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多恵子の一言に、久保田は危うくグラスを落としてしまいそうになった。
「ひ…一人暮らし!? お前が!?」
「―――なに、その反応」
カウンターにもたれかかり、手鏡を見ながらピアスを付け替えていた多恵子は、不愉快そうに眉を吊り上げた。
「僕が一人暮らしするのが、そんなに意外な訳?」
「い、意外っつーか―――出来るのか!?」
「なにそれ。ムカつくな。こう見えても自炊はそこそこ出来る方なのに」
多恵子と、自炊。全然結びつかない単語だ。久保田は、半ば呆然という表情のまま、多恵子の横顔を凝視した。
「…隼雄。手ぇ止まってる」
「あ…ああ、悪い」
指摘を受けて、手にしていたグラスをやっと棚に戻した。けれど、頭の中は、開店準備より多恵子の話の方で占められている。
誕生日に手首を切って以来、多恵子は少しおかしかった。
人生を投げてしまったような―――全てがどうでもいいような顔をして、大学に来ていた。試験やレポートは完璧にこなしたものの、恒例の軽音楽部のライブもキャンセルしてしまい、講義が終わった後は佐倉にも久保田にも顔を見せずに帰ってしまう。そんな態度を、夏休みに入るまでずっと続けていた。
夏休み中も、バイトが週2回に減らされてしまったため、多恵子の動向を把握するのが難しくなっていた。多恵子は、バイト先にはちゃんと顔を出し、カルテットの連中と笑顔で雑談し、自慢のハスキー・ボイスでジャズのスタンダード・ナンバーを歌いあげ、帰って行った。ぱっと見る限り、いつもと変わらない多恵子。だが…休み前の態度が態度だっただけに、その顔が今の多恵子の本当の顔かどうかは、怪しいところだ。
そして、夏休みも明けた、9月半ば。
「夏休み中に、家を出たんだ」
家を出て、一人暮らしを始めた―――多恵子はにこやかに、そう言ったのだった。
「ほんとはさ、前から考えてはいたんだ。父親とあまりうまくいってないし、たまに顔合わせていやーな気分になるよか、生活の場自体変えた方がいいのかもな、ってね。それにさ、隼雄や成田みたいな一人暮らしを経験するのもいいな、と思って。なんか、大人になった気分じゃん、一人暮らしって」
「……」
―――いや、俺も瑞樹も、単に他県から来てるから、やむなく一人暮らししてるだけなんだが…。
そう思いつつも、久保田は言葉が出なかった。妙にすっぱりと―――夏休み前のあの異常状態が嘘みたいに、何かをふっきったように喋る多恵子の様子に、呆気にとられていたのだ。
何が、あったのか。
訊くのは簡単だ。けれど、その答えを聞くのが、なんとなく怖かった。第一、訊いたところで、多恵子が答えるとも思えない。
この変化が、良い変化なのか、悪い変化なのか。こと、多恵子に関しては、それすら判断がつかない。どんな変化であれ、それは久保田の不安を煽ることにしかならなかった。
「多恵子。大丈夫か?」
思わず眉をひそめてそう訊ねると、多恵子は一瞬目を丸くして、すぐに茶化すような笑みを浮かべた。
「何? そんなに僕が一人暮らしするのが心配?」
「いや…その」
「大丈夫。冗談でも誤魔化しでもなく、本当に、ただ一人でやってみたかっただけなんだから」
「…まあ、俺が反対することでもねーけど…」
「心配しないでも、ひとりきりになったからって、手首切ったり薬飲んだりしないよ」
ずばりと核心を言い当てられ、言葉に詰まる。そう―――それを一番、心配していたのだ。
顔を僅かに強張らせた久保田の反応に、多恵子は、茶化すような色合いを抑えた、静かな笑みを返した。
「隼雄はさ。もう僕の心配はしなくていいから」
「…え?」
「もう、隼雄が心配するような事は、何もする気ないから。だから、ちょっと佐倉のこと、真剣に考えてやってよ」
「は!?」
久保田の目が、極限まで大きく見開かれた。
「さっ、佐倉が、何か言ったのか!?」
「ハハハ、言うわけないじゃん、あの佐倉が。見てりゃわかるよ。佐倉の態度ってわかりやすいもん。恋愛下手の隼雄ちゃんには勿体無い位いい女だし、ビジネス抜きで男に関心示すなんてもう二度とないかもしれない奴だからさ、ここは一口乗っといた方がいいんじゃないの」
「…おい…無茶苦茶言うなぁ…」
「恋愛下手は、過去2件で証明されてんじゃん。全く…佐倉の気も知らないでさ。隼雄、鈍すぎ」
仕方のない奴、という視線を送ってくる多恵子に対して、久保田は唖然とするしかない。
ちょうどそこに、カルテットの連中が入ってきた。「あっ、おはよーございまーす」と機嫌よく挨拶しに行ってしまう多恵子の背中を見ても、やっぱり唖然という状態を解除できない。まだ並べるべきグラスが片手にあまる程あるというのに。
―――多恵子。
…お前、ほんと、どうしたんだ?
***
10月間近の空は、夏の眩暈がするような極彩色から、秋のしっとりとした色合いに変わりつつあった。
屋上の乾いた地面の上、膝を抱えてそんな空を見上げていると、背後で、扉が開く音がした。多恵子は特に振り向くこともなく、空を見上げ続けた。
人の気配が、多恵子から少し離れたところに落ち着くのを待ち、やっと顔をそちらに向ける。
「成田、煙草1本めぐんで」
ちょうど胸ポケットからマルボロの箱を出そうとしているところだった瑞樹は、一瞬その手を止め、迷惑そうな顔をした。が、最初の時がそうだったように、それを箱ごと多恵子の方に投げてよこした。
箱から1本頂戴して、箱を投げ返すと、それは見事に瑞樹のデイパックのすぐ横に落ちた。
今日は、木曜日。多恵子は午前中で講義が終わる。瑞樹も偶然そうであることを、前期試験の終わったあの日、初めて知った。そして木曜日は、瑞樹のバイトがないことも。
だから先週も、その前の週も、こうしてここで、瑞樹を待っていた。
煙草を口にくわえて、空を仰ぐ。雲の流れに、今日は午後からも晴天が続くのだろうと考えながら、多恵子は時間を忘れたように空を眺め続けた。
煙草のフィルターぎりぎりのところまでが灰になると、多恵子はやっと視線を戻して、周囲に放り出していた鏡やライターをバッグの中に押し込んだ。立ち上がって、瑞樹を見下ろすと、彼もちょうど1本吸い終えたところだった。けれど、まだ彼の方は、空をじっと見つめている。
「―――また、付き合ってもらえないかな」
多恵子がそう言うと、瑞樹は、一瞬だけ多恵子の方を見た。
先々週も、先週も、彼は断らなかった。けれど、この頼みに、彼が承諾の言葉を言うことはない。いつだって無言だ。
今日も瑞樹は、無言だった。しばし空を見上げ続けた後、やおらデイパックを掴んで立ち上がると、多恵子の方を見もしないで、鉄の扉を開けて階下へと下りていく。
多恵子も無言で、その背中を追った。
逗子の海岸は結構な観光地で、夏の間は人が多かった。が、さすがにこの時期になると、夕方に向かうこの時間帯、波を楽しむ人の影はまばらだ。
多恵子は、裸足になって、波うち際を海岸線に沿って歩いた。
寄せる波が、時折くるぶしあたりまでを濡らす。足の裏に感じる砂の動きに、このまま砂の中に引きずり込まれるのではないか―――そんな錯覚を覚える瞬間もある。けれど、不思議と恐怖心はなかった。ザザザ…、という波の音を聴いていると、どんどん心が穏やかになれる気がした。
ふと、背後を振り返る。
乾いた砂の上に、屋上に居た時と同じ片膝を抱えた姿で、瑞樹が座っていた。
海に来ていても、やっぱり彼の目は空だけを見つめている。けれど、少しその表情が穏やかに見えるのは、やっぱりここが海だからなのかもしれない。瑞樹は横浜で生まれ育ち、その後上京するまでは神戸で過ごしたのだと、以前沙和から聞いた。その時はさして興味も湧かなかったが、瑞樹が文句を言わずに多恵子の求めに応じている理由を考えた時、彼が横浜・神戸という海の街で育ったことに思い当たった。
―――心を、リセットする。空を見上げる意味を、瑞樹はそう、説明していた。
今、彼は、空を見上げてどんな心をリセットさせているのだろう。…それはわからないが、多恵子が納得いくまで、こうして無言のまま付き合ってくれている瑞樹に、多恵子は口には出さないものの、心の底から感謝している。
夏休み中、バイト先のスタジオに押しかけて頼み込んでここに付いてきてもらった時、多恵子は瑞樹に質問したことがある。
『成田は僕の事止めないって言ったけど…それって、自分も死にたいって思ったから?』
すると彼は、いつものように感情の読み取れない微かな笑みを浮かべて、答えた。
『俺は、死にたいなんて思った事、一度もねぇよ。…誰が死んでやるか、死んだら負けだって思ってる』
この世を「地獄」と感じている…瑞樹は、多恵子と同じ、そういう人種だと思う。そういう人間にとっては、生き続ける事は、とても苦痛を伴う。人生をリセットさせられたら楽だ、そう思うのが当然だ。
ただ―――瑞樹と多恵子の違うところは、瑞樹はゲームオーバーを「負け」と感じていて、多恵子はそれを「解放」と感じていることだ。でも、瑞樹は、多恵子が自分のようにこのゲームを乗り切る力がない事を察している。生き続ければ破綻する、それを感じているから、たとえそれが逃げであっても、死を選ぶ事を止めようとはしないのだろう。
―――ならば。
何故今、こうして付き合ってくれるのか。
何故あの日―――21回目の誕生日の日、久保田に気づいた事を伝えて、多恵子の逃亡を阻んだのか。
夏の間、何度もそれを問い直した。自分の中で―――過去に瑞樹が示してきたヒントを、1つ1つ、丁寧になぞりながら。
そして、最後に、たった1つ残った言葉。それは過去に2度、瑞樹が多恵子に投げつけた言葉だった。
“半端なヤツ”―――彼は多恵子を、そう斬って捨てた。
半端―――この世に未練を残しつつも、「そら」に思いを馳せる自分。陸を愛しながら、久保田やシンジを愛しながら、結局は彼らを傷つけることしかできない自分。
半端だ。今、多恵子が死ねば、久保田もシンジも深く傷つくだろう。2人とも、あれほど多恵子の心配をしてくれているのに、何ひとつ返せていない。潔く死ぬ―――格好いい事を言いながらも、結局多恵子のやろうとしていることは、愛した人を後悔の泥沼に突き落として見捨てていくことなのだ。
惚れたのなら、あの2人に対しては責任を持て、と瑞樹は言った。
ならば―――生きる意味を見失った自分が生きる意味は、もしかしたらそこにあるのかもしれない。
夕方が近くなり、海風が少し強くなった。
多恵子は、風に乱された長めの前髪を手で押さえ、視線を水平線の彼方へと向けた。
「陸―――…」
今、陸は、どの辺を漂っているのだろう。まだ生まれ変わらずに、多恵子が来るのを待っていてくれるだろうか。
…きっと、待っていてくれる。多恵子はそう、信じる事にした。
陸が置いていった命―――だから、陸より先の未来へは行かないと誓ったけれど、その誓いは既に破られてしまった。
だから、もう、焦らない。穏やかに、来るべき時が来るまで、待つことにした。まだ多恵子は、本当の意味では“生きて”いない―――ただ無駄に呼吸し、意味も無く鼓動を打ち続けていただけで、“生きて”などいない。
せめて。
久保田とシンジ、その2人に対して、何の胸の痛みも覚えずに別れが告げられるようになるまで。
それまでは―――生きてみよう。
それが出来た時、きっと瑞樹は、褒めてくれるだろう―――“多恵子、良かったな”と。
「…陸…もう少しだけ、待ってて」
風に、声が掻き消される。けれど、陸にはちゃんと届いている筈だ。
死を選ぶ前に、一度だけ、“生きる”―――混乱の夏を越えた多恵子は、そう、陸に誓っていた。
***
その秋から冬にかけては、穏やかな時間が過ぎていった。
慣れない一人暮らしは、想像したよりも大変だった。炊事や掃除に始まる日々の雑事。頭では分かっていたが、いざやってみると、体がついていかない。いかに自分がいままで母に甘えていたか、多恵子は身をもって実感した。
時折、佐倉が泊まりに来た。彼女は家事の面でも完璧だ。つい散らかりがちになる多恵子の部屋を見るたび、佐倉はぶちぶちと文句を言いながら掃除していく。佐倉が泊まった翌日は、多恵子の部屋はいつも綺麗に磨かれていた。
久保田も、時々顔を出す。けれど、佐倉と一緒という事は、一度もなかった。それでなんとなく、2人が付き合い始めたことを多恵子は察した。微かに胸の痛みを覚えはするけれど、以前のような身悶えする苦しさを感じることはなかった。むしろ、佐倉ならば久保田の支えとなって生きてくれるかもしれない、と、不思議な安堵を覚えた。
多恵子がいなくなった時、久保田を支えてくれる存在がいて欲しい―――おそらく、最も自分を責め、最もショックを受けるであろう久保田に、生涯の伴侶と呼べる人が現れてくれたら。…その時こそ、自分がこの地上から解放される時かもしれない、と多恵子は感じていたのだ。
佐倉がそうであればいい…佐倉なら、納得できそうだ。
―――不思議だ。
陸の生きなかった未来を生きる事に、あれほど絶望していたのに。
陸は、もういない―――でも、陸は、待っていてくれる。そう思うだけで、こんな風に穏やかな時間が訪れるなんて。
「…ねぇ、まだ描き上がんないの?」
相変わらず、玄関の傍のイーゼルにかけられたままの白い布を見て、多恵子は眉をひそめた。
最初にそれを見たのは、6月の頭頃だと思う。既に12月―――半年経っても描き上がらないとは、結構筆の早い方のシンジとしては珍しいことだ。
ダウンジャケットを羽織っていたシンジは、チラリとイーゼルに目をやり、困ったような笑みを浮かべた。
「ああ…うん。まだ。途中、ちょっと描き直したりしてたし」
「あとどの位かかるの」
「もう少し。今年中には描き上がるかな…」
テーブルに置いてあった鍵をポケットに突っ込むと、シンジはスニーカーをつっかけて、多恵子の後に続くように外へ出た。
最近の週末は、多恵子の部屋で過ごすようになった。
シンジと同居している2人は、1人はこの夏就職し、もう1人は専門学校に通い始めた。だから、以前は多恵子とシンジ2人きりになれた土曜日の夜、他の2人も家にいる状態になってしまった。多恵子がシンジたちのアパートに泊まるにしても、他の2人がいるのでは、結局4人で朝までマージャン、というパターンに陥るだけだ。それはそれで楽しいが、やはり2人でのんびり出来る時間が欲しかった。
「シンジ、いっそのこと、うちで暮らす?」
多恵子がそう言うと、シンジは、一瞬足を止め、多恵子の方を見た。その、複雑そうな表情に、多恵子の方も怪訝そうな顔をした。
「? なに?」
「…いや…だってさ。前、言ってたでしょ。一緒に住むかって訊いたら…」
「―――ああ、そのことね」
“そんな事したら、僕が死んだ時、シンジ、ひとりぼっちになっちゃうじゃん”。多恵子はそう、答えたのだった。
そう―――その考えは、今も同じだ。けれど、その話を蒸し返すと、シンジが辛い顔をするような気がした。多恵子は、あえて言葉をはぐらかし、ふざけた調子で続けた。
「うーん、そうだよなぁ…。でも、シンジと一緒だと、もうちょい楽しく暮らせるよなぁ…。シンジの方が、料理上手だし」
「…多恵子より下手な奴探す方が難しいと思うけど」
「あ。そんなこと言うし」
むくれた多恵子が、シンジの脇腹に軽くパンチを入れた。
「アイタタ…、ごめんごめん」
苦笑しながら多恵子を宥めたシンジは、パンチを入れてきた多恵子の手を取って、自分のダウンジャケットのポケットの中に突っ込んだ。12月の風は、結構冷たい。手袋をしていない多恵子の手は、すっかり冷え切っていたのだ。
ポケットの中で手を繋いで、歩く。なんだか、可愛い高校生のカップルみたいで、ちょっと照れる。でも、自分よりシンジの方が照れてるのがわかるから、多恵子はニッ、と強気の笑みを返して、ポケットの中でシンジの手をより強く握った。
シンジの髪は、この半年で、また長くなりかけている。一番長い後ろの部分が、既に肩に届くくらい。シンジの髪は明るい色をしているので、伸びてきても重たさを感じない。むしろ、柔らかな色合いが強調されて、綺麗だな、と感じる位だ。多恵子は、シンジと手を繋いで歩きながら、時折そんなシンジの髪に見惚れた。髪の隙間から僅かに覗く耳たぶを見て、シンジだったらピアスも似合いそうだよな、なんて考えながら。
「―――あのさ、多恵子…」
どんなピアスが似合うかな、と考えていたら、ふいに、シンジが口を開いた。
「ん? 何?」
軽い調子で先を促した多恵子だったが、シンジの横顔に目を移して、ちょっと眉をひそめた。
シンジは、真剣な顔で、前を見つめていた。
ふわり、といつも柔らかなシンジにしては、妙に硬さを感じさせる視線―――何か重大な事を口にしようとしているのだろうか。
「…シンジ?」
不安になって、声をかける。すると、シンジを取り巻いていた硬い空気が、ふっと緩んだ。
「―――いや、なんでもないよ」
多恵子を見下ろしてそう言ったシンジの顔は、いつもの柔らかな笑顔だった。
***
「佐倉は、クリスマスイブはどーすんの」
午前の講義を終えて学食へ移動しながら、多恵子は、隣の佐倉に訊ねた。学部は違うものの、偶然2コマ目の講義がお互い近くだったのだ。
佐倉の髪は、また以前のようなストレートに戻っていた。やはりショートにはさせてもらえないらしく、最近では邪魔だと言って、大学では後ろで1つに束ねている。佐倉は、疲れたのか、髪を束ねているバレッタを外しながら、軽く溜め息をついた。
「イブは、仕事。まぁったく…なんでそんな日に撮影入れるかなぁ」
「隼雄、怒ってんじゃないの」
多恵子が、少し茶化す色合いを乗せてそう言うと、佐倉は細い眉を不愉快そうに歪めた。
「久保田君は、なんだか知らないけど、バイトがあるみたいよ」
「は? あいつ、イブにバイトなんか入れたの? デリカシーのない奴ぅ…」
「…ま、別にいいけどね、イブなんてどうでも」
「え?」
そう言ったきり、佐倉は何も言わなかった。ただ、険悪さを醸し出している佐倉の横顔に、嫌な予感を覚えた。
付き合い始めた、という話を聞いていないから、別れた、という話を聞かないのも当然かもしれないが―――問いただすだけの勇気は、やっぱり多恵子にはなかった。できれば、久保田の女性関係の詳細は、あまり知りたくない。それが、多恵子が女性の中では最も気に入っている佐倉であっても。
「―――何、あの人だかり」
嫌な予感にいろいろ考えをめぐらせていた多恵子は、佐倉の訝しげな声に、はっと我に返った。
見ると、A3講義室の入り口に、20人前後の学生が群がっていた。全員、つま先だって、講義室の中を覗き込んでいる。その人だかりの中に、多恵子は見知った顔を見つけた。経済学部の、久保田の友達―――ということは、この黒山は、全員経済学部の人間なのかもしれない。
「勇気あるよなぁ…、重田教授にたてつくなんて」
「でも、教授の方が押され気味なんじゃない?」
「久保田にディベートで勝つ奴なんていないもんな」
―――え!?
野次馬たちの言葉に、多恵子と佐倉は、思わず顔を見合わせた。重田教授は、経済学部でも偏屈で通っている有名な教授だ。学部外の多恵子や佐倉でも名前を知っているほどに。
慌てて、野次馬の人垣の隙間から、中を覗き込んだ。
A3講義室は、さほど広くはない。中には、おそらくゼミの人間全員だろう、15、6人の学生が、まだ席についたままでいた。講義の最中にトラブルが発生して、そのまま休み時間にもつれ込んだのだろう。
そして、黒板の前に、頑固そうな顔をした白髪混じりの男性と、久保田が立っていた。どちらの顔も険しく、重田教授の方は興奮しているのか、僅かに頬が紅潮している。
「じゃ、何か。君は、海外に工場移転させるのは自殺行為だとでもいうのか」
「言います。コスト削減に踊らされて不用意に海外に技術を流出させたら、何年後かには自分の首を絞める羽目になります」
「人件費格差を考えたら、国内で賄おうとすれば、それこそ賃金カットが進行して、余計リストラが進むぞ? 君の主張からすれば、デフレは最小限にとどめたいんじゃなかったのか」
「目の前だけ見ればそうですよ。けど、技術流出を許せば、日本の十八番の自動車や家電を、数年後には中国が真似して作るんですよ。もっと安いコストで。その時、日本にどれだけの競争力が残ってるっていうんですか。先生の理論は、利益確保に焦っている経営者の理論です。日本経済自体の建て直しにはならないんじゃないですか」
「なんだと!」
経済に興味のない多恵子にはよくわからないが、どうやら久保田と教授は、お互いの経済理論を展開して、議論しているらしい。ディベートといえば聞こえはいいが、短気で頑固な教授相手だけに、その光景はほとんど喧嘩だ。
「最近、重田教授も理論がブレてきてるからなぁ…。経済悪化してるから、ブレる気持ちもわかるけどさ」
「にしても、単位に響くんじゃないの。あんなにやりあって、大丈夫なのかな、久保田君」
隣にいる経済学部の連中が、そんな話を声をひそめてしている。それを耳にしながら、多恵子はクスリと笑った。
―――隼雄らしいなぁ…。
久保田は、単位欲しさにおべっかいを使うような真似はしない。納得いくまで議論しあって、相手に自分の意見を「一理ある」と認めさせる方だ。自分と意見が違うから、なんて情けない理由で落とすような教授だったら、ここまでやり合わないだろう。重田教授をそれなりに評価してるからこそ、やり合っている―――多恵子はそう思った。
カッコイイ、と、思う。
自分の信念を曲げない。信じた道を、迷うことなく突き進む。そんな久保田の姿勢は、どうしようもなく格好良かった。ああいう久保田だからこそ、どれだけ多恵子が「そら」に憧れても、全力で地上に留まらせようとするのだ。親から貰った命を自ら捨てる奴を黙認するなんて、久保田の信念に反するから。
久保田には、想像もつかないだろう。
その、命を与えてくれた存在から、要らない存在扱いされる子供の気持ちなど。
一度も顔を見たことのない母。陸を惑わせ陸を奪った女としか多恵子を見ない父―――父からも祖父からも後継者として望まれている久保田に、理解しろと言う方が無理なのかもしれない。
もしも久保田が中途半端な優等生に過ぎないのなら、多恵子はどこかで久保田を妬んだかもしれない。けれど、多恵子が思わず見惚れてしまうほどに―――久保田は、強い。こんな久保田なら、親や祖父から期待をかけられるのも無理はないな、と納得してしまう。妬むどころか、押し付けられる未来に反旗を翻して自らの道を行こうとする久保田に、何故か小気味よさまで感じてしまう。
陸が目指しつつも、実現できなかったこと―――それを、体現してくれている。もしかしたら、陸という存在があったからこそ、多恵子は久保田に惹かれたのかもしれない。
僅かに口元を綻ばせて、教授と久保田の激論の様子を眺めていた多恵子は、佐倉に肩を叩かれ、振り返った。
「行こ、多恵子。昼休み終わっちゃうじゃない」
「えっ…」
そう言う佐倉の顔が、ひどく険しいものになっているのに気づき、多恵子は目を丸くした。
「…どうしたの、佐倉」
「―――別に」
憮然とした口調でそう言うと、佐倉は、多恵子を無視して踵を返してしまった。久保田と教授のバトルがどういう決着点を迎えるのか気になりはしたが、佐倉のあんな態度は初めてで、そちらの方がもっと気になった。多恵子は仕方なく、野次馬を押しのけて佐倉の後を追った。
「ねぇ、佐倉、隼雄と喧嘩でもした訳?」
やたら早足で歩く佐倉を追いながら訊ねる。振り返らない佐倉の表情を見ようと、精一杯急いで佐倉の横に並びかけると、落ち込んだような佐倉の横顔が目に入った。
「―――あたしには、恋愛は無理みたい」
ポツリと、佐倉が呟く。
「…は?」
「恋愛感情より、悔しい、って対抗意識が勝っちゃうなんてね…」
―――対抗意識? 佐倉が、隼雄に?
一瞬、意味が分からなかったが、少し考えて、ほぼ納得がいった。
佐倉も、久保田も、多恵子の“お気に入り”―――気に入った理由は、実はよく似ている。
地に足をつけ、真っ直ぐに自分の未来を見つめる、生命のエネルギー。多恵子はそれを、佐倉にも久保田にも感じ、その部分に惹かれた。つまり…佐倉と久保田は、根本的にどこか似ているのだ。持っているものが。
似ているからこそ、同族意識で、惹かれあう。けれど―――自分との力の差を見せつけられた時、それは対抗意識や妬みへと、容易に姿を変えてしまう。
複雑な表情で佐倉の横顔を見つめている多恵子に気づき、佐倉は目を上げ、多恵子の方をチラリと見た。そして、苦笑を浮かべて、多恵子の頭を軽く小突いた。
「そんな顔、多恵子がしないでよ」
「…でもさ…」
「元々、“恋愛より仕事”ってタイプだからね。―――ほんの少し、男に寄りかかる女の立場を、味わってみたかっただけ。短かったけど、少しは味わえたから、もう十分。精神衛生上悪い関係なら、やめた方がいいでしょ」
「でも、隼雄は納得しないんじゃない? そんな理由で別れたりしたら」
「あはは、大丈夫よ。あいつ、あたしに執着心なんてないもの。ちょっと気に入ってるだけ―――少しは落ち込むだろうけど、ま、それはお互い様よね」
「……」
―――佐倉でも、ダメなのか…。
多恵子は、少し気落ちしたようにうなだれた。
落ち込む。気分が暗くなる。
それは、自分が大好きな佐倉でも無理なのか、という落胆のせいが、半分。
そしてもう半分は―――誰も久保田の近くには行けないことを、心のどこかで喜んでいる自分に気づいた、自己嫌悪のせいだった。
***
12月は、駆け足で日々が過ぎていく。
久保田と佐倉がその後どうなったのか、結局多恵子は確認するのを躊躇ったままだった。2人がどんな気持ちですれ違いのイブを過ごすのか―――多恵子にも、わからない。
第一、久保田や佐倉のことにかまけている暇も、あまりなかった。
後期から本格的に始まったゼミが、とんでもなく難しかったのだ。ドイツ語なんて楽勝、と余裕を見せていた多恵子だったが、ドイツ人の国民性にまで踏み込んだゼミは、かなり本気で取り組まないとまずかった。冬休み前にレポートを提出しろ、と言われ、ゼミの全員が「鬼!」と叫んだほど、多恵子が選んだゼミはハードだ。
毎日のように図書館に通いつめた結果、なんとか無事レポート提出もクリアできた。もししくじっていれば、せっかくのクリスマスがパーになるところだった。ほっと安堵の溜め息をつきながら、そんな風に必死にレポートをこなしている自分に、なんだか不思議な感慨を覚えていた。
今年のイブは、早い段階から、シンジと2人でパーティーをしようと約束していた。
軽音楽部の連中とバカ騒ぎ、というプランもあったにはあったが、なんだか今年に限っては、そういう気分になれなかった。陸の死を実感して受け入れた分、気分がセンチメンタルに傾いているのかもしれない。何故か、どんなものより、シンジの優しさに触れていたかった。
パーティーと言っても、シャンパンを買ってきて、ケンタッキーのパーティーパックを肴に乾杯する、という、酷くお手軽なパーティーなのだが、腕によりをかけてディナーを作る、なんてパーティーよりも、ずっと自分達らしい。多恵子はそう思っていた。
「メリー・クリスマス」
約束の時間ほぼちょうどに多恵子の部屋の呼び鈴を鳴らしたシンジは、いつもの柔らかな笑顔でそう言いながら、部屋に入ってきた。ダウンジャケットを脱ぎながら、見覚えのある絵柄の袋を、多恵子に差し出す。
「はいこれ。ケンタッキーのパーティーパック」
「あ、サンキュー。シャンパンとグラス、ちゃんと冷やしてあるよ」
「へー。案外気がきくなぁ」
「なに、その“案外”って。失礼なやつ」
ちょっとむくれながら袋を受け取った多恵子は、そこで初めて、シンジがもう一つ大きな袋を持ってきていることに気づいた。
肩からかけるタイプの、相当大きな紙袋。中身は見えないが、その大きさや薄さから、それが何であるか多恵子は瞬時に悟った。
「…それ…もしかして、例の絵?」
多恵子の目が紙袋に向いているのに気づき、シンジは、一瞬うろたえたような顔をした。が、それは本当に一瞬のことで、すぐに彼は頷いた。
「昨日、ギリギリ完成したから。多恵子にクリスマスプレゼントとしてあげようと思って」
その言葉に、多恵子は目を丸くした。
「えっ、くれんの?」
「うん。そのつもりで、描いてたから」
シンジはそう言って、絵を袋ごと多恵子に差し出してきた。中身のキャンバスは包装されていないようで、袋から出せば、そこに何が描かれているか、すぐわかってしまう状態だ。
―――怖い。
思わず、受け取るのを躊躇う。
前から、あの白い布の向こうに隠された絵を見るのが、なんとなく怖かった。理由はわからないけれど―――今も、この中にその絵が入ってると思うと、畏怖の思いが、胃のあたりからせり上がってくる。それが実は自分に渡すために描かれたものだと思うと、その思いは余計に増幅された。
…でも。
その性格を表すように、シンジの絵は、いつだって優しい色使いで、優しい題材を描いている。シンジが、多恵子を怖がらせるような絵を描く筈がない。それは信じる事ができる。
まだ少し躊躇いは残しながらも、多恵子はおずおずと、その袋を受け取った。
ケンタッキーの袋を傍らのテーブルに置き、両手で絵の袋を持った多恵子は、一度、大きく唾を飲み込んだ。何をそんなに緊張しているのか、と、自分でも不思議に思いながら。
―――大丈夫。
そう言い聞かせ、多恵子は思い切って、袋からキャンバスを取り出した。
そして、その絵を見た瞬間。
多恵子は、自分の目を、疑った。
声が、出ない。
何故シンジに、こんな絵が描けたのか、まるで想像がつかない。いや、顔立ちなどは、よく見たら似ていないのかもしれないが、一目見た瞬間、多恵子にはそこに描かれているのが誰なのか、直感的に理解できたのだ。
本能が察した。
間違いない。これは―――…。
「シ…ンジ…」
「―――気に入ってくれた?」
困ったような、照れたような笑みを浮かべるシンジと、今手にしている絵とを、何度も見比べる。
手が震えた。体の底から、涙が溢れてくる。多恵子は、耐え切れなくなったように絵をテーブルの上に置くと、シンジに力いっぱい抱きついた。
その絵は、青い海の底で、静かな波に揺られながら、膝を抱えるようにして眠っている、1人の少年の姿。
それは、間違いなく、陸の絵だった。
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