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no001:
気の狂いそうな平凡な日常
-odai:51-

 

ソレハ、ホンノ、日常ノ1ページ。

―97.11―

 冷蔵庫からカクテルバーを1本取り出し、パソコンの前にあぐらをかくと、瑞樹(みずき)は慣れた手つきでキーボードを叩いた。

 『(HAL)こんばんは>ALL』

 画面に1行表示される。この1年ほど、ほぼ毎日繰り返されている、瑞樹の定番の挨拶だ。

 『(mimi)今晩は〜>HAL』
 『(猫柳)まいどー>HAL』
 『(江戸川)こんばんは>HAL』

 ほどなく、画面上にこんな3行が表示される。見慣れた3行だ。大抵、挨拶をすると最初に返事をするのがこの3人だから。

 『(rai)はじめまして>HAL』

 カクテルバーの口を開ける手が止まった。珍しい。初顔だなんて。「はじめまして」という挨拶を最後に見たのはいつだろう? もう半年以上前のような気がする。瑞樹はボトルを傍らに置き、素早くキーボードを叩いた。

 『(HAL)こちらこそ、はじめまして>rai』


 そう。それは、平凡な日常の中に起こった、ほんの些細な出来事。

***

 瑞樹はここ1年、とあるチャットルームに、ほぼ毎日参加している。
 チャットルームとは、インターネット上でリアルタイムに複数の人間が会話をする場所である。ただし、会話と言っても、使われるのは「文字」。インターネット回線を使って、大人数で筆談をやっている、と考えればいい。
 瑞樹が参加しているこのチャットルームは、参加メンバーの大半がプログラマーやシステムエンジニアなので、コンピューターの最新情報には敏感だ。雑誌を買うより早く情報が入ったりする。それに、やはり同じ職種を選ぶ人間なので、趣味傾向が似ている。単なる雑談にしても、他のチャットルームよりははるかに話が合う。
 最初は情報収集のために参加した瑞樹だったが、最近では1日の締めくくりとして、短時間であってもアクセスするのが日課となっていた。

 『(猫柳)嘘、HALとraiって初顔合わせやったか?>HAL & rai』

 大阪在住のプログラマー・"猫柳"がそう言う。"猫柳"だの"rai"だのというのは、勿論彼らの本当の名前ではない。いわゆるハンドルネームというやつで、ネット上での愛称のようなものだ。瑞樹は昔から"HAL"というハンドルネームを使い続けている。
 以前"猫柳"にこのハンドルネームの由来を()いたら、「なんや、はんなりしとる感じでええやろ」と、まるで京都の人間のような答えが返ってきた。そんな風に、ハンドルネームのつけ方は、千差万別である。

 『(HAL)初参加じゃなかったのか>rai』
 『(rai)ここの常連だよ。HALも?>HAL』
 『(HAL)俺はもう1年位、ほぼ毎日来てるけど>rai』
 『(rai)こっちは3ヶ月位かな。ほぼ毎日。じゃあ偶然時間帯が合わなかったんだね>HAL』
 『(猫柳)タイミングの合わへん常連やなー。そないな偶然、あるんやねー』

 確かに珍しいケースだ。
 チャットルームに定期的にアクセスしている、いわゆる「常連」と呼ばれるメンバーは、大概が社会人で、アクセス時間帯も似通っている。なのに3ヶ月もの間、一度も顔を合わせることなく過ごすというのは、なかなかある偶然ではないだろう。

 『(rai)ところで、もしかしてそのハンドルネーム、2001年から取ってる?>HAL』

 この一言に、瑞樹の表情が(わず)かに変わった。
 "HAL"と名乗り出してからもう何年も経つが、この指摘を受けたのはこれが初めてだった。気づいてくれる奴がやっと現れたか、と、妙に嬉しくなってくる。

 『(HAL)偉い! その通り。“2001年宇宙の旅”に登場するHAL-9000からとった名前だ>rai』
 『(rai)あはは、やっぱり』
 『(猫柳)なんや、そーやったんか。コンピューター学院かと思っとったわ』
 『(HAL)それはよく言われる>猫柳』
 『(rai)さてはキューブリックのファン?>HAL』
 『(HAL)キューブリックに限らないよ。一応仲間内では“映画マニア”で通ってるから>rai』
 『(rai)ふーん、マニアを自称するなら、“スター・ウォーズ”も特別篇で全作おさえてある?>HAL』

 瑞樹に劣らず、この"rai"も映画好きのようだ。挑戦するかのような書き込みに刺激され、瑞樹はまたキーボードを叩いた。

 『(HAL)当然。オリジナルに無いシーン、全部挙げられるぞ。なに、raiはSF映画専門?>rai』
 『(rai)そんなことないよ。一番好きな監督はリュック・ベッソンだし。HALこそSF専門?>HAL』
 『(HAL)いや。元々ヒッチコックが好きなんだ>rai』
 『(rai)いいよね、ヒッチコック! ヒッチコック劇場、再放送しないかな>HAL』
 『(mimi)HALさん、ずるいー! raiさん独り占めしてー!』

 やりとりがリズムに乗ってきた途端、いきなり"mimi"がキレた。
 "mimi"は北海道在住のゲームプログラマーで、このチャットルームでは貴重な「女性」である。
 ネットの世界ではまだまだ男性が圧倒的に多く、女性には結構危険もつきまとう。女性だとバレた途端、見知らぬ人からメールが届いたりすることもザラだ。中には、女性とバレないよう、一人称を「僕」にしてる女性がいるほどである。
 そういう世界で、いかにも「女性」であることを隠さない―――というよりアピールしまくってる"mimi"の文体に、瑞樹は毎回苛立っている。男狙いだな、とバレバレだからだ。
 どうやら最近の"mimi"は、"rai"を狙っているらしい。が、当の"rai"の対応は、至ってクールだ。

 『(rai)mimiも話せば? ところで、mimiって映画観るの?>mimi』

 "mimi"が筋金入りの「ゲームおたく」で、映画なんて東映マンガ祭りしか観ないことは、このチャットルームの常連なら周知の事実である。"rai"も当然、それを知っててこういう事を言ってる訳だ。
 ―――なかなか、残酷な奴。
 思わず苦笑してしまった。

***

 「おはよー、成田。遅いね」
 「…はよ、カズ」
 翌朝、瑞樹は、眠い目をこすりつつ出社した。いつもは自分より後に出社するカズ―――神崎和臣が、ミーティングテーブルでクリームパンを食べている。その光景が、嫌でも瑞樹が寝坊した現実を思い出させた。
 この和臣に「遅いね」などと言われるとは…軽い屈辱感をあえて飲み込み、瑞樹は無言でデイパックからカロリーメイトを取り出した。朝食を取る時間がなかったのだ。
 あの後、"rai"と映画の話題で話がはずんでしまい、気がつくと午前3時半を回っていたのだ。よくまああれだけ映画の話題がポンポン出てくるものだ。"rai"は相当な映画好きらしい。もっとも、瑞樹もかなりの映画好きだ。ポンポン飛び出す話題に、熱くなってどんどん返事をしてしまう。ふと冷静になると、いつのまにかチャットルームには"rai"と"HAL"しかいなくなっていた。
 「なんか、今にも眠りこけそうな顔だなー。どうしたんだよ。ゲーム? デート?」
 「…チャット」
 「は?」
 「うー…説明が面倒」
 「…ったく、成田ってほんっっっとに必要最低限しかしゃべらないよなぁ。営業やらなくて正解だよ」
 「…俺にできる訳ないだろ」
 カロリーメイトは、パサパサしていて味気なかった。一緒に買ってきたウーロン茶で無理矢理流し込む。半分眠っているので、食べ方も緩慢だ。
 「おっはよー」
 ちょうど和臣がクリームパンを大きく頬張ったところに、佳那子が颯爽(さっそう)と出勤してきた。朝からすっきりと目覚めた表情だ。
 「もごごー」
 「神崎。挨拶はパンを飲み込んでからにしなさいね。―――成田、何なの? その顔は」
 「―――寝不足」
 「寝不足ぅ? やめてよね、今日は大事なデバッグある日なんだから。寝ぼけ(まなこ)でやられちゃかなわないわよ」
 同じシステム部の先輩である佳那子は、「大迷惑」という表情で瑞樹を睨んだ。が、うなだれるような姿で半ば眠っている瑞樹に、そんな顔をしても無駄だった。
 「おー、カズ、早く飯食えよー」
 佳那子がため息をついてるところへ、和臣の先輩格である久保田が出勤してきた。こちらも朝に強いらしく、今すぐ取引先回りに出られます、というスマイル状態。
 「もぐもごごー」
 「カズ、挨拶は全部食べてからにしようなー。早く来いよ。あと10分で企画部ミーティングだからな」
 笑顔のままバシッと和臣の頭をはたいて、久保田は機嫌よく自分の席へ行ってしまった。
 「…いい先輩持ったわね、神崎」
 「げほげほ…そーでもないですよ」
 喉にひっかかったクリームパンを牛乳で流し込みながら、和臣は涙目状態で佳那子を睨み上げた。
 「さ、成田。あんたも目覚ましなさいよ。久保田ほどのハイ・テンションはいらないけど、せめて通常レベルには戻して」
 「―――了解」
 出社時同様、颯爽とシステム部へと去っていく佳那子の背中を見送った和臣は、目の前でまだ半分眠ってる状態の瑞樹を見て、
 「成田…ほんとに大丈夫?」
 と声をかけた。
 その声に応えたのか、瑞樹は(かつ)を入れるように頭を振ると、顔を上げた。その顔は、いつもより多少目は据わっているが、ほぼ通常レベルの瑞樹だ。
 無言で席を立ち、カロリーメイトやウーロン茶のゴミをぽいぽいと捨てると、しっかりした足取りでシステム部へ向かう。その姿のどこにも「眠そう」という単語は当てはまらなかった。
 ―――さすが。だてに“成田瑞樹”やってないな。
 どこかにスイッチでもあるとしか思えない回復ぶりに、和臣はそんな意味不明な感想を抱いた。

***

 「はあ? チャット? 文字で会話するとかいうやつよね。3時半までそんなのをやってたの?」
 「そ」
 呆れ返る佳那子をよそに、瑞樹は順調にプログラムチェックを進めていく。
 「そりゃ疲れるわよ。ほぼ一日中コンピューターのディスプレイを睨んで仕事してるのに、帰宅後に3時過ぎまでディスプレイ睨んでた訳でしょ?」
 「まあね」
 「はぁ…私には理解できないわね。文字で会話なんて、まだるっこしくてかなわないもの」
 「佐々木さん、ここ、間違ってる」
 ディスプレイ上の1点をトントン、と指で指し示す瑞樹に、佳那子は慌ててディスプレイを覗き込んだ。
 「嘘っ! どこよ」
 「ここの計算式。1以上の数値が入れば戻り値のチェックは正常に通過するけど、万が一ゼロとかマイナスの数値が入っちまったら、どこに飛ぶやらわからねーじゃん。多分昨日バグったのも、ここが原因だと思う。ゼロの場合とマイナスの場合の条件式を追加すりゃ、すぐ直る」
 「……」
 一気に説明し終わると、瑞樹はまたチェックに没頭し始めた。
 ―――今の説明、多分、成田が出社してから今まで喋った全ての言葉より多いわね。仕事以外の会話、「単語」がほとんどだもの。
 感心する気持ち半分、呆れた気持ち半分で、一度もこちらを見ない瑞樹の横顔を眺める。
 「ここ、コメントアウトが抜けてる」
 「嘘っ!」
 また佳那子がディスプレイを覗き込んだ。
 「そ、嘘」
 「―――成田。あんた、性格悪すぎるわよ」
 「さっぱりそっちのチェックやらないからだろ。人の顔見てる暇あったら、とっととやれよ」
 ―――仕事の話の時と、悪魔に変身した時だけ、いっぱい喋るんだからなぁ、この男は。
 一応1つ先輩なのに、と憤慨しつつ、佳那子は自分のディスプレイに目を戻した。確かに、さっぱりチェックが進んでいない。眉間に皺を寄せ、画面に集中し始めた時。
 隣に座る瑞樹が、急に前のめりな姿勢になったかと思うと、机に突っ伏してしまった。
 「成田?」
 「…5分休憩…」
 「…エネルギーが切れたのね」
 ―――そう。もの凄い集中力なんだけど、時々こうやってエネルギー切れ起こすのよね。
 「全く…今晩は節制してよね。集中時とエネルギー切れ時の差が激しすぎて、こっちも困っちゃうわよ」
 「…了解」

 実際、瑞樹が次の日の仕事のことも考えずに何かに没頭したことなど、これまでなかった。それだけに、今朝グラグラする頭を抱えて会社に行った時、一番驚いていたのは他ならぬ瑞樹だった。
 確かに"rai"とのチャットは面白かった。"rai"の口調(いや、文調、というのか)やテンポも、打てば響くといった感じで心地よかった。しかし―――。
 ―――これは、かなり、キツい。
 今晩は絶対早く寝よう。昨日、中途半端で終わってしまった「未知との遭遇」の話だけしたら、即寝よう。でないと、頻繁にエネルギー切れ起こして、仕事にならなくなる。
 そう堅く決意し、瑞樹は頭を上げ、プログラムチェックを再開した。

***

 「成田〜。また今朝も寝不足かよ。もう1週間連続じゃん」
 呆れたような和臣の声が、頭上から降って来る。
 「この無愛想な男がそんだけ長時間チャットできる相手だなんて、よっぽど気が合ったのねぇ」
 妙に感心したような佳那子の声も、頭上から降って来る。
 「あれー、瑞樹、また朝っぱらから寝てるのかー? そんな無防備な格好してると、佐々木に襲われるぞー」
 「誰がっ!」
 呑気な久保田の声と、間髪いれない佳那子の反撃も、頭上から降って来る。

 ―――なんだってこう、うちの会社は、うるさい奴ばっかりなんだ?
 ミーティングテーブルに突っ伏した状態で、瑞樹は、眠気と苛立ちの狭間で、次々に降ってくる声に耐えていた。

 「…頼む。始業まで寝かせてくれ…」


 そう。俺自身が一番、自分に呆れてるんだから。


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