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冬空とは思えぬほどに、空が高かった。
どこまでも、どこまでも―――遠い高みへと
「やだ、こんなとこにいたの?」
乾いた風に乗って届いた声に、コンクリートの床に寝転がって脚を器用に組んでいた瑞樹は、僅かばかり頭を起こした。
雑然と置かれたブロックやらコーンやらの向こうから顔を覗かせたのは、つい30分前まで、ファインダーの中にいた人物だった。1月の屋外とあってはさすがに撮影衣装のままでは寒いらしく、厚手のコートを着込んで襟元を掻き合わせている。そして、その寒さの中、屋上で悠然と昼寝を決め込んでいる瑞樹を見つけ、呆れたように目を丸くした。
「あっきれたぁ…。よくこの寒い中、こんなとこに寝転がっていられるわね」
「…昼、行ってたんじゃねーの」
クライアントや代理店の連中は、今頃、全員昼食に出ている筈だ。だから当然、モデルである彼女も一緒に行っているものと思っていたのに。
「あたしは、別行動。マネージャーからカロリーセーブ命令が出てるから、昼食は持参してるのよ。それより―――あなたこそ、こんなとこで油売ってていいわけ? フリー・カメラマンなら、クライアントとのビジネスランチは大事なんじゃない?」
「―――かもな」
「かもな、って…随分、悠長ねぇ」
苦笑した彼女は、近くに積み上げられていたブロックの上に腰を下ろした。
ふとみると、その手にはウーロン茶の缶が握られている。どうやら、暫く居座る気らしい。ひとりの時間を邪魔されることに、瑞樹は不愉快そうに眉をひそめたが、追い払うためにあれこれ言うのが面倒なので、何も言わずに視線を空に向けた。
今日の撮影は、昨年口紅のポスターを担当した化粧品メーカーの、春の新色のポスター撮りである。
あのポスターのせいか否かは不明だが、昨年秋の新色は、メーカー側の予測を上回る売り上げを記録したらしく、今期の春のポスターも昨年と同じメンバーでやろう、ということになったのだそうだ。カメラマンも昨年同様瑞樹が担当するし、目の前で今、ホットウーロン茶を口に運んでいるモデルも、昨年と同じベテランモデルだ。同じモデルと2度仕事をする経験はこれが初めてだが、気心が知れててやりやすい部分は確かに多かった。
―――だからって、馴れ馴れしくされるのはまっぴら御免だけど。
基本的に、誰とも必要最低限しか話をしたくない瑞樹なので、こういう時は、ひとりきりにして欲しいと思ってしまう。せっかく面倒なランチをなんとか免除してもらったというのに―――見つかってしまうとは、全くついていない。
「そうそう。あれ以来、いろいろ噂は聞いてるわよ」
寒さに身を縮めながら彼女が言った一言に、空を見上げていた瑞樹は、僅かに眉根を寄せ、彼女の方を見た。
「噂?」
「モデル仲間にね。やっぱり成田さん、相当悪い奴だったみたいね」
「…なんだ、そりゃ」
「教えられた電話番号に電話したら警察署だったとか、飲みに行く約束とりつけて待ってたら、クライアントやらメイクさんやら全員引き連れてやってきて、挙句に店の入り口で成田さんだけ帰っちゃったとか」
ああ、なんだそんな話か、と、瑞樹は軽くため息をつき、面白くもなさそうな目をした。
「で、どうなのよ。噂は噂に過ぎない? それとも事実?」
「…どうでもいいだろ」
「良くないわよぉ。後輩モデルにも、その話に興味示して“成田ってカメラマンのオファー来たら、絶対受けるから”って意気込んでる奴いるんだから」
「止めてやれ」
「―――てことは、事実なんだ。ヤな奴ぅ…」
嫌な奴で結構。悪い男という評価も上等だ。世界中の女の評価など、瑞樹にとってはこの世で最もどうでもいいこと―――瑞樹が“最高の男”でいるのは、たった1人の前だけでいいのだから。
それにしても、もう空を眺めてのんびりするムードでもなくなってきた。苛立ったように舌打ちすると、瑞樹は弾みをつけて起き上がった。
「あら、どっか行くの?」
「あんたがここに居座るならな」
「愛想ないわねぇ…。暇な休憩時間を潰す相手位、してくれたっていいじゃないの。あと30分もボーッと過ごすこと考えたら、とても耐えられそうにないわよ」
「……」
「…はーん。もしかして、あれでしょ。あたしも他の連中みたいに、あなたに言い寄るとでも思ってるんじゃない?」
「まさか」
前髪を掻き上げた瑞樹は、口の端だけでシニカルに笑った。
「ヘアメイクの男に置いてかれてイライラしてる女の相手をするほど、俺は暇じゃねーってこと」
「!!」
途端、彼女の顔が、一気に赤く染まる。
「ちょ…っ、その話、誰に聞いたのよ!?」
「別に。一目瞭然だろ」
去年の撮影時、恋人と別れたばかりだ、と言っていた彼女だが、どうやら現在、職場恋愛の真っ最中らしい。現場で、単なるモデルとヘアメイクという距離感ではなさそうな2人の空気をファインダー越しに感じながら、「恋は女を綺麗にする」という通説は本当らしいな、と瑞樹は密かに苦笑いしていたのだ。
ファインダーの向こうの彼女は、去年より輝いていた―――去年のように、わざわざ挑発して乗せる必要もなかった。すぐ傍に“魅せたい”相手がいるのだから。おかげで楽な撮影をさせてもらって、瑞樹としては万々歳だ。
「…他言は無用だからね」
そう言って睨む彼女に肩を竦めて応えた瑞樹は、立ち上がり、ジーンズについた埃をはたき落とした。どうやら、瑞樹が本格的に移動する気でいるらしいと分かった彼女は、
「ああ、いいわよ。あたしが中に引っ込むから」
と言って自らも立ち上がった。
「いい気分転換にはなったけど、もう、寒くて寒くて…」
本当に寒そうに肩を丸めた彼女は、ふと瑞樹の方を見、その頭のてっぺんからつま先までを眺めて、改めて呆れた顔をした。
「―――信じられない。なーんて格好してんの? この寒いのに、ジャケット羽織っただけでマフラーもなしに屋上に寝転がってたわけ? せめて襟元位、きっちり留めておきなさいよね」
彼女の手が、当然のように瑞樹のシャツの襟元に伸び、第2ボタンまで外されていたボタンを1つだけ留めた。
「……っ」
この瞬間、瑞樹が、気づかれないほど僅かに息を呑み、体を強張らせたことなど―――何も知らない彼女が気づく筈もなかった。
「カメラマンが風邪ひいて、午後の撮影がパーになるなんて、真っ平御免ですからね」
「…ああ、サンキュ」
「じゃあね」
彼女は笑顔でそう言い残すと、踵を返し、瑞樹の前から立ち去った。コツコツとハイヒールの遠ざかる音を聞きながら、瑞樹は、まだ少し息を詰めた状態で、その後姿を見送った。
―――消えろ。
あんたは、もう死んだんだ。出てくるな―――二度と。
冷たい風が、足元から這い上がる。その風に髪を乱された瑞樹は、一瞬目を眇め、風に煽られたジャケットのポケットに片手を突っ込んだ。
内なる声に耳を澄ますかのように、目を閉じる。
悪夢の残像を、暗闇の中、追い払う―――ポケットの中の手が、何かに耐えるようにきつく握り締められた。そして数秒後…全身から、ゆっくりと力が抜けていった。
大きく息を吐き出した瑞樹は、ぐしゃっ、と乱暴に髪を掻き上げると、額に手を置いたまま、暫し地面を見つめた。そして、最後に―――空を、見上げた。
冬空とは思えぬほどに、空が高かった。
誘われる―――高みへと。どこまでも、どこまでも。
瑞樹は、その青を、いつまでも見つめた。乱れた心を、リセットするために。
***
午後の撮影も順調に進み、モデル撮影から商品撮影へと現場は模様替えをしていた。
「ライト、もうちょい柔らかくしたいんだけど…」
「もう1枚、ディフューザーかけますか」
スタジオマンと光の具合でゴタゴタやっていた瑞樹は、シャツの胸ポケットに入れた携帯が震えるのを感じ、眉をひそめた。
2回震えて、すぐ止まる―――メール着信の合図だ。
「…じゃあ、トレペ1枚、軽く巻いてみて。仮留めでいい。外すかもしれないから」
「分かりました」
指示だけ出した瑞樹は、少しセットを離れ、ポケットから携帯を取り出した。
パチン、と携帯を開けてメールを確認すると、メールの主が、事務所の川上だと分かった。“川上”の2文字を見た途端、用件を確認するより前に、嫌な予感が背筋に走った。
仕事中、メールが入る場合は大抵、緊急の仕事の依頼や予定変更がクライアントから入った場合だ。そして、瑞樹の場合―――そういう“緊急”なことをしてくるクライアントは、大体1件に絞られるのだ。
見るのも嫌だ、という顔でメールを開く。案の定、そこには、予想通りのことが書かれていた。
『お疲れ様です。I:Mの梶浦様から連絡がありました。明日午後2時から4時まで、新宿での撮影をお願いしたいとのことです。お手すきの時にでもご連絡下さい』
現在、午後1時半である。なのに―――“明日”。
その依頼の傍若無人さに、瑞樹は思わず、携帯を床に投げつけそうになった。
月刊誌“I:M”の依頼は、毎度毎度、この調子である。あの会社、専属カメラマンを持たないのは、フリーカメラマンの方が好き勝手使えると思ってるからなんじゃないのか、と邪推したくなる。時田の顔を立てるためでなければ、とっくに匙を投げていたところだ。
カメラマンの道に進んで、そろそろ、まる8ヶ月。
多分、瑞樹は、1年前より楽に呼吸をしている。けれど―――以前以上より更に、苦しんでいる部分も多々ある。
好きなことを仕事にするというのは、一方では最高に素敵なことだが、もう一方ではうんざりするほど辛いことだらけかもしれない。もしも、いい写真を撮ることだけを考えていられる毎日ならば、多少の苦労も平気で乗り切れる。でも、一番うんざりさせられるのは、この“I:M”のような仕事だ。
“いい写真は、必要ありません”―――今でも思い出す、去年のグラビア写真の一件の時の、“I:M”の編集者の斬り捨てるような言葉。
分かっている。“いい写真”と“必要な写真”は、必ずしも一致しない。瑞樹から見たら素材をわざと劣化させて撮るに等しい行為でも、それが出版社やタレント事務所の意向であれば、その通り撮るのが職人としては当然のこと―――分かっている。それ位のことは、十分に。
分かっていても―――消耗させられる。職人に徹しようとすればするほど、撮りたい本能が削り取られる。
あのグラビア写真の一件以来、瑞樹は“I:M”の仕事だというだけで、マイナス思考に陥るようになっていた。そして実際、現場に赴けば、被写体が人間であれ建物であれ、あの会社の仕事は総じて「不愉快」なのだった。
「成田さん、こんな感じでどうですか?」
スタジオマンの声に、携帯電話を睨んでいた瑞樹は、やっと我に返った。
「…ああ、その位かな。1回、露出測っといて」
「分かりました」
―――明日…ねぇ…。
表面上、無表情に仕事の指示を出しつつも、瑞樹は内心、舌打ちしたい気分だった。
とりあえず、撮影終わり次第、メールを打っておくか―――そう考えながら、携帯をポケットに放り込んだ。
***
席を立った瞬間、机の上の携帯電話が2回、震えた。
中途半端な姿勢のまま、一瞬動きを止めた蕾夏は、迷った末、携帯を手に取りメールを確認した。
『明日、I:Mの仕事が午後から入った。今日、どうする?』
微かに表情を曇らせた蕾夏は、ここ数日の瑞樹の仕事を思い返した。前回、“I:M”の仕事に駆り出されたのは、いつだったっけ? …そう昔ではないことは、すぐ分かる。少なくともこの1週間以内だった筈だ。
すぐに返事を出したいが、携帯メールが絶望的に苦手な蕾夏だし、編集長に呼ばれている最中なので、ひとまず後回しにすることにした。携帯を置いた蕾夏は、原稿を手に編集長のデスクへと向かった。
「編集長」
蕾夏が声をかけると、難しい顔でゲラ刷りを睨んでいた編集長が顔を上げた。
―――うわ、機嫌悪いかも。
いつになくピリピリしている編集長の気配を察し、呼ばれた理由を想像して心臓が痙攣しそうになった。
が、そんな蕾夏の緊張とは裏腹に、編集長は蕾夏の顔を見るとすぐに、幾分表情を和らげた。
「ああ、すみませんね、忙しいところ」
「いえ。なんでしょう?」
「明日、藤井さんはお休みでしたね」
「はい」
「じゃあ休み明けにでも、瀬谷君のフォローに入ってもらえますか」
「えっ? 瀬谷さんの?」
今、瀬谷は何の記事を書いていただろう? 軽く眉を寄せて記憶を手繰り寄せた蕾夏は、それが病院関係の記事だったことを思い出した。
「正しい病院選びを考える第2特集でしたっけ」
「そう。インフォームド・コンセントをどの程度実践してるかを現場の人に問い合わせたいんですが…取材拒否する病院が思いのほか多くてね。さすがの瀬谷君も、少々取材に苦労してるようです。特に婦人科の方は、男性の取材を嫌がる病院が結構あるようでして―――とはいえ、女性ターゲットの雑誌である以上、外す訳にもいきませんからね」
「そうですよね…」
「どうしても取材したい先が2軒あるので、代わりにお願いします」
「分かりました。じゃあ、瀬谷さんから、資料引き継いでおきます」
瀬谷は今日、取材に出ていて留守だ。机の上にでも置いておいてもらおう、と考えた蕾夏だったが、
「ああ、それには及びません。杉山君が同じものを全部持ってますから、杉山君から受け取っておいて下さい」
と編集長がすかさず付け加えた。杉山―――その名前を聞いて、蕾夏の顔が、一瞬引きつった。
杉山は、蕾夏とはあまり接触のない社会部の編集者だが、なんというか―――早い話、蕾夏をあまり良く思っていない社内一派の中心人物なのだ。
「わ…分かりました」
それでも、表面上、何気ない笑顔を作ると、蕾夏はぺこりと頭を下げて編集長の前から去ろうとしたが。
「あ、藤井さん」
編集長に呼び止められ、踵を返しかけた足を、慌てて止めた。
「? はい」
「藤井さん、近々、成田さんと連絡を取る機会でもありますか?」
「……」
―――今夜、会うと思いますけど…。
さすがにそれは、口にはできない。曖昧に笑った蕾夏は、
「ええ、多分」
とだけ答えた。
「じゃあ、ついでに伝えておいて下さい。例のミニシアターの記事、今月も感想メールが入ってて、写真も大変好評のようですから、また機会があったらお願いします、と」
「…えっ」
ミニシアターの記事―――それは、去年の11月号の第1特集で、記事を蕾夏が、写真を瑞樹が担当したものだ。
あまり反響のある傾向の記事ではないので、大して期待してもいなかったのだが―――意外な言葉に、蕾夏は思わず唖然とした顔をしてしまった。
「ああいう渋い特集の割に、結構長く反響がありましたね。ただの雑誌記事っぽくなかった、買って得した気分になった、という意見がちらほら見られました。雑誌の品格にも影響しますから、いい傾向ですよ」
柔和に笑う編集長の言葉に、気恥ずかしさを感じた蕾夏は、小さく「ありがとうございます」とだけ返し、頭を下げた。
***
『私は明日、予定通りオフだから。今夜は私がそっち行っていい?』
席に戻ってすぐ、蕾夏は瑞樹に宛てて、そうメールを打った。
翌日、片方だけが休日ならば、休む方が出勤する方の部屋へ行く――― 一緒にいる時間をできるだけたくさん持とう、と決めてからの、これは2人のお決まりのパターンとなっている。その方が、出勤する方の負担が軽くて済むし、結果的により長い時間、一緒にいられるからだ。
しかし、元々明日は、2人揃って休みの筈だったのだ。どのみち、今夜会えるとはいえ――― 一緒に過ごせる筈だった明日1日のことを思うと、少々、気落ちしてしまう。
―――明日は久々に、ライカで写真撮りに出たかったんだけどなぁ…。
携帯をパチンと閉じながら、小さくため息をついた蕾夏だったが、こんなことじゃダメだよね、と気合を入れるように大きく深呼吸した。
「ただいま戻りました」
ちょうどその時、杉山の声がして、蕾夏はハッとして顔を上げた。
出先から戻ってきたばかりの杉山は、ずんぐりとした体躯を、寒そうに縮めていた。その姿が社会部の自分の席に収まり、ほっと落ち着く位の時間を見計らって、蕾夏は気が進まないながらも席を立った。
「あの―――杉山さん」
背後から蕾夏が声をかけると、声だけで誰だか分かったのか、杉山の背中が一瞬、固まった。
ゆっくりと振り向いた杉山の顔は、一見、何でもないような顔をしているが、眉の角度と目の開き加減からその心理状態がなんとなく見て取れる。気に食わない奴が俺に何の用だ、と杉山が思っているのは明らかだ。
一緒になって不愉快そうな顔をしたのでは、意味がない。蕾夏はささやかな微笑を作り、杉山を見下ろした。
「今、瀬谷さんが担当している“病院選び”の特集記事ですけど―――その資料、私にもコピーさせていただけますか?」
「なんで? 君、担当じゃないだろ」
「いえ、実は、取材拒否されてる婦人科病院があるそうで…私がそこの取材を受け持つことになったんです」
「藤井さんが?」
杉山の眉が、余計につり上がる。
「はい、あの、女性の方が取材に応じやすいだろうってことで。あくまで取材だけで、書くのは瀬谷さんです」
「…ああ、そう。なら、いいけど」
蕾夏が書く訳じゃないと聞いて、杉山は、あからさまな笑い方をした。そして、その皮肉っぽい笑い方だけでは足りなかったらしく、こんな一言を付け加えた。
「お気楽サブカルチャーではいいかもしれないけど、君の文章、硬派の社会部にはそぐわないからね」
「……」
「ええと…はい、これ。すぐコピーして、返してくれるかな」
「…分かりました。お借りします」
机の上に無造作に置かれていた封筒を差し出された蕾夏は、できる限り平然とした顔を装って、それを杉山から受け取った。そして、1秒でも早くそれを杉山に返すべく、即座にコピー機へと向かった。
元々、社会部はサブカルチャー部門に対して厳しい見方をしている。
カラー写真を伴って巻頭を飾ることが多いサブカルチャーに比べ、社会部の記事はどうしても第2特集扱いとなり、モノクロページに回されてしまう。しかし、実際に読者反響の大きさを比べると、社会部の特集の方が大きい。ゆとりある暮らしの提案より、世論調査や社会現象分析の方が意見を述べやすいし、啓蒙される部分が多いからだろう。そんな“ねじれ現象”のせいか、社会部全体がサブカルチャー部門に冷たい。
けれど、その事実を差し引いてもまだ、杉山の蕾夏に対する態度は、かなり理不尽だ。その理由を、蕾夏は十分知っている。
月間“A-Life”日本版の発刊に寄与した、一宮淳也―――巨匠・時田郁夫の義兄にして、“A-Life”ブリティッシュ版の編集長。彼の後押しで入ってきた、ライター経験ゼロの蕾夏を、彼は全然信用していないのだ。
権力を傘に着てねじ込まれた人材―――蕾夏をそう見ているのは、何も杉山1人ではないし、そういう視線は、本契約から半年経とうとしている今も、あまり変わってはいなかった。
もっといい文章を書くようになれば、認めてもらえるだろう。でも―――正直、「いい文章」とは何なのか、蕾夏にもよく分からなかった。
……いや。
それでも、認めてもらわなくては―――コピーを取りながら、蕾夏は小さくため息をついた。
急ぎコピーを取り終え、蕾夏は資料を杉山に返した。
「ありがとうございました」
「うん」
同じ社会部の編集仲間との会話に気を取られている杉山は、適当な返事を返しただけで、蕾夏の顔すら見なかった。別にそれでいい―――蕾夏は踵を返し、コピーした資料を抱いて席に戻ろうとした。
「けど、何も瀬谷君のピンチヒッターだからって、同じライターが担当しなくてもいいだろうに。女なら、こっちの編集部にも一杯いるじゃないか」
そんな井戸端会議の声が、背後から微かに聞こえた。誰だか分からないが、社会部の誰かだろう。
それに答えたのは、杉山だった。
「七光があるし、編集長のお気に入りだからだろ。キツそうな外見の女より、ああいうのの方が取材にも応じてもらえそうだしさ。いいよなぁ、女はいろいろ武器があって」
「……」
―――別に、慣れてる。この位。
眉根を寄せ、唇を噛みながらも、蕾夏は今聞いた軽口を無視して、さっさと自分の席に戻った。
席に戻ると、机の上で、携帯の小窓が点滅していた。
すぐに手に取り、開いてみると、メールが1通届いていた。
『了解。早く帰れるようなら、久々に鍋でもやるか?』
そのメールを見て、蕾夏の口元に、フワリと笑みが浮かんだ。
***
「…リズミカルな切り方だな、お前…」
鶏肉を一口サイズに切り分ける蕾夏の手元を覗き込んで瑞樹がそう呟くと、蕾夏はちょっと唇を尖らせ、軽く瑞樹の顔を睨んだ。
「…はっきり“不揃いだ”って言ってくれた方が、嫌味じゃなくていいんだけど」
「いいのかよ。一応、気ぃ遣ってやったのに」
「うう…水炊き用にカットしてあるやつ、買えばよかったかなぁ…」
瑞樹命名“リズミカルな切り方をした鶏肉”を見下ろし、少し後悔したように言う蕾夏に、瑞樹は思わず吹き出した。
「まぁったく、たかが鶏肉ごときで、マジでへこむなって」
「うーるーさーい。もうっ、あとちょっとで準備できるから、瑞樹はそっちのテーブル片付けといてよっ」
邪魔邪魔、という仕草をする蕾夏にクスクス笑いながら、瑞樹はそっと、蕾夏の傍を離れた。
ざっと計算して、明日の昼まで、十数時間―――スケジュールが合わず、この1週間電話のやりとりだけだったが、やっと会えたのに、一緒に過ごせるのはたったこれだけの時間だ。
ついてない、と眉をひそめつつも、瑞樹の心は、比較的穏やかだった。
たったこれだけの時間では癒しきれない渇きを覚えているのは、何も自分1人ではない―――蕾夏もそうなのだ、ということを、今は十分、理解しているから。
6月までに、それぞれ、自分1人で立って歩く自信をつけることができたら―――その時は、一緒に暮らそう。
言葉にはしていないが、それが、2人の約束。
変な話だと、人は言うかもしれない。2人で歩いていくのなら、何も1人で立つ必要はないだろう、と。けれど…2人の中では、それは決して矛盾した話ではなかった。
一緒にいる理由の中に、“あの女”や“あいつ”を介在させたくない。
“あの女”や“あいつ”に負わされた傷のせいで、1人で立つことができないから一緒にいる、なんて思いたくない。
単なる意地だ、と言われれば、それまでかもしれない。でも2人は、“あの女”が瑞樹に与えた悪夢からも、“あいつ”が蕾夏に与えた呪縛からも解き放たれて…ただ、一緒にいたいという本能だけで、繋がっていたいと思った。
今もまだ、2人とも、時折悪夢にうなされる。多分、一生、完全に消えることはないのだろう。
でも、帰国から1年、一度は音を失った蕾夏が無事1人で乗り切ることができたのなら―――その時は、2人で手を取り合ってもいいのではないか。2人はそう、自分たちの中で線引きしている。
蕾夏が一番恐れていることは、“己を失うこと”。
そして、瑞樹が一番恐れていることは―――“蕾夏を失うこと”だから。
―――しかし、落ち着かねーなぁ…。
“明日、面倒な仕事が待ってるんだから、今日は私1人で作るからゆっくりしててよ”と蕾夏は言ったが、なかなかくつろぐ気になれない。
元々、父と暮らしていた時から、主に台所に立っていたのは瑞樹の方だった。子供の頃だって、それと大差ない生活だった。瑞樹は、人に料理を作ってもらう、というシチュエーションに慣れていないのだ。
テーブルの上を片付けたら、やることがなくなってしまった。手持ち無沙汰になった瑞樹は、食事の前にメールチェックでもするか、と、デスクトップパソコンの電源を入れた。
「あ、醤油の残りが危ない…。ねえ、ポン酢あるから、だしは薄口でもいいかなぁ?」
「ノープロブレム」
「ん、分かった。…あ、そうそう」
火加減を見ていた蕾夏は、顔だけを瑞樹の方に向け、ちょっと嬉しそうに目を細めた。
「今日ね。編集長が言ってた。ほら、例のミニシアターの特集記事。読者からの反応が結構良くて、今も感想のメールとか届く、って」
「へぇ…、意外。結構地味な特集だったのに」
「雑誌っぽくないって。得した気分だって書いてあったらしいよ。“A-Life”って、誌面構成も結構オシャレにしてるから、あの特集記事だけだと、ちょっとした写真集みたいなムードに見えるのかもね」
「写真集…か」
2人で作る、1冊の写真集。
そのための、第一歩―――それを実感して、瑞樹の口元も綻んだ。
「写真も好評だから、また機会があったらよろしく、って瑞樹に伝えて欲しいって。また似たような企画あったら、一緒に仕事できるかもしれないね」
「―――そうだな」
「ふふっ、ちょっと楽しみ」
「お前と一緒の仕事だと、別にアシスタントを頼む手間が省けて、楽だしな」
「あはは、小松君が拗ねちゃうよ、そんなこと言ったら」
明るく蕾夏が笑ったところで、パソコンが立ち上がった。
たいしたメールも来ていないだろう、と思いながらメールチェックを始めた瑞樹だったが―――…。
プライベートなメールアドレスに届いていた、1通のメール。
その差出人の名前を目にした瑞樹は、思わず、息を呑んだ。
“Sou Ichimiya”
―――…奏…。
それは、瑞樹と蕾夏が帰国してから初めての、奏からのメールだった。
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