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 06: 雅、病に倒れる

 7月13日(金)

 明日、夏休み前最後の試合を忍に見に来てもらいたいな、と思ったけど、無理だった。
 忍の兄ちゃんが帰ってきてるらしくて、なんだか家族会議があるんだって。
 オレには詳しいこと何も話してくれなかったけど、電話を代わった母ちゃんは、結構深刻そうな顔して相槌を打ってた。だから、深刻な家族会議なのかもしれない。

 それにしても。
 忍の兄ちゃん、会ったことないけど、既にオレの中では最大の敵と化している。

 勝手に弟の部屋入って、勝手に弟の持ち物手に取って、しかも余計な情報を弟に提供するんじゃねーよっ。
 おかげでオレは、忍との電話を終えた母ちゃんから、ギューギューに絞られることになった。

 「ちょっと! あのお守り、やっぱり縁結びのお守りだったんじゃないのっ! 忍さんのお兄さんが見つけて、教えてくれたそうよ! もーっ、この子はっ! なんでそーゆー恥ずかしい真似するのよっっ!!!!」

 忍の兄ちゃんめ…会ったら絶対、一言文句を言ってやるっ。


 【一口メモ】
  綾瀬さんが会長に告ってフラれた、という情報を、恭四郎が持ってきた。
  会長かぁ…。どこがいいんだよ、あんな奴。頭以外、オレに勝ってるところなんてないじゃん。
  ちなみに、会長が片思いしてるユーコちゃんは、去年、オレに告ってフラれている。
  こういうの、何て言うんだっけ。持ちつ持たれつ? 目には目を歯には歯を? …なんか違うな。


***


 「―――…さて」
 口火を切った母に、弟の忍も、そして父親である一郎すらも、当事者である長男・雅と一緒に緊張した。
 中尊寺家の茶室に集った家族は、当然ながら、全員正座である。年輩にしては長身の父を筆頭に、雅も忍も背が高いが、こうして正座をしていると、一番大きく見えるのは、身長150センチ台の母である。しかも、他の3人の2倍位、大きく見える。特撮でもこうはいくまい―――と、忍は思っている。
 「詳しゅうお話、聞かせてもらえますやろか、雅さん」
 いつもおおらかで快活な雅が、母の一瞥を受けて、塩をかけられたナメクジよろしく、しおしおとうな垂れた。30代も半ばになろうかというのに、母の前ではどこまでも情けなく、弱虫な息子である。
 「…言い訳せんと、感情も入れんと、事実だけを並べさしてもらうわ。それでええか?」
 ボソボソと、少し不貞腐れたような声で言う雅に、香乃は静かに頷いた。
 「…権田と僕とが、半々ずつ金出しおうて買うたペンションやったし、経営権も2人平等で、ずっと来とった。それは確かや。少なくとも、今年の3月までは。…去年から、旅行代理店と提携して、屋久島ツアーの宿泊施設の1つに加えてもろたし、客足も順調に伸びとって、この夏はほぼ満員でいけるなぁ、て言うてたんやけど―――…」
 「けど?」
 「…1週間前、権利書が書き換わっとるのに気づいたんや。あのペンション、いつの間にか、権田個人の所有物になっとった。経営権も、権田と僕が連名で取締役になっとったのが、いつの間にか権田だけにされとったんや」
 「―――で、権田さんは?」
 「…“お前はいずれ家業を継ぐんやろから、その段になって慌てんように、先に手配しただけや”、て言ってたわ。ペンション買うのに僕が出した分は、これから順々に返してく気らしい」

 順を追って説明しよう。

 中尊寺 雅は、中尊寺家の跡取りである。
 幼い頃から雅は、将来は社長業を父から引き継ぐよう、父にレールを敷かれてきた。父の希望通りの大学に進み、卒業後は父の会社に入り、順調に社内の人望も高めてきた。
 それが、ある日、プッツンした。
 休暇中に、権田という大学からの友人と一緒に訪れた、屋久島。その屋久杉の原生林で遭難した雅は、チョコレートとクッキー数枚で2日間原生林を彷徨い、生還した。そして、その遭難の間に、すっかり屋久島の自然に魅せられてしまったのだ。
 雅と権田は、家出同然にそれまでの生活を捨て、貯金から資金を出し合い―――権田は株マニアで相当な資産を蓄えていたし、雅は小学生から貯金を“させられていた”口なので、2人揃って裕福だったのだ―――屋久島にペンションを購入した。そして、共同経営という形で、ペンションを開いたのである。
 当初は苦戦したペンション業だったが、ここ1年ほどで、やっと光明が射してきた。
 その矢先に、今回の事件である。
 事務管理のことは、正直、権田に全て任せていた雅である。権利書も、確かにサインした記憶はあるが、見たのは契約時以来、1週間前が2度目だった。印鑑の類も預けておいたと言うのだから、お人よしにも程がある。結果―――経営が軌道に乗った途端、裏切られた。そういう訳だ。

 「1週間、なんとか和解したいと思て、色々話はしたんや。けど…あかんわ。僕がいずれは会社継がなあかんことは事実やし、ペンションの購入費用は全額分割で返す、っちゅう宣誓書まで突きつけられたら、何も言えへん。八方塞になってしもうて、気がついたら胃が痛くてモノも食えへんようになってなぁ…。それで、帰ってきてん」
 「…そりゃあお前、犯罪なんと違うか」
 うなだれる雅に父がちょっと呆れた声で言うと、隣に座る忍が、少し首を傾げるようにして口を開いた。
 「有印私文書偽造、っちゅーやつかな」
 「おお、それやそれや」
 「…けど、半分は権田さんのもんやったから、罪になるかどうかは、微妙やないかなぁ…」
 余計なことを付け加えたせいで、父に頭を叩かれた。
 「アホ。仮にも“正義”っちゅう家訓を掲げとる中尊寺家のもんが、悪人を調子づかせるようなこと言うんやない」
 客間の壁に掛かっている2枚の書―――いずれも、父が勝手に家訓と銘打っているのだが、その1つは“正義”と書かれている。
 「けど、“平和”もあるやんか」
 そう。忍の言う通り、“正義”の隣には“平和”が掛けられているのだ。はっきり言って忍は、その2つの家訓のうち、“平和”のみをひたすら遵守してきた口である。
 「大体、お父ちゃんかて、これで兄ちゃんがペンション経営から退いて会社に戻るんやったら、万々歳なんとちゃうんかい。休みの日のたんびに情けない声で“雅〜、雅〜”言うて、西の空眺めとったやないか」
 「そ…っ、それはそうだがっ! 正義を蔑ろにして、何が平和や。あの2つが家訓なんは、正義と平和を両立させい、っちゅう意味やぞ。雅の財産が不当に奪われたんやったら、まずは取り返すんが正義や」
 「おや」
 少々ムキになったような口調で父がそう言うと、母が冷ややかに眉を上げた。
 「そない言わはるのどしたら、権利を回復した暁には、雅さんがまたペンション経営に戻ってしもうてもええという事どすか」
 「…えっ」
 虚を突かれたように目を丸くする父に、母はますます冷ややかな目つきになり、キュッと襟元を正した。
 「違いますのんか」
 「い、いや、それは」
 「財産の問題どしたら、どうにでもなりますやろ。元々、土地は借地、共同購入したのは上物だけやさかいに、価値は年々下がる一方―――購入時の金額を分割できっちり払っていただけるんやったら、むしろ得になるんやさかい、雅さんもあんさんも文句はあらへん筈どす」
 「…それは…まあ、そうやけどな」
 「雅さんが問題にしてはるんは、財産の問題やのうて、ペンションの経営権のことどすやろ。取締役やのうなった、そっちをきちんと元に戻して欲しい、いうのが、雅さんの一番の望みなんと違いますやろか」
 「……」
 「まさかあんさん、正義のために経営権を取り戻しはって、その後雅さんに会社に戻れやなんて、そないなことを言うつもりでおりますのんか」
 「―――…」
 父、圧倒的劣勢。
 父は、雅を理想の後継者にするべく、ずっと手塩にかけてきた。そして実際、雅はそのように育った(反抗期がやたら後ろにずれこんではいるが)。今更、雅以外に会社を継がせるつもりなど毛頭ない。それは、誰の目にも明らかなことだった。
 「……雅」
 正義は貫きたい、しかしその暁には雅に戻ってきて欲しい、という2つの本音の狭間でグラグラしながら、父は雅の方に目を向けた。
 「お前は、どうしたいんや」
 「……」
 「その…このまま引き下がるんはアホらしいし悔しい言うんなら、凄腕弁護士を紹介したるぞ。法廷闘争に持ち込んだら、いくら権田とかいう奴が口の上手い奴でも、そう簡単には勝てへんやろ。警察に突き出して、罪を償わせるっちゅう手もある。…お前は、どうしたいんや?」
 「…僕は、その…」
 父の問いに、雅は、困惑した表情のまま口を開いた。

 が。

 「―――いっ?」
 「え?」
 雅が発した謎の声に、家族3人が、同時に声を上げた。
 雅の困惑顔は、直後、大きく歪んだ。
 「い―――いたたたたたたたたた…」
 「え…えっ、に、兄ちゃん?」
 「痛ーーーーっ!!!!」

 悲壮な叫び声を上げた雅は、唖然とする家族の前で、体を2つに折り曲げて、畳の上に転がってしまった。

***

 「みやちゃーんっ!!!!」
 バタン、と病室のドアが開き、やかましいのが1名、飛び込んできた。
 脱色しまくりなショートヘアをした、やたらつり目の女―――中尊寺兄弟の従姉妹・綾香である。
 その顔を認識した途端、病室の無機質なベッドに横たわっていた雅の表情が、一気に怯えた表情になった。
 「胃に穴が2つもあいたってホント!? 大丈夫なのっ!?」
 「あ、ああ、大丈夫…」
 「やーん、綾香が友達と沖縄行ってる間に、大事な大事なみやちゃんが、こんな不幸な目に遭ってたなんてぇ。綾香、悲しいー」
 「…綾香ちゃん、悲しんどるかどうか、全然分からへんで、その顔」
 沖縄で焼いてきたのだろう。表情さえ読み取るのが難しいほど、真っ黒に日焼けした綾香の顔を見て、雅に付き添っていた忍が、ノンビリした口調でそう突っ込みを入れた。

 綾香は昔から、雅が大好きである。6つも歳が離れているのだが、なんと小学生の時から「将来はみやちゃんと結婚する」と宣言していたほどだ。
 一方、雅は昔から、綾香が苦手である。どこが苦手なのか、ということは、既に忘れている。今では、こうして「みやちゃん、みやちゃん」と言い寄ってくることそのものが、一番苦手な部分なのだから。
 ちなみに忍は、どうとも思っていない。けったいな生き物が1匹、隣の家に住んどるな、という程度である。
 昨日、自宅の茶室で雅が倒れた時、隣に住む綾香は、幸い留守だった。
 神経性胃炎が悪化して、胃に2つも穴があいてしまった雅にとって、キンキン声の綾香の見舞いなど、病状を悪化させる新たなるストレスに他ならない。綾香には雅が大阪に戻っていることも、病院に運ばれたことも内緒にしておこう―――家族全員、そう思って固く口を閉ざした。
 がしかし。
 なにせ救急車で運ばれてしまったので、隣に住む綾香の両親が「一体どうしたの!?」と訊ねてくるのは、当然のこと。結果…その両親の口から、綾香にもバレてしまった、という訳だ。

 「ねえねえ、あたし、リンゴ買ってきたのっ。みやちゃん、剥いたら食べる?」
 「…いや、無理やから」
 「えー、うそーっ。彼氏が病気で入院、て言ったら、彼女がリンゴ剥いて食べさせてあげる、が必ずセットになってるもんじゃないのぉ?」
 ―――胃に穴あいとる人間相手に、そういう妄想はやめてんか。
 答えるのも億劫そうな兄に代わって、忍が心の中でのみ、そうボヤく。それ以前に、雅は綾香の彼氏ではない、という部分は、今更突っ込むような内容でもないので、あえてスルーしておいた。
 綾香が手にしているスーパーの袋の中には、旬でもないリンゴが最低でも5個は入っている。たとえ胃の病気ではなかったにしても、入院中の病人がこんなに食べられる訳がないのに。
 「ねえ、何かあたしに出来ること、ない?」
 期待に目を輝かす綾香に、雅は引きつった笑いで答えた。
 「あー…、うん、ないわ。ほら、忍かて手持ち無沙汰にしとるやろ?」
 「忍は男だもん、出来ることに限りがあるわよ」
 「…綾香ちゃんでも、あんまり変わりはない気ぃするんやけどな…」
 「ほら、体拭いてあげるとかー、添い寝してあげるとかー、色々あるじゃない? 遠慮することないよ、ジャンジャン言って」
 「…いや、ほんま、いらんから…」
 一番やって欲しいことは“今すぐ帰ってくれ”なのだが、押せ押せムードの女に弱い雅に、そんなデンジャラスな発言はできなかった。兄のあまりに気の毒な様子に、忍はこっそりため息をつき、綾香の肩をポン、と叩いた。
 「ほんまに、何でも言うてええ? 綾香ちゃん」
 「…何よ。みやちゃんのためになる事以外、パスだからね」
 「勿論、兄ちゃんのためになる事やで」
 ここぞとばかりに真面目な顔を作ると、忍はじっ、と綾香を見据えた。
 「あんな。ここから徒歩10分のところに、お稲荷さんがあるやろ。あそこ、女の人がお百度参りすると、近しい人の病が全快するって評判やねん」
 「お百度参り、って?」
 「100回お参りする、っちゅうことや。階段下の鳥居の所からお社までを、100回、往復すんねん」
 徒歩10分のところにあるお稲荷さんの階段は、30段ほどである。綾香の表情が、露骨に“やだなぁ”という色に染まった。
 しかし、ここが押しどころである。
 「な? 綾香ちゃんの“愛の力”で、兄ちゃんを全快に導いてくれへんやろか」
 “愛の力”。
 こういう単語に、綾香は弱い。綾香の目に、闘志の炎がメラメラ燃え上がった。
 「わ…っ、分かったっ! 100回といわず、1000回位お参りしてくるわっ。見ててよ、みやちゃん。綾香の愛で、明日には胃にあいた穴、塞がってるようにしてみせるからっ」
 「おおお、さすがは綾香ちゃんや。兄ちゃんのためにそこまでしてくれるんか。ほんま、恩に着るわ」
 「じゃ、さっそく―――あ、このリンゴ、邪魔だから置いてく。みやちゃんが全快したら食べてね」
 スーパーの袋を忍に渡した綾香は、そこではたと思いつき、少し表情を険しくして忍を見上げた。
 「忍は食べちゃダメよ。これはみやちゃんのリンゴなんだから」
 「…はいはい」
 「じゃっ」
 そして綾香は、雅に投げキッスを残し、病室を後にした。…あれでも、現在27歳―――忍の2つ下である。年齢を考えた瞬間、笑顔で綾香を見送った忍も、どっと疲れを感じて肩を落としてしまった。
 「忍、お百度参りの話って…」
 「…勿論、作り話や」
 「…そやろな」
 すまんな、と言う兄に、忍は力なく笑い、かまへん、と首を振った。

 「それで、さっきの話の続きやけど」
 やっと静かになったところで、雅は、綾香が来る前に忍と話していた話に立ち返った。
 「お前なら、どうや? どうするんが一番ええ思う?」
 「…うーん…それやねんなぁ…」
 つまり、昨日、父が雅に問うた問題について、である。眉根を寄せた忍は、綾香から預かったスーパーの袋を傍らにゴトリと置き、スチール椅子に腰掛けた。
 「お父ちゃんの言う“正義”は、もっともやと思うで。けどなぁ―――取られてしもた経営権半分、今更取り返したところで、ほんなら明日から今まで通りに権田さんと一緒にやってけるんか、っちゅうことになると…ボクなら、無理やと思うねん。ちゅうか、どういう形にしても、権田さんとはもう一緒にできひんやろ。信頼関係がガタガタなんやし」
 「…そやな。僕もそう思う」
 「けど兄ちゃんは、ペンション経営は続けたいんやろ?」
 「…まあな。軌道に乗ってきて、一番面白かった時期やし」
 「兄ちゃんにその気があれば、お父ちゃんとこの顧問弁護士使うて、全権利兄ちゃんにシフトさせて、権田さん追い出すっちゅう手も、ないこともないで。あの弁護士さん、アメリカで随分勝訴もぎ取ってきた敏腕弁護士やから」
 「それは、あかんのや」
 ずっと曖昧な口調を続けていた雅が、この時だけ急に、はっきりとした口調になった。忍とは対照的な角ばった顔を生真面目に引き締め、忍を見据えた。
 「うちのペンションの売りの1つは、食事やろ。権田の料理の腕があってこそのペンションや。切る訳にはいかへん」
 「…そか」
 「…なんとか、前の状態に戻りたいねんけど―――無理やろなぁ…」
 忍以上に人のいい雅だ。騙され、裏切られる経験など、恐らくこれが初めてではないかと思うが―――まだ裏切り者の権田と一緒にやりたい意志はあるというのだから、半端な人のよさではない。残念そうにため息をつく兄を見て、忍は複雑な心境になった。
 「なあ。兄ちゃんは嫌がるかもしれへんけど…こないに体壊すようなことにもなったし、あのペンションにはケチがついたし―――ここらで、大阪戻って来た方がええんちゃうか?」
 「……」
 「兄ちゃんも、会社継ぐこと自体は、別に嫌やないんやろ? もう十分、冒険はしたやんか。権田さんとのイザコザ長引かせて、また胃に穴あける位やったら、戻って来た方がええと、ボクは思うで」
 「…そやなぁ…」
 その選択肢は、雅の中にも、既にあったらしい。とは言うものの、表情は幾分暗い。その理由は、ほどなく、本人の口から告げられた。
 「けど―――会社継ぐんやったら、ええ加減、嫁さんもらわなあかんやろなぁ…」
 「嫁さん?」
 「お父ちゃん、昔から言うてたんや。専務になるまでには、嫁さんをもらえ、って。屋久島行く前の僕の役職、営業部長やったから―――戻って、本格的に代替わりする準備に入るんやったら、そう遠くない未来には専務の肩書きになると思うんや」
 「だから、嫁さんが必要? ようわからん理屈やな。お父ちゃんの勝手な理想なだけと違うか」
 「会社組織言うんは、仕事ができればそれでええ、っちゅうもんでもないんやで。肩書きもろたら、それ相当の私生活っちゅうもんも要るんや。嫁さんもおらん専務は、社会的信用度もイマイチや。古い言われても、そういう頭はまだまだ抜け切ってへんもんや、日本の企業は」
 「…ふーん…」
 なんとなく分かる気もするが、技術職の忍からすると、やはり実感を伴わない話だ。独身の専務の何があかんのや、というのが、正直な感想である。
 とはいえ、そういう考えとは別次元で、兄ちゃんもええ加減結婚せなあかんやろ、という考えもある。いくら結婚年齢が上がっているとはいえ、雅も既に30代半ば―――しかも、ここ数年は、彼女の影さえないときている。
 「ペンションやってる間、好みの女の子が泊まりに来るとか、なかったんか?」
 「アホ。来たとしても、客に手ぇ出せるか」
 「…いや、ま、そらそやけどな」
 社員に手を出せるか、友達の姉妹に手を出せるか、と言って、過去に何度か気に入った女の子を涙を飲んで見送ってきた雅なので、そう考えるのも大いに頷ける。がしかし…この生真面目さがある限り、見合い以外で結婚相手を見つけるのは無理ではなかろうか。
 「ま…、なんでもええけど、綾香ちゃんを“姉ちゃん”て呼ぶのだけはイヤやで、ボクは」
 「あ…当たり前やっ! なんちゅう恐ろしいことを言うんや、お前は!」
 忍の恐ろしい発言に声を荒げた雅は、直後、「イタタタタ」と言ってベッドの上でうずくまった。
 どっちにせよ、この話も、今の雅にはストレスに違いない。胃にあいた穴のことを考え、もうこの話はやめよう、と忍は思った。

***

 雅の胃の痛みがおさまって、少し経った頃。
 病室のドアが、コンコン、と2回ノックされた。
 「? はい」
 看護師の巡回だろうか、と椅子から腰を浮かせかけた忍だったが、ドアの向こうから返ってきた返事は、思いもよらぬ声だった。
 「朝倉です」
 「は!?」
 思わず、大きな音をたてて立ち上がってしまう。
 慌ててドアを開けると、そこには、花束を抱えた舞と、手持ち無沙汰にしているイズミが立っていた。呆気にとられた顔をする忍に、2人してニッコリと笑ってみせた。
 「こんにちは」
 「…こんちは。っちゅうか、いや、あの、なんで?」
 「昨日電話もらった後、忍さんのお兄さんの胃に穴があいたらしいわよ、ってイズミに言ったら、イズミが是非会いたいって。だから、お見舞いを兼ねて」
 「うちの兄ちゃんに会いたかったんか」
 意外に思って忍が訊ねると、イズミは、好奇心旺盛そうな大きな目を細めてニンマリと笑った。
 「それもあるけど、胃に穴があいた人なんて、オレの周りにおらへんから。胃に穴があくってどんな気分なんやろ、と思って」
 「…さよか。イズミ君らしい理由や」
 「今、大丈夫?」
 舞の問いに頷いた忍は、2人を招き入れた。正直、あまり兄には会わせたくなかったのだが―――こういう状況だ。仕方ない。

 一方の雅は、一体誰が来たんだ、と半身を起こして怪訝そうにしていた。
 「兄ちゃん、見舞いが来たで」
 「え?」
 「ほら。前、言ったやろ。チャットのオフ会で仲良うなった親子が、神戸におるって」
 そう言った忍は、背後に控えていた舞とイズミを前に押し出した。
 「朝倉 舞さんと、その息子のイズミ君や」
 「―――……」
 歩み出た舞とイズミを目にして―――呆けていた雅の顔が、一瞬、固まった。そして、胃の痛みのせいで蒼褪めていた顔が、だんだん赤くなっていった。
 あたふたと体を起こした雅は、病人だというのに、あろうことかベッドの上にきちんと正座をして、舞とイズミの方に向き直った。
 「そ、そ、そ、そやったんですかっ! ああああああの、忍の兄の、み、み、雅です」
 「朝倉です」
 「…こんちは」
 軽く頭を下げる舞とイズミに対し、雅はガバッ、と土下座状態で頭を下げた。舞たちが頭を上げても、まだ下げたままである。
 「…変わった兄ちゃんやね」
 決して雅には聞えないボリュームで、イズミが忍に囁く。イズミを見下ろした忍は、ははは、と力ない笑いを返した。
 「ごめんな。極稀に、変になるんや」
 いつもは、こんな変な奴ではない。雅をよく知る忍だから、雅が変な奴になってしまっている理由が痛いほど分かるので、こんな複雑な笑い方しかできないのである。

 「胃の病気と伺ったので、お花にさせてもらったんですけど―――花粉アレルギーとかあります? なければ、その窓際がいい場所ですから、そこに活けさせていただこうと思って」
 「は、は、はい、是非どうぞ!」

 ―――そないに、ヒットポイント高かったんかいな、兄ちゃん…。
 パッチリとした目にしろ、セクシュアルなムードの漂う唇にしろ―――舞の顔立ちは、モロに雅の好みなのである。
 会わせたらこうなるだろうことは、なんとなく予想していたが…これは、かなり、厄介なことになった。
 ガチガチに固まった状態で、ひたすら舞に愛想を振りまいている兄を見遣り、忍は小さなため息をついた。


***


 7月15日(日)

 忍の兄ちゃん・雅さんの見舞いに行った。
 忍は柳の木みたいな人だけど、雅さんは一本松みたいな人だった。お、この表現、ちょっと文学チックかもしれない。けど、とにかくそういう人だった。
 具体的に言うと―――忍は、背は高いけど、全体にヒョロヒョロしていて、見るからに文化系。輪郭も優しい感じだし、目鼻立ちもあっさりしてる。
 一方の雅さんは、背が高くて、ごつくて、肩幅が広くて胸板が厚い体育会系。顔も角ばってて、目鼻立ちもはっきりしてる。正直言うと、忍の兄弟には見えなかった。あんなに似てない兄弟もいるんだなぁ…。忍が母親似だったから、きっと雅さんは父親似だな。

 雅さんは、胃に穴があいてるくせに、来客に寝てる姿を見せるなんて非礼にあたる、とでも考えてるらしくて、オレらがいる間ずっと、ベッドの上に正座したまんまだった。
 もの凄い生真面目。
 でもって、かなり、単純。
 だって―――あまりにも、分かりやすすぎ。あれって絶対、母ちゃんに一目ぼれした態度だったから。

 はっきり言って、雅さんに明日はない。
 母ちゃんは自分の外見が嫌いなんだ。その外見に一目で惑わされるような男は、母ちゃんがもっともバカにしている存在だ。実際、雅さんのムードを感じとって、かなりテンションが低かった。
 オレの方も、母ちゃんの色っぽさにノックダウンされる男には、もううんざりだ。忍のポイントの高さの1つが「母ちゃんを簡単に欲望の対象にしない」とこ(そういう目で見ない、って意味やで)なのは、オレも母ちゃんも同じだと思う。母ちゃんの姿をうっとりした目で追う雅さんを好きになれる訳がない。

 とにかく、いい人だとは思うし、忍の兄貴だってことで仲良くはしたいと思うけど、恋愛対象としてはオレも母ちゃんも「絶対パス」。それが、今日のオレたちの感想。

 …忍は、どう思ったんだろう?

 絶対、気づいたと思う。だって、血を分けた兄貴なんだし。きっと雅さんの好みもよく知ってた筈だし。
 ちょっと位、焦ったりしたかな。それとも…逆に、雅さんを応援しようと思ったりしたかな。
 こういう時、サングラスをしてるのって、ずるいと思う。忍の表情は、最後まで読めなかった。


 【一口メモ】
  そうそう、イトコの綾香とかいうのが途中から乱入してきて、すごく迷惑だった。
  雅さんにほれてるらしくて、雅さんが母ちゃん気に入ったのを察したのか、母ちゃんを鬼の形相で睨んでた。
  それにしても、忍に対してやたらなれなれしい女だったな。忍も慣れてるのか、楽しそうにからかって相手してたし。
  母ちゃんが帰りの電車で無口だったのは、もしかしたらあのキンキン声の女のせいかもしれない。なんだかなぁ…。


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