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10 : (あお)の呪縛

 階下に下りた多恵子は、そこに久々に見る顔を見つけて、一気に気分が落ち込んだ。
 今日は、前期の試験の最終日だ。こんな奴の顔を見て気分を落ち込ませるのはよして欲しい。多恵子は眉を寄せ、うんざりしたように溜め息をついた。
 「多恵子。今度の土曜日は、ちゃんと予定を空けておいてよ?」
 朝食を用意している母が、ちょっと振り向きながら、そう多恵子に釘を刺す。昨日も言われたセリフ―――いや、退院以来、毎日言われているセリフだ。
 「うん、わかってる」
 多恵子がそう、短く答えると、先に席について新聞を広げていた父は、一瞬だけ目を上げて、多恵子の顔を見た。
 父の視線を、感じる。けれど、多恵子はそちらを見はしなかった。何も感じなかったふりをして、自分の席の椅子を引く。今どんな目をしているか、見なくても想像はつくし、この後何を言うかも想像はつく。そしてその想像通り、父は、興味のなさそうな声色を装って言うのだ。
 「無理はするな。まだ本調子じゃないんだろう」
 「…大学、通ってるし」
 「去年も一昨年も顔を出してないんだ。今年だけ無理をすることもない」
 「あら、あなた。駄目ですよ、今年は」
 窘めるような声で、母が口を挟んだ。
 「7回忌なんですから。去年や一昨年とは、話が違いますよ。いいわね、多恵子。ちゃんと出席しなさい」
 「―――出て欲しくないなら、そう言えばいいのに」
 多恵子は、パンを頬張りながら、父の方も見ずにそう呟いた。勿論、父の耳に届く事などわかっている。そして父が、その言葉に過剰反応することも。
 「なんでお前は、そういう態度をとるんだ。誰も出るなとは言ってない」
 「いいよ。元々出る気ないし」
 「お前がそんな事を言える立場だと思ってるのか!? 大体、誰のせいで―――」
 父が言いかけた言葉に、多恵子は顔を上げ、父に険しい目を向けた。
 父の目が、眼鏡の向こうから多恵子を睨んでいる。けれど、最後の一言は飲み込んでいる。多恵子の口元に、皮肉めいた笑みが浮かんだ。
 「…そうだね。僕には何も言う資格はなかった」
 「……」
 「どうぞ、ご随意に」
 吐き捨てるようにそう告げると、多恵子はまた、パンを頬張った。もう父の顔を見る気はなかった。
 ただ、戸惑ったような顔をする母に対してだけ、心が少し痛んだ。この人には、何の罪もないのだ―――この人は、一番割りに合わない役割を、淡々とこなしている。多恵子の目にも小柄であるその体の中に、どれだけの愛憎を秘めているかわからないのに、そんなものは一切表に出さない。
 母は多分、この世で一番、尊敬できる人だ―――血は繋がらないけれど。

***

 「終了?」
 「終了。午後からは暇。僕の履修講座、大半がレポートだからね。楽勝」
 「…相変わらず、勉強に関してだけはド根性だよね、多恵子って…。なんで他の部分にもその勤勉さが活きないかな」
 昼に学食で待ち合わせした佐倉は、そう言って感心したような呆れたような顔を多恵子に向けた。かく言う佐倉の方は、まだ午後から試験がある。久保田に至っては明日もあると言っていた。
 そもそも、つい2週間前、自殺を図って生死の境を彷徨っていた多恵子が、1つの履修科目も落とすことなく試験やレポートをこなしている事自体、奇跡に近い。去年も一昨年もそうだったので、今では学内でも有名な逸話になっているほどだ。
 「別にどーでも良かったんだけどね、単位なんて…。何すりゃいいかわかんないから、ただ目の前にある課題クリアしただけでさ」
 サラダと菓子パンが乗っただけのトレイをテーブルに置き、多恵子は投げやりにそう言った。単位を落としそうになっている連中が聞いたらリンチ間違いなしな発言に、それなりに試験で苦労した佐倉は眉を上げた。
 「どーでもいいって、あんまりじゃない? その、どーでもいい事のために、寝食忘れて頭抱えてる奴だっているのに」
 「それは、単位落としたくないからじゃん。僕は、落としても構わないって思ってるから、ほんとにどーでもいい」
 「落としてもいいって…留年しても構わない訳?」
 「いいよー。別に。全く、何しに大学来てんだろね。ハハ…」
 自暴自棄な笑い方をして、多恵子はサラダを口に運んだ。食欲など、あの日病室で目覚めてからこの方、ほとんどないに等しい。命そのものは永らえてしまったが、案外、どこかが完全に死滅した状態なのかもしれない。
 「全く―――前から刹那的な生き方はしてたけど…ここまで人生捨ててはいなかったのに」
 眉を顰めてミートスパゲティをフォークに絡める佐倉は、情けない、という顔で多恵子を眺めた。
 「なんか、今の多恵子見てると、成田思い出す」
 「……」
 意外な指摘に、多恵子は少し眉をひそめた。何故なのか訊いてみたかったが、佐倉は眉を顰めたまま、言葉を続けた。
 「久保田君に、あんまり心配かけない方がいいんじゃない。大の男が涙するほどの心配をかけたばっかなんだから」
 少し棘のある、佐倉の口調。多恵子は一瞬、口元を緩めた。
 いつ頃からか、多恵子も気づいていた。佐倉が久保田を見る目が、以前とはちょっと違うのを。
 女を武器にした世界に身を置きながら内面の女は捨て切っている佐倉が、久保田の前で一瞬見せる、女性的な部分―――以前なら、そういうシーンにいちいち痛みを覚えていたのだろうが、今の多恵子は何も感じない。どうでも良かった。佐倉も、久保田も。
 ―――全然、痛くない。あれほど執着していた、隼雄のことなのに…。
 多恵子はぼんやり外を眺めながら、サラダを機械的に口に運び続けた。

 全てがどうでも良くて、全てが面倒。誰とも会いたくないし、どこへも行きたくない。世の中は急速に不景気になっている。その影響を受けて、夏休みからはジャズ・バーでのバイトが週2日に減らされてしまうのだが、それは案外好都合かもしれない。動くのも億劫だから、バイトも結構疲れるのだ。…まあ、唄い出してしまえば、あとはそんな倦怠感も忘れるのだけれど。
 強いて言うなら―――シンジと、あのアパートの畳の上に、24時間ゴロゴロと転がっていたい。あそこでは、何も考えずに済むし、何も考えない多恵子を怒る人もいない。生きる事を強要されもしなければ、死ぬ事を強要されもしない。ただ―――漂ってればいい。

 でも。
 ―――これって、「生きてる」ことになるんだろうか。

 「…ねぇ、佐倉」
 「んー?」
 「僕って今、生きてるかな」
 「は?」
 多恵子の質問に、佐倉は目をパチクリさせた。けれど、多恵子がその回答を求めていないのを察すると、肩を竦めて、またミートスパゲティを口に運び始めた。

 ―――ますます、生きてる実感が、ない。
 生きる筈のなかった未来を、今歩いている自分。生と死の狭間を漂っていた筈の多恵子は、死に損ねた今、生きながらにして死んでいるような、漠然とした世界が自分を取り巻いているのを感じていた。

***

 屋上に上がろうとした多恵子は、踊場に人影を見つけ、階段を上る足を止めた。
 「―――もういいだろ」
 「イヤ」
 うんざりしたような瑞樹の声に続く、甘えたような女の声。まずいところに来たな、と内心舌打ちを打った。
 けれど、大人しく回れ右するのも馬鹿らしいので、そのまま足を進めた。
 女に抱きつかれている瑞樹が、多恵子に気づき、女の背中をトントン、と指で叩いた。彼の唇を貪ることに夢中な女の方は、多恵子に気づいてないらしい。
 「…ん、何」
 「うしろ」
 言われて、振り向く。その、キョトンとした顔に向かって、多恵子はニッ、という不敵な笑みを返した。
 「…あら、飯島さん」
 多恵子は、この大学では有名人だ。多恵子は女に見覚えがないが、向こうは多恵子の名前を知ってるらしい。それにしても、目撃されてたと気づいても抱きついたままの根性は見上げたものがある。何しに大学来てるんだか―――と考え、直後、思わず自嘲気味に笑ってしまった。
 自分だって何しに来てるのかわからない。人の事は言えないよな、と。
 「あ、いいよ。遠慮せず続ければ?」
 初対面の時の瑞樹のセリフを真似て、多恵子はそう2人に告げた。そのセリフに、瑞樹が不機嫌そうに眉を上げたが、女の方はあまり動じなかった。
 「んー、でも、そろそろやめないと、成田君が本気で怒っちゃうしねぇ。…しょうがないわ。はい、これ」
 彼女の手の中で、何かがチャリン、という音を立てる。瑞樹が差し出した手のひらの上に落とされた物は、どうやら家の鍵のようだった。
 ―――ひえー…、家の鍵を人質にとってキスねだるのかぁ…。凄まじいな。
 「試験も終わったっていうのに、冷たいヤツよねぇ…。いいわ。他あたるから」
 「二度と来るな」
 鍵さえ取り戻せば、もうどうでもいいらしい。瑞樹は既に女の顔すら見ていない。手の甲で唇をぐいっと拭うと、置いてあったデイパックを掴んで、早くも屋上へ通じるドアを開けようとしていた。
 そんな瑞樹の背中にあかんべーをすると、彼女は多恵子に向かってニッコリと笑ってみせた。そして、呆れたような顔の多恵子の横をすり抜け、コツコツというハイヒールの音をさせながら、階下へと降りていってしまった。
 「…前に見た準ミスとはえらい違いだね。男、襲い慣れてるな、あれは」
 「暇人なんだろ」
 つまらなそうに相槌を打つ瑞樹を追って、多恵子も屋上へ上がった。
 外は曇り空で、7月のギラギラした太陽は本日は休業中といった感じだ。風も少し出ているので、体感温度はこの季節にしては若干低い。いつものように中央に陣取る瑞樹の傍に、多恵子もバッグを放り出して腰を下ろした。
 「今の女、何?」
 「経営学部の4年」
 「つきあってんの」
 「は…、まさか。4年間で何人の男とやれるかって事を楽しみに生きてるような女と、なんで俺が」
 「でも、成田も食われちまったヤツの1人なんじゃないの」
 「―――カメラ人質に取られて、やむなく」
 そこでも人質なのか―――恐れ入るな、と、多恵子は肩を竦め、口にくわえたラッキーストライクに火をつけた。
 傍らの瑞樹に目を移すと、彼は、ごろんと転がって、空を眺めていた。今日は煙草を吸わないらしい。これまでにも何度か、煙草を吸わず、ただ空を眺めている瑞樹を目にしたことがある。それが、抜けるような青空でも、灰色の曇り空でも。
 「成田って、なんでいつも、空見てんの?」
 疑問に思ったままを口にすると、瑞樹は少しだけ多恵子の方に目を向け、また空に目を戻した。
 「…目に入るもんの中で、空よりでかい物ってねーし」
 「―――え?」
 「何かに迷っても、空に比べればちっぽけだって思えるから―――空見ると、気分がリセットできる」
 「……」
 その言葉につられるように、多恵子も空を見上げた。
 多恵子も比較的、空をよく見る方だ。けれど、空を“大きい”と思ったことはなかった。しかも、そういう空と、自分や自分の内面を比較してみるなんて、そんな事をする人間がいることすら想像したことがない。
 ―――こいつの目には、世界ってどんな風に見えてるんだろう…?

 「…成田はさ。今、自分が生きてるって、ちゃんと実感できてる?」
 無意識のうちに、口をついて、その質問が滑り出ていた。
 瑞樹は、訝しげな顔をして多恵子の方を見た。が、質問には答えず、逆に訊いてきた。
 「実感する必要なんて、あるか?」
 「ない?」
 「ねぇよ」
 「なんで?」
 「実感がなくたって、生きてけるし」
 「そうまでして生きてく意味って、なんかあるの?」

 口にして、気づいた。
 これが、そうだ、と。
 瑞樹と最初に会った時から、多恵子がずっと訊きたくて訊けずにいた質問。何が訊きたいのか、自分でもわからなかった質問。

 「―――つまりさ、成田は、何のために生きてるの?」
 「何のために?」
 「中身は死んでる、って言ったよね。中身が死んだまま生きてくって―――そうまでして、なんで生きてく訳? いっそ死んだ方が楽だって思わない?」
 少し真剣な面持ちになって訊ねる多恵子に、瑞樹は、さっきまでと同じ、訝しげな表情を返していた。が、考え込むように眉間に皺を寄せると、少し溜め息をついた。
 「―――…意地、かな」
 ぽつり、と、呟くような声。
 「意地? 何それ」
 「…飯島さんには、言ってもわかんねーよ」
 瑞樹は、それ以上の回答を拒否するみたいにふいに起き上がり、2、3度頭を軽く振ると、無言で立ち上がった。あまりに急だったので、多恵子もちょっと呆気にとられた。
 「なに、成田、帰んの?」
 「バイト休みだし、写真撮りに行く」
 「どこに」
 その問いに、瑞樹は僅かに、多恵子の方に目を向けた。
 「…海」
 多恵子の表情が、一瞬、強張った。

 ―――海…。

 急に、動悸が激しくなってくる。
 偶然だろうか? …いや、偶然しかありえない。瑞樹は何も知らないのだから。
 でも―――何故だろう。
 これは、罠。そんな気がする。
 彼は、多恵子がこう言ってしまうことを承知の上で、行き先を告げた気がする。悪魔が仕掛けた、巧妙な罠のような気が。
 そうは思っても、多恵子はつい、計算通りの言葉を口にしてしまっていた。

 「―――よければ、それ、僕も連れてってよ」

***

 電車に揺られている間、多恵子はずっと、後悔の念に苛まれていた。
 なんで、連れていけなんて言ってしまったんだろう。あれ以来―――誰に誘われようとも、海には絶対行かなかった。一生、二度と来る気なんてなかった。なのに…何故。
 瑞樹の方は、終始、静かだった。まるで多恵子なんていないみたいに、さっさと切符を買って、さっさと電車に乗り込み、さっさと席についてしまった。隣の席に多恵子が座っても、そちらを見ることすらしない。道中は、ずっと車窓の方を見ていて、結局一度も多恵子の方は向かなかった。
 ―――何を、思っているのだろう。彼は。
 連れていけと言う多恵子に、瑞樹は一言、「好きにすれば」とだけ答えた。海、と言っただけで、行き先も伝えなかった。切符を買う瑞樹の手元を見ていなかったら、とっくにはぐれていただろう。はぐれても構わない、来ないなら来ないで構わない、そんな感じなのだろうか―――窓ガラスに映る顔からは、その真意は読み取れなかった。


 都内から逗子までは、思いのほか近かった。
 夏休み前だし、あまり天気が良くないこともあり、ピーク時には結構な人出になる海岸も、今はサーフィンを楽しむ若者の姿くらいしか見えない。多恵子は、夏らしくない、ちょっと灰色がかった海の青色を、どこか別世界のものでも見るような気分で、遠くから眺めた。
 ―――似ている。あの時の、海に。
 ぶるっ、と身震いをする。あの時聞いた波が岩にぶつかる音が、この穏やかな海岸にも聞こえる気がして。
 先を歩いていた瑞樹は、カメラを手に、波打ち際や遠景を撮影しているようだった。一度も多恵子の方を振り返らない。本気で、見えてないんじゃないかと不安になってくるほどに。
 考えすぎだったのだろうか。
 瑞樹はただ単に海が撮影したかっただけで、海に行くのは今日最初から決めていた予定で…多恵子がそれに、たまたま便乗しただけ。そういう事にすぎなかったのだろうか。
 「成田」
 名前を、呼んでみる。けれど、海風に声が掻き消されているのか、瑞樹は振り向かなかった。
 「成田!」
 もう一度、呼んでみる。
 すると、ちょうど水際で遊んでいた鳥が、多恵子が名前を呼んだのと同時に、ぬかるんだ砂を蹴って飛び立った。瑞樹はそれを狙っていたらしい。
 鳥のテイク・オフの瞬間、風に、瑞樹が着ているシャツが、ふわりとあおられる。それを嫌うように姿勢を変えた瞬間、シャッターを切る瑞樹の横顔が、一瞬だけ覗く。
 その横顔は、いつもの成田瑞樹とは、全く異なっていた。
 獲物を狙っている目―――その目が、自分の目の前を飛び去っていく鳥を、まるで射落とすような力で捕らえていた。その目は、生と死の狭間を漂っている筈の瑞樹とは思えない程に、「生きて」いた。
 その目に圧倒されて―――多恵子はそれ以上、声をかけられなかった。

 何故、だろう。
 なんだか、裏切られたような寂しさを覚えた。
 生きてる実感なんかなくても、生きていける―――そう言いきっていた瑞樹なのに、彼は今、間違いなく実感していた。生きていることを。そんなことはないとは言わせない。あの目が、全てを物語っていた。
 結局、自分ひとりなのか。こんな人間は。
 生きているのか、死んでいるのか―――それすら曖昧な世界に、ふわふわと漂うように生きることしかできない、自分。こんな自分に、仲間などいる筈もなかったのだろうか。

 多恵子の体を、また嫌な震えが襲った。思わず、自らの腕を抱いた。


 ―――寂しい。

 寂しい、寂しい、寂しい。

 海なんて、来るんじゃなかった。1人でこうしていると、どうしても考えてしまう。誰かに支えていてもらわないと、どうしても考えてしまう。
 あの、海の底にあるもののことを。
 あの日見た―――「そら」の入り口のことを。

 「り…く…」
 口にするのは、何年ぶりの名前だろう。
 多恵子は、ふらりと足を進めた。波が打ち寄せる、その際のところへと。
 サンダルを履いた多恵子の足を、波が洗っていく。踵が砂を抉っていく。多恵子は、更に一歩、前に進み出た。

 ―――探さなくちゃ。
 この海に続く広い海のどこかに、陸がまだ、いる。
 どこかで、まだ待っている。私が見つけてくれるのを、ずっとずっと待ってる。
 まだ、間に合うかもしれない。今から探せば、見つけられるかもしれない。まだ「そら」の入り口をくぐらずに―――その手前で、私が来るのを待っていてくれるのかもしれない。
 陸のところに行きたい。陸の傍にいたい。こんな風に、地上と「そら」に心が引き裂かれたままに、生きてる実感もないまま漂うのは、もうイヤ。陸が抱きしめてくれたら、きっと戻れる―――罪を負う前の、綺麗な頃の私に。
 探さなくちゃ―――陸を。


 波に流される砂に足を取られながら、多恵子は必死に前に進んだ。サブリナパンツから覗く脛が、海水に浸かる。それでも、前に進もうとした。
 けれど、本能的に、海に対する恐怖心がある。思わず、足が竦む。多恵子は、前へ進もうと焦る気持ちとは相反して、その場に立ち竦んでしまった。
 その瞬間、足元の砂が波にさらわれ、多恵子のバランスが崩れた。
 「!!」
 声を上げる間もなく、多恵子は海の中で前につんのめり、ガクン、と膝をついた。バシャン、という水しぶきをあげて、多恵子は海の浅瀬の部分に、膝をついて座り込んでしまった。
 「……あ……」
 太ももの半分位までを、波が容赦なくさらう。そのゆらゆらとした感触を皮膚に感じながら、多恵子は呆然とした表情で、目の前にどこまでも広がる鈍い碧色の海を見つめた。

 「陸……」

 名前を紡ぐ唇が、震える。でも、呼ばずにはいられなかった。

 「陸―――…っ!!!」

 絶叫に、近かったかもしれない。
 何かの封印が解かれたみたいに、体も心も制御不能になる。胸が苦しい、と思った次の瞬間には、多恵子の目から、涙が溢れていた。子供みたいに泣きじゃくりながら、多恵子は何度も“陸”の名を叫んだ。


 陸―――…!
 どうして…!? なんでこんな風に、私だけ置いていったの…!?

 私、陸がいれば、他のものなんて何もいらなかったよ。何も知りたくなかった―――隼雄のことも、シンジのことも、他のどんな男の人のことも知りたくなんかなかったよ。一生、陸だけに抱きしめてもらいたかった。たとえそれが許されなくても―――ただ抱きしめてもらうことしか出来なくても。
 陸が、こんな風にいなくなると、私、生きてくことが出来ない。お前が陸を奪ったんだ、って、そう無言で私を責めるお父さんのあの目に耐えられない。
 辛くて、辛くて、何度も何度も死のうとしたのに、死ねなかった。私は弱いから―――辛いと、辛いのに死ねないと、誰かの腕が欲しくなる。陸じゃないのに、陸の腕じゃないのに、欲しくなってしまう。

 陸以外の人に抱きしめられたいなんて思う自分には、一生、なりたくなんかなかったのに―――!


 「―――やっと“陸”が出てきたか」

 突然、頭上から降ってきた低い声に、多恵子は、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。
 すぐ目の前に、瑞樹が立っていた。
 スニーカーを脱ぎ捨て、ジーンズの裾をたくし上げている。いつの間にそんな準備までしていたのだろう? ―――もしかしたら、多恵子の方を一切見ていないふりをしながらも、ちゃんと様子を窺っていたのかもしれない。
 「な…りた…」
 瑞樹は多恵子の腕を掴むと、強引に立ち上がらせた。そしてそのまま、その腕を引っ張って、浜へと戻り始めた。
 「なん…で…?」
 まだ混乱する頭を抱えたまま、多恵子は、唇を震わせてそう訊ねた。瑞樹は、振り返らずに、極めて事務的に答えた。
 「―――“陸”って名前をあんたがいつも寝言で呼んでるって、シンジさんが言ってた」
 「…海は?」
 「久保田さん、去年も一昨年も、みんなで海に行こうってあんたを誘ったのに、何故か2回とも断られたって言ってた」
 「……」
 波の来ないところまで辿りついたところで、瑞樹は多恵子の腕を離し、ふっと笑った。
 「それに、スタジオでのあのプールの事故。佐倉さんは、飯島さんはちゃんと泳げるって言ってた。泳げるのに、浮かんでこなかった―――あとは…まあ、勘」
 「―――…ハ…」
 思わず、苦笑がもれる。
 勘が良すぎる。大した付き合いもないのに。―――けれど、2週間前、これが最後という覚悟で臨んだ自殺を阻止したのも、考えてみれば目の前にいるこの男だったのだ。
 同じ世界の人間―――「死」に近いところにいる、人間。…だから、わかるのかもしれない。諦めたような溜め息をつくと、多恵子は力なくうな垂れた。
 「―――来たくなんかなかった…海になんて、二度と。でも…来たかった」
 「なんで」
 「陸を、探したかった―――まだ、見つかってないから」
 「…なるほどね」
 前髪を掻き上げた瑞樹は、小さくそう、相槌を打った。
 しばし、何かを考えるように、うな垂れている多恵子の横顔を眺めていたが、やがて、呟くように告げた。
 「―――でも、陸は、もういない」
 「……」
 「本当はそれを認めてるからこそ、死のうとするんだろ。あんたは」

 おさまりかけた涙が、また体の底から溢れてくる。
 多恵子は唇を噛むと、その場にしゃがみこんだ。
 膝を抱え込んだ彼女は、まるで迷子になった子供みたいに、泣いた―――心の中で何度も、陸に対して謝罪を繰り返しながら。

 ―――ごめんね…陸。

 陸が生きた時間よりも長く生きのびてしまって、ごめんなさい―――…。

***

 ―――どれくらい、時間が経っただろう。
 多恵子は、乾いた砂浜の上で膝を抱えて、海を眺めていた。
 その斜め後ろ、5メートルほどの間を置いて、瑞樹も同じように、膝を抱えていた。ただし、彼が見ているのは海ではない。灰色の雲の隙間から、僅かに光が射し込もうとしている、空だった。

 瑞樹は、何も訊かなかった。
 興味がないのか、訊いても答えないと思っているのか―――何も訊かず、ただ、ちょっと離れた所で、黙って座っていた。
 多恵子も、何も口にはしなかった。誰にも話す気にはなれない。少なくとも瑞樹に話しても仕方のない事だと思う。ただ、泣いたことで―――体の底から涙を流して陸の名を呼んだことで、何かひとつ、区切りがついた気がした。
 現実が、戻ってきた感じがする。
 今感じている悲しみや虚脱感は、リアルに感じることができる。ザラついているサンダルも、ベタベタと貼りついている服も、嫌になるほどにリアルだ。
 生きている―――ここは、まだ、地上だ。
 生き残ってしまった。その事実を、もう受け入れていくしかない。

 「…なんで、死ねないんだろう…」
 思わずそう、呟く。背後の瑞樹の気配が、微かに動くのを感じた。
 「こんなに死にたいのに―――それ以外の解決方法なんて見つからないのに…なんで今、ここで、海に飛び込むとか首をくくるとかしないんだろう」
 「―――未練があるからだろ」
 未練―――…。
 現実が戻ってくると、それを感じる。
 思い浮かぶのは、多恵子の肩に顔を埋め、体を震わせて涙する久保田のことだった。
 思い出してしまう。必死に引き剥がした、久保田の手や額の感触を。その熱が、多恵子を地上に繋いでしまう。行くな、と。
 シンジは、大丈夫だ。彼は弱い人間ではあるが、諦める事を知っている。多恵子の意思を尊重してくれる。けれど、久保田は―――…。

 そこでふと、多恵子の考えは途絶えた。
 振り向くと、瑞樹が立ち上がり、Gパンについた砂をはたき落としているところだった。
 「…帰るの?」
 「帰る」
 「そう。…僕はもう少し、海を見てく」
 何か言われるかと思ったが、瑞樹は多恵子の返事に特に反応せず、無言でデイパックを肩にかけた。
 瑞樹は日頃、あまり饒舌な方ではない。特に女相手だと、ほとんど喋らないに等しい。海の件は、やはり瑞樹が仕掛けた罠だったようだが、その目的はよく分からない。けれど、説明してくれる雰囲気はゼロだ。
 目的は分からないけれど―――来て良かった。そう多恵子が思っているのは、事実だ。
 「―――ありがとう」
 ただ一言、多恵子はそう、瑞樹に伝えた。
 その言葉に、瑞樹は一瞬、帰り支度の手を止めた。微かな笑みを浮かべると、彼は口を開いた。
 「俺はただ、“陸”の正体を知りたかっただけだから」
 「…なんで?」
 「―――もしも生きてる奴だったら…可哀想だろ、シンジさんが」
 「……」
 「死ぬのは勝手だけど―――惚れた奴なんだから、あの2人に対しては責任もてよ」
 “あの2人”―――…。
 瑞樹は、名前を言わない。けれど、わかっている。
 久保田と、シンジ―――魂が憧憬し求めてやまない人と、心と体の安息の場として必要な人。多恵子は、鈍い胸の痛みに、思わず顔を歪め視線を落とした。
 「…ま、俺は、あいつらみたいには止めないから」
 落ち込んだ様子の多恵子を励ます意図があったのかどうか。瑞樹はそう言って、ニヤリと笑った。
 「飯島さんの遺影にでも、“良かったな”って言ってやるよ」
 驚いたように顔を上げた多恵子だったが、不謹慎とも思えるそのセリフに、何故か怒りは全く覚えなかった。
 …むしろ、気に入った。
 「―――じゃあ、その時はせめて、“飯島さん”じゃなく“多恵子”って呼んでよ」
 多恵子はそう言い、瑞樹を真似るように、ニヤリ、と笑ってみせた。

 ―――“多恵子、良かったな”。
 死は、一番の望み。生き続けることより、死を選ぶ方が幸福―――多恵子はそう、思っていた。多分、この世では稀な人間なのかもしれないが…本当にそう、思っていた。
 それを口にせずとも察している瑞樹は、やっぱり自分と同じ世界の人間なのかもしれない―――そう思うと、自分はまだひとりじゃないんだ、と、少し救われた気がした。


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