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― Fighting Soul -2- ―

 

 『ただいま。今日は佐倉さんからデリバリー依頼受けちゃった。心配され疲れ、なんて日本語ないけど、そんな感じ。今から夕飯』

 送られてきた文面を見つめていた奏は、咲夜のうんざり顔を思い浮かべて、思わず苦笑した。
 確かに佐倉は姉御肌で面倒見がいい。が、誰彼構わず心配を押し付ける訳でもない。奏などは、佐倉の事務所の所属モデルだったというのに、心配されたのは咲夜絡みのことだけだ。
 佐倉がやたら心配性になるのは、佐倉にとって「特別」な人物に対してだけ。そして咲夜は、佐倉にとって、何重もの意味で「特別」だろう。亡き親友をどこか彷彿させる存在であり、恋人である拓海の義理の姪であり―――その拓海が、ある意味、佐倉以上に気にかけている存在でもあるのだから。

 『こっちは昼飯終わったとこ。午後から郁の紹介で広告の撮影があるんだけど、モデルが昔の知り合いなんで、またひやかされると思うと、ちょっと緊張気味』

 公衆電話からかけるより、この携帯からの方が日本への通話料も若干安くつくし、日本語のメールが打てるというのもありがたい。全く便利な世の中になったものだ、と、返信メールを打ちながらつくづく思った。
 ―――よし、行くか。
 メールを送信し終えたところで、大きく伸びをすると、奏は弾みをつけて席を立った。

***

 「アハハハハ、やだ、ほんとに奏がメイクさんやってるー!」
 「……」
 覚悟は、まあ、していたけれど。
 こうもあからさまに大笑いされると、さすがに辟易してしまう部分があるのも、否定できない訳で。
 「なんか、変な感じぃ。ねぇ、自分でも変な感じしない?」
 「…する訳ないだろ」
 それまでも黒川にくっついて色々やってはいたが、奏がメイクの世界に正式に足を踏み入れたのは、2001年の夏―――今年の夏になれば、丸3年だ。それでもまだ「変な感じ」だと自分自身で感じているようだったら、とうの昔にこの世界から足を洗っているだろう。
 ちなみに、目の前の鏡に映っている女は、奏がロンドン時代に在籍していたモデル事務所の、1年後輩である。といっても、デビューから3年目に別の事務所に移ってしまい、現在はモデルというより芸能人と化しているのだが。
 「それよか、いい加減笑うのやめて、メイクさせろよなぁ。時間おしてんだから」
 「え? あ、ほんとだ、あんまり時間ないじゃない。急がなきゃ」
 やっと仕事モードに戻ってくれたらしい。やれやれ、と密かにため息をついた奏は、さっそく作業に取り掛かった。

 ―――マジで、予想してたよりヘヴィーだよなぁ…。
 メイクアップアーティストとしてロンドンで仕事を始めてから、実際に現場に立つのは、これが4度目になるが、うち、今日を含めた3回が、偶然にも奏の元仲間だった。
 いや、仲間、という表現は変かもしれない。別に同じ事務所だったとかそういう訳ではない。単に、奏がモデルとして活躍していたのと時を同じくして、彼らもファッション業界の第一線で活動していただけなのだから。とはいえ、同じショーに何度か出ていたりとか、モデル同士の飲み会で一緒になったりとか、といった交流が何年かにわたってあったので、互いの名前と顔が一致し、基本的なパーソナリティも一応覚えているレベルの知り合いではある訳だ。
 仕事相手が、かつての仲間―――ある程度の予想はしていたものの、これが、案外、キツイ。
 彼らからしてみれば、奏のイメージは、ロンドンを去る少し前、モデル事務所と袂を分かって独立した辺りで止まっている。日本に行ったとか、黒川賢治の弟子になったとか、そんな噂は耳にしていたようだが、モデルを辞めたことや、メイクアップアーティストとして本格的に仕事を始めていることなどは、カレンと親しい人間くらいしか聞いていなかったのだろう。初回も2回目も、現場で顔を合わせた時、かつての仲間から真っ先に言われたのが「えぇ!? ほんとにメイクさんになったの!?」だった。そして、それに続く言葉も、うんざりするほど同じ―――「奏がメイクだなんて、似合わない」だ。
 何がおかしいのか、正直、奏自身にはよくわからない。これまで付き合いのあったメイクスタッフは、タイプも多種多様で、別にこれといって決まった傾向がある訳でもなかったのだから。単にモデルからメイクという転身の仕方が珍しいのか、それとも、奏のキャラクターに何か問題があるのか―――とにかく、彼女らが「なんか変〜」と笑うたび、奏は少々面白くない気分を味わうのだ。
 でも、ひやかし程度は、別に無視すれば済むことで、さほど問題ではない。むしろ、元仲間という気安さが先だって、奏を1人のプロとして扱ってくれないことの方が問題だ。こちらの質問に真面目に答えない、仕上がりについて確認しても返事が適当……等々、挙げ出したらきりがない。

 「はい、完成。…どう? どこか気になるとこあれば、直すけど」
 全てのメイクを終え、鏡の中の彼女に問いかけると、案の定な答えが返ってきた。
 「やだぁ、何、遠慮して訊いてるの? 奏がやってくれたんだから、打ち合わせどおりにいってれば、それ以上細かいケチなんてつけないわよ」
 「……」
 「それより、この仕事終わったら、暇? 何人か呼ぶから、久々にパーッと遊ばない?」
 ―――そういう答えが欲しいんじゃないんだっつーの、オレは。
 「…いや、ちょっと、今日は用事あるから、またの機会に」
 営業スマイルでそう言って乗り切った自分を、奏は少しだけ、褒めてやりたくなった。

***

 「あーもーっ」
 怒りに任せて一気飲みしたバドワイザーは、2分前に持ってこられたばかりだというのに、もう空になってしまった。
 「あいつ、普段はメイク担当に、やれもうちょい目を大きく見せろだの、口紅の色が気に食わないだの、あーだこーだケチつけまくる癖に。なんだよ、あの手心加えまくりな答えはっ」
 ウェイトレスを呼び止め「同じのもう1つ」と注文している奏を見て、カレンが呆れたようにため息をついた。
 「そんなこと言っても、しょうがないんじゃないの? あたしだって、奏が自分のメイクしてくれたら、普通のメイクさんより注文甘くなっちゃうもの」
 「カレンは身内だから、まだ理解できるよ。オレも郁の写真に対しては甘いし。けど、友達とか知り合い程度で公私混同してたら、いいもん作れないじゃねーか。向こうだってプロなんだから、プロとして相手の仕事を評価しろってんだよ」
 「…言いたい事は、わかるけど…そんなにキッチリ分けられる人ばっかりじゃないでしょ」
 自分が文句を言われた訳でもないのに、カレンはムッとしたように少し唇を尖らせた。
 「そもそも奏って、昔からちょっと厳しすぎるのよ。日頃の生活はほーんと、呆れるほどいい加減な癖に、こと仕事になると、突然人が変わったみたいにプロ根性丸出しで、その上人にも同じレベルを要求してさ。あたしなんて何回“辞めちまえ”って言われたことか」
 積年の恨みを晴らすかのようなカレンの口調に、ぐ、と言葉に詰まる。…確かに、そういう傾向があるのは否定できないかもしれない。
 「…で…でもオレが求めてんのは、飽くまで“プロとして最低限のレベル”だぞ。美容健康維持のためにヨガだバレエだサプリメント15種類だ、ってのには、さすがにオレもついてけなかったし」
 「だーかーらー、奏が言う“最低限レベル”ってのが、あたしたちレベルじゃないってこと」
 「“あたしたちレベル”?」
 「そもそも、モデルの仕事に誇りを持ってるだの、いいものを作りたいだの、そんなセリフ言えるのは、ある程度モデルの道を極めちゃったトップレベルだもの。それ以外の“普通レベル”以下は、そんなこと考えずに淡々と、与えられた仕事をそつなくこなすだけ―――スタッフに親しい人がいたら、融通利かせてくれそうでラッキー、と思う方が普通で、甘えが出てなあなあになるから嫌だ、なんて反応の方がレアじゃないの?」
 「……」
 …わかっている。別に、彼女らが特別不真面目な訳ではなく、あれが普通―――奏だって、それは何となく理解しているのだ。
 それでもなお、元モデル仲間であることを理由に、他のメイク担当者と違う態度を取られると、つい過剰に不満を感じてしまうのは、多分……まだ、確固たる自信が、ないから。
 一般客を相手にしてきた“Studio K.K.”とは違い、これから奏が相手にするのは、毎日のようにプロに自分の美と魅力を預けている人間たちだ。色々なプロの技を、文字通り身をもって体験している彼女らの目は、当然ながら厳しいだろう。
 他のプロと並べて比較した時、果たして自分の実力はどの程度の位置にいるのか。それを、贔屓目なしで、冷静に見極めてくれる誰かを、今の奏は切実に欲している。なのに、“元モデル仲間”という奏の立場が、冷静であって欲しい人々の審美眼を歪めてしまう。他のプロになら容赦なくダメ出しをしているレベルかもしれないのに、仲間だったよしみで、と甘い評価をしてしまう。しかも、それを「善意で」やっているから厄介だ。
 「…ま、いいや。仕事のことはとりあえず、焦っても仕方ないし」
 ちょうど注文した2杯目のバドワイザーも来たので、奏は話を切り上げ、本日カレンと会っている本来の目的に話題を移した。
 「それよか、累だよ、累。どうなんだよ、最近は」
 「ああー…」
 累の名前が出た途端、カレンの表情が僅かに曇った。その変化だけで、質問の答えが一瞬でわかってしまい、つられたように奏の表情も曇った。
 「うん、その…やっぱり、まだちょっと、不機嫌かも」
 「…そか」
 「今日もね、奏にメイクの相談するために会うから一緒にどう? って誘ったんだけど、仕事忙しいからやめとく、って。…別にいつもより仕事が忙しい訳でもなさそうなんだけど」
 要するに、奏と楽しく酒を酌み交わせるような心境ではない、ということらしい。参ったな、と、奏は小さくため息をついた。

 現在、奏と累は、軽い冷戦状態にある。
 といっても、敵対している訳ではなく、累が一方的に奏に背を向けているだけ―――そう、ちょうど奏が日本に行くと決めた時と似たような状態だ。
 原因はただ1つ―――“VITT”だ。

 『どうして? なんでまた“VITT”? モデルとしての最後の仕事に“VITT”選んだ時と同じで、また“やり甲斐のある仕事だから”? 世の中に、奏を使ってくれる企業が“VITT”しかない訳じゃないんだろう? なのに……もしかして、あの人と仕事がしたいの? 僕らは、父さんと母さんの子供としてこの世に生まれたんだ、って言い続けてたのは、奏の方だったじゃないか』

 勿論、こういう選択をするに至った経緯は、累にもちゃんと説明した。けれど、奏がビジネスと割り切った部分を、累はまだ割り切ることができないらしい。
 奏が半年間の下宿先として時田の家を選んだことも、今ひとつ不満らしい。時田は2人の叔父なのだし、時田の所に奏が住んでも別におかしくはないのだが、今回の件にひっかかりを感じている累には「実の父親だから時田と暮らしたかったのか」と思えてしまうようだ。実家の下宿部屋だった部屋が空いているのに、というのも、不満に拍車をかけているのだろう。
 累のこの反応には、ちょっと、驚いた。
 これまで、サラに対してわだかまりを持っていたのは、累よりむしろ奏の方で、累はあまりサラについて多くを論じようとしなかった。仕事上で既に知り合いであった奏とは違い、累には、母親であることを黙っていたのか、という「騙された」感もないし、捨てた子供の前でよく平気な顔できるな、といった憤りを感じる必要もない。事実発覚前と後では、捨てた女の顔と名前がわかった程度の違いしかなく、むしろ叔父だと思っていた時田が父親だった事実の方がショックだったようだった。だから、奏が“VITT”の申し出を受けた、と聞いても、ふーん、という程度の反応しか示さないだろう、と奏は予想していたのだ。
 奏がサラと仕事をするのが許せないほど、実はサラのことを恨んでいたんだろうか、と思ったが、その後、千里が言った言葉で、なんとなく納得できた。

 『あの子自身の気持ちがどうこう、っていうより、多分、淳也さんや私の立場を考えて、手放しで賛成できないんだと思うわ。私たちが“構わない”と言ってても、ね』

 なるほど、いかにも累らしい。個性派揃いな一宮家にあって、累は常にバランサー的な存在だったから、累らしい感覚が働いていつも以上の頑なな態度に出ている可能性は否定できない。きっと、両親が構わないと“言うからこそ”、自分だけでも難色を示さなくては、と無意識のうちに思っているのだろう。
 「オレだって100パーセント割り切って仕事してる訳じゃないんだけど、あいつの目にはそうは映ってないのかもなぁ…」
 「累君て、一度つむじを曲げちゃうとなかなか元に戻らないとこ、昔からあるもんねぇ」
 昔から累一筋のカレンだが、累のそういう難しい面には早くから気づいていたらしい。かえって双子の兄である筈の奏の方が、累のことをよくわかっていない部分もあるのかもしれない。
 「今からでも、こっちに住んだら? 時田先生のとこって、奏のプライベートな空間もゼロなんでしょ。元々下宿部屋って奏の部屋なんだし…。環境整ってる部屋が用意されてるのに、不自由な時田先生の家に居候なんかしてるもんだから、累君に勘繰られたりするんじゃないの?」
 「うーん…」
 ごもっともな意見なのだが―――新婚カップルとひとつ屋根の下に住むなんて、恋人を日本に残して来ている自分にはただの拷問でしかない、と、新婚カップルのご当人に説明すべきなのだろうか。
 幸せ一杯の2人に、こちらの辛い心情を察してくれ、と言うのもヤボだろう。奏は、曖昧に言葉を濁し、バドワイザーを口に運んだ。

***

 「そうかぁ…メジャーなライブハウスは、やっぱり結構先まで埋まってんだな」
 『CD何枚も出してるようなプロが出るんだもの、私らに順番がそうそう回ってくる訳ないとは、最初から思ってた』
 週に1度の電話の冒頭は、そんな、咲夜のライブ活動の近況報告から始まった。
 “Jonny's Club”でのラストライブは、チケットも完売し、大盛況のうちに幕を閉じたらしいのだが、そこから先の見通しがなかなか立たないのが現状だという。
 『ま、都内のメジャーはただの“現状調べ”のために回っただけだから。むしろ、ジャズバーなんかのバンド募集がさっぱりないことの方が問題だよ』
 「でも、今雇ってるバンドがイマイチなケースだってあるだろ? ほら、お前らが出ない曜日に出てた連中とかさ」
 『まあ、ねぇ。そういうとこが見つかればなぁ…。とりあえず、CDばら撒こうかな』
 「あー、あのCDか。もう売り切れたんだろ?」
 『うん。買いそびれた常連さんが、今でもちょくちょく問い合わせに来るって、トール君が言ってた』
 咲夜たちが“Jonny's Club”のラストライブに合わせて自主制作したCDは、奏の手元にも既に届いている。その手の業者に頼んで作ったので、一見すると市販の音楽CDとどこが違うんだろう、と思える出来になっていた。ファンの間での評判も上々で、当然即日完売。元々のプレス枚数が少なかったので、ライブ終了後も問い合わせがある、という話には大いに納得できる。
 「あんだけのもん作ったんなら、いっそ、インディーズに持ち込んでみれば?」
 『そうだねぇ…。ヨッシーも同じこと言ってるけど、一成の立場がややこしいし―――ま、今度またみんなで集まって話し合うし、あんまり焦らないようにしようと思って』
 「けど…歌いたいだろ。大丈夫か」
 泳ぐのをやめると死んでしまう回遊魚よろしく、咲夜も、歌うのをやめると死んでしまう鳥のように、奏には思えてしまう。思わず心配そうに眉をひそめると、電話の向こうから、小さな笑い声が聞こえた。
 『大丈夫だよ、別に死ぬ訳じゃなし』
 「…や、まさに今、それ考えてたんだけど」
 『あはははは』
 「お前の笑い声は信用できねーっつーの」
 『ほんとに大丈夫。いざとなったら、路上ライブでも何でもやるしさ。それより、どうよ、そっちの方は』
 ―――誤魔化したな。
 なんだか、上手く話を変えられた感じもあるが、遠く離れた場所でただ心配を言葉で押し付けられても、咲夜だって困るだろう。奏はそう考え、それ以上突っ込んだ話をすることをやめた。
 「オレの方は、まあまあ順調な方かな。“VITT”コレクション前の腕慣らしは上手く進んでるって感じ」
 『結構オファーあるの?』
 「あるっていうか、元の仕事仲間が興味半分で声かけてくれてる感じだよなぁ…。なるほど、メイクアップアーティストしてる一宮 奏ってこんな感じなんだ、って確認したら、あとはもう興味なし、ってなりそうなのが怖い」
 『ハハ…、でも、その興味本位の1回で気に入ってくれる人もいるんじゃないの』
 「だといいけど。…でも、正直言うと、今はまだ、気に入ってもらえるだけの自信がないわ、オレ」
 『ありゃ。なんでまた』
 「いやさー、普段はそれほど感じなかったけど、肌の色って、人種で随分違うんだなー、と改めて実感してさ。勿論、わかってたつもりではいたんだぜ? でも、実際ファンデーションの色合いを調整しようとすると、オレん中の感覚より1つ2つ色が“ない”んだよな、こっちのモデルは。ああ、それと、肌の“質”。日本人の平均的な肌が、こっちじゃ“超美肌”に値するぞ、マジで」
 初めて白人モデルにメイクを施そうとした時、これまで見慣れてきた日本の一般女性の肌とのあまりの違いに、奏は本気で、なんじゃこりゃ、と愕然とした。
 奏のイメージする「白い肌」は、ここ数年、蕾夏が基準となっている。咲夜は平均的な日本人の肌色で、平均より若干浅黒いのがテン、といった感じだろうか。しかし、そうした肌色のイメージは、全てアジア系の肌色のことなのだ、と、今更ながら思い知った。
 赤みがかった白い肌―――白、というよりピンクだろうか。確かに白いのだが、何故か「色白」とは思えない。アジア系の色白の方がよっぽど白く感じるから不思議だ。日焼けせずに赤くなってしまったような頬をしたモデルも結構いるし、そばかすだらけのモデルも多い。まあ、メラニン色素の違いで白人全体がこういう状態なのだが、これに比べたら、日本の素人は美肌だったなぁ、とつくづく思った。
 「日本人にもいろんな肌の色があったけど、基準が違うっていうか、何ていうか…。やっぱスチール写真になると、均一で透明感のある肌を要求されるしな。肌色調整の感覚を白人用にスライドさせないと」
 『ふうん…人種の違い、かぁ。メイクなんて世界共通だろうと思ってたけど、考えてみたらそうだよね』
 「…そういや、日本でもオレの肌の色って浮いてたけど、こっちでもまた別の意味で浮いてんだよな。当たり前なんだけど」
 『……』
 「あ、いや、それで差別されるとかは、ないけどな。でも、日頃忘れてるからさ、自分がハーフだってこと。モデルの肌の違い感じて、そういえば、って自分自身を振り返ったら、ああそうか、オレってどっちの肌色とも違うのか、って気づいて、なんか不思議な気分になった」
 卑下したような言い方になってしまったか、と慌てて奏が付け加えると、咲夜はちょっと苦笑し「なるほど」と言った。
 『確かに、生粋の白人とも日本人とも違うけどさ。いいんじゃない? 同じ人種の中でも、肌の色なんて色々あるんだから、それぞれが“オリジナルな色”ってことで』
 「おお、かっこいいな、それ」
 なんだか、ちょっと気に入ってしまった。と同時に、ああ、咲夜らしい感覚だな、とも思った。
 咲夜は、基本的には常識を重んじるモラリストだが、堅苦しい枠組みやステレオタイプに対しては、むしろ不要と切り捨てるタイプだ。彼女の価値観の中では、人種だの肌の色だのといった判断基準など、ただの見た目の分類以上の意味を持たないだろう。どこで生まれようが、どんな血が流れていようが、1人1人の人間が、何人でもない“オリジナル”―――型に囚われない咲夜らしい発想だ。
 生まれ育った国に帰って来てからの方が、自分がハーフであることを意識するなんて―――案外、咲夜がこういう奴だから、日本にいる間、自分が周囲とは違う外見をしていることを完全に忘れていられたのかもしれない。そんなことをふと思い、奏は口元をほころばせた。


 ―――あーあ、やっぱ、週1じゃ足りねーよなぁ…。
 週に1度のお楽しみを終え、ふぅ、とため息をついた直後、まるでそれを見計らったかのようにドアチャイムが鳴った。
 携帯電話を置いて、奏がのんびり玄関へと向かっている間に、待ちきれなかったのか先に鍵を開ける音がした。せっかちだな、と奏が眉をひそめるのと同時に、ドアが開いた。
 「あれ? 奏君、いたのかい?」
 仁王立ちしている奏を見て、時田は意外そうに目を丸くした。どうやら、せっかちなのではなく、奏がいないと思ってさっさと鍵を開けたらしい。
 「いないと思ったのにドアチャイム鳴らしたのかよ」
 「いると思って鳴らしたけど、中から音楽が聞こえてこなかったから、留守かと思ったんだよ」
 時田の家に居候するようになってから、奏は大抵、1人でいる時は、CDをかけたりラジオをつけたりして、何らかの音楽を鳴らしている。それほど大音量でかけている訳ではないが、時田はその音の有無で奏が留守かどうかを判断していたらしい。
 「…電話してたんだよ」
 奏がバツの悪そうにボソリと答えると、時田は一瞬で納得した顔になり、意味深ににんまりと笑った。
 「ああ、なるほどね」
 「つか、遅かったな。今日は撮影も取材もなかった筈だろ」
 「ちょっと、ヤボ用があってね。あー、疲れた疲れた…」
 本当に疲れたようにため息をついた時田は、そう言いながらドアを閉め、部屋の中に入ってきた。
 ドア閉めるんなら鍵かけろよな、と心の中で突っ込みつつ、時田が閉め忘れた鍵をかけた奏だったが、時田とすれ違った瞬間、ふわり、と鼻をくすぐった香りに気づき、僅かに顔を強張らせた。

 この香りは―――覚えが、ある。
 昼間、今度の“VITT”コレクションの件で打ち合わせをした際、これと同じ香水をつけている人物に、奏も会ったから。

 「……」
 時田と同じ家に住めば、こういうこともあると、わかっていた。そして、それに気づいた時、自分の中に湧き上がるのは、ネガティブな感情だけだろう、ということも。
 それでもなお、時田の家に住むことにしたのは―――やっぱり、咲夜の影響も、あるのかもしれない。

 許せないし、和解できる心境でもないが、それでも、ほんの少しだけ、父の気持ちがわかる部分があったから―――咲夜はそう言って、“Jonny's Club”のラストライブのチケットを、父と義母に託した。
 その話を聞いて、奏も、少しだけ、わかりたくなった。時田が何故、あんな手酷い形で自分を裏切った女を、再び受け入れ、愛そうとしているのか。
 一緒に暮らせば、叔父としての時田ではなく、1人の男としての、時田郁夫という人間が見えてくるだろうか―――そう考え、奏はこの生活を選んだ。
 何のために? と問われると、答えに詰まるが……もしかしたら、許したい、という気持ちが、心のどこかにあるのかもしれない。時田の気持ちを理解して、2人がこの先結ばれることを認めてやりたくて、こんな選択をしたのかもしれない。
 でも―――…。

 ―――ヤボ用、ね。移り香にオレが気づかないとでも思ってんのかよ、郁は。
 時田がサラと会っていたのだと想像すると、言いようのない嫌悪感が、胸の辺りに湧いてくる。
 多分、累は、奏がこんな思いを抱いていることも知らないだろうし、奏も知らせようとは思わない。これは、極めて個人的な、奏1人の戦いだ。
 言いたい皮肉の1つ2つが、頭の中に浮かんだが、奏は鍵を閉めると同時に、その全てを、静かに飲み込んだ。


***


 「悪いな、なかなか時間取れなくて」
 「いいって。仕事が忙しいってのは結構なことじゃん」
 ヨッシーのすまなそうな顔に、咲夜は苦笑して首を振った。
 “Jonny's Club”のライブ終了から今までの間、ヨッシーは、とあるミュージシャンのバックバンドとして、スタジオ録音にずっと付き合っていたのだ。電話では2、3回話をしたが、顔を見るのは約3週間ぶりだし、こうして“Jonny's Club”に来るのは、実にライブ終了後初めてらしい。
 「ここのライブなくなって、定期の仕事がゼロになったからなぁ。便利にこき使われて、結構なこととばかり言ってもいらんないんだよ」
 「…何を贅沢な」
 やれやれ、といったヨッシーの口調をたしなめるように、一成が呆れ声で呟いた。
 「俺なんて、この半月で演奏したのっていったら、うちの会社のイベント2回で、しかもクラシックばっかりだぞ。ジャズなんて1曲も弾かせてもらえてないんだ。ジャズのスタジオ録音なんて仕事があったら、拝み倒してでも参加したいくらいだ」
 若干不満げに一成はそう語ったが、
 「…2人とも贅沢すぎ」
 咲夜のとどめの一言に、2人とも完全に口を閉ざした。
 誇張を抜きにして、咲夜の耳には、2人のセリフはどちらも贅沢だった。なにせ咲夜は、ラストライブから今まで、1曲も歌を歌っていないのだから。
 「ほんっっっっと、ボーカルって、潰しが利かないよなぁー。バックコーラスは競争率高いし、他のパートに比べて需要も少ないしさ」
 「…確かに…潰しは利かないな」
 「ボーカルって言ったら、ジャンルを問わず、どうしてもバンドのメインになっちまうからな」
 ヨッシーと一成も、互いに顔を見合わせ、同意する。はあっ、とため息をついた咲夜は、テーブルに頬杖をついた、
 「あーあ、歌いたいなぁ…」

 視線の先には、1ヶ月前には自分たちが立っていたステージがある。
 今は使われておらず、ステージだった場所にもテーブルが2つ置かれ、より多くの客を入れられるようにしてある。月1のライブの日は、あのテーブルが片付けられるのだろう。
 こうしてステージを目にしてしまうと、ただぼんやりとステージに憧れている時以上に、歌いたい切望がこみ上げてくる。そして、切望を覚えれば覚えるほど、焦りも感じてしまう。早く―――早く、次のステージを見つけないと、と。

 「またストリートに戻ろうかなぁ、ほんとに」
 「…バカ」
 何を寝ぼけたことを、と言わんばかりに、ヨッシーが咲夜の頭を軽く叩いた。実は、口調よりずっと、本気でそう思っていたりするのだが、ヨッシーと一成の呆れたような視線を前に、咲夜は自分の本気度は表に出さず、叩かれた頭をさすって誤魔化した。
 「そのくらい、歌いたい気持ちが切実だ、ってことじゃん」
 「まあ、わかるけどな、その気持ちは。ストリートに戻るくらいの覚悟があるんなら、持ち出しで単独ライブ開くって手も考えないでもないけど…金かかるしなぁ、ああいうのは。チケット高くする訳にもいかないし…」
 「複数でのセッションライブなら、やれると思うけど」
 一成が提案してみたが、ヨッシーは渋い顔で首を振った。
 「俺と親しい連中は、ここ1ヶ月は全員アウトだ。時期はずれてるけど、それぞれ何らかの仕事抱えてて、緊急でライブ開けるだけの余裕がない奴ばっかだから」
 「そうか…」
 「ま、セッションなら、今から声かけて、6月辺りに実行、ってことで動いてみるか。なーんも目標ないままでいるってのもキツイだろ」
 慰めるようなヨッシーの言葉に、咲夜は僅かに笑みを作り、「ありがと」と答えた。
 「あ、それと、CD買いたいってお客さんが今もいるみたいだし、やっぱりライブハウスにCDをデモテープ代わりに配った方が反応得やすいと思うから、追加注文しようと思うんだ。配る分は完全持ち出しになっちゃうけど…いいかな」
 「そうだなぁ…いいんじゃないか? 咲夜だけじゃなく、俺らの売込みにもなるしな」
 「じゃ、何枚にするか、なんだけど、」
 「お待たせしました」
 CDの追加発注について本格的に話をしようとしたところに、視界の外から、注文したドリンクを持ってきたスタッフらしき声が割り込んできた。その声が、注文を取りに来たスタッフの声とは違う声に聞こえて、咲夜は言葉を区切り、顔を声の方へと向けた。
 そして、トレーを手に遠慮がちに立っているその店員の顔を見て、思わず大きく目を見開いた。

 「…え―――…」

 髪は短くなっているけれど。
 ヒラヒラのゴスロリファッションじゃなくなっているけれど。
 最高に気まずそうな顔で咲夜の前に立つ彼女は、間違いなく、あのリカ―――姫川理加子だった。


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