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― 未来予想図 -1- ―

 

 「こうたい?」
 突如告げられた言葉の意味を、優也は、すぐには理解できなかった。
 「あ…あの、こうたい、というと…」
 「つまりですね、」
 まだ20代半ばだろうか、きっちり整えられた頭と涼しげな目元をした担当者は、少しのためらいもなく説明を続けた。
 「ご依頼者曰く、もう少しビシビシ厳しくやってくれる人にして欲しい、と。教え方そのものもそうだけど、接し方というか、こう、態度そのものも」
 「……」
 「その理由は、実際に会っている秋吉さんが一番よくわかってると思いますが」
 「……はい」
 本音を言えば、4月になり、新しい家庭教師先を紹介された時、優也の頭によぎったのは「無理」の2文字だった。
 人間を見た目で判断してはいけない。判断してはいけないのだが…膝からより腰からの距離を測った方が早そうな超ミニスカートを穿き、アジア人には不自然な色の髪をクルクル巻き髪にした彼女は、実際の成績より3割ほど賢くなさそうに見えた。しかも、挨拶の間も上の空状態、膝の上に置いた携帯電話ばかり気にしている、という状態なのだから、優也でなくとも頭を抱えたくなるだろう。
 会った瞬間から思い切り引いてしまった優也だったが、いや、重要なのは中身だ、と辛うじて踏みとどまった。優也の大学にだって、金髪なのに目の周りが真っ黒、という凄いファッションの新入生(ちなみに男である)がいるが、噂では将来の夢が「高齢者や障害者の自立生活を支える実用的ヒューマノイドの開発」なのだそうだ。さすがにそれは極端な例だが、学習意欲さえ人並みにあってくれれば、外見がどうでも関係ない―――優也はそう考えた。
 しかし、優也のそんな思いも、すぐに打ち砕かれた。集中力はない、質問はしない、挙句に「どこがわかんないか、わかんない〜」ときた。心を鬼にして、勉強の間は携帯電話を親に預けるようにしてもらったが、手元に携帯電話がないと落ち着かないらしく、かえって集中力を低下させる結果になった。正直、もうお手上げだ。
 「最初は、女の子だということもあって、なるべく優しく丁寧に教えてくれる人を希望されてたんですけどねぇ…。様子を見ていて、ご両親も方針転換せざるを得なくなったようです。残念ですが」
 「…はあ…」
 「そんな訳で、月の途中で申し訳ありませんが、今週から他の先生と交代していただくことになりました」
 「……はあ……」
 「当面、お願いする生徒さんがいないので、秋吉さんは“待機”ということになりますが…それでよろしいですか」
 つまり、今週から、バイトの予定がなくなった、ということだ。
 そんなの、よろしい訳がない。全くよろしくない。が、困ります、と訴えたところで、新たな生徒が来ないことにはどうしようもないことも、十分理解している。
 「…わ…わかりました」
 残念ながら、そう答える以外、優也には道がなかった。

***

 「良かったじゃないか」
 優也から新しい生徒に関する愚痴を既に聞かされていた蓮は、バッドニュースに対してあっさりそう言った。
 「辞められるなら辞めたい、なんて言ってたんだから、向こうからキャンセルしてくれてラッキーだろ」
 「…それはそうだけど…たった2週間足らず、片手にも満たない回数で“あなたじゃない人がいいです”って言われるのも…」
 「別に秋吉に問題がある訳じゃないさ」
 「うーん…」
 蓮がそう言うのも、一応、理解できる。
 優しく丁寧な家庭教師を求めていたのだから、いきなりスパルタ教師が派遣されてきたら、それはそれで問題になっていたのだろう。要するに、親の我が子に対する認識に問題があったのであって、優也が悪かった訳ではない。優也なりに厳しい態度と取ったが、それでも追いつかないほど、今回の生徒とは相性が悪かった、ということなのだろう。
 「なんかさぁ…あまり良く思ってない人間が、自分のことを陰で悪く言ってるらしい、って噂を耳にして、“ふん、お前に好かれようなんて思ってないよ”って口では言うけど、内心結構落ち込む、なんて話、あるでしょう。今の気分は、それに近いかも」
 しみじみと優也が言うと、蓮は困惑したように眉をひそめ、数秒後、ポツリと答えた。
 「…経験ないから、よくわからないな」
 「…うん。僕も、実際にそういう目に遭ったことはないから、似たような気分なのかどうかは微妙なんだけど…うーん、どうすれば良かったのかなぁ…。求められてるものが違うんだから、やっぱり交代する以外なかったのかなぁ…」
 家庭教師という仕事に対して、それほどの思い入れがある訳ではない。が、与えられた仕事には人一倍の真面目さと熱心さで取り組む優也にとって、相手に問題があったにせよ「あなたじゃ務まりません」と言われてしまったのは、かなり落ち込むことなのだ。
 「まあ、早く次の家庭教師先が見つかるといいな」
 いつまでもため息をついて首を捻っている優也を見飽きたのか、蓮はそう言って、優也の肩をポンと叩いた。
 と、そこで初めて、ある重要な事実に気づき、優也はハッと顔を上げた。
 「そ…そうだった」
 「え?」
 「僕、今週から、バイト先がないんだった。まだ半月しか働いてないのに」
 優也の生活は、親からの仕送りで賄われている。家賃・光熱費・定期券代を引いても多少の残金が出るくらいの金額で、それが優也の食費や小遣いの一部となっている訳だ。だが、物価の高い東京で、しかも以前とは違い友人との付き合いもある今の優也には、仕送りだけで1ヶ月を乗り切るのは、ほぼ不可能―――週2回の家庭教師のバイトは、優也が生活するのに必須だったのだ。
 「どどどーしよう! は、早く別のバイト見つけないと!」
 「…次の生徒が紹介してもらえるんじゃなかったっけ」
 慌てふためく優也の傍らで、蓮は冷静な意見を呟いた。が、優也は「とんでもない!」という顔で首をぶんぶん振った。
 「僕が登録してるとこ、大手じゃないし、家庭教師頼むのって、大体新学期前とか夏休みとか、そういう区切りのある時なんだってセンターの人も言ってたから、紹介待ってたら下手したら夏休みまで仕事ゼロになっちゃうよ」
 「ああ、なるほど」
 大体、受験を控えているとか、前学期の成績が思わしくなかったとか、そういうきっかけがあって初めて、じゃあ家庭教師を頼もうか、という話になる訳だ。言われてみれば納得の流れに、蓮は深く頷いた。
 「でも、そんな必死な顔になるほど、ギリギリな生活送ってないだろ。余った金を貯金してる位なんだし」
 「貯金は、万が一の時のための備えだから、手をつけたくないんだ」
 「……」
 今がその「万が一の時」なんじゃないの、という疑問を、果たして口にしていいかどうか蓮が迷っている間に、優也は既に立ち上がっていた。
 「ごめん、穂積。僕、本屋行ってくる!」
 アルバイト情報誌を買うなら、ネットにもほぼ同じ情報が載ってるよ、という助言を、果たして口にしていいかどうか蓮が迷っている間に、優也は早くもファミレスの伝票を掴んで、レジに向かって歩き始めていた。

***

 4年になってからというもの、講義の時間もぐっと減り、カリキュラム上大学に行かねばならない日は週に3日と極端に少なくなった。
 講義がなくなった分の時間は、卒論の準備や自主研究に充てなければならないのだが、それでもなお、3年の時より自由時間は増えた。つまり、以前なら時間帯の関係から選ぶことのできなかったバイトも、比較的選びやすくなった、ということだ。

 ―――軽作業…って何? 勤務先が工場っぽい所だから、力とか使うのかなぁ。あんまり力には自信ないなぁ。ええと、このページから先は、接客業かぁ。レジスタッフにホールスタッフ…うーん…あがり症だからなぁ。大丈夫かな。パニクってレジの打ち間違いとか多発しそうで怖いなぁ。
 「何読んでるの〜? 秋吉君」
 「わああっ!」
 いきなり背中を叩かれ、優也は、ここが学食であることも忘れて大声を上げてしまった。
 振り返るとそこには、一切邪気のない笑顔の真琴が立っていた。
 「あれ、そんなに驚かせちゃったかな〜?」
 「い、いえ、ちょっと…全然気づかなかったんで…すみません」
 紙面に集中しすぎて、周囲の音や気配にまるっきり気づけなくなっていたらしい。あたふたと雑誌を閉じ、優也はぺこりと頭を下げた。
 当たり前のように優也の隣の席に腰掛けた真琴は、雑誌の表紙に目をやると、不思議そうに目を丸くした。
 「ん? アルバイト探してるの? 家庭教師は?」
 「はあ…それが…」
 真琴に知れるのはちょっと恥ずかしい気もしたが、優也は、昨日の出来事をかいつまんで説明した。ふんふん、と時折頷きながら聞いていた真琴は、最後に、納得したように大きく頷き、はぁ、と息をついた。
 「なるほどね〜。まあ、ユーに問題があった訳ではないのですから、いつまでも引きずらずに前進するのは、良いことナリよ」
 「…本音を言えば、まだ落ち込んではいるんですけど…今は、収入源が途絶えてる不安の方が大きくて」
 「そんなに不安にならなくても〜。家賃と水道光熱費を仕送りで賄ってるのなら、最悪、今日から1日1食にすれば済む話ナリよ」
 「1日1食、って―――まさか、マコ先輩、それって体験談じゃあ…」
 まさかね、と思いつつ優也が訊ねると、真琴は自慢気に胸を張り、きっぱりと言った。
 「ワタシは、3日間の絶食の経験もあるのでござるよ」
 「……」
 「どうしてもノートパソコンが欲しくて、貯金下ろして衝動買いした後になって、今月の食費が残り千円切ってることに気づいたナリよ〜。あと2週間近くあったのにね〜」
 あはははは、と楽しげに笑う真琴を見て、聞くんじゃなかった、と後悔した。
 ―――うーん…やっぱり僕は、空が落ちてくるのを心配した杞の国の人、なのかなぁ…。
 確かに、真琴や蓮の言うとおりだ。明日にでもまた家庭教師先を紹介される可能性だってゼロではないし、生活費が足りなければ節約すればいい話だし、節約しきれず貯金をおろすことになっても、稼げるようになったらまた貯めればいいだけの話だ。真琴という生き証人がいるのだから、最悪、数日間絶食という手もある。その気になれば、方法はいくらでもあるのだ。
 それなのに、新しい生徒の紹介がなかったら、次のバイト先が見つからなかったら、とネガティブなことを考えて行動してしまうのは、己に自信がないからかもしれない。困った状況に陥った時、機転を利かせて上手く乗り切れる自信がないから、困った状況に陥らない道を先に考えてしまうのだろう。
 なんとかなるさ、と言える真琴や蓮が、羨ましい―――病気や事故でそれまでの夢を諦めざるを得なかった、という共通した過去を持つ2人と、何の挫折も経験せず育った恵まれすぎな自分を比較して、優也は小さくため息をついた。
 「でも、どうしてこんな所で仕事探しをしてたの〜? 今日って講義のある日だったっけ?」
 「あ…いえ、講義は、ないです。ちょっと調べたいことがあって、図書館に来てたんで、ついでに学食寄っただけで」
 「ふぅん。あれっ、そういえば、穂積君は?」
 講義のない日に大学に来ることがあっても、大抵は蓮と2人揃って来ているので、優也が1人でいることが不思議なのだろう。キョロキョロと蓮の姿を探す真琴に、優也は苦笑しつつ、答えた。
 「穂積は、会社の面接試験に行ってます」
 「あ、そっかー、穂積君は就職するんだったねぇ。4年は、今の時期は大変なんだ」
 「3年の時点で内定取ってる人も、結構いるみたいですけどね」
 昔は就職協定というのがあって、就職前年でなくては内定が出せなかったのだが、企業側の要望でその協定が撤廃され、今では就職活動といったら3年生が常識と化しているらしい。2年の時に蓮と同じ講義を取っていた学生が、この前廊下で会った時、蓮がまだ就職活動中だと聞いて「随分ノンビリしてんなぁ」と呆れた顔をしていた。
 「ワタシたちの時も、3年で内定取ってる人が多かったけど、卒論提出間近になってもまだ就職先の決まってない人もチラホラいたナリよ。3年で内定もらってたのに、卒業ギリギリで就職する筈だった会社が倒産しちゃった、なんて子もいたしねぇ」
 「…それも凄いですね」
 「周りが就職活動で苦労してると、就職しない組は肩身が狭いナリよ〜。去年はワタシも、嫌味言われたりして、散々だったナリ〜」
 「……」
 マコ先輩でも、そんなこと、考えたりするんだ―――そんなことを思った優也は、直後、自分の馬鹿さ加減を恥じた。
 痛い痛いと喚いている人間だけが、傷ついている訳ではない。眉間に皺を寄せている人間だけが、悩んだり落ち込んだりしている訳ではない。誰だって、たった1人では生きていけない。生きている以上、誰かと関わらざるを得ないのだから、そこにはプラスだけじゃない感情だって生まれるだろう。真琴だって、そういう人間の1人だ。自己嫌悪することも、理不尽さに憤ることも、あって当たり前―――ただ、それを表に出すか出さないかの違いに過ぎない。
 「秋吉君は、やっぱり、大学院に進むのですか」
 優也の落ち込みにも気づかず、真琴はそう言って、俯き加減の優也の顔を覗きこんできた。クルンと丸い目でまじまじと見つめられ、優也はドギマギしながらも、なんとか答えた。
 「い…一応、今のところは、そのつもりです」
 「つもり、ってことは、まだ決定じゃないんだ?」
 「…学内試験に受かるかどうか、って不安もあるし…それ以上に、なんか、先がまだ見えなくて」
 「先?」
 何それ、という顔をする真琴に、優也はきちんと向き直り、逆に質問した。
 「マコ先輩は、修士課程が修了したら、どうするんですか?」
 「えっ」
 「うちの大学の場合、修士課程修了すると、博士課程後期に進むこともできるでしょう? 永岡教授みたいに、博士課程を経て助手、助教授…って風に進む人もいるし、修士課程卒業したら一般企業に勤める人もいるし―――マコ先輩は、どういう道を目指してるのかな、と思って」
 「えぇー…、そんなの、まだ決めてないナリよ」
 「え、そうなんですか?」
 「だって、修士課程2年の間に、もっと深く追究したいことが出てくるかもしれないし、もう勉強はいいから実践で知識を役立てたいと思うかもしれないし―――1年後の自分なんて、想像できないナリよ。秋吉君はできるのですか?」
 「…いえ、全然」
 想像できないからこそ、迷っているのだ。眉を八の字に歪め、優也はため息をついた。
 「ずっと勉強だけしてきたようなものだから、このままずーっと勉強する道を選ぶのもアリなんだろうな、とは思うんですけど……なんか、研究に没頭している自分の姿っていうのが、全然思い浮かべられないんです。想像してみても、どうも不自然というか、無理してる感じっていうか…」
 「それは、今はまだ秋吉君が若くて学生だから、じゃないのかなぁ? “教授”とか“先生”て名前が似合うオジサンになれば、不自然でも何でもなくなるかもよ〜?」
 「うーん…そういう、見た目的な違和感でもないんですよねぇ…」
 上手く説明できないことに焦れる優也だったが、ふと、ある考えた頭をよぎり、真琴の顔をじっと見つめた。
 「…マコ先輩なら、想像できるかも」
 「え?」
 「新しい何かを発見するには、それまでの人が考えなかったものを考えて、着目しなかったものに目を留める必要があるでしょう? マコ先輩は、そういうのに向いてる気がします。なんとなく」
 「そ…そー、かなぁ?」
 悪い気はしないのか、真琴はちょっと顔を赤らめ、照れたように笑った。
 「今度、永岡教授のお供をして、学会の雑用係をさせてもらうのですよ〜。あ、ワタシだけじゃないけど。同行メンバーがみんなして、ワタシが行ったら子供が紛れ込んだと勘違いされるぞ、って言うからちょっと気が重かったけど、秋吉君がそー言うなら、少しだけ楽しみになったナリよ〜」
 「…そ…っ、そ、そう、ですか」
 ―――ど…童顔だとは前から思ってたけど…年上なのに可愛らしいって、ちょっと反則、かも、しれない。
 えへへへへ、という感じの真琴の笑顔が思いのほか可愛らしくて、優也は不覚にもうろたえてしまった。すると真琴は、急にキリッとした表情になり、真っ直ぐに優也の目を見据えた。
 「秋吉君。迷えるというのは、贅沢なことなのですよ」
 「贅沢…?」
 「世の中には、お金や家族、個人の能力その他もろもろの事情から、ある決まった道にしか進めない人が、大勢いるのですよ。決まった道しか選べない人は、迷うことすらできないのです。秋吉君もワタシも、迷うほど選択肢があるというのは、とても贅沢で幸せなことなのです」
 「……」
 「年下の秋吉君に焦られたりしたら、ワタシももっと焦らなくちゃいけないんじゃないか、って、焦るじゃないですか〜。秋吉君は、同い年の子より1年先を歩いているのですから、余裕を持って十分迷えばいいと思うナリ〜」
 最後に、いつものようにフニャリとした笑顔でそう言われて、優也は思った。ああ、この人には敵わない、と。

 驚くほど童顔で、一見子供みたいだけれど。
 思考回路がぶっ飛んでいて、聞いている方の力がヘナヘナと抜けていくような喋り方だけれど。
 藤森真琴は、間違いなく、優也より2つ年上で―――立派な「人生の先輩」だ。

***

 『そうなの。もー、焦っちゃった。まさか咲夜さんが来るなんて、ぜんっぜん頭になかったから』
 「そうかぁ…」
 多少興奮気味の理加子の電話に相槌を打ちつつも、優也はまだ、手元の求人雑誌をパラパラめくっていた。
 家庭教師が交代になってから3日―――当然ではあるが、新しい生徒の紹介は、まだない。真琴の助言もあって、暫くは紹介を待とうという気にはなった優也だが、やはり生来の心配性は簡単には直らず、家にいる時は大抵、見るともなしに求人情報をパラパラとやってしまうのだった。
 『でも、最初から頭にあったら、あそこでバイトしようとは思わなかっただろうし、もっと早く気づいてたら、毎日ドキドキしながら働く羽目になってただろうから、すっかり忘れててかえって良かったのかも…。咲夜さんにバレたらどうしよう、とか、もう考えずに済むし』
 「…うん、確かに、そうかも。気に入ってるんだね、あの店での仕事」
 理加子の口調に、今のバイトを続けていきたい、という意志を感じ取って優也がそう言うと、電話の向こうの理加子は、少し照れたような笑いを漏らした。
 『気に入ってる、っていうか―――ホント言うと、あまり向いてないんじゃないか、とか思ったりすることの方が多いんだけど、なんか…今のあたしに、必要な気がして』
 「必要?」
 『苦手だ、向いてない、って感じるのは、そこがあたしの弱点で、克服するのに凄く労力が必要だからでしょ? だから、なのかな……なんかね、今の仕事やってると、長い時間かけて歪んできちゃった自分が、ちょっとずつ矯正されてくような、そんな感じがするの』
 「…矯正…かぁ…」
 『接客業は、別にあの店じゃなくてもやれるんだけど、トールがいてくれる分、少し気が楽だし…続けられるだけ、続けるつもり。来年の授業料を全額自分で賄いたいってこともあるし』
 理加子がそう言ったところで、玄関のチャイムが鳴った。音が携帯電話を通して聞こえたらしく、理加子も「あ、チャイム」と小さく声を上げた。
 『誰か来た?』
 「多分、穂積だね」
 『いいなー、一緒の所に住んでると、こんな時間でも遊びに行けて』
 拗ねたようにそう言った理加子だったが、邪魔をしてやろう、とまでは思わないらしく、意外にあっさり「じゃあまたね」と電話を切った。
 ―――あ、しまった、家庭教師先に切られた話、しようと思ってたのに。
 切り出すタイミングを逸したまま、電話を終えてしまった。でも、初めてのバイトに俄然やる気を出している最中の理加子には、その高揚する気分に水をさす話題となってしまっていたかもしれない。まあいいか、と息をつき、優也はチャイムに応えて玄関へ向かった。

 案の定、訪問主は、蓮だった。
 「悪い、こんな時間に」
 「ううん。バイト帰り?」
 「ああ。さっそくだけど…これ」
 部屋に入るなり、そう言って蓮が差し出したのは、スリーブに入ったCD−ROMだった。
 「明日、時間があるようだったら、一通り使ってみてくれないかな」
 「あ、テスト? うん、いいよ」
 蓮が作った、シミュレーションソフトらしい。卒業研究にも関係する内容なので、以前から時々、こうして優也にチェックを頼むことがある。幸い明日は講義もなく暇なので、優也は二つ返事で引き受けた。
 「あれ、けど、穂積も明日は講義ないんじゃ…」
 いつもなら、ソフトを持ってきて一緒にチェックする、といった流れになるのに、こうして届けに来て頼むというのは珍しい。不思議に思って訊ねると、蓮は質問の意図を汲み取り、答えた。
 「明日は、本命の面接だよ」
 「あ…、そうだっけ。立て続けだね」
 「偶然な」
 蓮は、就職活動のことについて、優也にはあまり多くを語らない。今のところ、大学院に行く可能性の方が強そうな優也に、そういった話をする気にはなれないのかもしれない。明日受けるところが本命らしいが、それが何の会社なのか、どういう職種なのか、優也は一切知らなかった。
 「1社目は穂積の方から蹴っちゃったんだっけ。ええと、この前の所の結果は、いつ出るの?」
 「1週間以内に、採用なら電話してくるし、不採用だと封書で履歴書送り返してくるらしい。まあ…不採用だろうな」
 あっさりと蓮が口にした言葉に、優也は驚いて目を丸くした。
 「ふ、不採用!?」
 「多分な。採用ならすぐ電話来る筈だろうから、昨日も今日も連絡なかったってことは、郵送の方だと思う」
 「不採用……穂積が……」
 ショック丸出しの優也の反応に、蓮は不審気に眉をひそめた。
 「なんでそんなに驚くんだ?」
 「だって、穂積で不採用になるなんて。頭いいし、真面目だし、礼儀正しいし、髪の色だって普通に戻ってるし―――何が原因で採用しなかったんだろう? そんなに優秀な人ばっかり集まってたのかな」
 「…秋吉ってもしかして、家庭教師以外のバイト、何もやったことない?」
 「? うん」
 「てことは、バイトで不採用になった経験も、そういう話を聞いたこともない?」
 「うん…」
 優也にとっては、大学生になって家庭教師センターに登録をしたのが、人生初めてのアルバイトだ。有名大学の学生ばかり集めている会社なので、実質採用試験はゼロ。よって、不採用になった経験などない。高校は進学校だったので、バイトをしているクラスメイトなど皆無だったし、大学に入ってからの唯一の友達が蓮なのだから、バイト先を探す苦労話など聞いたことはなかった。
 「ええと…そ、それが、何?」
 蓮が何故そんなことを訊くのかわからず聞き返してみたが、蓮は微妙な表情で、
 「いや…何でも」
 とボソボソと答えるだけだった。その曖昧な反応が気になりはしたが、ちょうどそのタイミングで、今さっき終えたばかりの理加子との電話のことを思い出してしまった。
 「あっ、そうだ。今、リカちゃんと電話してたんだけど―――僕、今まで穂積に、言ってなかったことがあって」
 「え? 何?」
 「リカちゃん、“Jonny's Club”でバイト始めたんだ。ホールスタッフとして」
 蓮の表情の変化を探るように、慎重に話を切り出す。が、蓮の反応は極めてクールだった。
 「へぇ。あの子が、ホールスタッフか」
 「うん。本当は1週間くらい前から、なんだけど。それで今日、なんか、咲夜さんがお店にお客さんとして来たみたいで、」
 途端、蓮の眉が、ピクリと動いた。それに気づいた優也は、慌てて言葉を続けた。
 「で、でね、リカちゃんは、咲夜さんに何か言われるんじゃないか、って内心ドキドキしたけど、咲夜さん、笑顔で“頑張れ”って言ってくれた、って」
 「……」
 「穂積も、あの店の常連客だったから、また行くこともあると思うけど…そんな訳で、リカちゃんが働いてるから、ええと、その…」
 本当に伝えたいことが、上手く出てこない。ゴニョゴニョと口の中で言葉を転がしていたら、苦笑した蓮が、助け船を出してくれた。
 「咲夜さんのライブが終わってからは、俺があの店行く機会はほとんどないし、仮に行ったとして、そこであの子が働いてても、別に何とも思わないよ」
 「…あ…う、うん」
 「あいつが接客業って、何か変な気もするけど―――いい経験にはなるだろうな。長続きすりゃあいいけど」
 「……」
 冷静で大人な蓮の意見に、優也は、ちょっと拍子抜けした気分になった。と同時に、過去の遺恨を懸念して1週間以上も蓮にはこのことを伏せていた自分を、少しばかり恥じた。


 蓮が帰ってしまってから、優也はまた求人雑誌を広げ、ううむ、と唸った。
 広げた誌面には、様々な業種、様々な仕事が並んでいる。時給も時間帯も多種多様で、応募資格もバラバラだ。家庭教師の経験しかない優也にとっては、どれも初めての仕事―――その点では、どの仕事を選んでも同じ、だと思う。理屈上は。
 とはいえ、人間、向き不向きというのがある。力仕事は、木戸も太鼓判を押した優也の貧弱さでは無理だろう。資格が必要なものもNG。デザイン系など知識や技術の必要なものもアウトだ。やれそうなのは、いわゆるオフィスワークと呼ばれるものになるが、そういう仕事に限って、募集要項に「学生不可」と書かれていたりする。
 そして、一番重要な事実―――学生歓迎、という特集コーナーに載っている記事の約9割(いや限りなく10割に近い)が、接客業だということ。
 …正直、苦手意識が、先に立つ。優也は自分の対人恐怖症気味な部分を自覚しているし、咄嗟の機転がきくタイプではない、とも思っている。愛想が悪い訳ではないが、営業スマイルを貫く自信もまるでない。客からクレームをつけられたりしたら、パニックに陥った挙句、すみませんすみません、と謝り倒すのに必死で問題解決まで頭が回らない気がしてならない。
 どう考えても、自分は、接客業向きではない。そう考えて、雑誌全体の半分以上を占めるこの仕事を、あえて範疇外とみなしてきた。けれど―――…。
 「…経験、かぁ…」
 理加子にとって、“Jonny's Club”での仕事はきっといい経験になるだろう、と蓮は言った。理加子自身も、向いていないと思った仕事にあえてチャレンジしたことで、歪んだ部分が矯正されていく気がする、と言っていた。
 ずっと勉強だけしてきたような、これまでの自分―――だからといって、選択肢を自ら減らすような考え方をするのは、もしかして、間違っているのではないだろうか?
 やってみなければ、わからないこともある。無愛想な蓮も、お姫様のような扱いをされてきた理加子も、飲食店での接客業をちゃんとこなしている。ならば―――優也にだって、できないとは言い切れないのではないだろうか?

 『秋吉君もワタシも、迷うほど選択肢があるというのは、とても贅沢で幸せなことなのです』

 ―――そうだよなぁ…。こうやって迷うことすらできない人だって、世の中にはいるかもしれないのに。
 「…応募だけでも、してみようかな」
 ポツリと呟いた優也は、急に真剣な目になり、これまで読み飛ばしてきた広告を食い入るように見つめた。


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