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― Freaks -2- ―

 

 「…終わった…」
 メインバンクの通帳を眺めつつ、蓮は、思わず声に出して呟いた。
 分割払いをコツコツと積み重ねてきて、ついに3月、最後の引き落としが終了。信販会社から何の連絡もないので少々不安だったが、引き落とし日を過ぎても追加されない通帳の明細が、本当に支払いが完了したことを実感させてくれた。
 これで、蓮が命の次に大事にしているバイクは、晴れて名実共に蓮のバイクとなった訳だ。いや、勿論、購入した時から蓮のバイクなのだが、支払いを完了しないと正式な所有者になったと胸を張れない気がしていたのだ。
 社会人になれば、まとまった休みを取るのも難しくなる。だから、学生最後の今年の夏は、できるだけ時間を取ってバイクであちこち回ろうと計画している。就職活動を早めに決着させたのも、余裕を持った夏休みが送れるようにするためだ。まだ卒論という大きな山が残っているとはいえ、計画の前準備の半分くらいは、これで達成できたことになる。自然、蓮の顔に笑みが浮かんだ。

 銀行を出た段階で、まだバイトの時間まで1時間以上あった。どこに行って時間を潰そうか…と考えていた蓮の目に、10メートルほど先にある大きな看板が映った。
 ―――あ、そうだ。CD探すんだった。
 咲夜のファンになった関係で、蓮は、既に何枚か、ジャズのCDを持ってはいる。が、それはどれもボーカル入りのもので、今週末、咲夜がゲスト出演するライブのメインバンドのような、ボーカル抜きの完全インストものは、まだ1枚も持っていなかった。
 どうせライブに行くのなら、目当ての咲夜以外の曲も楽しみたい。知っている曲が1曲でも演奏されたらラッキー、程度の心づもりで、予習として1、2枚、CDを購入しておこうと思っていたのだ。
 しかも、目の前に見える看板には、“HANON”のロゴマーク―――普段、外国資本の某大型CDショップを愛用している蓮は、まだ“HANON”の店舗を利用したことがない。入社予定の会社の、グループの親玉だ。どんな感じの店なのか、気にならないと言ったら嘘になる。
 時間の潰し方が、数秒で決まった。蓮は、少し急ぎ足になって、“HANON”の看板へと向かった。


 初めて入った“HANON”のCDショップは、日頃蓮が行く店とは、少々趣が違っているように見えた。
 使われている色調も落ち着いていて、棚の配置もゆったりとしている。偶然かもしれないが、流れているBGMも、流行のJポップや洋楽ではなく、ちょうど蓮が探しているようなボーカルなしのジャズだ。どこがどのように、とは説明し難いものがあるが、総じて、受ける印象は「高尚」もしくは「上品」―――ここでアイドルグループのCDなどを買うはちょっと気がひけそうなムードだ。
 入り口にあった案内によると、2階には楽譜や楽器も売っているらしい。更に上の階には、傘下の音楽教室や貸しスタジオなどもあるようだ。ものめずらしさに、店内のあちこちを見渡した蓮だったが。
 ―――あれ?
 ふと、見覚えのある顔が目に入った気がして、ニューアルバムのコーナーの一角に目を留めた。
 宣伝文句が書かれているらしきカードを、丁寧に飾り付けている、店員と思しき男性―――斜め後ろから見る形になっているので、その顔ははっきりと確認できない。が、蓮が“彼”を見る時も、いつもこの斜め後ろからのアングルなので、真正面から見るより、むしろこの角度からの方がわかりやすかった。
 「…藤堂さん?」
 蓮の声に振り返ったその顔は、やはり、咲夜と共にステージに上がっていたあのピアニスト、藤堂一成だった。
 振り返った一成は、蓮の顔を見ると少し驚いた顔をし、続いて、もどかしげに眉をひそめた。
 「あー、ええと、君は確か…」
 「穂積です」
 顔は覚えていても、名前までは覚えていなかったらしい。苦笑気味に蓮が答えると、一成は、合点がいったように笑顔になった。
 「そうそう。咲夜と同じアパートに住んでる、大学生の子だったね」
 「はい。あの…」
 ピアニストが何故、CDショップで働いているのか、ストレートに訊いていいものかどうか、少し迷う。が、一成は、蓮の表情から訊きたいことを感じ取ってくれたらしい。くすっと笑い、具体的な質問を待たず答えてくれた。
 「一応、ここの社員なんだ。“HANON”のイベントなんかでピアノ弾いたりもするし、こういう店舗での仕事もするし」
 「そうだったんですか…」
 音楽一本で生きていけるミュージシャンは少ない、と以前トキから聞かされていたし、咲夜も他に仕事を持っているようなので、一成が兼業ミュージシャンであること自体は、さほど驚きではない。だが…まさか、よりによって“HANON”の社員だったとは。
 「穂積君は、よくこの店、利用してるの?」
 「あ、いえ、そういう訳じゃ…」
 案の定、お約束の質問が飛び出した。一瞬、躊躇したが、隠すような話でもないな、と思い直し、蓮は正直に答えることにした。
 「…実は俺、“相羽音響”の内定が決まったんです」
 「えっ」
 さすがに、予想外だったのだろう。一成の目が、少し丸くなった。
 「正直言うと、今まで“HANON”とは無縁だったんですけど―――たまたまこの近くを通りかかって、探したいCDがあったのを思い出して、あ、ちょうどいいな、と」
 「ははぁ…入社予定の会社の大親分が、一体どんな商売やってるのか、事前調査しておこう、ってことか」
 「…まあ、そんなところです」
 事前調査、というほどのものでもないが、主旨としてはそれに近いだろう。自分が入社する予定なのが“HANON”の関連企業でなかったら、多分今後も、この店に入ることはなかったのだろうから。
 「そうか、じゃあ、穂積君とは、来年からは同じグループ傘下の仲間になる訳だ。不思議な縁だな」
 ふっと笑ってそう言う一成に、蓮も「そうですね」と微笑を返した。
 「で、探してるCDっていうのは?」
 「ボーカル抜きのジャズのCDを、何枚か。俺、店で聴いたことある曲以外全然知らない素人なんで」
 「ああ、そういうことなら、お勧めのがあるよ」
 こっちだよ、という風に促した一成は、傍らに置いていた段ボール箱の蓋の部分を掴み、持ち上げようとした。その中にCDがぎっしりと詰まっているのを見た蓮は、慌ててそれを制した。
 「俺が運びます」
 「え? いや、いいって、これは俺の仕事…」
 「ピアニストは、指に変な負担をかけちゃ、まずいんでしょう?」
 重い荷物を持って指の筋を痛めたりすれば、鍵盤を叩くタッチを自在にコントロールできなくなる。だから、プロのピアニストは、常日頃から指に余計な負担はかけないように気を配るのだ、と、以前、トキのバンド仲間から聞いたことがあったのだ。
 指が命であるピアニストが、いかにも重そうな箱を、しかも不用意な持ち方で持ち上げようとしているのだ。蓮からすれば、至極当然な行動だ。だが、一成にとってはかなり驚きの行動だったらしく、早くもダンボールを持ち上げてしまっている蓮の顔を、ポカンとした表情で見つめた。
 「…君って、こう、意外性があるね」
 「は?」
 「いや。…じゃあ、お言葉に甘えるよ。客に荷物持たせたなんてバレたらまずいけど、幸い人の少ない時間帯だしね。もっとも、穂積君に心配いただくほど、俺の指はヤワじゃないけど」
 そう言って目の前に広げられた右手に、蓮は一瞬、息を呑んだ。
 自分の手とそう変わらない大きさの、右手―――けれど、その威圧感は段違いだ。この指があの繊細な音色を奏でているとは思えないほど、1つ1つの関節ががっしりと太く、力強い。重い鍵盤を叩くために鍛え上げられた、プロの手だ。
 「…ピアノ弾いてるだけで、こんな手になるんですか」
 「3歳から、人生の大半をピアノに費やしてればね」
 「3歳…」
 感心したように蓮が呟くと、並んで歩き出した一成は、くすっと笑った。
 「うちは音楽一家でね。しかも全員、クラシック畑の人間ときてるから、子供にピアノ習わせるのは、箸の使い方教えるのと同じ位当たり前だったんだよ。おかげで、友達がメタルやロックに熱を上げてる時期も、モーツァルトやベートーベンと過ごしてきた。この手は、その証しだよ」
 なるほど、と、藤堂一成の背景について納得する。確か音大出身だと聞いた覚えがあるが、それも多分、一成の親からすれば「将来のために運転免許だけは取っておきなさいね」と同じレベルに、当たり前なことだったのだろう。
 「親の思惑どおり楽団員になったけど、ジャズへの思いは捨てきれなくてね。随分な不義理を働いて楽団を飛び出したから、家族からは非難轟々―――愛用のピアノと離れ難くて実家に留まってるけど、なかなかに肩身が狭いよ」
 「クラシックもやりながらジャズも…ってのは、やっぱり、無理なんですか」
 「うーん…今も一応、“HANON”の仕事で、ショパンを弾いたりすることもあるけどね。でも、俺は、あまり器用な方じゃないから、両方に同じ重さは置けないな。それに、ジャズ以上に、咲夜とやっていきたいって気持ちの方が強いし」
 サラリと付け加えられた発言に、少しばかりドキリとする。思わず一成の横顔に目を向けると、一成はその視線に応えるようにこちらを向き、苦笑した。
 「君も相当な咲夜のファンらしいけど、俺もいい勝負のファンだよ」
 「ファン、って……一緒に演奏してる仲間、なのに?」
 「仲間でも、さ」
 「……」
 「初めて咲夜の歌声聴いた時は、衝撃だったよ。当時の咲夜は、ストリートで歌ってるただの素人学生だったけど、パンチの効いた声でもないのに、こう、胸に迫ってくるっていうか、感情が揺さぶられるっていうか―――君も、そうじゃない?」
 そう―――確かに、そうかもしれない。
 幼い頃から、あまり喜怒哀楽の激しいタイプではなかった自分。人前で泣くなんて絶対あり得なかった自分。なのに、咲夜の歌を聴くと、何故か、感情の抑制が効かなくなるのを感じた。兄や和美に対する憤り、やるせなさ、悔しさ……そんなものが一気に表に出てきて、堪えられず涙を流す羽目になった。あの時から、蓮は、咲夜のファンになったのだ。
 「ジャズピアニストとして一流になることも俺の夢だけど、歌い手としての咲夜のベストパートナーでありたい、ってのも、今の俺の目標なんだ」
 少し照れたような笑みでそう言う一成に、蓮も微かに微笑み、
 「…わかります」
 と相槌を打った。
 個人的に話をしたのは今日が初めてだが、蓮は一成に対して、親近感(シンパシー)のようなものを感じていた。以前、元“Jonny's Club”の従業員だったという女から「藤堂さんとタイプが似ている」と言われたことがあったが、実際に似ている部分があるのかもしれないな、とチラリと思ってしまったほどに。
 いや、性格や外見の類似点などは、さほどではないのかもしれない。
 そんなものより、たった1つの共通項―――「ジャズシンガー・如月咲夜の熱狂的ファン」という共通項が、気持ちに大きく影響しているのだと、蓮は思った。もっと彼女の歌が聴きたい、もっといい歌を歌って欲しい―――そういう強い思いを相手の中に“も”感じられることが、立場や年齢、生まれ育った環境を超えた親近感へと繋がっているのだろう、と。
 「ああ、荷物、そこに置いてくれるかな」
 「あ、はい」
 ジャズコーナーのはずれに来たところで、一成にそう言われ、蓮は結構な重さだったダンボール箱を指定の場所に下ろした。すると、蓮が荷物を置いた、ちょうどそのタイミングで、店内に流れていたBGMが変わった。

 ―――…あ。
 “Blue Skies”だ。

 歌なしのピアノバージョンだが、一成のアレンジとは異なるようで、イントロの時点では気づかなかった。メインメロディが始まる直前辺りで、ようやくそれが咲夜の十八番“Blue Skies”であることに気づいた蓮は、知らず口元をほころばせた。
 「ありがとう、助かったよ。…ええと、探してるのは、ジャズ入門、て感じのインストものかな?」
 「はい。今度の金曜のライブ―――咲夜さんがゲストで出るやつですけど、どうせ行くならメインの人たちの演奏も楽しみたいと思って」
 「ああ、なるほどね。そうか、歌抜きのジャズは、今度が初めてなんだな、穂積君は」
 納得したように頷いた一成は、ぽん、と蓮の肩を叩き、ある棚の一角を指差した。
 「だったら、やっぱりこれがお勧めだよ。ジャズ初心者には、決まったアーティストのものよりオムニバスがお勧めだけど、これが結構当たりはずれが激しくてね。で、俺が聴いて“これなら間違いなし”って太鼓判押したやつを、お勧め商品としてこの棚に出してるんだ」
 一成が「お勧め」と称するとおり、ジャケット面が見えるように陳列されたそれらのCDには、手書きで「オススメ」と書かれたキラキラしたステッカーが飾られていた。シリーズ物ではないが、いずれもオムニバス集で、一応ナンバー1からナンバー5までの「オススメ」があるらしい。
 「楽曲が被ってるのもあるから、じっくり見比べて選ぶといいよ。お勧め商品は、試聴ブースも使えるから」
 蓮にそれだけ伝えると、一成は、ダンボール箱からCDを取り出し、棚の下の引き出しに収める作業を始めた。その姿を視界の端で捉えつつ、蓮はお勧めCDの吟味を始めた。
 ―――へぇ…、“Autumn Leaves”に“My Favorite Things”か。結構咲夜さんが歌ってる曲もあるな。
 歌あり、歌なし、両方いけてしまう辺りが、ジャズの楽曲の不思議なところだな、などと感心していた蓮だったが、次の瞬間、意識は、手にしているCDを離れ、背後のスピーカーに向けられた。

 「……」

 ピアノが奏でる、“Blue Skies”。
 曲のメインパートが終わり、いわゆる「アドリブ」の部分に入った“Blue Skies”に、蓮の顔に困惑の色が次第に浮かんできた。
 蓮は、ジャズ初心者だ。ジャズのCDも持っておらず、咲夜たちが“Jonny's Club”で演奏していた曲しかほとんど知らない。が、“Blue Skies”だけは、偶然にも、咲夜以外の歌手が歌っているものを聴いたことが2度ほどある。蓮の少ないジャズの引き出しの中では、稀な曲だ。
 咲夜以外が歌う“Blue Skies”を耳にした時、歌い手によって同じ歌でも随分違うんだな、と驚いた。勿論、メロディは同じなのだが、歌い方やリズムの取り方、アドリブ部分の雰囲気などが、まるで違う―――そのことが、強く印象に残っていた。
 けれど……この、曲。
 歌ではなくピアノの、しかもアレンジもまるで違う、この、曲。
 「どうかした?」
 蓮の不審な様子に気づいて、一成が声をかけてきた。ハッと我に返った蓮は、「いえ」と言いつつも、まだ困惑の表情を隠せずにいた。
 「いえ、って顔じゃないな。…何か、気になることでも?」
 「…いや、その…」
 どう表現していいのかわからず、少し、悩む。が、妙な態度を取ったまま曖昧にしては一成も気にしてしまうだろう、と考え、蓮は思い切って、感じたままを口にした。
 「…似てると、思って」
 「似てる?」
 「このピアノが、咲夜さんの歌と」
 途端、何故か、一成の顔色が僅かに変わった。
 「上手く言えないけど、なんか……アドリブパート聴いてたら、咲夜さんが歌ってる姿が、頭に浮かんだんです。まるで、咲夜さんの歌声がピアノになったみたいな、そんな感じがして」
 「……」
 「ただ、それだけです。すみません、素人が、訳わからないこと言って」
 「―――いや、」
 軽く首を振った一成は、なんとも言えない複雑な笑みを浮かべ、棚の上に掛けられたスピーカーを見上げた。それから、小さくため息をつき、再び蓮の方へと目を向けた。
 「君、何か楽器でもやってた?」
 「…いえ、全く。小学校の縦笛ですら怪しいレベルです」
 「そうか。でも、随分耳がいいね」
 「は?」
 耳がいい?
 意味がわからずキョトンとする蓮に、一成は、ジャズピアノの棚から1枚のCDを抜き出し、それを差し出した。
 「今かかってるCDは、このアルバム。日本のジャズ・ミュージシャンを寄せ集めたオムニバスCDで、“Blue Skies”は、これの5曲目」
 一成の指が、トン、とCDの裏面を指し示した。

 『Blue Skies(4:13)  Takumi Asou』

 「あそう…たくみ…」
 「…ジャズ・シンガー“如月咲夜”の、育ての親だよ」
 思わず反射的に顔を上げ、一成の顔を凝視してしまった。くすっと笑った一成は、さっとCDを引っ込め、元の棚に戻してしまった。
 「いや…むしろ、産みの親、と言った方がいいのかもな。ジャズとは無縁だった咲夜に、ジャズを与え、歌を与え、自分の音楽的感性の全てを叩き込んだ―――それが、麻生拓海。見事なもんだろう? このピアノ。まるで、咲夜が弾いてるみたいだ」
 「……」
 「とはいえ、気づく人は少ないけどね。さすがはファン、と言うべきか―――なかなか鋭い耳をしてるよ、穂積君」
 そう言って振り向いた一成の表情を見て、蓮は、なんとなく察した。
 彼が、麻生拓海というピアニストに対して抱いている、嫉妬、対抗心、コンプレックス―――それと対を成す、自負の思いを。


 その週の金曜、蓮は、咲夜に宣言したとおり、咲夜がゲスト出演するライブへ足を運んだ。
 演奏の上手い下手はよくわからないが、多少の予習をして行ったのが幸いして、知っている曲も何曲か聴くことができたので、それなりに楽しめた。そして何より、ゲストの咲夜が予定外に2曲歌ってくれたのが、蓮にとっては何よりの出来事だった。
 この日も咲夜は、十八番の“Blue Skies”を歌った。実に楽しそうに、実に嬉しそうに、ノビノビと。その歌声に重なるように、一度だけ聴いたピアノの音色が、脳裏に甦ってきて、蓮は酷く複雑な気分になった。

 麻生拓海―――咲夜に、ジャズを与えた人。
 その存在に、蓮は何故か、説明のつかない胸のざわつきを覚えた。

***

 「カラオケ!?」
 訊き返す優也の声が、素っ頓狂に裏返った。
 何かの冗談だろう、と隣で聞いていた蓮も思ったのだが、当人はいたって本気らしい。唖然とする男2人を前に、理加子は真剣な表情でコクコク頷いた。
 「そう、カラオケ! お願い、一緒に行って!」
 「カ…カラオケは、僕は、ちょっと…。歌、苦手だし」
 「歌わなくてもいいの、歌わなくても。一緒に行ってくれれば、あとはジュースでも飲んでノンビリしてくれればいいから」
 「…いや、あの、歌わないんだったら、何のためにカラオケ行くの? ジュース飲みたいだけなら、喫茶店かどっか行けば…」
 「どーしても、この店に行きたいのっ」
 そう言って理加子が優也の目の前に広げてみせたのは、とある大手カラオケチェーン店の割引チケットだった。
 「あたし、仕事仲間とはよく行ってたけど、1人ではカラオケ、行ったことなくて…っていうか、ああいう店って1人で行くんじゃ寂しい感じがしちゃって…でも、どうしても行きたいの。ね、お願い。今日だけ付き合って!」
 「う…ううーん…でもなぁ…」
 理加子の勢いに押されつつ、優也はチラリと、蓮の方に目を向けた。
 「…あのぉ、穂積は、どうする?」
 ―――いや、俺に振るなって、俺に。
 この救いを求めるような目は、「本当は行きたくないけど、リカちゃんが必死そうだから協力してあげたい、でも自分だけ行くのは嫌だから穂積も来て欲しいなぁ」という目である。どう見ても。
 なんで俺を巻き込みたがるかな、と、思わず眉をひそめてしまう。大体、優也と2人で外出していたところに、理加子が突然電話して押しかけてきたのであって、理加子に付き合う道理など蓮には一切ない。2人がカラオケに行くというなら、「じゃあ俺はここで」と離脱しても問題ないのだし、優也が行きたくないと思うなら蓮と一緒に帰ればいいだけの話だ。
 「秋吉が行きたいなら、行けば?」
 努めてそっけなく蓮がそう言うと、優也は露骨に悲しそうな顔をした。
 ―――だから。その顔はやめろって。
 いつもこの情けない表情に負けて、ついつい優也に(正確には理加子に付き合う優也に)付き合ってしまう羽目になるのだ。ここで甘い顔をしてはいけない、と言い聞かせた蓮だったが、蓮が駄目押しをするより早く、理加子が声を上げた。
 「ちょっとぉ、酷いじゃない、優也だけ行かせるなんて」
 「…は?」
 「蓮ってば、冷たいー。親友なら付き合ってあげなさいよねっ」
 「……」
 ―――待て。おかしいだろ、その理屈は。
 優也だけ行かせては可哀想な所に、無理を言って連れて行こうとしているのは、理加子本人だというのに―――ぷうっ、と頬を膨らます理加子に、反論の言葉も出てこない。いや、頭の中では多すぎるほどの反論が渦巻いているのだが…呆れすぎて、言葉にならない。
 「もー、リカがおごるって言ってるんだから、いいでしょ? 行くからねっ」
 全然納得のいっていない2人をよそに、理加子は先に立って、ずんずん歩き出してしまった。
 このまま回れ右して、理加子とは反対方向に走って逃げる、という選択をするには、2人とも善人すぎた。顔を見合わせた蓮と優也は、小さくため息をつき、理加子の後を追って歩き出した。
 「…2人で行けばいいじゃないか」
 優也にだけ聞こえるように蓮がボソリと言うと、優也は困ったように眉を下げた。
 「…穂積も、リカちゃんと2人きりで出歩けば、わかると思うよ」
 「何が?」
 「周りの視線」
 「……」
 「どうしてもカップルだと勘違いされるみたいで、周りの客とか店員からの視線が痛いんだ。特に、カップルが好んでデートで行きそうな店とか、2人きりになっちゃう店とかだと」
 なるほど、それでか―――2人がやけに蓮を誘う理由が、なんとなくわかった。
 勿論、優也が言うようなことも多少はあるのだろうが、自分の容姿を必要以上に低く評価している優也は、ただの羨望の視線を「あの程度の奴が、なんであんな美少女と」という視線に感じてしまっているのかもしれない。特に、カップルの姿が目立つ場所では。だから、どう頑張ってもカップルとは間違えられずに済む「3人組」になりたがるのだ。
 理加子の方は、注目されることに慣れている。周囲の視線などまるで気にしていないだろう。理加子が気にしているのは、優也のことだ。優也が気まずそうにするから、優也の気が少しでも楽になるように、蓮の同席を望む―――突拍子もない行動の多い理加子だが、そういう部分では結構神経の細かいタイプなのかもしれない。
 「ごめん…穂積に迷惑かけてばっかりで」
 事情を聞いてしまうと、そっけない態度も取り難い。申し訳なさそうにする優也に、蓮は結局、
 「…いいよ。気にするなよ」
 と返してしまったのだった。


 繁華街のど真ん中にあるその店は、混雑のピークより一歩手前といった風情で、受付カウンターも案外空いていた。
 理加子がやけに来たがっていたので、何か特殊な仕掛けでもあるのか、と思っていたが、こうして見る限り、極々普通のカラオケ店としか言いようがない。
 何故そんなに来たかったのか、と不審に思った蓮と優也だったが、受付の順番が回ってきた直後、その理由はあっさり判明した。

 「え…、ひ、姫川!?」
 受付カウンターのスタッフが、理加子の顔を見て、驚いたように目を丸くした。
 「あ、あのね、友達とこの近くまで偶然来たから、ちょっと、ちょっっっと、寄ってみたの」
 やたら“ちょっと”を強調して理加子が答える。嘘だろ、偶然じゃなくてお前が押しかけたんだろ、と暴露してやりたい気もするが、このスタッフが何者かわからないので、一応やめておいた。
 「この前、須賀君来てくれたから、そのお返し。ほら、割引券ももらったし」
 「あ…ああ、うん。でも、まさか姫川が来てくれるとは思わなかった」
 ―――なんか、少女漫画みたいなシーンだな。
 やけに照れまくっている理加子とカラオケ店員の様子に、心の中で呟く。もっとも、蓮は、いわゆる少女漫画というやつを読んだことがないので、飽くまでイメージ的に、だが。
 どういう関係かは知らないが、とにかく、理加子がこの店に来たがっていた理由は、この男なのだろう。愛想の良さそうな接客向きな顔だなぁ、とぼんやり思いつつ、蓮は2人のベタなやり取りを眺めていた。

 結局、彼が何者かの紹介もなく、また蓮や優也が紹介されることもなく、受付は終わってしまった。
 「あっ、結構ドリンクメニュー豊富じゃない。えー、何頼もうかなー」
 「…リカちゃん…2時間も一体、どうするの?」
 そう。受付の手続きをした理加子は、2人に何の断りもなく、勝手に利用時間を2時間にしてしまったのだ。1時間でもどうやって潰すか困るというのに、だ。
 「フードメニューもあるから、夕飯ここで食べちゃってもいいし、それでも時間が余るようなら、せっかくだから歌っちゃえばいいじゃない」
 事も無げに理加子が言うと、途方に暮れた顔だった優也は、とんでもない、とでもいうように首をぶんぶん振った。
 「う、歌はいいよ、歌は! 自慢じゃないけど、ほんとに苦手だから、僕」
 「あら、考えようによっては、いい練習の機会じゃない。あたしたちだけなら、どんなに下手に歌っても野次る奴もいないし、恥ずかしくもないし」
 「いやいやいや、恥ずかしいって、十分」
 「あっ、じゃあ、こうしない? あたしが先に歌うの。で、あーなんだ、リカちゃんがこの程度の歌なら、僕も恥ずかしくないや、って思えたら、優也も歌うってことでー」
 「すみません、青りんごサワー1つ」
 背後のやり取りを無視して、蓮は1人、インターホンを通じてさっさと飲み物を注文した。それに目ざとく気づいた理加子が「あたし、カシスオレンジー!」と叫び、優也も慌てて「僕、ウーロン茶」と頼んだ。
 ―――で、結局、俺が全部注文する羽目になるんだよな。
 インターホンに一番近い席に座ってしまったのが運のつきだ。諦めにも似た心境で、蓮は頼まれた分のドリンクも注文しておいた。
 「あの、それで…さっきのあの人は?」
 ドリンクの注文をしたのが区切りとなり、優也がようやく、理加子に訊ねた。
 すると理加子は、何とも思ってない風を装っています、というのがミエミエなすまし顔で、ポツリと答えた。
 「…高校の、同級生」
 「あ、そうなんだ」
 「この間、偶然会って、で、あたしが“Jonny's Club”でバイトしてるって言ったら、一度遊びに行くよ、って言って、どうせ社交辞令だろうと思ってたのに、本当に来ちゃったもんだから、なんか、その……あ、あたしも、須賀君のバイト先聞いちゃって、しかも割引券までもらっちゃったら、一度行かないと悪いかなー、なんて…」
 異様に早口でそう説明すると、理加子は顔を赤らめ、気まずそうに視線を落とした。
 ―――変な奴…。
 高校の同級生と偶然再会して、バイト先にひやかしに行く位のことは、誰にだってあることだろうに―――実際、理加子自身、以前優也と一緒に蓮のバイト先に来たことがあったが、その時はこんなおかしな態度は取っていなかった筈だ。
 よくわからないが、多分、蓮は飽くまで「優也の親友」であって、自分の直接の関係者ではないから、気軽に押しかけることができたのだろう。取り巻きに囲まれた学校生活など、蓮には到底想像がつかないが、そういう特殊な学生時代を送ってきた理加子にとっては、「クラスメイトと個人的に会う」という、ただそれだけのことが、初めてで、ドキドキすることなのかもしれない。
 「ふうん…そうか、同級生か。だからリカちゃんのこと、“姫川”って呼んでたんだね。考えてみたら僕も、クラスの女子のこと、苗字で呼んでたもんなぁ」
 納得したような優也の笑顔に、理加子もホッとしたように笑顔になった。
 「うん、そうなの。あたしのこと“姫川”って呼ぶのなんて、学校の先生くらいのもんだったから、なんか妙に新鮮」
 「苗字を呼ばれて新鮮なのかぁ…面白いね」
 ちょうどそのタイミングで、ドアがノックされ、話題の「元同級生」がドリンクを持って入ってきた。
 「お待たせしました」
 そう一声かけて、彼は、持ってきたドリンクをまとめてテーブルの上に置いた。蓮が働いているカフェでは、複数のオーダーがあった場合は、必ず確認を取って頼んだ人の前に頼んだものを置く規則になっているのだが、こういう店ではこの方式が通例なのかもしれない。
 仕事中に油を売っている訳にはいかないのか、彼は、チラリと理加子に目をやって僅かに笑みを見せただけで、すぐに部屋から出て行った。
 「え、えっと…、せっかくだからあたし、1曲歌っちゃおうかなー。いいよね?」
 ソワソワした様子の理加子は、半ば裏返ったような声でそう言い、2人の返事も待たずに、選曲本に手を伸ばした。別に止める理由もない蓮と優也は、どうぞどうぞ、と目だけで返事をし、それぞれのドリンクを自分の手元に引き寄せた。
 ―――それにしても、狭くて暗いなぁ。
 青りんごサワーを飲みつつ、改めて部屋の中を見回して、そう思う。
 カラオケルームというやつに来るのは、別にこれが初めてではない。トキたちに連れられて行ったこともあるし、大学生になってから先輩らとの付き合いで仕方なくついて行ったこともある。が、毎回毎回、部屋の狭さと暗さに、息の詰まる思いがする。限られたスペースに多くのグループ客を入れるためには仕方ないのだろうが、客側には不満はないのだろうか? 少なくとも蓮は、この穴倉のような空間で楽しく歌えるとは思えない。
 「んー、いつもは浜崎なんだけどなー…そろそろ飽きてしたし、えーと、これ! これにしよう、“世界に一つだけの花”」
 早々に歌う曲が決まったらしく、理加子はさっさとリクエストを入れ、無用になった選曲本を優也に渡した。
 「次、優也ね。リクエスト入れといて」
 「えええっ」
 いきなり渡された分厚い本に優也がオロオロしているうちに、早くも理加子のリクエスト曲のイントロが流れ始めた。
 ―――うわ、音、でかすぎ。
 何故にこんな狭い空間にこんな大きな音量が必要なんだか―――でも、これがカラオケのデフォルト設定であることは、既に蓮も経験済みだ。音の大きさに思わず顔をしかめはしたが、ボリュームを下げろ、と文句を言うのはやめておいた。
 が、しかし。

 「ナンバーワンにならーなくーてーもーいい、もーともーと特別なオーンリーィワン」

 「……っ、」
 危うく、飲みかけていた青りんごサワーを吹き出しそうになり、僅かにむせた。
 慌てて理加子の方を見ると、理加子は、銀色のマイクを両手で握り締め、歌詞の流れるテレビ画面を凝視しながら、左右に体を揺すってリズムを取るようにして歌っていた。角度の問題でいまいち表情は窺えないが、傍目には楽しそうに歌っているように見える。

 「花屋の店先になーらんだー、いーろんな花を見ーていたー、ひとそれぞれ好みはあーるけどー、どーれもみんな綺麗だねー」

 ……凄い。
 他に表現のしようがない。一言で表すなら、凄い―――その一言に尽きる。
 これだけ音を外して、これだけ大音量で、これだけ楽しそうに歌えるのは、一種の才能かもしれない。でなければ、いかに自分の音が外れているかを全く自覚していないとしか思えない。

 「そーさ、ぼーくーらは、せーかいーにひーとーつだーけーのはーなぁ」

 全ての音が4分の1とか3分の1とか、なんとも微妙なずれかたをしたまま、理加子の歌う“世界に一つだけの花”は大音量で続いた。マイクとスピーカーが喧嘩をして、時折キーンというハウリング音が混じるそれは、蓮の耳には不協和音としか言いようがない。感想を「凄い」から「酷い」に訂正し、蓮はグラスを置いて、ひたすら歌が終わるのを待った。
 「あー、久々に歌ったから、ボロボロだったかもー」
 ―――普段はこれよりマシって意味かよ。
 歌い終わった理加子が、えへへ、と笑いながら放った一言に、そう突っ込みを入れてやりたくなる。が、本人が気分よく歌っていたのを、歌い終わってから突き落とすのも野暮だろう。まあ耐え難くて部屋の外に飛び出すほどのレベルじゃないからいいか、と自分に言い聞かせ、蓮は何も言わずにおいた。
 「リカちゃん、声通るね…羨ましいなぁ」
 褒めるのが上手いのか、それとも音がずれていたことに気づいていないのか、優也が感心したようにそう呟く。あまり歌には自信がない様子の理加子だが、褒められて悪い気はしないようで、照れたように笑った。
 「そ、そうかなー。モデル仲間に下手だ下手だって言われてたんだけど、採点システムついてるカラオケだと、結構点数いくの」
 ―――ああ…、あれは、声のデカさに比例して点数出る部分あるからな。
 「ねねね、優也は何入れたの?」
 「えっ…ええと、あの、スピッツを…」
 優也がおずおずと答えているうちに、さっそく次の曲のイントロが流れ始めた。しかも、始まった途端歌も始まるタイプの曲だったらしく、優也は慌てて理加子からマイクを受け取り、1小節遅れで歌い始めた。

 「……のーひかーりまーで、とーどーいてーほーしいー」

 ……え?
 ごめん、今、何て言った?

 小さい。理加子の声に比べて、あまりにも小さい。今にも消え入りそうな声だ。

 「ひーとーりぼーっちがせつーない夜、ほーしーをさーがしーてるー」

 出だしの部分が終わり、本格的に歌が始まると、優也も両手でマイクを握り締め、もの凄く真面目な顔で微動だにせず歌い出した。地声そのものも声量のある方ではない優也なので、これでもいっぱいいっぱいなのかもしれないが、やはり、あまりにも声が小さい。音程も自信なさげで、正しい音の上下を掠めるような感じだ。
 ―――ま…まあ、秋吉っぽい、といえば、秋吉っぽいけど…。
 理加子の大声の後だと、ある意味、耳に優しいとも言える。でも、優也がカラオケを苦手とする理由は、よくわかった。気の毒に、と首を振り、再びサワーのグラスを手にした蓮だったが、その目の前に、突如、分厚い選曲本がバサリと落ちてきた。
 「……」
 本が飛んできた方向に目を向けると、案の定、理加子が選曲本を指差し、パクパク口を動かしていた。
 『蓮も何か入れなさいよねっ』
 唇の動きで、そう言っているのがわかる。迷惑そうに眉をひそめた蓮は、声に出さずに返した。
 『はぁ? 俺?』
 『トーゼンでしょ』
 冗談じゃない。こんなもんいらない、とでも言わんばかりに、蓮は選曲本を理加子の方に押しやった。が、頬を膨らました理加子は、押しやられた本を再び蓮の方へと押しやった。
 優也のか細い歌をバックに、テーブルの上での押し問答が続いたが、蓮と理加子の間を本が5往復したところで、おもむろに理加子が本を取り上げ、開いた。そして、素早くリモコンのボタンを操作し、勝手に何かのリクエストを入れてしまった。何なんだ、と呆気にとられていた蓮は、直後、テレビ画面の上部に出た表示を見て、目を見開いた。

 『Next song: 世界に一つだけの花』

 またかよ、と唖然とする蓮の目の前に、空いているマイクが置かれた。要するに、さっき理加子が歌った歌を蓮にも歌えと言っているらしい。
 ―――歌わなくていいから付き合え、って言ってなかったか? こいつ。
 「あっ、穂積のリクエスト、入れた? じゃあ僕、中断にしちゃってもいいかな」
 ちゃっかりリクエストが入ったのを見ていたらしく、優也はエコーのかかった声でホッとしたようにそう言い、早々にマイクを置いた。
 「えー、ずるい、あたしはフルコーラス歌ったのにっ」
 「ごめん…実はこの歌、うろ覚えで…。あ、後で別の曲入れるから」
 「もぉー…、じゃあ、次! 蓮の番ね。あたしが歌った歌なら“知らない”は通らないでしょ」
 「……」
 全く…どうでもいいところで妙に頭の回る奴だ。さあ歌え、と言わんばかりに腕組みをする理加子を、思わず本気で睨んだ。
 このまま、マイクを投げ捨てて席を立つ、という選択もない訳ではない。が、たかだか1曲歌うのを拒否するために、余計な労力を使うなんて馬鹿馬鹿しい、と考え直した。はぁ、とため息をついた蓮は、諦めて、目の前のマイクを手に取った。

 「ナンバー1に、ならなくてもいい、元々特別なオンリー1」

 少々投げやり気味に歌った出だしの部分は、自分で思っていたよりはまともに声が出ていた。そういえば、最後に人前で歌ったのって、いつだったかな―――なんて考えながら、蓮は淡々と歌を続けた。

 「その花を咲かせることだけに、一生懸命になればいいー」

 1コーラス目が終わり、ほっと息をつきつつ優也たちの方をちらっと見ると、2人揃ってビックリした顔で固まっていた。何て顔してるんだよ、と突っ込みを入れかけた、その時、ジーンズのポケットに突っ込んであった携帯が、突如、ブルブル震え出した。
 「?」
 誰だ? と携帯を引っ張り出して液晶画面を確認すると、そこには、バイト先の店の名前が表示されていた。慌ててマイクを置いた蓮は、カラオケの音楽が鳴り響く部屋のドアを開け、多少は静かな廊下へと出た。
 「もしもし」
 『あ、穂積君? 店長の星野だけど。お疲れ様』
 「お疲れ様です」
 休みの日に店長からの電話、とくれば、用件は聞かずとも大体わかる。案の定、続いて店長が口にしたのは、蓮の想像したとおりの言葉だった。
 『実はね、林君が階段から転げ落ちて、骨折で帰ってしまったんだよ』
 「え、林さんが、ですか」
 『そうなんだ。かなり店も混んでるんだけど、土日は急に出てくれる人って、あんまりいなくてねぇ…。悪いけど、穂積君、今から入ってもらえないかな』
 急なシフト変更というのは本来あまり歓迎されないことだが、今の蓮には渡りに船だ。
 「わかりました。すぐ行きます」
 即答し、更に二言三言話して、電話を切った。これで堂々と抜けられる―――パチン、と携帯を折り畳んだ蓮は、晴れ晴れとした気分でカラオケルームのドアを開けた。
 部屋の中では、まだ“世界に一つだけの花”のカラオケが流れていた。どうせ自分が席を離れている間に理加子が優也を巻き込んで歌っているだろう、と思ったが、2人揃って律儀に蓮が戻るのを待っていたようだ。
 「悪い、バイト入ったんで、帰る」
 「ええっ!」
 両者から、一斉に声が上がる。音は同じ「ええっ」だが、含まれているニュアンスはまるで違っていた。
 「かきいれ時で店も困ってるから、急いでるんだ。秋吉、こいつの残り、飲めたら飲んどいて」
 青りんごサワーをあと一口だけ飲んだ蓮がそう言うと、優也は、急に仕事に駆り出された蓮を気の毒と思ったのか、「大変だねぇ」と同情の表情を見せ、頷いた。だが、理加子の方は微塵も同情していないらしく、不服そうに頬を膨らませた。
 「何よそれ。まだ1曲目の途中じゃないの。せめてこの歌だけでも最後まで歌っていきなさいよ」
 「時間、ないから」
 「時間ったって、あとせいぜい30秒じゃないのっ」
 ―――せいぜい30秒なら、俺に歌わせる意味もないだろ。
 妙な理屈で食い下がる理加子に、ボディバッグを掴んだ蓮は、わざと優也の時と同じセリフを返した。
 「じゃあ、残り、歌えたら歌っといて」
 「!!」
 じゃあお先に、と早々に部屋を後にする蓮の背中に、理加子の高い声が突き刺さった。
 「イ…イヤミ〜っ! あんたの歌の後に、同じ歌、歌える訳ないじゃないっ!」
 先に同じ歌を歌わせたのは、理加子の方なのに―――納得いかない部分もあるが、反論のために足を止める気はさらさらない。優也に向かってだけ手を振って、蓮はカラオケルームのドアを閉めた。


 ―――あんたの後じゃ歌えない、か。
 拗ねたような理加子の言葉を思い出し、ちょっと複雑な気分になる。
 正直、蓮は、自分の歌について何とも思っていない。咲夜の歌が上手いのはわかるが、自分の歌の上手い下手は、客観的に判断するのが難しいので、よくわからないのだ。
 ただ、これまでの経験から、多分「素人の耳には結構上手く聴こえる歌」なのだろう、ということは、なんとなく察していた。そもそも、トキたちと懇意になったきっかけというのも、学校の行事で蓮の歌を聴いたトキが、自分たちのバンドのボーカルをやらないか、と誘ったことだったのだ。一介の高校生とはいえ、真剣に音楽をやっていた連中に勧誘されたのだから、まあそれなりには上手いのだろう。多分。
 ―――歌なんて、下手な方が楽だよなぁ。
 捻くれているように聞こえるかもしれないが、これは、蓮の経験から来る本音だ。
 世の中には、自分の歌声を楽しめる人間とそうでない人間がいるが、蓮はそれを「歌を楽しめる才能」の有無の違いと考えている。人前では勿論、1人であっても、歌ってストレス発散、といった考えは思い浮かばないし、カラオケで周囲から「上手い」と持ち上げられても、最低限の義務として1曲歌うだけで、それ以上歌う気にはなれない―――蓮はとことん、「歌を楽しめる才能」のない人間なのだ。
 そういう人間にとって、歌唱力など、あっても迷惑なだけの才能だ。聞くに堪えない音痴なら、一度聞かせれば二度と歌うことを強要されることもないし、自己陶酔の邪魔をする奴、と煙たがられることもないだろう。半端に上手いせいで、歌うのを拒否しても「またまたまた〜、本音ではマイク離したくない癖に、カッコつけちゃって〜」などと言われることもないに違いない。どう考えても、半端な上手さなど、ない方がマシだ。
 その点、理加子などは、あの堂々とした歌いっぷりから察するに「歌を楽しめる才能」に溢れているのかもしれない。その才能と歌唱力とが比例していなかったのは、周囲の人間にとって不幸なことだが。

 ―――咲夜さんみたいな人が、「歌を楽しめる才能」も歌唱力も満点レベルに兼ね備えた人、ってことなんだろうな。
 駅へと向かいながら、ぼんやりと、そんなことを思う。
 あの、楽しそうな歌声と、幸せそうな表情―――歌うために生まれてきた人、とは、彼女のような人のためにある言葉かもしれない。

 「Blue skies, smiling at me, Nothing but blue skies, do I see...」

 ―――そうそう。あの“Blue Skies”なんかは特に…。
 と心の中で呟いた直後、蓮は、今、おかしなものを耳にした気がして、はたと足を止めた。

 「……」
 今。
 実際に、咲夜の歌声が聞こえた気が、したのだ、けれど。

 「Blue birds, singing a song, Nothing but blue birds, all day long...」

 「―――…!!」
 幻聴ではない。間違いなく、聞こえた。蓮は、慌てて周囲を見渡し、咲夜の姿を探した。
 そして、数秒後―――本当に、見つけてしまった。

 「Blue days, all of them gone, Nothing but blue skies, from now on...」

 駅前ロータリーの一角に、見物客が何人か集まっている場所がある。
 そこには、見知らぬギタリストを従えて、楽しそうに歌う咲夜の姿があったのだ。


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