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09 : Misericorde-ミセリコルデ-
*Misericorde…フランス語の「慈悲」の意。中世の騎士の間では、重傷を負った仲間を苦しみから解放すべく
とどめを刺すために使う長剣を、こう呼んでいた。

 夏が、音も無く、やってくる。
 多恵子は、その、現実には聞こえない音を聞きながら、鏡の中の自分を見つめた。
 鏡を見ていると、時々、不思議な気分になる。
 人は、そこに映る自分を見て、今の自分の外見を確認するものだ。けれど―――何故、そこに映ってるのが、間違いなく「自分」だとわかるのだろう? 鏡の向こうから、何かの意図を持って投射された、偽りの自分の姿だとは思わないのだろうか?
 今、多恵子の視線の先にいるのは、去年より若干淡い色の紫のメッシュを髪に入れた、青白い顔の、ボーイッシュな服装の女の子だ。目が大きく、そばかすが目立ち、唇の色があまり良くない、素顔の多恵子。
 目、鼻、口、耳―――パーツの中に、一生懸命探す。あの人の、痕跡を。
 けれど、今年もやっぱり、見つからない。
 喜べばいいのか、落胆すればいいのか、それさえも多恵子にはわからない―――今も。

 明日は、21回目の誕生日。
 また、一年中で、二番目に嫌いな日が、やってくる。

***

 「これは、だーめ。置いてきなさい」
 ポーチの中から剃刀を発見したシンジが、子供を窘めるみたいな口調でそう言って、剃刀をぽい、と机の上に投げ出した。
 「…それ、常備してないと、落ち着かないんだけど」
 「駄目。あと、鏡も没収」
 「はああ!? なんで!」
 「多恵子、気づいてる? 多恵子って、長時間鏡見てると、だんだん目が据わってくるんだよ」
 「…よく観察してるね…」
 「というわけで、没収。あとはー…別に変な薬もないし、刃物の代わりになる物もないし、いいかな。ロープを隠し持ってるとか、ないよね?」
 「ある訳ないじゃんっ!」

 久保田から、誕生日当日にジャズのライブに誘われたのは、半月ほど前だ。
 と言っても、それは「ジャズ同好会のイベント」であって、個人的なお誘いではない。そういうのだと、目的がミエミエで、多恵子が警戒するのを知っているからだ。
 誕生日―――毎年繰り返される、死のイベント。
 おととしも、去年も、多恵子は本気で死ぬ気だった。けれど、どちらも久保田に阻まれた。今年は、どうやら試みる前から阻む気らしい。名ばかりのジャズ同好会のメンバーである佐倉が、モデルのアルバイトで知り合いになったのを利用して、あろうことかシンジまで誘ってきたのだ。久保田と結託して多恵子のイベント阻止を狙ってきたのは明らかだ。
 にしても―――まさかシンジが、その誘いに乗るとは予想外だった。
 おそらく、佐倉に入れ知恵されたのだろう。誕生日の日曜日、いつものようにシンジのアパートで目が覚めた多恵子を待っていたのは、空港でもここまでしないよ、という手荷物検査だった。

 「こんなの、シンジじゃない…」
 唇を尖らせてそう言うが、シンジはいつもの柔らかな笑顔を崩さず、先に玄関に向かい、スニーカーの紐を結びなおし始めた。
 「いいよ、オレっぽくなくても。オレも心配だったんだ。誕生日、オレ一人で多恵子の暴走止められるかな、って」
 「暴走なんかしないって。2人でダラダラ過ごそうよぉ。その方が楽しいよ」
 「ジャズライブも楽しいでしょ。それにほら、成田君にも会えるし」
 「いらないよっ、あんなやつっ」
 「いいから、ほら、行こう?」
 誘うように言われ、多恵子も渋々、重い腰を上げた。チラリと机の上に視線を向けたが、さっき放り出した筈の剃刀は、もうどこかに仕舞われてしまっていた。用意周到なことだ。多恵子の目に触れる前に、隠してしまったのだろう。

 ―――今年は、駄目なのに。

 今年は、是が非でも成功させなくてはいけないのに。

 とりあえず、ライブの間は、諦めるしかないのかもしれない―――溜め息をついた多恵子は、若干軽くなったバッグを手に、玄関に向かいかけた。そこでふと、壁際に立てかけてあるイーゼルに目をとめた。
 「…ねぇ、シンジ。この間から思ってたんだけどさ、その絵って、何?」
 「え?」
 多恵子の視線が、白い布が掛けられたイーゼルに向いてるとわかると、シンジは、ちょっと困ったような笑顔を見せた。
 「ナイショ」
 「…なにそれ。気になるよ」
 「完成したら、誰よりも先に、多恵子に見せてあげるから」
 1ヶ月ほど前から見かけるようになった、イーゼルの上の絵。土曜日、泊まりに来る度、あの布を取り払って絵を盗み見てやろうと一瞬思うのだが、何故か出来ずにいた。
 見るのが、怖い―――多恵子は何故か、そう感じていたのだ。


***


 ライブ会場に現れた多恵子を見て、久保田は、少なからず驚いた。
 多恵子の隣に立つ、スラリとした細身の、どことなく日本人離れした青年。彼に向けている多恵子の笑顔が、日頃見るものと、少し違っていたのだ。
 何を話しているのか、ちょっと照れたような、くすぐったそうな笑い方。それは、日頃性別不詳な部分のある多恵子にしては、あまりにも“女の子”な笑い方だった。
 「あ、来た来た。多恵子ー!」
 久保田の隣にいた佐倉が、大きく手を振ると、多恵子も気づき、両腕を大きく振って応えた。隣の男も、ひらひらと振り返す。
 「誰、あれ」
 佐倉も顔見知りらしい事に気づき、久保田は小声で訊ねた。すると佐倉は、ちょっと意味深な笑みを浮かべた。
 「多恵子のカレ」
 「は!?」
 「あたしも、モデルのバイト頼んだ時に初めて知ったんだけどね。そういう線引きした訳じゃないから“彼氏みたいなもん”て表現してたけど…そういう付き合いみたいよ」
 「…知らなかった…あいつにも、とうとうそんな相手が出来たんだ…」
 「でも、もう知り合って2年位経つみたいよ? いつからそういう関係なのかは、知らないけど」
 それを聞いて、久保田はますます目を丸くした。そんな前からそんな相手がいたのに、何故自分に何一つ話さなかったのだろう、と。
 「あらま。ショック? 久保田君」
 呆然とした顔でいる久保田を見上げ、佐倉はクスリと笑った。
 「…いや…ショックというか―――娘が家に恋人連れてきた時の父親って、こういう心境かもしれねーなー、と…」
 「何それ。なに中年オヤジみたいな事言ってんのよ」
 どこかで、多恵子という存在は、恋愛とは無関係な存在のような気がしていた。
 そもそも、女だという認識が、久保田の中では欠けている。今日で21になる成人した大人だという認識も。
 男女構わず、気に入れば“親愛のキス”だし、今はどうか知らないが、それが度を越して体の関係までいってしまうこともあった。久保田からすれば、恋愛感情抜きに女性と関係を持つなんて信じられないが、多恵子の行為に恋愛感情があるとは思えない。その場のノリ。寂しかったから―――そんな感じで。
 そういう認識の多恵子の横に、突然、“彼氏”なんてものが出現してしまった。
 ―――なんか…信じらんねぇ…。
 「やっほ、隼雄」
 ニッと笑いかけるその笑顔は、おととい、アルバイト先で見たのと同じ笑顔だ。
 「…よぉ。一応、ハッピーバースデー」
 「ハハハ、サンキュ。隼雄は初顔合わせだね。これ、シンジ。フリーターしながら、絵描きしてんの」
 多恵子に背中を押されるようにして1歩前に出たシンジは、曖昧に微笑み、軽く会釈した。なんとも、柔らかい笑い方をする男だ。人懐こいというか、人あたりが良いというか―――久保田も、つられるように笑みを浮かべ、会釈し返した。
 「んで、チケットは?」
 てっきり久保田の紹介をシンジにするのかと思ったら、多恵子はそれを省略した。おいおい、と思った久保田だったが、シンジがニコニコしたままだったので、もしかして相手は自分を知っているのかもしれない、となんとなく感じた。
 「俺がまとめて預かってる。ただ、席がバラけちまったんだよなぁ…。2、2、1で分かれないとまずい」
 「ふーん。僕とシンジ、隣同士希望。シンジ、ジャズにあんまり詳しくないからね。僕の解説付でないと」
 「じゃあ久保田君と成田が2、あたし1でいく?」
 「それもなぁ…佐倉もジャズなんて全然聴かねーし―――あ、瑞樹」
 多恵子やシンジの背後に、ぶらぶらと歩いてくる瑞樹の姿をみつけ、久保田は手を挙げて合図した。
 瑞樹の方も気づいたらしく、軽く手を挙げて応えたが、久保田の声に後ろを振り返ったシンジの姿を見て、ちょっと驚いた顔をした。
 「シンジさんも一緒とは知らなかった」
 「多恵子の誕生日だからね。佐倉さんからお誘い受けたんだ」
 そんな2人の会話に、また久保田が目を丸くした。
 「なんだ、瑞樹も知ってたのか?」
 「俺のバイト先で会った」
 「…なんだか、俺の知らねーとこで、いろいろ出会いがあったんだなぁ…」
 寂しいような微妙な気分で、なんとなく傍らに立つ佐倉の方を見る。が、その表情を見て、久保田は一瞬、後退ってしまった。
 佐倉が、瑞樹を睨んでいた。もの凄く険悪なオーラを纏って。
 「…佐倉? どうした?」
 「―――なんでもない。久保田君、やっぱり、あたしも解説付希望。成田は1人でいいわよ」
 「はぁ?」
 「先行く。チケット頂戴」
 怪訝そうな顔の久保田が差し出したチケットを奪い取ると、佐倉は、憤慨したような足取りで、会場へと入っていってしまった。
 ―――なんだ、ありゃ。
 多恵子の方を見たが、多恵子も驚いたような顔をしていた。
 瑞樹の方を見ると、佐倉ほどではないが、こちらも、ちょっと機嫌の悪い顔になっていた。まあ、1人でいい、と勝手に自分の席を決められた事に気分を害しているのかもしれないが。
 「…なんか、あったのか? お前ら」
 「―――別に」
 無表情にそう返す瑞樹の顔から、真相は読み取れなかった。

***

 「…そんなに、後ろの2人が気になる?」
 背後を無意識のうちに窺っていた久保田は、佐倉にそう指摘されて、慌てて顔を前に戻した。
 「いや、別に、気になってる訳じゃねーけど…」
 言い訳するようにそう口篭る久保田に、隣の席の佐倉は苦笑した。曲の合間合間に、気づけば3列後ろの多恵子とシンジの様子を窺ってしまう久保田の姿が、本当に「彼氏を連れてきた娘」を案じる父親みたいに見えたのだ。
 「まあ、あたしも意外ではあったけどね。あたしはてっきり、多恵子が好きな奴は、キミだと思ってたから」
 「はぁ!? んな訳ないだろ」
 「そう? そう思わせる部分は多々あったと思うけどね」
 涼しい顔で言う佐倉に、久保田は、怪訝そうな顔をするしかなかった。
 到底、思い当たる節はなかった。確かに懐かれてるな、という部分はあるが、久保田が多恵子をどこかで娘とか妹みたいな感覚で見ているのと同様、多恵子も久保田を保護者的な意味合いで慕っているようにしか見えない。そこに恋愛感情があるとは思えなかった。
 セッティングに手間取っているのか、次の曲がなかなか始まらない。パンフレットで次の曲目を確認する久保田の横顔をチラリと見た佐倉は、少し迷った後、思い切って口を開いた。
 「…けどね。正直、ちょっとホッとしたのも事実」
 「ん? 何が?」
 「多恵子に、他に好きな奴がいてくれて」
 その言葉に、久保田は訝しげに眉を寄せ、顔を上げて佐倉の方を見た。
 「―――は?」
 「多恵子が好きな奴が久保田君だったら、結構キツイよな、って思ってたから」
 「キツイって…誰が」
 「―――あたしが」
 「……」
 なんで佐倉が、と訊くほど、久保田も野暮ではない。
 気まずい。どうにも気まずい。久保田は思わず、視線をパンフレットに落としてしまった。

 佐倉と久保田はあまり接点がない。
 が、多恵子が問題を起こす度に、2人で協力しあってなんとか乗り越えてきた―――そんな“同士愛”的な思いが無いといったら嘘になる。さっぱりした性格も好ましいし、この年齢らしからぬプロ根性にも一目置いている。久保田にとって佐倉は、大学で最も好ましい女性と言っていいだろう。
 実は、沙和の事件が起きる前あたりは、少なからず佐倉を意識していた時期もあった。けれど、より親しくなろうという気にどうしてもなれなかったのは、佐倉が「多恵子の親友」だからだ。多恵子と佐倉のバランスを乱したくない。その事で多恵子が傷つき、鬱状態に入らないとも限らないからだ。
 結局その後、沙和に振り回される形で付き合う羽目になり、そんな微かな恋愛感情もうやむやになってしまった。今ではやっぱり、多恵子を挟んでの“同士”といった気分だ。
 元々、大きく意識する程の恋愛感情は、ない。今では、その欠片すら、どこかへ行ってしまった。けれど―――そういう経緯のあった相手からこういう事を言われるのは、結構動揺させられる。
 何と返事すればいいのだろう―――困ったようにこめかみを掻いた久保田だったが、その時、ふと、さっきの佐倉と瑞樹の態度を思い出し、俄かに表情を険しくした。

 「―――なあ、佐倉」
 「なに?」
 「瑞樹の代わり、ってのは、俺、もう御免だからな。中西の件で懲りてるから」
 その言葉に、佐倉はキョトンとした目をして、久保田の方を見た。
 「はぁ? なんで、成田が出てくる訳?」
 「だって、さっき…」
 つい口調が曖昧になる。が、その口調でピンときたのか、佐倉は眉を上げ、不機嫌そうな顔をした。
 「やだ、成田に対する態度を、そんな意味にとった訳? 違うわよ」
 「え?」
 「あいつ、あたしの依頼を断ったのよ。プロのあたしが“モデルに使ってくれ”って頼んだのに、あいつ、即答で断りやがったの。全く、何様のつもりよ」
 佐倉の返答に、今度は久保田の方がキョトンとした顔をした。
 「佐倉、知らなかったのか? 瑞樹が、撮影会やっても、モデル無視して風景ばっかり撮ってるの」
 結構有名な話なので、佐倉が知らないとも思えなかった。すると佐倉は、軽く久保田を睨み、次いで視線を若干落とした。
 「―――知ってた。でも、だからこそ、撮らせたかったんじゃないの」
 「あ…なるほど」
 プロのプライドに賭けても、撮らせてみせたかった訳だ、自分の写真を。瑞樹の写真に、惚れこんでいるからこそ。
 納得したように頷く久保田を見遣り、佐倉はバツが悪そうに顔を背けた。
 「―――そういう誤解をするって事は、ちょっとは期待してもいい訳?」
 「……佐倉…」
 「沙和ちゃんと付き合い出した時、一旦は諦めたんだけど―――ちょっとは、期待してもいいのかな」
 「……」

 そんな前からとは、知らなかった。
 というか、久保田自身がちょっと佐倉を意識していたのと同時期だったとは皮肉な話だ。あの事件がなかったら、案外もっと早く、こんなシチュエイションが巡ってきていたのだろうか。
 どう、答えるべきなのだろう―――イエスというのは簡単だ。が、やはり、どうしても心に引っかかる部分がある。
 自分が誰かと付き合う度、大学内ではふいに姿を見せなくなる、多恵子。偶然ではないだろう。非常識で自由気ままな風にしていながら、そういう所では妙に気を遣う人間なのだ。
 そんな時、逃げ場になっていたのが、佐倉なのだと思う。いくらシンジがいようとも、それは学外での話だし、他の“お気に入り”とは、久保田や佐倉はちょっと位置づけが異なっている気がする。
 もしこれで、自分と佐倉が付き合ってしまったら―――多恵子は、逃げ場を失ってしまうのではないだろうか? その時、多恵子がどうなるか、それがどうしても気にかかっていた。

 久保田が返答を迷っている間に、次の曲が始まってしまった。
 うやむやの内に、その話は蒸し返されることなく、流れていってしまう。佐倉も、次の曲の解説しか求めてこなかった。

 久保田も佐倉も、多分、一番気にかけている存在は、多恵子。それは、恋愛云々を超えた、2人の共通の想いだった。

***

 多恵子は、終始ご機嫌だった。
 ライブの間も、隣に座るシンジに自慢げに曲の解説をし、ライブが終わってからも、今度は1人で聴いた瑞樹に向かって、請われてもいないのに演目の説明を楽しげにしていた。
 「あんた、ちょっとハイテンション過ぎんじゃねぇの」
 ピザを切り分けつつ、迷惑そうに眉を顰める瑞樹に、多恵子はケラケラと笑った。
 「いーじゃんいーじゃん、今日は誕生日だもん。めでたいじゃん」
 「…めでたいかね」
 冷やかにそう呟く瑞樹を無視して、多恵子ははしゃぎまくっていた。隣に座るシンジが、そのテンションについていけないほどに。
 大丈夫、なんだろうか―――時折顔を見合わせて、久保田と佐倉は、よく似た表情を浮かべた。
 去年も、一昨年も、自殺を図る前の多恵子は、普段の多恵子と一切変わった様子がなかった。特別ハイになることも、特に落ち込んだり思いつめたりしている様子もない。なのに突然、フラリと居なくなり、大量の睡眠薬を飲み込む。前触れが無いだけに、いつ訪れるかわからないイベントに不安を覚えたものだ。
 けれど―――今年の多恵子は、普段の多恵子とは違う。
 おかしい。このテンションは。シンジに頼んで怪しいものは持って来させない様にしたから、もうどう足掻いても無駄と諦めているのだろうか。それなら、その方が助かるが。
 逆の、可能性。それを考えるのが、一番怖い。

 結局、解散となったのは、午後10時近くだった。シンジが、シフトの関係でバイトを頼み込まれてしまい、これから出勤しなくてはいけないのだ。
 多恵子も同じ方面なので、一緒に帰る、と言い出した。それに便乗する形で、佐倉も帰ることになった。去りしな、佐倉がちょっと何か言いたげな顔をしたが、久保田がそれを問う前に、彼女は踵を返してしまった。
 「…とりあえず、1日、無事終わったな」
 かなり小さくなった多恵子たちの後姿を見送りつつ、久保田は小さな溜め息をついた。
 やはり、1日、気を張っていたのだろうか。多恵子の姿が見えなくなった途端、どっと疲れが押し寄せてきた。このまま帰ってもいいが、もう1杯、ゆっくり飲みたい気分だった。
 「瑞樹、どうする? もう1軒行くか?」
 傍らに佇む瑞樹にそう訊ねた久保田は、その表情を見て、訝しげに眉をひそめた。
 瑞樹は、多恵子たちが去っていった方を見つめて、険しい表情をしていた。もう多恵子の姿は見えないが、まるで見えてるみたいに、眉を寄せて、その方向を睨んでいる。
 「…どうした、瑞樹」
 「―――あいつ、多分、やる気だ」
 緊張を緩めかけた体が、びくん、と反応し、硬直した。
 「―――え…?」
 「飯島さん。チャンスがないから、大人しくしてただけだ。自由になったら、多分、やる」
 「…まさか…なんで」
 「無理にはしゃいで誤魔化してたけど―――何度も何度も、時計見てた」
 そういえば―――久保田も、何度か目にしていた。腕時計を確認する、多恵子の姿を。その時はてっきり、シンジのバイトの時間を気にしているのかと思っていたが―――…。

 ―――もしかして。
 誕生日の残り時間を気にしていたんじゃないだろうか。

 そう考えた瞬間、体の芯が震えた気がした。
 「…サ…ンキュ。教えてくれて、恩に着る」
 瑞樹の肩を軽く叩き、久保田は多恵子の後を追おうとした。追いかけて、引き止めなくてはいけない。その思いだけが久保田を突き動かす。だが、そんな久保田を、瑞樹がグイッと腕を掴んで引き止めた。
 「追いかけてどうすんだよ。あんた、午前0時になるまで、飯島さんのこと見張ってるつもりかよ」
 「…っ、そんな事言ったって、放っておけねーだろ!」
 必死の思いで、瑞樹の手を振り解こうとした。が、瑞樹は手を緩めなかった。
 「確かに、飯島さんがここまでもったのは、あんたのおかげだと思う。あんたが居場所を作ってやったから―――でも、あの目は、もう限界超えてる。あんたがいくら手差しのべても、拒否されるだけだよ」
 「拒否されてもいい。それでも俺は、放っておけねーんだよ。死ぬのだけは、絶対に許せない」
 「生き続ける方が、本人にとっては不幸でも?」
 「それでもだよ!」
 決して引き下がろうとしない久保田を、瑞樹はじっと睨んだ。が、それでもひるまないのを悟ると、諦めたように大きな溜め息をついた。腕を掴んでいない方の手で、乱暴に前髪を掻き上げ、しばし考える。そんな仕草に、事態も忘れて、久保田は一瞬見惚れてしまった。
 「…とにかく、ちょっと落ち着け」
 久保田に言ったのか、自分自身に言ったのか、よくわからない。低く小さくそう呟いた瑞樹は、やっと目を上げた。
 「…今から追いかけても意味ねぇよ。シンジさんも佐倉さんも一緒だから、まずやらない」
 「じゃあ、家に帰ってからか」
 思わず、舌打ちする。いくら面識があるからといって、日付も変わろうかという時間帯に上がりこむ訳にもいかない。

 たとえこれが、単なる杞憂に終わっても―――むしろ、杞憂で終わってくれた方がましだ。
 とにかく、止めなければ。久保田は、焦りそうになる頭を、必死に宥めた。


***


 家に帰り着いたのは、午後11時を回っていた。既に家中の灯りは消え、リビングにも母の姿はなかった。
 父は今日、夜勤だと聞いている。母は大体、午後11時前には床に就くようにしている。その辺りを見越しての帰宅時間だ。
 自室に入った多恵子は、机の上に何か置いてあるのを見て、デスクライトをつけた。
 置かれていたのは、綺麗にラッピングされた箱と、バースデーカードだった。カードを開くと、見慣れた母の字が綴られていた。

 『多恵子へ
  21歳の誕生日おめでとう。これからの1年が、あなたにとって幸福な1年であるように。』

 毎年、こうしてプレゼントをくれる母―――嬉しいけれど、苦しい。
 祝ってなど欲しくなかった。いない方がましな存在を、こうして繋ぎとめようとするのは、もうやめて欲しい。だからこそ、誕生日には、なるべく家にいないようにしているのに―――。

 プレゼントの中身は、宝石箱を兼ねたオルゴールだった。ネジを巻いて開けてみると、曲目は、多恵子が好きな“マイ・フェイバリット・シングス”。今日のライブでも演奏されていた名曲だ。
 暫く、その音色に聴き入る。そんな多恵子の表情に、日中の上機嫌な笑顔はなかった。暗く沈んだ、寂しげな笑みだけを、口元に浮かべている。
 目を、閉じる。優しいオルゴールの音色に、気持ちは凪いでいく。けれど、決心は揺らぎそうになかった。
 前から、決めていた。今日より先には行かないと。そのために、これまでにも何度も試みたけれど、その度に失敗した。誰かしらに阻まれた。
 1日、なるべく本音を悟られないよう気を配ってきた。きっと久保田も佐倉もシンジも、気づいていないだろう。それに、“今日”もあと1時間ほど―――多少何かを感じ取っていても、どうなるものでもない。
 ふと、瑞樹のことが、頭をよぎった。彼なら何か気づいたかも―――嫌な予感を一瞬覚えたが、即座にそれを否定した。もしそうだとしても、考えを変えるには至らない。

 今日しか、チャンスがない。
 時計の針が0時を過ぎれば、今日の先へと行ってしまう。

 オルゴールの音が次第にゆっくりになり、やがて、止まった。それを合図にしたように、多恵子は立ち上がり、ドレッサーの前に座った。
 引き出しの中から、新品の剃刀を取り出す。包装を解くと、冷たく光る刃が、多恵子を惹き付けた。
 前から、この方法が一番好きだった。血が体から抜けていく感じが、死をしっかりと実感できるから。
 1滴、また1滴と、体の中の血液が傷口から流れ出す―――やがて体温が下がり、体内を巡る血が足りなくなり、体が悲鳴を上げだす。…ゆっくり、ゆっくり死んでいく。理想的だ。一瞬で死ぬのは卑怯な気がする。
 苦しんで死んだ人を思えば。自分だけ楽に死ぬのは、やっぱり良くない。

 多恵子は、手の甲の上で、軽く剃刀を滑らせた。
 毎回そうだが、こういう時、何故か痛みを感じない。痛みが、どこか遠いところに感じられる。痛みを直接覚える“体”と、それが「痛い」という感覚だという事を認識する“心”が、どこかで分離してしまっているのかもしれない。
 朱色が、手の甲に走る。ああ、やっぱり私の体には血が流れてるのか、と、それで自覚する。

 …駄目だ。
 早く、この血は、捨ててしまわないと。
 汚れている―――この血は早く捨てて、別の血を…別の命を。
 もう一度、生まれる。別の命をもらって。人は死ぬと別の命で生まれると、あの人は言っていた。死んでから生まれ変わるまで、どの位かかるんだろう?


 ゆっくり、手首に刃を当てる。
 独特の手ごたえの後、視界が赤に染まる。
 赤―――どこまでもどこまでも、赤。こんなものが、体の中を21年もの間巡っていたのか。なんだか変な気分だ。

 でも、綺麗。

 不浄な血の筈なのに、不思議なくらいに、綺麗―――なんか、ホッとした。

 生まれてくるべきじゃなかった私にも、こんな綺麗な部分があったんだ―――…。


 一気に、体温が下がった気がした。
 多恵子は、ふらつく足を進め、ベッドに仰向けに倒れこんだ。見える筈の天井が見えない。投げ出された腕から、今もまだ流れ出し続ける血の鮮やかな赤色が、多恵子の視界を埋め尽くしていた。

 その、赤の氾濫の、もっと向こう。

 多恵子は、「そら」の入り口を、確かに見た気がした。


***


 誰かに呼ばれた気がして、多恵子は目を開けた。

 天国かもしれない―――そう思ったのに、目に入ったのは、ただの白い天井だった。
 「多恵子」
 びくん、と、肩が強張る。
 恐る恐る、首を回す。そしてそこに、一番見たくない人の姿を見つけてしまった。
 見たく、なかった―――“地上”を象徴する存在だから。ここは「そら」じゃない。彼を見た瞬間、それを嫌というほどに理解してしまったから。
 「…な…んで…」
 「―――お帰り」
 ベッドサイドに座っていた久保田は、寝不足な顔でそう言い、疲れたような笑みを浮かべた。
 「2日間、昏睡状態。…ちょっと計算違いだったな」
 「どういう…こと」
 「―――電話したんだよ、お前んちに。お前らと別れてからすぐ後に。少なくとも0時過ぎるまでは多恵子と一緒に起きててくれ、って。間違いなく今日やる気だって。…まさかその電話で、お袋さんが心配してお前を迎えに行くとは思わなかった―――おかげで、どっかで入れ違いになっちまって、実行前に止める計画は失敗。まぁ、でも…ギリギリセーフってとこ」
 「……」
 「ああ、言っとくけど、気づいたのは俺じゃない。瑞樹だから」
 ―――予感的中。
 多恵子は、深い溜め息をつくと、疲れ果てたように目を閉じた。
 「…次は…放っとけって、言ったのに…」
 「―――馬鹿。んな事言われて、放っとける訳ないだろ」
 放っておいて欲しかった。今回だけは。
 絶望、なんて言葉では言い表しきれない。恥ずかしい。こうしておめおめと生きながらえているのが。こんな思いを抱えたまま生き続けるなんて、拷問に等しい。
 こんな筈じゃなかった。少なくとも、誕生日より先の未来はなかった筈だった。なのに―――…。
 「…でも、今回はさすがに、ちょっと、覚悟した」
 溜め息をつきながら、久保田がそう呟いた。微かに震えているようなその声に、多恵子は目を開け、久保田の方を向いた。
 その、刹那。
 久保田の手が伸びてきて、多恵子の頭を、軽く撫でた。
 多恵子の心臓が、ドクン、といって、止まった。
 「全然、目ぇ覚まさないから―――とうとう、間に合わなかったか、って、一瞬覚悟した。…良かった、目、覚ましてくれて」
 「…は…やお…」
 久保田の目が、いつか救急車の中で見た時みたいに、僅かに涙ぐんでいた。その涙に耐えるように唇を噛んでいた久保田だったが、緊張の糸が切れたのか、まるで縋り付くみたいに、多恵子の肩の上に、顔を埋めてしまった。
 「ほ…んとに―――良かった…」
 「―――…」

 久保田が、震えている。
 それが、自分の肩に押し付けられた久保田の額と、自分の耳元に置かれた久保田の手を介して、多恵子にリアルに伝わってくる。肩から胸元に感じる自分のものではない震えと熱に、多恵子の心臓は、暴走していった。
 触れたところから、久保田が多恵子の持つ毒に侵されていくような気がする。顔を上げた久保田は、自分の知らない久保田になってしまっているような気がする。どれ程心地よくても、どれ程狂おしい思いが湧き上がってきても、触れてはいけないという思いはそれらをはるかに圧倒する。

 …駄目だ。
 これ以上、知りたくない―――隼雄の感触なんて。

 多恵子は、力の入らない手で、久保田の肩を押しやった。
 元より、久保田の行動に、さしたる意味は無かったのだろう。ちょっと肩を押されたら、慌てたように顔を上げ、体を起こした。
 「あ…ああ、悪い。ちょっと、安心しちまって」
 涙ぐんだ目を、手の甲で拭い去り、久保田は苦笑いをした。多恵子の枕元のナースコールボタンを押すと、のろのろと立ち上がる。
 「今、真夜中だから、みんな仮眠取ってるんだ。呼びに行ってくるから、ちょっと待ってろ」
 「…うん」
 掠れる声で、そう返事するのがやっとだった。
 久保田が病室を出て行き、扉がパタン、と閉じた途端、全身の緊張が解けた。多恵子は、詰めていた息をやっと吐き出し、ぐったりと枕に頭を預けきった。


 ―――ごめんなさい。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい―――本当に、ごめんなさい。


 ナースコールを受けた看護婦が駆けつけるまでの間、多恵子は心の中で、そう何度も何度も繰り返した。
 それが、誰に対する謝罪なのか―――それは、多恵子の中でも、曖昧だった。


 多恵子、21度目の夏。
 多恵子はまた、地上に繋がれてしまった。

 この先の未来は、多恵子が描いたシナリオには、ない。この先、どう生きていけばいいのか―――多恵子は、完全に迷子になってしまっていた。


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