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― クラスメイト -1- ―

 

 小さい頃、先生か誰かに訊かれたことがある。
 『みなさん、大人になったら、何になりたいですか?』
 歌手になりたい、お医者さんになりたい、パイロットになりたい、お嫁さんになりたい―――いろんな夢が、いろんな子の口から次々飛び出す中……あたしは、何も思い浮かばなかった。

 夢、って、何?
 なりたい自分なんて、考えたこともない。やりたいことだって、別に思いつかない。思いつかなきゃ駄目? 誰でも思いつくものなの?

 なりたくない自分、なら、いつだってある。
 それは、“今の自分”―――あたしは、“自分”が、この世で一番イヤ。

 将来の夢は「今の自分じゃなくなること」…なんて答えたら…おかしいかな。
 でも、初めて人を好きになって、失恋の痛みを知った今、切実に思うのは―――「変わりたい」という、ただ、それだけだった。


***


 「あーあーあー…」
 久々に、大失敗。
 どうも、今ひとつ調子の良くない日らしい。ため息をついた理加子は、黄身が流れて形が崩れてしまった目玉焼きを皿に移した。
 「ごめーん、失敗しちゃった」
 「あらら…ほんとね」
 テーブルの上に置かれた目玉焼きを見て、母が苦笑する。
 「リカにしては、珍しいじゃない。何か考え事でもしてたの?」
 「…そういう訳でも、ないんだけど」
 「まあ、食べちゃえば味なんて同じよ。早く食べましょ。リカも今日は1限目からあるんでしょ?」
 「うん」
 少しくすぐったい気分が、胸の辺りを掠める。が、素直に嬉しそうな笑顔を見せられるほど、理加子ももう子供ではない。そのことに僅かに残念さを感じながら、理加子は母の向かいの席に着いた。

 両親が別居するようになって、理加子の生活は一変した。
 それまで、ただ同じ家にいるだけの存在だった母と、毎朝顔を合わせ、朝食を一緒にとる。ただそれだけのことが、理加子にとっては大きな違いだ。相変わらず不規則な生活同士なので、夕食も一緒に、とはなかなかいかないが、それでも、相手が帰宅した時には玄関を覗き、「お帰り」と一言挨拶をするし、寝る前には「おやすみ」と声をかける―――当たり前のことが、当たり前のように、毎日続く。何故20年以上もできずにいたのか、我ながら不思議に思うほどに。
 勿論、お互いが、これまで訴えてこなかった寂しさや不満を全部ぶちまけたことが一番の原因だろうが、どうやらそのせいばかりとは言えないことに、最近、母の様子を見ていて気づいた。父が、この家にいない―――そんな、一見寂しいとも思えることが、母には、そして、もしかしたら…理加子自身にも、プラスに働いているようなのだ。
 自分の孤独とばかり向き合ってきたから、ずっと気づかずにいたが、姫川家の空気を冷え切ったものにしていたのは、両親と理加子の関係ばかりが原因ではなかったのだろう。父と母の冷え切った仲が、そのまま、この家の空気を凍らせていた―――父の心を頑なにし、母から余裕を失わせていた。その事実に、理加子はなんとなく気づいた。
 父がいなくなり、母は、不思議なほどホッとした様子だ。偶然なのか、それとも父と顔を合わせる気まずさを避ける必要がなくなったからなのか、休日の出勤も目に見えて減った。生まれて初めて行った「母と娘でのウィンドウショッピング」では、理加子よりむしろ母の方がはしゃいでいたほどだ。
 そして、父は―――この2週間、約束を、反故にしている。
 週に1度は、全員で食事をする。それが、家族3人で取り決めた、別居に当たっての唯一の条件だった。最初の1ヶ月は、確かにそのとおり実行されたが…3月の後半2週は、「仕事の都合で仕方ないんだよ…」と、歯切れの悪い口調で断ってきた。

 …離婚も、間近なのかもしれない。
 本来、あのバレンタインの話し合いの段階で、即離婚という流れになる筈だったのだ。それを、理加子を納得させるために、別居という段階を踏むことにしてくれただけに過ぎない。やり直す、という選択肢は、多分両親の中にはないのだろう。
 半年という約束をしているが、父が早くも脱落気味なのでは、半年も様子を見る必要はない、と判断されても仕方ない。次に離婚という話が出たら、今度こそ理加子も異を唱えることはできないし、そういう気にもなれない。
 ほとんど思い出のない父に対して、それほどの未練がある訳ではないが…それでもやっぱり、悲しい。父にとって母も、そして血を分けた子である筈の自分も、たった週に1度の食事すら億劫になるほど、軽い存在でしかなかったのか―――そう思うと、胸が潰れそうに痛い。
 でも、また家族3人で暮らしたい、という思いも、この僅か1ヵ月半ほどの間にほとんどなくなってしまったのも事実だ。結局、自分にとっての父もまた、その程度の軽い存在だったのだろうか。…それもまた、少し、悲しい。

 「ママって、今夜は帰ってくるの早いの?」
 「そうねぇ…打ち合わせの結果次第ね。遅くなるようなら、わかった時点でメールするわ」
 「うん」
 「リカはどうなの? コンパとかあるんじゃない?」
 何気なく母が口にしたセリフに、牛乳の入ったグラスに伸びようとしていた理加子の手が止まった。
 「…ないわよ、そんなの」
 「そう? まあ、まだ学校始まったばっかりだものね」
 ―――やる子はやってると思うわよ。単にあたしが参加してないだけで。
 心の中だけで答えたが、じゃあ何故参加しないの、と訊かれるのが億劫で、口にまでは出さなかった。

***

 この4月から、理加子は、ビジネス専門学校に通い始めている。
 思い立ったのが2月で、願書の受付もギリギリだったのだが、優也になんとか間に合う学校を見つけてもらい、無事入学することができた。主にパソコンを使って表計算やら文書作成やらの勉強をしたり、いわゆる社会人としての常識レベルの挨拶や礼儀、商業簿記などを身に着ける「ビジネスキャリアコース」だ。本当は、ブライダルコーディネーターコースだの、フラワーアレンジメントコースだのといった特化したコースにしようか、とも考えた。が、これにしよう、と決められるほど好きな仕事はなかったし、幅広い職業に活用できるコースの方が将来役立つんじゃないか、と優也からも言われたので、一番無難なコースにした訳だ。
 当然ながら、高卒で入ってくる学生が圧倒的に多いが、理加子同様20歳を過ぎた学生もチラホラ見られ、明らかに30代の女性もいたりする。多分、転職組か、結婚後再就職を目指しているか、といったところだろう。男女混合のコースの筈だが、ざっと見渡した限りでは、1対7といった割合で、どう見ても女性が多いようだ。
 理加子にとっては、実に3年ぶりとなる“学校”。しかも大半が、自分より年下。そして、最大の問題点―――理加子が友達とまともな付き合いをしたのは、生まれてこのかた、優也1人しかいない。
 結果―――入学から半月弱、理加子はまだ、同じ授業を取っている仲間の誰とも、口をきいたことがない。


 「ねえ、今日この後、高校ん時の友達の誘いで合コン行くんだけどさ、あんたも来る?」
 背後で聞こえた会話に、今朝ほどの母の言葉を思い出し、理加子の眉がピクリと動いた。
 「合コン? てことは、男の子も来るの?」
 「当たり前でしょー。今のところ、男4に女2なんだって。向こうもまだ何人か誘うみたいだけど」
 「へー、いいなぁ。ちょうどバイトないし暇してたんだ。行く行く」
 ―――男の子来るかどうかチェックしてから返事するとか、要するに男目当てのイベントってことじゃないの。出会い系サイトとかテレクラと何が違う訳? 男に飢えた女の集団なんて、カッコ悪くてサイテー。
 などということを、理加子が実際に声に出して言う筈がない。何故なら、今は講義の真っ最中だからだ。
 理加子だって、恋愛に興味がない訳ではない。片想いを経験し、失恋も経験した今では、むしろ切実に「新しい恋がしたい」と思っている人間の1人だろう。だから、彼氏が欲しい、と思う同年代の同性たちの気持ちも、わからないでもない。
 でも……何か、違う。理加子が求めているものと、彼女たちが合コンに行く目的は、どこか違う気がする。そこから始まる真実の恋もあるのだろうが、本当に求めているものに出会える確率は、もしかしたら、その辺をただぼんやり歩いている時より低いくらいなのではないだろうか。
 ―――まあ、あたしが誘われることはないから、こんなこと考える必要もないんだけど。
 そう自分で自分に突っ込みを入れ、ちょっとだけ、落ち込んだ。

 『ねえねえ、例のあの人、やっぱりただの素人じゃなかったよ。イトコから借りた雑誌に載ってたもん』
 『えーっ、じゃあモデル? それともグラビアアイドルとかかな』
 『やっぱりねぇ。一般人じゃないと思った。目立つもん、あの容姿は』
 『迷惑だなぁ、ああいうのがいると。見た? あの子のこと見る時の、石橋とか戸塚の目! あたしらの前ではカッコつけてる癖に、ぼけーっとしちゃってさ』
 『でも、モデルとか芸能人が、なんで専門学校なんかに来てるのかな』
 『仕事にあぶれてるとか?』
 『タカビーそうだから、干されたんじゃないの』
 『アハハハハハ、いかにも、気位の高いお姫様っぽいもんねー、あの顔は』

 悪かったわね、そのとおりだったわよ。
 ただし、干されたんじゃなく、辞めたんだけどね。

 入学から僅か1週間で、偶然耳にしてしまった、彼女らの会話。傷つく価値もない、と思った。喧嘩上等、そっちがその気なら、こっちだって仲良くする気なんてないわよ、と、理加子は彼女らを完全無視することに決めた。
 多分、処世術に長けた人間であれば、気さくさをアピールしてそのイメージを払拭しようと努めるのだろうが、理加子は処世術のしょの字も持ち合わせない人間だ。加えて、この容姿―――自分では大嫌いな顔だが、世間の評価はかなり高い。同性からすれば、ただそれだけで、嫉妬と警戒の対象になる。中学・高校の頃にもそういう目は確かにあったが、中学からの信望者たちが睨みを効かせていたから、あからさまな敵意の目を感じずに済んだだけの話だ。
 合コンで男性の視線を集めてしまうであろう理加子を、彼女らは絶対に誘わない。そして理加子も、自分に向けられる妬み混じりな視線に対して、飽くまでも冷ややかな、バカなんじゃないの、という視線を返す。
 別に、友達を作りに学校に通っている訳じゃないし、卑屈になってまで、あの仲間に入りたくはない。でも―――孤立している状態、というのは、結構、寂しい。そんな風に思ってしまう自分に、理加子は自己嫌悪していた。何故なら、そんな風に孤立しているのは、理加子だけではないからだ。
 同年代ではない学生は、大半が誰とも(つる)むことなく、1人で講義に出席し、1人で帰って行く。将来のためだ、仕事のためだ、自分を高めるためだ、と割り切って、目的のためだけに学校に通っている。そんな彼らを、やれ合コンだデートだと騒いでいる連中も、特に悪くは言わない。
 ―――あたしも、あの人たちみたいに堂々としてればなぁ…。これ、っていう目標がないから、あいつらからも舐められちゃうのかもなぁ…。
 もっと、堂々と、胸を張って生きたい。
 また会える保障もないし、その資格があるかどうかも、わからないけれど……半年後、奏が日本に戻ってきた時、少しでも「成長したな」と思ってもらえる自分になりたい。
 でも、それが、具体的に「どんな」自分なのか―――それが、まだ理加子には、見えてこなかった。

***

 『ホールスタッフ募集中!』

 「……」
 「何見てんの? リカ」
 壁をじっと見つめている理加子に気づき、グラスを拭きながら、トールがのほほんとした声で訊ねた。
 「あ…、うん、そこの貼り紙…」
 「え? あー、バイトの募集か。そうなんだよね。ライブなくなったら、1人辞めちゃってさ」
 困ったもんだよ、という口調でため息をつくトールもまた、“Jonny's Club”のアルバイト店員の1人である。ホストクラブが潰れて職を失い、次の勤め先が見つかるまでの繋ぎ程度だろうと、本人も理加子も思っていたのだが、今では人気のバーテンダーとして、店には不可欠のスタッフだというのだから意外だ。
 「トールって、この店、やけに長続きしてるよね」
 「まあね。カクテル考案させてもらったりで、なんか愛着湧いたのかも。バイト料も相場程度だし、他にバーテンダーいないから比較されることもないし、おれ的には結構快適よ、この店」
 「快適なら、バイトに応募してくる人も多いんじゃない?」
 「うーん、そうなんだけど、ねぇ…。辞めた子、結構ここじゃ古株でさ、かなーりわがままなシフト組んでて、それに合わせて他のバイト入れてたもんだから、彼女抜けちゃったら妙な時間帯に人手不足ってな状態になっちゃってさ。応募は多いんだけど、時間が上手く合う人がなかなかいないんだよね。ほら、普通は“夜だけ”とか“日中のみ”とか、ある程度決まってんじゃん」
 「じゃあ、昼からだったり夜だけだったり、曜日によってバラバラなんだ…」
 「そーゆーこと。他のバイトを調整すんのが面倒だから、ぴったり入ってくれる人優先で、とか新オーナーは言ってたんだけど、やっぱ無理あるよなぁ。募集かけてから1週間経つけど、そんな都合のいい奴なんか来ないし」
 「ふぅん…。ホールスタッフって、要するに、ウェイターとかウェイトレスとか、そういう仕事よね。情報誌でも求人多い職種みたいだから、同じ仕事なら自分の都合に合ったとこ選ぶのは当たり前かもね」
 「あれ、もしかしてリカ、バイト先探してたりする?」
 求人情報誌の話が理加子の口から飛び出したことが意外だったのか、トールが首を傾げつつそう訊ねた。
 「…別に、バイトを探してた訳じゃないんだけど…何かしたいな、と思ってたの。今までやったことないことを、何か。モデルは一応やったけど、なんか働いたっていうより遊んでたに近いしなぁ…やってみようかな、ホールスタッフ」
 呟くように理加子が言うと、トールは露骨に苦笑した。
 「えぇー…、マジ? リカが、ホールスタッフ?」
 「何よ、おかしい?」
 「いや、だって…、ねぇ?」
 「ねぇ? って言われてもわかんないわよ」
 「だって、ホールスタッフっつったら、サービス業でしょ。リカが、サービス業? お客様にサービスする訳? なんか、スゲー違和感」
 「……」
 ―――そりゃあ、トールから見たら、違和感かもしれないけどっ。
 なにせトールは、“お姫様”扱いされている理加子ばかり見てきている。大勢の取り巻きにちやほやされ、晴紀を召使のように自由に使っていた理加子を知る人物は、みな同じことを言うだろう。
 でも、違和感ありまくりで結構。これまでの自分から脱皮したいのだから、これまでの“お姫様リカちゃん”とはかけ離れたことであればあるほど、やってみたくなる。
 「…別に、いいじゃない。カメラの前で気取って笑顔作ること考えたら、相手が目の前にいる分、営業スマイルの方が楽よ」
 「ふーん…そういうもん?」
 「ね、バイトって、どんな風に応募すればいいの?」
 すっかり乗り気になってしまった理加子を見て、変だ、と言えば言うほど逆効果だと悟ったのだろう。トールはそれ以上、異を唱えることはしなかった。

***

 「それで履歴書書いてるんだ…」
 「そ。明日面接なの」
 ファミレスの片隅で、初めて見る履歴書を楽しげに広げている理加子を眺めつつ、優也が小さくため息をついた。
 「リカちゃんて、行動力あるよね」
 「そう?」
 「うん。なんか、どんどん前に進んで行って、僕だけ置いてけぼりになってる気がして、焦るよ」
 「やだ、そんなことないでしょ? オーバーな」
 「…オーバーでもないよ、ほんとに」
 浮かない顔の優也は、そう言ってアイスティーのグラスにささったストローを意味もなく弄んだ。その落ち込んだ様子に、理加子は顔を上げ、眉をひそめた。
 「何か、あったの?」
 「…ん…、リカちゃんだけじゃなく、穂積も最近、頑張ってるから」
 「蓮?」
 「リカちゃんは忘れてるかもしれないけど、僕ら4年生は、今年、就職活動の年なんだよ」
 「……あ、」
 そうだった―――優也が大学院に進むようなのですっかり忘れていたが、大学4年はそういう年なのだ。
 「てっきり優也と一緒に大学院に行くのかと思ってた。ふーん、就職するんだ」
 「多分ね」
 「多分、って……もしかして優也、蓮と喧嘩でもしてるの?」
 親友らしからぬ発言に、もしやその程度のこともわからないほど疎遠になっているのか、と心配顔になった理加子に、優也は慌ててストローを離し、ぶんぶん首を振った。
 「ま、まさか! 喧嘩なんてしてないよ。ただ単に、最近、穂積からその手の話が出たことがないだけで。でも、大分前に就職することは決めてるって言ってたし、その後方針転換した話も聞かないから、就職するんだと思うよ。実際にどこかの企業の面接受けるみたいだしね」
 「えぇ? どこの会社受けたかも知らないの? 何それ、変なの。優也にも内緒にしてるような会社って、どんな会社よ」
 理加子が眉を上げると、優也は苦笑しまた首を横に振った。
 「秘密にしてるんじゃないよ。穂積は、ただ自立してるだけだよ」
 「ジリツ?」
 「僕の相談には親身に乗ってくれるし、その中で自分のことを話すこともあるけど、穂積自身の問題は、穂積1人で解決しちゃうんだよ。誰かに相談するとか、他の人がどうしてるか聞くとか、そういうことしないんだ」
 「……」
 「迷ってる時は“迷ってる”としか言わないし、悩みがあっても僕みたいに露骨に頭抱えたりしないし、穂積の中にあるしっかりした軸に沿って物事を考えるから、僕らよりあっさり答えを出してるように見えるだけだよ。でも、穂積は穂積で、黙って静かに迷ったり悩んだりしてるんだと思う。別に秘密にしてるんじゃなく、ずっと自己解決してきたから、誰かに相談するって考えがないんじゃないかな」
 ―――うん…、なんか、あの人っぽい。
 理加子は、蓮の性格なんて、よく知らない。でも、優也と比較して格段に口数が少なく、理加子と2人だけになった時は必要最低限の言葉しか発しなかった蓮を思い出すと、ああ、なるほど、という気がする。去年のクリスマス、兄の婚約者が乱入してきた時は、まるで別人のようにまくし立てていたが、あれは彼女が相手だからではなく、頭に血が上っていたからだろう。日頃からあれだけ本音をぶちまけていたのなら、そもそもああいうトラブルにはならなかった筈だ。
 「なんだか、僕が相談してばっかりで、あんまり穂積の力になってやれる場面ないのがちょっと寂しいけど…そういうとこも含めて、穂積だし」
 「ふうん…」
 そう言って笑う優也を見ていると、優也にとって蓮は本当に大事な友達なんだということが、よくわかる。多分、一番の親友―――当然だ。友達ができないことに悩んでいた優也が、初めて、勇気を出して手に入れた親友なのだから。

 ―――いいなぁ、男の友達同士って。
 ううん、男の人じゃなくても、友達じゃなくても、誰かにとって特別な存在って、羨ましい。

 「? どうかした?」
 黙って自分の顔ばかり見つめている理加子に気づき、優也が不思議そうな顔をした。
 「…なんでもない。優也ってほんとに蓮のことが好きなんだなー、って、しみじみ思っただけ」
 理加子がそう言うと、優也は一瞬目を丸くし、それから照れたような苦笑いをした。
 「な、なんだか、同性に“好き”って言葉使うのって、誤解されそうで困るなぁ」
 確かに、解釈次第では危ない方向に誤解されてしまうのかもしれない。優也の困り顔が可笑しくて、理加子は思わず吹き出してしまった。

***

 翌日は、アルバイトの面接本番だった。
 理加子にとっては初めての経験なので、前日の夜からかなり緊張した。が、モデルという特殊業界ではあるものの一応社会人として大人や企業の人間とも接したことがあったので、実際に話を始めたら、比較的落ち着いて対応ができた―――と思う。
 いずれにせよ、理加子は、1ヶ月は研修期間という条件で無事採用され、週に5日“Jonny's Club”でアルバイトをすることになった。


 「い…っ、いらっしゃい、ませ」
 ―――あああああ、こ、声がっ、声が震えるっ。
 初オーダー第一声は、こんなホールスタッフがいる店なんて嫌だよ、と自分なら思いそうなほど、上ずった不自然な声だった。
 目の前にいる3人組の女性客の反応が怖い。ドキドキしながら様子を窺うと、なんのことはない、声の不自然さも気にならなかったらしく、3人ともアルコールメニューに目が釘付けのままだった。
 「えっとぉ、あたし、カシスオレンジ」
 「バイオレットフィズ」
 「アプリコットクーラー」
 「あ、ごめん、やっぱりモスコミュールにするー」
 「ねえ、サラダどれにする? ミモザサラダ綺麗じゃない?」
 「とりあえず、きのこのオムレツ1つー」
 好き勝手にオーダーを重ねる女性客たちに、思わず「新人だから手加減してよ」と言いたくなる。オーダーを書き留めたメモは、取り消し線ばかりが目立つ、見難いものになってしまった。
 オーダー変更に追加注文、頼んだものがまだ運ばれてきていない、といったクレーム対応―――客として何度も経験してきた見慣れた行為も、反対側から見ると全てが「初めて」。客から呼び止められる度に、心臓が跳ねた。常連らしき客から「新しいバイトの子?」と訊ねられ、一緒に来ていた仲間と共にやたら容姿を褒められたが、「ありがとうございます」と返す理加子の笑顔は、ガチガチに強張っていた。
 結果、オーダーミス2回、「申し訳ありません」と言った回数7回。お世辞にも順調とは言えない滑り出しに終わった。
 「ま、初日は仕方ないわ。初めての仕事でいきなりミスしたら、誰だって萎縮するもの。大丈夫よ、すぐ慣れるから」
 研修期間中、指導に当たってくれることになった女性スタッフが、1日の最後にそう言って励ましてくれた。指導スタッフがちくちく嫌味を言ったりカリカリ怒ったりしない人だったのが救いだ。もしそういうタイプの人だったら、初日だけで辞めてしまっていたかもしれない。

 一晩寝て、初日の後悔やら恥ずかしさやらが幾分和らいだ翌日は、比較的ミスもなく、無難にこなすことができた。といっても、1人客や2人連れが多く、初日よりオーダーも落ち着いていたせいかもしれないのだが。
 1日、無事に仕事を終えられたことで、少しだけ自信がついたのだろう。3日目以降、初日のようなパニック状態になることは、もうなかった。
 ―――良かった。あたしでも、ちゃんと仕事できるじゃない。
 当たり前のように見てきた仕事がとてつもなく難しく思えて、初日は落ち込んだけれど、これなら何とかやっていけるかもしれない―――ホッと胸を撫で下ろしたのは、1週間のシフトを一通り終える頃だった。

 何も考えずに、ただ流されるようにモデルになって。ちやほやされても空しくて……そして、自分の甘さを思い知らされて。
 やりたいことなんて、わからない。
 けれど、やれることは、ゼロじゃない―――今は、それだけで、十分だ。


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