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― From U.K. 〜January 2001〜 ―

 

 

 捨てたくて、捨てたくて、
 それでもまだ、捨てられない、恋がある。

 忘れることも、奪うこともできず…それでもまだ、しがみついてる。こんな離れた場所で、たった1人で。自分が何を望んでるのか、それすら見失って。


 21世紀が来たっていうのに―――まだ、恋は、死なない。

 

***

 

 電話を保留にした千里は、軽い足取りで階段を駆け上がり、2階の左側のドアをノックした。
 「奏ー?」
 コココン、とノックして声をかけるが、返ってくる声はない。ドアを開け、部屋の中を覗き込むと、千里が見る限り、奏の姿は部屋の中にはなかった。
 となると―――奏がいる場所は、1ヶ所に絞られる。
 千里はため息をひとつつき、今度は右側のドアを、ノックなしに開けた。
 案の定、そこに奏がいた。ロフトに上がる階段の中ほどに腰掛け、壁に寄りかかるようにして居眠りしている。
 「奏!」
 千里が両手を腰に当てて大声で怒鳴ったが、奏は眉を顰めただけで、目を開けようとはしなかった。なかなかしぶとい。ツカツカと階段に歩み寄った千里は、数段階段を上ると、奏の頬を指で摘んで引っ張った。
 「そーうー、Get up, my boy!」
 「い、いでででで!」
 さすがにギヴアップだ。奏はやっと、重たかった瞼を無理矢理上げた。
 「痛ぇ…、なんて起こし方するんだよ。仮にも顔も商品のうちな商売してんのに」
 千里に引っ張られて赤くなった頬をさすりながら、不愉快そうに眉を顰める奏に、千里は「自業自得でしょ」という顔で階段を下りた。大体、朝食を食べた後にぐうたらと居眠りなんかするから、こういうことになるのだ。
 「顔引っ張られる前に起きれば済むことよ。それより、奏に電話」
 「電話? 誰?」
 「黒川さんよ」
 途端、奏の目が、ぱっちりと開いた。
 「うっわ…、それを早く言えって!」
 慌てて立ち上がった奏は、階段下で千里を追い越し、大急ぎで階下の電話口へと向かった。その背中を見送りながら、千里は、呆れたような苦笑を漏らした。

 ―――それにしても…。
 思わず振り返った千里は、階段の上にぽつんと残されているものを見つけ、表情を曇らせた。

 小さなサボテンが5つ植え込まれた、洒落たテラリウム。
 かつてのこの部屋の住人が、唯一、ここに残していった思い出の品。普段、窓際に置かれているこれを、誰がこんな所に持ってきたのかは、一目瞭然だ。

 この部屋は、あれ以来ずっと、主のいないまま―――千里にとっても、奏にとっても、この部屋は今も“あの2人”の部屋だ。


***


 イースト地区にある黒川の事務所に着いた時には、そろそろランチタイムが迫ってきていた。
 奏が半開きになったドアを軽くノックすると、部屋の真ん中で大量の服やバッグに囲まれていた男が、すぐに顔を上げた。サングラスをずらして会釈する奏に、仕事モード一色だった男の顔に笑みが浮かんだ。
 「こんにちは」
 「いらっしゃい。いい時間に来たね。もう少し待ってくれれば、ランチに出られるよ」
 「え? これから仕事なんじゃ?」
 “いい仕事があるんで、これから出てこれないか”と言われて出てきた奏なので、当然、今から仕事をするものとばかり思っていた。意外そうな顔をする奏に、男は苦笑し、手にしていた紙を“違う違う”という風に振った。
 「今日は仕事の“話”をするために呼んだんで、仕事を“してもらう”ために呼んだんじゃないよ」
 「…なんだ。仕事手伝わせてもらえるのかと思って、走って来たのに」
 「残念でした」
 「せっかくだから、それ、手伝おっかな…」
 「いや、いいよ。あと5分で終わるから、その辺で適当に待ってて」
 奏の申し出をあっさり断ると、黒川は再び、眉根を寄せるような表情で作業を再開した。どうやら、指示したとおりの服やアクセサリーをスタッフがちゃんと集めてきたか、細かいチェックをしているらしい。
 「煙草、ここならいいですか?」
 ダウンジャケットのポケットから煙草を取り出しながら奏が訊くと、黒川は、半分上の空の声で「いいよ」と答えた。衣装に煙草の臭いが移ってしまわないよう、奏は1歩、ドアより外に出て、煙草を口にくわえた。


 今、大量の女性ものの服飾品に囲まれて奮闘している男は、名を黒川賢治と言う。
 けれど、彼の名前を漢字で知っている人は少ない。彼の母国・日本ですら、黒川は「クロカワ・ケンジ」とカタカナで紹介されるし、彼の主な活動拠点であるここロンドンでは、“K. Kurokawa”と表記されることが多いからだ。
 黒川は、ロンドンで最も信頼されているスタイリストの1人である。
 彼の仕事手法は、少々独特だ。単に服や小物をコーディネートするだけではなく、メイクまでトータルでコーディネートするのだ。若い頃、メイクアップアーティストとして働いていた経験を存分に活かしている訳だ。懇意にしているヘアデザイナーと組んで、頭のてっぺんからつま先までの総合コーディネートをよく請け負う。全体のバランスを同一人物が考えてくれるのは安心できる、と好評で、今では相当数のスタッフを抱えている。
 奏もこれまで、ショーや撮影の現場で、何度となく黒川に会ってきた。モデルとスタイリスト、という立場として。
 それが変化したのは、今から4ヶ月前―――偶然、仕事現場で一緒になった黒川に、奏が将来のことを話した時からだった。

 モデル事務所との契約を切って、フリーで活動しだして間もなくの頃。奏は漠然と、将来の自分について思い描くようになった。
 モデルなんて、いつまでも続けられる仕事じゃない。30代で活躍している女性モデルなども結構いるが、男性で第一線に残れる者は滅多にいないだろう。容姿を切り売りする部分がある以上、これは仕方のないことだ。
 奏自身、あと2年がいいところだな、と、自分の中で線引きしている。それでもまだ27、8といったところだが、その辺りで転身しておかないと、その先の将来が危ない。業界にどっぷり浸かったままの世間に疎い30歳なんて、洒落にならない。そういう先輩モデルに心当たりがあるだけに、奏はここ半年、モデルを辞めた後の自分について、真剣に考えるようになったのだ。

 『オレ、黒川さんみたいな仕事に、興味があるんですよ』
 4ヶ月前、とある仕事の休憩時間に、世間話のついでのように、奏は黒川にそう言った。
 『モデル仲間の女の子の服装とかメイクに、結構うるさくチェックを入れるもんだから、そういう仕事が向いてるんじゃないか、って仲間にも言われて―――今、そっち方面の学校に入ろうかと思って、色々資料集めしてるんです』
 奏のような華やかな容姿の人間が裏方を目指してるなんて、と、黒川は最初、あまり真剣には取り合ってくれなかった。が、奏の話しぶりから、それが冗談でも半端な考えでもないことを察すると、突如、こんな提案をしてきたのだ。
 『それなら、学校なんか行くより、僕のアシスタントとしてバイトしない? 一宮君、フリーになってから仕事があんまりなくて暇だって言ってたでしょう。その暇な時間、僕のスタッフの一員として働いてごらんよ』
 ただし、時給は他のスタッフの半額以下ね、と付け加えられたが、奏にはそんなもの、どうでも良かった。なにせ、元々は、金を払って勉強しに行く気でいたのだから、タダ働きでもOKな位だ。
 以来、奏は、黒川から「おーい、手伝って」と連絡が来れば、喜び勇んで飛んでいく、という毎日を送るようになった。


 「なんか、やたら点数多い上に、テイストがバラバラだけど…何の仕事なんですか?」
 煙草をくわえたまま、黒川の周囲に散らばる服飾品を眺めて奏が訊ねると、黒川は目を上げないまま答えた。
 「これは、東京にある僕のセレクトショップに送る商品」
 「ああ…、表参道だっけ」
 確か、東京の表参道に1店舗、セレクトショップを構えていると聞いた記憶がある。手軽に“クロカワスタイル”が出来るとあって、結構人気があるらしい。
 「1点ものが多いから、運送費かけて送っておいて“不良品でした”となっても、交換がきかないからね。最終チェックは、必ず僕がやるようにしてるわけ」
 「へーえ…」
 黒川の説明に相槌を打った奏は、ふと、黒川の背後のハンガーラックに吊り下げられた1着の服に目をつけた。
 ―――あ…、あれなんか、似合いそうだよな。
 ノースリーブの、オフホワイトのコットンの上下。独特の切り替えが随所に入っていて、甘すぎず、かといって可愛さを失わず、といった、微妙なラインを保っているツーピース。それを身に纏った“彼女”の姿を思い浮かべた時―――奏の口元に微かな笑みが浮かび、すぐに消えた。

 ―――バカか、オレは。

 「よし…っと。お待たせ。じゃあ、行こうか」
 ちょうどいいタイミングで、黒川がそう言って腰を上げた。
 ホッとした奏は、救われた気分で、背中を預けていた壁を蹴って体を起こした。

***

 「一緒に、日本に行ってみない?」
 唐突に黒川が発した一言に、ピザを口に運んでいた奏の手が止まった。
 数度、瞬きし、黒川の顔を見つめる。ピザを皿の上に戻した奏は、怪訝そうに僅かに眉をひそめた。
 「日本?」
 「そう。東京」
 「…な…なんで、急に?」
 「うん。実は、知り合いに強烈に頼み込まれちゃったのね」
 妙に緊張感のない声でそう言い、黒川は笑う。どことなく“おねえ言葉”っぽいが、黒川はゲイでもバイでもなくノーマルだ。女性相手の仕事を長年続けたせいで、こういう喋り方になっただけである。こう見えて、日本には中学生になる娘もいたりするのだ。もっとも、仕事に熱中するあまり家庭のことがおろそかになり、妻に三行半突きつけられてしまったから、今は独身なのだが。
 いや、そんなことはどうでもいい。
 それより問題は、東京だ。
 「頼み込まれた、って?」
 「一宮君も、“Clump Clan”ていうブランド、知ってるでしょう?」
 知っている。イギリスで生まれたブランドだ。老舗とまではいかないが、中堅よりちょっと上といったイメージで、世界中に店舗を構えている。男性物も女性物も扱っていて、実際奏も“Clump Clan”のスーツを1着持っている。
 「あそこ、2年前にオーナーが代替わりしたんだけど、今のオーナーが僕の知り合いでね。今、新しい戦略に打って出ている最中なんだ。で…この夏、東京の銀座に、日本初の直営店をオープンすることに決まってる」
 「へぇ…知らなかった」
 ブランド志向の日本に直営店を出すのは、ブランド側の戦略としては至極当然のものだ。ただ…銀座とは、奏からするとちょっと意外だ。20代から30代をターゲットにした路線を展開している“Clump Clan”だから、青山辺りを狙ってくるのかと思ったのに。
 「6月1日に、大々的にプレ・オープニング・イベントを企画しててね、銀座の店舗前の路上まで使って、大掛かりなファッションショーをやるんだって。僕は、そのトータル・コーディネートを依頼されたんだ。“Clump Clan”は、あくまで洋服専門、靴やアクセサリーは一切扱ってないからね」
 「大きな仕事だな…」
 「まあね。それで―――その打ち合わせの最中に、今、日本に進出するに当たってのイメージモデル選定で揉めてる、って相談を受けてね。最初決まってたモデルに、社長がNGを出したらしいんだよ。だから、スケジュールが相当厳しくなってる状態なんだ。新たに3人ほど候補を出してるらしいけど―――実はね、その中に、一宮君の名前が挙がってたわけ」
 「…えっ」
 「ほら。去年の“VITT”の秋冬コレクションのポスター。一宮君がモデルを務めてたやつ。向こうはね、あれに惚れ込んだらしい」
 「……」
 心臓が、一瞬、跳ねた。
 “VITT”の秋冬コレクションのポスター ―――表向きは、奏の叔父・時田郁夫が撮ったことになっているが、実際に撮ったのは、その弟子に当たる人物―――奏に、“Frosty Beauty”という作られた顔を捨てさせた男だ。
 「イメージモデルになった場合、ポスター撮影は勿論、6月1日のショーにも出ることになる。僕もポスター撮影段階から東京に入って、“Clump Clan”の仕事終わるまでは向こうでずっと仕事することになってるんだ。もし一宮君がモデルを引き受けてくれるなら、モデルの仕事以外の時は僕のスタッフとして仕事してもらえるし、一石二鳥なんだよなぁ」
 などと黒川は暢気に言うが、ポスター撮影がショーの直前ということは考え難い。どんなにタイトなスケジュールでも、2ヶ月程度は前なのではないだろうか。
 つまり、2ヶ月以上、東京に行きっぱなし―――そういうことだ。そんなに長く、海外で仕事をしたことなど、モデル歴のそこそこ長い奏でも経験がない。
 それに―――…。

 ―――東京には…あいつらが、いるし。
 だから、行く訳にはいかない。そう思う自分と、だからこそ行きたい、と思う自分が、奏の中でぶつかり合う。

 「…ポスター撮るカメラマンって、決まってるんですか?」
 行きたいと思う自分を押さえ込みながら奏が訊ねると、黒川の顔が、一瞬、引きつった。
 「それは―――ハハハ、ちょっと言い難いなぁ」
 「…怪しいっすよ、その誤魔化し笑い」
 「だろうね」
 「―――もしかして、時田郁夫に撮らせたい、なんて話が出てるんじゃあ…」
 “VITT”のポスターに惚れ込んだのだから、そういう展開は十分あり得る。そう思って言ってみたところ、黒川は、露骨なまでにホッとした顔をした。
 「なんだ。一宮君、察しがいいね。言う前に分かってくれて」
 「…ジーザス…」
 冗談じゃない。思わず頭を抱えてしまう。第一、あれは時田の作品ではないのだ。勿論、そんなことは、自分達以外は誰も知らないのだが。
 「一宮君は、時田さんとは親族だから“またか、勘弁してくれ”と思うかもしれないけどね。“Clump Clan”側がそう言うのも無理ないさ。それだけ、あのポスターの一宮君が魅力的だった、ということだから」
 奏が頭を抱える理由を知らない黒川は、そんな的外れなフォローを入れた。
 違うのに。奏が頭を抱えているのは、もしこの話が時田に行った場合、時田がどうするかが分かるから―――どれだけスケジュールが空いていようとも、時田は間違いなく、この仕事を“彼”に振るだろう、そのことが分かるからなのに。
 「―――余計なお世話、と言うかもしれないけど…一宮君にとって、これはチャンスだと思うよ」
 改まったように、テーブルの上で手を組みなおした黒川は、少し心配そうに眉根を寄せた。
 「一宮君、フリーになったはいいけど、思うようにモデルの仕事が出来てないでしょう? 大体、事情は僕も察してるよ。君が契約していたエージェント、業界ではかなりの大手だし、君はそこのドル箱だったんだし」
 「……」
 それは―――誰から見ても、明らかだろう。奏が売り込みをかけた案件が、悉く元いたエージェントに取られているのだから。
 このところ、奏が請けられた仕事は、どれも代理店を通さず直接オファーの入った案件だけだ。広告代理店に、エージェントからのプレッシャーがかかっているのは、ほぼ間違いない。現在進行中の仕事のモデルを全員引き上げるとでも脅せば、有名モデルが揃っている事務所だけに、折れる代理店は少なくないのだ。
 エージェントは、奏を潰そうとしている。…ほぼ、間違いない事実だ。けれど奏は、大人しく潰される気もなければ、“Frosty Beauty”に戻る気もさらさらない。
 「あと2年、と決めているのなら―――日本の方が活躍の場は多いような気がするよ。幸い、一宮君は半分、日本人なんだし」
 「…それは…」
 「―――まあ、それは先の話としてもね。今回の話は、請けた方がいいと思うよ。僕はね」

 なんて、魅力的すぎる話。

 本当のことを言えば、喉から手が出るほど、この仕事が欲しかった。
 思うようにモデルの仕事が出来ない現状にイライラしていたし、“Clump Clan”というビッグ・ネームの仕事を蹴る奴はバカだと自分でも思うし、黒川の仕事を2ヶ月間手伝えるという点でも魅力的だ。しかも…もし、時田からカメラマンの件を振られた“彼”が、それを引き受けてくれたら―――…。

 …いや。
 それでもなお、首を縦に振れない理由が、1つだけある。

 「―――少し、時間もらっても、いいですか」
 奏は、少し掠れた声でそう言うと、暫く手付かずのままだったコーラを一気に半分位まで飲んだ。
 ちりちりと喉をくすぐる炭酸に顔を顰めつつ、奏は、2つの相反する気持ちの間で、ぐらぐらと揺れていた。

***

 天窓から覗く月は、青白い色をしていた。
 寝煙草はよくない、と分かっていながらも、煙草なしではいられない気分だ。奏は、ロフトのフロアベッドに寝転がり、煙草を口にくわえたまま、月明かりの中にゆらゆらと広がる煙の行方をぼんやりと目で追っていた。

 黒川から“Clump Clan”の話を聞いて以来、2日間。奏は、48時間ほぼ休みなく考え続けた。
 考えて考えて―――でも、答えが出なくて。それで今夜、思い切って両親に相談してみた。
 何も知らない父は、そりゃいい話だ、と手放しで応援してくれた。このところ、思うように仕事が出来ずに苦労している奏を見てきただけに、何故奏が迷うのか分からない、といった雰囲気だった。
 けれど、母は―――事情を知っている千里は、複雑な表情をしていた。
 そう…事情が分かっていれば、そういう顔になるのが当然だ。結局千里は、食器の後片付けを理由に中座してしまい、そのままその話に対して何も言わないままだった。

 ―――分かってる。
 分かってる、分かってる、十分過ぎる位に分かってる、やめておいた方がいいってことは。母に言われるまでもない。痛いほどに分かっている。
 それでもなお、誘惑に打ち勝てないのは―――半年以上経ってもまだ息絶えることのない、この想いのせいだ。


 ため息をついた奏は、苛立ったように、ベッドサイドに置いてあった灰皿で煙草を揉み消した。ちょうどそのタイミングで、奏の部屋のドアがノックされた。
 「奏―――起きてる?」
 ドアの向こうから聞こえたのは、千里の声だった。
 反射的に体を起こし、急ぎ階段を下りる。奏が階下に下りきった辺りで、部屋の中の気配に奏が起きていることを察したのか、千里が部屋のドアを開けた。
 「ごめんね、もしかして起こしちゃった?」
 「いや、起きてた。…何?」
 「…ちょっと、いい?」
 少し躊躇いを残した目をして、千里は、背後にある机と椅子の方に視線を流した。話をしたい、ということらしい―――奏は無言で頷き、千里のために椅子を引いて、自分は1階のベッドに腰を下ろした。
 デスクライトを点けた千里は、椅子に腰掛けると、はーっと大きく息を吐き出した。その表情は、いつも陽気な母の顔とは違って、何かピンと張り詰めたものを感じさせる。そう…カウンセラー・一宮千里の顔は、多分、こんな顔だ。
 「―――さっきは、悪かったわ。助言を求めて話をしたんでしょうに、何も言ってあげなくて」
 口を開いた千里は、まず、そんなことを言った。
 「患者(クランケ)の悩みを聞いてあげることには慣れてるんだけど…自分が育てた子供となると、さすがにね。どうしても私情が混じりすぎちゃうから、一度離れて、リセットしたかったのよ」
 「…いいよ。母さんが言いたいことは、分かってるから」
 奏が低く呟くようにそう言うと、千里は宥めるような苦笑を浮かべた。
 「行くか、行かないか。結論は1つだろうけど、そこに到達する道筋は1つじゃないでしょう?」
 「……」
 「…行きたいのね?」
 前置きなしの、いきなりの結論。奏は、一瞬息を呑み…それから視線を落とすと、一度だけ頷いた。
 「何故、行きたいと思うの?」
 「―――仕事自体が魅力的だ、ってのが、まずあるんだ。このまま、作られた“Frosty Beauty”だった時の評価を上回れないままで終わるのだけは、死んでも嫌だ。去年の“VITT”の写真に惚れ込んでのオファーなら…しかも、あれだけのビッグネームのブランドなら、断るのはバカだって思う。ロンドンで、古巣の連中にいびられながらチマチマ仕事する位なら、大勝負に出たいんだ」
 「…それだけ?」
 千里の視線が、頬に突き刺さる。
 それだけの、わけがない―――口元を一度引き結ぶと、奏は顔を上げ、千里の目を見据え返した。
 「―――会いたい」
 「……」
 「理屈じゃない。どうしても、会いたい。もう一度」
 「…どっちに?」
 「両方」
 「…会って、どうするの」
 千里の眉が、少し苦悩するように、歪んだ。
 「あの2人に会っても、そこにあんたの居場所はないのよ。奏」
 「―――…」
 ズキリと、胸が痛む。
 居場所はない―――分かっている。そんなことは、百も承知だ。半年前、嫌というほど見せつけられた。
 「じゃあ、質問を変えるわ」
 答えに詰まる奏に小さく息をつき、千里は言葉を続けた。
 「奏は、日本に行きたいと思ってる。あの2人に会いたいと思ってる。…なのに何故、行くのを躊躇ってるの?」
 「……」
 「居場所のない自分を再確認するのが、嫌だから?」
 「…違う」
 「じゃあ、何」
 「…オレに、それが許されるんだろうか、って思うから」
 「……」
 「あいつらに、会いたい。今度の仕事を請ければ、十中八九、会うことになる。でも…あいつらは、オレには二度と会いたくないって思ってるかもしれない。いや―――思ってる筈だ。だって、オレは、」

 オレは―――…。


 愛してた。2人とも。
 “人間”を撮ることで、“人形”を撮る無意味さを証明してやる、と言った彼を。自分らしくあれることが一番の幸せなのだと教えてくれた、彼女を。
 なのに、自分は―――彼にとって一番大事な存在だった彼女を、傷つけた。


 ―――…蕾夏…。
 唇が、震える。続けようとした言葉は、声にならなかった。奏は、口元に手を置くと、記憶から逃れるように目を伏せた。

 「…言いたいことは、分かったわ。会いたいけど、会うわけにはいかない。…そういうことね」
 「……」
 「じゃあ、私も、親の立場から言わせてもらう」
 短くため息をつくと、千里は心配げに、目を細めた。
 「私は、奏には日本に行って欲しくないって思ってる。でもそれは、あの2人のためじゃない。奏、あんたのためよ」
 思わず、顔を上げた。意外な言葉に、奏の目が丸くなる。
 「分かってる。奏は、心の距離と物理的な距離のギャップに苦しんでるんだって。目一杯、あの2人に心を持っていかれたまま、別れてしまったから―――心は今も隣にあるのに、体の距離は1万キロ近くも離れているから、心がその距離に耐えられないの。この苦しさを克服するには、心を無理やり離すか、物理的な距離を近づけるしか―――日本に、行くしかない。分かってるのよ。頭ではね。でも―――それは、奏にとっては、辛い作業になると思う」
 「……」
 「…あの2人の傍で、傷ついてボロボロになる奏を、見たくない。たとえそれが、奏が犯した罪の報いであっても―――手に入らないものを求めて苦しんでる奏を、もう見たくないのよ」
 そう言う千里の顔は、母親の顔だった。
 母の信頼を裏切った、どうしようもない息子なのに―――血縁関係にあるといっても、自分のお腹を痛めて産んだ子供でもないのに。奏は、申し訳なさに、唇を強く噛んだ。
 「…それは、“母親”としての、母さんの意見だよな…?」
 「ええ、そう」
 「じゃあ、カウンセラーとしての意見は?」
 奏が訊ねると、千里は、暫し黙って、奏の顔を見つめた。
 そして―――やがて、少し寂しそうに微笑んだ。
 「―――行った方がいい、ってアドバイスするわね、きっと」
 「……えっ」
 「ここで鬱々と過ごしていても、何も解決しないでしょ? 行って、2人に会って、奏にとっても2人にとっても一番良い“心の距離”を見つけてらっしゃい―――そう、言うと思うわ」
 「…心の…距離を…」
 「ただし、」
 言葉を切ると同時に、千里の顔から笑みが消えた。
 「瑞樹が、“来てもいい”と言ったらね」
 「え?」
 「奏の置かれてる現状、奏が望んでる未来―――包み隠さず瑞樹に話して、それで瑞樹が“いい”と言うなら…行きなさい。日本へ」
 「…蕾夏が“いい”って言ったら、じゃなく?」
 「―――…蕾夏は、ダメよ」
 ポツリと呟いた千里の目が、僅かに翳りを帯びた。
 「蕾夏が“いい”と言っても、ダメ。瑞樹が“いい”と言わない限りは、諦めなさい」


 ―――なんで…蕾夏じゃなく、成田が?
 その理由が、奏にはよく、分からなかったが。

 遠く離れた場所で、思い出に囚われたまま生きるより―――どんなに苦しくても、2人の傍で、新しい心の距離を模索する方がマシだと―――奏は、そう思った。

 


 21世紀が始まって間もない、1月半ば。

 奏は、1通のメールを送った。1万キロの彼方にいる、2人に宛てて。


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