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― Freaks -1- ―

 

 初めて「それ」に気づいたのは、1人で“Jonny'S Club”を訪れるようになって、少し経ってからだった。

 技術的なことも、音楽的なことも、一切知識は持っていない。が、何かが―――決定的な何かが違う、と感じた。
 家のコンポで聴くCD、学校の体育館で聴いた生演奏、狭いスタジオで聴いた友人らのバンド練習、その彼らが1度だけ行った野外ライブ……豊富ではないものの、それなりに耳にしてきた、数々の“音”。「それ」は、そういった“音”のどれとも、どこか異なっていた。
 自分が好きなアーティストだから、そう感じるだけなのかもしれない。それが全てではないにしても、多少の因果関係はあるだろう。でも、それだけではない気がする。じゃあ、何なのか……それが、ずっと気になっていた。
 そして、ある日、唐突に、気づいた。
 今聴いている、この“音”は、スピーカーを通して伝えられている“音”なのだ、ということに。
 そのことに気づいた日から、“Jonny's Club”に行く度、スピーカーを興味深く眺めていた。
 店の規模にしては大き目な、味のあるマホガニー色をした、年代物らしきスピーカー。楽器は、年代を経る毎に音色を変えるというが、スピーカーのような電気的な物は、どうなのだろう? スピーカーの詳しい仕組みを知らないから余計、何故このスピーカーを通して聴く音に惹かれるのか、知りたいと思った。

 DIYの専門店へ行ったら、初心者向けのスピーカー組み立てセットがあったので、買ってみた。
 ダイナミック・コーンスピーカーという、一番ポピュラーな構造のスピーカーで、組み立て自体は意外に簡単だった。なるほど、スピーカーとは、音声信号の変換器なのか、電磁力でコーンを震わせて、伝わった音を増幅して押し出す機械、と考えれば、当たらずとも遠からずか―――そんな基礎的なこと知った。キャビネットと呼ばれる箱の部分の材質によっても音の伝わり方が変わることや、店のスピーカーが3ウェイと呼ばれる中音域もカバーするタイプの物であることも知った。
 きっと、あの店のスピーカーは、奇跡的に上手くマッチしているのだ。
 材質、大きさ、店の構造、そして何よりスピーカーを通して伝わる“音”―――彼女の“声”。互いに絶妙な組み合わせで、だからこそゾクゾクするほどの“何か”を感じさせてくれるのだ。

 専門知識なんて持っていない。音楽のこともよく知らない。けれど…“音”。目に見えないもの。それを、計算し、解析し、目に見える形で表すことは、できるかもしれない。自分なら。

 あの人の歌声を、生の歌声以上のものに昇華するアイテム。
 いつの日か、彼女が大勢の観衆の前で歌い上げる時、その声を届けるスピーカーが、自分も開発に携わった物であったなら―――そんな夢を見るのは、滑稽すぎるだろうか。


***


 「それにしても、意外だったな」
 「うん、意外」
 兄の言葉にうんうんと頷いているのは、あまり認めたくない事実だが、一応「姉」である。
 既に優也からも言われたセリフなので、今更ではある。が、この2人に言われると、なんとなく神経に障る。思わずムッと眉を顰めた蓮だったが、面倒なのであえて反論はしなかった。
 「蓮のことだから、なんかこう、男っぽいっていうか、硬派な感じの企業に…たとえば車とかバイク方面希望するかと思ってた」
 「“相羽音響”っていったら、あの“羽音(ハノン)”のグループ企業だろう? 具体的にどんな会社なんだ?」
 イメージじゃない、と言いつつも、兄も兄嫁も、その実態を詳しくは知らないらしい。知らずに好き勝手言うなよな、と思いつつも、蓮は重い口を開いた。
 「…個人ユーザー向け以外の、“羽音”の音響機器全般を作ってる会社。コンサートホールとかライブハウスなんかのスピーカーとか反響板とかで、“HANON”のロゴ入ってるのが全部、“相羽音響”の製品」
 「え、じゃあ、うちにある“HANON”のCDコンポは、蓮が入る会社が作ってる訳じゃないの?」
 「それは、別の“羽音”のグループ企業が作ってる」
 「なんだ…そっか」
 やけにがっかりした様子で和美が呟くと、隣に座る要の眉が不愉快そうにピクリと動いた。その気配に気づいたのか、和美も少し慌てた様子で肩を竦め、口を閉ざした。
 ―――結婚したってのに、いい加減にしろよ。
 以前よりマシになったとはいえ、相変わらず、要は蓮に対する嫉妬心を捨てきれずにいるし、和美がそんな空気を感じてビクビクしている点も変わらない。さすがに少々…いや、かなり、ウンザリだ。けれど、ここで自分が反応して見せるのはかえって逆効果であることも、蓮は過去から学んでいる。気づかないフリをして流す程度には成長したのだ。
 「まあ、何にせよ、早い時期に大手の内定が取れて、一安心だな」
 いかにも要らしい一言に思わず苦笑すると同時に、ジーンズのポケットに入れていた携帯電話が鳴った。反射的に取り出し、電話の主の名前をチラリと確認すると、「秋吉」と表示されていた。
 「…ちょっと、ごめん」
 大した用事ではないだろうが、電話中ずっと興味津々の目で見られるのは不愉快だ。兄夫婦に軽く断りを入れ、蓮は席を立った。

 「もしもし」
 『あっ、穂積? 今って大丈夫?』
 優也の声の後ろでは、家電量販店らしき店内放送がポイント還元セールについて賑やかにアナウンスしている。どうやら外からの電話らしい。
 「ああ、大丈夫だけど」
 『実は今、リカちゃんと秋葉原来てるんだ。リカちゃんの参考書探すつもりだったんだけど、学校で勉強した表計算なんかの復習がやりたいから、ってことで、急遽中古のノートパソコン探すことになって』
 「ふぅん」
 理加子にしては随分と頑張ってるようだな、と少し意外に思う。が、適性がなかったとはいえ、仕事の難しさに気づいてからの理加子は、モデルの仕事に対しても結構真面目に取り組んでいたと聞く。多少歪んでしまっているとはいえ、本来は生真面目な性格で、だからあの優也とも意気投合できるのかもしれない、と蓮は思った。
 『それで…もし暇なら、穂積も来ないかな、と思って。なんか、僕とリカちゃんで選ぶと、変な見落としをして損になるような中古品を掴まされちゃいそうな気がして』
 「…いや、俺も秋吉も、大差ないだろ」
 『うーん、でも…。リカちゃんも、昼ごはんがまだなら、お礼におごるって言ってるし』
 「昼なら、もう食ったよ。実家で」
 蓮のその言葉を聞いて初めて、事前に聞いていた蓮の予定を思い出したらしい。電話の向こうの優也の声のトーンが、若干変わった。
 『あ…っ、そうか、穂積って今日、実家に帰ってるんだっけ』
 「ああ」
 別に来たくもなかったが、内定祝いをやろう、と親から言われてしまっては、断る訳にもいかない。こういうタイミングでゴールデンウィークだったのは、運が悪かったと思うしかないだろう。
 「それに、この後バイトだしな」
 『そ…っか。じゃあ、しょうがないね』
 「悪いな」
 家族団らんを邪魔してはまずい、とでも思ったのか、優也はそれ以上誘いの言葉を口にせず、電話を切ってしまった。
 ―――そもそも、俺が行っても、ただ場の空気を悪くするだけだろうに。
 自分も電話を切りつつ、携帯の液晶画面を見下ろして、ため息をついてしまう。
 別に理加子のことが嫌いな訳ではないが、話も合いそうにないし、一緒にいて疲れるタイプだと感じている。時々優也に誘われて3人で会うこともあるが、蓮が理加子と会話することは極めて稀で、むしろ、優也が蓮にばかり話しかけるので、理加子に面白くない顔をさせてしまうケースの方が多い気がする。そんなことは、もう優也も理加子もわかっている筈なのに、また誘おうとするのだから不思議だ。
 「蓮、」
 「!!」
 誰もいないと思った背後からいきなり声をかけられ、危うく携帯を落としそうになった。
 遠慮がちな、おどおどした声―――振り向かなくても、誰だかすぐわかる。わかるから、振り返る前から、蓮の顔は既にウンザリ顔になっていた。
 「……何」
 蓮の低い声と睨むような目に、和美は強張った顔で不自然な笑顔を作った。
 「だ、誰からの電話かなー、と思ってさ」
 「…秋吉」
 それが何、という口調で蓮が答えると、和美は僅かに目を見開き、続いて拍子抜けしたような顔をした。
 「なんだ、秋吉君か。カノジョか何かかと思った」
 「……」
 「あ、べ、別に、変な意味じゃないからっ」
 険悪になった空気を感じ取ってか、和美は慌てて両手をぶんぶん振った。
 「も、もう、心配しなくて大丈夫! 要の奥さんになったんだ、って自覚が湧いてからは、気持ちも随分落ち着いたし―――でも、蓮は“弟”でもあるし、その…前、の、こともあるから、今も気になるのはしょうがないっていうか…」
 「…もういいって」
 幾分きつめの口調で蓮が遮ると、和美はハッとしたように口を噤んだ。が、すぐに窺うような目になり、小声で訊ねた。
 「―――カノジョとか、出来た?」
 「は?」
 「なんか、感じ変わったから」
 思いがけない言葉に、蓮の目が少し丸くなる。どこがどう変わったんだろうか、と、洗顔時に一瞬だけ見る鏡の中の自分を思い浮かべてみたが、別段これまでと変わった部分はないように思えた。
 「具体的にどう変わった、とは言えないけど、なんかさぁ…蓮を覆ってたトゲトゲみたいなのが、ちょっと減ったっていうか…顔が変わったとかそういうんじゃなく、雰囲気が変わった気がする。いい意味で」
 「…気のせいだろ」
 「ううん、小さい頃から見てきてるから、あたしにはわかる。…ホントに、付き合ってる子、いないの?」
 結局、それが一番の関心事なのか―――胃の辺りがむかむかしつつも、蓮は冷ややかに答えた。
 「そんなもん作ってる暇なんかない」
 「え、」
 「もういいだろ」
 両親に呼ばれたから来たというのに、これ以上、要や和美に付き合う気はない。うるさそうに和美に言い放つと、蓮は和美の横をすり抜けるようにして、父のいるリビングへ向かった。


 ―――俺に彼女が出来ようが出来まいが、和美には関係ないだろ。なんであんなにしつこく訊くんだよ。
 男だ女だと、愛だ恋だと騒々しい連中の気持ちが、蓮にはよくわからない。
 人を好きになる気持ちはわかるけれど、恋人というポジションを得たい、と切望する気持ちには、どうも共感し難い。何故恋人でなくてはいけないのか、疎まれたり嫌われたりしている訳ではないのなら、別に恋人である必要性はないのではないか―――そう思えてならない。
 要するに、恋人になりたいのは、性的欲求と独占欲、その2つを満たしたいから、なのではないだろうか?
 だとしたら、少なくともその片方とは無縁な、むしろ異性に触れられることを想像するだけで総毛立つ自分には、恋愛など無用だ。

 恋をしている暇などない。
 そう。今の蓮には、同世代の言う“恋愛”などより、やりたいことがたくさんあるのだ。

***

 ゴールデンウィーク最終日に、高校の同窓会があった。
 元々行く気はあまりなかったが、高校時代に親交のあった友人が出席するらしいと聞き、直前になって行くことに決めた。

 「まさか同窓会に来るとは思わなかった」
 高校の卒業式以来の再会となる彼に、蓮が意外そうに言うと、彼―――通称“トキ”は、バツの悪そうな苦笑いを浮かべ、頭を掻いた。
 「ハハ…、穂積がそう言うのも、無理ないよなぁ。俺、全然穂積に連絡してなかったし」
 「え?」
 「実はさ、今、こっちの大学に通ってるんだ」
 当然、初耳だ。蓮の目が丸くなった。
 高校時代のトキは、プロドラマーになる、という夢に否定的な両親との間に諍いが絶えなかった。一応大学に進むつもりで受験勉強もしていたが、中学から一緒にバンドをやっていた仲間が、親の仕事の都合で4月からアメリカに行ってしまうことになったのが、トキの引き鉄を引いた。本命大学1校に絞り、「ここを落ちたら俺は大学には行かずにアメリカに行く」と宣言―――そして、宣言どおり大学に落ち、仲間を追うようにアメリカに行ってしまった。
 蓮が知っているのは、ここまでだ。ボーカルが他のバンドに移ったり、ベースが進学に専念するために辞めたりする中、ずっと一緒にやっていこう、と誓い合っていたドラムのトキとギターのケンだったので、今もアメリカで一緒に音楽をやっているのだろう、と考えていた。なのに―――まさかトキが、帰国して大学生になっていたとは。
 「一体、いつから…」
 「えーと…3年前、かな」
 「は!?」
 「ま、まー、連絡しなかったのは、悪かったよ。でも俺、穂積の携帯番号知らないし、実家に電話っつーのも…」
 「いや、連絡のことはどうでも―――それより、どうして…」
 呆然気味に蓮が訊ねると、トキは軽い調子を止め、言い難そうに答えた。
 「…俺が、甘かったんだよ」
 「?」
 「始めの頃は、楽しかったよ。ケンのとこに下宿させてもらって、2人でオリジナル曲作ったりしてさ。ケンの親父さんからバイト先も紹介されたし、仕事しながら英語も少しずつ覚えられたし。なんでもスケールデカくて、スゲー、スゲー、って物珍しさに浮かれてるうちに、あっという間に時間が過ぎて―――アマでもいいから、こっちで実力つけて、日本に戻ったらプロになるぞ、って、俺もケンも本気でそう思ってた。でも…半年経った頃、偶然、地元の高校生のアマチュアバンドのライブを見に行って…俺も、ケンも、打ちのめされたんだ」
 「打ちのめされた?」
 「…黒人のさ、俺より一回りくらいデカい高校生が、ドラム叩いてたんだよ」
 その時のことを思い出してか、トキの目が、どこか遠くを見据えた。
 「上手いとか下手とか、そういうレベルじゃなく、なんかこう、体の中に流れてるもんが違う、って感じがした。リズム感とかさ、音の1つ1つが重いっていうか、ガツンとくるっていうか―――無名の、しかも、プロになる気もない、趣味でやってる高校生だぜ?」
 「……」
 「ケンはケンで、やっぱり、ギターやってる奴の音に結構衝撃受けちゃってさ。なんつうか……2人して、勝負する前に、気持ちで負けちまったんだ。あれを聴いちまった後は、どんだけ俺らがいい演奏しても、常にあの時の敗北感…いや、敗北感ともちょっと違うんだけど、ああ、DNAレベルで、俺たちには辿り着けない場所に、あいつらはいる、って感じたあの時の気持ちが、また甦ってきてさ」
 どういう演奏だったのか、蓮には想像することはできない。が、それなりの自負と自信を持ち、努力してバンド活動を続けていた2人が、そこまで叩きのめされた演奏というのは、恐らく、アマであることや人種など関係なく、彼らがプロをも凌駕するほどの腕の持ち主だっただけのことだろう。
 「別に、お前らがそいつらに勝つ必要は、ないだろ。自分たちの音楽を貫けばいいんだから」
 どうも腑に落ちず蓮がそう言うと、トキは、自嘲気味な笑みを口元に浮かべた。
 「ああ、俺らも、そう言ってたよ。何も“負けた”って思ったのはこれが初めてじゃないし、いつかは超えてやる、って思ってやってきたんだから、って…あいつらの演奏聴いて、暫くは。でも―――なんだろうなぁ。何が違ってたのか、正直、今でもよくわからないんだよな。ただ、今まで何があっても保ててたもんが、あれでぷっつり切れちまったんだ。俺も、ケンも」
 「…じゃあ、ケンも、プロは諦めたのか…」
 「何も、プロになるだけが、道じゃないしな」
 思いのほか明るい声でそう言うと、トキは薄く微笑んだ。
 「来年には、ケンもこっちに戻ってくるし、そしたらまた、仲間集めてバンド活動するんだ。これからは、純粋に“楽しむため”にロックをやってく」
 ―――トキは、もう道を選んだんだな。
 初心を貫くだけが人生ではないことを、蓮自身、よく知っている。大事なのは、決めた道を、本人が納得しているかどうか、だ。
 トキの言葉に、些細なきっかけで折れてしまったことへの自己嫌悪はあっても、後悔や未練のようなものは感じられなかった。2人が納得しているなら、どんな道を選んだのであれ、それでいい。蓮も、トキの笑みに応えるように、微笑を返した。


 ―――そういえば俺なんて、トキたちと親しくなった頃は、殺伐としたこと言ってたっけ。
 クラス会の帰り道、ふと昔のことを思い出して、思わず苦笑した。
 プロのミュージシャンを夢見る彼らから「将来の夢は?」と訊かれた時の蓮の答えは、即答、「ない」だった。その上、「夢なんて、持っていない方が幸せ」とまで言っていた。随分枯れたことを言う、と周囲は引きまくっていたが、その後、蓮が陸上選手として結構な成績を収めていたこと、そして怪我が原因で選手生命を絶たれたことを知り、蓮の言葉に深く納得した。夢がなければ、その夢を叶えるための労力も、叶わないと思い知らされた時の絶望感も、必要なくなる―――実体験からくる、ひとつの真実だ。
 胸にぽっかり穴があいたような状態だった自分を立ち直らせてくれたのが、音楽に夢中になっているトキたちだった。その彼らが、最大の夢を諦めてしまった、というのは、少し寂しい話かもしれない。でも、世の中にゴマンといるミュージシャンの卵の大半が、それぞれの事情で途中で諦めていくのだろうと思う。

 だからこそ、夢見続けられる人間は、稀有な存在だ。
 稀有な存在だからこそ、憧れる―――そういう存在を応援したい、力になりたい、と考えるのは、当然だ。

 そんなことを考えつつ、アパートの階段を上り終えた蓮だったが。
 「……!!」
 階段から廊下へ続く角を曲がった途端、思いがけないものを目にして、ギョッとして立ち止まった。
 今は住人が不在の筈の、202号室―――そのドアが、内側からいきなり開いたのだ。
 まさか泥棒か、と一瞬身構えた次の瞬間、202号室から出てきた人物を確認して、蓮の体から力が抜けた。
 「あれ、蓮君じゃん」
 ケロッとした様子で声をかけてきたのは、咲夜だった。その手にはしっかり、奏の部屋のものと思しき鍵が握られている。恐らく、留守中の奏から鍵を預かっているのだろう。恋人同士で、かつ隣人なのだから、十分あり得る話だ。
 「…泥棒でも入ったのかと思った」
 はあ、と息を吐き出しつつ蓮が言うと、咲夜は面白そうに笑い、手の中の鍵を掲げてみせた。
 「大丈夫、不法侵入じゃないから。今日、天気が良かったからね。空気の入れ替えやっとこうと思って、昼間、窓を開けておいたんだ」
 「ああ、それで…」
 意外なところでまめな人だな、と少々驚かされる。
 決して気分のいい存在ではない筈の理加子の面倒を見てやったり、蓮が突然涙を流してもおおらかに受け止めてくれたりと、咲夜は時々、蓮が元々持っていた彼女に対するイメージを、大いに覆してくれる。飄々として、どちらかと言うとサバサバした男性的なタイプではないか、と思っていたが、咲夜が垣間見せる表情は、むしろ女性的というか母性的だ。
 奏が咲夜に惹かれた理由が、なんとなくわかる。風のような自由さと、しっかり地に根を下ろしたような包容力、両面を持ち合わせているからこそ、惹かれる―――それは多分、蓮自身も、同じだ。
 「一宮さん、元気でやってそうですか?」
 「うん、そこそこね。電話じゃ本当のとこは伝わり難いけど、あいつ、落ち込んでる時は声にモロに出るから、悲惨な状態ではないんじゃないかな。……あ、そうだ」
 唐突にポン、と手を叩くと、咲夜は、肩から掛けていたバッグからチラシらしきものを取り出し、蓮に差し出した。
 「来週の金曜日、このライブで、ゲスト出演することになったんだ」
 「え、」
 「て言っても、頼み込んで出させてもらった、って感じで、チラシにも載ってないんだけどね。歌わせてやる代わりに宣伝しろ、って言われてチラシを山ほど渡されたんで、1枚もらっといて」
 咲夜の言うとおり、渡されたチラシのどこにも、咲夜の名前はなかった。ざっと見た感じでは、ドラム、ベース、ピアノ、サックスというカルテットで、元々ボーカルはいないらしい。急遽ねじ込んだ形のゲスト出演なら、せいぜい歌うのは1曲か2曲だろう。
 だが、そんなことは、どうでもいい。咲夜が、ステージで歌う。その事実だけで十分だ。
 「ありがとうございます。行かせてもらいます」
 当然のように蓮がそう言うと、咲夜はびっくりしたように目を見開いた。
 「え、えぇ? いいよ、チラシ受け取ったからって、別に来なくちゃいけない訳じゃないんだから」
 「でも、咲夜さんが歌うんですよね」
 「歌うけど、今んとこ1曲、客の反応良くて2曲がいいとこだよ?」
 「1曲でも聴けるなら、行きますよ。ファンですから」
 蓮にとっては、至極当たり前のこと。
 けれど、咲夜にとっては、よほど意外なことだったのだろう。目をパチパチと瞬くと、咲夜は蓮の顔をまじまじと見た。
 「…ファンって、そーゆーもん?」
 「は?」
 「90分のライブの中で、お目当てが僅か5分しか歌わなくても、3500円払っちゃったりするもんな訳?」
 「……」
 思いがけない質問に、蓮の眉が困惑したようにひそめられた。
 ファンとは、どういうものなのか―――正直、蓮にも、その一般的な実態はわからない。今まで特定の芸能人などのファンになったことはないし、誰かの熱狂的なファン、という人と親しくなったこともないのだから、わからなくて当然だろう。
 ただ、ファン、と言っても、その熱狂度はピンキリだろうとは思う。CDを聴いたりテレビで見たりするだけで十分なファンもいれば、3センチ四方レベルの写真でも雑誌から切り抜いてスクラップするファンもいる。シングルは買わずにベストアルバムが出るのを待っているようなレベルでもファンを自称する者もいるだろうし、視聴用・友人への宣伝用・保存用と用途別に同じCDを何枚も購入するようなファンもいるだろう。そういった中で、自分がどの位置にいるのか―――そこは、やっぱり判断がつかない。
 というようなことを説明したかったのだが、無言のうちに様々なことを頭の中でこね回した結果、首を傾げた蓮の口から出てきた言葉は、非常にシンプルなものになってしまった。
 「…他人は知らないけど、とりあえず、俺はそういうレベルのファン、です」
 「ふぅん…。いやー、ありがたいなぁ。今まで、はっきりと明確に“私のファン”だって人に会ったことないからさ」
 そう言ってニコリと笑った咲夜は、腕を伸ばし、自分の目線より上にある蓮の頭を、ガシガシ、と勢いよく撫でた。
 「……っ、」
 「じゃ、お金と時間の余裕があったら、是非来てよ。あ、メインのカルテットもめっちゃくちゃ上手いから、私抜きでも来て損はないよ」
 一瞬ギョッとした蓮には気づかなかったらしく、咲夜は明るくそう言い残し、じゃあねー、と自分の部屋に戻って行った。
 固まったままその姿を見送った蓮は、201号室のドアが閉まると同時に、力を抜き、大きく息を吐き出した。

 和美には、少し触れられただけで、総毛立っていたのに。
 飲み会で、隣に座る女性の体が少しくっついただけで、その体温を感じるだけで、背筋に冷たいものが走るほどだったのに。

 バイクの後ろに乗せた時の体温も、今頭を撫でた思いのほか細い指も、蓮が感じたのは、おぞましさより―――痛み、だった。

 ―――本人に邪気がないから余計、厄介なんだよな。
 撫でられた頭を、そっと押さえる。僅かに残っている感触を、無理矢理封じ込めるかのように。

 ジャズシンガー・如月咲夜の、熱狂的なファン―――それが、自分のスタンス。
 それをもう一度、心の中で繰り返してから、蓮はやっと踵を返した。


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