←BACKi -アイ- TOP|NEXT→|




― 正義の味方 -3- ―

 

 7月も3分の1を過ぎたか、という頃。3日ぶりに理加子からかかってきた電話の中身は、かなり驚きの内容だった。

 「えっ、海?」
 『そうなの。似合わないでしょー?』
 電話の向こうの苦笑いが目に浮かぶような声色。だが、優也は別に、理加子に海が似合わないから、驚いた声を上げた訳ではなかった。
 「う、ううん、似合う似合わないの問題じゃなくて、ええと―――今の話からすると、つまり、“須賀君と一緒に”海に行く、ってこと?」
 『そうよ?』
 「2人で?」
 『どうかなぁ? 誰か他の人も誘う、って話は、今のところ出てないけど―――え、もしかして、優也も行きたい? 有名どころは混むしプールよりはマシだ、ってことで、お手軽にお台場になったから、気軽に行けるよ?』
 「……いや、僕はどうでもいいんだけど……」
 ―――うーん……僕の認識がズレてるのか、リカちゃんがズレてるのか、どっちなんだろう?
 残念ながら、優也は恋愛経験が全くない。だから、持っている恋愛関連の知識の大半が、人づてに聞いた話、もしくはこれまでに読んだ小説や雑誌の類からのものだ。そして、それらの知識からはじき出される答えは、海に行く男女のペアがいたら、それは“カップル”とか“恋人”とか言われる組み合わせであることが多い、ということだった。
 無邪気な理加子の声を聞いていると、自分の考えが不純に思えて、何も言わない方がいいような気がしてくる。が、この無邪気さは危機意識の低さ故だと思うと、やはり何か一言注意してやるべきなのでは、とも思う。なかなか悩ましいところだ。
 「……あのさぁ、リカちゃん」
 『んー? 何?』
 「須賀君と、付き合うことになったの?」
 『えっ!』
 びっくりするほど大きな叫び声が耳に響いた。思わず首をすくめた優也に、理加子の笑い声が追い打ちをかけた。
 『やだぁ、海行くだけで“付き合う”とかないわよぉ。須賀君だってそんなこと、一言も言ってないし』
 「……」
 『―――ホントよ?』
 受話器から感じ取れる空気が、“あり得ない”で片付くものではないと、理加子にもわかったらしい。ちょっと心配そうな声で、そう付け加えた。なんだか誤解されそうな気がしたので、慌てて優也は顔も見えない理加子に向かって、ぶんぶんと首を振った。
 「あ、あの、違うんだ。そうじゃなくて―――僕も須賀君はいい人だと思うから、もしリカちゃんと付き合うことになったんだったら、それはそれでいいなぁ、と。リカちゃんも、ちょっとは思ってない? もし付き合うんなら、須賀君みたいな人がいいな、とか」
 『そっ、それは―――た、確かに須賀君、優しくて誠実だと思うけど、でも……まだ、よく、わかんないし……』
 ちょっと焦ったような、慌てたような早口でそう答えた理加子だったが、後半、少し口ごもった後、まるで呟くようにポツリと言った。
 『……ただ、ね。須賀君て、パパと被る部分が多いみたい』
 「え?」
 『須賀君も、パパと同じ位の時に親が離婚したんだって。ただ、パパとは違って、新しいお父さんとは上手くやってるみたいだけどね。家族旅行なんかによく行くみたいだし』
 「へぇ……そうなんだ」
 そんな背景が、あのニコニコと人当たりの良い須賀にあったとは、意外だ。いや、意外、と感じるのは一種の偏見かもしれない。似通った背景を持った人間にも、多種多様な性格があって当然なのだから。
 ―――そうかぁ、それなら、ますますリカちゃんにはもってこいの相手だよなぁ。
 離婚だの再婚だの養子縁組だのといった知識がほぼゼロの優也は、理加子の母の勘違いに気づくこともできなかったし、父親の生い立ちの話も小説やドラマの話のようで実感は湧かなかった。が、これがもし須賀ならば、理加子と共感しながら話を聞き、的を射たアドバイスもできただろう。
 「好きになれるといいね」
 優也が言うと、電話の向こうから小さく「うん」と返って来た。
 『優也の方は?』
 「え? ああ、夏休み? この前言ったとおり、バイトと卒研と大学院の受験準備とで…」
 『ちーがーう。そういう色気のない予定じゃなくて。マコ先輩と海に行くとか、そーゆー計画は?』
 「えええっ!?」
 唐突な突っ込みに、声が裏返ってしまった。
 「あ、あるわけないよっ。何考えてるの、リカちゃん」
 『えー、おかしなこと言ったつもり、ないよ? あたしが、好きになれるかどうかわからない人と海に行くんだもん、優也が、好きな女の子誘って海に行くのなんて、全然おかしくないでしょ』
 「いやー…うーん…」
 理加子に海は似合わないが、その数倍、自分には海が似合わない。いや、それ以前に、真琴を誘うなんて、絶対に無理だ。この前、展覧会に行けたのだって、真琴が「行きたい」と言い出したからなのだから。
 「…とりあえず、恋愛より、目の前のことをコツコツ片付けないと」
 逃げ口上だ、と知りながらも、優也はそう答えた。
 が、逃げ口上とは言いつつも、これはれっきとした事実―――東京4度目の夏は、やらなければならないことだらけの、気ぜわしい夏となりそうだった。

***

 「えっ、数学アドベンチャー?」
 「うん。おもしろいと思うんだよね」
 そう言って嬉しそうに笑う安城の手には、何やら難解な図や絵の書かれた紙束があった。
 例の“ゼロリス”は、7月に入って間もなく、完成した。それに伴い、テストやらデバッグに付き合っていた優也も、バイトの時間が終わればそのまま帰宅する、という本来の勤務形態に戻った。
 が、やはりこれだけの期間、1つのソフトを完成させるために協力してきたのだから、“ゼロリス”完成後も、安城は何かと優也を気遣ってくれているようだ。この日も、帰りに何か食べて行かないか、と誘われ、初めて安城と夕飯を食べることになったのだ。
 その席で、唐突に登場したのが、次なる安城のゲーム制作案―――安城曰く、数学アドベンチャー、である。
 「ほら、ストーリーのあるゲームだと、よく謎解きとしてパズル要素が出てくるでしょ? ああいうのって、数学パズルの応用が結構あるんだよね」
 「ああ…そういえば」
 優也がやったことのあるゲームの中にも、複数のダイヤルを回して鍵を開ける謎解きが道中に出てきた。あれも、勘で適当に回したら開いちゃった、という人もいるだろうが、実は計算をすればどれを何回、どちら向きに回せばいいかが割り出せる。優也も、途中でそれに気づき、紙に書いて計算して解いたのだ。
 「ああいうパズルの簡単なやつから難しいやつまで、いろんなパターンを織り混ぜた、ストーリー性のあるゲームを作りたいんだ。単なる謎解き以外にも、アイテムを組み合わせることで特定の図形が出来上がって、それが隠しアイテムとして機能したりとか。あ、いっそのこと、ストーリーそのものを古代エジプトの謎とかマヤ文明だとかに絡めて、数学そのものの謎を巡るサスペンスなんかにしても面白そうだなぁ」
 若干早口にそう言うと、安城は、鶏のから揚げをうまそうにほお張った。
 ―――相変わらず、熱い人だなぁ…。
 安城は、見た目はひょろっとして顔立ちもあっさりしているが、実際に話してみると、中身はバイタリティ溢れる熱血漢、といった印象だ。本業の数学・算数についてもそうだし、ゲームについてもそうだし……実現したいことが明確で、その夢(いや、真琴流解釈でいくと“目標”か)について、目を輝かせながら語る。まるで―――…。

 まるで、小さな子供が「大きくなったら何になりたい?」と訊かれて、将来の夢を答える時みたいに。

 「……っ、」
 この前、唐突に蘇ってしまった苦い思い出が、また頭を掠める。どうもあれ以来、事ある毎に子供の頃のあの思い出と結びつけて考えてしまい、その度に落ち込む。全く、情けない―――優也は、頭を掠めた物を振り払うように、無理矢理笑顔を作った。
 「な…なんだか凄そうですけど、そういうのって、個人で作れるんですか?」
 優也が訊ねると、安城は、興味を持ってもらえた、と思ったのか、やたら嬉しそうな笑顔になった。
 「そりゃあ、“ゼロリス”のようにはいかないと思うよ。アドベンチャーゲームやRPGは作ったことないし、僕は画力ないから誰か絵の上手い奴に協力してもらわないと……あ、音楽も要るよなぁ。下手するとシナリオも誰かに頼む羽目になるかも」
 「えっ、そんな壮大なプロジェクトを、個人でやるんですか?」
 「そのつもりだよ?」
 「……できるんですか?」
 自分の事ではないとはいえ、そのために身につけねばならない知識や技術、かかるコストや時間、果てしないデバッグ作業を想像すると、気が遠くなりそうだ。思わず眉をひそめる優也に、それでも安城はあっさり笑ってみせた。
 「まあ、何年かかるかわからないけど、いずれはなんとかなると思うよ。残念な出来でよけりゃ、全部自分でやりゃあいいんだしね」
 「なんか……趣味の域、超えてますね」
 「そうかなぁ? フリーソフトや同人ゲームじゃ、僕より遥かに趣味超えてる奴がいっぱいいるよ? それをネタにハウ・ツー本依頼されて、趣味の筈が半ば本業になった人もいるし」
 「へえぇ…」
 「とはいえ、いくら趣味を極めたところで、所詮はド素人が1人きりで考えた程度のことだからなぁ。僕が知らないだけで、もうそういうパズル要素満載なゲームが普通に売ってるのかもしれないけど―――…」
 そこで少し言葉を切ると、安城は、何か遠くのものに思いを馳せるかのように目を細めた。
 「それでも、僕なりのものを作ってみたいんだよね」
 「……」
 ああ、まただ―――安城の笑顔に、優也の胸が、鈍く痛んだ。
 “Jonny's Club”の音を超えるスピーカーを開発したい、と言った時の蓮の表情。史上最高の万華鏡を作ってみたい、と語った時の真琴の表情。そして、今の安城の笑顔―――まるで異なる個性の持ち主なのに、その3つの表情は、優也の目には、同じ色を伴って映った。憧れとも、妬みともつかない感情を抱かせる、キラキラとした色を。
 「ん? どうかした?」
 優也の表情の変化に気づいたのか、それとも返事がないのを不審に思ったのか、安城は少し首を傾げるようにして、優也の顔を覗き込んだ。ハッと我に返った優也は、慌てて首を振り、苦笑いを浮かべた。
 「あ……い、いえ、いいなぁ、と思って」
 「え?」
 「実現したいものが具体的にあるのが、羨ましいんです。僕には、そういうものがないから」
 「そりゃあ、まだ若いんだし、色々勉強してる途中なんだから、何をしたいか具体的にわからなくてもしょうがないんじゃないかなぁ」
 「でも、穂積にはスピーカー作りたいって目標があるし、マコ先輩にも将来作りたいものがあるし……それに、」
 続きを言いそうになって、一瞬、ためらう。安城にそこまで踏み入った話をしたことは、これまでなかった。そこまでの付き合いではなかったからだ。
 でも、安城の意見も、ちょっと聞いてみたい気がする。思い切って、続きを口にした。
 「―――それに、まだ、決めかねてるんで。大学院に行くかどうか」
 「あ、そうだったの? 就職決まってないみたいだし、大学院の先輩と仲いいみたいだから、行くのかと思ってたよ」
 「夏休みが終われば大学院の願書締め切りまですぐだし、もう迷ってるような時期じゃないってことはわかってるんです。でも―――好きなことをもっと勉強して、今より知識が増えて見識が深まったとして、じゃあお前は一体それを将来どう活かしたいんだ? って言われると……具体的に、思いつかなくて。そんなあやふやな気持ちで、社会に出るのを遅らせてまで勉強するなんて、なんか、他の大学院生にも失礼な話な気がして」
 「…うーん…難しい問題だねぇ…」
 眉間に皺を寄せ、安城はそう呟いた。
 「秋吉君が言うことももっともだと思うし、逆に“もっと深く研究したいから”って動機以上のものなんて別にいらないんじゃないか、ってのも、正しい考え方だと思うし」
 「研究したいからするんだ―――って、ことですか」
 「本来は、学問とはそうしたものであるべきなんだよね。猫も杓子も大学に行くご時勢だから、すっかり忘れ去られてるけど」
 まあ、確かに―――今の大学は就職予備校だ、なんて皮肉を何かの本で読んだ記憶があるが、一昔前は、大学に行くのはいい会社に入るためでも、政治家になるためでもなく、何らかの学問を究めるためであった筈だ。勿論、その先にある大学院も然り。その根本に立ち返れば、何故大学院に行くのか、の答えは「もっと学びたい」が最も純粋で正当なものかもしれない。
 では、自分は果たして、本当に「もっと学びたい」と思っているんだろうか―――改めてそれを考えると、正直、自信がない。その自信のなさが顔に出ていたらしく、安城はやれやれ、という苦笑を浮かべた。
 「じゃあ、ズバリ、言っちゃいますか」
 「え?」
 「秋吉君の、偽らざる本音」
 ―――本音?
 ドキン、と心臓が跳ねた。怖いような、期待するような心持で次の言葉を待つ優也に、安城は淡々とした口調で告げた。
 「君自身がどう考えるか以上に、君が気にしているのは、“世間”がどう見るか、なんじゃないかな」
 「!!」
 「大学院に進んだところで、講師になれるのは極一握りで、大抵は就職活動をしてどこかに勤めることになるけど、大学新卒と博士、どちらを企業が選ぶかは正直微妙―――専門的な研究をしている所ならドクター大歓迎だろうけど、普通の職場では、学歴が高くなった分プライドは高くなり頭でっかちになっていると思われる院卒より、新卒の方が“扱いやすい”と思うだろう。……大学院と無縁の一般人でも、その位のことは想像する。それでも大学院を選ぶのは、“そうしてでも果たしたい目的があるから”か、“就職したくないから”か―――秋吉君は、具体的な夢のない自分が大学院へ行ったら、世間から“就職できなかった”とか“社会に出るのを先送りした”とか“気楽な学生生活を延長した”とか思われるんじゃないか、って、それが不安なんじゃないかな?」
 「……」
 直球、スイトライク。
 あまりにもど真ん中すぎて、恥じることも怒ることもできない。いっそ清々しい位だ。
 「あ……っと、ま、まずいこと言ったかな?」
 ぽかん、と呆けているように見える優也の様子に、安城は慌てたように声をひそめ、眉根を寄せた。まだ上の空のような表情のまま首を振った優也は、そこでやっとはっきりした顔つきに戻り、少し身を乗り出した。
 「ま、まずくなんかないです! というか……ビックリしました。あまり自分では認めたくない部分だけど、あまりにピッタリ言い当てられたんで」
 「そう? そんなにピッタリだった?」
 「はい。でも、どうして―――…」
 不思議そうにする優也に、安城はバツの悪そうな笑みを返した。
 「そりゃあ、人間、多かれ少なかれ、他人の目は気になるものだからね。勿論、僕も」
 「え……っ、あ、安城さんも?」
 「当然だよ。これでも教師を辞める時は、ウジウジと悩んだんだよ? 安定した公立学校の教師っていうのは、やっぱり耳触りのいい職業だからね。それを辞めるなんて、親も反対するし、周りだっていぶかるし、挙句には“クビになった”と勘違いする人まで出るし―――イレギュラーな進路を選ぶのも、条件のいい仕事を辞めるのも、とかく憶測を呼ぶのは同じだよ」
 なるほど―――そう言えば安城は、元々は公立中学校の教師だったのに、自らの意思で辞職し、今の立場になったのだった。「進む」と「辞める」、まるで正反対な決断だが、その選択を世間がどう思うか、と気になる点は、どちらも同じかもしれない。
 「ちなみに……訊いていいですか? その、なんで教師を辞めたのか」
 納得したら、それまでスルーしていた根本的な話が、急に気になりだした。自分の問題とは何の関係もないことを訊ねるのもどうなんだろう、と思われたが、優也の質問に対して、安城は案外あっさり答えてくれた。
 「うん、まあ―――早い話、理想と現実のギャップのせい、かな」
 「ギャップ?」
 「僕自身が中学生だった時、生徒に凄く人気のある英語の先生がいてね。放課後に質問に行けば、生徒が納得するまで付き合ってくれるし、プライベートな相談にも親身に答えるし。ただし、甘い先生じゃあなかったんだ。むしろ厳しかった。授業前に生徒同士の喧嘩があって、先生が教室に入って来てもクラス中大騒ぎしたまんまだったことがあったんだけど、3つ向こうにある教室の先生が慌てて飛んできた位の大ボリュームで“お前ら、いい加減にしろーっ!!”って怒鳴られてねぇ……あの時は授業全部つぶして説教されたなぁ。しかも起立させられたまんまで」
 それは確かに、人気者になるだろう―――優也の学校には、そういう熱血タイプの教師はいなかったが、生徒に甘い教師はむしろ人気がなく、陰でバカにされていたと記憶している。多分生徒は、大人の中にある“愛”や“嘘”といったものを、敏感に察知しているのだろう。どんな甘言も“嘘”ならば拒絶されるし、どんなに厳しい言葉でも、そこに“愛”があれば、おのずと支持される―――人間とは、結構直観的な生き物なのかもしれない。
 「そういう先生を知ってるから、大学行って教員免許取ろうと思った時、僕の中の理想の教師は、あの英語の先生だったんだ。受験のための勉強を詰め込むだけじゃなく、脱落しそうな子供にとことん付き合うような、勉強以外のことも教えてやれるような、そんな教師になりたいな、ってね。でも―――…」
 そこで言葉を切った安城は、遠い目をして、深い、深いため息をついた。
 「現実は、僕の想像とはまるでかけ離れてたんだ。授業についていけない生徒を時間外に指導すると、全然関係ない生徒の父兄が“安城先生が○○君だけ贔屓にしている、もっと平等に生徒を扱え”なんて電話をしてくるし、目に余る生徒を叱っただけなのに“うちの子供が先生に怒鳴られた、学校に行きたくないと言っている。どうしてくれる”って親が怒鳴り込んでくるし―――もっと丁寧な授業運びがしたいのに、それじゃあ間に合わないから生徒の理解度なんていいから先に進め、って教頭がガミガミ言うし。挙句には、いじめの可能性に気づいて学校に報告したのに、黙殺されるし」
 「……」
 「僕はここで何をやってるんだろう? ただ数学の教科書読み上げて、黒板に書いて、テスト用紙を配って……そんな教師に、勉強以外のことを相談する生徒なんて、いる訳ないよなぁ。教師側も“生徒のプライバシーには首を突っ込むな”“体罰を疑われるような真似は絶対するな”って、とにかく揉め事起こさないこと、マスコミに取り上げられて叩かれないことに神経尖らせてるし。そんなことなら、決められたセリフ喋って、自動的に黒板に数式書いてくれるロボットを作った方がいいんじゃないか? って、本気で思ったんだ」
 ―――ロボット、かぁ……。
 それでもきっと、何か“人間”である必要性はあるんじゃないか、と思うのだが……具体的に“何”? と考えると、今の話を聞いた後では、何も思い浮かばない。第一、優也自身に、教師との“人間”的なエピソードが皆無なのだ。小学校から高校に至るまで、優也にとっての教師とは「勉強を教える人」で「テスト問題を作る人」だった。あれがそのまま高性能ロボットに替わっても、別に何の問題もないかもしれない―――そう考えて、優也の背中にゾクッとした冷たいものが走った。
 「な……なんか、寒々しい話、ですね」
 「全くね。無論、僕がいた学校が特別だった可能性もあるし、ああいう状況下でもあの英語の先生のように理想の教師像を体現してる先生もいるんだと思うけど」
 はぁ、とため息をついた安城は、ほろ苦い経験を語ったせいか、彼らしからぬシニカルな笑みを優也に向けた。
 「要するに、僕には、そういう現状を変えるだけのエネルギーも、それでも理想を貫くだけの根性も足りなかった、ってことだよね。学校の現場で出来なかった事が、塾講師の立場でできるのかどうかは怪しいけど、あの頃よりは今の自分の方が、学生時代に思い描いてた理想に近づいてる気がするよ」
 「理想……」
 「今はね、生涯にたった1人でもいいから、“安城先生がいたから、苦手だった数学が大好きになった”って言われてみたい、ってのが、僕の目標。“教師になる”って夢は実現できなかったのかもしれないけど―――その夢を突き詰めていったら、本当に望んでいたものは、教師っていう“器”じゃなく、その“中身”だったってわかったから」

 “器”と“中身”―――……。

 漠然としていたものの名前が、ふいに、はっきり形になった気がした。そう、“器”と“中身”だ。

 数学者になりたかった、と昔から口にしてた父。その夢を、息子に託した父。
 父が欲しかったのは、数学者という“器”だったのだろうか? それとも―――その“中身”だったのだろうか?


***


 夏休みがやってきた。
 といっても、優也自身はもう少し前に夏休みになっていたのだが、世間の小中学生も休みに入り、日本全国が本格的に「夏休み」になったのだ。
 塾、特に受験準備のための塾は、学校が休みの時こそ忙しくなる。そして、バイト先が塾である優也も、忙しくなる。

 「えー!? 月内休みなし!?」
 「……はぁ」
 みたらし団子を受け取りつつ、げんなりした返事をする優也に、真琴はただでさえ丸い目を、更に真ん丸に見開き、身を乗り出した。
 「秋吉君、夏休みは“休み”なのですよ!? 働くためにあるものではないナリよ!」
 「……わかってます。穂積にも言われました」

 『ああ、どうせ断りきれなかったんだろ。夏“休み”とは名ばかりだな』

 蓮の言うとおり、優也は塾長の拝み倒しに負けてしまったのだ。他の事務員が家族を理由に休みを取りたがるので、一番融通の利く優也にお鉢が回ってしまった、という訳だ。
 優也だって、何も暇な訳ではない。卒研があるし、大学院の試験準備もある。まだ迷いはあるが、迷ってる限りは受ける可能性はあるのだから、ぬかりなく勉強しておかねばならない。塾で他人の勉強の世話をしている場合ではないのだ。
 ―――うん、“休み”とは名ばかりだよ。でも、バイトがなくても、やっぱり“名ばかり”なんだ……内定取って卒研もほぼ目処がついてる穂積とは違って。
 蓮は、いつも言葉が簡潔だ。簡潔故に、色々フォローが足りない。悪意なく無表情に放たれた言葉は、優也の脳天にぐっさり突き刺さったのだった。
 「一応、8月入ったら優先して休みもらうことになってるんで……。多分、今が一番忙しいんですよ。夏休み中限定の集中講座がいくつもあって、受講希望者やら、逆にキャンセル者やら、なんだか普段と違う事務手続きの人が入れ代わり立ち代わりしてて」
 「だからって、昼抜きでこの時間まで……」
 現在、時計は午後6時を回っている。このみたらし団子が、朝食にパンと牛乳を食べて以来の食事という訳だ。
 「第一、みたらし2本じゃ、体がもたないナリよ。何かもっとパワーが出るようなものをガッツリ食べないと」
 「そう思うんですけど―――なんかどうも、食欲わかなくて。元々、夏は食欲落ちて夏痩せするんですよねぇ……」
 「羨ましいですねぇ。ワタシなんて、年がら年中食欲旺盛ですよ?」
 「先輩はその体格で人一倍クルクル動き回ってるから、食べてもどんどん消費されてるんですよ。僕はまだ活動量が少ないってことかなぁ……違うだろうなぁ……」
 はあぁ、とため息をつきつつ、みたらし団子2本がのったトレーをテーブルに運んだ。そのヨロヨロした歩き方が心配になったのか、真琴もカウンターを離れ、優也の前の席に腰を下ろした。レジは大丈夫なのか? と心配になって首を伸ばすと、真琴の肩越しに、見覚えのない女性がレジ前に立っているのが見えた。年恰好から見て高校生から大学生といったところなので、多分夏休み中限定のアルバイトなのだろう。
 「その様子じゃ、穂積君とも、あの女の子とも、遊びに行くような予定はなさそうですねぇ……」
 「あー……どのみち、どっちも無理ですよ」
 みたらし団子を頬張りつつ、優也は僅かに眉根を寄せた。
 「穂積は、バイクのローンが終わった記念に、単独で日本北上の旅をするんです」
 「北上?」
 「東北一周、かなぁ? 詳しい予定は僕も聞いてないんですけど、気ままに走ってその場で宿決めて、って感じで半月くらいかけてノンビリ行く、って言ってました。社会人になってからじゃ、そういう旅もなかなか難しいだろうから、って」
 「へぇー、穂積君らしいですねぇ」
 確かに、蓮らしい。というより、優也なら絶対無理な旅だ。優也が旅行をするなら、無理のないよう1日何十キロ走ろう、ときっちり計画を立て、行く先々の宿も出発前にきちんと予約を取るだろう。
 「それに、女の子―――理加ちゃんの方は、彼氏が出来たみたいなんで、何事も彼氏優先だろうし」
 「えっ」
 優也の言葉に、真琴は目をパチパチと瞬いた。
 「か、彼氏が出来た?」
 「みたいですよ。一昨日もデートで映画か何かに行った話を電話でしてましたし」
 「そ……そうなんだ……へえぇ……」
 「? どうかしたんですか?」
 妙に拍子抜けしたような、ポカンとした様子の真琴に、さすがに気になって訊ねた。が、真琴はハッと我に返ったように背筋を伸ばすと、誤魔化し笑いでブンブン首を振った。
 「あ、あはははは、なんでもないナリよ〜。そーですか、あの美少女に彼氏が……」

 ガチャン!!

 焦ったような口調の真琴の言葉に、突如、視界の外から、食器の割れた音が被さってきた。
 驚いて、2人して辺りを見渡すと、優也たちから随分離れた席に、小学生らしき集団がいるのが見えた。ざっと数えて、5、6人といったところだろうか。一番優也たちに近い位置にいる男の子の足元に、割れたグラスが転がっているところを見ると、どうやら今の音はあの集団だったらしい。
 「あーあ、割れちゃったぁ」
 「お前のせいだぞー」
 「弁償だぞ弁償」
 まだ2年生か3年生といった風貌。かん高い声―――多分、最近何かの漫画か本で「弁償」という単語を覚えたばかりなのだろう。グラスを落とした張本人以外は、1人が口にしたこの言葉に乗っかり、「弁償」という単語で囃し立て始めた。
 「夏休みですねぇ……」
 呆れたように、真琴が呟く。フードコートは、子供がたむろしやすい場所の一つだ。こうした光景も見慣れてしまったのかもしれない。が、優也の方は、そうではなかった。
 弁償しろ、の合唱の合間に、「やめろよぉ」という泣きそうな声を、偶然見つけてしまったのだ。

 ―――ヤメテ。
 子供特有の、陰湿さのないストレートな残酷さ―――騒ぐと面白いから、騒ぐ。相手が嫌いとか、相手を泣かせてやりたいとか、そんなことは全然考えていないところが厄介だ。
 ―――オネガイ、ヤメテ。
 あの時、自分はどうしたっけ? 面白がって囃し立てる連中を前に、自分はどうした?

 「全くもぉ……一言注意してきましょうかねぇ」
 さすがに他の客の迷惑になると思ったのか、真琴はそう言って、腰を上げかけた。
 が、次の瞬間―――ゴン、という鈍い音と共に、優也の頭が、テーブルに沈んだ。

 「えっ……あ、秋吉君!?」

 気絶する瞬間、最後に聞いたのは、真琴の悲鳴にも似た叫び声だった。
 大丈夫です、ただの貧血です―――そう答えたつもりだったが、声にはならなかった。

***

 「あの、ほんとにもう大丈夫ですから……」
 「いーえ、ダメですっ」
 キッ、と斜め下から睨みあげてくる真琴に、優也は額のタンコブを押さえつつ、身を縮めた。
 「こんなフラフラな秋吉君を、一人で帰らせる訳にはいきませんですよっ。第一、目を離したら、塾のバイトに戻りかねませんからね。ちゃんと自宅に着くまで、監視の目を緩めてはいけないのですっ」
 「か……監視、ですか」
 「秋吉君位の若い男性が気絶をするなんて、大変なことですよ? 何か重大な病気が潜んでるかもしれないではありませぬか」
 「……そんな、オーバーな」
 苦笑したが、事実、まだ体が重かった。
 本当に体重が増えている訳ではないだろうに、ザリザリとアスファルトを蹴る足音が、いつもより耳障りだ。多分、体が重いせいで、足を十分上げて歩いていないのだろう。
 目覚めた時、優也は、スーパーの救護室のような所に寝かされていた。そのの額には、予想以上に立派なタンコブが1つ出来ていて、鼓動に合わせて痛みが脈打っていた。
 真琴は、というと、優也が目を覚ます前に塾に連絡を入れ、見事、今日と明日2日間の休みを勝ち取っていた。実際、目が覚めたとはいっても、まだフラフラしている状態なので、正直、休みにしてもらえたのはありがたい。だから、真琴が監視しなくても、バイトに戻るなんて真似をする気はないのだが……。
 ―――まあ、いいか。そう言ったところで信じてはくれないだろうし。
 そう思ってはみるものの、家まで送る、それが駄目ならせめて地元駅まではついていく、と言って聞かない真琴を、一体どの辺りで帰らせればいいのか―――そこが問題だ。
 「電車で引き返してくるほど馬鹿じゃないから、ここまででいいですよ……先輩が帰るのが遅くなる方が、僕の体よりよっぽど心配です」
 塾とスーパーがある駅に着いたところで、意を決してそう告げたが、真琴は断固、退かなかった。
 「なんのために女子高生ちゃんに後を任せて早退したと思ってるのですかっ」
 「……ハイ」
 確かに、最寄駅まで送るだけなら、早退などする必要はなかったのだ。ここで無理に断ったら、せっかくの好意を無駄にしてしまう。本当に家まで来てしまったら、タクシーを呼んで帰ってもらおう―――そう考え、優也はそれ以上、真琴に「もういいですよ」と言うのをやめることにした。

 改札で時刻表を確認したところ、つい今しがた電車が行ってしまったばかだとわかった。幸い、降りる客が多く乗る客が少ない時間帯のようで、ホームのベンチは軒並み空いている。次の電車が来るまで、座って待つことにした。
 「それにしても心配ですねぇ……。やっぱりご飯をきちんと食べてないのが原因なのでしょうかねぇ」
 ベンチに腰かけた真琴は、そう言って、隣に座る優也の顔を心配げにしげしげと見つめた。どんぐり眼で、しかも普段より近い距離から見つめられると、かなり落ち着かない。うろたえた優也は、顔をそむけつつ、視線をあちこちに彷徨わせた。
 「あ……暑さで夏バテ気味ですし……そっ、それに、バイトが休みなしで、か、かなり疲れてたのも……」
 いや、そうじゃない―――頭の片隅で、そんな声が響いた気がして、うろたえた優也の頭がスッと一瞬で冷えた。
 「? 秋吉君?」
 突然、表情が固まり黙り込んでしまった優也に、真琴が眉根を寄せ、首を傾げた。
 普段の優也なら、ここで「いえ、なんでもないです」と誤魔化しただろう。が、やはり、この日はどこかおかしかったのかもしれない。なんでもない、と開きかけた口を閉じ、優也は、ぽつりとつぶやいた。
 「……この前の、話」
 「え?」
 「子供の頃の、“将来の夢”。あの時、僕、答えなかったけど……今、その話しても、いいですか?」
 キョトン、と真琴が目を丸くする。当然だろう。あまりにも唐突すぎて、話のつながりが見えないのだから。が、真琴が驚いた顔をしたのはほんの数秒で、やがて興味津々な顔になり、身を乗り出して来た。
 「いいですよ〜。何?」
 「―――幼稚園の時、大きくなったら何になりたいか書く機会があって……僕、“正義の味方になりたい”って書いたんです」


 幼い頃、優也の家の近所には、悪ガキがいた。
 いたずら好きで、特に小さい子を驚かせたり怖がらせたりするのが好きだった。もちろん、優也も泣かされた中の1人で、ポケットにカエルを入れられて、悲鳴を上げながら近所を1周駆け回ったりした記憶がある。
 ところが、幼稚園には、その悪ガキなど比較にならないようなガキ大将がいた。優也とはかなり離れた地域に住んでいる子だったので、幼稚園に入るまで会うことがなかったのだ。
 ガキ大将は、非常に横暴だった。他の子が遊んでいる積み木を壊したり、他の子のおもちゃを無理矢理取り上げたり―――体が大きかったのと、まるで子分みたいにくっついている友達が2人いたのが災いした。先生が注意するとその場では大人しくなるが、後で必ず「お前のせいで叱られた」と言って叩いたりしてくるのも厄介だった。
 子供たちはみな、嫌だ、と思いながらも、ガキ大将に立ち向かうことも、対抗することもできなかった。そしてご多分に漏れず、優也もまた、ガキ大将の横暴に体を竦ませているだけの子供だった。
 ある日、優也の持っていたクレヨンを、そのガキ大将が横から取り上げてしまった。買ってもらったばかりの新品で、目立っていたのだろう。
 返して欲しい、と頼んだら、うるさい、といって手を払われた。ひ弱な優也は、それだけで床にひっくりかえってしまった。
 すると―――なんと、あの近所の悪ガキが、教室の隅っこから飛んできて、ガキ大将に食ってかかった。自分より1回り以上大柄なガキ大将に、全力で体当たりしたのだ。
 ふいをつかれたガキ大将は、無様なほどの勢いで尻もちをつき、うわんうわんと泣き出した。いつも自分の方が強かったので、転んだ時の痛さを知らなかったのだろう。転ばされる側になったガキ大将は、優也と変わらない、ただの幼稚園児にすぎなかった。

 何故悪ガキは、普段からかって泣かせてばかりいる優也を、助けたのだろう?
 近所のよしみで? それとも本当は優也と友達になりたかったのか? 真相はわからない。その後も、悪ガキは優也のような小さい子を見つけてはいたずらを仕掛けてばかりいたし、優也と特に親しくなることもなかった。
 ただ―――優也にはあの時、その悪ガキが、まるでテレビに出てくる特撮モノのヒーローのように見えた。
 たとえ相手が自分より大きくて強くても、真正面からぶつかっていける勇気―――しかも、自分自身のためではなく、理不尽に泣かされる他人のために。確かに悪ガキは悪ガキだ。悪いところもいっぱいある。けれど、あの正義感と行動力に、優也は憧れた。自分にはないものだと、幼いながらにも強く感じたから。

 そのタイミングで、あの「大きくなったら何になりたいか」という質問が出された。
 「正義の味方になりたい」―――それは、その時の優也の、一番素直な本物の“夢”だった。悪事を見て見ぬフリをせず、立ち向かえる人間になりたい……その思いを、幼稚園児の頭で表現したのが、あの言葉だった。


 「その回答が、提出前に母に見つかっちゃって。母にはふざけて書いたようにしか見えなかったらしくて、書き直せ、って言われたんです。でも、それ以外、夢なんて何を書いていいのかわからなくて―――結局、母や父が言うとおり、“学校の先生”って書いて出したんです」
 はぁ、とため息をつくと、優也は真琴の方を見、苦笑いを浮かべた。
 「僕が、僕自身の本音で“何かになりたい”って夢を持ったのは、あれが最初で最後かも……。一生懸命考えた“夢”を“ふざけてる”の一言で消しゴムで消されたのは、やっぱりショックだったみたいで―――それに、父からは、自分がなれなかった数学者になって欲しい、って言われ続けてたから、あれ以来、将来の希望欄に書くのは、決まって“先生”か“数学者”で―――でも、それって、僕の夢じゃなくて、父の夢を代行しようとしてるだけですよね」
 「……うーん……中には、親の夢が、いつの間にか本人の夢になってるケースもあると思うけど……秋吉君自身が“親の夢”って感じてる時点で、やっぱり秋吉君自身の夢にはなってない、ってことですよねぇ……」
 むむむ、と難しい顔で呟く真琴に、優也は小さく頷いた。
 「……あれは、小4か小5の時だったかなぁ。さっきの子供たちみたいに、複数で1人の子をいじめてるシーンに、偶然出くわしたことがあって……その時、真っ先に頭に浮かんだのも、幼稚園の時に消された“正義の味方になりたい”っていう夢だったんです。自覚はしてなかったけど、心のどこかにずっと残り続けてたんだと思う」
 この先は、口にするのに、勇気が要る。視線を落とした優也は、膝の上の拳をぎゅっと握りしめた。
 「なのに―――僕は、見て見ぬフリしたんです」
 「え……」
 「いじめられてるのは知らない子だったし、相手は3人いたし、全員僕より強そうだったし……僕が出て行っても勝ち目なんかない、って思ったら、出て行けなかった。誰も気づいてないのをいいことに、咄嗟に見なかったことにして、そいつらの後ろを足音立てないようにして通り過ぎたんです」
 「……それは……仕方ないナリよ。出て行ったら、秋吉君もケガしてたかもしれないんだし」
 「うん、多分、出て行ったら酷いことになってたと思う。でも―――さっき、思ったんです。もしあの時、自分が今の年齢だったら……いじめっ子より年上で、体も大きかったら、さっきのマコ先輩みたいに、注意しに出て行ったんだろうな、って」
 自分の方が大きくて、強いから。
 刃向ってこられても対抗できるとわかるから、威嚇すれば相手が黙りこむことは想像できるから。
 「相手の方が自分より強いと見て見ぬフリをする。相手の方が自分より弱ければ、叱ることができる。相手と自分の強さを推し量って、その優劣で態度を変える……それって、弱い者いじめしてたガキ大将と、本質的には違わないんじゃないか。……そう思ったら、気が遠くなっちゃって。それで気絶したんです。だから、精神的な物がほとんどで、別に病気とかそういう訳じゃないんです」
 すみません、と首を竦めつつ優也が謝ると、真琴はちょっと困ったような笑みを見せ、首を横に振った。
 「そうやって、自分の弱さを見つめられるのが、ユーの凄いところなのですよ」
 「えっ」
 「年齢とか、体の大きさとか、力の強さなんて関係ないナリよ。秋吉君は強いです。だから私も―――」

 真琴の言葉の後半は、電車の到着を告げるアナウンスとチャイムで、かき消されてしまった。
 停車時間の短さは、日々の利用でよく知っていた。優也も真琴も、慌てて荷物を掴み立ち上がった。
 ―――つ……強い、って、凄い、って……僕が?
 優也の顔は、自分でもわかるほど真っ赤になっていた。周囲の客に変に思われるんじゃないか、と、そればかりが気になって、電車の中のことはほとんど覚えていない。
 もし、この時の優也がもう少し冷静なら、気づくことができただろう。
 言いかけた言葉が構内放送でかき消されてしまった、真琴の方もまた、優也と変わらないほど、顔を真っ赤にしていたことに。

***

 結局、真琴は、優也が無事地元の駅の改札をくぐるのを見届け、そのまま改札を出ずに電車で帰って行った。話を聞いてもらって落ち着いた、との優也の言葉で、真琴の心配も幾分治まったらしい。

 ―――“正義の味方”って、なんなんだろう?
 駅からアパートまでの道すがら、普段より少しゆっくりめのスピードで歩きながら、ふとそんなことを思う。
 あの、子供の時―――優也がいじめっ子を止めに入って、被害者の子と一緒に袋叩きにあってたら、夢だった“正義の味方”になれたんだろうか? 颯爽と飛び出して、あの悪ガキみたいに相手を屈服させられたら、それはカッコよかっただろう。まさに“正義の味方”だっただろう。けれど、持って生まれた体格や強さは、どうなるものでもない。だったら―――優也のようなひ弱な人間は、せいぜい、自分より弱そうないじめっ子を見つけては偉そうに説教する程度のことしかできないのだろうか。
 でも、それは果たして、“正義の味方”なのだろうか―――…。

 『要するに、僕には、そういう現状を変えるだけのエネルギーも、それでも理想を貫くだけの根性も足りなかった、ってことだよね』

 『“教師になる”って夢は実現できなかったのかもしれないけど―――その夢を突き詰めていったら、本当に望んでいたものは、教師っていう“器”じゃなく、その“中身”だったってわかったから』

 ―――“器”と“中身”、か……。
 安城は、教師を夢見た。けれど、現実の中で己の理想を貫けるほど、強くはなかった。だから、教師という“器”を捨てた。彼が求めていたのは、“器”ではなく、“中身”―――迷える子羊に数学の楽しさを教えることだったから。
 父は、数学者を夢見た。けれど、家庭事情により、それを諦めた。もし、父が望んでいたのが数学者という名の“器”なら、これで父の夢は完全に潰えたことになる。なのに父は、息子に数学者になるよう願った。ということは、父が欲しかったのは“器”ではないのだろうか? 息子が数学者になれば、本当に欲しかった物が手に入るのだろうか? だとしたら、それは何なのだろう?

 じゃあ、自分は?
 颯爽と登場して悪者を退治するのが、正義の味方としての“器”であるなら、“中身”は一体なんだろう―――…?


 「秋吉」
 背後から声をかけられ、優也はハッとして、顔を上げた。
 あれこれ考えながら歩いているうちに、いつの間にかアパートに着いていたようだ。目の前には、アパート入り口にあるポストが既に迫って来ていた。
 よっぽど考え事に没頭してたんだなぁ―――そう思いつつ振り向いた優也だったが、次の瞬間、後ろに立つ人物の姿に、思わず奇声に近い叫び声をあげてしまった。
 「ほ……っ、穂積!!!!?」
 背後に佇んでいたのは、蓮だった。
 ただし、Tシャツのあちこちに血が滲み、露出した右腕には絆創膏がべったり貼り付けられ、左腕は一目て骨折とわかるように包帯で吊り下げられている、という、見るも無残な姿の、蓮だった。
 「……ただいま」
 言葉を失うどころか、呼吸まで失っている親友を前に、蓮はもの凄くバツの悪そうな顔で、そう呟いた。


←BACKi -アイ-. TOP|NEXT→|


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22