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台所で、鼻歌を歌いながらコップを洗う母を見ながら、多恵子はダイニングテーブルで、昨日出された宿題をやっていた。
「…あ、その歌」
母が口ずさむフレーズは、聞き覚えがあった。思わず口を挟むと、母は首を傾げるような仕草で振り向いた。
「ん? 何?」
「その歌、この前、陸がかけてたレコードの曲?」
「―――ああ、そうかもしれないわねぇ。耳に残ってたから、あまり深く考えてなかったけど…陸さんの部屋から聴こえたのかも。多恵子、曲名知ってるの?」
「うん。“サマー・タイム”っていう曲。エラ・フィッツジェラルドって黒人シンガーが歌ってるの。陸が一番好きなジャズ・シンガーなんだって」
「へーえ…陸さんて大人ねぇ。ジャズなんか聴くの」
私なんかいまだにオフコースばっかりよ、などと笑いながら話す母に、多恵子も声をたてて笑った。母は陸のことを「陸さん」と呼ぶ。再婚当時、既に15歳だった陸を、やはり実の子のように呼び捨てには出来なかったらしい。
その時、ダイニングの扉がガチャリと開いた。
「多恵子。行くよ」
すっかり外出の用意が整った陸が、半開きのドアから顔を覗かせていた。
「あ、うん」
多恵子は、テーブルの上に広げたノートや教科書を学生鞄の中に仕舞うと、隣の椅子にかけておいたコートを手に立ち上がった。それを確認した陸は、少し遠慮がちに、母の背中に声をかけた。
「じゃ、母さん。夕方には戻るから」
母は、その声に洗い物の手を止め、ふわりと振り返った。その顔は、確かに微笑んではいたが、やはりどことなく寂しげで、今の複雑な心境を表しているみたいだった。
「陸さん、私の分もお願いね」
「…うん。わかった」
そんな母の心情を察して、陸も控えめな笑顔で応えた。
「多恵子、寒くないか?」
「うん、大丈夫。…花、お供えしても、凍っちゃうんじゃない?」
「かもな」
土埃で白っぽくなった墓石を水で洗い、白と黄色の菊の花を供える。「杉浦家之墓」と書かれた墓石の下には、陸の母親とその両親が眠っている筈だ。
2月。1年で最も冷え込みの厳しいこの季節に、陸の母はこの世を去った。今日はその命日だった。形式ばったことはお盆にやるので、命日は陸がこうして墓参りに来るだけ―――多恵子が引き取られてからは、多恵子も一緒に来ていた。
ひと通りのお参りが済むと、陸と多恵子は立ち上がり、水桶を手に歩き始めた。
「けど、陸のお母さん、どうして飯島家のお墓に入らなかったの?」
杉浦は、陸の母の旧姓である。多恵子の当たり前の疑問に、陸は苦笑を返した。
「母さん、一人っ子でね。しかも両親が既に他界してたから、親に対する思い入れが強かったんだよ。もうあと1月もつかもたないか、って時に、自分の死期を察して、父さんに頼んだらしい。死んだら、杉浦の墓に納めてくれって」
「ふうん…そんな事、できるんだね」
「そりゃ、父さんからすりゃ面白くなかっただろうけど―――故人の意思を無視する程、罰当たりな人間でもなかったらしいな。医者なんて“死に近い商売”やってるから、一応その位の分別はあるってことか…」
普段の陸らしからぬ、皮肉っぽい口調。大学入学を巡る父との確執は、2年経った今も、陸の心の中に根をしっかりと下ろしているらしい。父の話をする時に限って、陸はこんな喋り方をするのだった。
この4月になれば、多恵子も中3―――高校受験の年を迎える。父は、陸に対してそうしたように、自分に対しても人生のレールを敷こうとするだろうか? …いや、そうはならないだろう。多恵子はそう思っている。
多恵子の成績は、陸という家庭教師がいるおかげもあって、そこそこ良い位置をキープしている。けれど、父はほとんど、多恵子の成績を気にしない。父は、女医という存在を嫌っているし、看護婦には一般常識と愛情さえあればいいと思っているから、そのどちらの道にも多恵子を進ませる気はないのだ。それ以外の仕事には興味がない―――多分、あと10年もしたら、多恵子自身より多恵子の結婚相手探しに興味を示すのだろう。…そういう人間だ、父という人は。
でも、多恵子は、成績だけはキープし続ける。
“失敗した結果”である自分が―――正妻の子でない上、生みの母は滅茶苦茶な女で、大して美人でもなく、体も小さなままの自分が、唯一父に胸を張っていられる部分。だから、キープし続ける。たとえ興味を示されなくても。それが、多恵子なりのプライドと意地。馬鹿馬鹿しい―――多恵子は、コートのポケットの中で、手をぎゅっと握り締めた。
「…多恵子。例の、MITの件だけど」
霊園の入り口に手桶を返却した陸は、再び多恵子の隣に並びかけながら、ぼそりと話した。
MIT―――マサチューセッツ工科大学。陸が密かに狙っている留学先だ。多恵子はぱっと顔を上げ、陸の顔を仰ぎ見た。
「うん。何?」
「ん…、試験を受けるのを、1年早めるかもしれない」
陸の目は、数メートル先の地面をじっと見つめていた。
「4年になると、当然、国家試験や何やと、また父さんと喧嘩になるのは目に見えてるから。3年のうちに、受けようと思う。まだ自信はないけど…TOEFLは一応留学可能ライン超えてるし」
「そ…っか…。もう1年しかないんだ、そしたら」
「多恵子は? どうする?」
「私?」
「高校だよ。当然、日本の高校受けるだろうけど―――大学までの3年間、1人で大丈夫か?」
その言葉に、多恵子の足が止まった。
そうだ―――頭からそのことが、すっぽり抜け落ちていた。陸がアメリカに留学するということは、多恵子が大学進学時に留学を目指すにしても、それまでの3年間は1人で日本に残らねばならない、という事を意味しているのだ。
陸を見上げる多恵子の目が、動揺のあまり、ぐらぐらと揺れている。それを見て陸はクスリと笑い、多恵子の頭をくしゃっと撫でた。
「…ま、この辺りにも、交換留学をやってる高校がいくつかあるからさ。その辺りを狙えば、高校生のうちからアメリカに行くこともできるよ。多恵子のがんばり次第だけど」
「―――陸の意地悪。知っててわざと言ったんだ。1人で大丈夫か、なんて」
「あはは、ごめん」
むくれる多恵子の機嫌を取るように、陸は多恵子に手を差し出した。多恵子が寂しそうな顔をしたせいで、つい今しがたまでの暗い気分が少し和らいだらしい。手を差し出す陸の表情は、いつもの穏やかな顔になっている。多恵子は、口を尖らせながらも、差し出された手を握った。
2人手を繋いで、霊園を取り囲むフェンスに沿った坂道をゆっくり下ってゆく。2月の空にしてはすっきりと晴れ渡った青空で、耳をもぎ取りそうな冷たさがキンと空まで突き抜けていきそうな感じがする。ただ、繋いでいる手だけは、ほのかに温かかった。
「陸。ここからMITまで、どの位あるの?」
「どうだろう―――東京・ニューヨーク間が約6700マイルって言うから…6500マイルくらいかな」
「…って、どの位?」
「1万キロ強」
「1万!? 遠い!」
「そうだよなぁ…。遠いよな、アメリカなんて、毎日毎日テレビで飽きるほど見てるのに、うんざりする程遠い…」
小さな笑い声をたてると、陸は空を見上げた。
「比べて、宇宙までの距離なんて、近いもんだよな―――この地面から、宇宙って呼ばれる外気圏まで、たった800マイルだよ」
「…ほんとだね」
多恵子も、つられるように、青い空を見上げてみた。
思いのほか太陽の光が眩しくて、思わず、繋いでいない方の手を太陽にかざした。皮膚が光に透け、手の中を流れる血潮が逆光の手の甲を染める―――不思議な映像だった。
「成層圏を、中間圏を、熱圏を、電離層を越えて―――その先の、宇宙。たった、800マイルだ…それを越えるために、今も何万人もの人が研究を重ねている。…くだらない仕事なんかじゃない。絶対に」
そう言って空を見上げる陸の目は、真剣そのものだった。
重力に打ち勝ち、真空の恐怖に打ち勝ち、外へ―――自分たちのテリトリーを広げようとするのが、生物の当たり前の本能だと、陸は言った。人間だって、あまたいる動物たちの1種類に過ぎない。地球という器では飽き足らず、外へと泳ぎだそうとするのは、無謀でもなんでもない、生物としての本能なのだと。
宇宙を思う時の陸は、とても、強い。とてつもない生命力を感じる。秋の落ち葉よりも、夏の太陽が似合う位に。
静かで優しい陸も多恵子は好きだったが、それ以上に、陸が内包するそういうエネルギーに、どうしようもなく心惹かれていた。
自分にはない力―――未来を真っ直ぐに目指すエネルギー。そこまでの力強さで目指すべき道を持っている陸が、心の底から羨ましかった。
***
中3になった多恵子は、ボストン近辺の高校と交換留学を行っている高校を探すことに没頭した。
考えてみると、この時期の多恵子は、自分にはないと思っていた力をちゃんと発揮していたのだ。多恵子は確かに、わき目もふらずに熱中していた―――陸の傍にいるための方法。それを見つけることに。
けれど。
そんな時期は、長くは続かなかった。
「誰もそんな事は言ってないだろう!? 陸、なんでそんな態度を取るんだ!」
6月も残り僅かとなった、土曜日。半日で授業を終えて帰宅した多恵子は、久々に聞く父の怒鳴り声に、思わず身を竦ませた。
リビングに続くドアの外で、母が困ったような顔をして、リビングの中の様子を窺っていた。制服姿の多恵子の姿を見つけると、人さし指を唇の前に当てて首を振り、自分の傍へと多恵子を招き寄せた。
リビングには、父と陸がいた。その顔は見えないが、2人が発するオーラから、かつてない程に険悪な状態だとわかった。
「当たり前だろ! 何が“院長の姪御さん”だよ。会うだけ? 会って何しろって言うんだよ。要するに、院長と面通しさせたいだけだろ!? 自分ひとりじゃ僕を医学の道に縛り付けるには心もとないから」
「陸! いい加減にしろ! わたしはそんなつもりはないぞ!」
「…じゃあ説明してみろよ」
「―――院長が、陸が医学部でかなり優秀な成績をおさめているのを聞いて、いたく感心されてね。将来有望な医師の卵なら、是非会ってみたいとおっしゃったんだよ。来月、お前の誕生日があるから、その祝いを兼ねて―――それでな、院長の姪御さんがちょうど陸の1つ下だから、年も近い同士、話も合うだろうと」
「よくある話だよな。大学病院内の派閥争いに、家族も巻き込まれるって話。僕は、院長とのコネクションを強くするための、父さんの持ち駒な訳だ」
例の皮肉っぽい口調で、陸が父の言葉を遮って、そう吐き捨てる。母は、そういう陸を見たことがなかったのだろう。多恵子の肩に置かれた手に、僅かに力が入っていた。
「絶対、会わない。何が誕生祝いだよ。絶対に会わないからな」
「いい加減にしないか。お前の将来のためにもなるんだ。今のうちからちゃんと付き合いはしておかないと」
「いらないよ。医者になんてならないから」
多恵子の顔色が変わった。
まずい。まだ早すぎる。陸は、まだMITに留学するための足場固めを終えていない。今、洗いざらい話してしまったら、弱いところから崩されて、計画をぶち壊されてしまう―――多恵子はそのことを、本能的に察した。
「―――なんだと。もう一度言ってみろ」
「医者にはならないって言ったんだよ。医学部に入ったのは、父さんの望みをひとまず叶えて、譲歩してもらうための作戦にすぎないよ」
父の背中が、あからさまに強張る。多恵子は、我慢できず、母の手を振り解いてリビングの中へ飛び込んだ。が、多恵子が制するよりも、陸の方が早かった。
「僕は、MITに留学する。宇宙工学を学んで、NASAの一員として、宇宙開発事業に携わるんだ。医者にはならない」
「陸…っ!」
突然、割って入った多恵子の声に、陸と父がハッとしたように多恵子の方を向いた。
「多恵子…」
「駄目! まだ―――…」
なんとか、フォローを入れようとしたけれど。
自分を見た父の目を見て、多恵子は、既に遅いことを悟った。
父は、全てを一瞬で見抜いたのだ。大学進学の件でもめた頃から、既にこの計画は、多恵子と陸の間で出来上がっていた、と。多恵子に向けられた父の目は、激しい怒りと憤りを顕わにしていた。
「…お前ら2人して、共謀してわたしを騙してたのか…?」
「…お…父さ…」
次の瞬間。
多恵子は、人生2度目の強烈な平手打ちを受け、ソファの上に倒れこんだ。
鼓膜が破れたのではないか、というほどの、衝撃。耳鳴りの中、多恵子は陸と母が同時に自分の名を叫ぶのを聞いた―――気がした。
多恵子を助け起こしたのは、陸ではなく、母だった。陸は、父に腕を掴まれ、強制的に自分の方を向かされていた。
「陸―――陸、頼む、目を覚ましてくれ。お前はずっと、医者を目指してたじゃないか」
「ち…がう…」
「母さんが…
「違う! 父さん、僕は」
「お前まで、わたしを拒否するのか!?」
父が、陸の両肩を掴んで揺すった。そこに、いつも無口で落ち着いている“飯島医師”の面影はない。
「純子だけじゃなく―――息子のお前まで、わたしを拒否するのか!?」
「―――…っ」
「飯島の…飯島の墓に入るのを拒否した純子のように、陸、お前もわたしを拒否する気なのか…!?」
その時、陸は、理解した。
父の、自分に対する、異常とも思えるほどの執着心の、原点を。
そして、多恵子も、理解した。
父が今、この事態をどう解釈しているのかを。
父は、多恵子が陸を狂わせたと思っているのだ。
多恵子は父にとって、陸を惑わせる“目の前のもの”。多恵子を引き取ってから陸が変わった、そう思ったからこそ、陸を殴らず多恵子だけを殴ったのだ。
―――お父さん。
そう思うのは―――私が、お父さんを惑わせ失敗させた女の、娘だから…?
***
翌週は、多恵子の誕生日だった。
前週のいざこざが、ただでさえ仮初めで歪みの生じていた家族に、暗い影を落としていた。母がプレゼントにワンピースを買ってくれたが、去年は父以外の3人で開いた誕生パーティーも、今年はとても開く気分にはなれなかった。
一番可哀想なのは、母だと思う。
父と母の間に、どんなロマンスがあったのかは知らないが―――少なくとも母は、飯島雅彦という男を愛したからこそ、結婚したのだろう。だとすれば、陸の存在も、多恵子の存在も、本来なら彼女にとっては辛い存在に違いない。子を生すことの出来ない彼女だからこそ、尚更に。
そこにきて、この前、父が陸にぶつけた言葉―――あの時、殴られた多恵子を抱き起こした母の手は、隠しようもない程に震えていた。前妻の話は、夫婦の間ではタブーになっていたのだろう。
…ぎしぎしと、音を立てている感じだ。
4つのピースが、うまく嵌らなくて、ぎこちない音をたてている。理解できなくて―――理解したくなくて。
「―――僕は、死んでも、天国には行けないな…」
「…陸が? どうして?」
「一度は、母の亡骸を前にして誓いを立てたのに…それでも宇宙を諦めきれない。それに―――…」
母のプレゼントを纏った多恵子の首筋に軽く唇を触れさせ、陸は、自嘲気味に口元を歪めた。
「実の妹を、愛してる。…神様が許す訳ないよな。こんなの。たとえ禁忌を犯してなくても」
「―――陸は、天国に行きたいの?」
「多恵子は?」
「私は、陸が行くところに行きたい」
「地獄でも?」
その問いに、多恵子は暗い目で笑った。
「…
「―――…そうだな」
陸はふっと笑うと、多恵子の肩から手を離して、自分のベッドの上に仰向けに倒れこんだ。何の装飾もない、ただの白い天井を見つめるその目は、天井など見てはいなかった。もっと遠く―――もっともっと先を、見ていた。
「…僕は、“そら”に、行きたい」
陸が、そう、呟いた。
「“そら”?」
「うん」
多恵子は、開け放った窓から射す月の光だけをたよりに、陸の顔を凝視した。
「どこ?」
「―――天国じゃない所」
「…地獄?」
「地獄は、
そう言って、陸はクスリと笑った。
「…僕を生んだ母さんは、きっと天国に行ってると思う。天国に行った人間は、そこで魂が浄化されて、一生を終える―――もう二度と、
「―――それって、どこかの国の宗教?」
「…いや。僕がそう、思ってるだけだよ」
「そら」―――…。
多恵子は、なんとなく、窓の外に目を向けた。
墨を流したような空に、白い月が浮かんでいる。幽玄の世界―――人を、狂気へと誘うような、光。魂の存在や、死後の世界。そんなものを実感させるほどに…幻想的で、静かで、恐ろしい静寂の世界。
―――あの向こうに、「そら」があるのかもしれない。
今日も誰かが死んで、あの月の向こうで、次の命を与えられているのかもしれない。
もう一度、生まれ直すために。
今度こそ、失敗せずに―――美しい魂のまま生きて、天国に行けるように。
「素敵―――…」
多恵子の頬に、ふいに、涙が伝った。
「私も、“そら”に行きたい…」
―――いっそのこと、行こうか。「そら」へ。
その一言を、どちらが、いつ、言ったのか。
多恵子の誕生日の2週間後―――陸の、誕生日。
2人は、「そら」を目指すための旅に出た。
***
箱の中から現れた真っ白なケーキを見て、陸は目を丸くした。
「なんだ? これ」
「バースデー・ケーキ! 陸、21回目の誕生日、おめでとう」
「…ありがとう。でも、こんなに大量に、2人で食べられるかな」
苦笑しながらも、陸は、小ぶりな円形のケーキの端っこに、多恵子が差し出したプラスチックのフォークを突き立てた。
公園のベンチに座って、ケーキ店で買ってきたケーキを、使い捨てのフォークを使って食べる。奇妙な誕生日パーティーだが、2人はそれで満足だった。
真夏の陽射しを避けるように、緑に生い茂った藤棚の下に陣取った。吹いてくる風が涼しくて、なかなか快適な午後だった。快晴の空も、乾いた空気も、全てが心地よい―――そして何より、ここには、陸を知っているのは多恵子しか、多恵子を知っているのは陸しかいない。それが一番、心地よい。
今頃父は、必死で陸を探しているだろう。院長とやらとの会食が、夕方に迫っているのだ。けれど、その予定について、陸も多恵子も一切口にしなかった。
今となっては、そんな話はもうどうでもいい事だから。
1日中、遊び回った。
陸が大好きなジャズを聴こうと、ジャズ喫茶にも行った。サンシャインの展望台から東京の街を見下ろしたし、その水族館でナポレオンフィッシュにも会った。お金がなくなる前に電車に乗り込み、犬吠埼を目指す。車窓に流れる初めて見る景色さえも、2人にとっては楽しむ材料になっていた。
君ヶ浜の海岸は、うっとりするほど綺麗だった。地上にこんな綺麗な場所があっていいんだろうか、と思うほどに。手を繋いで歩くと、まるで恋人同士のような気分に浸れた。
―――何故、「そら」に行こうとしているのか。
本当のことを言うと、陸にも、そして多恵子にも、その理由はよくわからなかった。
ただ、今の自分に、愛想が尽きた―――それだけ。
こんな自分を、この先何年も何十年も続けていく事を考えたら、とてつもなく億劫になった。父に束縛され、父に疎まれ―――どれだけ傍にいても、死ぬまで一緒にいると誓っても、社会的に認められることのない自分達が。
犬吠埼の遊歩道から、太平洋の波が岩にぶつかって砕けるのを眺める。舗装された道から外れて、海に突き出した岩の上に立っているので、時折足元を波が濡らしていた。
夕日が、海面を、波を、赤く染め上げる。…一瞬、時を忘れてしまう程に、綺麗だった。
「…ねぇ、陸」
「ん?」
「“そら”って言う位だから、“そら”って、宇宙に近いところかな」
「―――そうかもしれないな」
「外気圏までが800マイル…だっけ。だったら、“そら”までは何マイルあるんだろうね」
陸は、それには答えず、ただ多恵子の方を見て微笑んだ。
「…そろそろ、行く?」
「―――ん、そうだね」
2人は、足元のおぼつかない岩場を、慎重に歩き始めた。
遊歩道の先―――灯台の手前に、切り立った崖が見えていた。そこが、2人の最終目的地。観光客もいなくなったこの時間帯ならば、きっと止める人もいないだろう。
「多恵子、大丈夫か?」
なかなか遊歩道まで戻れず、何度も海水に足元をさらわれそうになっている多恵子をかえり見て、陸は眉をひそめた。
「う、うん…、大丈夫」
足場を探しているうちに、かえって海に近くなってしまっていた。足を滑らせたら海に落ちてしまいそうな位置で、多恵子は立ち往生していた。
手を引いてやった方がいいだろう。そう思った陸が、多恵子の傍まで引き返した時。
「お、おーい! 君たち、何やってるんだ、そんな所で!」
「―――!」
もう誰もいない、と思い込んでいたところに、全く聞き覚えのない声が割って入った。
驚いて振り向くと、かなり離れた遊歩道から、ヘルメットを被った男性が、慌てたような様子で陸と多恵子の方に合図を送っていた。
見回りなのか、たまたま通りかかったのか―――本来歩くべきでない場所にいる2人に、その人物はただならぬ気配を感じている様子だった。今戻れば、間違いなく、あの断崖絶壁に上らせてはくれないだろう。陸は内心、舌打ちをした。
一瞬、迷う。
その迷ってる隙に。
多恵子の足が、一段と強い波に、さらわれた。
「あ―――…!!」
一瞬の、出来事。
波が引くのと同時に、多恵子の体は海中に引きずり込まれていた。
岩で頭を打たなかったのは、不幸中の幸いなのだろう―――いや、今から死のうとしていたのだから、そういう表現はおかしいのかもしれない。
けれど多恵子は、波の間で錐揉み状態になって、息が出来ずにいた。
服が、あっという間に水を吸い、多恵子の体に絡みつく。それが重石となって、多恵子の体を更に海中へと引きずり込もうとする。一瞬顔を海面に出して息をしても、その上にまた波が被ってくる。多恵子は手を伸ばして、縋るものを探した。
―――陸…!
陸、陸、どこ!? どこにいるの!?
怖いよ―――お願い、ひとりに、しないでよ―――…っ!
その時、多恵子の伸ばした手に、何かが触れた。
触れたものは、すぐに多恵子の手に絡みつき、ぐいっと多恵子を引き寄せた。抱きとめられ、それでもなお一緒に沈みかけながら、多恵子はそれが陸であることに気づいた。
「り…陸っ」
「大丈夫か!?」
陸は、多恵子が海に落ちた後、海に飛び込んだらしい。それを理解して、多恵子はやっとホッとした。
―――もう、溺れ死んでも大丈夫だ。
陸が一緒なら、全然、怖くない。
陸に何か言いたかったが、その間にも、波は容赦なく陸と多恵子を飲み込む。波に押されて岩場の方へと戻されたり、引く波にさらわれて沖へと放り出されたり―――それを繰り返す。2人は、とにかく離れてしまわないよう、必死にお互いの体のどこかしらを掴んでいた。
頭上のどこかから、微かに声が聞こえた。もしかしたら、さっきの男性かもしれない―――そう思った時、また強い波が来て、2人は大きく岩場の方へと押し戻された。
「や……っ!」
一瞬、陸の腕から、多恵子の手が離れそうになる。慌てて掴むと、ちゃんと陸が引き寄せてくれた。
「り…く…」
言葉が、出ない。
体が、重い。でも、多恵子を支えている陸の方が、もっと重い筈だ。
―――もう、限界なのかもしれない。
「―――多恵子…」
驚く程、耳元に近いところで、陸の声がした。
意識が遠のきかけた多恵子は、最後の気力を振り絞って顔を上げた。すると、額がくっついてしまいそうな程近くに、陸の顔があった。
陸の、緑がかった黒い瞳が、哀しそうに多恵子の目を見つめていた。
「―――ごめん」
そう、陸が言った直後。
頭が僅かに引き寄せられ、陸の唇が、一瞬、多恵子の唇に重ねられた。
「! り―――…」
次の瞬間―――陸の手が、力いっぱい、多恵子を突き放した。
「陸―――…!」
どうして―――…!?
波が、多恵子の体を飲み込んだ。飲み込んで、岩場の奥へと、その体を運んだ。
陸の姿は、波に掻き消されて、見えなかった。
***
次に目を覚ました時、多恵子は、白い病室に一人で寝ていた。
「多恵子!」
傍についていた母が、泣きすぎて真っ赤になった目をして、多恵子の名を呼んだ。
天井が、ぐるぐると回っている。自分の手を握る母の手も、なんだか何重にも重ねた手袋の上から握られているみたいに、実感が乏しい。
―――ここ…「そら」じゃ、ないの…?
まだ、地上なのだろうか。ならば何故、こんなに実感がないのだろう。
「よ…良かった、多恵子…ほんとに良かったぁ…」
多恵子の体に縋るようにして、母は何度もそう繰り返しながら、泣いていた。
ゆっくり、首を回す。
ドアの傍に、父が硬い表情で立っていた。
母のように泣くこともなく、ただ、そこに立っていた。多恵子の目を、静かに見返して。
他には、何も見えない―――白い壁と、サイドボードと、白いブラインドの下ろされた窓が見えるだけだ。
「…陸…は…」
なんとか口を動かし、そう言葉を紡ぐ。
けれど、父も母も、その問いに答えてはくれない。その無言の反応が、多恵子に事実を教えていた。
―――置いていかれちゃったんだ…。
陸は、私を置いて、「そら」へ行ってしまった。
陸は最後に、間違いなく私を突き放した。ここに残れと―――先に行くから残れと、あの手は私に言っていた。
陸に…置いていかれた―――…。
***
「―――多恵子」
母の声に、多恵子ははっと我に返った。
顔を上げると、既に7回忌の法要は終わっており、沢山いた親戚はもう食事の席へと移動し始めていた。
「大丈夫…?」
「…うん、大丈夫」
母の手に掴まって、多恵子はフラリと立ち上がった。
「でも、ごめん―――お墓参りには、行かない」
「……」
「あそこに、陸は、いない」
―――だって、まだ、見つかっていない。
陸の体は、波間に消えたまま、見つかっていない。陸が着ていたシャツが、岩場にひっかかっていただけで。
母は、悲しげに多恵子を見つめていたが、やがて、労わるようにその背中をトン、と軽く叩いた。
「よく、頑張ったわね。…あんなに仲が良かったんだもの。認めたくないのも、無理はないわ」
「…うん」
「涼子」
寺の住職と何か話していた父が、母を呼んだ。その目が、一瞬、多恵子の視線とぶつかる。
父は、無表情だった。あの日、病室でそうだったように。
多恵子は、生還してからこれまで、一度も父から「よかった」と言われていない。多恵子が生還後、最初に聞いた父の言葉は、嘆きの言葉だった。
“なんで―――なんで、陸が―――…”。
―――なんで、お前ではなく、陸が。
多恵子にはそう、聞こえた。
「―――ごめん、お母さん。先に帰ってる」
多恵子がそう言うと、母は心配げに眉を寄せた。安心させるよう、僅かに笑みを作ってみせてから、多恵子は父の視線を振り切るように、木の廊下に出て、靴を履いた。もうこれ以上、ここに居たくはなかった。
―――あの日、多恵子は、一度死んだ。
だから、それ以来、世界は実感がなくなってしまった。全てが映像の世界のように、実感がない。
鏡の中をどんなに探しても、陸はいない。多恵子の中のどこにもいない。髪を切っても、口調を真似ても、意味などない。陸の居ない世界では、何も感じられない。
この体に流れる血の半分が、いつも多恵子を苛んでいた。死ななくては―――早く、死ななくては、と。
この血は、要らないのだから。
早く―――新しい命をもらって、もう一度、生まれたい。
多恵子は、おぼつかない足取りで歩きながら、無意識のうちに唇を指で辿っていた。
死ぬ前に経験した、たった一度の口づけ。
―――あれは、別れのキス?
それとも、誓いのキス―――…?
「陸―――…」
―――愛してる。
言えなかった、一言。それを口にした多恵子の目から、涙が一粒、零れ落ちた。
でも、もう、ここに陸はいない―――…。
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