Psychedelic Note | size: M / L / under800x600 | |
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明け方、まだ早い時間に目を覚ましてしまったシンジは、むくりと起き上がり、大きく伸びをした。
寒かった。ぞくっと寒気がして、くしゃみを一つする。まだ3月―――暦の上では春とはいえ、明け方の冷え込みは冬のそれに近い。Tシャツで寝るのは早すぎたかな、と、自分の服装を見下ろして反省した。
傍らを見下ろすと、しっかりと布団にくるまっている多恵子がいた。右の頬が上になるような形で、横向きに寝ている。その耳には、4つのピアスが光っていた。
もう一度眠るか。それともこのまま起きるか。どっちの欲求が強いか曖昧な感じなので、そのままぼんやりと多恵子を見下ろし続ける。肩が微かに動いているので、ああ、ちゃんと息をしてるんだな、と確認でき、ちょっと安心する。そうやって、細かい動きを見つけては、多恵子が生きてる事を確認する癖が、ここ数ヶ月ですっかり身に付いてしまっていた。
ふいに、多恵子の瞼が、僅かに動いた。が、目を覚ました訳ではなさそうだ。睫毛が、小刻みに震えている。
―――夢…見てるのかな。
首を傾げるような仕草で、多恵子を見下ろす。まだ頭は、完全には覚醒しきっていない。
「―――陸…」
多恵子が、小さな声で、呼ぶ。
いつも、そうだ。彼女が夢で呼ぶ名前は、“陸”ただ一人―――シンジの名前も、ただ一度、シンジをその人に置き換えて抱かれた人の名前も、一度も呼んだ事はない。
“陸”―――誰だろう…?
「―――“そら”は…」
「“そら”?」
「―――“そら”まで…あと、どれ位―――…?」
“そら”―――どこだろう…?
どちらの答えも、知らないけれど―――シンジは、多恵子の耳元に口を寄せ、答えた。
「まだ、ずっとずっと遠いよ。…だから、ゆっくり眠ってて」
その声は、多恵子の夢に届いたのだろうか。多恵子は、また静かな寝息をたて始めた。
***
「え、知らなかった。久保田君と沙和ちゃん、いつ別れたの?」
「今年の2月頃」
中庭のベンチで一服しつつ、多恵子があっさりとした口調で答える。佐倉は、驚いたようにその切れ長な目を丸くした。
「今、5月―――ってことは、ええ!? あたしってば、3ヶ月も気づかなかった訳!?」
「無理もないさ。別れたあたりは期末試験の真っ只中だったし、春休みは佐倉、目一杯仕事入れて忙しかったじゃん」
「…そう言えば、そうだった。ふーん…。まあ、人の噂も七十五日、って言うからね。いい頃合だったんじゃない」
実際、沙和の自殺未遂騒動は、当初一部の学生の間で噂にのぼった位で、年明け頃にはすっかり忘れ去られていた。2月まで伸びたのは、むしろ沙和の問題だった。1ヶ月ほどの交際の間に、沙和はすっかり久保田に依存する癖がついてしまっていたのだ。
1人じゃ寂しい、と泣く沙和に負けて、ずるずると付き合い続ける事、更に1ヶ月。たまには外で遊んで来い、と、半ば無理矢理参加させたコンパで、経営学部に在籍する同期生と意気投合したらしく、その数日後、久保田に「今までありがとうございました」と別れを告げに来た。
だから、対外的には、久保田は沙和に振られた事になっている。それでいいんだ、と久保田は苦笑していた。
全く―――どこまでも、久保田隼雄らしい、ボランティア精神。
「午後のコマなるべく取らずに済むようにしてるしねぇ。久保田君の顔なんて、もう1ヶ月以上見てないかも」
「そんなに忙しいんだ? 売れっ子佐倉ちゃん状態?」
「売れっ子まであと一歩佐倉ちゃん状態」
「ハハ、何それ」
「売り出し中ってこと。おかげで顔見ないヤツが増えた増えた―――あ、でも、成田なら、飽きる程顔見てるよ」
煙草の灰を灰皿に落としていた多恵子の手が止まった。大きな目を余計大きく見開き、佐倉の顔を凝視した。
「なんで? 学部も学年も違うのに」
「違う違う。大学で、じゃなく、スタジオで。あいつ、この春休みから、六本木のスタジオでバイト始めたのよ。スタジオスタッフの。あたしの所属プロがご贔屓にしてるとこだから、週に何度も足運んでるの。初めてスタジオで顔あわせた時、すごーく嫌そうな顔してた」
「へええ…、知らなかった。最近屋上で見かけないとは思ってたけど。真面目にやってんの?」
「真面目真面目。あいつ、性格相当捻じ曲がって変だけど、写真についてはマジだからね」
そう断言する佐倉の顔は、幾分紅潮している。まるで、恋人の話をするみたいに。誰に関してもクールな表情を保つ佐倉の珍しい表情に、多恵子は、密かに笑みを浮かべた。
佐倉は、瑞樹にかなり興味を持っている―――といっても、彼本人に、というよりは、彼の写真に。
佐倉の興味は、常に仕事と直結している。その例外は、せいぜい多恵子くらいのものだ。フィットネスに通ってるのも、経営学を学んでいるのも、久保田に一目置いているのも、全ては今と将来の仕事を見据えてのもの―――瑞樹も、そういう佐倉の思考パターンの一部だ。自分を撮るカメラマン。その位置づけとして、瑞樹の写真の腕に一目置いている。
趣味の域から出る気がなさそうなんだよね、と、瑞樹の写真を批判する度、面白くなさそうに佐倉は呟く。だから、一歩プロの道に近づいた事を意味する瑞樹の今回のバイトは、佐倉にとっては朗報なのだろう。
佐倉は、久保田と似ている。多恵子はいつも、そう思う。
自分の道を、実力で切り拓いていくタイプ。今の足元をしっかりと固め、将来を見据え、そのために一歩一歩、確実に前に進んでいくタイプ。大海に泳ぎだそうとする、逞しい大型の魚―――いつか、シンジと初めて会った時の連想を思い出す。まさに、そんな感じだ。
シンジはやっぱり、優雅に水槽の中を泳ぎ回る、綺麗な熱帯魚だ。そして多恵子は―――やっぱり、水槽の底にへばりついた深海魚。回遊魚も、熱帯魚も、多恵子の頭上を泳いでいる。
―――成田は、何かな。
多恵子はふと、そんな事を思った。
瑞樹を魚に喩えるならば、何になるだろう? 自分と同じ世界に住んでいると思ったけれど、彼を深海魚に喩えるのは無理そうだ。彼は、泳ぎに長けている。もしかしたら、佐倉や久保田のような大型の泳力のある魚よりも。
―――竜、かな。
そう。竜だ。日頃、海の底にゆったりと寝そべって、どんなに海が荒れようとも、じっと動かない。多恵子のいる深海で、まるで死んだように眠っている。けれど、ふとした瞬間に、生き返る。泳ぎだす―――誰も泳げない場所まで。…そんな、伝説でしか存在しない、生き物。
面白い―――海なんて、大嫌いなのに。
できれば一生、行きたくない場所なのに。
海の中を想像すると、世界がクリアになる。それは、「そら」が、海と直結しているからかもしれない。多恵子の中では、海とはそういう場所だから。
今度、シンジに、海底を泳ぐ魚の絵を描いてもらおう―――多恵子はそう思い、煙草をくわえて僅かに微笑んだ。
多恵子、大学3年目の春。
不思議なほどに、穏やかで、優しい春だった。
***
多恵子が、そのアルバイトの話をシンジに持ってきたのは、5月も半ばに差し掛かった頃だった。
「は? モデル?」
「の、代役。頼んでたモデルが、階段転げ落ちて、全治3週間なんだってさ」
「…しかも、スーツ?」
「の、シルエット。佐倉の後ろにぼんやり写るだけ。顔なんてほとんどわからないよ。あー、男の人がいるかな、とわかる程度でOK」
渋谷の雑踏の片隅に胡坐をかいているシンジは、ポカン、と、そこに立っている多恵子を見上げていたが、全ての単語が頭の中でやっと綺麗に並べ終わったところで、突然スイッチが入ったように、ぶんぶんと激しく首を横に振った。
「無理! そんなの出来るわけないって!」
「なんでぇー? シンジって綺麗じゃん」
「き、綺麗…」
男としては不本意な形容詞だったのだろう。シンジは、気落ちしたようにうな垂れた。
「でもほんと、シンジは綺麗だよ?」
地面に置かれた立て札をちょっとどかして、多恵子はシンジの隣に腰を下ろした。膝を抱え、ちょっと夢見るような表情でシンジを見つめる。
「シンジ見てるとさ、水族館の大きな水槽思い出す。キラキラした熱帯魚がたくさん泳いでてさ―――その中で、黒と白のツートーンで泳いでる、カッコイイ魚。あれがシンジ」
「…エンゼルフィッシュ?」
「そう。グッピーとかネオンテトラみたいに派手に光ってなくて、でも見てて幸せな気分になるような、シンプルで綺麗な魚…あのエンゼルフィッシュが、シンジ」
シンジの顔が、少し赤くなる。悪い気はしていないらしい。
「実はさ、大学でも何人かあたりは付けたんだよね。佐倉、写真部によく出入りしてるから、そこの連中とか。けど、やる! って言い出す奴は見た目でOK出なくて、こいつイメージだよなぁ、という奴は、死んでも出るか、って拒否するし…。なんか、男男してない、そこはかとなく中性的なモデルを探してるんだってさ」
「一体どういうコンセプトのポスターなんだか…。中性的で、スーツって」
「気にしない気にしない。やってみようって。絶対面白いよ。佐倉にも会えるしさ。あ、それにさ、撮影場所って、六本木にあるスタジオなんだけど、そこで僕の大学の後輩が働いてんの。そいつも見れるからお得だよ?」
そう言った途端、ふいに、シンジの表情が僅かに曇った。急に気が重くなったみたいに、視線を地面に落とし、しばし押し黙ってしまう。
そんなシンジの変化に、多恵子はクスリと笑い、一言付け加えた。
「―――大学の仲間は、その2人だけ。あとはスタッフばっか」
「…そっか」
“隼雄は、来ないよ”。
そう、ストレートに言われるのと、シンジにとっては、どちらが良かったのだろう?
シンジの返事は極短かったが、その表情は、複雑だった。
***
翌週の土曜日。まだ半分乗り気でないシンジを半ば引っ張るようにして、多恵子は六本木のスタジオへ向かった。
スタジオの入り口で2人を出迎えた佐倉は、自己紹介そっちのけで、シンジを四方八方から眺めだした。
「ふふーん…なるほど、上背は合格。顔だちも、ちょっと日本人離れしてるね。階段転げ落ちたモデルより上じゃないかな。肩幅が微妙に足りないかなぁ…このジーンズ、リーバイス?」
「…いや…どこのだか知りません…」
「どれ。…あー、エドウィンね。もっと細い、タイトストレートとか選んだ方が似合うんじゃない? せっかく腰の位置が高くて脚も真っ直ぐで細いのに、こんなダボダボのジーンズじゃスマートじゃないでしょ。上も、パーカーじゃなくパリッとしたジャケットにすれば、もっと映えるなぁ」
と言いつつ、ジーンズの上からシンジの脚の位置を手で触って確認したりしている。初対面でのいきなりのボディタッチに、シンジは救いを求めるような目を多恵子に向けた。シンジが泣きそうな顔になるほどに、多恵子は可笑しくて笑いが止まらない。
最後にポン、とシンジの肩を叩くと、佐倉はにっこりと笑った。
「ん、OK。多恵子、いいの連れてきてくれたわ。あたし、佐倉みなみ。うちの事務所のモデルがコケちゃったから、事務所内でなんとか代役を見積もるしかなくて途方に暮れてたのよ。助かるわ、シンジ君」
「あ、いえ、どうも…」
―――これが、“お気に入り第1号”か。
名前を聞いて、シンジはやっと合点がいった。確かに、多恵子から聞いていた通りの人物だ。
シンジは、多恵子の“お気に入り”の名前位は、ほぼ頭に入っている。軽音楽部のツネさんとカズミ、ドイツ語学科の同期のシノブちゃんに高木君にユタカ、ちょっと理由ありな英語科の沙和ちゃん―――そして、久保田隼雄。中でも「佐倉みなみ」の名前は、話題にのぼる事が多かった。
「さっそく、スタッフに顔合わせてもらって、スーツ試着してもらうから。ついてきて」
そう言って先に立って歩き出す佐倉の後を追って、シンジと多恵子も歩き出した。前を行くシャキッと背筋の伸びた後姿に、佐倉みなみのモデルとしてのプライドを感じる。
「…凄いね。まだ20歳だろ? プロだなぁ…。放ってるオーラが違うよ」
「将来の夢はモデル事務所社長だからね。綺麗さだけでカメラの前に立ってるモデルとは、ちょっと違うよ」
スタジオは、小洒落た一軒家の趣で、キッチンやリビングなどが再現されている。そういったシチュエイションを想定しての撮影向けのスタジオらしい。大きなガラス窓の向こうに、ちょっとしたプールが見えた。その脇には小さいながらもイングリッシュ・ガーデン風の庭もあるので、外でも撮影可能なのだろう。
歩きながらも多恵子は、始終キョロキョロして、どこかで働いている筈の瑞樹の姿を探した。が、撮影準備にかかりっきりになっているのか、その姿を見つける事はできなかった。
***
多恵子がやっと瑞樹の姿を見つけたのは、シンジがスーツに着替えさせられて、撮影のための打ち合わせをテラスで始めた時だった。
おそらく、スタッフの中では一番下っ端であろう瑞樹は、大型の機材を、もう一人の学生風のスタッフと一緒に運んでいた。室内での撮影を予定していたのが、急遽、庭に面したテラスでの撮影になったので、照明やレフ板を運ばなくてはいけなかったのだ。
おおーい、という風に多恵子が手を振ると、それに気づいた瑞樹は、ギョッとしたように目を見開き、一瞬その場にフリーズした。が、仕事が忙しいのか、それとも多恵子に捕まるのが嫌なのか、数秒後にはフリーズを解除して、仕事を再開した。
―――ちぇ、つまんない。
落胆したように、プールサイドのデッキチェアに座り込んだ多恵子だったが、もし瑞樹を呼び止めることが出来たところで、彼と何を話せばいいのかなんて、本当はわからないでいた。
何か、訊きたい事がある気がする。
1年と少し前、屋上で喉元に剃刀を突きつけられた瞬間から、ずっと―――何度も何度も、口にしかけて、飲み込んできた質問がある気がする。けれど、それが何なのか―――多恵子自身にも、わからなかった。
ただ、彼なら、知っている気がして。
多恵子が知る中で最も「そら」に近い所に住む彼なら、知っている気がして―――…。
「ハイ! そろそろ始めますよー! 自然光がいい具合に射し込んでるうちに上げちゃいたいんで、テンション上げ気味でお願いしまーす!」
その掛け声に、多恵子は顔を上げ、テラスの方を見た。
余裕の表情の佐倉の背後に、まな板の鯉状態のシンジが立っている。多恵子がこちらを見たのに気づき、力ない笑顔を見せた。
秋冬物のシックなスーツに袖を通したシンジは、多恵子の知らない人に見える。やっぱり、綺麗だ―――ふわりと柔らかな笑い方も、色素の薄い柔らかめの髪も、少し日本人離れした優しげな顔も。スーツを着ると、そのシンジの綺麗な部分がより際立って見える。柔らかなものを、カチッと硬い物で覆った感じ。そのミスマッチが、それぞれの硬さと柔らかさを強調しあっているみたいだ。
佐倉の方は、毅然としていた。ワインレッドのフォーマルワンピースに身を包んだ佐倉は、髪をパーティー風に纏め上げ、フラミンゴのような長い首を晒している。けれど、少しもいやらしさを感じさせないのは、佐倉のキャラクターだと思う。涼しげな目でカメラを見据え、口の端を綺麗に上げて微笑んでいるその姿は、若干20歳とは思えない程、さまになっていた。
―――綺麗だなぁ…。
夢の世界みたいだ。
多恵子は、カメラマンの指示に従ってぎこちなく動くシンジと、まるで流れるような動作でポーズを変えていく佐倉を、しばしうっとりと眺め続けた。
深海から、頭上を泳ぐ魚たちを見ているような気分―――水の層を抜けた先にある青い空、そこから降り注ぐ太陽の光を浴びながら、キラキラと鱗を輝かせて泳ぐ、魚たち。
魅せられる―――別世界に。
佐倉にコートを着せるために、撮影が一旦ストップした。多恵子はほっと息をつくと、視線をプールの方に移した。
プールにはられた水の
水は、まだはり替えられたばかりらしく、少しの濁りもない。プールの底の模様が、光の反射の狭間に見え隠れしている。
―――水。
その、向こうに、あるもの。
見た気がする。ずっと前―――「そら」へと通じる、その入り口を。
ここからでも、見えるかな。
多恵子は、それを確かめるように、少し身を乗り出した。
まるで、水に魅入られたように。
***
慣れないカメラの前で、シンジは落ち着かない気分をずっと味わっていた。
そんな彼が、撮影の間ずっと見ていたのは、実はカメラではなく、シャッターを切るカメラマンを少し後ろで見ている、1人のスタッフの顔だった。
撮影クルーの一員ではないらしい。多分、このスタジオの従業員―――まだどことなく少年ぽさの残るムードからすると、アルバイトなのかもしれない。部外者です、という感じに、明らかに撮影の輪から外れた所で、彼は食い入るようにして、カメラマンの動きをじっと見ていた。まるで、その撮影風景を、その目で残らず録画してしまおうとするみたいに。
―――真剣なんだなぁ…。
多分、将来はこの世界で生きていこうと思ってるんだろうな、と、シンジは感じた。
写真と、絵画。ジャンルは違えども、捨てきれない表現の世界を持っている者同士、シンジは彼になんとなく親近感を覚えた。
「シンジ君、案外度胸あるね。カメラの前で、ちゃんと落ち着いて立ってられるじゃない」
佐倉の声に、シンジは我に返った。どうやら、何かセッティングが変わるらしく、スタッフがバタバタと動き出していた。
「あ…いや、別に、落ち着いてる訳じゃ」
にこやかな佐倉に、慌てて困ったような笑顔を返す。落ち着いてた訳じゃない。カメラと全然違うものを見て、考え事に没頭していただけだ。カメラマンの指示はそれなりに耳に入ってきて、それに合わせてぎこちなくポーズを変えたりはしたが、一度もレンズを直視した記憶はない。
「フリーターだってね。よかったら、うちの事務所に登録しとけば? キミ、見てくれに雰囲気あるし、またお声がかかるかもしれないよ?」
「う…っ、そ、それは、遠慮しときます…」
「あははは、ほんと、控えめな性格ねぇ」
冗談ではない。こんな冷や汗ばっかりかく仕事、二度と御免だ。
シンジは、助けを求めるように、多恵子の姿を探した。最後に見た時、デッキチェアの所にいた気がするが―――。
そう思って、視線をプールサイドに移した次の瞬間。
シンジの心臓が、凍りついた。
まるで、スローモーションのフィルムを、見ているようだった。
多恵子が、水底にある何かを見極めようとするみたいに、身を乗り出す。ほんの少し―――そして更に、バランスの限界を超えて。
彼女に、その意図はなかったのかもしれない。
けれど、水をはった際に濡れてしまったプールサイドは、滑りやすいサンダルを履いている多恵子の足には、危険すぎた。足をとられ、バランスを崩す。
驚いたように、多恵子は、足を前に1歩、踏み出した。おそらくは、崩れたバランスを立て直すために。
けれど。
1歩踏み出した先は、地面じゃなかった。
「多恵子!」
叫んだのは、シンジだろうか。それとも、シンジの視線を追って振り返った、佐倉だろうか。
その叫び声と前後して、多恵子の体は、派手な水音を立てて、プールの中へと引きずり込まれた。
驚いて、スタッフ全員、振り返る。片方だけプールサイドに残されたサンダルに、事態はすぐに理解できたのだろう。既に駆け出していたシンジを追うように、全員がプールサイドへと急いでいた。
「多恵子っ!」
プールサイドに着くと、すぐ、水中の多恵子の姿は確認できた。
落ちてから10秒以上経ったのに、多恵子は浮かんできていない。溺れて足掻いてる様子もない。でも、シンジは直感していた。今のは、死ぬ気じゃなかった。間違えて落ちたんだ―――じゃあ何故、浮かんでこない?
スタッフが止める声が聞こえた気がしたが、シンジは構わず、プールに飛び込んだ。飛び込んだ後で、自分が着ているスーツが撮影のためのクライアントの物である事を思い出したが、そんな事には構っていられなかった。
多恵子は、水中でも、びっくりしたように目を見開いていた。唇をぎゅっと閉ざし、息を詰めている。驚きが息苦しさを上回っているのだろうか? 落ちた時に咄嗟に取った、少し体を丸めるような防御の姿勢のまま、硬直している。
シンジは、その脇に腕を滑り込ませると、必死に足掻いて水面へと引っ張り上げた。頭が水面に出ると、多恵子の重みでまた沈みそうになる。慌てて、プールサイドに手をかけた。
「シンジ君! こっち!」
「ああああ、みっ、みなみちゃんっ! ダメ! その服、1着しかないんだからっ!」
2人を引き上げようと身を乗り出す佐倉を、スタッフが大慌てで引き戻していた。その代わり、カメラマンの助手をしていた男性が、プールに飛び込んでもう片側から多恵子を引っ張り上げてくれた。
他のスタッフも、シンジや多恵子の体のどこかしらを掴んで、引っ張ってくれる。約2分後、多恵子は無事、プールサイドに横たえられた。
「多恵子! 多恵子、しっかりしなさいっ!」
抱き上げた多恵子の体にバスタオルを巻きつけ、佐倉がペチペチとその頬を叩く。が、多恵子は、沈んでいた時と同じ目を見開いた状態のまま、ピクリとも動こうとしなかった。驚いた時の状態のまま硬直しているのか、唇を噛み締めたままでいる。かなりの力なのだろう。噛み締められた下唇が、僅かに血が滲み始めている。呼吸をしている様子がないが、人工呼吸しようにも、これでは出来ない。
無理にでも抉じ開けるべきなのだろうか、と焦る頭で考えた時、シンジの後ろから、誰かの腕が伸びてきた。
「あ…!」
佐倉やシンジが驚く間もなく、その手は、多恵子の着ている迷彩柄のシャツの襟元を掴み、ぐい、と体を起こさせた。
そして次の瞬間、女性に対してとは思えないような強烈な平手打ちが、多恵子の左頬に振り下ろされた。
バン! と、生々しい、頬を打つ音。多恵子の体は、勢い、右にぐらっと傾ぎ、頬を打たれた衝撃で、噛み締めていた唇が離れた。
「―――…っ! は、…あ…っ!」
やっと止めていた息を吐き出した多恵子に、考える隙を与えないかのように、今度は反対の頬が打たれる。その衝撃で、多恵子は本能的に、吐ききった息を大きく吸い込んだ。
「止めるな! ちゃんと息しろ!」
その言葉に従うように、陸に上げられた魚みたいに、何度も何度も、苦しそうに喘ぐ。時折咳き込みつつも、間違いなく呼吸をしている。
苦しさのあまりか、それとも平手打ちの痛みのためか、多恵子の目から涙が零れる。その場にいた全員、しばし唖然とした表情でそれを見ていたが、とりあえず呼吸をしてくれた事を悟り、一同、ほっと安堵の息を吐き出した。
「…と…とりあえず、この子、中に連れて行こう。みなみちゃん、貸して」
スタッフの中で一番体格の良い男性が、多恵子を抱き上げた。その際、襟元を掴んでいた手が離れ、多恵子はスタッフの手の中にくたりと崩れ落ちた。
とにかく、助かった―――シンジの体からも、やっと力が抜ける。はーっ、と大きく息をついて、その場に座り込んでしまった。
「…感謝はするけどさぁ…。成田、あんた、ちょっと乱暴すぎない?」
ワンピースの裾を気にしつつ立ち上がった佐倉が、シンジの背後を睨んで、そう言った。
その視線を追うように目を動かしたシンジは、多恵子を殴りつけたのが、さっきまで自分が見ていたあのアルバイト風のスタッフであることを知った。それで、思い出す―――大学の後輩がこのスタジオで働いている、という、多恵子の言葉を。
―――成田。でも、聞き覚えの無い名前だ。
「あんたらが甘すぎるんだろ。飯島さんが窒息死すんのと、どっちがマシだよ」
佐倉に睨まれた彼は、憮然とした表情でそう答え、踵を返した。仕事に戻る気なのかもしれない。シンジは慌てて立ち上がり、その彼の腕を掴んだ。
「あの…っ!」
知らない男にいきなり腕を掴まれた彼は、怪訝そうに眉を上げ、シンジの顔を見た。黒い瞳―――でも、どこか独特な色合い。絵の具で再現するのが難しそうだな、と、この場に全く似つかわしくない事をふと思いながら、シンジは一度、唾を飲み込んだ。
「あの―――もしかして、君が、“陸”?」
「…は?」
怪訝そうな顔が、余計怪訝そうになる。
―――違うのか…。
一瞬、そんな気がしたんだけれど―――内心、ちょっと落胆した。
今、どんな名前よりも、シンジが一番気にかけている名前―――“陸”。多分、多恵子にとっては、重要なキーワード。それがわかれば―――多恵子を、この世に留め置くことができるんじゃないか。そんな予感がして。
「違います」
「…あ…、そう、なんだ。ゴメン」
―――なんで、だろう。
何故、この人が、“陸”のような気がしたんだろう…?
***
シンジのアパートまで帰りついたのは、夜の9時を回ってからだった。
スーツは替えがあったので、即座に着替えて撮影を再開できたが、撮影が終わってからが結構大変だったのだ。佐倉とその事務所の人間が、シンジをスカウトしようと躍起になっていたのだ。
多恵子が眠ってしまっていたのもあって、目を覚ますまで、と引き止められ、延々と口説かれた。途中、何度か瑞樹が通りかかったが、困り果てているシンジを遠くから見て、同情を含んだ苦笑いを見せていた。
「…シンジって凄いね」
「え?」
アパートの前まで来たところで、多恵子がポツリと、そう呟いた。
アパートの窓からは、灯りが見えない。どうやら同室の2人は、既にアルバイトに出てしまったようだ。シンジはポケットから鍵を取り出しながら、傍らの多恵子を見下ろした。
「凄いって?」
「あの成田と、仲良くなっちゃうなんてさ」
「…そう? 彼、とっつきは悪いけど、いい奴じゃない?」
実際、瑞樹は、最初こそ憮然としていて機嫌が悪そうなイメージだったが、シンジが絵をやっている事や、シンジの兄の件を知ると、その表情を少し和らげ、仕事の合間にぽつぽつと話相手になってくれた。絵と写真という違いはあるが、同じ「心惹かれたものを写しとる」という作業を趣味としているせいか、思いのほか話は弾んだ。多恵子に凄いと言われるほどの事は、何もない。
「成田って、大学じゃ有名なんだよ。友達も恋人も要らない一匹狼って」
「ふーん、そうなんだ。…じゃ、アレかな。やっぱり、オレの兄貴の話が効いてるのかもな」
「兄貴?」
ガチャッ、と玄関を開けると同時に、多恵子が、怪訝そうな声をあげる。部屋の電気をつけると、多恵子の驚いたような顔がそこに浮かんだ。
「シンジ、兄貴がいるの」
「いたの」
多恵子の表情が、更に変わった。
凍りついたような、愕然とした顔―――その変化がちょっと気になったが、シンジは、多恵子を招き入れて玄関を閉めながら、続けた。
「フォト・ジャーナリスト目指してたんだ、兄貴。オレとは5つ違いだったんだけど―――オレが16の時に、白血病だってわかって…間に合わなかった」
「……」
「優しい兄貴だったよ。…だからオレ、人が死ぬの、苦手なんだ」
多恵子の大きな瞳が、動揺したように揺れた。泣き出しそうな目に見える。シンジは、その目から逃れるように畳の上に腰を下ろし、胡坐をかいた。今日見た光景を思い出して、知らず、手が震える。
「…今日みたいなの、ホント、勘弁して。死ぬ気じゃなかったの、オレ、わかってるけど―――それでもやっぱ、辛い。多恵子が目の前で死にかけるのは」
「…ご…めん」
「―――多恵子が、いつかは行っちゃう事、覚悟はしてるけどさ。止める権利もないけど、でも…」
その続きを、シンジは口に出来なかった。
ストン、と、多恵子が、シンジの前に腰を下ろした。
見たこともない程に、哀しげな―――寂しげな、顔。余りにも日頃と違うその表情に、続きの言葉を飲み込む。
多恵子の手が、シンジの両肩を掴んだと思ったら、そのまま後ろへと押し倒した。
「多恵子…?」
どうしたの、と訊こうとした唇を、多恵子の唇が奪った。
強引すぎる、荒々しいキス。一方的に口内を探られ、慣れているシンジでも、応えるだけの余裕はなかった。すぐに思考が止まる。ただ息苦しくならないよう、必死に呼吸をコントロールする。
ぼんやりしてくる頭の片隅で、多恵子の細い指がパーカーの中に潜りこんでくるのを感じた。え? と思った次の瞬間には、パーカーを首のあたりまでたくし上げられていた。
「…っわ! な、なにっ、多恵子っ!?」
さすがに、平気ではいられない。全力で多恵子の肩を押しやり、唇を離させた。
確かに多恵子は積極的なタイプだが、こんな一方的なのは初めてだ。しかも、いつもみたいに笑ってないから、余計戸惑う。グラグラする頭をなんとか立て直し、なおもシンジの服を脱がそうとする多恵子の手を掴んだ。
「ス、ストップストップ! ど、どうしたんだよ、急に!」
「……っ」
―――微かに、しゃくりあげる、声。
眉をひそめたシンジは、少し体をずらして、多恵子の顔を下から仰ぎ見た。その頬に、ぽたん、と冷たい雫が落ちる。
多恵子は、泣いていた。
声をあげずに、肩を震わせながら、シンジを見下ろして泣いていた。
「…多恵子…、どうしたの…?」
「―――寒いの」
声が、掠れる。まるで小さな女の子みたいに、しゃくりあげながら搾り出される、声。
「まだ、行かないから―――まだ行けないから、シンジ…私を、繋ぎ止めてよ」
“私”。
初めて、耳にした。多恵子が自分を、そう呼ぶのを。
もしかしたら―――これが、本当の多恵子かもしれない。泣きじゃくりながら、震えながら、生と死の狭間で道に迷ってる、女の子。
―――でも、どうして、急に?
「いつかは、行くの。そうしなきゃいけないの。でも、今だけ―――まだ死んでないって、確認させてよ。でないと、私、また手首切って血が流れてるかどうか確認しなくちゃいけない」
「…ダメだよ…そんなことしちゃ」
「―――だったら…お願い…」
「…うん。いいよ」
おいで、という風に両手を広げてやると、多恵子はシンジの胸の上に崩れ落ちてきた。その体は、氷水の中にでも突き落とされたみたいに、ガタガタと震えていた。
***
―――「そら」まで…あと、どれ位―――…?
深夜、灯した枕元のライトの中で、シンジは多恵子の寝言を思い出していた。
「そら」―――シンジには何故か、それが死を意味しているように感じられて仕方なかった。だから、答えた。まだ遠い、と。
遠いけれど―――必ず行き着く。多恵子のその覚悟だけは、揺るぎない。どれだけ繋ぎとめようとしても、必死に掻き抱いても、ずっと一緒にいようとは言ってくれない。
…なんで、この地上に留まる方を選択してくれないのだろう?
「…シンジ…」
ふいに、眠っている筈の多恵子が、シンジの名を呼んだ。
驚いて見下ろすと、どうやらこれも寝言のようだ。シンジは、息をつめて、多恵子の声に耳を澄ました。
「シンジ…お兄さん…どこ…?」
「―――…」
「…お兄さん―――…陸、見なかった…?」
「―――見なかったよ」
そう答えると、多恵子の頬に、涙が伝った。
―――お兄さん―――どこ…。
「“そら”……」
口にして、実感した。
そして、なんとなく、理解した。多恵子が今漂っている、その世界を。
暫く多恵子の寝顔を見下ろしていたシンジは、大きな溜め息をつき、その髪を軽く梳いた。
手を伸ばし、枕元に放置していたスケッチブックを手にする。何も描かれていないページを開いたシンジは、少し考えた後、鉛筆をその表面に走らせ始めた。
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