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― クラスメイト -3- ―

 

 「…なんか、ごめんね」
 理加子のその言葉に、須賀は不思議そうな顔で首を傾げた。
 「は? 何が?」
 「だって…あたしがいたせいで、須賀君、他の子たちと全然喋れなかったじゃない」
 「あー、なんだ、そういうこと」
 何故理加子が恐縮しているのか、その意味がやっとわかったらしい。須賀は苦笑の表情になり、声をあげて笑った。
 「おれが喋れなかったのは、何も姫川のせいじゃないよ。半分、幹事みたいに動き回ってただろ?」
 実際、須賀は、飲み会の間ずっと、追加オーダーを聞いたり、料理の残り方が偏ってしまったのを気にして皿を移動させるよう言ったり、と、ほとんど幹事状態だった。実際の幹事は別にいたのだが、いざ会が始まってしまえば自分自身のことに夢中で周囲に気が回らないのだろう。須賀側の幹事だった男性は須賀の後輩に当たるらしく、何度も「すみません、先輩」と言っていたが、結局は須賀に甘える形になってしまっていたようだ。
 席に着けば、ちょっと孤立気味になっている理加子に話しかけ、合間合間に周囲に気を遣い―――という繰り返しで、結局、2時間あまりのコンパの中で、須賀がじっくり話をできた相手は、理加子1人という有様だ。
 「でも、一次会であんなに忙しかったんだから、二次会くらい出ておけばよかったんじゃない?」
 「おれ、元々、一次会でサヨナラ派だからさ。幸い、おれ狙いな女もいないみたいだったし、姫川と一緒に抜けても怒る野郎どももいなかったから、ま、いいんじゃない」
 そう言った須賀だったが、あ、と何かに気づいたように声をあげ、慌てて、隣を歩く理加子の方を見た。
 「あ、いや、別に姫川がモテないとか言ってる訳じゃないけどさ」
 これには、思わず吹き出してしまった。
 「やだ、モテないのは事実だから、別にいいのに」
 クスクス笑いながら理加子が言うと、須賀は意外そうな顔を一瞬して、それから苦笑とも誤魔化し笑いともつかない笑顔を見せた。

 須賀は、高校3年の時の同級生だが、理加子の中での彼の印象は、決して鮮明な方ではなかった。
 印象に残っているのは、凄く人気があったり、逆に素行不良でみんなから煙たがられていたりと、破格の目立ち方をしていた生徒ばかりだ。つまり、須賀直人という生徒は、良くも悪くも飛びぬけて目立った生徒ではなかった、ということになる。
 極平凡な生徒と、いつも親衛隊に囲まれているアイドル―――少ない接点の中、唯一理加子が覚えているのは、彼がとてもマメな生徒だった、ということだ。
 理加子と一緒にやった環境美化委員という委員会では、副委員長に選任され、まとめ役としてよく働いていた。クラスでも、目立って成績優秀な生徒ではなかったが、先生が放課後の頼みごとなどをすると、率先して引き受けていた。リーダーとなって引っ張っていくタイプではないが、くるくるとよく働き争いごとなども起こさないので、比較的誰からも好かれている生徒だったように思う。
 その姿を思い出すと、今日のコンパでの須賀の行動は、実に須賀直人らしいものだったのかもしれない。当時の短髪が長くなり、眼鏡がコンタクトになったため、随分イメージが違ってしまったが、相変わらずマメで気のつく男だ。

 「それにしても、なんか、姫川って、思ってたのと違うんで、今日はちょっと驚いたよなぁ」
 しみじみ須賀にそう言われて、今度は理加子の方が、不思議そうに首を傾げた。
 「思ってたのと違う、って?」
 「だって、姫川って言ったら、いっつも親衛隊みたいなのに取り囲まれて、その真ん中で女王様然と構えてるのが当たり前だっただろ? おれたち普通の奴らとは住んでる世界が違うのよ、ってオーラがバシバシ出ててさ」
 「……」
 「“あの”姫川が、モデル辞めて専門学校生になってたのも意外だし、ああいう男狙いなのがミエミエな連中に引っ張られてコンパなんかに出てきたのも意外だし、なんだか遠慮してるみたいに自分からは誰にも話しかけないでいるのも意外だし―――自分のこと、モテない、とか言うのも、かなり意外だった」
 「…そうね。そう思われても仕方ないかも」
 自分で振り返ってみても、当時の親衛隊の団結力と選民意識の強さは、少々常軌を逸したものがあった。あんな高い壁に囲まれていた自分は、周囲からはさっぱり見えなかったに違いない。もっとも、高い壁の内側でも、理加子が素の顔を晒すことなど皆無だったが。
 「周りから作られちゃった“アイドル像・リカちゃん”みたいなのがあって、あたしもそれに慣れちゃってたから。でも、素はあんまり変わってないんだけどなあ…。元々、賑やかなの苦手だし、自分に自信がない方だし」
 「自信ない、って、なんで? あんだけ信者がいたのに」
 「だって、この顔だけでしょ、ウケてたのは」
 「え…」
 「目・鼻・口のパーツ配置ならね、多分標準より上なんだろう、って自分でもわかる。みんなそう言うし。でも、ただ綺麗なだけで、魅力があるか、って言われたら……多分、ノーなんだろうな、ってのも、わかるの。女神様みたいに崇める人はいても、リカと付き合いたい、って男の人、全然いなかったもの。ほら、須賀君も言ってたでしょ? お人形みたいでイマイチ、って」
 理加子が指摘すると、須賀はギョッとしたように目を見開き、露骨に慌てふためいた。
 「な…なななななんでそれをっ!」
 「偶然聞いちゃったの。何の時だったっけ? もう忘れちゃったけど」
 「あああ……ご、ごめん、別に悪気があった訳じゃ…」
 「ううん、いいの。一瞬ムッて思ったけど、あたし自身もそう思ってたから、かえって清々しかったくらいだもん」
 実際、あの会話を偶然耳にしてしまった時は、須賀に対してではなく、むしろ、理加子の容姿を褒め称える周囲の連中の方に嫌悪感を持った。一体、外見以外の何を知っているのか、と突っ込みを入れてやりたくなるほど、理加子の顔ばかり褒める奴ら―――彼らに比べたら、須賀の反応の方が至極ノーマルなように、理加子には思えた。
 「あたしね、自分がウケてたのは、単にパーツ配置が整ってるって意味の“綺麗さ”だけで、魅力があるとか、色気を感じるとか、そういうのは全然ないと思うの。…本当は、そういうの、凄く空しいけど……寂しいから。1人になっちゃうの、怖かったから、つい、みんなが望んでる“リカちゃん”でいる方を選んじゃってたの。ついこの前まで」
 「てことは…辞めたんだ? “みんなのアイドル・リカちゃん”は」
 「うん」
 「なんで? 寂しくなくなったから?」
 「…ううん。でも、お人形さんとしてじゃなく、ちゃんとした1人の人間として向き合ってくれる人でないと、どんなに大勢いても、空しいだけだから」
 理加子が答えると、須賀は、ふぅん、と考え込むような表情で相槌を打ち、続けて、意外な一言を口にした。
 「だったら、高校の時から、そうしてりゃあ良かったのに」
 「え?」
 「おれ、姫川は、ああいう風に信者に取り囲まれてるのが好きなんだと思ってたよ。きっと取り巻きにチヤホヤされて悦に入ってるような女なんだろうな、って勝手に想像して、あんまり良く思ってなかったけど―――今日話してみたら、意外に普通じゃん。ていうか、下手したらその辺の女より自信なさげで、控え目なんじゃない?」
 「……」
 「見た目で損してるのに、その見た目に合わせたキャラ作ってたんじゃあ、絶対大損してたと思うよ、高校の時。周りから持ち上げられても、素の姫川のまんまを通してれば、姫川の“見た目”と“中身”のギャップに興味持って近づいて来る奴だっていたと思うけどなぁ」
 ―――ホントに…?
 須賀の言葉に、理加子は目をパチパチと瞬かせた。その反応が可笑しかったのか、須賀は理加子の目の前で吹き出した。
 「な…何よっ、何が可笑しいのよっ」
 理加子がムッとしたように唇を尖らせると、ますます須賀は面白そうに笑った。
 「ご、ごめんごめん。ただ、ほんと、調子狂うなぁ、と思って」
 「……」
 ―――こっちこそ、調子狂っちゃうわよ。
 高校時代、まるで交流のなかった須賀が、こんな風に、親しげに口をきいて目の前で笑っているなんて―――調子が狂う。しかも、須賀が語った話が、少々、理加子の劣等感の核心部分を突くものだったから、余計に、どうリアクションを取ればいいのか、困ってしまう。

 「あ、ええと…、姫川って、どっち方面だっけ」
 話をしながら歩いていたら、最寄り駅に着いてしまった。改札を前にして、須賀が上りと下り双方の乗り場を見比べ、理加子を振り返った。
 「1番ホームの方。須賀君は?」
 「あー…、おれは、反対方向」
 「…そう」
 内心、ちょっとだけ、がっかりした。
 飲み会の間の大半を須賀と喋って過ごしたとはいえ、話した内容は通っている大学や専門学校のことや、そこで勉強していることの内容、バイトのことや理加子が辞めてしまったモデル業についてなどばかりで、須賀や理加子の人となりに触れるような内容は、あまりなかった。人付き合いや将来進むべき道で迷いや悩みが多い分、須賀がどんな考えの持ち主なのか、もう少し踏み込んで聞いてみたい気がしたのに―――ここでお別れとは、少々残念だ。
 須賀の方も、どこどなく残念そうな表情を一瞬見せたが、そういえば、と思い出したように笑顔になった。
 「あのさ、姫川がバイトしてるって店……えーと、名前、なんだっけ。“Jonny's Bar”だっけ?」
 「え…、ううん、バーじゃなくて、“Jonny's Club”」
 「あ、そうか。そこ、今度、行くよ」
 「えっ」
 「おれのバイト先から家帰る途中の駅だしさ。ホールスタッフしてる姫川、見てみたいし」
 「…べ、別に、極フツーのアルバイト店員よ? 見ても大して面白くないと思うけど…」
 「え、迷惑?」
 ちょっと心配げに眉をひそめる須賀に、理加子は慌てて首を横に振った。
 「そ、そんなこと……あ、でも、あたしのバイトのシフト、曜日によってバラバラなの。須賀君来てくれても、あたしいなかったら、無駄足になっちゃう」
 「ハハ…、やっぱり姫川、想像してたキャラと全然違うね」
 今の発言の何について、須賀がこんなコメントをしたのか、いまいち判断がつかなかったけれど。
 ただ、イメージしていたのと違う、という須賀のその言葉が、いずれも良い意味で使われているのだけは、なんとなく感じられたので、理加子は思わず、微かに頬を赤らめ、またリアクションに窮してしまうのだった。

***

 ―――本気で来るつもりなのかなぁ、須賀君…。
 湯船にのんびり浸かりながら、理加子は、今日あったことを思い返して、大きく息をついた。
 あの後須賀は、理加子の1週間の大体のシフトを訊ね、必ず行くから、と言い残して帰って行った。いつ行く、とは言っていないが、わざわざシフトの確認までしたのだから、単なる社交辞令ではなく、行こうと思っているのは本当なのだろう。
 別に、おかしな話だとは思わない。理加子だって、蓮がカフェバーでギャルソンをしていると聞いて、単なる興味本位で優也にせがんで蓮のバイト先に遊びに行ったことがある。特に興味がなくても、たまたま暇だったので、取り巻きの1人が働いているネイルサロンに爪の手入れをしてもらいに行ったこともあった。人付き合いのマメな須賀なら、バイトの話を聞いた以上は、1回は顔を出しておかないと、と考えても不思議ではない。
 他意などない、深い意味などない、それはわかっている。
 けれど―――ほんの少しでも、今の自分に興味を持ってもらえたのだとしたら…ちょっと、嬉しい。
 ―――うーん…駄目だなぁ、あたしって。須賀君は誰にでも愛想いい人だから、知り合った人全員にああやって親身になって話を聞いたりしてるのかもしれないのに…。
 関心を持ってもらえることに、必要以上の意義を感じてしまうのは、理加子も自覚している悪い癖だ。自意識過剰にならないようにしなきゃ、と自分に言い聞かせつつ、理加子は、のぼせ気味の頭を軽く振った。


 『おかけになった電話は、電波が届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません』

 「……」
 風呂から上がり、優也に電話をかけたが、5回のコールの後に返ってきたのは、お馴染みのこのアナウンスだった。
 ―――おっかしいなぁ…もう寝ちゃったのかな。
 ちらっと時計を見ると、午後11時ちょっと前―――普段ならまだ電話に出てくれる時間帯だ。
 念のため、もう一度電話してみたが、やはり同じアナウンスが流れるだけだった。はあっ、とため息をついた理加子は、仕方なく携帯電話を閉じ、ベッドの上に投げ出した。
 「どうしたのかなぁ…」
 無意識のうちに呟きながら視線を向けた先には、風呂に入る前に開いたばかりの包みがあった。今日、コンパから帰宅した理加子に、母が手渡ししてくれたもの―――父から預かったものだ。

 『お昼に呼び出されて、5分だけ会ったの。パパ、昨日出張から帰ったんですって。この前、リカとの約束守れなかったから、って…こんなもので埋め合わせにはならないだろうけど、リカに渡してくれ、って言われたの』

 中身は、出張先のシンガポールで購入したらしい、綺麗な刺繍の入ったスカーフだった。土産物屋などで売っている量産品ではなく、シルク専門店で購入したものだとわかる高級品だ。
 視線をクローゼット横の棚に移せば、そこには、これまで父や母が出張先で購入しては理加子に渡してくれたお土産の数々が、コレクションよろしく並べられている。愛らしい人形あり、木彫りのおもちゃあり、銀細工の手鏡あり……お留守番していたご褒美、と称して、2人はよくお土産を買ってきてくれた。そんな物より、一緒にいてくれる時間をこそ、理加子は望んでいたけれど―――今更、それをどうこう言う気はない。
 父も、弱い人ではあるが、血も涙もない冷血漢ではない。母を通じてではあるが、こうして埋め合わせをしようとする程度には、理加子の気持ちを気遣ってくれているのだと思う。気遣ってもなお、母や理加子と向き合う気に、なかなかなれない、ということなのだろう。
 ―――まだ納得できない部分、いっぱいあるけど…パパやママが言い出す前に、あたしの方から「離婚しても構わないよ」って言ってあげるべきなのかな。
 そんな考えが、最近、頭にチラつく。そのことを、優也にちょっと話してみたくなって、電話してみたのだが…残念。どうやら、寝ているか取り込み中のようだ。

 バイトを始めてからというもの、忙しくて、優也とさっぱり会えずにいる。電話で話した回数も片手で余るレベルだ。
 元々、優也の方から連絡してくることは稀なので、優也の近況は理加子から連絡しなければ把握できない。今、電話に出られなかった理由も、もしかしたら理加子が想像するのとは全く違うものなのかもしれない。たとえば、大学に居残って何か作業をしている最中だとか―――彼女が出来て、デート中だとか。
 …そう。十分、あり得る。
 優也に今、気になる存在の異性の先輩がいることを、理加子も知っている。そして、日頃はあんな感じだが、いざとなれば言うべきことは言い、行動すべき時は行動する優也であることも、理加子は知っている。「告白なんて絶対無理」と言っている優也だが、彼に可愛い恋人ができる日は、そんなに遠い訳ではない気がする。
 もし、優也に、彼女が出来たら、きっと、こんな風に気の向くままに電話するなんて、無理になるだろう。そのことを考え、理加子の表情が暗く沈んだ。
 理加子が気軽に話せる相手で、家庭の問題やプライベートな悩みを知っているのは、今のところ優也だけだ。だから、こうして両親のことで不安定な気分になると、優也に話を聞いてもらいたくなってしまう。でも、もし、優也に彼女がいたとしたら―――今日コンパに誘った女の子たちの、あの理加子への露骨な警戒ぶりを見れば、優也の彼女が理加子をどう思うか、大体想像がつく。
 素敵な服や珍しいおもちゃ、学校でのステータスや優越感などがなくても、理加子の方へと歩み寄ってくれた人だ。優也が真剣な恋をしたら、その恋を応援してやりたいと、本当に思う。
 でも…本当にそう思っていても、やっぱり、ちょっと寂しい。
 辛かったり悲しかったりした時、優也が真っ先に話す相手はきっと彼女になるのだろうし、彼女と理加子が同時に優也の名を呼べば、きっと彼女の方を振り向くようになるのだろう。当たり前のことだけれど…それでも、寂しい。

 ―――なぁんか、悔しい。
 いつも、悩みを相談するのは、あたしの方で。
 相手に恋人出来ちゃったら、自分の居場所がなくなっちゃう、なんて寂しさとか焦りとか感じてるのも、多分、あたしの方で。
 僕なんて、って、優也はすぐ自分のことを謙遜したり卑下したりするけど……なんか、よく考えると、あたしの方が優也に寄りかかってない? 優也の方が年下なのに。

 「…うん。がんばらなきゃ」
 もう1回、電話してみようかな、とまだ食い下がろうとするもう1人の自分を押さえ込み、理加子は、携帯電話を拾い上げ、就寝時の定位置である充電器に収めた。

***

 優也と連絡がついたのは、コンパの翌日のことだった。

 『ご、ごめん。昨日、電話くれてたんだよね』
 着信履歴を見て、慌てて電話してきたのだろう。優也の声は、酷く恐縮して、焦っている感じだった。
 『何か、用事だった?』
 「ううん、そういう訳じゃないけど、最近遊びに行ってないから、どうしたかなと思って」
 『あ…、そうなんだ。だったらいいけど』
 「でも、珍しくない? 優也があんな時間に連絡つかないって」
 優也は、比較的、規則正しい生活を送っている。家庭教師のバイトがあったり、蓮とどこかへ遊びに行ったりした場合でも、夜10時頃には大体家に帰っていて、寝る直前に風呂に入り、湯冷めする前に寝る。就寝時刻は、おおむね日付が変わってから1時間以内だ。そんな優也が、あの時間帯に電話に出ず、しかも、折り返しの電話もしてこなかった、というのは、かなり珍しい。
 「飲み会か何かだったの?」
 『…うん、まあ、そんなとこ』
 「…ふぅん…珍しい」
 『大学院の先輩たちの集まりに、僕らも強引に引っ張りこまれた感じだったんだけど…もう、みんな、手に負えない位酔っ払っちゃって―――ああいう時、酔っ払ってない人間は、損するよね』
 優也にしては妙に早口でそう答える。なんだか曖昧な表現と異様なテンションに不信感を抱いた理加子だったが、どう訊けばいいのかわからなかったので、とりあえず、
 「あー…、うん、そうかもね。優也はあんまり飲まないから、損する側よね」
 と相槌を打っておいた。
 その後、ゴールデンウィーク中に一緒に簿記の勉強のための参考書を探しに行ってもらう約束をして、電話は終わった。
 ―――なぁんか、変だったなぁ、今の優也。
 昨日の飲み会で、何かあったのだろうか? 首を捻りつつ、理加子は携帯電話を閉じた。


 ゴールデンウィーク中は、専門学校も休みだった。
 珍しく母も2日ほど休みが取れ、うち1日を理加子とのショッピングに、もう1日を知人の娘の結婚式に費やした。新婦が理加子と同い年と聞いて驚いたが、先日のコンパで、須賀が、高3の時のクラスメイトの1人が現在2児の母になっているらしい、と話していたのを思い出して、世の中には自分の倍のスピードで生きている人もいるんだな、とつくづく思った。
 日頃ハウスキーパーに任せっきりの掃除や洗濯をやったり、バイトに行ったり、優也と久々に会ったりしていたら、あっという間に連休は終わってしまった。
 そして、その頃には、須賀がバイト先に来ると言っていたことなど、ほとんど忘れてしまっていた。


 「姫川」
 連休明けのバイト中、突然、後ろから声をかけられて、理加子はビックリしてトレーを落としそうになった。
 反射的に振り返ると、そこには、まるで悪戯が成功して喜んでいるみたいな須賀の笑顔があった。
 「須賀君…!」
 「お疲れ様。本当にホールスタッフやってたんだなぁ。この目で見るまで半信半疑だったけど」
 一瞬止まった心臓が、バクバクと激しく波打ち始めるのを感じ、理加子は胸を押さえ、はーっ、と大きく息を吐き出した。
 「び…びっくりしたー…」
 「ここって、どこ座ってもいいの?」
 動揺する理加子をよそに、須賀はキョロキョロと店内を見渡している。こうした店にあまり来たことがないのか、興味津々といった様子だ。
 「結構埋まってるね、席。相席でないと無理かな」
 「…カウンター席なら、空いてるから」
 ちょうど、トールのファンを自称する女性客の集団が帰ったばかりなので、カウンター席は比較的ゆとりがある。もう一度深呼吸をしてから、理加子は須賀をカウンター席へ案内した。
 「え…ええと、ご注文は…」
 「あ、ウーロン茶で。料理は、えーと…メニュー見てからにするから」
 どうやら、飲みに来たというより、食事をしに来たらしい。オーダーを伝票に書き込むと、理加子はすぐカウンター内に引っ込み、ウーロン茶の支度を始めた。
 ―――し…心臓に悪いなぁ、もう。
 律儀な性格らしいので、来るだろうとは予想していたが…まさか、忘れた頃になって来るとは思ってもみなかった。なんだか油断したところに突っ込まれたような、変な悔しさのような、恥ずかしさのようなものが込み上げてきて、なかなか心臓が大人しくならない。
 ウーロン茶をトレーに乗せつつ、チラッとトールの方を見ると、トールは須賀の席とは反対側の端っこにあたる席の女性客と、何やら楽しげに話をしていた。どの客にも等しく愛想を振り撒くその姿に、プロだなぁ、といつものように感心しつつ、理加子はドリンクを須賀の席へ運んだ。
 「お待たせしました、ウーロン茶です」
 グラスを置くと、須賀は「あ、どうも」と軽く頭を下げた。そして、周囲に一応気遣ってか、小声で理加子に話しかけた。
 「実は、まだ料理が決まんなくて…。お勧めとか、ある?」
 「えっ。う、うーん……あたしは、このパスタとか、好きだけど」
 そう言って理加子がトマトソースの海鮮パスタを指差すと、須賀はホッとしたように表情を緩めた。
 「じゃ、これ注文する」
 「はい」
 「…思ったよりは馴染んでるけど、やっぱり目立つね、姫川は」
 ホールスタッフの中で浮いている、という意味なのだろう。客からも「ウェイトレスには惜しいね」などと言われたりするが―――そして大抵、そういう言葉は、理加子に対する褒め言葉のつもりで相手は使っているのだが―――理加子本人は、あまり嬉しくない。
 「…須賀君も目立ってるわよ。その、真夏みたいな日焼けが」
 唇を尖らせ、そう返してやった。
 実際、振り返って顔を見た時から、気になってはいた。5月は紫外線も格段に強くなる季節とはいえ、日焼けをしている客などまだいない。なのに、須賀は、まるで真夏に海にでも行ったかのような日焼け顔だったのだ。
 「ああ…、そういえばおれ、日焼けしてたんだった。忘れてた」
 理加子に指摘されて、須賀はそう言ってバツが悪そうに苦笑した。
 「実は、ゴールデンウィークに、沖縄行ってたんだ」
 「へぇ…。大学のお友達と?」
 「いや、家族で」
 「家族? えー、意外。男の人って、これくらいの歳になると、家族旅行に同行するなんて恥ずかしい、とか言って行かなくなっちゃうもんだと思ってた」
 理加子の取り巻きだった連中が、以前、そんなような話をしていたのを覚えている。随分と家族仲がいいんだな、と思いつつ理加子がそう言うと、須賀は苦笑を曖昧な笑みに変えた。
 「ん…まあ、うちは、まだ弟が小学生だし」
 「え、そうなんだ」
 「ま、1年に1、2回のことだしね」
 そう答える須賀の表情は、照れているとか、気恥ずかしさを誤魔化しているとか、そういう感じではなかった。何故か、妙に淡々とした、それでいて体裁上は笑顔を作っているような、そんな微妙な表情だった。
 ―――なんか、あったのかな。
 いつも明朗快活、愛想のいい須賀のイメージしか持っていなかったので、こういう表情は予想外だ。不思議に思ったが、仕事中でもあるので、理加子はそれ以上突っ込むことなく、適当に受け答えをしておいた。


 その後、帰る客が何組か重なってしまい、理加子は暫く、レジやテーブルの片付け、新規の客のオーダーなどに追われた。
 須賀とはそのまま話ができず、やっと言葉を交わせたのは、彼が食事を終え帰る時だった。
 「姫川お勧めのパスタ、うまかったよ」
 「ほんと? 良かった」
 「また来るよ。それと―――よかったら、姫川もおれんとこの店、来てよ。これ、割引券だから」
 そう言って須賀が差し出したのは、大規模にチェーン店を展開している居酒屋のクーポン券だった。居酒屋でバイトをしているとはコンパの時に聞いていたが、店の名前は今初めて知った。
 「平日夜なら、大抵出てるよ。実は、この後もバイトなんだ」
 「今から? 遅いシフトなのね」
 「時給がいいから」
 なるほど、と納得した理加子は、ありがたくクーポン券を受け取っておいた。じゃあまた、と言い残し、須賀は笑顔で帰って行った。

 須賀を見送った後、他の客のオーダーを聞いてカウンターへと戻ると、トールがさり気なく近寄って来た。
 「今帰った客、リカの知り合い?」
 他の客の相手をしながらでも、理加子が須賀と話していたことには気づいていたらしい。隠す必要もないので、理加子は素直に答えた。
 「そう。高校の時の同級生」
 「ふーん…」
 「それが、何?」
 軽く眉根を寄せたトールの表情を不審に思って訊くと、トールは首を捻りつつ、短く唸った。
 「ううーん…おっかしいなぁ、おれ、人の顔覚えることについては、かなり自信あった筈なのに」
 「? どういうこと?」
 「おれ、あの客、どっかで会った気がするんだよなぁ。気がするんだけど、どうしても思い出せなくてさ。そこの席座ってからずーっと、誰だっけ、どこで会ったんだっけ、って考えてるんだけど、いまだに出てこないんだよね」
 「…まあ、いくらトールでも、そういうこともあるわよ」
 コンピューターでもあるまいし、これまでの人生で会った人間の顔を全て記憶しているなんて、あり得ない話だ。苦笑した理加子は、まだ首を捻っているトールの肩を、慰めるようにポンと叩いた。
 自身の記憶力に自信喪失状態のトールには申し訳ないが、そんなことより、今の理加子にはもっと引っかかるものがあるのだ。


 須賀らしからぬ、あの、表情。
 どちらかというとファニーフェイスで、一部の女の子の間では「可愛い」と言われていた須賀。けれど、あの時の須賀の顔は、可愛いとは対極にある、僅かに厳しさを伴った、硬いものだった。

 ―――うん。ただ、意外だっただけよ。
 須賀君が、あんな表情するなんて、想像したこともなかったから…だから、驚いただけ。それだけだ、きっと。

 あの表情を見た瞬間、ドキン、と心臓が跳ねた―――その理由を、理加子はそう、自分に言い聞かせていた。


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