ていると、ハルキとかいう奴が起こした騒動のこともあり、怒りに似た感情が湧いてくる。が、見方を変えれば巻き添えを食った感もあるし、何より奏が既にきっちりお灸を据えているというのだから、蓮があれこれ言う立場にはない。仕方なく、同じアパートの住人で咲夜の歌のファンだ、と答えた。
 その時は「へーえ」という程度で済んだのだが―――年末のクリスマスライブで、少々、事態が変わった。
 よりによってカウンター席で、偶然、奏とはち合わせになってしまったのだ。
 ―――しまったよなぁ…。なんで目を逸らしたりなんかしたんだろう? 一宮さんとも同じアパートの住人同士なんだから、普通に喋って、一緒にライブ聴けば済む話だったのに。
 つくづく、後悔している。
 が、あの時蓮は、何の躊躇いもなく挙げられた奏の手に、何故か応えることができなかった。
 やましいことなど、何もない筈だ。なのに、奏がいることに気づいた瞬間、蓮の中に芽生えた感情は―――“うしろめたさ”に、限りなく近いものだった。そうと意識していた訳ではないが、やはりどこかで、会いたくない、知られたくない、と思っていたから。奏だけではなく……咲夜本人にも。
 たとえば、火・木・土のバイトの予定は、夜確実に早く帰れるよう、日中中心にして組んでいることとか。
 ライブを終えた咲夜と帰宅が被ると気まずいので、できるだけ1回目のライブを選んでいることとか。
 日頃は相席など絶対しないくせに、一度、どうしても空席が見当たらず、見知らぬ人に「ここ、いいですか」と思いきって頼み、小さくなってライブを聴いていたこととか。
 知られたくない―――何故そう思うのか、いくら蓮でも、さすがに薄々気づいてはいる。けれど、あんなに露骨に避けるほどの話でもないだろう、と思うと、後悔せずにはいられない。
 案の定、そのやりとりを間近で見ていたトールは、余計に蓮に興味を持ってしまったらしい。以来、蓮の顔を見るたびに、意味深なニヤニヤ笑いをこちらに向けてくる。全く―――迷惑もいいところだ。

 「ありがとうございましたー!」
 最後の曲を歌い終えた咲夜が、そう言ってマイクを置き、深々と頭を下げた。
 いつの間にか詰めていた息をゆっくり吐き出し、蓮も、店内の客と一緒に拍手を送る。そんな中、カウンター席の客が2名、早くも席を立ち、帰り支度を始めていた。
 新たな客が来る前に、早いとこ、空席を押さえておかないと―――キョロキョロと空席を蓮が探しているうちに、カウンター席の準備ができてしまい、
 「お客様、お待たせしましたー」
 とトールに呼ばれてしまった。
 トールと向き合う羽目になるカウンター席はできれば避けたかったが、来店時の展開上、仕方のない流れだ。諦めて、大人しくカウンター席に着くことにした。
 「ご注文は?」
 「ええと―――じゃ、この“バイオレット・ノート”で」
 この店オリジナルのカクテルを指差すと、トールは心得たという顔で、さっそくカクテルを作り始めた。その手さばきは、いつ見ても鮮やかだ。
 一時は蓮も、借金をチャラにするためにあんな策略に加担したような男を、咲夜が働き続けている店に置いておいていいのだろうか、と思ったものだ。「今や店には必要不可欠なスタッフだからさ」と、あっけらかんと言う咲夜を見て、強がっているだけなんじゃないのか、と疑ったりもした。
 が、こうして客として来てみて、つくづく思う。こいつ、水商売が天職なんだなぁ―――蓮自身も飲食店で働いているので、トールが優秀なスタッフであることは、嫌でも認めざるを得ない。理加子から事の次第を聞いている、とバラしてやろうか、と思ったりもしたのだが、その後、咲夜にちょっかいを出している様子もないので、蓮も何も言わないでおくことにした。
 「それにしてもお客さん、熱心だよなぁ。今年入ってから、皆勤賞でしょ」
 カクテルを作りつつ、トールがそんなことを言う。来た回数までよく覚えてるな、と、呆れながらも感心してしまう。自分はどうか、と言われたら、常連客の顔すらちゃんと覚えている自信がない。他人に関心がないのか、どうも人の顔を覚えるのが苦手なのだ。
 「同じとこに住んでるのに、こんなに足しげく通うほど、日頃接点ない訳?」
 からかい半分でそう言うトールに、蓮は軽く眉を顰め、面倒くさそうに答えた。
 「それが、普通だと思うけど」
 「えっ、そう?」
 「同じとこだけど、別々の家なんだし」
 「うーん……言われてみれば、おれも、隣に住んでるねーちゃんと最後に挨拶したの、去年の夏だわ」
 …それは、酷い。というか、それが極々平均的な都会の集合住宅なのかもしれない。隣人とは、幾多の偶然が重なって幸運にも顔を合わせた時、お互い会釈するだけの関係―――それが普通で、“ベルメゾンみそら”が特殊なのだろう。
 「おれも、そこ越そっかなー。そしたら、タダで歌聴かせてもらえるかもしれないっしょ」
 「…空室、ないから」
 ばっさり言い捨てた蓮だったが、続くトールの言葉は、予想外のものだった。
 「けど、この分でいくと、ここで咲夜さんの歌聴けるのも、そう長くなさそうだしさぁ」
 「……」
 一瞬、意味が飲み込めなかった。
 は? という顔をする蓮の様子に、トールもその表情の意味に気づき、しまった、という風に表情を変えた。
 「あ、いや―――ま、まだ決まってないけどさ。ハハハ」
 「…どういう…」
 「ヤバイなー…。あの、これ、オフレコね。他に客いたら、絶対話さないネタだから」
 蓮の他にいる客が、かなり離れた席の2名だけだから、つい出た話なのかもしれない。蓮が目で頷くと、トールは気まずそうに説明した。
 「その、さ。そーゆー話が出てんのよ。スタッフの間で、結構前から」
 「…咲夜さんが辞める、ってこと?」
 「じゃなくて、ここが、ライブを辞める、ってこと」
 「……」
 「オーナーが、ここんとこずっと、病気でさ。経営を息子にバトンタッチすることが決まっちゃったんだよね。オーナーは、根っからのジャズ好きで、ミュージシャンの育成なんかにも理解があるんだけど、新オーナーは完全にビジネスの人だから、辞める方向で検討してるって噂」
 ライブを辞める―――考えてもみなかった事態だ。信じられない、といった表情で、蓮は、背後のステージを振り返った。
 「ま、無理もないけどねぇ。ここって、ビジネス街のど真ん中の一等地だから、いい酒入れて、店綺麗にして、ステージに使ってたスペースに椅子とテーブル入れれば、もっと儲かるだろうし」
 「でも…ライブ目当てに来てる常連だっているだろ?」
 そういう常連こそが、こういう店を長年支えてきたのではないか。そういう客を蔑ろにしたのでは本末転倒だ、と蓮は思うのだが、トールは同意できない様子で、肩を竦めた。
 「そりゃあそうだけど、お客さんも見たでしょ、ライブ前は注文殺到するし、ライブ直後に勘定増えるし―――2ステージ続けて聴くつもりの客は、長時間居座るし。まだ月水金はいいんだよな、ライブ聴きに来る客がほとんどいないから。平日の夜だから、仕事帰りの客がコンスタントに来てくれるんで、おれらの立場から言えばその方がラクだったりするのよ、本音では」
 「……」
 「あ、やー、もち、咲夜さんたちのライブは、おれも楽しみにしてるけどさ」
 言い訳のようにそう付け足したが、どうせ「タダで歌聴かせてもらえるかも」などというセリフも、蓮が咲夜のファンだから、それに合わせただけの、社交辞令なのだろう。
 「で…、それって、まだ噂の段階なのか、それとも…」
 「んー、どうだろう? おれらは、店そのものをぶっ潰されないかってヒヤヒヤしてたから、その線はなさそうだ、ってんで、安心してるんだけどね」
 「…どうするのかな。咲夜さんも、他の人たちも」
 「どうする、って、どうしようもないっしょ。雇われてる立場じゃ」

 どうしようもない―――…。
 それで、本当に、納得できるんだろうか。

 再度、振り返って見たステージは、異様に薄ら寒く、ガランとして見えた。
 あそこから、咲夜が、いなくなる―――蓮には、考えられないことだった。

***

 ―――やっぱり、余計なお世話かな…。
 トールから噂を聞いた翌日。蓮は、思い切って立った筈の201号室のドアの前で、呼び鈴を押すのをまだ躊躇していた。
 第一、“Jonny's Club”のライブ存続について、なんて質問、自分が頻繁に店に行っていたことを自ら暴露するに等しい行為だ。それに、咲夜の考えを聞いたところで、蓮に何ができる訳でもない。意気込んで乗り込んだ結果が、せっかくの休日を邪魔しただけで終わる可能性の方が高いのではないだろうか。
 「……」
 いや、でも、やっぱり。
 無駄を承知で、1度だけ、聞いてみよう―――意を決し、蓮が呼び鈴に手を伸ばした、まさにその時。
 ガチャッ、という音がして、隣の202号室のドアが、開いた。
 「!!」
 ギョッとして、思わず飛び退くと、開いたドアから奏がひょっこり顔を出した。
 「…あれ、」
 蓮に気づき、顔が少しだけシャキッとする。どうやら、奏が出てきた目的は蓮ではなかったらしいことを悟り、蓮は密かに息をつき、軽く会釈をした。
 「何、咲夜に用事?」
 「…いや、その…」
 どう説明したものか、と言いよどんだ蓮だったが、その暇もなく、奏が間髪入れず続けた。
 「てか、あいつ、留守なんだけど」
 「えっ」
 「昼前に、出かけた。藤堂たちと、ライブハウス見に行くって。あ、藤堂ってのは、咲夜の後ろでピアノ弾いてる奴な」
 「…あ、そう、ですか」
 なんだ、留守なのか―――拍子抜けした気もするが、迷っていたことを考えると、かえってこれで良かったのかもしれない。
 「何なら、伝言するけど?」
 「いえ―――いいです。ちょっと聞きたいことがあっただけなんで」
 蓮がそう言うと、奏は「ふーん」と相槌を打ちつつ、蓮の顔をやけにジッと見つめた。
 「……」
 他人に見据えられる、というのは、相手が誰でも落ち着かないものだ。そこへきて、この美貌の持ち主だ。むしろ自らが「あんまりジッと見ないでくれる? その目で睨まれると、怖いから」と言われることの多い蓮でも、さすがに狼狽してしまう。
 困惑顔の蓮が、どうかしましたか、と訊ねようとした、その刹那。
 「なあ。お前、今からヒマ?」
 「は?」
 唐突な言葉に、蓮の切れ長の目が、丸くなる。
 「誰かと約束してるとか、バイトあるとか、なんかある?」
 「いえ、別に」
 「昼飯は?」
 「…もう済んでます」
 「じゃ、ちょっと、付き合ってくれない?」
 「??」
 怪訝そうな顔をする蓮に、奏はニッ、と笑ってみせた。


 「…本当に大丈夫なんですか?」
 「大丈夫大丈夫。友達がモロ、XJR400乗りでさ。免許取ったばっかの頃に、よく借りて乗ってたから」
 「でも、日本来てから、1回も乗ってないんでしょう?」
 「いや、1回だけ、ある。こっちで知り合ったバイク乗りがいて、奴が仕事中に借りて、都心をぐるっと回ったことあったから」
 そこでふと言葉を切ると、奏は、ヘルメットを被ろうとした手を止め、何故か妙に懐かしそうな顔をした。
 「今頃、どうしてるんだか―――今もあいつとの付き合い続いてたら、オレもバイク買おうとか思ってたかもなぁ…」
 「……」
 なんだか、脈絡が、よくわからないのだが。
 とにかく、奏が「付き合ってくれ」と言ったのは、「バイクに乗るのに」という意味だった。
 まだ入居して間もない頃、「イギリスの二輪免許を持っている」とか「友達に借りて乗っていた」とは聞いたが、まさか蓮のバイクに乗りたがることになるとは、思ってもみなかった。
 しかも、恋人を頻繁に後ろに乗せていた友人を例に挙げて「あれは怖くてできなかった」と言っていた奏が、よもや、蓮を後ろに乗せて走ろうと言い出すとは―――女とのタンデムは怖いが、男なら怖くない、ということなのだろうか? …わかるような、わからないような、微妙な気分だ。
 蓮は当然、真っ先に法規上の問題を心配したが、国際免許も取ってあると聞いて、とりあえず無免許運転にはならないな、と安心した。が…問題は、運転技術の方だ。まだローンを完済していないバイクに、あまり慣れているとも思えないドライバーを乗せてしまっていいのだろうか? いや、それ以上に、万が一、事故でも起こしてしまったら―――…。
 「ホイ」
 蓮が、あまり楽しくない想像に表情を曇らせていると、有無を言わさず、奏がヘルメットを手渡してきた。
 「ちょうど服見たかったんだよな。でも、都内じゃパーキング探すの面倒だし、ちょっと足伸ばして川崎辺りまで行くか…。どっか行きたいとこ、ない?」
 そもそも、出かける予定ではなかったのだから、行きたい所などある筈もない。「いえ」と蓮が短く答えると、奏は「じゃ、決まり」と言って、早速ヘルメットを被ってしまった。
 「ちなみに、タンデムで後ろに乗った経験は?」
 ヘルメットで遮られ、若干モゴモゴした声になりながら、奏が訊ねる。覚悟を決めた蓮も、ヘルメットを被りつつ、答えた。
 「いえ。これが初めてです」
 「そっか」
 そんなあっさりした相槌の後、短く続いた言葉は、なかなかにオソロシイ内容だった。
 「オレも、人乗せるの、これが初めてなんだ」
 ―――やっぱり、そうですか。
 「…安全第一で、お願いします」
 それ以外、言いようがない。任せとけ、と手を挙げる奏を横目に見ながら、蓮はフェイスガードを下ろした。

***

 …近い。
 近い近い近い。横近いって。隣の車、左に寄りすぎなんじゃないか? それとも俺たちが右寄りすぎか?
 いや、急いでないから。なんで大型トラックなんか抜こうとするんだよ。別に抜かなくていいって。
 あああ、バンク! バンク! バンクつきすぎだって!! サーキットじゃないんだから!!

 「なーっ」
 「はい!?」
 「これって、どっち行けばいいんだっけ?」

 走りながら訊くなよ―――…っ!!!


 「ほい、鍵」
 「……」
 駐車場の壁にぐったりともたれていた蓮は、差し出された鍵を掴み、ゆらりと体を起こした。
 「…帰りは、俺が運転します」
 「え? 結構安全運転だっただろ?」
 「…そうじゃなくて…俺が、後ろ、駄目なんで」
 奏が安全運転だったと主張するのは、あながち、間違ってはいない。多分、蓮の運転も、今の奏の運転と大差ないだろう。あえて言えば、日本の道路事情に精通している者とそうではない者の違い、といった程度だろうか。ともかく、端から見れば、今の走りはそこそこ安全運転レベルだったのだろうと思う。
 でも―――乗ってみて、わかった。
 同じバンクでも、ハンドルを握り、自らの意思で車体を傾けるのと、相手任せで半強制的に傾けられるのとでは、体感角度が全然違うのだ。車間もそうだし、スピードもそう。俺ほどの安全運転を「怖い怖い」と騒ぐ奴はよっぽどの怖がりだけだ、などと思っていたが、それは蓮が無知故の勘違いだった。
 後ろは、怖い。日頃運転している身だからこそ余計、怖い。
 「…ま、いいや。十分堪能したし、やっぱ走り慣れない道は疲れるわ」
 「一宮さん、タンデムで後ろ経験したこと、ありますか」
 「ん? いや、全然」
 多分、帰りには奏が、ついさっきまでの蓮と同じ思いをするのだろう―――他はどうあれ、大型トラック追い越しだけは絶対経験させてやろう、と、蓮は密かに心に誓った。


 都心を離れたとはいっても、やはり近隣の中心地。無事バイクは停められたが、駅周辺のファッションビルや地下街は、若者や家族連れで大いに賑わっていた。そんな中、奏と蓮は、特に目的の店も決めないままに、連れ立ってぶらぶらと歩き出した。
 が、歩き出して間もなく、蓮は、奏の様子に少しばかり違和感を覚え始めた。バイクを降りてすぐサングラスをかけてしまったので、表情は眉と口元からしか読み取れないが、気軽なウィンドウショッピング、といった表情ではない気がする。
 「もしかして、仕事ですか」
 蓮の問いかけに、奏は少し照れくさそうな顔をして、頭を掻いた。
 「いや、そういう訳じゃないんだけどさ。職業病みたいなもん?」
 「職業病?」
 「モデルって仕事のせいもあるけど、元々、服の組み合わせ考えたりするのが好きなんだよな。オレの師匠の黒川さんて人も、メイクの大御所だけど、スタイリストでもあるしさ。今はメイク一本に絞って修行してるけど、ほんとは、黒川さんみたいに両方やれるのが理想だよなぁ…」
 「へぇ…」
 だから、レディスの店だというのに、通り過ぎた後でも振り返って凝視してしまうほど、見入っていたのか―――ちょっと見、異様な光景だったが、奏のようにどっぷりファッションの世界で生きている人間にとっては、当たり前の行動だったのかもしれない。
 「あ、ここは、ちょっと見てっていいかな」
 ジーンズを主体としたメンズものの店で足を止め、奏がそう断りを入れてきた。頷いた蓮も、適当に店内を見て回って時間を潰すことにした。
 店内に入った奏の様子を目で追うと、30パーセントオフの文字が躍るハンガーラックの前で、冬物のジャケットを熱心に漁り始めた。一方蓮は、ヒップホップ調のBGMが流れる店内を、さほどの熱心さも興味もなくぶらぶらしていたのだが、
 ―――あ、そういえば、そろそろ服増やさないとまずいんだっけ。
 ふと、自分のタンス事情を思い出した。
 改めて、先ほどまでとは違う心持ちで、店内をぶらついてみたところ、店の入り口近くに置かれたマネキンの前で、足が自然と止まった。
 「……」
 今穿いているジーンズと、よく似た色と形のジーンズ。
 なんとなく好きな色の、Tシャツとコットンシャツの組み合わせ。
 シャツの襟首をくい、と引っ張ってみると、サイズは「M」と表記されていた。
 「あのー」
 ピン止めされた値札を最後に確認した蓮は、ちょうど少し離れた所で陳列されているシャツを畳んでいた店員に、声をかけた。すると、偶然店員の向こう側にいた奏が、店員より早く顔を上げ、「何?」という顔で蓮の方を見た。
 違います、という苦笑顔を蓮が奏に返すと同時に、店員が顔を上げてくれた。
 「はい?」
 「すみません、これの上、下さい」
 マネキンを指差してそう頼むと、店員と奏の顔が「え?」という怪訝顔になった。
 「えー、上、ですか?」
 「ジーパンは要らないんで、この、シャツとTシャツを」
 「ああ! はい、ありがとうございます」
 やっと意味を飲み込み、店員の顔に営業スマイルが広がる。さっそく駆け寄ってきた店員は、テキパキとマネキンの腕を外し、着せていた服を脱がし始めた。
 1軒目であっさり見つかってよかった、と思いながら財布を取り出した蓮は、ふと、視線を感じ、振り返った。見れば、先ほどと同じ場所にいる奏が、あっけにとられたような表情でこちらを見ていた。
 「?」
 「お待たせしました」
 奏のあの表情の意味が気になったが、店員が商品を脱がせ終えてしまった。促されるままに、蓮はレジへと向かった。

 会計を済ませ、店の外に出ると、既に奏が手ぶらで立っていた。
 「買わなかったんですか?」
 「んー、好みのやつが、あんまりなかった」
 軽く伸びをしつつそう言うと、奏は軽く眉をひそめ、蓮の顔をじっと見つめた。
 「それより―――お前って、いっつもああいう買い方してる訳?」
 「ああいう買い方?」
 「マネキン見て、これ一式、とか、これの上だけ、とか」
 「ああ…、はい」
 素直に頷く蓮に、奏は、途端に興味津々な表情になった。
 「フツーにハンガーラックに並んでるのとか、棚に重ねてあるやつは?」
 「ほとんど見ないです」
 「じゃ、毎回、マネキン買い?」
 「…っていうんですか?」
 「いや、そういう専門用語がある訳じゃないけど」
 「…とにかく、あんな感じです」
 「なんでまた。そりゃ、たまーにマネキン単位で買う奴いるけど、他ほとんど検討しないで一発即決って、かなり珍しいだろ。なんかきっかけとかあんの?」
 ―――なんでそんなに興味があるんだ?
 やはりこれも、一種の職業病なのだろうか。やけに熱心な奏の様子に、蓮は、ぽつぽつと説明を始めた。
 「大学入るまでは、親や兄貴が買って来たもん、適当に着てたんで、服の選び方がよくわからなくて」
 「…で?」
 「マネキンに着せてる、ってことは、多分、そこそこ今流行ってるデザインで、店もお勧めな服なんだろう、と」
 「うん」
 「一応、ファッションに詳しい人間が着せてる、ってことは、第三者から見て、コーディネートも悪くないんだろう、と」
 「うん」
 「それで、マネキンが着てる服選ぶのが一番間違いないという結論に」
 「コーディネートした店員のセンスが、実は絶望的に酷い、って可能性は考えない訳?」
 「そういう店員のいる店は選ばないようにしているので」
 「どうやって?」
 「客がそこそこ入ってる、賑わってそうな店を選んでますから」
 「賑わってる店の店員は、センスがいい、ってことか」
 「客は、並んでる服なんて通りからは見えないから、入り口のマネキンが着てる服見て店に入るでしょう。客が入ってる、イコール、マネキンの服のセンスがそこそこいい、っていう証拠になりませんか」
 「……」
 むむむ、と眉を顰めた奏は、暫し黙って何やら考えた末、ずい、と1歩詰め寄った。
 「じゃあ、毎回毎回、マネキン1体、まるごとお買い上げ? 金かかるだろ」
 「いえ、まるごと買ったのは、最初の3回だけです」
 「3回?」
 「下は、3着もあれば1年中着回せるんで、それ以降は、持ってるジーンズと似た色や形のものを穿いてるマネキン探して、それの上だけを」
 「は!? てことは、今さっき買ったアレも、もしかして、上じゃなく下見て買ったのかよ!」
 「一応、上も見ましたけど―――でも、まあ、そうです」
 「……」
 奏は、さっきとよく似た、あっけにとられたような表情で、蓮の顔を眺めていた。が、急に吹き出し、可笑しそうに盛大に笑い出した。
 「あっはははははは…! お、おもしれーわ、お前!」
 「…は?」
 「そんな、方程式解くみたいな服の買い方する奴、初めて見た。けど、確かに合理的でいいよなぁ。やっぱ、頭いい奴は、考えることも違うわ」
 「……は??」
 なんだそれは、という顔をする蓮に、奏はニヤリと笑い、その頭をポン、と叩いた。
 「さ、次行こうぜ、次」
 「次?」
 「オレの服、まだ買ってねーじゃん」
 「……」
 ―――まあ、それも、そうか。
 一方的に質問され、一方的に答えさせられ、一方的に笑われたのでは、どうにも釈然としないが―――叩かれた頭を軽くさすった蓮は、軽くため息をつき、奏の後についてまた歩き出した。

***

 その後も奏は、いくつもの店にぶらぶら立ち寄ったものの、結局、何も買わずじまいになった。
 気づけば、外はすっかり暗くなっていたので、とりあえず都内に戻るか、ということになり、今度は蓮が運転し、奏が後ろに乗った。

 「は……っ、速えぇっ!! おい、ほんとに法定速度以下かよっ!?」
 「えー!?」
 「ホーリツ守っ、て、ん、だ、ろー、な!?」
 「行きより遅いですよ」
 「んだってー?」
 「一宮さんより、遅い、で、す!」

 案の定、初めてバイクに「乗せてもらう」立場になった奏は、行きの蓮同様、スロットルではなく運転者の胴回りに掴まり、命丸ごと預けざるを得ない恐怖を感じているらしい。赤信号で止まる度に、車間がどうだの、スピードがどうだの、と後ろで騒いでいた。…まあ、行き帰りで、おあいこだ。
 そのままアパートに直行するには、時間が中途半端だった。信号待ちの間に手早く相談して、途中、どこかで夕飯を食べようということになった。
 「どこか、行きたい店、ありますか」
 「別に。そっちは?」
 「いえ、特には」
 「じゃ、あそこでいいや」
 と、奏が後部座席から指差した先には、そこそこ席数もありそうなカフェバーらしき店があった。同じビルにパーキングの看板も見える。おあつらえ向きなシチュエーションに、蓮も迷わずその提案に乗った。


 「ウーロン茶」
 「オレもウーロン茶」
 間髪入れず続いた奏のオーダーを聞き、蓮は僅かに眉をひそめた。
 「運転は俺だから、酒頼んでも構わないですよ」
 「冗談だろ。バックシートも、酒酔ってたら十分危ないっつーの」
 …おっしゃるとおり。
 なかなかムードのいい、アルコールの種類も豊富な店で、男2人が揃ってウーロン茶、というのも、結構妙な図かもしれないが、カーブでバックシートから転げ落ちる奏を想像して、やめといて正解だな、と思った。
 フードメニューを適当に選び、一息つき終えると、奏が突如、話を切り出してきた。
 「―――…で、咲夜に訊きたかったことって、何だよ」
 「……」
 一瞬、何の話だ? と本気で思った。が、奏とタンデムすることになったそもそものきっかけを思い出し、思わず驚いたように僅かに目を丸くしてしまった。
 「まだ気にしてたんですか? その話」
 「いや。今、たまたま思い出しただけ」
 「……」
 「で?」
 咲夜に訊こうと思っていたことを、奏に話して何になる、と思ったが―――考えてみれば、奏だって“Jonny's Club”の常連客と言ってもいいだろう。それに、咲夜の恋人なのだから、咲夜の考えも聞いているかもしれない。
 「…実は、噂を聞いたんです。“Jonny's Club”のライブが、もうすぐ無くなるかもしれない、って」
 思い切って蓮がそう言うと、奏の表情が僅かに苦々しげになった。
 「ああ…、その話か」
 「…やっぱり、出てるんですか。そういう話が」
 「らしいな」
 そこにちょうど、ウーロン茶が運ばれてきた。それぞれに一口飲み、はーっと息を吐き出したところで、奏が渋い表情のまま続けた。
 「今日、あいつらがライブハウス見に行ってるのも、今後定期的に出られる小屋がないかな、ってんで、出演スケジュール確認したり、実際のライブのムードを確かめるためだしな」
 「てことは…かなり、確率が高い、ってことですか」
 「ほぼ、9割がた」
 9割―――…。
 視線を落とし、唇を噛んだ蓮は、グラスを握る手に力を込めた。
 「…何か、できることは、ないんですか」
 「できること?」
 「たとえば、常連客の間で、存続希望の署名活動をするとか」
 「……」
 目を上げ、すがるようにそう言う蓮を、奏は頬杖をついて見据えた。そして、ふいにふっ、と表情を和らげ、苦笑のようなものを口元に浮かべた。
 「筋金入りのファンなんだな」
 「…えっ」
 「そんだけ惜しまれれば、あいつらも舞台人冥利に尽きるだろうな」
 「…一宮さんは…」
 「オレも、できることなら続けて欲しいよ」
 蓮の言葉を読み、奏が答える。が、その言葉には、続きがあった。
 「けど―――そろそろ潮時か、とも思ってんだよな。正直なとこ」
 「……」
 「咲夜は、あのステージがあるから、ジャズを歌えてる。でも、逆に、あのステージがあるせいで、他のステージでなかなか歌えない。“Jonny's Club”は、あいつの大事なホームグラウンドだけど、あいつの重荷になってる部分もあるんだ」
 重荷―――そう言われてしまうと、そのステージを楽しみにしている身には、結構、辛い。それが奏にもわかるのか、彼の表情は少し申し訳なさそうなものに変わっていた。
 「あいつは、ただ歌えればそれで幸せー、なんて、青春モノの主人公みたいなタイプじゃないからな。当たり前の欲も持ってるし、野心だって人並みには持ってる。よりたくさんの人に聴いて欲しいし、よりレベルの高いステージに立ちたいと思ってる。歌だけで食っていける、本物のプロになりたいと思ってる。武者修行中はありがたかったステージも、今のあいつらには、自由を奪う存在になり始めてる―――それに咲夜も気づいてるから、今、蓮が言ったみたいな道を口にしないんだと思う」
 「じゃあ、咲夜さんは、ライブ廃止に賛成なんですか」
 「…んー、そこが、微妙なんだよな」
 ほーっ、とため息をついた奏は、頬杖をやめ、またウーロン茶を口にした。
 「3年近く、あそこでやってたんだ。愛着があるし、続けたいって気持ちもある。けど、いつまでもいる場所でもないことも、よくわかってんだよ。辞めたくない、でも、いつかは辞めなきゃいけない……そんな感じなんだろ」
 「……」
 「それに、30年もノーチャージの生ライブを毎日やってきた店だからな。結構メジャーな奴も、下積み時代、あのステージに立ってたらしいし。もし自分が立つことがなくなっても、何らかの形で、あのステージを残したいんだよ」
 「…そうですか…」
 では、やはり、完全にライブが廃止になる、という話には、相当胸を痛めているのだろう。咲夜の歌が聴けなくなるのを惜しむ気持ちばかり先行していた蓮だったが、そう聞いてしまうと、余計気が重くなってしまった。
 そんな蓮の重たい空気を払いのけるかのように、奏はトン、とグラスを置くと、打って変わって明るい調子で、
 「ま、咲夜が歌う場所は、何もあの店だけじゃねーってことでさ。チケット買わなきゃいけなかったり、チャージ料取られたりするかもしんねーけど、どっかでまた必ず歌うから、そう悲観すんなって。な?」
 と言った。その、声音以上に明るい、カラッとした笑顔につられたように、蓮も思わず、クスリと笑ってしまった。

 「あっれー?」
 と、その時、視界の外から、甲高い声が飛んできた。
 聞き覚えのない声に振り返ると、そこには、カウンター席からこちらを見ている、若い女の2人連れがいた。声の主はその右側の方のようで、奏の顔を見て驚いたような顔をしていた。
 「あんたって、テンちゃんの同僚でしょ? ほら、なんだっけ、いっちゃん、とかいう」
 ピンクがかった赤、という突拍子もない頭をした女は、しきりに奏を指差して、頭のてっぺんから声を張り上げていた。こんな変わった風貌の女なら忘れようにも忘れられなそうだが、肝心の奏の表情は、いまいち要領を得ていない様子だった。
 「えーと…誰だっけ」
 「えぇ!? わかんないの!? サイッテー!」
 気分を害したらしい女は、すくっ、と席を立ち、1歩こちらに踏み出してきた。
 「ほらぁ! よーく見なさいよ、この顔! “Jonny's Club”で、テンちゃんと2人でヤケ酒飲んだ女、覚えてないの?」
 「……ああー!」
 ぽん、と手を叩いた奏は、改めてマジマジと、その女の顔を凝視した。
 「あれだ、ホラ、確かミサって名前の、藤堂の追っかけ。しっかし、また随分と思い切ったカラーリングしたなぁ…。あの時は、もっと普通な髪色だっただろ」
 「最近、テンちゃんに勧められて、染めてみたのよ。いいでしょ」
 「…テンの提案かよ…」
 どうやら、髪型が大幅に変わったせいで、知人だと気づけなかったらしい。話の流れから見て、テン、というのが奏の同僚で、ミサはその友達か何かなのだろう。更には、咲夜と一緒にライブをやっているピアノの男のファンだった、ということか―――過去形なのが妙だが、一応、正体は把握できた。
 「あの人と付き合ってるってテンちゃんから聞いたけど、今日は一緒じゃないんだ?」
 「まあな。今日は別行動」
 ふーん、と言ったミサは、そこで初めて、蓮に目を向けた。
 目が合ってしまったのでは、挨拶しない訳にもいかない。蓮が、座ったまま軽く頭を下げると、ミサは何故か少し目を丸くし、それからパッと明るい顔になって、「ハァ〜イ」と言って手を振ってみせた。
 ―――初対面の挨拶が、それか?
 なかなかに、無礼な奴らしい。密かにムッとした蓮だったが、ミサはそれに気づかなかったようだ。
 「ねえねえ。あたしたち、こっちに合流していい?」
 「はぁっ!?」
 何言ってやがる、と奏が眉を上げたが、ミサは全然お構いなしで、早くも自分の飲みかけのドリンクを手に取った。
 「いいじゃん。そこ、4人席なんだからさ。男同士、女同士で飲むより、断然賑やかでいーって。ねー、マキちゃん」
 連れの女も、それに賛同して、うんうんと頷く。そして、男2人があっけにとられているうちに、2人してこちらに移動してきてしまった。
 ―――冗談だろ…。
 蓮の最大の弱点、かける2、プラス、初対面。
 勘弁してくれよ、とため息をつく蓮に、隣に座ったミサが、不気味なほどにニッコリと笑ってみせた。


 女2人が乱入したせいで、そこから先、蓮は奏とほとんど話せなくなった。

 「でさー、今のバイト先の店長が、もー筋金入りのセクハラ親父でさー。後ろからヤラシー視線を常に感じんのよ。もぉ気になって気になって」
 「やだよねー。中年オヤジは、ただ見てるだけでも十分痴漢行為よ。やめろってはっきり言ってやんなよ」

 ―――なんだよ、その中年オヤジに対する差別と偏見は。
 年齢によって痴漢行為の定義が変わるとは、初耳だ。どうせ、中年の定義もはっきりしてない癖に―――不愉快さに、蓮は眉を顰め、ピザを頬張った。
 ただでさえ女の苦手な蓮だが、この2人は、それに輪をかけて、喋る喋る……しかも、内容の大半が男や恋愛のことで、奏や蓮が口を挟めない話題ばかりだ。たまにこちらに振ってくる話題は、お決まりの「どこの大学通ってるの?」や「彼女いるの?」だ。そんな話しかする気がないなら、2人揃ってカウンターに戻れ、と何度も言いたくなったが、それよりは、注文した料理をさっさと平らげて早いとこ離脱する方が賢いと考え、辛うじて堪えた。
 そして、女どものおしゃべりに辟易しながら、自分たちの頼んだものの大半をほぼ食べ終えた頃。

 「あ、ごめーん、彼氏からみたい」
 マキとかいうミサの友達が、着信ライトが点滅している携帯を手に、席を立った。一応、店を出るだけの常識はあるらしい。
 それを機に、奏もトイレに立ってしまい、4人席には蓮とミサだけが残されてしまった。
 ―――嫌なシチュエーションだよなぁ…。
 より非常識そうな方が、しかも隣の席に残ってしまった。料理も食べ終えてしまったので、暇の潰しようもあまりない。蓮は仕方なく、残り少ないウーロン茶を未練がましく口に運んだ。
 なのに。
 「ねえ」
 ミサは、蓮の「話しかけるな」というポーズなど完全無視で、蓮との間合いを詰め、耳元に口を近づけてきた。
 「この後って、どうする訳?」
 「…え?」
 「まだどっか行く予定とか、あるの?」
 なんでそんなことを訊くのだろう? 眉をひそめた蓮は、僅かにミサの方に顔を向け、
 「別に」
 と答えた。
 ―――っていうか、近いって、顔が。
 別にヒソヒソ声で話すようなことじゃないだろうに―――詰められた間合いをまた空けようと、蓮が少し体を引く。が、ミサは更に間を詰め、その上、蓮の腕に己の手を巻きつけてきた。
 「じゃあさ。あたしと、どっか遊びに行かない?」
 「は?」
 「マキは彼氏が迎えに来るし、一宮さんもシラフだから、バイクは一宮さんに預ければいいじゃん。ね、そうしようよ」
 「…なんで俺が?」
 「もーっ、鈍いなぁ」
 焦れたようにそう声を上げたミサは、唇がくっつきそうなほど、蓮の耳元に口を寄せた。
 「すっごい、あたしの好みなんだってば。蓮君が」
 「……え……?」
 「ほら。さっき言ってた、藤堂さん。あの人もおっきく分けるとこのタイプなのよねー。シャープっていうか、男っぽくてキリッとしてるっていうか。昔っから、そーゆータイプに弱いの」
 そう言うとミサは、空いている方の手で、蓮の手を握った。
 途端―――蓮の心臓が、妙な具合に、乱れた。
 「最近、彼氏と別れたばっかりでさぁ、ちょっと、落ち込んでたの。マキにも彼氏できちゃったし、テンちゃんもお店の後輩とよろしくやってるみたいだしさぁ」

 ―――やめろ。

 「いい男いた! って思うと、決まって彼女持ちだしさ。ほんと、ついてなかったんだ、最近」
 脂汗が、蓮の額に浮かび始める。
 耳元にかかる生暖かい息が、指に絡む手の温度が、気持ち悪くて―――吐き気のようなものが、みぞおちから徐々にせり上がってくる。蓮の体は、無意識のうちに、微かに震え始めていた。
 「だから、さっき、彼女いないって聞いて、内心ラッキーって思ったんだ」

 …早く。
 早く……一刻も早く、放せ。

 そんな蓮の心の叫びとは裏腹に、少し体を引いたミサは、あろうことか、握っていた手を離し、背けられていた蓮の頬にその手を伸ばした。
 ほとんど強制的に、蓮の顔を自分の方に向けさせたミサは、しなを作るかのように軽く首を傾げてみせた。
 「ね? かるーく考えていいから、どっかに2人で…」

 この瞬間。
 限界を、超えた。

 「―――…ッ!!!!」
 「きゃっ!」
 バッ! と腕を掴むミサの手を振り払った蓮は、もの凄い勢いで立ち上がった。
 「な…っ、何っ!?」
 ビックリして目を丸くするミサの声など、今の蓮の耳には入っていない。両手で口元を押さえた蓮は、椅子を蹴倒す勢いで飛び出し、一目散に駆け出した。
 「…っ、と、おおっ!!?」
 トイレ前で、危うく蓮と衝突しそうになった奏は、バーン! という音を立ててトイレのドアを開ける蓮を見て、唖然とした顔をした。
 「え…っ、れ、蓮!?」
 慌てて男子トイレへと取って返し、蓮の姿を探す。が、その姿を見つけるより早く、個室の1つから、苦しそうに咳き込む声が聞こえてきた。
 「お…おい、どーしたっ!?」
 内側へと開け放たれていた個室のドアから、奏が見たものは―――実際に嘔吐してもなお吐き気が治まらず、涙目で苦しんでいる、蓮の姿だった。

***

 「―――…大丈夫かよ、おい」
 ペットボトルの水を最後の一滴まで残さず飲み干した蓮は、大きく息を吐き出し、微かに頷いた。
 「……なんとか」
 「…そっか」
 駐車場を出て行く車のライトで、一瞬、辺りが明るく照らされる。2人とバイクの前を車が通り過ぎると、切れかけた蛍光灯の灯りだけに戻り、また周囲がうすぼんやりした暗さになった。
 当然、ここに、ミサとマキの姿はない。あの後すぐ、「テメー、何しやがったぁ!」と息巻く奏が、唖然とした様子のミサから事情を聞き出し、帰らせたのだ。その間、ひたすら苦しみ続けた蓮は、今では吐き気はほぼ治まったものの、額にかいた冷や汗は、まだ残っていた。
 「ミサに色仕掛けされて、吐きそうになったって?」
 「…気にしないで下さい。特異体質なんです」
 額の汗をシャツの袖でぐい、と拭う蓮に、奏は困ったように眉根を寄せ、頬の辺りを掻いた。
 「もしかして、この前、兄貴の婚約者が乗り込んできた時のアレも、今日のと同じか」
 「……」
 「…余計なお世話かもしんねーけど…なんか、原因とか、ある訳?」
 「…何でもないです。ただのちょっとしたトラウマですから」
 「どんな?」
 蓮が目を上げ、ほっといてくれ、と言いたげな目をすると、奏は僅かに顔を引きつらせつつも、続けた。
 「あ、いや―――オレの親、カウンセラーでさ。言ってたんだよ。人に言えない悩みとか苦しみっつーのは、一度吐き出せば随分心が軽くなるけど、内側に閉じ込めれば閉じ込めるほど、どんどん膨れてでっかくなるもんだ、って。こんなこと言ったら誰かの迷惑になる、とか、軽蔑される、とか思うから、周りの人には言えない……だったら、迷惑かけても軽蔑されても構わない自分たち(カウンセラー)に打ち明けてくれればいい、ってさ」
 「……」
 「オレ自身、人に告白して、随分気が楽になった経験、したしな。…ま、オレは、カウンセラーじゃないけど、親とか親友とかよりかは、ぶちまけやすいんじゃない?」
 「…いえ」
 相手が誰であれ、身内の恥を晒す真似など、したくない。はーっ、と大きく息を吐き出し、蓮は、コンクリートの壁に預けていた背中をしっかり伸ばした。
 「ありがたいですけど、やめときます」
 「けどお前、そんなんじゃ、まともに恋愛もできないだろ」
 奏の眉が、心配そうに下がる。本当に器用に動く顔だな、と、妙なところに感心しつつ、蓮は微かに笑みを作った。
 「大丈夫です。幸い、女にもさほど興味ないですから。女に割かれる時間、仕事や趣味で有効活用して生きていく方が、俺らしいかも」
 すると、それを聞いた奏の下がり眉が、一瞬にして上がった。
 「あーほーかー! んな情けねーこと言うなっ」
 「は?」
 情けない?
 キョトン、と思わず目を丸くする蓮に、熱血を絵に描いたような表情の奏は、ずいっ、と身を乗り出し、ビシリと蓮を指さした。
 「いいか、世界の人口構成の半分は、女なんだぞ。女知らねーってことは、世界の半分を知らないに等しいんだからな。いいのかよ、世界の半分捨てちまって。え!?」
 「……」
 「人間、1回は、命かけた本物の恋愛しないと、人間の深さも厚みも半分のまんまで終わるぞ。お前、まだ若い癖に、枯れ果てたじーさんみたいな口きくなっつーの!」
 「……」
 ―――凄い。
 言ってることも凄いが、それ以上に、この表情が。
 前から思ってはいたが、本当に、表情が豊かな男だ。今の感情をそのまま写し取ったような表情―――他人のことでそんなに熱くなってどうするんだよ、と冷めた目で見ることだってできるが、蓮は、その豊か過ぎるほどに豊かな感情に、ただ圧倒されるばかりだ。
 きっとこの男なら、寂しかったら素直に「寂しい」という顔をし、悲しければ素直に涙を流すのだろう。ほんの少し、羨ましい部分も、そして悔しい部分もあるが……奏を好きになってしまう人の気持ちが、よく、わかる。
 気づけば蓮は、いつの間にやら、肩を震わせて笑い出していた。
 「?」
 口元に手を置き、笑いを堪えている蓮の様子に気づき、奏の熱血顔が怪訝そうなものに変わる。なんだ急に、という顔をする奏に、蓮はまだ笑いを堪えつつ、なんでもない、という風に首を振った。
 「じゃあ、俺も、命懸けの恋愛の1つもすれば、一宮さんの半分くらいは感情豊かな人間になれるかな」
 蓮がからかい半分にそう言うと、奏は一瞬、皮肉か、とでも言いたげに眉を軽く上げた。
 「オレはただ、喜怒哀楽の“表現”が豊かなだけ。喜怒哀楽の振り幅は、オレもお前も変わんないと思うぜ」
 「俺は一宮さんほど、他人のことで熱くなれませんよ?」
 「そうかぁ?」
 意味深に言うと、奏はニヤリと笑い、蓮の顔を見据えた。
 「ライブ存亡の危機に対するお前は、なかなかの熱血ぶりだと思うけどなぁ?」
 「……っ、」
 「まーな、オレみたく葛藤多いタイプは、お前みたいにすぐ答えを出せるタイプが、羨ましくもあるけどな。でも―――省エネ運転ばっかじゃ、面白くねーし」
 不覚にもうろたえた顔をしてしまった蓮の頭を、奏はさっきもやったように、ポン、と軽く叩いた。
 「たまには、バカみたいに葛藤しまくって、泣いたり怒ったり笑ったりするのも、いいんじゃねぇ?」
 「……」
 心臓が、ざわつく。
 少し考えれば、そんな可能性もある、と気づけた筈なのに…何故かこの瞬間まで、蓮は、一度も考えなかったから。今日、蓮をこんな風に連れ出した、奏の本当の気持ちを。
 「…なんで、今日、俺を誘ったんですか」
 今更ながらに訊ねると、奏は、彼らしく、一切はぐらかすことなく、答えた。
 「穂積 蓮って奴が、どういう奴か、知りたかったから」
 「…どうして…」
 「そりゃあ、同じ女に惚れた奴なんだから、気になって当然だろ?」
 ニッ、と口の端をつり上げそう言うと、奏は蓮に向かって、何かを寄こせ、という感じに手を差し出した。
 「?」
 「鍵。こっから先は、オレが運転するから」
 「……」
 「ついさっきまでゲーゲー吐いてた奴に、ハンドル握らせられっかよ」
 …正論だ。動揺をなんとか抑え、蓮は、ポケットから引っ張り出した鍵を、奏に渡した。「じゃ、帰るか」とあっさり言った奏は、早くも自分の分のヘルメットを取り出し、帰り支度を始めてしまった。

 ―――…ほんと、面白いよな、この人。
 自分の恋人に片想いしてるのわかってて、俺にあんな風に熱心に、恋愛論を説くなんて。

 くすっと笑った蓮は、近くのごみ箱にペットボトルを投げ入れ、自らもヘルメットを手にした。

 

***

 

 「3人とも、お疲れ様。久しぶりに聴いたけど、本当にいいライブだったわ」
 オーナーのゆったりとした口調の労いの言葉に、ヨッシーも、一成も、そして咲夜も深々と頭を下げた。わざわざ立ち上がってくれたオーナーは、店長の手に支えられ、再び椅子に腰を下ろし、大きく息をついた。
 既に年齢も70近い上に、大病も患っている。採用テストの時より3年分年老いた彼女は、随分と面やつれしていたが、センスのいいシックな服装は相変わらずだ。
 「吉澤さんも、藤堂さんも、如月さんも、すっかり腕を上げて……この程度の店の、しかもあんな安いギャラでは割に合わなくなっていることは、実際にライブを聴かなくても、随分前からわかってたのよ。けど、あなたたちの好意に甘えて、ここまで来てしまった。…申し訳なかったわ。本当に」
 「オーナー、それは…」
 ヨッシーが反論しかけると、オーナーは、わかっている、とでも言うように緩く首を振った。
 「…主人と一緒に、ただジャズを愛する人たちが集う店が作りたくて、必死にこの店をやってきて……その主人も他界し、私も大きな病気を患った。…悲しいけど…もう私には、この店を守っていく力も時間も、残されてないのよ」
 「……」
 「ごめんなさいね」
 真っ直ぐ3人を見つめたオーナーは、不思議なほど静かな、穏やかな声で、告げた。

 「“Jonny's Club”のライブは、3月いっぱいで、終わりにします」


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