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― かげぼうし(後) ―

 

 晴紀がトールと企てた計画が失敗して、数日経った。

 正直なことを言えば、晴紀はあの一件を、半分忘れかけていた。
 リカの邪魔をする奴を排除してやろう、とは今も思っているし、あの超美形に本能的敵対心を持っている点も変わらない。が、晴紀の仲間はリカ1人ではないし、その中には深刻なトラブルに巻き込まれている者もいる。それに、晴紀自身の生活もある。大学にバイト、一応“彼女”という存在もいる。束縛し合わないドライな付き合いだが、それでも時々“彼女”の名を武器に“彼氏”らしいことをするよう要求してくる。晴紀の毎日は、結構忙しいのだ。
 またそのうちに…と思いつつ、日々のことに忙殺されていた晴紀だったが、その週の土曜日、嫌でもあの一件を思い出さざるを得ない状況になった。

 「……」
 オールナイトで遊び倒した朝、一番に目に入ったのは、怒りの形相で仁王立ちしている、リカの想い人――― 一宮 奏の姿だった。
 あの日、ヘッドライトの中で見た時には、中性的にも見えた気がした顔だったが、こうして太陽の下で見ると、女顔とは程遠い、むしろ男っぽさの方が勝った顔だ。
 強面の人間なら、ちょっと睨みを効かせれば誰もが震え上がるが、美形が睨んだって大したことはないだろう、と考えていたが、それが間違いであることを、晴紀はこの時思い知った。美しいが故に、むしろ、いかにもな強面の憤怒の顔以上に、恐ろしさがあった。
 「…オレが何しに来たか、わかってるよな」
 感情を殺した低い声。
 勿論、わかっている。要するに、先日の件がこいつにバレたのだ。多分、仕留め損ねたこいつの恋人から、事の次第を聞いたのだろう。もっとも、カクテルを飲んで体調を崩した、というだけのことから晴紀にまで辿り着くとは、少々意外だが。
 「…へ…え、あんた、意外に頭キレるな」
 からかうような晴紀の口調に、奏の眉が僅かに動いた。
 「お前…自分がしたことがどういうことか、」
 「ンだよ、したことって」
 奏の言葉を遮り、晴紀は鼻で笑った。
 「ただのお遊びじゃん、あんなの」
 「……」
 「しかも、勝負はあんたの彼女の勝ち、俺たちの負け。何か問題あるか? 未遂の範囲にも入んねぇようなショボいお遊びに、そんなマジになるなよ」
 笑いながらそう言った、次の瞬間―――目の中で、火花が散った。

 一瞬、何が起きたのか、わからなかった。
 ぐわん、という大きな衝撃。直後、久々に感じる強烈な痛み。殴られた、とはっきり理解したのは、殴られた勢いで2、3歩後ろによろけ、壁に後頭部を打ちつけた後だった。
 口の中に、鉄と塩が混じったような味が、僅かに広がる。グラグラする頭を気力で起こした晴紀は、血の混じった唾を吐き捨て、奏を睨んだ。
 「…て、めぇ…何しやがんだよ。ふざけんな…!!」
 怒鳴りながら、当然、殴り返した。
 晴紀は、これまた単なるお遊びではあるが、一応ボクシングジムにちょくちょく顔を出している。周りのボクサー志望から言わせれば「ただのエクササイズ」レベルではあるが、それでも、一般人よりは腕っぷしには自信がある。
 1歩踏み込み、相手の胸倉を掴み、パンチを繰り出す。大きく揺さぶられた頭がまだグラグラしたままで、到底全力とは言い難い半端なパンチだったが、ファッション業界でちゃらちゃら生きている男には、それで十分だと思った。
 が―――その予想は、裏切られた。
 晴紀の拳は、確かに、奏の頬の辺りに当たった。が、反射的に奏が避けようと頭を動かしたせいで、ただでさえ全力ではないパンチが、クリーンヒットしなかった。それどころか、リーチを詰めたことを逆手に取られ、次の瞬間には、奏の拳が晴紀の腹部にめり込んでいた。
 「!!」
 思わず呻き声を漏らし、体を折る。そこへ、
 「…ふざけるな、はこっちのセリフだっつー、の!」
 “の”と同じタイミングで、右ストレートが、見事に晴紀の頬骨に入った。ああ、そういやあ俺、打たれる方のトレーニングは、つまんねぇからサボってたんだっけ―――路地裏のコンクリートの地面に無様に尻餅をついた瞬間、やっときゃ良かった、とほんの少し後悔した。
 勝負は、1分弱でついた。ゲホゲホとむせる晴紀だったが、奏は容赦がなかった。晴紀の息が整うのも待たず、その腕をぐい、と掴み、問答無用で歩き出した。
 「ちょ……っ、ま、待てよ」
 ずるずると、1メートルほども、引きずられる。まだ咳き込みながら、晴紀は、思いのほかの力で自分より大柄な晴紀を引っ張っていく奏を、やっとの思いで見上げた。
 「待てよ、って……っ! 悪かったよ、二度とあんたの彼女には手出ししねぇって!」
 既に5メートルは引きずられている。ザリザリと音を立てて地面を擦っていくジーンズを通じて、経験したことのない種類の嫌な熱と痛みを脚に感じた。それに、体勢が崩れたまま腕を引っ張られたせいで、今にも肩の筋がおかしくなりそうだ。どこに連れて行こうとしているのか知らないが、このままでは、遅かれ早かれ腕か脚が悲鳴を上げるだろう。
 「お…落ち着けよっ、ちゃんと謝ってるだろっ! 第一、俺たちは、女に指一本触れてないんだぜ!? それでここまでするとか、鬼だろっ!」
 どの言葉に反応したのか、奏の足が、ピタリと止まった。
 振り返った奏の顔は、晴紀の言葉どおり、まさに鬼の形相だった。自分の腕を掴む手の小刻みな震えを感じ取った晴紀は、怒りに震える、とはよくある表現だが、実物はこういう風なのか、と思った。
 「どこまでやったかが問題じゃねーんだよっ! お前、自分の彼女が同じ目に遭っても、同じこと言えるか!?」
 「彼女?」
 体のあちこちの痛みに顔を顰めながら、一応彼女と呼ばれている女を思い出す。肩で息をしながら、晴紀は投げやりに答えた。
 「ああ…カノジョ、ね。別に。ちょっとラリっただけで、特に何もなかったんなら、いいんじゃねぇ?」
 晴紀の言葉に、怒りの表情だった奏が、少し驚いたように眉をひそめた。
 「本気で言ってんのか、お前」
 「俺らは基本、お互い束縛しない自由主義だからな。べろべろに酔っ払って目が覚めたら名前わからねぇ奴とラブホだった、なんて話も笑いながら言ってくるし、俺もフツーに聞けるし。それと大差ないだろ? むしろ、寝なかった分まだマシだ」
 「マシ、って…自分の恋人だぞ? 大事じゃないのかよ」
 「ハ…、誰だって、一番大事なのは、自分だろ」
 皮肉めいた笑いが、口元に浮かぶ。が、切れた口の中が痛くて、笑った筈の顔はすぐに歪んだ。
 「みんな、簡単に“大事な恋人”だの“大事な家族”だの言うけどよ。それってホントに、そいつらを大事に思ってんのか? 俺には、そうは思えねぇ。そいつに何かあると、自分が困るから―――要するに、自分が大事だから、なんじゃねぇの?」
 「……」
 「俺は、自分以外、大事なもんなんてねぇよ。女を寝取られて怒る男だって、要するに、自分の所有物を他人に横取りされたのが許せないだけだろ? 俺なら、ちっぽけなプライドにしがみつくより、女を捨てるね。さっさと。捨てればどーでもいい人間だ。誰と寝ようが、廃人になろうが、俺には関係な―――…」
 そのセリフは、最後まで口にできなかった。
 奏に再び胸倉を掴まれた晴紀は、引きずり起こされるように立ち上がり、直後、電柱で背中をしたたか打った。見かけによらず力のある男だ。
 晴紀を電柱に押し付けた奏は、真正面から晴紀を見据え、せせら笑った。
 「へぇ…、自分以外、大事なものなんて、1つもないんだ。お前」
 「……」
 「リカから聞いたけど、確か、妹がいるんだよな」
 何故か、妹、という単語を聞いた瞬間、ギクリと背中が強張った。
 「だったら、今すぐ、その妹連れて来いよ。オレと咲夜が受けた精神的苦痛と身体的苦痛の分、お前じゃなく、その妹できっちり返してもらうよ」
 「!!」
 「ああ、別に、お前が立ち会う必要ないぜ? まあ、お前なら、目の前でズタボロにされても平気かもしれないけどな。オレもキレてるから、手加減忘れて顔の見分けつかなくなる位ボコボコにするかもしれないけど、別にいいよな? 痛いのも、廃人になるのも、お前じゃないんだから。自分以外がどうなったって、何も感じないんだろ? え!?」

 別に―――…。

 別に、どうなったって、いい。あんな奴。

 言いたい。言える筈だった。存在してても、何ひとつメリットのない妹―――むしろ、亜紀がいるせいで、晴紀は負い目や後悔といった、感じたくもないものを感じなくてはいけない。いっそ、目の前から消えてくれればいいのに、と思ったことも、一度や二度ではない。だから、別にどうなってもいい、と言えると思っていた。
 なのに―――声が、出ない。
 どうせ、本気でやる気などないことは、晴紀にだってわかっているのに……声が、出なかった。

 「…ホント、可哀想な奴だな、お前」
 大きく目を見開き、返す言葉も失っている晴紀を見て、奏は一瞬、哀れむような目を見せた。が、すぐに軽蔑しきった顔になり、晴紀を睨んだ。
 「誰のことも大切に思えない人間てのはな、そいつ自身、誰からも大切にされてない証拠なんだよ」
 「……」
 「気の毒に。お前が半殺しの目に遭っても、本気で胸を痛めてくれる人間がいないなんて」

 その瞬間、殺意に近い憎悪を覚えた。
 許せなかったのは、そして、それほどの憎悪を覚えても一言も言い返せなかったのは―――それが、晴紀が最も認めたくない「事実」だったからかもしれない。


 事の次第は、その日のうちに、リカに伝わってしまったようだった。
 あの後、この件にリカが関与しているかどうかを、しつこいほど確かめていた奏だから、遅かれ早かれリカにバレるだろうな、とは思っていた。が、リカの反応は、晴紀の想像外のものだった。
 「もう、あたしに、構わないで」
 ポロポロ泣きながら、リカはそう言い、もう晴紀たちのたまり場には来ない、と言い出した。
 「…あ…亜紀ちゃんが、あたしのサイン欲しいって言うなら、何枚でも、何十枚でも書く。晴紀にこれまで色々やらせたことのお礼を何かしろ、って言うなら、お金でも物でも何でもあげる。…あたしが“必要”なら、好きに使っていい。なんでも協力してあげる。だから―――お願い。もう、あたしに構わないで」
 女王様然と振舞っていたリカが、こんなことを言うなんて―――予想外。自分の了承を得ない行動に腹は立てても、結果的に自分の利益に繋がることなら、容認するものと思っていたのに。
 ―――多分、リカには、自分より大事な人が出来たんだろうな。
 自分の恋が実ることより、リカは、奏とその恋人の平安を選んだ。リカはもう、自分さえよければ他がどうなっても構わない人間ではないのだ。いや、もしかしたら…最初から、そうだったのかもしれない。本人が気づかなかっただけで。
 なんだよ、つまんねぇ―――そう思う一方で、晴紀は密かに、少しだけ……本当に、ほんの少しだけ、リカを羨ましく思った。


***


 その後は、特にこれといって事件のない日々が続いた。
 リカと約束したとおり、晴紀はもうリカの片想いを実らせるためにあれこれ画策するのはやめた。宣言どおり、リカは溜まり場に現れなくなったが、無理に誘い出そうともしなかったし、訝る仲間らに事情を説明することもしなかった。元々、リカ目当てで集まっていた連中は、自然と解体するような形となったが、晴紀もそれでいいと思った。晴紀の仲間は、何もリカの取り巻きだけに限らないのだから。
 亜紀も相変わらずだし、両親も相変わらずだ。そして晴紀も、相変わらず―――亜紀を励ます訳でもなく、かといって完全に無視する訳でもなく、ただ、亜紀が助けを必要としている時に、最低限の助けをしてやるだけだった。
 本当は、専門の医者に、ちゃんと診せなければならないのに。
 そうすべきだと、家族全員、頭ではわかっているのだと思う。けれど…そうすることで向き合わなければならない多くの面倒や苦悩を思うと、結局は1歩踏み出すことができない。そんなずるい部分は、両親も晴紀も同じなのかもしれない。


 ―――お、なんだこれ、リカが表紙やってんじゃん。
 日頃素通りするだけのコーナーで、たまたま見つけたそれは、建築関連の専門雑誌だった。既に11月だというのに、表紙には10月号と書かれていた。妙だな、と思ってよくよく見たら、小さく「偶数月発売」と書かれていた。隔月誌らしい。
 一瞬、本当にリカかどうか悩むほど、シンプルでナチュラルな写真だ。別にリカはゴシック・ロリータ専門という訳ではないが、これまでこういう種類の仕事をリカがしたのを見たことがない。何か心境の変化でもあったのだろうか。
 懐かしいな、という気持ちが湧いてくるのは、週に最低1度は会っていたリカと会わなくなって、1ヶ月以上経つからかもしれない。その懐かしさから、晴紀は雑誌を手に取った。
 最後に見たのがボロボロ泣く姿だったせいなのか、階段に腰掛けてぼんやりと佇むリカの姿は、やけに寂しそうに見えた。こういうリカを見たら、亜紀はどう思うだろうか? 変に感化されて落ち込まれると困るな、と思いつつも、晴紀は結局、その雑誌を手にレジへと向かった。
 「え、買うの?」
 一緒に本屋について来ていたカノジョが、意外そうな声を上げる。
 「ああ、まあな」
 「なんか、姫じゃないみたい、その写真…。そんなのでも買うんだ、晴紀って」
 「俺は別に興味ねぇけどよ。妹に買ってってやるんだよ」
 「えー、妹って、ホントにリカの熱狂的ファンなんだ」
 などと言っているが、彼女も一応、リカの取り巻きの1人だった女だ。しかし、改めて考えてみたら、彼女の部屋で、リカが出ている雑誌を見かけたことは一度もない。
 「お前は、リカが載ってる本、買ったりしねぇの?」
 晴紀が訊ねると、彼女は、とんでもない、とでも言いたげに顔を顰めた。
 「まさかぁ。アタシ、リカのファンてほどじゃないし」
 「でも、リカの取り巻きの奴らと、お前もつるんでたじゃん」
 「だって、リカの周りの連中って、遊び方知ってて付き合っててラクでしょ。それに、業界人と関係ある人もチラホラいて、何かとお徳だし」
 彼女は、これでも一応、グラビアアイドルの端くれだ。実績は限りなくゼロに近い新人だし、このレベルのグラマーはいくらでもいる。正直、大して将来性ないんじゃねぇの、と我が彼女ながら思ったりするのだが、本人の野心はそれなりにあるらしい。
 「あっ、でも、リカのことも好きは好きよ? けど、雑誌買うほどじゃ、ねぇ…。第一、女が女の写真見て喜ぶって、ちょっとアブノーマルっぽくて、ヤバくない?」
 「……」
 ―――それって、“亜紀がヤバい”って言ってるのと同じだって、気づいてんのか、こいつ。
 亜紀が普通とは言いがたい人間であることは事実だから、侮辱された、と怒ることもないのだが、亜紀のための雑誌を買っている最中にこのセリフは、いくらなんでもないだろう。賢い女だとは思っていなかったが、ここまでバカだとさすがに呆れる。
 本人は何の気なしに口にした言葉だろうが、晴紀の彼女に対する感情は、一気に冷えた。もっとも、元々冷えるほどの温度の感情があったかどうか、晴紀自身、疑問だが。
 「悪かったな、アブノーマルっぽくてヤバそうな妹持ってて」
 冷ややかに晴紀がそう言うと、彼女はハッとしたように苦笑を消し、俯いた。
 ごめんなさい、と彼女は謝ったが、冷めてしまったものが戻る筈もなかった。結局、この翌日、晴紀は1年近く付き合った彼女と別れた。

***

 鬱状態の亜紀には、ある一定の行動パターンがある。デスメタルを聴くのは初期段階で、その時期なら晴紀がかける言葉に返事位はする。が、部屋からは生理現象と風呂のため以外、出てこなくなる。デスメタルが始まると、毎日の3度の食事は部屋の前に置かれるようになり、お菓子の類は晴紀が気まぐれに買ってきては部屋にぽい、と投げ込むのが常だ。
 そして、一番酷い状態になると、1日中、ベッドから出てこなくなる。日がな一日、起きているとも寝ているともつかない状態で、だるそうに寝転がっている。なまけているのではなく、体が動けないほどだるくなるのだ、と何かの雑誌の体験談で読んだ。亜紀は純然たる鬱患者と診断された訳ではないが、多分、それに近い状態なのだろう。
 どういうきっかけで鬱に入り、どういうきっかけで持ち直すのか、晴紀にはさっぱりわからない。あれでも女性なので、体調変化と何か関係があるのかもしれないが、それを解明しようとするほど晴紀も熱心ではない。勿論、両親もそうだ。一旦、亜紀が鬱状態に入ると、家族はただ亜紀の気持ちが浮上するのを、ひたすら待つだけだった。

 晴紀が彼女と別れてから1週間ほど経った頃、亜紀は、その最悪の状態を脱し、躁鬱のサイクルで言えば“躁”状態に入った。
 便宜上“躁鬱”などと呼んでいるが、亜紀の“躁”状態は、一般的にイメージされる“躁”とはかなり違う。饒舌になることも、活発に外に出るようになることもない。ただ、気が向けば1階に下りてきて食事をし、夜中にこっそりとコンビニに行く位だ。

 「亜紀」
 朝、大学に行く前に亜紀の部屋を覗いてみると、亜紀は、ゴスロリ専門誌の通販で手に入れたばかりのヒラヒラの服を、ベッドの上に広げていた。
 家から滅多に出ない亜紀だが、小遣いは同年代の相場程度もらっている。その小遣いがある程度貯まると、通販を使って人形やオカルトテイストのグッズ、それにリカが雑誌上で着ているようなゴスロリテイストの服を購入するのだ。勿論、自分に似合わないことは百も承知だ。だから、服を購入する目的は飽くまで「観賞用」らしい。
 「マリスミゼルのアルバム、お前んとこだろ。貸せよ」
 「どれ?」
 「最後のやつ」
 晴紀が言うと、亜紀はカラーボックスの中から1枚のCDを抜き出して晴紀に差し出した。
 「あの、お兄ちゃんがこの前買ってきた、リカちゃんが表紙の雑誌だけど―――あれって、今月も、リカちゃんが表紙をやるの?」
 例の建築業界の雑誌のことらしい。買ってきて以来、あの雑誌の話が出たのは、今日が初めてだ。精神状態が少し安定したことで、ダウナー期間に停滞したままだったものが、やっと動き始めたのだろう。
 「さあな。あの雑誌見つけてから、リカとまだ連絡取ってないし」
 「ふぅん…」
 「コンビニじゃ売ってない本だから、本屋で見つけたら、チェックしとくわ」
 「うん。あ、今月の“EL-EL”と“ドールガール”は、あたしが買う」
 「そか。行けそうか?」
 「…今日は…わかんない。でも、大丈夫」
 元々、細々した雑貨やお菓子を買うのが好きだったし、目的の本以外の雑誌なども立ち読みできるので、コンビニに行くこと自体は嫌いではないのだ。気力と体調さえ整えば、亜紀は自発的に買い物に行く。勿論、明るい昼間ではなく、夜に限られるが。
 亜紀の調子が幾分良さそうであることに少し安堵しながら1階に下りると、父がちょうど出勤しようとしているところだった。父の鞄を持って見送りに出ていた母が、晴紀が下りてきたのに気づき、少し心配そうに眉をひそめた。
 「今、亜紀の声がしてたみたいだけど…」
 「ああ、起きて、コレクションの整理してたぜ」
 途端、母の顔が、ホッとしたような微笑に変わった。
 「そう。よかったわ。朝ご飯に下りてこなかったから、今日も具合が悪いかと…」
 「本買いに行くっつってるから、大丈夫なんじゃない」
 「買い物?」
 晴紀の言葉に、靴を履き終えた父が、振り返り、渋い顔をした。
 「まさか、昼間出歩くんじゃないだろうな。お前、注意して見ておくんだぞ」
 お前、とは母のことだ。ハイ、と小声で答えた母は、しずしずと鞄を父に差し出しつつ、それでも申し訳程度に付け足した。
 「…でも、あなた。完全に引きこもりのお子さんに比べたら、外出する気があって、晴紀とだけでも口をきくだけ、亜紀はずっとマシなんですから…」
 最近は、この位の控え目な反論なら、母もするようになったのだ。父は、ちょっと気まずそうな顔になると、鞄を受け取りながら軽く咳払いをした。
 「まあ、確かにそうだ。しかし、平日の昼間から学校にも行かずに何をしてるんだ、と妙な噂でもたてられたら、辛い思いするのはあの子なんだからな」
 父のもっともらしい言い草に、嘘つきやがれ、と、心の中で吐き捨てる。が、出勤前にもめると面倒なので、実際に口には出さずにおいた。
 そのまま、父は出勤し、玄関には母と晴紀だけが残された。大きく息をついた母は、晴紀を見上げ、弱々しい笑みを返した。
 「お兄ちゃんがいてくれて、本当に良かったわ」
 「……」
 「大学やバイトで大変だろうけど…これからも亜紀のこと、気に掛けてやってね。あの子が頼りにしてるのは、お兄ちゃんだけだから」
 「…わかってる」
 少なくとも晴紀自身は、亜紀に頼られているとは思っていない。でも、母の目にはそのように映っているのだろうから、わざわざ訂正することもないだろう。下手なことを言うより、わかった、とだけ言っておいた方が得策だと、晴紀はいつものように思った。
 何故なら、両親は、晴紀が持つ裏の顔を―――亜紀をいじめていた事実も、合法とは言い難い商売に手を出したことも、全く知らないのだから。


 最近になって、父について、改めてわかったことがある。
 晴紀が留年した分の学費を返した時、父は、それほどの大金を学生である晴紀がどうやって手に入れたのか、一切問い質そうとはしなかった。晴紀が頻繁に家に帰らず、散々夜遊びを続けていても、それを咎めることもしない。あれほど口うるさかったのに、中学を卒業した頃からは、晴紀の生活にほとんど口出しをしなくなった。
 別に、改心した訳ではない。父の価値観は、今も昔も同じだ。ただ、晴紀が思い通りに操縦できなくなった分、重視する部分が変わっただけ―――「プロセス」から「結果」にシフトしただけだ。
 晴紀がどんな手段を用いていようと、それに伴う悪い噂が表に出たりしなければ、問題にはしない。「うちの息子は自力で学費を稼いだんですよ」などと職場で自慢できるという「実」を取る。下手をすると、たとえ法を犯していようとも、自分が知らなければ、そして表沙汰になりさえしなければ、問題ないと思っている節さえある。
 父は、晴紀の善良さを信じてはいないだろう。けれど、晴紀の狡猾さと隙のなさは、ある程度理解している。だから、周囲の晴紀に対する評価が、自分がなりたいと思っていた「頼れる親分肌の男」であることに、大変満足しているので、その裏の顔がどうであっても、表面上そう見えているなら問題ないと考えている。その一方で、大学を4年間で卒業できない、22歳で就職できない、という、世間的に誤魔化しようのない失態については、いつまでも晴紀を責めるのだ。
 亜紀についても、同じこと―――亜紀がクラスメイトから凄惨ないじめを受けた、というプロセス部分はどうでもよく、心を病んで不登校となり、半引きこもり状態でいる、という結果の方が重要なのだ。だから、娘が受けた理不尽な暴力を世間に訴えて正義を貫くことより、社会不適応状態にある娘を世間に知られないように隠すという「実」を取る。亜紀が半端に外出をして人目につくよりは、いっそ完全な引きこもり状態になってくれた方が助かる、とさえ思っているのかもしれない。

 『誰のことも大切に思えない人間てのはな、そいつ自身、誰からも大切にされてない証拠なんだよ』

 ―――ああ。あんたの言うとおりだよ。ムカつくことに。
 父が大事なのは、“自分”だけだ。そのことが、嫌になるほど、よくわかった。母だって、父に逆らってまで晴紀や亜紀を庇おうとはしない。父が世間の目を気にしているように、母もまた父の目を気にしているのだ。
 祖父に育てられた父がああいう人間になったように、自分のことしか考えていない男に育てられた自分は、自分だけが可愛い人間になったのだろう。それに、誰かを大事にしたいとも思わないし、大事にできないことで被るデメリットも特に思い浮かばない。
 ただ…何故だろう? あの日、奏の言葉を聞いてからというもの、ちょっとしたことが胸に突き刺さる。
 亜紀はあなたを頼りに思っているから、という、母のあの言葉も―――微かな罪悪感を伴って、晴紀の胸に突き刺さっていた。

***

 それから数日後。

 『ユウジと付き合うことにしたから』
 元カノからの電話だった。いきなりの電話に、いきなりの宣言。地元の駅の改札を抜けたところで電話を取った晴紀は、その唐突な内容に唖然としてしまい、思わず足を止めて後ろから来たほかの乗客たち数人の通行を大いに妨げる結果となった。
 「ユウジ、って、あのユウジか」
 『そう、あのユウジ』
 ユウジは、晴紀の遊び仲間の1人だ。行きつけの店に行けば、かなりの確率でユウジもいることが多い。勿論、元カノとも以前からの知り合いだ。
 「ふうん。そうか」
 『…それだけ?』
 「は?」
 『……』
 「何だよ」
 『…ううん。じゃあ、そういうことだから。バイバイ』
 唐突にかかってきた電話は、唐突に切れた。
 「…ンだよ、まったく…」
 なんか気乗りしなくなった、の一言で一方的に別れを宣言されたのが、そんなに面白くなかったのだろうか。別れた男のことを、いつまでも後に引くようなタイプではない筈なのだが―――何にせよ、意味不明な電話は迷惑だ。ムッとしたように眉を顰めた晴紀は、閉じた携帯をやや乱暴にジーンズのポケットに押し込んだ。
 ―――そういやぁあいつ、男が切れたためしがないんだよな。常に決まった男がいないと不安でしょうがないとか言ってたな。恋愛体質ってやつか? 彼氏キープしても他とも遊ぶのに、変な話だよ、まったく。
 まあ、別れてから2週間近くはシングルで過ごした計算になるので、彼女にしては間が空いた方かもしれない。きっと12月が近くなってクリスマス用の男が欲しくなったんだな、と察した晴紀は、なんだかユウジが利用されているような気がして、余計不愉快さを覚えた。

 今日はこのまま家に直帰するつもりだったが、ふと、煙草を切らしていることを思い出した。ついでに飲み物も買うか、と考えた晴紀は、途中にあるコンビニに寄ることにした。
 ―――あ、そういやあ、亜紀の奴、雑誌買ったかな。
 発売日は過ぎている筈だ。今朝、チラリと見た亜紀の部屋の中に、新刊らしき雑誌があったかどうかを思い出そうとしながら、晴紀はコンビニのドアに手をかけた。
 が、そこで、見慣れた人物の姿を店内に見つけてしまい、晴紀の頭の中から、亜紀の部屋の再現画像は、一瞬で消えた。
 「あ……」
 亜紀、と声に出して呼びそうになった。
 中高生が着るような紺色のダッフルコートを着込んだ亜紀が、雑誌を2冊抱えて、雑誌コーナーの片隅に立っていたのだ。
 いや、それだけなら、すぐに声をかけただろう。でも、亜紀は、ただの買い物途中という様子ではなかった。青白い顔をして俯き、肩を微かに震わせていたのだ。
 亜紀が何に怯えているのか、それは、一目でわかった。何故なら―――亜紀の目の前に、亜紀と同じ年頃らしき女が2人、レジに向かう亜紀の行く手を阻むかのように立っていたから。
 「沢村さんでもファッション雑誌なんて買うんだぁ。意外ー」
 「だよねー。そんなの買ってどうする訳ぇ? 似合う服とかないでしょ」
 沢村さん、と言っているのだから、多分、小学校か中学校の同級生か何かなのだろう。亜紀にしては早めの時間に買い物に出てしまったせいで、普段なら会うこともないかつてのクラスメイトと鉢合わせになってしまったらしい。たまたま他に立ち読み客もいないので、亜紀をからかっても咎められることはないだろう、と図に乗っているようだ。
 「うわ、そっちの本って、それ、オタク向けの本じゃん。何そのヒラヒラ」
 「やだぁ、きもーい。まさか、そういう服着て1人で妄想に浸っちゃったりとかする訳?」
 「ちょっとぉ、やめてよ、それって変態じゃん」
 あははははは、という笑い声が、離れた場所にいる晴紀の耳にまで届く。が、嘲笑を浴びせられている亜紀は、一言も言い返せず、震えながら黙りこくるばかりだ。
 その姿が、あの日、クラスメイトに責めたてられても黙りこくっていた10歳の亜紀の姿と重なって見えて―――晴紀の中で、再び、何かがプチンと音を立てて切れた。
 「亜紀!」
 晴紀の大きな声に、亜紀を嘲笑していた2人が、びくっ、と驚いたように晴紀の方を見た。
 固まっていた亜紀も、顔を上げ、晴紀の姿を見つけると、少し驚いたように目を見開いた。ズカズカと3人に歩み寄った晴紀は、トン、と亜紀の肩を叩き、「寄越せ」と手を差し出した。
 亜紀がおずおずと差し出したのは、案の定、リカの写真が載っている雑誌2冊の今月号だった。オタク向け・変態と言っていたのは、そのうちのゴスロリ専門誌のことだろう。
 ―――そりゃ、こういうファッションが好きじゃない奴には、理解不能のおかしな趣味にしか見えねぇだろうさ。俺が、貴様のその“金色のハローキティーのフィギュア”が理解不能なのとおんなじでな。
 女の片方のバッグにぶら下がっているキティちゃんをデザインした飾りを一瞥し、フン、と鼻で笑う。亜紀の右手首を掴んだ晴紀は、突然割り込んできた男に目を丸くしている女2人を、ギロリと睨んだ。
 何かが切れた、といえども、晴紀ももう小6のガキではない。自宅近所のコンビニでいじめっ子を突き飛ばすような真似は、さすがにする気はなかった。が、大人しく引っ込む気もない。
 「…お前らだって失敗した福笑いみたいな顔してんのに、人の妹をよくバカにできるな」
 「ふ―――…」
 福笑い、という表現がお気に召さないのか、女たちの目が2倍の大きさまで見開かれる。その、いびつに歪んだ顔が本当に福笑いの出来損ないに見えて、晴紀は思わず大笑いしそうになった。
 「底辺同士でイジメやってんじゃねーよ、ブス。ああ、お前らは、顔だけじゃなく性格もブスみたいだから、二度と俺が出入りする店に顔出すんじゃねぇぞ。顔がブスなのはまだ耐えられるけど、性格ブスは、同じ空気吸うだけで公害だから」
 女2人の目だけじゃなく口も開いたところで、晴紀は亜紀の手をぐい、と引き、レジへと向かった。
 幸い、店員には晴紀の暴言が聞こえていなかったらしく、店員の対応は極々普通なものだった。「ありがとうございましたー」という声に送られて、晴紀は再び亜紀の手を引っ張るようにして、コンビニを後にした。

 暫くは、無言のまま、歩いた。
 夜道を照らす街灯が、アスファルトに2人の影を作る。晴紀に引っ張られながら、前のめりの姿勢で小走りについて来る亜紀の影は、あの時みたいに、晴紀の横に不安定に揺れていた。そう―――あれからもう10年の月日が流れているというのに、亜紀は、あの時と何ひとつ変わっていないのだ。
 「…誰なんだ? あいつら」
 ほんの少し、歩くスピードを落として、振り返らずに訊ねる。すると、か細い声で、辛うじて返ってきた。
 「……中学の…同級生」
 「お前の教科書に落書きしてた奴らか」
 チラリと目を背後に向けると、亜紀は俯いたまま、申し訳程度に小さく頷いた。と同時に、泣くのを堪えてでもいるのか、亜紀の肩が先ほどとは違う意味で震え始めた。
 「泣くな」
 「…………っ、く……、」

 …イライラする。
 バカにされても、理不尽なことを言われても、反論もせず泣くことしかできない亜紀に、10歳から少しも進歩しない亜紀に、イライラする。そんな亜紀がいじめられたからといって、あの連中に仕返しせずにはいられないほど怒りを覚える自分にも、イライラする。
 もし自分があいつらと同じ立場なら、いじめないにせよ、やっぱり亜紀をバカにはしていただろう。頭が悪い、顔が悪い、鈍くてトロい、と揃っていて、その上反論するだけの根性もないのだから、バカにされるのも当然だ、と、今の立場でも思う。
 なのに、晴紀は、そんな亜紀のために、いじめっ子に対して吐きたくもない暴言を吐かざるを得ない。
 実の妹だから、というだけで―――同じ親から生まれたという、晴紀にはどうすることもできない事情のせいで、本来なら気にも留めないであろう亜紀のような人間のために、何かある度に一喜一憂しなければならないのだ。
 何故? どうして、妹だというだけで、無視できない?
 イライラする。腹が立つ。悔しくて、悔しくて、涙が滲んできた。

 「あんな奴らのために、泣いたりするなっ!」
 堪らず、晴紀は足を止め、亜紀を振り返って怒鳴った。
 「お前があいつらに何をしたよ!? 何もしてねーだろ!? 酷い目に遭ってんのはお前の方なのに、何でお前が申し訳なさそうに小さくなってんだよ!?」
 「……っ……」
 「言っただろ!? お前が何も言わないから、相手も図に乗るんだ、って! 言い返せよ! 何もしてないんだったら堂々としてろよ! いつまでもそんな風だったら、復学できてもまたすぐいじめられるぞ! それとも、このままずーっと閉じこもってる気か!? え!?」
 亜紀を責めても、しょうがないのに。
 亜紀は、病気なのに。怪我をした傷口から流れ出す血が、まだ止まっていないのに。立ち上がる力もまだ出せない亜紀に、無理矢理立てと言う方が間違っているのに。
 わからない―――間違っていると知りながら、何故こんなことを言わずにいられないのか、わからない。ただ、悔しくて、悲しかった。亜紀がこんな目に遭うのが。そして、そんな亜紀を見て、自分がこんな思いをしなければいけないのが。

 亜紀は、晴紀に繋がれていない方の左手で、目元を何度も拭いながら、泣き続けていた。声を殺して、しくしくと、いつまでも泣いていた。
 コンビニを出た直後の怒りがある程度治まってくると、さすがに、心を病んでいる亜紀を頭ごなしに怒鳴ってしまったことに対する罪悪感が、首をもたげてきた。自らを落ち着かせようと大きく息を吐き出した晴紀は、亜紀を促すように、痩せ細った手首を軽く引いた。
 「…帰るぞ」
 「……」
 「また、ああいうのに会うかもしれねぇから、あんまり早く買い物に出るなよ。嫌な思いすんのは、亜紀なんだから」
 晴紀の言葉に、亜紀は蚊の鳴くような小さな声で「うん」と短く答えたのだが、当の晴紀は、自分のセリフが先日父が言ったのと全く同じだったことに気づき、密かに落ち込んだ。
 ―――亜紀を復学させたいなら、人の出入りのまだ多い時間に、こうして外出できたことを、喜んでやるべきなのに。
 結局、自分も両親と同じなのか。
 言い返せ、などと言いながら、結局は、危険から逃げ回ることしか亜紀にさせられないのだろうか…。

***

 その日の真夜中のことだった。

 「…お兄ちゃん」
 トントン、とドアがノックされ、外から、亜紀の掠れた声が聞こえてきた。
 ドアを開けると、陰鬱な表情をした亜紀が、まるで幽霊のように立っていた。そして、晴紀の目を見ることなく、ポツリと言った。
 「眠れなく、って…。あの…お薬、もらっていい?」
 ちょっと待ってろ、と言い、机の引き出しの中を確認してみると、いつも渡している軽めの薬は切らしていたが、効き目の強い方の薬が2錠残っていた。晴紀が1錠渡すと、亜紀は「ありがとう」と言って、一度も目を合わせずに自分の部屋に戻っていった。
 ―――やばいな。スイッチ入ってるかも。
 亜紀が睡眠薬を必要とするのは、そう珍しいことではない。鬱期の酷い時は特に頻繁だが、普段でもよく「眠れない」と言う。だから、睡眠薬が欲しいと言って来たこと自体は、問題ない。
 問題なのは、目―――逸らされるでもなく、かといって合わせられる訳でもなく、晴紀を通り越したどこかを見るともなく見ていた、あの目だ。鬱状態に入ると、亜紀はいつも、ああいう目をする。鬱状態を脱してからあまり日が経っていないが、今日のあの出来事のせいで、亜紀の中のスイッチが入ってしまったのかもしれない。
 ―――やっぱり、専門家に診せた方がいいんじゃねぇかなぁ…。
 今日の亜紀を見て、改めて、素人にできることには限界があると実感した。
 事が睡眠薬だけで済むのなら、確かに、今のままでもやっていけるかもしれない。
 他の連中とやり取りする怪しいドラッグとは違い、亜紀のための睡眠薬は、医学部の友人の紹介で、某国の医療関係者から直接薬を分けてもらっている。いわゆる個人輸入だ。その友人からのアドバイスで、普段は軽い効き目のものを渡し、効かないようならきつい薬に切り替える、といった細やかなケアまでしている。どこで手に入れた薬か、という違いはあるが、医者にかかろうがかかるまいが、やるべきことは同じだろう。
 だが―――そうしたケアをしているからこそ、逆に、これがベストではないことも、本当はわかっている。薬だって、今入手しているものがベストとは限らない。亜紀の鬱状態が薬の影響である可能性だって否定はしきれない。やはり、素人判断でこのまま続けていくのは、危険だろう。
 「…けど、なぁ…」
 問題は、両親と、亜紀本人だ。
 初めの頃は説得していた母も、亜紀が激しく抵抗したのと父が乗り気ではなかったことで、「亜紀の嫌がることはしないようにしましょう」とすっかり消極的だが―――そして晴紀も、外出そのものが難しい亜紀に通院を強いるのもどうなんだろう、と思う部分があり、あまり強く主張しなかったのだが―――やはり、このまま家に閉じこもっていても、病状が好転するとは思い難い。両親は、気持ちが落ち着けばいつかは、などと思っているようだが、今日のあの様子を見れば、それが甘い考えであることはすぐわかる。むしろ、世間から隔離された時期が長引けば長引くほど、戻るのが困難になるのではないだろうか。
 保身に回っている部分があるのは否めないが、少なくとも母は、本心から亜紀の身を心配しているだろう。せめて母には、今日あったことを話すべきなのかもしれない。
 とはいえ、既に午前1時…両親とも、とうに夢の中だ。とりあえず、一晩ぐっすり眠らせて、明日の様子を見てからだな―――そう考えつつ、晴紀は、読みかけで放り出していた音楽雑誌を再び手に取った。


 そして、翌朝。
 いつもより早く目が覚めたのは、何かの予兆だったのかもしれない。
 「亜紀?」
 ドアをノックして、様子を窺う。
 まだ、亜紀が起き出してくるような時間ではない。当然、返事はなかった。晴紀は、あまり音をたてないよう、そっと亜紀の部屋のドアを開けた。
 そして―――目の前の異様な光景に、一瞬、頭の中が真っ白になった。

 亜紀は、確かに、ベッドに横たわり、眠っていた。深く、深く。ベッドサイドのライトが点いていたので、その様子は、まだ暗い夜明け前の部屋でもはっきり見てとれた。
 眠っている筈の亜紀は、何故か、ヘッドフォンをしていた。ヘッドフォンが繋がる先には、CDコンポ。リピート再生を示すマークが、オレンジ色の光を放っている。今も何かを再生中のようだ。
 そして、CDコンポとベッドの間には、本、雑誌、CD、人形、ぬいぐるみ、洋服―――あらゆるものが乱雑にばら撒かれ、それらの上に、何やら銀色に光る物体が複数、点々と散らばっていた。
 ―――な…何だ…?
 1歩、部屋に足を踏み入れ、その物体の正体を見極めようと目を凝らす。
 四角くて、銀色で、平たくて……それは、晴紀もよく知っているものだった。錠剤のPTP包装の、残骸―――そう、睡眠薬の残骸だ。
 1錠ずつ切り分けて渡していた睡眠薬。その銀色の残骸が、尋常ではない数、ばら撒かれている。
 その意味するところは―――…。
 「……っ!!」
 慌てて晴紀は、亜紀のもとに駆け寄り、その口元に耳を近づけた。微かに感じる、息づかい―――けれど、弱い。ヘッドフォンから微かに漏れるデスメタルの音にさえ掻き消されそうだ。
 「亜紀! おい、亜紀っ!!」
 必死に亜紀の体を揺さぶる。が、反応はない。
 暴走し始める晴紀の心臓を嘲笑うかのように、亜紀の耳から外れたヘッドフォンから、死神を題材にした激しいメタルロックが流れていた。

***

 両親を叩き起こし、すぐに救急車が呼ばれ、亜紀は最寄の病院に運ばれた。
 「あの、近くまで来たら、サイレンは消して下さい。まだ朝早いので、ご近所の迷惑になりますから」
 晴紀から受話器を取り上げてまで父が119番に伝えたのは、そんなことだった。勿論、父が心配しているのは近所迷惑などではないだろう。思わずその場で殴り倒してやりたくなったが、辛うじて抑えた。

 病院に運ばれた亜紀には、即座に胃洗浄が行われた。が、血圧・心拍数共に正常値に回復しないことから、一旦ICUに入れられてしまった。
 その一方、残された家族については、当然、医師から事情を訊かれることになった。
 母は、始終泣いていて、医師の言葉も耳に入っていない様子だった。体格は正反対だが、ハンカチを握り締めて泣くその姿は、何故かやけに亜紀と重なって見える。母と亜紀を似ているなどと感じたのは、これが初めてかもしれない。
 父は、始終不機嫌で、妙にソワソワしていた。娘が生死の境を彷徨っているのだから、と考えれば当然なのかもしれないが、晴紀には到底、その姿は娘の身を案ずる親には見えなかった。
 そうした両親の空気を、医師もある程度読んでいたのだろうか。本来なら親にまず質問するだろうに、医師は何故か、事の経緯について晴紀に訊ねてきた。
 適当に誤魔化せ、とでもいうように、父の目がちらちらと何度もこちらを見るが、専門家を相手に誤魔化すなど不可能だ。晴紀は、亜紀がいじめに遭い対人恐怖症や睡眠障害に陥ってしまった経緯を説明し、ベッドの下にばら撒かれていた睡眠薬の残骸全てを医師に見せた。
 「結構な量ですね…。こちらの薬は問題ないですが、こちらは……小柄な方ですし、体重も軽そうですから、もしかしたらギリギリの量かもしれません」
 2種類あるうちの効き目の強い方の残骸をつまみ上げ、医師は渋い顔をした。
 「どちらの病院にかかってらしたんですか?」
 「…いえ。俺が、個人輸入で…」
 言い難そうに晴紀が答えると、当然ながら、医師は厳しい目を晴紀に向けた。
 「何故そんなことを? 個人輸入では、危険な物も多いんですよ?」
 「…知ってます。だから一応、医学部の奴の紹介受けて、高くても信頼できるとこに…」
 「それでもですよ。この2つなら、病院でちゃんと処方される薬なんですから、医師に処方箋を出してもらうべきでしょう」
 「……」
 どう答えろというのだ。内心舌打ちしながら、父を睨んだ。
 個人輸入の話など、両親からすれば寝耳に水だろう。父のことだから勝手な真似をした晴紀に怒りを覚えているに違いない。案の定、晴紀の鋭い目に、父は怯まず、不快感をあらわにした視線を返してきた。
 ―――テメーに、俺を責める資格があんのかよ? 亜紀を家に閉じ込めておきながら、亜紀が不眠症でどんなに苦しんでたか知ろうともしなかった癖に。
 晴紀の視線に気づき、医師の目も父に向けられた。途端、父の顔に、気まずさと焦りが混じったようなものが浮かんだ。
 「何か、通院させられない事情でもおありですか」
 「い、いや、その……医者に診せなければとは思っていたんですが、何分、娘自身が酷く嫌がりまして…。無理強いをして余計なプレッシャーを与えるよりは、暫くは本人の好きなようにさせた方がいいかと…」
 あんたは亜紀が病院は嫌だって泣いてるとこすら見てないだろ、とバラしてやりたい衝動に駆られる。が、晴紀がキレるより早く、看護士が医師を呼びに来た。
 「まあ、今後の治療方針は後で考えるとして―――ともかく、今は娘さんの容態の回復に全力を注ぎます。緊急処置は上手くいきましたが、血圧と脈拍が安定してこないことには…。危険は脱したと判断できた時点でお呼びしますので、それまでは、ご家族は控え室でお待ち下さい」


 患者たちが起き出してくる時間なのか、3人が控え室に移動して間もなく、辺りが次第に賑やかになってきた。
 お互い言葉を発しないまま、10分経ち、20分経ち、30分経った。すると、ずっとソワソワと落ち着かない様子だった父が立ち上がり、脱いでいたコートを突如羽織った。
 「どこ行くんだよ」
 驚いて晴紀が言うと、父はきっちりコートの前ボタンを留めつつ、焦ったような声で返した。
 「仕事に決まってるだろうが。家に帰って着替える時間を考えたら、もう出ないと間に合わん」
 「な……っ、おい! 亜紀はまだ目も覚ましてないんだぞ!?」
 「目が覚めるのを待っていたら、完全に遅刻だ。後はお前たちがいるから大丈夫だろう」
 「そういう意味じゃねぇよっ!」
 思わず立ち上がり、父の腕を掴んだ。ギョッとしたように振り返る父のその表情は、本気で晴紀が何を問題にしているのかさっぱり理解していない顔だった。
 「亜紀はただ気絶してんじゃねーんだよ。下手すりゃ死ぬんだよっ! 仕事なんか行ってる場合かよ、え!?」
 「よ、よしなさい、晴紀! こここんな、人が大勢いるところで、死ぬ、だなんて、」
 「テメーの娘だろうがっ!」
 もう我慢ならなかった。晴紀は父のコートの前襟を掴み、自分より15センチは小さい父の体をガクガク揺さぶった。
 「今死にかけてんのは、あんたの! 血の繋がった! 実の娘だろうがよっ! その娘が、あんたが仕事行ってる間に死ぬかもしれないんだぞ、それでもいいのかよっ!!」
 「は、晴紀、落ち着…」
 「うるせぇっ! 大体、あんたが亜紀の何を知ってるよ!? 精神科と心療内科の区別もつかねぇ癖に、“うちの娘がキチガイだなんて噂されたらまずい”なんて大騒ぎしやがって…! 第一、キチガイってのは、今の時代じゃ放送禁止用語になるような差別用語なんだよっ! そんな言葉を自分の娘に対して平気で使うような奴の頭の方が、亜紀の足りねぇ頭よりよっぽどおかしいだろ!? テメーの頭は戦時中で止まってんのか!? あぁ!?」
 「お、お兄ちゃん、やめて…」
 まだハンカチを握り締めたままの母が、オロオロと晴紀に取りすがる。が、これまで抑えてきたものが一気に爆発した状態の晴紀が、その位で止まれる訳がなかった。
 「亜紀が連続何日眠れなかったか、あんたは知らないだろ。3日だよ。3日3晩、一睡もできなくて、部屋から這い出してきて俺に言ったんだよ、“助けて”って…! 引きこもってんのをいいことに、あんた、2階に来ることすら滅多にないよな!? 退学は世間体が悪いから休学にしてる癖に、亜紀が復学できるようにする努力、何かしたか!? あんたがしたのは、出来の悪い外聞の悪い娘を家に閉じ込めて、世間から隠すことだけだろうがっ! 違うか!?」
 「…お…お前、親に向かって…」
 「親!? “親”なんてどこにいるよ!?」
 父の顔が、初めて引きつった。
 「娘をこんな目に遭わせる奴の、どこが親だよ!? 世間体のために娘を軟禁する親なんてアリかよっ!? この状況で、なんで体裁だの仕事だのを考えられるんだよ!? 娘が死にかけてるっていうのに―――あんた、亜紀が大事じゃないのかよっ!!」

 “大事”。
 感情のままぶつけたその言葉に気づいて、晴紀は、本能に限りなく近い部分で、理解した。


 ―――…そうか。
 俺は、亜紀が、大事なんだ。

 ブスで、バカで、トロくて、鈍くて。他人なら、俺もバカにしてた筈の人間。たとえいじめられていても、他人なら、多分無視してた筈の人間。
 なのに、俺は、亜紀をいじめる奴が、許せなかった。亜紀を助けようとした。
 それは、亜紀が、大事だから―――大事なものが傷つけられるのが、我慢ならなかったんだ。
 理屈じゃない。あえて言うなら…「妹だから」。そんなの理由にならないと思ってたけど、他に説明のしようがない。悔しかろうが、もっと可愛い妹の方が良かったと思おうが、俺は、亜紀が血を分けた妹だっていうだけで、亜紀が大事なんだ。

 大事だからこそ―――亜紀が死ぬことを考えて、涙が、出てくるんだ。


 自分が泣いていたことに晴紀が気づいたのは、間もなくやってきた看護士が、亜紀が最悪の危機を脱したと伝えてからだった。
 晴紀の涙に気圧されたのか、それとも、何事か、と向けられるたくさんの入院患者らの視線に負けたのか、父はその日、初めて仕事を遅刻した。だが、遅刻理由が「娘が肺炎で緊急入院したから」だったらしいと知り、もうこの男に何かを期待するのはよそう、と晴紀は思った。
 別に、父のことなど、もうどうでもよかった。
 妹だ、というだけで、亜紀を無視することのできない自分にずっと苛立っていたけれど―――亜紀のことを、大切な存在だと思える自分に、晴紀は何故か、安堵のようなものを覚えていた。

***

 亜紀は、一命を取り留めた。
 1週間ほどの入院の後、退院。晴紀は勿論、もう父の承諾など得る気もなく、すぐに亜紀を専門医のところへ連れて行こうと考えていた。が…、それは、思いのほか難しいことだった。
 自殺未遂以降、亜紀はまだ、一度も言葉を発していない。医師の問いかけにも、母の言葉にも、そして晴紀の呼びかけにも応えず、じっと自分の殻の中に閉じこもったままだ。
 はっきりとした意思表示を見せるのは、外に出ることを促した時だけ―――きっと、過去につけられた傷と、この前再びつけられた傷が、外に出ることを考えただけでズキズキと疼くのだろう。ベッドにしがみつき、激しく首を振りながら、悲鳴のような甲高い声で「いや」を繰り返す亜紀を見てしまっては、晴紀も母も、暫くは通院は無理と判断するしかなかった。
 不眠症は相変わらずで、入院中に出された薬は、退院後数日でなくなった。通院は無理、両親だけならまだしも医師にもバレている以上、個人輸入をまたやる気にはなれない。誰かいれば少しは安心するだろうと考え、晴紀は亜紀が寝つくまで付き添うのが日課になった。かつては、自分が安眠妨害されるのに辟易して、亜紀の睡眠障害をなんとかしようとしたのだが、今回はただ純粋に、亜紀を少しでも眠らせてやりたかった。
 父のことは、もう見限った。父の顔色を窺いながら生きるよう飼い慣らされてしまった母では、亜紀を助けたくても限界があるだろう。
 ―――俺が、何とかしないと。
 罪悪感からではなく、そう思った。
 だが、晴紀自身は気づいていないが、晴紀は元から、親分肌で面倒見のいいタイプなのだ。だからこそ仲間たちの中でボスとみなされ、頼られている。大して思い入れのない仲間に対しても自然と面倒を見てしまっているような晴紀が、こいつを救うのは俺しかいない、と思ってしまったのだから大変だ。大学にも行き、バイトもこなし、仲間の相談事にも乗り、その上睡眠時間を削ってせっせと亜紀の面倒を見続けた結果、今度は晴紀自身が健康を損なった。
 クリスマスも過ぎ、新年を迎えて間もなく、ついに晴紀はダウンしてしまった。


 ―――だりぃ…。喉、渇いた。
 水を飲みに行く気力もなく、ぐったりと自室のベッドに横たわっていると、ふいに、ドアがゆっくりと開いた。
 なんとか首を回し、ドアの方に目を向けると―――そこに、亜紀が、立っていた。
 亜紀が部屋から出てくるとは、珍しい。もしかしたら、風呂やトイレを除いては、自殺未遂後、これが初めてではないだろうか。
 「……どうした? 眠れねぇのか?」
 亜紀は、その問いに答えず、酷く遠慮がちに晴紀の方に歩み寄った。そして、晴紀のベッドの傍らの床に、ぺたん、と座り込んだ。
 そのまま、暫しじっと、晴紀の顔を見ていた亜紀だったが―――やがて、その目に、涙が浮かんできた。
 「…お…兄ちゃん…」
 「―――…」
 亜紀が、口を、きいた。
 驚きに目を丸くする晴紀の傍らで、亜紀はボロボロと泣き始めた。
 「ご…ごめ…っ、あ、あたしのせいで、お兄ちゃんが…っ」
 「…亜紀…?」
 「あたしが、甘えてばっかり、いるから…」
 どうやら、母から晴紀が倒れたことを知らされ、自分のせいだと思っているらしい。間違いではないが、倒れたのは晴紀の自己管理ミスだ。お前のせいじゃない、と言おうとしたが―――何故か、晴紀の口からは、別の言葉が出ていた。
 「…お前さ。なんで俺のこと、頼れたんだよ」
 「……?」
 「ガキの頃、ボコボコに殴ったの、覚えてんだろ。随分長い間、お前に酷いことしてきたんだから、俺のこと、怖かった筈なのに―――なんで、親父でも母さんでもなく、俺を頼ったんだ?」
 晴紀の言葉に、亜紀は、涙をこぼしながらも、不思議そうな顔をした。そして、信じられないようなことを言い出した。
 「あたし、お兄ちゃんに、酷いことされたことなんて、ないよ…?」
 「……は?」
 「酷いことしてたのは、あたし、だよ?」
 涙でべたべたになった頬をトレーナーの袖口で拭うと、亜紀は少し落ち込んだように俯いて、続けた。
 「お兄ちゃんは、凄くいっぱい頑張って、いつも1等賞取ってたのに、それでもお父さんに叱られてばっかりいた。なのに、あたしは……ブスで、バカで、トロくて、いつも失敗ばっかりしてるのに…お父さんも、お母さんも、あたしを叱らなかった」
 「!!」
 「お兄ちゃん、可哀想…。お父さんは、酷いよ。お兄ちゃんが怒るのは、当たり前だよ。お兄ちゃんが、あたしを憎たらしいって思うのは、当然なんだよ」
 背筋が、凍った。亜紀の言うことは、全て、当時晴紀が亜紀に向かって言った言葉だったから。
 勿論、当時の晴紀の怒りは父にこそ向けられるべきで、亜紀は全く無関係だ。なのに―――亜紀は、晴紀が自分に対して言ったことを、そのまま受け止め、信じ、父のことを「酷い」と感じ、理不尽な扱いをされている晴紀を「可哀想」とまで思っていたというのだろうか?
 「なのにお兄ちゃんは、いっつも、あたしを助けてくれた。憎たらしい筈のあたしのことを…子供の頃も、この前も」
 「……」
 「ダメなあたしに、負けるな、頑張って勝て、って言ってくれたのは、お兄ちゃんだけだった」
 ぐす、と鼻をすすると、亜紀はまた涙を拭い、顔を上げた。
 「…お兄ちゃん。あたし―――ホントは、普通になりたい」
 「亜紀…」
 「他の子みたいに、学校行ったり、勉強したり、遊んだりできるように、なりたい」
 ―――…そうか…。
 なんだか、わかった気がした。
 亜紀は亜紀なりに、この1年半、精一杯戦っていたのだ。深夜のコンビニ通いも、本当は怖くて辛いけれど、勇気を振り絞って続けていたのだ。この前、いつもより早めに買い物に出たのも、深夜なら出られるようになった亜紀が、次のステップと考えた、いわばリハビリだったのだろう。なのに、あんな結果になってしまった上に、唯一自分の背中を押してくれていた晴紀から「こんな時間に出歩くな」と言われ、絶望してしまったのかもしれない。
 亜紀は、ちっともバカでもトロくもなかった。
 少し、世の中とテンポがずれてしまっているが、ちゃんとした意志を持ち、考え、行動しようと必死にもがいている、立派な1人の人間だったのだ。
 「…復学、したいのか」
 晴紀が訊ねると、亜紀は、コクン、と頷いた。
 「でも…怖い。びょ…病院行くとこ、見られたら、また誰かにバカにされるかも、しれないし。…学校に戻っても、また…」
 「でも、戻りたいんだろ?」
 「…うん」
 「―――じゃあ、戻れるように、頑張ろうぜ」
 だるい腕を持ち上げ、晴紀は、亜紀の頭を軽く撫でた。
 「病院は…俺が、ついてってやる。それなら、誰かがお前をいじめそうだったら、俺が反撃してやれるだろ?」
 「……」
 「もう誰にも、お前はダメな奴だから家から出すな、なんて言わせない。だから―――頑張ろう、亜紀」
 晴紀の言葉を聞いても、亜紀はまだ、不安そうだった。けれど、最後には、何かを決意したような目になり、「うん」と言いながら大きく頷いた。


 恐らく、遠い遠い道のりになるのだろう。実際、頷いた筈の亜紀が始めの1歩を踏み出すまでは、結構大変だった。
 亜紀を根気よく説得し、母の協力を仰ぎ、反対する父を殴り倒し、ようやく亜紀が心療内科に通い出したのは、1月も終わろうかという頃だった。


***


 亜紀が新たな1歩を踏み出したように、晴紀もまた、ドラッグにまつわる仕事からは完全に手を引いた。
 もっとも、亜紀の自殺未遂以降、ほぼ手を引いたも同然の状態ではあった。ただ、手持ちのドラッグを処分するには至っていなかった。亜紀と深く関わりながらの生活は、晴紀にとっては精神的にもきつい思いをする日も多く、頭痛や不眠に悩まされる日も少なくなかったからだ。自分が服用するために、鎮痛剤や精神安定剤の類は、いくつか手元にとってあった。
 が、久々に会ったリカに、頭痛薬の代わりに、と残してあったケミカルドラッグ半錠を飲ませたことが、最後の駄目押しとなった。実際、海外では鎮痛剤としても利用されている薬なので、半錠であれば大丈夫、と思っていたのだが―――晴紀が目を離した隙に、仲間の1人がリカに酒を飲ませてしまったのだ。酩酊したリカは、危険な目に遭いそうになっているところを、戻ってきた晴紀に助けられた。
 リカは、家族間で何かトラブルを抱えているらしく、自暴自棄になっていた。フラフラにはなっていたが、自分が襲われそうになったことはわかっていたし、わかった上でそれを容認しようとしていたのだ。
 もし、自分が駆けつけるのが少し遅れていたら―――想像するだけで、ゾッとする。
 ―――何だかんだで、俺、リカのことも大事なんだろうなぁ…。
 リカがされそうになったことを、自分も奏の恋人に対してやろうとしていたのに―――未遂だったんだから別にいいだろ、というかつての自分のセリフを思い出し、晴紀は自分のバカさ加減に苦笑した。
 そして、まだポケットの中に残っていた数錠を、リカを友人宅に送り届け次第、全て処分することを心に誓った。
 「晴紀も、あたしになんて、そんなに優しくする必要、ないのに」
 友人宅への道すがら、自棄モードのリカは、そんなことを言ったりした。
 リカが襲われそうな場面を目撃して、晴紀がどれほど怒り、震撼したかを知らずに、随分なことを言ってくれる。苦笑した晴紀は、少しおどけた口調で返した。
 「んな訳いくか。他の女がどうなろうが知らねぇけど、亜紀の女神様を危険な目になんて遭わせられねぇよ」
 「…アッハ…凄いね。晴紀のその、亜紀ちゃん至上主義。よっぽど亜紀ちゃんが可愛いんだね」
 言われ慣れているセリフを久々に聞いて、胸が、ズキリと痛んだ。
 周囲には、晴紀がずっと亜紀を大事にしているように見えたのだろうが―――振り返ってみると、自分は少しも亜紀を大事にはしていなかった。亜紀を1人の人間として尊重せず、どこかでバカにし続けていたのだから。
 「あたしも…きょうだい、欲しかったな」
 「…俺は、要らなかったよ」
 ずっと、要らなかった。こんな妹、いなければいいのに―――それが、晴紀の偽らざる本音だった。
 そして、それは今も、微かに残る晴紀の本音。もし、亜紀という妹がいなければ―――これまで経験した怒りも、苦しみも、やるせなさも、経験せずに済んだのだろうから。
 いなければ、きっと、もっとラクだったに違いない。
 でも、亜紀のような妹がいる人生だって、そう悪いもんじゃない。そう思えるように、晴紀はなっていた。


 あと、もう1つだけ、変わったことがある。
 3月に入って間もなく、父方の祖母が他界したのだ。
 葬儀に亜紀を連れて行く連れて行かないで、また父と晴紀が激しいバトルを展開したが、亜紀が一言「行く」と言ったことで、父の暴挙は不発に終わってしまった。そうして、家族4人で向かった父の故郷では、父にとってはショッキングな現実が待っていた。
 「もう、なんにもする気が起きなくてなぁ…」
 恰幅のよかった祖父は、老人になってからの祖父しか知らない晴紀ですらビックリするほど、小さくなってしまっていた。
 黒の喪服で実際より縮んで見えている部分もあるのだろうが、それを差し引いても、一回り以上縮まっている。いや―――実際の体格云々の問題ではなく、気力の全てが殺がれてしまったようなその姿自体の問題なのかもしれない。
 「母さんの生きてる間は、まさか死んだ後にここまでガックリくるとは思ってなかったんだがなぁ…」
 祖母の遺影の前でちょこんと正座した祖父は、大きなため息をひとつつくと、目に浮かんできた涙を、皺だらけの手でそっと拭った。
 「こうなってみると、後悔することばっかりでな。あんなに尽くしてくれた奴だったのに、大した労いもできないうちに、あっさり死なれてしまうとは…」
 「……」
 「お前も、老後は、などと考えずに、奥方を大事にできるうちに大事にしとけ」
 どの口がそれを言ってるんだ、と、正直、晴紀も思った。
 けれど、180度変わってしまった父親の考えに、ただただ呆然とするしかなく、言葉を失っている父の顔が面白かったので、何も言わないでおいた。

 

 「おい、亜紀」
 晴紀が声をかけると、コレクションの整理に没頭していた亜紀が振り返った。
 「本屋行くけど、ついてくるか?」
 「えっ。でも…」
 外見面でも散々バカにされ続けた亜紀は、日中の外出を極度に怖がる。通院も、そういう事情を考慮して診察時間の最後にしてもらっているくらいだ。そんな亜紀から見れば、夕方とはいえ、日没前の徒歩での外出は、ためらわれるのだろう。
 「今日、リカが出てる最後の号の発売日だろ」
 「あ…」
 「どうする?」
 意味のある1冊のため、と考え、少し前向きになったのか、亜紀は一度唇をきゅっと引き結ぶと、
 「…行く」
 とはっきり答えた。

 玄関から1歩出るのに、10分かかった。徒歩7分の道のりに、15分かかった。
 けれど、リカの最後の仕事を掲載した1冊を自分自身の力で手に入れた亜紀は、とても嬉しそうだった。

 ファッション誌の入った紙袋を胸に抱き、晴紀の背中に隠れるようにして歩く亜紀の影が、自分の影の隣に揺れている。
 その影が、人通りの少ない近所の道に入ったところで、ホッとしたように自分の影に並ぶのを見て、晴紀は密かに口元をほころばせた。


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