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01 : 2nd Kiss

 痛みを感じるより先に、多恵子はその“色”に目を奪われた。

 ―――何、これ。
 血って、もっと赤くない? なんでこんな、赤と茶色が混じったような、妙な色をしてるんだろ。もしかして静脈までしか届いてないから、綺麗な血が出てこなかったのかな。
 静脈には、要らなくなった物質の混じった血が流れている。その汚れた血が、今、傷口から流れ出しているんだ―――そう考えると、なんだか自分の体がどんどん浄化してくような気がして、楽しい。

 …けど、これじゃあ、死ねないね。

 ―――バカみたい。

 初の逃亡の試み・多恵子高校1年の春休み。
 うっすらとした傷を手首に残しただけで、多恵子は地上に繋がれた。

 まだ、「そら」は、遠い。


***


 多恵子には、3つのポリシーがある。

 1つ、今が楽しければそれでいい。
 2つ、本能に忠実に生きなければ意味がない。
 そして3つ―――旅立つ時には、絶対未練を残してはならない。

 多恵子は結構、信心深い方だ。迷いや未練を残して死んだ者は、怨念や霊魂といった形でこの世に繋がれてしまうのだと、頑なに信じていた。
 だから、後悔のないよう、楽しく生きる。楽しく生きて、かつ、死ぬ時は、一切の未練は残さない。多恵子の理想とする人生。

 大学に行くのも、その「楽しく生きる」ポリシーにのっとった選択であって、別段、極めたい学問があったからでも、学歴というものに(こだわ)りがあったからでもない。
 高校生の多恵子の目に、大学生は自由闊達に映っていた。社会人のように疲れてもいないし、高校生以下のように勉強に縛られてもいない。要するに大学生は「楽しそう」だったのだ。


 大学生活1日目。多恵子は鏡の中の自分を見て、かなり満足していた。
 高校時代、肩までストンと下ろされていた平凡な髪は、校則という戒めから解放された今、男でもここまでやらないよ、という程の極端なベリーショートに刈り込まれている。全体は明るい茶色で、所々不揃いに残った長めの髪束には、南国の鳥を思わせるオレンジの色が入れられている。この頭を見てると、幼い頃飼っていたインコを思い出す。綺麗な声で歌うヤツだったので、多恵子のお気に入りの鳥だった。
 静脈が透けて見える位不健康に青白い体は、サイケ調の明るい色柄のシャツと、膝下までのサブリナパンツで覆われている。春休みに、親友の佐倉みなみと渋谷で選んできた服だ。右耳だけに2つ続けて空けられたピアスホールには、クロスをかたどったピアスが付けられている。これも、佐倉みなみのチョイスだ。
 ―――佐倉仕様の飯島多恵子ってとこかな。
 それも、悪くない。むしろこの方が、本来の自分に近い。多恵子は、口の端を吊り上げて、ニヤリと笑った。
 この格好で階下に下りていった時、“あいつ”がどんな顔をするか、今から手に取るようにわかる。
 以前、テレビで放映されていた、ニューヨークのゲイ・パレードを見た時の、あの顔。頑固そうな眉をピクリと震わせ、この世で最も汚いものを見ているような嫌悪と不快感を思い切り顕わにした目をして、口の端を歪めた顔。あの時と同じ顔を、多恵子に向けてくる筈だ。
 そんな格好で入学式に行く気か、とか、早く着替えろ、なんて事は言わない筈。きっと、黙認する。だから、多少不愉快そうな顔をされても、多恵子は平気だ。
 邪魔されるのが、一番イヤ―――見て見ぬフリをする“あいつ”の存在は、もはや多恵子にとって、脅威ではなくなっていた。

 そろそろ、出かける時間。リュック型のバッグの中身を確かめた多恵子は、忘れ物に気づき、慌ててドレッサーの上に目を移した。
 そしてそこに、よく切れるお気に入りの剃刀を見つけ、ホッとする。ポーチの中にそいつを放り込むと、多恵子は意気揚々と、自分の部屋を出て行った。

***

 「げ…。何、多恵子、その格好」
 入学式が終わってすぐ、大学の中庭で多恵子と合流した佐倉みなみは、多恵子の姿を見つけるなり、そう言って眉を寄せた。
 「ヘン?」
 「ヘン、ていうか、誰?」
 「僕」
 「―――確かに、多恵子だ。“僕”なんて言う女、あたしの知る限り、あんたしかいないもん」
 あはは、と声をたてて笑った佐倉は、ワンレングスの髪を気だるそうに掻き上げ、中庭に置かれたベンチに腰を下ろした。多恵子もその隣に腰を下ろし、バッグの中から未開封のラッキーストライクを取り出した。
 「でも、佐倉もヘンだよ。この服もこのピアスも、あんたのチョイスなのに」
 「あたしが驚いたのは、あんたの頭! 何、その、極楽鳥みたいな色。進学校で大人しくセーラー服着てたあんたからは、今の頭は想像つかなかった」
 「あっはは、センセ達に目ぇつけられてガミガミ怒鳴られるのが嫌だったから、猫かぶっていい子ちゃんしてただけだよ」
 ラッキーストライクを口の端にくわえ、多恵子はニッと笑ってみせる。
 「服や髪なんて、卒業するまでの我慢で済むからね。そうじゃなくても、僕は教師の目から見ても鬱陶しい存在だったろうしさ」
 「当たり前でしょ」
 呆れたような顔をする佐倉の目線は、多恵子の手首に向けられている。うっすらと残る傷跡が3本―――高1の春休み、高2の夏休み、高2の冬休み、合計3回の“逃亡未遂”の跡だ。
 「まー、あたしからすりゃ、あんたがどんな格好してても、構わないけど? でも、その頭に関してだけは、“佐倉みなみのコーディネートではない”って、ちゃんと断っておいてよね。最新ファッション着て紙面で笑ってるあたしが、そーんなけったいな頭を薦めたなんて勘違いされたら、モデル生命の危機よ」
 「はいよ」
 軽すぎる返事に憮然とした顔をしながら、佐倉は多恵子の手の中にあるラッキーストライクに指を伸ばし、1本拝借した。
 佐倉は滅多に煙草を吸わない。高2の時から、雑誌モデルとしてそこそこ活躍している彼女は、美容に関してはかなり神経質だ。体型維持、肌のコンディションの維持、そんな事に気を配っているので、煙草も酒も控えめだ。
 けれど、今日は特別。多恵子にしても佐倉にしても、式典と呼ばれる堅苦しい行事は大の苦手だ。どうやら佐倉も、入学式を耐えたイライラを、ニコチンで紛らわすつもりらしい。多恵子が無言でライターを差し出してやると、ローズ色の唇をきゅっと上げて笑い返した。
 「―――それにしても、佐倉が経営学部って、どうもイメージに合わないね」
 煙を吐き出してその行く末を目で追いながら、多恵子は傍らの佐倉をチラリと見遣った。
 そもそも、佐倉が同じ大学を目指していると知った時も、多恵子は少々驚いた。既にプロとして職を持っている佐倉だから、大学進学自体しないと思っていたのだ。第一、この大学は、そこそこレベルが高い。佐倉と多恵子はほぼ互角の成績ではあったが、仕事をしながら受験勉強する佐倉が合格できるとも思えなかった。勿論、そこは「努力」の2文字で切り抜けたのだが。
 「あたしは、先を見越してんの」
 ふふん、と笑い、佐倉は、組んだ膝の上で頬杖をついてみせた。
 「モデルなんて(とう)が立っちゃえばお払い箱だからね。将来は、自分でモデル事務所興したいの。大学卒業しても、まだ22じゃない? 雑誌モデルとしては、まだまだやれる年齢だから、本腰入れるのはそれから」
 「はー…。さすがは佐倉ちゃん。だてに苦労してないね」
 「ま、ね。多恵子は何でドイツ語学科?」
 「アウシュビッツの資料を原語で読みたいから」
 「―――多恵子らしいっちゃあ、多恵子らしいなぁ…」

 「おーい、そこのキミたち!」
 2人して、紫煙を目で追いながら和んでいるところに、いかにも軽そうな男の声が割って入った。
 何者だ、と思って目を向けると、まず目に飛び込んで来たのは、軽薄そうな男の顔ではなく、そいつが手にしているプラカードの方だった。
 「新入生大歓迎!」と書かれたそのプラカードは、今朝、登校してくる際に、いくつか見た記憶がある。大学の校門へと続く坂道の両端には、新入生獲得の命令を受けた部活やサークルの勧誘部員が、ずらずらと雁首を揃えていた。そいつらが持っていたのが、このプラカードだったのだ。
 軽薄そうな男は、いかにも「見てくれに自信あり」といったタイプで、実際顔はそこそこ悪くない。ただ、よくこの大学に入れたな、と思うほどに―――バカ丸出しな顔。
 多恵子と佐倉は、思わず無言で互いに目を合わせ、知らず溜め息をついた。
 「キミたちさぁ、新入生だよね? 暇してるんなら、うちのサークル入らない?」
 「…何のサークルですかぁ?」
 部外者向けスマイルもかなぐり捨てて、佐倉がやる気なさそうに訊くと、男は幾分顔を紅潮させながらまくしたてた。
 「何って、まー、楽しく遊ぶのがモットーの、なんでもサークルだよ。フリーサークルって呼んでるけどね。うちの大学のフリーサークルの中じゃ、うちが一番大きいんだよ」
 「は…そーですか。あたし、今日この後、忙しいから」
 男は、どうやら佐倉の方に、より関心を持っていたらしい。佐倉が極端に白けた態度を返してみせると、目に見えて落胆したような表情になった。佐倉は、見た目は「いかにもモデル」だが、中身は苦労人で、超がつくほどクールだ。結構外見に騙される男は多い。多恵子は男の顔を斜め下から見上げつつ、密かに笑いを噛み殺した。
 「あ、そう。…ね、そっちのキミは? 今日この後、予定ある?」
 佐倉のクールさに、それ以上食い下がるのを諦めたらしく、男は多恵子の方に目を向けた。
 「ないけど。お兄さんについてったら、何があんの?」
 「今日は、新入生集めて歓迎コンパ。あ、なんならさ、今日のコンパだけ顔出して、どんなサークルか見て行ってよ。怪しいサークルじゃないってわかってくれたら、正式加入してくれればいいんだし」
 「ふーん…なら、行く」
 「ほんと? やった! じゃー、学食んとこに午後5時半集合だから! ヨロシク!」
 男は、多恵子の了承をとりつけた途端、超ハッピーという顔になり、浮かれた足取りで去っていった。その背中をなんとなく見送ると、中庭から外へと続く回廊に佇んでいる女の子にも声をかけた。営業熱心な奴だ。
 ところでサークルの名前は何だったのだろう? ―――肝心なところが抜けている。
 「…やっぱり、バカだった」
 「多恵子、本気であんなのについてくの?」
 また呆れたような目をする佐倉に、多恵子は、たくらむような笑みを見せた。
 「バカの集団の中にも、面白い奴が1人位紛れてるもんだよ。ちょっと、探しに行って来る。僕のお眼鏡に(かな)う奴をさ」

 今を楽しむための、相手。
 お堅い進学校では、結局佐倉1人しか見つけられなかったけれど―――ここには、もうちょっと、いるかもしれない。多恵子は、それを探していた。

***

 学食に集まった人間は、ざっと数えたら40人前後もいた。当然、見知った顔はゼロだ。
 ゾロゾロと連れ立って、駅前の居酒屋に入る。40人も入れるのかと訝ったが、早い時間帯のせいか、広い店内はガラガラで、畳の席を全部借り切れば簡単に40人収容できてしまった。
 フリーサークルと称されるものが、表向きはどうあれ実態は「異性を探す目的のサークル」であること位、多恵子も当然知っていた。受験勉強でギリギリと縛られた青春を送るせいか、日本の若者は、大学生になった途端に羽目を外すらしい。羽目を外した結果が、こういう集まりな訳だ。
 愚劣極まりない―――多恵子は、極めて冷静な目で、浮かれている40名ほどの若者を眺めていた。
 でも実際には、そんな本音は欠片も見せず、率先して乾杯の音頭に加わり、豪快な飲みっぷりでビールをあおる多恵子がいる。相手が愚劣かどうかは、多恵子には関係のない事だ。とりあえず、その場を楽しめればいいのだから。
 多恵子好みな味わい深い連中と一緒に飲んでも、おそらくこういうバカ騒ぎにはならない。きっと、2人か3人で、じっくり語れるバーか何かで話すような楽しみ方になる筈だ。勿論、そんな楽しみ方の方が多恵子の好みだが、他の連中が楽しんでるようなやり方を経験できないのも、それはそれでつまらない。
 だから、利用させていただく訳だ。
 全然好みじゃない、多恵子の人生とは無縁な奴らを。

 「おおーっ! 飯島多恵子、いい飲みっぷり!」
 「ハハハ、もーダメでーす」
 大ジョッキ1杯を一気飲みした多恵子は、少々赤くなった顔でケラケラと笑い、隣に座る女の子のグラスにも手を伸ばした。
 「…けど、ユミちゃんが“あたし、もう飲めな〜い”って、さっきから泣きそうになってたので、僭越(せんえつ)ながら飲ませていただきまーっす」
 また“一気”の掛け声で盛り上がる中、多恵子はグラス1杯のビールを、あっという間に飲み干した。隣に座るユミちゃんは、そんな多恵子を、呆気にとられたような顔で見ている。
 ―――ああ、いい気分。
 ユミちゃんの“あたし、もう飲めな〜い”が演技であること位、多恵子はとうにお見通しだ。いわゆるカマトト。男の視線を意識しまくった態度に、さっきからムカムカきていたのだ。
 「良かったねぇ〜、ユミちゃん。多恵子に感謝しないと」
 「なー、多恵子! サークル残れよ、絶対! お前いると酒の場が盛り上がるよ」
 「多恵子ちゃーん、あたしのも飲んでー」
 すっかりその場の空気をさらってしまい、男たちから多恵子と呼び捨てにされるまでになっている多恵子に、ユミちゃんのバービー人形を彷彿させるくるんとカールした睫毛が、ピクピクと動いていた。怒れ怒れ、怒って本性見せやがれ、と煽る多恵子のムードを察しているのは、多分ユミちゃん本人だけだろう。
 ちょっと化粧を直してくる、と言って、ユミちゃんは席を離れてしまった。
 …なんだ、つまらない。
 多恵子の興味は、それで一気に薄れてしまった。

 「―――お前、やりすぎだぞ」
 ユミちゃんがいなくなり、場の盛り上がりも別のところへ移動したところに、誰かが多恵子にそう声をかけてきた。
 目の前の大根サラダを小皿に盛り付けていた多恵子は、その声の主に、キョトンとした目を移した。
 その男は、ユミちゃんの向こう側に座っていたらしく、多恵子は今のこの瞬間まで、彼の存在に気づかなかった。ユミちゃんの陰になってしまって、見えなかったのだ。
 明らかに、スポーツ一筋の高校生活を送ってきたとわかる、洒落っ気の欠片もない短髪。一本気そうな性格をあらわすような、きりっとした眉。リクルートスーツのような紺色のスーツを着ているのは、今日が入学式だからだろう。それで新入生だとわかったが、大きな体といい、やたら余裕ありげな風格といい、3年生か4年生と見間違えそうだ。
 場違いな奴。多恵子は、瞬間的にそう思った。
 こんな乱痴気騒ぎが似合わない奴だ。なんでここにいるのだろう?
 「やりすぎって?」
 興味が湧いた。多恵子は小皿と箸を机に置くと、軽く小首を傾げるような仕草をした。愛嬌のある大きな目で見つめると、大抵の男はそれだけでビビる。相手の度胸を試す時に多恵子がよくするポーズだ。
 だが、相手の男は、特に変化を見せなかった。憮然とした、でも、どこか心配しているような顔で、多恵子の目を見返している。
 「隣にいた女の子だよ。ムカつくのは分かるけどな、もうちょいストレートに窘める方法があるだろ」
 「別に、窘めるつもりなんかないよ。面白かったからやっただけで」
 「…にしても、その飲み方はないだろ」
 「あっは、もしかしてあんた、僕のこと心配してんの? ぜーんぜん平気。昔から酒は強いから」
 ハハハ、と笑ってそう言うが、彼の表情は変わらなかった。もしかして、さっきから頭がグラグラしているのを見透かされているのだろうか。笑いながらも、ちょっと焦る。
 「それよりさ、あんたみたいな男が、なんでここにいる訳? 僕からすりゃ、僕の血中アルコール濃度より、その方が断然気になるね」
 誤魔化し半分と本音の興味半分で、多恵子はそう訊ねた。すると男は、周囲の人間に聞かれないように、少し多恵子の方ににじり寄って、声を小さくした。
 「―――無理矢理連れて来られたんだよ、高校時代の先輩に」
 「高校時代の先輩?」
 「俺の3つ向こうの席の奴。高校時代は空手一筋の硬派な人だったのに、大学入った途端これだからな。知ってればついて来なかったぞ」
 多恵子はそれを聞いて、男の肩越しに、男の3つ向こうの席に座る人物を確認した。
 確認して、ギョッとする。さっき多恵子と佐倉に声をかけてきた、あの男だったのだ。
 「…あれが、高校時代、空手一筋だった訳? 人間違いなんじゃないの」
 「間違わねーよ。髪型は軟派に変わっちまったけど、顔自体は間違いなく本人だからな。男が足りない、怪しい集会じゃないから数合わせで来てくれ、って言うから仕方なく来たけど、なんだよこれは。男の方が多いじゃねぇか。なんで俺を誘ったのか、全然わかんねぇ」
 よほど不満を押さえ込んでいたのだろう。納得いかない、という顔で一気にそう吐き出した男の顔を、多恵子は興味津々の目で見つめた。
 ―――わかる気がする。あの男が、何故こいつを誘ったのか。
 多恵子は、ふふん、と鼻で笑ってみせた。その笑い方に、男の眉がピクリと動く。
 「教えてやろーか。あんたが連れて来られた理由」
 「…なんだよ」
 「客寄せパンダ」
 「―――はぁ?」
 「つ・ま・り―――あんたみたいな奴が混じってるとさ、女は安心する訳よ、あー、ああいう硬派を絵に描いたような人もいるんなら、このサークルは大丈夫よねー、ってさ。あんたの先輩、なにかにつけて“怪しいサークルじゃない”を強調してたじゃん。下心ミエミエな軟派な男ばっか雁首揃えてるんじゃ、さすがに女の方もウンザリだからね。かといって、絶対女とは縁がなさそうなダサい男じゃ絵にならない。あんたは“安全をアピール出来る”上に“見た目も揃ってる”っていう、いい持ち駒だった訳」
 「―――…」
 彼のキリリとした眉が、意味をなんとか理解しようとするように、ぎゅっと顰められる。1分ほど、そんな状態で黙って多恵子の顔を凝視していた彼は、考えがうまく纏まらなかったのか、苛立ったように頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
 「わかった?」
 「わかんねぇ。というより―――わかりたくねぇ」
 「なんで」
 苦虫を噛み潰したような表情の彼は、本心から腹を立てているようだ。幾分、目が据わり気味になっている。
 「九州から一人で出てきて大変だろう、俺も去年は苦労した、お前が同じ大学に入ってくれて嬉しいぞ、これからは力になってやるからな―――なんて事を言われてその気になってた自分に腹が立つ。先輩が、そんな打算で俺を連れてきたんだとしたら…」
 「だとしたら?」
 「…許せねえ。何かの形で、絶対に後悔させてやる。そんな甘言で、俺を利用しようとした事を、な」
 ドスの効いた声でそう低く呟く声に、多恵子の背中がゾクリ、と粟立った。

 ―――わお…、理想的。
 久々の、大ヒット。
 こういう出会いの可能性に賭けて、面白くも無い連中に付き合ったんだ。こんな展開でも待っててくれなきゃ面白くない。

 今を、楽しむ。こいつとなら、かなり楽しめそうだ。本能がそう言ってる。

 「―――ねぇ、あんたさ」
 ずいっ、と、ユミちゃんの席を無視して彼の方ににじり寄った多恵子は、下から覗き込むような目つきをして、彼を見つめた。
 「名前、なんて言うの」
 「? さっき自己紹介回ってきた時、言ったぞ?」
 「ごめん、隣のバカがキャーキャーうるさかったから、聞こえなかった」
 「お前なぁ、隣のバカって…―――まあ、いい」
 隣のうるささに苛立っていたのは、多恵子も彼も同じらしい。彼は、小さく溜め息をついて、やや表情を和らげた。
 「―――久保田隼雄。“はやぶさ”に“英雄”の“雄”だ」
 「はやお、か。隼雄ね。おっけー」
 「は?」

 次の瞬間。
 多恵子は、久保田の真新しいネクタイをぐいっと引っ張ると、近づいてきた唇に強引に唇を重ねた。

 「――――……!!!」
 久保田の全身が、瞬時に硬直するのがわかる。と同時に、周囲の乱痴気騒ぎがピタリと止まり、その場の空気が凍りつくのもわかった。
 時間にして、僅か2秒。パッ、と唇を離した多恵子は、驚いた顔のまま固まっている久保田に、ニヤリと笑いかけた。
 「気に入ったよ、隼雄。最高に気に入った。これから4年間、いい友達やっていこう」
 「……」
 「あれ? もしかして隼雄、これが初めて?」
 からかい半分にそう言ったら、久保田の顔が、一瞬にして真っ赤になった。どうやら、図星だったらしい。空手一筋の硬派な男だから、そういう事もあるのかもしれない、と、頭の片隅で多恵子も納得した。
 「ハハハ、そーなんだ。でも、僕も、キスの経験は佐倉とした1回きりだから、これが2回目だよ。ま、諦めな」
 そう言ってケラケラと笑い、久保田の背中をバン! と叩く多恵子に、誰も、何も、言えなかった。…勿論、久保田本人でさえ。

 

 飯島多恵子、大学生活、第1日目。

 見通しは、予想よりは明るそうだ。


アウシュビッツ・・・ナチス・ドイツの時代に、拘束されたユダヤ人が送られた捕虜収容所の1つ。毒ガスによる大量殺戮で有名。

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