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― 正義の味方 -2- ―

 

 「……ええと、これは?」
 目の前に差し出されたものは、一目で何らかの展覧会のペアチケットとわかるシロモノだった。
 「このところ、秋吉君にはずーっと手伝ってもらってたからさ。御礼……と言うにはショボイかもしれないけど」
 キラキラとした写真に被さるように印刷されたタイトルは、“万華鏡の世界―――世界の名品100点”。優也は、チケットを差し出す安城を、驚いたように見上げた。
 「ぼ、僕にですか!?」
 「勿論。あんまり卒研には関係ないだろうけど、まあ、一応はテーマに掲げてるものだから、見ておいて損はないんじゃないかな、と」
 確かに、ゲーム制作の手伝いもどきをしている間、世間話のついでのように、卒業研究のテーマやら何やらも安城に話した記憶がある。が、話したのは“ゼロリス”初クリアから間もない頃で、しかも中身も大して話していなかったように思う。それなのに、安城がちゃんと覚えていたとは驚きだ。
 「あ、いやいや、別にわざわざ買ってきた訳じゃないよ? 実を言うと、うちで取ってる新聞屋が、サービスで持ってきたんだ。家族全員、この手のものにまるっきり興味なしときてるから、暫く下駄箱の上に放置されててさ。気がついたら展覧会始まっちゃってるし、ちょうど秋吉君に何かお礼しないとなーと思ってたところだったんで、持ってきただけなんだよ」
 「あ…そうなんですか」
 そういう話であるなら、多少は気が楽だ。ホッとしたのが顔に出たらしく、チケットを差し出している安城も、くすっと面白そうに笑った。
 「そういう訳なんで、どうぞ」
 「はい―――じゃあ、遠慮なく」
 「あ、それと、この本」
 チケットと一緒に手渡されたのは、数日前に安城に貸した、システム構築関連のハウツー本だった。新しいゲームの参考にしたい、と言って安城が探していた本を、偶然蓮が持っていたので、優也が蓮から借りて安城に貸していたのだ。
 「いやー、ほんと、凄く参考になったよ。穂積君にお礼言っといてね」
 「はい」
 本とチケットを受け取りつつ、笑顔でそう返事した優也だったが、そこでふと、ある事実に気づいた。

 もらったチケットは、ペアチケット。

 ―――ええと……これ、誰と一緒に見に行ったらいいんだろう?

***

 「え、もういいのかよ、この本」
 帰宅後、蓮の部屋を訪ねて本を返したところ、蓮はかなり意外そうな顔をした。
 「うん。参考にしたかったの、3章と4章だけだったみたい」
 「…それじゃあ借りるって考えになるよな」
 300ページ近くあって、値段も5000円を超えているというのに、参考にしたいのがその中の2割程度なのだから、コストパフォーマンスが悪いことこの上ない。分厚いし置いてある図書館も珍しいのだからいっそ買えばいいのに、と貸す時に2人で密かに言い合っていたのだが、結果を見れば「借りて正解」と言えるだろう。
 「でも、こんなもん参考にするって、何作る気なんだろうな」
 「うん……僕も、その辺はよく知らない。まだアイデアを練ってる段階、って言ってたし、“ゼロリス”が完成してから本格的に手をつける、って話だから、具体的にはまだ決まってないのかも」
 「ふーん」
 相槌は打つものの、蓮は、安城の趣味にはあまり興味がない様子だ。いや、興味がない、というよりも、テストプレイどころか、ここ数日はデバッグまで手伝っていることを優也から聞いて、安城そのものをあまり良く思っていないのかもしれない。ゲーム制作の話はさっさと切り上げた方がよさそうだ、と考え、優也は少々唐突気味に、話題を変えた。
 「そ、それより、今日だったよね、例のライブ。無事、当日券取れた?」
 今夜は、咲夜の叔父にあたるジャズ・ピアニストのライブの日で、咲夜もそのライブで1曲披露することになっていた筈だ。前売り券は完売した、と聞いていたが、蓮は当日券を狙うと言っていた。ジャズには明るくないので、咲夜の叔父の名もそのメジャー度も優也には全くわからないが、当日券が無事手に入るかどうか微妙だ、と蓮は考えていたようだった。
 「ああ。案の定、残り少なかったけど、なんとか」
 「そっかぁ…。で、どうだった?」
 咲夜の歌に関してはいつも“絶賛”に近い評価を口にしている蓮なので、今回もそういう感想が聞けるだろう―――優也は無意識のうちにそう予想して訊ねたのだが、返って来た反応は、少々、優也の想像とは違ったものだった。
 「あー…、うん、楽しそうだったよ」
 「楽しそう?」
 なんとも微妙な感想だ。どういう意味だろう? と不思議そうな顔をする優也に、蓮は曖昧な笑みを返した。
 「凄かったよ。圧倒された。けど、俺は、普段の咲夜さんの歌の方が、好みかもしれない」
 「……ふぅん……」
 図らずも、さっきの蓮の反応と同じになってしまった。残念ながら、優也は元々音楽関連に疎く、興味もあまりない。知人として、そして蓮が想いを寄せる相手としての咲夜にはそれなりの興味があるが、今ここで「今日の歌」と「普段の歌」の違いを蓮に説明されても、あまり共感できそうにない。
 蓮の方も、その辺を理解しているのか、それともあまり突っ込まれたくないのか、
 「まあでも、払った料金分以上は満足できたよ。いいライブだった」
 と、ポジティブな感想で締めくくった。どんな内容であれ、「金返せ」という結果でないのなら、優也も何も訊くつもりはない。
 「なら、良かったね」
 と、こちらもポジティブな相槌で締めくくった。
 「あ、それと―――実は、安城さんから、これ貰ったんだけど」
 ここで初めて、例のペアチケットを取り出した。目の前に掲げられたチケットを、少し目を細めるようにして見つめた蓮は、怪訝そうに眉をひそめた。
 「へぇ……万華鏡の展覧会か。なんで安城さんが?」
 「新聞屋さんに貰ったんだって。僕が卒研で万華鏡をテーマにしてるの知ってたから、いつも手伝ってくれてるお礼に、って言って、くれたんだ」
 「ふーん。晩飯も食ってない学生アルバイトを趣味のために拘束している、って罪悪感は、一応は持ってたんだな」
 「あ……あははははははは」
 確かに、バイトが終わる頃にはほぼ腹ペコ状態で、安城を手伝っている間も当然空腹なのだが―――最近は、それを見越して真琴の所でたい焼きやアメリカンドッグを食べてからバイトに行っている、という事実を、蓮にはまだ言っていない。空腹を満たすのが目的か、それとも単に真琴目当てで店に行っているのかが、優也自身の中でも曖昧なので。
 「そ、それでね。貰ってからはたと気づいたんだけど、これってペアチケットなんだ。どう? 穂積、一緒に行かない?」
 優也が訊ねると、蓮は一瞬キョトンとした表情をし、それから困ったように眉根を寄せた。
 「こういうキラキラしいものを、野郎2人で見るってのも、どうかと思うけど」
 「う……確かに、女の子の方が好きそうだよね、こういうのって」
 女性とカップルだらけの展覧会で、男2人が浮きまくっている図を想像し、優也の表情も暗くなった。
 「うーん…それじゃあ、リカちゃんを誘った方が無難なのかなぁ…別に数学の展示でもないから、リカちゃんでも楽しめるか…」
 「……あ、」
 ぶつぶつと呟く優也を眺めていた蓮は、ふと何かを思い出したように、短い声を上げた。
 「そういえば今日、ライブ帰りに、咲夜さんや藤堂さんと、“Jonny's Club”に飯食いに行った」
 「藤堂さん……あー、ええと、ピアノの人だっけ?」
 「ああ。で、あの子、心配してたぞ。秋吉と全然連絡つかない、って」
 「あの子、って―――え、もしかして、リカちゃん!?」
 “Jonny's Club”ときて“あの子”ときて“連絡がつかない”とくれば、理加子以外、あり得ない。しまった―――確かにここ数日、着信履歴はあるのに、こちらからかけても向こうが電話に出なかったりで、全く連絡が取れていない。
 蓮と理加子の関係を考えれば、2人で和気藹々と話している中でついでに電話の件が出てきた、なんて展開は、まずあり得ない。さっぱり連絡のつかない優也を心配していたところに、タイミング良く蓮が現れ、猛ダッシュで駆け寄って「優也がどうしてるか知らない!?」と詰め寄る理加子の姿が、脳裏に浮かんだ。多分、実際もそれに近い展開だろう。
 「無事知らせるついでに、誘ってやれば」
 「う…うん、ごめん」
 咲夜たちの前で理加子に詰め寄られたりしたら、さぞかし気まずい思いをしたに違いない。詳細を確認する勇気もないので、優也は冷や汗をかきながら、とりあえず蓮にお詫びだけはしておいた。


 蓮の部屋から自分の部屋に戻ってすぐ、理加子に電話をした。

 『あー、よかった。あんまり連絡取れないから、すっごく心配しちゃった』
 「うん…ごめん。さっき、穂積からも聞いた」

 相談したいことがある、というメールを貰っていたので、多分両親のことだろうな、と予想していたが、案の定、理加子の悩みは両親の離婚問題だった。
 優也にとって、離婚も別居も戸籍も養子も、これまでの人生でまるで縁のなかったジャンルの話だ。なるほどそういう考え方もあるのか、と驚いたり、無神経な発言をしないよう気を遣ったりと、電話の間中、頭をフル回転させなければ、話についていけない。こんな人生経験の乏しい自分が相談に乗るなんて、と思わなくもないが、理加子から「優也に話すと気が楽になる」と言ってもらえるのだから、一応何らかの役には立っているのだろう。

 『あ、ママが帰って来たみたい。そろそろ電話切るね』
 「うん。暫くは帰ってくるの今日くらいになりそうだから、電話くれるならこのくらいにしてもらっていいかな」
 『わかった。ごめんね、あたしの愚痴聞いてもらうばっかりになっちゃって』
 「ううん。じゃ、また」
 『またね。おやすみー』

 電話を切り、ホッとして、携帯電話を机の上に置いた時。
 「……あ……」
 そこにある、ペアチケットのことを、やっと思い出した。
 ―――し…しまった、話聞くのに集中しすぎて、これの話するの、すっかり忘れてた。
 とはいえ、まだ開催期間に余裕がある。わざわざもう一度電話したりメールで知らせたりする必要もないだろう。また明日か明後日、電話で話した時に、ついでに話せばいいか―――ため息をひとつつき、優也は、ペアチケットを机の目立つ場所に改めて置きなおした。

***

 チケットを貰った翌日。どうせ今日も、何やかやで安城に付き合って居残りしてしまうのだろう、と考えた優也は、軽く何か食べてからバイトへ行こう、と真琴が働くスーパーのフードコートへ行った。
 ところが―――そこで優也を待っていたのは。

 「ふっふっふっふっふ……ワタシは知っているのですよ、秋吉君」
 「……」
 らしくない不敵な笑みを浮かべる真琴を見て、身構えるとか警戒するとかいう以前に、思わず引いてしまった。リアクションに困って固まる優也に、真琴は勝ち誇ったようにビシッ! と商品のアメリカンドッグを突きつけた。
 「ユーは昨日、安城先生から、万華鏡の展覧会のチケットを貰いましたね」
 「えっ!」
 「そして、一緒に展覧会に行ってくれる人がいなくて、困っている。そーでしょう?」
 「…あ…あの、どうして…」
 「秋吉君なら、真っ先に穂積君を誘うに決まってるナリよ。でも、コンパや飲み会で全身“女は近づくな”オーラを放ちまくっているあの穂積君が、そーんな女の子だらけそうなキラキラした展覧会に、喜んで行ってくれる訳ないナリよ」
 ……なんというご明察。蓮と飲み会で一緒になった回数など大して多くないのに、よく蓮の女嫌い(正確には女性恐怖症だが)を理解している。いや、それよりも―――…。
 「あの、そうじゃなくて―――どうして知ってるんですか? チケット貰ったこと」
 どうにも不思議で訊ねると、真琴は自慢するかのように胸を張り、答えた。
 「安城先生に相談されたナリよ」
 「相談?」
 「秋吉君は卒研で万華鏡とトポロジーを関連付けてレポートするつもりらしいけど、こういう展覧会は卒研の参考になるんだろうか? って」
 まさか安城が、ここで真琴にそんな相談をしていたとは―――自分の知らない所で、自分の知人同士が、自分について話し合っている、というのは、何とも落ちつかない気分にさせられる。が、その程度でうろたえた顔をするのも恥ずかしいので、優也は動揺を隠すために、引きつった笑顔を作った。
 「そ、そうだったんですか。よくここに食べに来るって言ってましたもんね、あはは…」
 「で、決まったのですか? 一緒に行く人」
 ―――な、なんだろう、この妙に期待に満ちた目は。
 やたら目を輝かせる真琴に、ますます怖気づく。が、嘘をつく必要性も特に感じないので、正直に答えることにした。
 「いえ……まだ、です」
 それを聞いた真琴は、ずいっ、と身を乗り出し、やけに力のこもった声で、こう言い放った。
 「だったら、ワタシが一緒に行くナリよ」
 「えっ!!!!」
 驚きすぎて、優也の声とは思えないほどの大声で叫んでしまった。隣の店でうどんを注文していた子連れの主婦の視線が、何事か、と言わんばかりにこちらに向けられるのに気づき、優也の顔が赤くなった。
 「どどどどーして、マコ先輩が?」
 「…むぅ…何ですか。嫌なのですか」
 優也のリアクションを見て、真琴があからさまに不満げに頬を膨らます。誤解されては大変だ。優也は慌ててぶんぶんと首を横に振った。
 「ち、違いますよ、嫌だなんて、とんでもないっ。嫌なんじゃなくて、そんなことに先輩に付き合ってもらうなんて、申し訳ないというか、恐れ多いというか…」
 「そんなオーバーな。穂積君と行くのと、どんな違いがあるとゆーのですか」
 「…というか、マコ先輩―――もしかして、行きたいんですか?」
 流れ的には、一緒に行く相手が見つからないなら自分が…という風にも聞こえるが、どう見ても、優也がどうこう、というより、真琴本人が行きたくて、期待に目を輝かせているようにしか見えない。もしや、と思って訊ねると、真琴は一瞬「えっ」という顔になったが、すぐにぱあっと顔を輝かせた。
 「トーゼンじゃないですか〜! 万華鏡と言ったら、非ユークリッド幾何学が示す“無限性”を体感できる“ロマンの塊”ナリよ。それが100種類も勢揃いしてるなんて素敵な展覧会、見に行かない手はないナリよ〜」
 「…ロマンの塊…かぁ…」
 ―――そうなんだよなぁ…この“ロマン”ってやつも、僕には足りないんだよなぁ。安城さんといい、マコ先輩といい、そういうセリフ言える人って、やっぱり感性からして僕とは違ってるんだろうか。
 数学について味気ないことしか言えない自分が、ちょっと寂しく思えてきて、優也はしんみりした表情になった。そんな優也の心情など知る筈もない真琴は、急に落ち込んだ様子になった優也を見て、何かまずいことを言ってしまっただろうか、と少しばかり焦った表情になった。
 「あ…で、でも、他に一緒に行きたい人いるなら、別にいいのですよ? まだ決まってないならちょーどいいかなー、と思っただけで、べべべべべ別に深い意味がある訳じゃ」
 「いえ、まだ決まってないです」
 妙に上ずり始めた真琴の声には気づかず、優也は、どこか考え込んだような様子できっぱり答えた。そして、何かを自分に納得させるかのように、うん、と1回大きく頷き、再び真琴の方を見た。
 「そうですよね。先輩、去年僕と同じテーマで卒研やったんだし、究極の万華鏡を作りたい、って言ってたんだから、興味があって当然ですよね」
 「え? う、うん…まあ、そーですね」
 「僕の卒研のためにわざわざ、っていうのは申し訳ないですけど、先輩自身が見たいって思ってるんなら、むしろ誘わない方が失礼ですよね」
 「そ、そんな、失礼なんて思う必要ないナリよ? たまたまそーゆー展覧会あるって知ったから興味持っただけで、別に」
 「いえ。ただ万華鏡が並んでるだけじゃ数学とは関係ないだろう、と思ってたけど、先輩と行ったら、何か新しい発見がある気がしてきました」
 納得がいけば、何の問題もない。すっきりと答えが出た優也は、晴れ晴れとした笑顔になった。
 「是非、一緒に行きましょう! えーと、いつにしましょう? 確か6月いっぱいやってる筈ですけど」
 あまりにも優也が割り切った笑顔なので、真琴はつかの間、ぽかん、とした顔になった。が、やがて何かのスイッチでも切り替えたかのように、ニコッ、と邪気のない笑顔に変わった。
 「そーですねぇ、どうせならバイトのない日がいいナリよ〜」

 勿論、晴れ晴れした笑顔になるまでには、片想いの相手を誘うのはもしかしてデートに誘っているようなものなんだろうか、いや、目的が卒研の参考であり、本人も同じテーマに非常に興味を持っているのなら、色恋抜きに誘っても問題ないんじゃないか―――などという葛藤が、優也の中ではあったのだが。
 同様に、邪気のない笑顔になるまでには、展覧会に興味があるのは嘘じゃないし、卒研に協力したい気持ちも嘘じゃないから、後ろめたく思う必要も、どう見ても「2人きりでどこかへ行く」部分に何も感じていないらしい様子に落胆する必要もない―――などという自己暗示が、真琴の中ではあったのだが。
 そういう一切合財は、それぞれの笑顔の裏に隠れたまま、優也と真琴は、万華鏡の展覧会に一緒に行くことになった。が―――気になる相手と2人きりで出かけることに、それぞれ、密かに浮き足立っていたことは、言うまでもない。

***

 待ち合わせの時間まで、あと5分。
 わかっているのに、さっきから数秒おきに腕時計を見ている気がする。うろうろと、目的もなく本棚の間を歩き回りながら、気づけば優也は、また腕時計にチラリと視線を落としていた。
 ―――うーん…なんだか落ち着かないなぁ…。
 真琴と展覧会の話をしたのは、昨日のことだった。そして今日、展覧会に行くという、この急展開―――落ち着け、という方が無理な話だろう。
 普段、理加子と待ち合わせる時に使っている本屋を、今回も待ち合わせ場所に決めたのだが、いつもならその辺の本を適当に物色して時間を潰すのに、何故か本を手に取る気になれない。じっとしていられず、やたら歩き回ってしまう。約束の時間より随分早く到着したせいで、優也はこんなことを、既に15分も続けているのだ。
 あと3分か―――また時計を確認して、気を落ち着かせようと大きく息を吐き出した、その刹那。

 「優也っ!」
 明るい声と同時に、誰かが背中をポン、と叩いた。
 危うく大声を上げそうになった優也だったが、なんとかそれを飲み込み、振り返る。するとそこには、久々に見る理加子の笑顔があった。
 「リ……リカちゃん!?」
 「やぁっぱり優也だ。偶然だねー」
 「な、な、な、なんで、こ、ここに」
 「須賀君と待ち合わせなの。ほら、いつも優也と遊びに行く時、ここ使うから」
 「あ…っ、そ、そう、なんだ」
 なんとか笑顔を作ってみるが、鏡を見るまでもなく、不自然でぎこちない笑顔になっているのは明らかだ。今、この瞬間に真琴が現れたりしたら―――…。
 「秋吉君?」
 「……っ!!」
 予感、的中。
 視界の外から、真琴の声。慌てて斜め下に目を向けると、案の定、キョトンとした顔の真琴が、優也と理加子の顔を交互に見比べていた。
 ―――ななな、なんでこんなタイミングで…っ。
 いや、よく考えれば、別に慌てることも気まずく思うことも何もないのだが、「理加子に片想いの相手を見られる」と「真琴に女友達を見られる」のダブルパンチは、わけもなく優也を焦らせた。
 「秋吉君のお友達ですか」
 優也の動揺など知る由もない真琴は、首を傾げるようにして、優也にそう訊ねた。駄目だ、あまりおかしな態度をとっては、逆に“友達”であることを疑われてしまう―――優也は、必死に口角を上げようとした。
 「ハ…ハイ、と、友達です。ビ、ビックリしました、まさか今日、ここで偶然、あ、会う、なんて」
 「ほぇ〜、ホントにお友達なのですか〜」
 優也の答えに、真琴は感心したような声を上げた。
 「スゴイですね、秋吉君〜。ワタシ、こんな綺麗な女の子、今まで見たことないデスよ。ワタシが3つになった時、七五三祝いにおばーちゃんが贈ってくれた日本人形が、今も実家に飾ってあるけど、あのお人形より可愛いナリよ」
 「は、はあ…」
 「…あのー、優也?」
 真琴の賞賛に少し頬を染めつつ、理加子が遠慮がちに訊ねる。考えてみれば、理加子には散々真琴の話をしているが、実際には初対面なのだ。突如現れた小柄な女性が、一体何者なのかわからないのは当然だ。
 「あ、ご、ごめん。大学の先輩で、藤本さん」
 「フジモトさん?」
 「ああ、えっと、“マコ先輩”だよ」
 途端、理加子の方の目が大きく見開かれた。
 「マ……マコ先輩って、あの―――…っ!!」
 ―――わああああっ、ま、まずいって!
 “あの”の続きは、容易に想像がつく。慌てて優也は、理加子の言葉を遮るように、ちょっと大き目の声で続けた。
 「そ、そうそう! 一番尊敬してる先輩、っていつも話してる、あのマコ先輩!」
 本当は、気になって気になって仕方ない、放っておけないしただ単純に憧れているだけでもいられない、とても困った人物、と話しているのだが―――理加子にも、優也の動揺の理由は、すぐに理解できたのだろう。ハッ、としたように一瞬口をつぐみ、それから心得た様子で社交辞令的な笑顔を作った。
 「そんなこと言ってるのですか」
 ところが真琴は、今の優也の言葉が気に入らなかったのか、若干不服そうな顔でじっ、と優也を見上げた。
 「じ…実際、尊敬してますから」
 「…尊敬なんてしなくていいナリよ」
 真琴の眉が、どことなく悲しげにしかめられる。その表情に、以前、酔いつぶれた時に、タクシーの中で聞いた真琴の声がオーバーラップした。

 『穂積君は、親友だから、秋吉君と同じ目の高さでいられていいなぁ…。羨ましいナリよ』

 ―――そんなこと言っても……先輩が僕らより上なのも、僕が先輩を尊敬してるのも、変えようのない事実、なんだけどな。
 真琴がこんな顔をするたび、どういう態度を取ったらいいのか、困ってしまう。尊敬されたり目上の人として立てられることを、何故そんなに嫌がるのか、わかるようでわからない。
 「あ、っと、ごめん、ゆっくり自己紹介したいけど、そろそろ待ち合わせの時間だから」
 その場の空気を察してか、本当に時間が迫っていたのか、携帯電話で時間を確認したらしい理加子が、少々唐突気味にそう言った。この居心地の悪い状態から解放されることに、優也の顔にホッとしたような笑みが自然と浮かんだ。
 「須賀君によろしく言っといて」
 「うん。じゃ、またね」
 笑顔で手を振り、去って行く理加子の背中が、なんだか「お邪魔虫は退散します」と言っているように見えた。優也の恋路に何か進展があったものと誤解しているのかもしれない。次の電話では、きっと質問攻めにされるのだろう、と思うと、少しばかり気が重くなった。
 「…ねー、秋吉君」
 斜め下から、また視線を感じた。慌てて真琴の方を見ると、真琴は、難しい問題が解けずに悩んでいるような、なんとも形容し難い顔をしていた。
 「もしかして、前に言ってたのって、今の子のことでしょーか」
 「え? 前に言ってた、って…」
 「秋吉君が好きだった人です」
 思わず、激しくむせてしまいそうになった。喉元までせり上がったものをグッと堪えた優也は、勢いでずれかけた眼鏡を慌てて直した。
 「な…っ、なんですか、それっ!」
 「前に、飲み会で、言ってたナリよ。好きな人はいたけど、もうフラれた、って」
 「言っ……あ、ああ、あの時の話ですか。た、確かに言いましたけど、リカちゃんのことじゃないですよ」
 「あーんなに綺麗な子なのに、違うのですか」
 「…確かに綺麗ですけど、違います。それとも先輩は、ハンサムな男の人だったら、誰でも好きになれるんですか?」
 好きな人からこの手の追及を受けるというのは、なかなかきつい。そのせいで、つい、意地悪な訊き方になってしまった。
 が、真琴はその質問に、一瞬目をパチクリさせたかと思うと、直後、ポン、と手を叩いた。
 「あー。自分に置き換えたら、ものすごーく納得したナリよ」
 「え?」
 「考えてみれば、ワタシは昔から、アイドルグループなんかでも、端っこにいて一番目立たない地味〜な子が、いつも一番のお気に入りだったのです。友達からも“マコの趣味は変だ”っていーっつも言われてたナリよ」
 「……」
 ―――まさに“端っこにいて一番目立たない地味なタイプ”の典型が、目の前にいるんですけど…。
 先輩の好みのタイプなんだ、と無邪気に喜ぶ気になれないのは、何故だろう―――なんとも言えない複雑な気持ちに、優也は曖昧で力のない笑みを返した。

***

 展覧会は、美術館の2階で開かれており、休日のせいか結構な客で賑わっていた。
 予想通り、圧倒的に女性客が多い。女性客の中にぽつりぽつりと混じっている男性は、みな一様に女性連れだ。もし蓮と2人で来ていたら、相当居心地が悪かっただろう。
 肝心の万華鏡の方は、正直なところ、あまり卒研の参考にはならなかった。位相幾何学と結び付けられそうなものは、既に優也も調査済みのものばかりだからだ。ただ、見たこともない形の万華鏡があったり、スコープにも色々な種類があることが具体的に説明されていたり、と、卒研を抜きにしても楽しめる内容だった。特に真琴は、球形をした万華鏡がいたく気に入ったようで、かなりの時間をそのコーナーで過ごしていた。
 「へえぇ〜、ほんとだ、周りの物が幾何学模様に映ってる〜」
 「テレイドスコープって、確か本にも書いてあったけど、筒のないこんな形のもあったんだ……知らなかった」
 一般的によく知られている、筒の中に“具”を入れてそれが作る形を見るのは、カレイドスコープと呼ばれるタイプの万華鏡だ。一方、テレイドスコープは、万華鏡越しに風景を見るもので、いわば周りにある景色そのものが“具”となる。真琴が展示の斜め下から覗き込んでいる透明な球体には、周囲のショーケースや照明器具が、六角形のタイル状に切り取られて散りばめられていた。
 「不思議ですねぇ…」
 飽きることなく万華鏡を覗き込みながら、真琴は感動したように大きく息をついた。
 「何がどう入ってきて、どう映ったから、こういう絵になるのか―――ちゃんと頭では理解できてるのに、こうして見た時、出てくるのは“不思議”って言葉なのが、不思議ナリよ」
 「…ほんとですね」
 不思議―――想像できないこと、理解ができないことに出会うと、人は「不思議」と感じる。ならば、それこそ数式で表せるほどに理屈も仕組みも理解できているものを目の当たりにして、何故「不思議」と感じるのだろう?
 不思議ではないものに出会って、不思議と感じる―――それは、理解不能な心の動きだ。理解不能なこと……つまり、「不思議」。しかも、普段から他とは少し違っている真琴だけでなく、普通を絵に描いたような人間である優也までもが、同じものを見て「不思議」と思えるのが、ますます「不思議」だ。
 ―――そう考えると、この世で一番「不思議」なのって、人間の心なのかもしれないなぁ…。
 まだ万華鏡に夢中な真琴の横顔をチラリと見て、そんなことを思う。何故、これまで好きになった人とまるで違うタイプである真琴のことが、こんなにも気になるのか。何故、好きな人なのに、苛立ったり腹が立ったりするのか―――どれも、理屈のつかない「不思議」だ。難解なる命題を見事解決した数学者も、人間の心については、きっと答えが出せないだろう。
 「? どうかした?」
 夢中になっていたとはいえ、優也の視線にはさすがに気づいたのか、真琴がくるりとこちらを向き、軽く首を傾げた。優也は慌てて首を振り、なんでもない、と笑顔を作った。


 1つ1つの作品をじっくり見ていたら、気づかぬうちに随分長い時間が経ってしまっていた。すっかり足が疲れてしまった2人は、フロアの片隅にある休憩コーナーに座り、足を休めることにした。
 「むむぅ……これだけ大量の万華鏡があるのに、やっぱり、実際に使われている技法は大体同じなんですねぇ」
 自動販売機で買ったブリックパックのいちごを飲みつつ、真琴が難しい顔で呟いた。
 確かに、形も素材も様々で、その見せ方も異なりはするが、仕組み自体は基本的に同じだ。合わせ鏡の要領で、鏡面に映った絵をどんどん反復していく―――それが万華鏡なのだから、同じになるのは仕方ない。
 「究極の万華鏡を作るのは、相当難しそうナリよ」
 「…うーん…別に、新しい技法を編み出す必要はないと思いますけど…。第一、先輩が考えてる“究極の万華鏡”って、どんなものなんですか?」
 前から時折、この「究極の万華鏡」という表現を耳にしていたが、具体的にどういうものが“究極”なのか、掘り下げて聞いたことは一度もなかった。今の言い方からすると、やはり、これまでにない技法を使った万華鏡、ということなのだろうか?
 ところが、真琴から返って来た答えは、予想外のものだった。
 「ワタシにもわからないナリよ」
 「えっ」
 「具体的なプランなんて、全然ないのです。ただ、誰も見たことのない、見た人が“これは凄い”って感動してくれるような、度肝を抜くような万華鏡を作ってみたいだけナリよ」
 「…度肝を抜く万華鏡、ですか」
 「びっくりするほど大きい万華鏡かもしれないし、今までになかった反射の仕方をする万華鏡かもしれないし、鏡以外の新しいモノで光を反射させる万華鏡かもしれないし―――とにかく、誰も作ったことのない、ワタシのオリジナルを作りたいナリよ」
 「……」
 実に真琴らしい、非常にアバウトな答えだ。拍子抜けすると同時に、妙に納得してしまい、思わず苦笑を漏らしてしまった。
 「じゃあ、見た目も仕組みも今あるものと同じで、映し出される模様や色が画期的、なんて可能性もあるんですね」
 「あ〜、いいですね〜。でも、ワタシはそこまで美的センスある方じゃないから、綺麗さで勝負するのは難しいかなぁ…」
 ぶつぶつ呟きながら、考え込むような顔をする真琴を見ていたら、なんだか羨ましいような妬ましいような気持ちになってきた。そんな優也の視線に気づいたのか、真琴がこちらを向き、「?」という顔で首を傾げた。
 「あ、いえ―――いいなぁ、と思って」
 「ほぇ? 何が?」
 「僕には、そういうのがないですから」
 「そういうの……って??」
 「なんていうか―――そう、一言で言うなら“夢”かな」
 夢、という単語を聞いても、真琴はまだピンとこない顔のままだった。どう表現すればいいのか―――優也はゆっくりと、考えをまとめつつぽつりぽつりと話し始めた。
 「マコ先輩の究極の万華鏡もそうだけど、安城さんにとってのゲーム制作とか、穂積にとってのスピーカー作りとか―――みんな、何かしら実現したい“夢”みたいなものを持ってるでしょう? それが勉強したり物事を掘り下げたりするモチベーションを高めてる気がするんです。そう、何かをする時の、エネルギー源になってる、っていうか」
 「ふむ……エネルギー源、ですか」
 「僕に足りないのって、実はそういうエネルギー源なんじゃないか、って、最近思うんです」
 はぁ、とため息をついた優也は、意味もなく手の中のブリックパックのストローを弄り始めた。
 「別に崇高な夢とかじゃなくていいんです。実際に役に立つことでなくてもいいし、くだらないことでもいい―――でも、好きで好きでしょうがない物とか人とか、実現したくて仕方のないこととかがある人って、それだけでパワーがあると思いませんか?」
 「あー…そーですねぇ。なんとかってアイドルっぽい顔の演歌歌手追いかけてるオバサンたちとか、凄まじいパワーを感じたりしますねぇ」
 「そうそう、そういうのでもいいんです。極端な話、金持ちになって贅沢したいとか、有名になって周りからもてはやされたいとか、そんな下世話なものでもいいんです。ちっぽけでもいいから、何か“夢”があったら―――それをエネルギー源に、やるべきことや進むべき道が見えてくる気がするんですけど…」
 「なるほど〜。確かに、それは一理ありますねぇ」
 思いのほか真剣な面持ちで、真琴はそう相槌を打ち、何度か頷いた。が、続いて出てきた言葉は、予想外なものだった。
 「でも、究極の万華鏡作りは、ワタシにとっては“夢”とはちょっと違う気がするなぁ」
 「え? 違うんですか?」
 「うん。穂積君のスピーカーもそうかもしれないけど、“夢”っていうより、“目標”?」
 「“目標”……」
 「だって、“夢”といえば、“(うつつ)”の反対の言葉ナリよ? “現”といえば、現実ナリよ? つまりは、“夢”とゆーのは、非現実的で非常識な、膨らんだり広がったりしちゃうような、ファンタジックなものでしょ?」
 「……」
 いや、確かにそういう一面もあるにはあるが、実現可能なものを夢見ることもある訳で―――と反論することもできるが、そう主張する真琴の目が、あまりにも確信に満ちた目をしているので、優也はただ黙って耳を傾けることしかできなかった。
 「ワタシ的解釈では、“夢”は、実現可能かどうか、とか、具体的にどうすれば実現できるか、とか、そういうのがわかった時点で、もう“夢”はないのです。“目標”とか“目的”とか呼ばれるものに変化するのです。だから、ワタシにとっての究極の万華鏡も、穂積君のスピーカーも、思いついたその時には“夢”だったけど、仕組みを勉強したりその筋のメーカーに就職したりしたら、もうそれは“夢”じゃなく“目標”ナリよ」
 「……はあ……まあ、先輩や穂積くらい、ある程度実現できそうなら、もう“夢”じゃない気はしますね」
 「あー、難易度は関係ないナリよ? 偏差値40の子が“東大に入りたい”と言ったら、人は“夢みたいなことを言ってる”と言ってバカにするかもしれないし、その子がずーっと遊び呆けたままでそんなこと言ってるなら“夢”のままだと思うけど、合格目指してコツコツ勉強し始めたら、東大は“夢”じゃなく“目標”になるのです」
 「…でも、例えばそれが入試1ヶ月前とかだったら、偏差値40が東大に入りたいって言っても、まず実現不可能ですし…」
 どう頑張っても実現不可能なことならば、それはやっぱり“目標”ではなく“夢”なのではないだろうか―――そう思って、僅かながらも反論してみたが、真琴は実にあっさりとそれに答えた。
 「実現不可能な“目標”でも、構わないナリよ?」
 「え、」
 「“目標”は、飽くまで“達成を目指すもの”であって、“達成しなくてはいけないもの”ではないナリよ。東大に入れなくても、究極の万華鏡が完成しなくても、この世は終わらないし、人間失格になる訳でもないのですから」
 「……」
 目から鱗―――いや、よくよく考えてみれば確かに、“目標”を掲げても、達成義務が発生する訳ではない。“夢”と“目標”の違いは、具体性の有無くらいのもので、たとえ実現が不可能に思えても、本人がそこを具体的に目指していれば、その時点で“夢”は“目標”になっているのだ。
 「第一、究極の万華鏡は、今現在のワタシの“目標”ではあるけど、全身全霊それに費やすほどの“目標”でもないから、いつ別の“目標”に乗り換えてもおかしくないナリよ。かるーく考えればいいのです、“夢”や“目標”なんて」
 「はぁ…。かるーく考えようにも、まず“夢”を持ってないんで…」
 「そーかなぁ? まだ“目標”はないのかもしれないけど、薄ぼんやりした“夢”程度はあるんじゃない?」
 「…うーん…」
 眉間に皺を寄せ、20年と少しの自分の人生を振り返ってみるが、“夢”と呼べるようなものは、なかなか見つからない。振り返れば振り返るほど、とことん面白みのない人間なんだな、と思えてきて、余計落ち込んでしまった。
 「たとえばホラ、卒業アルバム向けなんかで“将来の夢”みたいなのを書かされたりするじゃないですか。あーゆーの、秋吉君は何を書いてたのですか?」
 「……っ、」
 真琴の問いかけに、優也の顔が、僅かに引きつった。
 無邪気な目をした真琴は、その反応に気づき、「え?」という風に目を丸くした。しまった、かえって不審に思われた―――慌てた優也は、不自然ながらも笑顔を作り、逆に訊ねた。
 「ち、ちなみに先輩は、何て書いたんですか?」
 「えっ、ワタシ?」
 「はい。やっぱり、今の“目標”につながるような“夢”を書いてたんですか?」
 唐突な流れに、真琴はパチパチと目を瞬くと、うーん、と記憶を遡るかのように考え込んだ。
 「そうですねぇ……小学校の卒業文集のは、思い出深いし今もワタシの密かな夢なので、よく覚えてるのですがー…」
 「え。ど、どんな夢なんですか?」
 今も、という部分に、大いに興味が湧いた。好奇心一杯の声で優也が訊ねると、顔を上げた真琴は、真顔で答えた。
 「“宇宙人に会いたい”、と書いたナリよ」
 「……」
 「ワタシは小さい頃から、夢の多さには定評があったのです。クラス替えがあるたび、自己紹介の紙に“将来の夢”を書かされたけど、毎回書く夢が違うから、先生から“1つでも実現できるといいね”と言われてたナリよ。“宇宙人に会いたい”は、クラス中にウケたのでよく覚えてるけど、他のでは忘れちゃったのもありますねぇ…」
 「…忘れるほどあるって、凄いですね」
 「でも、覚えてる限りでは、直接、究極の万華鏡につながるような“夢”は、見当たらないナリよ。そもそも、万華鏡に興味持ったのも、大学入って数学と万華鏡の関係を参考書で見てからだったから、“夢”と感じる暇がなかったのかもしれませんねぇ」
 「なるほど…」
 忘れるほどあるなら、1つ分けて欲しい―――本気でそんなことを考えつつ優也が相槌を打つと、真琴は真顔から一転、笑顔になって、身を乗り出してきた。
 「で? 秋吉君は、何て書いたのですか?」
 「えっ」
 再び、優也の頬がピクリと痙攣し、引きつる。
 「白紙で出した、なんて、先生が許す訳ないから、何か書いたんでしょう? 何?」
 「……ええと……」
 じっ、と見据えてくる真琴の視線に動揺して、優也の目が落ち着かなく動く。適当な答えをでっちあげるべきか、と頭の中でごちゃごちゃ考えてみた。が―――正直に答えた真琴に対して失礼な気がして、やめた。
 「ひ……秘密、です」
 「えぇー」
 当然、真琴は、大いにがっかりした顔をした。
 「ワタシの夢だけ聞いておいて、自分の夢は秘密なのですか。ずるいナリよー」
 「きょ、今日は、秘密です、今日は。そのうち話します、はい、必ず」
 慌てて宥めたが、真琴の目は「信用ならん」という色をしていた。そう言われてしまうのも当然だし、隠し立てするほど凄い何かがある訳でもないのだが―――忘れてしまうほどたくさんの夢を持っていた真琴の話を聞いた後で、自分が何を書いたを話す気には、どうしてもなれなかった。あまりにも……惨め過ぎて。
 「絶っっっっ対、話しますから」
 思い切り力を込めてそう言うと、真琴はまだ不審がりつつも、一応は納得したように頷いた。


 『ゆうちゃん、あなた、こんなものを幼稚園に持って行くつもりなの? ダメよ、ふざけちゃ。先生に出された宿題には、真面目に答えなさい』


 遥か遠く、遠くの記憶。
 幼い優也が書き記した“夢”は、結局、消しゴムで消されて、二度と日の目を見ることはなかった。

 小さな頭で考えた、5歳の優也の“夢”―――それは、「せいぎのみかたになりたい」だった。


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