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― かげぼうし(前) ―

 

 大切だと思ったことなんて、一度もない。

 こんな奴、いなくなればいいのに―――それが、俺の、偽らざる本音。

 

***

 

 店内に入ると、目的の女の姿は、既になかった。
 「マジ、生きた心地しなかったぜぇ。なあ、あれ、ホントにエリィが使ってたヤツかよ? なんかもっとおかしなドラッグなんじゃねぇ?」
 そう言って、珍しく苛立った様子で問い詰めてくるのは、バーテンダー姿のトール。そのビシッと決まった姿を流し見た彼は、
 ―――まあ、半分当たってんだけど。
 と心の中でだけポソリと呟いた。
 実は、見た目はよく似ているが、トールに言ったものより少々効果のキツイ脱法ドラッグを渡したのだ。とはいえ、この状況は、やはり想定外―――いくらなんでも、効き目が現れるのが早すぎだ。
 「…んな訳、ねぇじゃん。そいつが特異体質なんじゃねぇ?」
 そっけなくそう答えた彼は、トール目当ての女性客を完全排除した、閑散としたバーカウンターに目をやった。
 「ま、逃げられたんじゃあ、しゃーないわ。でも、同じ手はもう使えねぇなあ…」
 「もしかして、まだやる気かよ」
 少々うんざりしたように、トールが呻く。
 「もう辞めとかない? ナンパは楽しいけどさぁ、なんつーか、こういう、後ろ暗い部分あるような遊び方は、おれ、あんまり好きじゃないんだよねぇ」
 「……」
 「ここの仕事、気に入ってるし、ヤバイことして店側にバレたりするとさぁ…」
 煮え切らない口調で、ぶつぶつと後ろ向きな発言を繰り返すトールに、内心舌打ちをする。つまんねぇ―――保身に入りやがって、と忌々しく思うが、確かに、楽しめなけりゃお遊びとは呼べない。借金をチャラにする、という名目があるとはいえ、トールにとっては全て「ただのお遊び」だろう。見るからにヤバそうな場面に遭遇して、抜けたくなるのも当然かもしれない。
 「別に無理強いはしねーよ。お前は抜けとけ」
 「そうじゃなくて!」
 わかってないな、とでも言いたげに、トールはちょっと語気を強めた。
 「お前も辞めろっつってんだよ、晴紀」
 「……」
 「今回の件もだけどさ、ドラッグ扱ったりとか、ヤバイ連中と付き合ったりとか―――誰も止める奴いないけど、おれは一応、晴紀の友達のつもりでいるからさ。このままヤクザとか暴力団とかに転落しそうで、心配になってくんだよ、最近」
 「…ふ…、」
 らしくもない真剣なトールの目が、かえって可笑しい。僅かに引きつった笑いを浮かべ、晴紀は自分の腕を掴むトールの手を、さり気なく外した。
 「何、マジになってんの、お前。俺がそこまでバカだと思ってる訳?」
 「そりゃ…、でもお前、リカが絡むと、半端なくぶっ飛んだことやらかしたりするしさぁ」
 「いくらリカのためでも、自分自身が破滅するような真似はしねーよ」
 ホントだろうな、と疑いの眼差しを向けるトールに、晴紀は肩を竦めて応えた。
 「俺だって、自分が一番可愛いんだよ」
 「…なら、いいけどさ」
 少々不満を残した顔をしながらも、トールは大きなため息をつき、軽く晴紀のわき腹を小突いた。
 「とにかくおれ、もう今夜みたいな思いすんの、まっぴら御免だからな。いくら大事な妹が崇拝してる女神様だからって、リカの片想いを晴紀が叶えてやる義理なんかないんだから、あんま無茶すんなよな」
 「―――…」
 大事な、妹。
 当然のようにトールが口にしたこの一言に、盛大に笑い転げてやりたい衝動に駆られた。が…、寸でのところで、思いとどまった。
 「…んじゃ、俺、帰るわ。ターゲットが逃亡したんじゃ、やることねーし」
 「あれ、飲んでかないの?」
 「ここ来る途中で、サツが検問やってんの見たんだよ。飲酒だのスピード違反だの、ばんばん止められたぜ」
 「…計画、失敗してラッキーだったんじゃないの」
 全くだ。呆れたようなトールの言葉に苦笑をして、晴紀は店を後にした。


 ―――つまんねぇ。
 行きにも見たパトカーをサイドミラー越しにチラリと見つつ、煙草に火をつけた。
 少しでも不審な点があれば片っ端から車を止めているのだ。止められて飲酒運転で罰金を取られるだけならまだしも、前後不覚状態の女を見つけられた日には、未遂といえども警察署に引っ張って行かれるのは免れないだろう。
 だから、トールの言うとおり、失敗してラッキーだったとは思う。けれど。

 ―――ほんと、つまんねぇ。
 ズタボロにして返してやったら、あの美形がどんな顔するか、見ものだったのに。

 リカの恋の邪魔になっている存在を排除してやる、という動機は、勿論嘘ではない。他ならぬリカのためなら、晴紀はその位の労力を厭わない。でも、それだけの理由なら、ここまで過激な計画は立てなかっただろう。
 昨晩、初めて見た、リカの現在の想い人。
 ただ顔を見て、リカから話を聞いただけだが―――理由を考えるより早く、本能的に「嫌いだ」と思った。
 恵まれた容姿を持ち、その容姿を存分に生かした仕事で大きな成功を収めていて、その上、リカのような高嶺の花までもが惹かれるほど、人格面でも魅力のある人物。
 最愛の人を既に見つけて、一途にその人だけを想い、またその一途な想いに相手が応えてくれている―――吐き気がするほど、満たされた人生。

 『いっつも……憎らしい位に、幸せそう―――…』

 ぶっ壊してやりたい。
 晴紀も、そう思った。
 リカが、あの男に対してどの程度本気で恋をしているのかは、晴紀にもわからない。ただ、あの男と恋人の間を引き裂いてやりたい、という衝動は、晴紀にも理解できた。憎らしいほどの幸せを粉々にしてやった時、何が起きるのか、それを見てやりたいと強く思った。
 歪んでいるかもしれない。間違っているのは承知だ。
 でも、晴紀にとって、満たされすぎた人間というのは、よく知らない相手であっても、憎悪の対象となり得る存在だ。何故なら、満たされすぎた人間の幸せそうな顔は、時として晴紀を深く、深く傷つけるから。

 己が満たされないが故の、嫉妬―――リカと自分を繋いでいるのは、案外、そんな共通項なのかもしれないな、と、晴紀はこの日、初めて思った。

***

 「晴紀か」
 帰宅するや、家の奥から、男としては高めの声で名を呼ばれ、晴紀の顔が一瞬硬直した。
 考えてみれば、日頃の晴紀に比べて、今日は少し帰宅が早めだ。両親が寝静まった頃に帰宅するのが常になっていたので、父や母と口をきくのも、もう何日ぶりだったか記憶にないほどだ。
 ―――めんどくせぇなぁ…。
 父が言いそうなことは、わかっている。が、無視するとまたヒステリックに喚くのがわかっているので、晴紀は素直に、父の声がした居間へと向かった。
 覗いて見ると、そこに母の姿はなく、父だけがテレビの前に陣取り、ややこしい経済関係のニュースを渋い顔で見ていた。といっても、これがいつもの光景だ。父と母が並んでテレビを見ている姿など、物心ついた頃から一度も見たことがない。
 「どうだ、大学の方は」
 テレビに顔を向けたまま、目だけを僅かに晴紀の方に向け、父が訊ねる。予想通りの質問に、早くもうんざりした気分になった。
 「…別に。普通」
 「単位は足りてるんだろうな」
 「…わかってるって。単位はきっちり計算してるから、安心しろよ」
 1年の時、羽目を外しすぎてダブっているのだ。そのことが判明した時には、それはもう凄まじい怒りようだった。あまりに世間体と金のことばかり言うので、「ダブった1年間の学費は自分で払ってやらぁ」と啖呵を切った晴紀だったが、1年の学費は100万近かった。前納である以上、貯えのない晴紀に出せる筈もなく、その場では親に出してもらう以外なかった。
 その後、事ある毎にこの件をぐちぐちと蒸し返してくる父に辟易した晴紀は、がむしゃらに働いて金を貯めた。トールが心配するような危ない橋を渡った一番の理由も、手っ取り早く大金を稼ぎたかったからだ。
 ダブった1年分の学費を全額耳を揃えて突きつけてみせたら、父は驚いた顔をしつつも、どうやって稼いだかも訊かずに受け取った。晴紀としては、そこで、1年時に留年してしまった失態についてはチャラになった、と解釈したのだが、その後も父は、遠まわしにこの件を蒸し返してくる。
 ―――ま、わかってたけどな。学生時代に友達に貸した辞書が紛失したってネタを、30年近くもねちっこく愚痴るような奴だから。
 「それならいいが、夜遊びも大抵にしておきなさい。どこで誰が見てるか、わからないんだからな」
 「はいはい」
 「晴紀」
 たしなめる父の声が、若干、うわずる。そのこめかみに青筋を1本見つけた晴紀は、「わかったよ」とぶっきらぼうに答え、踵を返した。

 2階に上がると、微かに、デスメタルらしき音楽が聞こえてきた。
 「……」
 音の出所は、晴紀の部屋の向かいの部屋―――晴紀の妹、亜紀の部屋だ。半開きになったドアから漏れてくる音量がこの程度なのだから、相当ボリュームを絞っているのだろう。
 「おい」
 ドアの隙間に向かって、声をかける。が、返って来たのは、沈黙だけだった。
 「おい、亜紀」
 ガツッ、とドアを蹴飛ばして開けると、微かだった音楽がはっきりと耳に届いた。
 扉の向こうに広がる光景は、これまた、いつもと同じ見慣れた景色。冴えないトレーナーに、穴のあきかけたジーパンを穿いた亜紀は、大量の雑誌やCD、DVDに囲まれて、部屋の中央にぺたんと座り込んでいた。どうやら、今聴いているCDの歌詞カードを見ているらしい。
 「お前、今月の“ドールガール”買った?」
 晴紀の問いかけに、歌詞カードから1ミリたりとも目を上げず、小さく頭を振った。買ってない、ということだろう。
 「買ってくんのか」
 「…あんまり、出たくない」
 歌詞カードを見つめたまま、ぽつんと呟く。
 ―――ダウナーの時期に入ってんだな。
 躁鬱を繰り返す亜紀は、鬱の傾向が強くなると、よくこうやってデスメタル漬けになる。激しい音楽で気分を高揚させるため、ではない。死だの死体だのを扱った歌詞にどっぷり浸るためだ。聴こえてきたのがデスメタルだった時点で気づいてはいたが、今は、大好きなリカが出ている雑誌を買うためでも、家から1歩も出たくない気分らしい。
 「じゃ、俺、明日にでも買ってくるわ」
 「うん。…あ、お兄ちゃん」
 鬱傾向の時は、ほとんど会話もしない亜紀には珍しく、立ち去りかけた晴紀を呼び止めた。ドアを閉めようとした手を止め、晴紀は眉をひそめて、亜紀を振り返った。
 見ると、亜紀は、歌詞カードを膝に置き、ちゃんと顔を上げていた。が、晴紀からは微妙に逸れた、中途半端な空中に視線を向けている。
 「また…もらっても、いいかな」
 「…まだ、眠れないのか」
 「うん」
 「…わかった。明日にでも、もらってくる」
 「うん」
 晴紀が了解したのを聞き届けると、それ以上話はない、とばかりに、亜紀の視線はまた歌詞カードへ戻った。きっと、この先晴紀が何か言ったところで、それはもう亜紀の耳には入っていないだろう。

 可哀想な奴、と、100パーセント思うことができれば、まだいいのに。
 ウザい奴、と感じずにはいられない自分を、人は非難するだろうか? 誰がこいつをこんな風にしたんだ、お前にこいつを疎ましく思う資格なんてあるのか、と。

 時々、姿を見るのさえも、嫌になる瞬間がある。乱暴にドアを閉めた晴紀は、罪悪感と苛立ちと同情が入り混じった最低の気分で、亜紀の部屋を後にした。

 

***

 

 父は、「女は三界に家なし」ということわざを本気で信じ、そのままを実行している男だ。
 女とは、幼い頃は親に従い、嫁いでは夫に従い、老いては子に従うもの。女とは、従属する存在。よって、自分の妻に必要なのは、従順さ。それ以外、何も要らない。そう考えて、母を妻に選んだ。
 そう考えるに至った理由は、自分の父親がそうだったから。それだけだ。
 父は、体躯も立派で不動産業で成功を収めた自分の父を、ずっと尊敬していた。自身が体格に恵まれず、見るからに神経質そうな線の細い外見だから余計、そのコンプレックスの裏返しで、父のように男らしい、堂々とした男になりたい、と憧れ続けた。
 女は男より劣る、女は男に従う運命にある、主人のためにじっと耐え忍ぶのが女の美徳だ―――祖父からそう言われ続けた父は、祖父から使用人のような扱いをされる祖母に対して、何ら疑問を抱くことなく育った。そして、何ら疑問を持たないまま、自分の妻となった女を、同じように扱った。
 結果、晴紀は幼い頃から、母が食卓で口をきいたのを見たことがない。父が母を労う姿を見たことがない。父より早く風呂に入ったり寝たりするところも、父と一緒に居間でくつろぐ姿も見たことがない。だから晴紀も、そういうものなんだろう、と思って育ってしまった。

 妻に対する考え方に偏りがあるように、父の「長男」観も、少々偏っている。運悪くこの家の長男に生まれてしまった晴紀は、その父の思想のおかげで、今にも窒息しそうな幼少期を過ごした。
 女は弱く劣る存在、と考えるのと同様に、男は強く上に立つ存在でなければならない、と考えているのだろう。その上、父は、失敗に対しては容赦なく、成功に対しては最小限の評価しか与えないタイプだ。あれをしろ、これをしろ、あれをするな、これをするな―――父の晴紀に対する教育は細かすぎるほど細かく、かつ、失態には情け容赦ない罵倒とヒステリックな叱責が待っていた。窓のサッシを指で拭い、ほこりが指先についただけで、母を厳しく叱責するような男だから、元来やんちゃなタイプだった晴紀がどれほどの頻度でヒステリーをぶつけられたか想像できるだろう。
 結果、幼い晴紀は、父からのプレッシャーに耐え切れなくなり、物に当たることを覚えてしまった。突発的に家中の物を壊して回る晴紀を見て、父は当然のように「お前の教育が悪いから」と母を叱責した。

 それでも晴紀は、父を異常とは思わなかった。
 母に対する扱いを理不尽とは思わなかったように、自分に対する扱いも理不尽とは思わなかった。他の家と比較するような歳でもなかったので、これが普通なのだ、と信じて疑わなかったのだ。
 それをぶち壊したのが―――妹の亜紀だった。

 晴紀は、比較的ずんぐりむっくり系である母方の血筋に似ているが、亜紀は、貧相で神経質そうな父の外見に似ている。小さい頃からやせっぽちで、顔色も悪く、ついでに顔立ちにも恵まれていなかった。
 その上、亜紀は、頭も悪く運動神経もゼロだった。お絵かきも下手で、歌も下手だった。性格も消極的で、からかわれたりバカにされたりすると、すぐ泣く。自分で考えて物事を決める、という部分もなく、何をするにも「お母さん、あれやっていい?」「お父さん、これやらなきゃダメ?」といちいち確認しないと行動ができない。全くもって、いいとこなし、という子供だった。
 その上、亜紀は、自分のダメさ加減を自覚していなかった。お遊戯会で失敗しても、運動会で転んでも、亜紀が泣くことはなかった。後から子供たちに何か言われたり、先生に注意されたりすると泣くのだが、自分自身の失敗そのものについては、特に意に介していなかったらしい。
 いいところがない上に、本人がそれを恥ずかしいとも辛いとも思っていない―――厚顔無恥、なんて言葉を小学校に上がったばかりの晴紀が知る筈もなかったが、晴紀が2つ年下の妹に対する評価は、その言葉にかなり近いものだった。
 それでも、それだけなら、まだよかった。
 晴紀がどうにも納得できなかったのは、父の、亜紀に対する扱いだ。
 晴紀が1位を逃すと「努力が足りない」とたしなめる父。なのに、ダントツで最下位になった亜紀のことは、一切叱責しなかった。晴紀が物を壊せば体罰が待っていたが、亜紀が物を壊しても、軽い注意だけで済んだ。
 亜紀には甘いくせに、自分には厳しい父を、晴紀は初めて理不尽に思った。そして、父に対して腹を立てる以上に、甘やかされている亜紀に腹を立てた。

 妹のくせに。年下のくせに。女のくせに。
 ブスで、頭が悪くて、のろまで、鈍くて、弱くて、可愛くないくせに。

 晴紀は、物に当たらなくなった。
 その代わり、亜紀に当たるようになった。
 弱くて劣る亜紀は、晴紀がちょっと叩いただけで、すぐに泣く。お兄ちゃん、なんて日頃呼びもしないくせに、叩かれた時は声が嗄れるほど「お兄ちゃん」を繰り返す。ごめんなさい、お兄ちゃん、ごめんなさい、お願い叩かないで―――反抗することなど、一度もなかった。亜紀は、泣いて許しを請いながら、晴紀に叩かれ続けた。
 勿論、父に見咎められるような叩き方はしない。父の顔色ばかり窺って育ってきた晴紀は、父の目を欺くだけの小狡さも身につけていた。亜紀に口止めすることも忘れない。自分の暴力が表に出ないことに気を良くした晴紀は、次第に、ただ叩くだけじゃなく、蹴ったり言葉で詰ったりもするようになった。
 どの程度の頻度だったかは、定かではない。全ては晴紀の気分次第。月に1度の時もあれば、日を置かず毎日の時もあった。
 そうして、晴紀の暴力は、亜紀が小学校に上がった直後から始まり、亜紀が4年生になる頃には、それがこの兄妹のあり方だ、と言えるほどにすっかり定着してしまった。
 その頃には、亜紀も晴紀の暴力に慣れてしまい、もう許しを請うことも、泣くこともしなくなった。青白い惨めそうな顔で、ただ黙って制裁が終わるのを待つようになっていた。

 罪悪感など、微塵もなかった。
 亜紀は、妹で、年下で、女で、家族で、自分より劣る。それなのに、父から受けるべき制裁を受けていない。だったら、父が母を蔑ろにしているように、自分が亜紀に辛く当たって、何が悪い?
 亜紀は、自分に痛めつけられて、当然なのだ。
 亜紀をどう扱おうが、自分の自由なのだ。晴紀はそう、本気で思っていた。少なくとも―――あの日までは。


 晴紀が6年生の時、それは起きた。
 いや、正確には、それより少し前から、それは起きていた。ただ、晴紀はその時まで、その事実を知らなかっただけだ。
 放課後、帰宅しようとしたところに担任から物を頼まれ、普段通ることのない4年生の教室の前を通ったら、偶然その現場に出くわしてしまった。
 「あんたがいたせいで、うちのチームが負けちゃったじゃないっ」
 はめ込みガラス越しに見えたのは、女の子2人から罵倒され、震えている亜紀の姿だった。
 何の話かわからないが、多分、体育の授業か昼休みの遊びのことだろう。運動神経の鈍い亜紀は、走るのも跳ぶのも大の苦手で、誰かと組んでの競技だと、ほぼ確実に足手まといになるのだ。
 「先生に言われたから、しょうがなくチームに入れたのに」
 「マキなんて、クラスで一番スポーツが得意なのに、あんたがいたせいで最下位になっちゃったんだよ」
 「なのに、あんたに文句言ったマキが先生から叱られて、あたしたちの足引っ張ったあんたは、なんで叱られないのよっ」
 「ヒイキだよっ。差別だよっ。謝ってよっ」
 2人から矢継ぎ早に責められ続けた亜紀は、顔面蒼白のまま、俯いて縮こまっていた。泣きもしなければ、謝罪の言葉もない。そう……ちょうど、晴紀の暴力に対して、そうであるように。
 反応のないことが、逆に、2人を余計苛立たせたらしい。
 「ちょっと、何とか言いなよっ」
 ドン、と、1人が両手で、亜紀を突き飛ばす。枝みたいに痩せている亜紀は、凄い勢いで尻餅をつき、床にうずくまった。
 途端―――ぷちん、と、晴紀の中で何かが切れた。
 「てめーらっ!」
 ガラッ、と扉を開けると、晴紀はずかずかと4年生の教室に踏み込み、びっくりしている女の子2人を、連続で突き飛ばした。6年生男子の中でも体格がいい部類に入る晴紀に突き飛ばされた彼女らは、亜紀以上の勢いで尻餅をつき、机や椅子で体のあちこちを打った。
 上級生に暴力を振るわれた経験などない2人は、驚きと痛みで、すぐに泣き出した。教師に告げ口されても面倒だ、と咄嗟に考えた晴紀は、威嚇するようにドン、と床を一度踏み鳴らし、2人に向かって言った。
 「いいか、亜紀に二度と手出しすんなよ。もしお前らがまた亜紀をいじめたり、俺たちの悪口言ったりしたら、俺もセンコーに言うからな。2人して亜紀のこといじめてた、ってな!」

 ムカムカする。
 自分も同じことを…いや、もっと酷いことを亜紀にしているのに、亜紀に罵声を浴びせる奴らに、心底ムカついた。
 彼女たちの言い分は、もっともだ。亜紀はいつだって自分たちの足を引っ張る。なのに、それを申し訳ないとも思わない上に、親からも先生からも非難されない。ずるい。贔屓だ。だから腹が立つ。
 それでも―――同じことを晴紀自身も思っていても、同じことを理由に暴力を振るっていても、他人が亜紀を詰るのは、許せない。
 自分でも、よく、わからない―――初めての感情だった。

 女の子2人の返事を待つことなく、晴紀は亜紀を連れて、教室を後にした。
 乱暴にランドセルを背負わせ、腕を掴んで歩き出したが、いつまでも手を引いているのが馬鹿馬鹿しくて、学校の正門を出たところで、手を放した。
 「お前もなぁっ、一言くらい、なんか言い返せよなぁっ」
 「……」
 「ごめんとかっ、次は頑張るとかっ、何か言いようがあるだろーがよっ。文句言われても、ただじーっとしてるだけのお前見てると、イライラするんだよっ」
 晴紀の言葉にも返事がない亜紀に、ちゃんとついて来てるのかよ、と少し不安になる。
 が、次の瞬間、地面に伸びる晴紀の影の膝の辺りに、亜紀の頭と思しき影が、ひたひたと、遠慮がちにくっつくのを見つけた。大丈夫、ついて来てる―――ちょっとだけ、ホッとしている自分に気づき、何故か苛立った。
 「…おにい、ちゃん」
 亜紀の影が、意味もなく、兄を呼ぶ。
 「…なんだよ」
 訊ねても、返事は、ない。その代わり、亜紀のランドセルについている鈴が、背後で、小さな音をたてた。
 晴紀は、その音を聞きながら、亜紀を振り返ることなく、ただ黙々と歩き続けた。いつもより僅かに遅い速度で―――亜紀の影だけを、時々確認しながら。


 その日を境に、晴紀の亜紀に対する暴力は、ピタリと止んだ。
 元々、その数ヶ月前から、暴力の頻度は落ちていた。晴紀自身が成長するにつれ、亜紀への憤りより、諸悪の根源である父への怒りの方が大きくなってきたせいだ。そこにきて、亜紀が同級生にいじめられている現場を見てしまったことで、亜紀への残酷な衝動はすっかりなりを潜めてしまった。
 それから間もなく、晴紀は中学に上がり、父の命令に逆らうことを試みるようになった。
 自分の思うようにならない息子に、父はいたく憤慨していたが、どうせ命令どおりにしたところで待遇に大差はないのだ。それに、体格のいい晴紀は、既に身体的には父を追い越している。歯向かってくる晴紀に父が以前ほど強く出なくなったのは、多分そのせいだろう。
 より力強く、より狡猾になった晴紀は、気づけば中学校の中でも一目置かれるようになっていた。優等生としてではなく、「怒らせるとヤバイ生徒」として。
 おかげで、晴紀の小学校卒業後、何度かあの時のような詰問やいじめに遭ったらしい亜紀も、中学ではいじめられずに済んだ。入学したての1年生の間にも、最高学年にいる亜紀の兄の存在は、1ヶ月もかからず知れ渡ったからだ。
 晴紀が高校に進学した後も、暫くの間は、晴紀という存在が亜紀を守っていた。けれど―――卒業から半年も経つと、効果も徐々に薄れ始め、亜紀たち自身が最高学年になる頃には、ほぼ消滅した。亜紀が中3の夏、亜紀の同級生を弟に持つ友人から、噂話として聞かされて初めて、亜紀の教科書に落書きがされていたことや、体操服を隠されたことなどを知った。
 「お前、またいじめに遭ってるんだってな」
 そう言ってみたが、亜紀は黙りこくったままだった。
 「ま、俺には関係ないけどよ」
 本人が認めないのに、あれこれ世話を焼くほど、晴紀はお人好しではなかった。肯定も否定もせず貝のように口を閉ざす亜紀にイライラしつつ、傍観を決め込んだ。


 亜紀は、高校に進学した。
 到底亜紀の成績では入れないレベルの高校だったが、多分裏があったんだろうな、と晴紀は考えている。何故なら、亜紀が入った高校は、父の職場とは色々と裏での繋がりがある私立高校だったからだ。
 通い始めた頃は、知り合いが1人もいない真新しい環境に、亜紀も落ち着いた学校生活を送っていた。が…、亜紀は、やっぱり亜紀だ。どこのクラスにも、亜紀のような弱者を疎んじ、格好のいじめのターゲットとするような人種が、1人や2人はいる。案の定、夏休みに入る頃には、亜紀はそうしたクラスメイトの格好の餌食にされてしまった。
 しかも今度は、中学までのいじめとは比較にならない、陰湿で激しいものだった。その実態を、晴紀は、当の亜紀から夏休みに打ち明けられた。
 「水、かけられた…。制服がびしょ濡れで、お母さんに、どうしたの、って言われたけど、ホントのこと、言えなかった…っ…」
 母の無力さを、亜紀はよく知っている。子供らの失態が父に知れた時、責められるのはいつだって母だ。亜紀がいじめに遭っていると知ったら、学校側に抗議に行ったりして事を大きくすることより、事実を父から隠すことを優先するだろう。虐げられた存在として母に同情はしていたが、そういう意味では、亜紀から見て母は決して“味方”ではなかった。
 「いやだ…っ、もう、学校なんていやだよ…っ」
 耐えられる限界を超えたのだろう。殴られても蹴られても悲鳴ひとつ上げなかった亜紀は、泣きじゃくりながら、晴紀にそう訴えた。こりゃヘヴィーだな、と少々驚きつつも、晴紀は一方で、なんともいえないむず痒さと苛立ちを感じていた。

 ―――こいつ、頭おかしいんじゃねぇの。
 誰のせいで自分が対人恐怖症になったと思ってんだ? こいつ。
 そりゃ、元々、ブスでバカでトロかったんだから、いじめられやすいタイプだったさ。でも、幼稚園の頃は、ガキどもにからかわれてても、「亜紀ちゃんを苛めちゃダメ」なんて言ってくれる子が、必ず1人はいただろ。
 そういう友達すらいなくなったのは、俺にボコスコ殴られるようになってからだってこと、気づいてないのかよ?
 俺にバカだバカだ言われて、すっかり萎縮して、挨拶ひとつまともにできねぇほど自信なくしたから、誰にも味方になってもらえないほどのダメ人間になったんだろうがよっ。

 自分を痛めつけた張本人を頼る亜紀の心理は、晴紀にはよくわからない。
 晴紀が亜紀を助けたのは、小4のあの時一度きりだ。その後も、ある意味晴紀の“名前”が亜紀を助けていた部分は確かにあったのかもしれないが、直接助けた訳ではない。“名前”だけで、自分を苦しめた人間を信用できるようになるものだろうか? それとも、そんな人間にすら救いを求めるほど、亜紀は追い詰められている、ということなのだろうか。
 ともかく、その日以来、亜紀は時々、晴紀に「学校に行きたくない」とポツリと言うようになった。
 晴紀にできることは「休めば?」と言うこと位で、実際、晴紀が「休めば?」と言った翌日は休むことが多かった。多分、晴紀に言われることで、誰かから許可を得たような安心感があるのだろう。幼い頃から親の許可なしに行動できない奴だったことを思い出し、その行動には納得がいった。
 2日連続で休むと、父から注意を受ける。父は、亜紀には甘い部分があるが、サボタージュなどの不真面目な態度は昔から嫌いだった。「熱がないなら、学校に行きなさい」と言われ、母が熱を測る。当然、いつも平熱だ。無言のままぐずる亜紀をあれこれとなだめ、母はなんとか亜紀を学校に行かせる―――そんな感じで、2学期は過ぎていった。

 正直、重かった。
 晴紀も、もう、弱い者いじめが好きな悪ガキではない。だから、かつて自分が犯した罪を理解していたし、それ故に、亜紀に対しては負い目を感じている部分がある。
 そんな晴紀が、亜紀のいじめの現状を知らされるのは、自分がつけた傷を見せつけられるようなものだ。罪悪感がある分、支えてやらないと、と思うのだが、罪悪感がある分、もう勘弁してくれ、とも思う。亜紀が陰鬱な顔で「お兄ちゃん」と声をかけてくるたび、晴紀は拷問に近いものを感じていた。

 重たい。重たくて仕方ない。放り出したくなる。
 その重みに耐えかねていたところに、偶然出会ったのが―――リカだった。


 リカは、他の連中とは、少々毛色の違った新顔だった。
 晴紀の仲間は、下は中3から上は社会人まで色々いるが、その年齢に限らず、どいつもみな、悪いことの大半はとっくの昔に経験済み、という猛者ばかりだ。一方リカは、そういった悪事とは無縁らしかった。親衛隊というか、ファンクラブというか…そういう連中に昔から取り巻かれていたようで、そいつらにがっちりガードされた中で、好き勝手振舞って生きてきたようだ。
 美少女だな、と思い、これまで縁のなかった珍しいタイプだ、とも思ったが、さして興味は持たなかった。それが変わったのは、他の奴らとの会話の中で、彼女が自分が通っている高校の名前を口にした時だった。
 「…あれ、その高校、俺の妹が通ってるわ」
 思わずそう呟くと、リカは驚いたように、ただでさえ大きな目を余計大きく見開いた。
 「えー、そうなんだ? 何年?」
 「1年。俺とは全然似てないよ。痩せてて貧相で、暗ぁい奴」
 「ふぅん…。リカのファンクラブの子にも、1年生が何人かいるけど、それ以外の1年とは付き合いないもんなあ…」
 「―――もしかして、リカって、学校のミス・コンで優勝とかした?」
 これだけ完璧な顔立ちだ。もしや、と思って訊ねてみたところ、予想通りの答えが返って来た。
 「うん。3年連続」
 「やっぱり」

 『ミス・コンで優勝した3年の先輩が、凄く凄く、可愛くて綺麗だったのっ』

 珍しく亜紀が、いじめた連中のこと以外の学校での出来事を話したのが、これだった。
 亜紀は元々、可愛いお人形やレースの服などが大好きで、部屋にはヒラヒラの服を着た人形が何体も飾ってある。両親は、女の子らしくて結構、と思っているようだが、晴紀から見ると、人形を眺めて1人で悦に入っている時の亜紀は、ちょっと病的にすら思えた。
 そういう亜紀の趣味を知っているので、今目の前にいるのが亜紀の言っていたミス・コン優勝者だとわかり、晴紀は深く納得した。生きて動いている人形を見て、亜紀が興奮しない訳がない。
 「あいつ、今年のミス・コン見て、優勝した上級生のことをやけに褒めてたぜ。可愛いのが異常に好きだからな」
 晴紀が言うと、リカは、さして驚いた風もなく、へー、と相槌を打った。褒められるのも、可愛いと言われるのも、今更嬉しくも何ともないことなのだろう。
 「なんか、クラスでいじめに遭ってるみたいで、学校行きたくないー、とか言ってるけど、ミス・コン以来、あんまり言わなくなったんだよな。多分、リカの姿拝めるから、我慢して行ってんじゃねーかな」
 「ふふふ、じゃあ、リカも誰かのお役に立ってるんだ、嬉しいなぁ。でも、そんなにお気に入りなら、ファンクラブ入ればいいのに」
 「そーゆータイプじゃねぇのよ、妹は。陰からじーっと見てるタイプ。仲間でワイワイやってるサークル活動なんて、絶対無理無理」
 「そんなワイワイやってる感じでもないけどなー。第一、リカのファンだけがファンクラブに入る訳じゃないし」
 なんだそりゃ、と怪訝な顔をする晴紀に、リカはあっさりと、当然のような口調で続けた。
 「リカって、うちの学内じゃ有名人だし、テレビより身近なとこにいるアイドル、って感じに扱われてるの。だから、そういうリカの一番近くにいられるファンクラブメンバーって、それだけで一目置かれるとこがあるの。特に女の子は、リカを餌にして男の子と親しくなれたりするじゃない? リカにファンレター直接渡す機会作ってあげる、って言って、前から狙ってた男の子をゲットしちゃった子もいるよ」
 「…えげつねぇ…」
 「そう? そんなもんじゃない? 人間って、結局はギブ・アンド・テイク―――損得勘定なしには動かないでしょ。今のところ、リカといるといい事があるから、リカの周りには人が集まるんだし、何もいい事がなくなれば、みんな離れていくんじゃない?」
 ケロリと言ってのけるリカを見て、面白い、と初めて思った。
 こいつの中には、友情とか、愛情とか、そういうものさしは存在しないのだろうか? …多分、ないのだろう。そして、残念なことに、晴紀の中にもそうしたものさしは存在していなかった。
 晴紀の仲間は、晴紀がこの辺では一番の猛者だから、下についていた方が何かと都合がいい、と考えている奴ばかりだ。晴紀自身も、自分が一緒にいて不愉快に感じるか感じないかと、付き合うことで不利益は生じないかだけで、人間関係を築いている。男に対してだけじゃなく、女に対してもそうだ。独占欲の強い女も扱いに手間のかかる女もごめんだ。1人の女に関わり続けると面倒も生じやすくなるので、晴紀の付き合う相手は短期間でコロコロ変わる。それで相手も文句は言わない。言わないような人間しか選んでないのだから、当然だ。
 唯一の例外は……亜紀。
 今すぐ、放り出したいような奴。気にかけるのも億劫な奴。なのに、亜紀は自分を頼ってくるし、自分も完全に無視することができない。重たくて鬱陶しい、晴紀の足かせだ。
 ―――ギブ・アンド・テイク、か。
 リカが、こういう割り切った奴であるなら、話は早い。
 「なあ、リカ。ちょっと頼まれもの、してくれねぇかな」


 晴紀が思いついた名案の効果は、それから間もなく、表れた。
 頼んだのは、写真とサイン。それだけだ。晴紀とリカのツーショットに、亜紀の名を入れたサインをしてもらい、それを亜紀に土産として渡したのだ。
 「リカちゃんだ!」
 写真を見た途端、亜紀は頭のてっぺんから声を出して、きゃあきゃあと騒いだ。喜び方怖ぇよ、と思いつつも、とりあえず亜紀のテンションを上げる効果だけはありそうだな、と晴紀は思った。
 「偶然知り合ってよ、友達になったんだよ。妹がファンだっつったら、これくれた。大事に持っとけよ」
 「うん、うん、大事にする!」
 亜紀は、宝物の写真を生徒手帳に挟み、毎日学校に持って行った。が、時々それを盗み見て、悦に入っていたのだろう。すぐに、亜紀をいじめている連中に、その写真は見つかってしまった。
 見つかっていいのだ。それこそが、晴紀の目的なのだから。
 「あ、あの、お兄ちゃん…」
 写真を渡して10日後、亜紀は、物凄く困惑した顔で晴紀に声をかけてきた。
 「ク…クラスの子が、あの写真見て、お兄ちゃんに会いたい、って…」
 「俺に?」
 「…あたしのお兄ちゃんで、リカちゃんの友達だ、って言ったら、なんか、紹介してって…」
 ―――大変バカ正直な反応、ありがとう。
 ニヤリと笑った晴紀は、勿論、亜紀の頼みを二つ返事でOKした。
 翌日、亜紀が連れて来た“クラスメイト”は、全員女だった。一見、普通の女子高生にしか見えない。が、こいつらが亜紀を一番執拗にいじめている事実に、晴紀は当然気づいている。一番執拗だからこそ、真っ先にあの写真を見つけたのだろうし、彼女らの後ろでちょこんと立っている亜紀の、常には見せない怯えた表情を見れば、それは明らかだ。
 晴紀は、彼女らに請われるままに、リカと撮った他の写真も見せてやった。初顔合わせ以来、リカとは既に2度会い、その都度写真を撮っている。その中には、リカが連れて来たファンクラブのメンバーの1人が写っているものもあった。リカによく似た別人という最後の可能性が消えた途端、学内一の有名人に憧れる彼女らは、黄色い声をあげ始めた。
 「あのっ、あの、リカさんに紹介して下さいっ!」
 「学校ではリカ先輩、親衛隊の人たちに囲まれちゃって、1年生じゃ近づくこともできないんですっ」
 一気に下手に出だした彼女らを見て、晴紀は笑いを堪えるのに必死だった。勝ちを確信した晴紀は、見下すような目つきで、彼女らに言ってやった。
 「まあ、考えてやらないでもねぇぜ? でも、タダでそんなことやるほど、俺も暇じゃねぇんだよなぁ」
 「……」
 「ま、別に無理することはねぇさ。また亜紀が泣いて帰ってくるようなことがありゃあ、その時は、お前らのこと、顔写真入りでリカに教えてやるだけだからな。リカは、亜紀がいじめに遭ってることも知ってる。酷い話だ、って憤慨してたから、犯人がわかりゃあ、喜んでぶっ潰してくれるぜ。お前らの学校には、リカの命令ひとつで何でもやる男が、いくらでもいるからな」

 こうして、亜紀の学校での生活は、ガラリと変わった。
 彼女らを実際にリカに紹介する必要など、もはやなかった。熱狂的ファンを学内に大量に抱えるリカ。そのリカと対等な付き合いをし、肩を抱いてのツーショットまで撮れるような男を敵に回したら、一体どういう結果をもたらすのか―――それがわからないほど、連中もバカではなかったのだ。
 こうした噂は、放っておいても広まる。亜紀をいじめていたのは複数のグループだったが、その全てが沈静化するのに、1ヶ月かからなかった。
 全く、リカの言うとおりだ。人間は、損得勘定抜きには動かない。亜紀をいじめていた連中は、亜紀をいじめることで得られる歪んだ快楽より、身の安全を選んだのだから。
 日常が平穏なものになるにつれ、亜紀が晴紀に話しかけてくるのは、リカに関することだけになった。亜紀の望みはただ1つ、兄がいつまでも憧れのリカちゃんと仲良くしていること―――お安い御用だ。晴紀は、リカにとって最も「使える奴」でいるため、リカの頼み事を一手に引き受けるようになった。
 別に、亜紀のためではない。
 リカのおかげで、重くて重くて倒れそうだった亜紀の存在が、軽くなった。晴紀は、リカに感謝していたのだ。亜紀を救ってくれた女神としてではなく―――自分を楽にしてくれた存在として。


 やがて、リカも晴紀も高校を卒業し、晴紀は大学へ進んだ。
 翌年の学祭にOGとして参加したことで、亜紀の学校でのリカ人気は、全盛期ほどではないとはいえ、ちゃんと維持された。リカの後輩世代にもリカの熱狂的ファンはいたし、親衛隊メンバーもまだかなりの数残っていた。おかげで、亜紀に対するいじめも、影を潜めたままだった。
 しかし、亜紀たちが3年生になると、状況は微妙に変化した。
 リカが在籍していた頃を知るのは、いまや、3年生だけだ。その連中も、リカが卒業して1年も経てば、熱も幾分冷める。晴紀が直接脅した連中は、晴紀のことを恐れて二度と手出しはしなかったが、晴紀の影響力が及んだのはそこまでだった。
 受験勉強のストレスもあったのだろう。リカのグループと反目することを恐れて押さえ込まれる形になったことにも、ずっと不満を抱えていたのかもしれない。
 どういうきっかけがあったのか、それは晴紀にもわからない。突然、亜紀に対するいじめは、再発した。
 そして、不本意に押さえ込まれてきた分、別のストレスが加わった分―――その凄惨さは、1年の時のものを、はるかに上回っていた。

 ある日、亜紀は、洗面所で手首をカッターで切ろうとしているところを、母に見つかり、寸でのところで止められた。
 晴紀がいじめの再発に気づくより早く、亜紀が晴紀に助けを求めるより早く、亜紀の心が折れた。平和な時間が暫く続いた後に訪れた、これまでで最大の暴力―――その、ただ1度の暴力に、亜紀は耐えられなかったのだ。
 「お願いです、あなた…! 学校なんて、行かなくてもいいじゃないですか! このままじゃ、亜紀が可哀想です…!」
 見つかった数々のいじめの証拠を目にして、母は泣きながら父に訴えた。大声をあげることすらなかった母が見せた、それは最初で最後の心からの訴えだった。
 自殺未遂まで起こされたのでは、父もさすがに、事態の深刻さを思い知ったのだろう。亜紀はその日から、休学、という形で高校を休むことになった。
 カウンセリングを受けさせた医師からは、学校に行けるようになるまで何年もかかる可能性が高い、と言われたが、父は“退学”の二文字にはアレルギー反応とも言えるほどの拒絶を示した。高校中退―――その言葉のマイナスイメージが、父にはどうしても受け入れられなかったのだ。

 亜紀の対人恐怖症は凄まじく、最初に心療内科に連れて行った時も、医師の前でガタガタ震えるばかりで、まともに会話もできなかった。その時の体験が忘れられないのか、亜紀はそれ以降、医者の診察は受けていない。母が何度も説得したが、無理だった。
 父はというと、そのことにむしろホッとしているようだった。“精神科の通院歴”という言葉のマイナスイメージも、父にはどうしても受け入れられなかったのだ。
 父は、いわゆる官僚だ。ノンキャリアだが、一応本省に勤めている。キャリア組とは違い上の見えている立場だが、マスコミが官僚らのスキャンダルで賑わうことも多いご時世なだけに、スキャンダルに対するアレルギーは一般人より激しいらしい。
 そのせいだろうか。父は、亜紀に対するいじめの事実を、黙殺した。誰に訴えることもなく、亜紀の病いを治そうと尽力することもなく、「自殺未遂を起こした上にひきこもりになった娘」という存在を、世間には知られないよう、家の中に閉じ込めた。
 それが、この件に関する、父の答えの全てだった。
 こと、ここに至って、晴紀はやっと理解した。父は、自分に対して厳しく、亜紀に対して甘い。ずっとそう思ってきたけれど…それは、違っていた。父は、見た目も悪く、才能もない、自分より下等である“女”であるところの亜紀に、何の期待も興味も抱いていないだけなのだ。


 以来、1年半―――亜紀はまだ、休学中だ。
 眠れない日や不安に苛まれる日も多いが、当然ながら、診察も受けていない。ほとんど外出もせず、毎日毎日、自分の好きな物だけに囲まれて、1日中部屋の中で過ごしている。コレクションの人形の数は倍に増え、リカ関連のスクラップブックやデスメタルのCDを床いっぱいに並べて、それらが見せる空想の世界に浸る毎日だ。
 亜紀の精神状態が不安定になると、迷惑を被るのは晴紀だ。真夜中に部屋に来ては、自分が受けた仕打ちを延々と晴紀に語るのだからたまらない。まともな診察も受けられない亜紀に対する同情と、このままでは自分まで狂ってしまいそうだ、という不安から、晴紀は精神安定剤や睡眠薬を調達してくるようになった。当然、正規のルートではないが、インターネットが発達した現代なら、それはさほど難しいことでなかった。
 晴紀の、亜紀に対する負い目に、亜紀は気づいている。だから、当然の権利のように、晴紀にだけ押し殺した怒りや恐怖をぶつけてくるのだと、最近わかった。
 確かに、その通りだ。自分はかつて、妹を傷つけた。その負い目を少しでも軽くしたくて、晴紀は亜紀の味方で居続けている。そうするのが当然の義務であり、そうする以外どうしようもない。
 …重い。
 亜紀という存在が、どうしようもなく、重い。
 なのに、捨てられない。捨てられたらどんなに楽かと思うのに、捨てることができない。この葛藤に、息が詰まる。


 『いくら大事な妹が崇拝してる女神様だからって、リカの片想いを晴紀が叶えてやる義理なんかないんだから、あんま無茶すんなよな』


 ―――大事な妹だなんて、一度も思ったことはない。
 こんな奴、いなくなればいいのに―――それが、俺の、偽らざる本音。
 なのに、俺は、こいつを見捨てられない。
 その理由は、ただ1つ―――こいつが、俺の、妹だから。


 あの日見た、後ろからついてくる、長い影。あの影を、晴紀は、今も引きずっている。
 だから、何も引きずることなく自由に歩いている人間を見ると…その自由をぶち壊したい衝動に、時々、駆られてしまうのかもしれない。


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