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no002:
実らない果実
-odai:4-

 

アナタノ傷ガ、私ヲ癒ス、唯一ノ、毒。

―97.11―

 笑顔が素敵な人だと、思った。
 恋に落ちるのに理由などいらない。けれど、私が恋に落ちた理由は、多分彼の笑顔だったと思う。
 振り向いてくれる可能性はゼロ。それはわかってる、頭では。でも、気持ちはついていけない。納得ができない。
 いつもそう。私は、叶わない恋ばかりしてしまう。もっとラクな、誰にもこの気持ちを隠さなくても済む恋が世の中には沢山転がっているのに、私が拾う恋は、いつだって実らない恋ばかりだ。
 私は「他人(ひと)(もの)」が欲しくなる、そういう悪癖を持っているとしか思えない。

***

 「奈々美さん、おはよう」
 頭上から響いた声に驚いて、奈々美は慌てて顔を上げた。最近、地面を見ながら歩いてることが多い。ただでさえチビなんだから、背筋をちゃんと伸ばさなきゃ…と思っているのに、気づくと下を向いている。だから、声をかけられると、必要以上に驚いてしまうのだ。
 「おはよう、神崎君」
 奈々美が応えると、声の主は、ふわり、と柔らかい笑顔を浮かべた。朝陽を背後に受けて、いつも以上にキラキラした笑顔だ。
 神崎和臣は、奈々美の会社のアイドルである。染めてもいないのに明るいブラウンの髪、同じく色素の薄い目。外国の血でも入ってるのだろうか、と思ったが、生粋の日本人だという。いわゆる「美少年」と称される顔立ちで、この夏に23歳になったというのに、まだ少年ぽい雰囲気が残っている。
 彼が笑いかけて、フワフワとした気持ちにならない女などいない。勿論、奈々美も、この笑顔を見ると幸福な気分に浸ってしまう。
 「今日は早起きしてよかったなぁ」
 奈々美の隣を歩きながら、和臣は上機嫌だった。
 「どうして?」
 「だって、奈々美さんと一緒に出社できるもの」
 「…神崎君」
 「よし、これからはなるべく早起きするように頑張ろっと。いろいろ努力して、早く奈々美さんに好かれる男にならないとねっ」
 ―――神崎君は、十分素敵なのに…。私なんかのために頑張らないでよ。
 また奈々美の視線が地面に向いてしまった。

***

 中本はやめとけ、と、佳那子は言った。そんなことはわかっていた。
 中本は、大手メーカーに出向しているため、月に1、2回しか会社に顔を出さないが、気さくで爽やかな笑顔を見せる彼のファンは多かった。だが奈々美は、中本のなの字も意識しないまま過ごしていた。
 ―――なのに。
 2ヶ月前、中本は結婚した。高校時代から付き合っていた同級生と、実に10年越しの恋愛を実らせたのだという。
 その噂を聞いた直後、月例会議に出席するため、事務所にやってきた中本に、奈々美は恋をしてしまった。嬉しそうに妻の話をする中本の笑顔に胸を締めつけられてしまったのだ。

 「ナナのは、一種の病気よ」
 佳那子が、コンタクトレンズをはめ直しながら言う。ロッカールームには2人しかいない。相談事にはうってつけの場所だ。
 「その前に好きだった人も、取引先の愛妻家の課長じゃない。その前はなんだっけ? どっちにしても恋人がいるか妻帯者かよね。中本さんだって、結婚した途端好きになったんでしょ? ナナは“他人(ひと)の男フェチ”なのよ」
 「…落ち込ませないで」
 「それ以上、どうやって落ち込むって言うのよ。あんたは既にどん底状態でしょ」
 呆れたような口調に、逆に開き直ってくる。佳那子はこういう時、下手に慰めたりしない。それが心地よい。
 「ま、諦めるしかないんだから、早い方が傷は浅くて済むわよ。とっとと見切りをつけて、新しい恋探しなさい。ただし、フリーの男でね」
 「うん…わかってる」
 「全く―――神崎にしときゃ問題ないのに。なんで神崎を選ばないのかしら」
 佳那子の言葉に、奈々美は心臓を鷲掴みにされた。
 「―――私、3つも年上だし、チビだし、神崎君には似合わないよ。神崎君も、そのうち釣り合うような相手見つけたら、私のことなんてすぐ忘れちゃうと思うの。だから…変な期待は持ちたくないし、持たせたくもない」
 「そう? まあ、ナナが自分でそう言うんなら、私がとやかく言う事でもないけど」
 佳那子が、美しい唇の端をきゅっと上げて、意味深に笑う。自信に満ち溢れた、大人の女性の笑顔だ。
 また1つ、新たなコンプレックスを小さな体に抱えながら、奈々美は無理矢理笑ってみせた。

***

 神様は意地悪だ。
 中本に恋した途端、中本と仕事をする機会が突然増えてしまった。
 奈々美は営業補佐という部署についている。営業部の雑務担当と言った方が正しいかもしれない。会議資料をそろえたり、見積書を作成したり―――営業の女房役として、細々した仕事を請け負う。そして中本は、出向しているとはいえ、部署は営業部である。
 「木下さん」
 ある日、奈々美がパソコンで資料作成をしていると、中本が突然声をかけてきた。会議の日でもないのに中本が居ることに、奈々美はかなり狼狽した。
 「は、はい」
 「僕、1週間ほど木下さんのデスクを半分借りることになったんで、場所少し空けさせてもらっていいかな」
 「え? どうしたんですか?」
 「12月の会議は大きいからね、1週間こっちに通って、他の営業たちと準備しないといけなくなったんだ」
 「そ…そうですか。いいですよ。机の上、綺麗にしときます。引き出しも1つ空けますから」
 「済まないね」
 「いえ、構いません」
 にこっ、と笑ってはみせたが、内心、心臓が暴れて大変だった。

 それから1週間―――奈々美の心臓は、毎日暴れていた。このままいくと、働きすぎで心臓が壊れるんじゃないかと、本気で心配するほどに。
 電卓を叩く中本の手、時々奈々美に話しかける声、少年みたいに目をキラキラさせるあの笑顔―――どれを見ても、眩しい。眩しすぎる。どれもこれも全部、“他人のもの”なのに。

 あまりにも残酷で、甘美過ぎる恋―――だから、振り切るには、強烈な“毒”が必要だった。

***

 中本が事務所に通う最後の日の夜、仕事を終えた中本を、奈々美は会社のビルの屋上へと誘った。
 ウォーターフロント計画で濫立したビル群は、屋上から見るとなかなかの絶景だ。特にこのビルは周囲より少しだけ高いので、僅かではあるが、海の上を走る船の灯りも見える。
 「へーっ、凄いね。うちの会社の屋上がこんな隠れたスポットだとは知らなかった」
 中本は、奈々美が恋したあのキラキラした笑顔で夜景を眺めていた。ああ、やっぱりこの人の笑顔って好きだわ、と、奈々美は密かに思った。
 「中本さん」
 「ん? どうした?」
 「私、中本さんのこと、好きでした」
 奈々美が想像した通りのびっくり顔で、中本は奈々美の方を見た。
 「好きでしたけど…好きになってもしょうがない人だってことも、最初からわかってました。ですから、」
 次の一言を言う勇気を振り絞るため、短く言葉を切る。
 「ですから、諦めるために―――1度だけ、キスして下さい」
 中本の驚いた顔が、一瞬にして強張る。
 息を呑んだ中本は、硬い表情のまま、(しば)し黙って奈々美を見下ろしていた。やっと開いた口から出てきた声は、酷く乾いていた。
 「…それでキミは、諦められるの? 逆に傷つくんじゃないか?」
 「…諦められます。絶対に」
 奈々美は、握っていた拳を更にぎゅっと握り、中本から目を逸らさないようにした。その思いつめた表情に、ついに中本が負けた。
 「――――わかった」
 中本は、その性格を表すかのようなぎこちない態度で、奈々美の肩に手を置いた。
 困ったような顔が見たくなくて、奈々美は思わず目を閉じる―――困らせてるのは百も承知だ。でも、この瞬間だけは、その事を忘れたい。
 コンマ1秒、唇が触れる。
 キスとも呼べないほど、短いキスだった。
 「…これで、いいかな」
 「……はい」
 奈々美は、残っている気力の全てを振り絞って、満面の笑みを作った。中本が見ても、絶対に作り笑いと気づかないほどの、完璧な笑顔を。
 「中本さん―――ありがとうございました」
 そう言って、新入社員のお手本になるほど、深々と頭を下げた。

***

 中本が去った屋上で、奈々美は表情を無くして、ぼんやりと夜景を見ていた。
 きっと中本は、今頃、自分の行動を責めているだろう―――妻を愛しているが故に、あんな短いキスでも、妻以外に与えてしまった自分を許せないに違いない。あのキスは、ずっと、中本の中に残る。奈々美と2人だけの、苦い秘密として。
 ―――なんて酷い女なんだろう、私って…。

 「……っ」
 ふと人の気配を感じて、視線を移す。
 「成田君…」
 奈々美の声に、給水タンクにもたれかかるようにして(たたず)んでいた瑞樹は、ほんの少しだけ気まずそうな顔をした。
 「…悪い。出て行くチャンスを逸した」
 「こんな所で何してるの?」
 「これ。ついでに、煙草」
 口の端に煙草をくわえた瑞樹が、右手に持った一眼レフカメラを視線で指す。
 「カメラ? なんで?」
 「雨上がりで、夜景が綺麗だろうと思って」
 「ふうん…。成田君て、煙草吸うのね。事務所、禁煙だから、知らなかった」
 「1日1本だけ」
 質疑応答みたいな会話に続き、奈々美は、気まずそうに声をひそめた。
 「…ねえ、今の…」
 「―――言わねーよ」
 「…ありがと」
 そっけない瑞樹のしゃべり方。でも、まだ失恋の余韻に浸っている奈々美には、その位の簡潔さの方が有難かった。
 なんとなく、瑞樹の隣に並んで、夜景をまた眺めてみた。先ほど奈々美がいた所よりも、ここの方が更に夜景が綺麗に見える。ああこの人、本当に夜景撮りに来たんだな、と、納得した。
 「…成田君、参考のために、1つ訊いてみてもいい?」
 「何」
 「男の人って、好きでもない女の人に、平気でキスできるもの?」
 まだ夜景を撮るつもりだったのか、カメラを構えてアングルを模索していた瑞樹が、怪訝そうな顔で奈々美の方を見た。
 「何それ」
 「中本さん、私にキスしたじゃない? 成田君なら、恋人以外に、平気でキスできる?」
 「…ああ言われれば、よほどの潔癖症じゃない限り、素直に応じる方選ぶんじゃない?」
 「―――そう、だよね」
 はーっ、と、大きなため息を奈々美がつく。その様子を見て、瑞樹は眉をひそめた。
 「諦めるためにしたんだろ?」
 非難めいたその口調に、まだ強烈な“毒”が残ったままの奈々美の頭が反応した。
 「そうよ。でも、ちょっと位夢見たっていいじゃない」
 「引きずりたいんなら、別に止めねぇよ。見ててみっともいいもんじゃないけどな」
 短くなった煙草の吸殻を、Gパンのポケットから出した携帯用灰皿にねじ込み、瑞樹はそう言い放った。絡まれる前に早くずらかろう、そう思って。
 「ちょっと、待ってよ」
 離れていこうとする瑞樹のシャツをぐい、と引っぱる。迷惑そうに振り返った瑞樹を半ば睨むようにしながら、奈々美は言った。
 「じゃあ、諦めさせて。成田君が証明してよ。男の人が、全然好きじゃない女に平然とキスできるってことを」
 「…は?」
 「私にキスしてみせてよ、ここで」
 藪から棒な話に、瑞樹は、思わず目をパチクリさせてしまった。
 いや、そりゃ、やれと言われれば、やるけど。
 なんで俺が、それを証明しなくちゃいけない訳?
 面倒なことになった、と思いつつ、目線のかなり下から睨みつけてる奈々美を見下ろす。その目が、思いつめすぎてて、かなり怖い。日頃大人しい奈々美だが、このタイプは、自暴自棄になるととんでもない行動に出ることが多いことを、瑞樹は経験上知っていた。
 ―――断って、もっと無茶なことされるよりは、マシか。
 はぁっ、と息を吐き出す。瑞樹は、ちょっと膝を折って腰をかがめ、奈々美の唇に軽くキスをした。中本のキスより短い、いかにも「いい加減」といった感じのキスを。
 「はい、証明完了」
 「……」
 それでも奈々美は、まだ瑞樹をじーっと睨んでいた。それから、さっき瑞樹がやったのと似た感じではあぁ、と息を吐き、(うつむ)いた。
 「…私、わかったわ」
 「え?」
 再び瑞樹の顔を見上げた奈々美は、薄く笑っていた。
 「成田君、こんな風に私に平気でキスできるから、誰と付き合っても長続きしないのね」
 「???」
 「慰めてくれてアリガト。また明日ね」
 要領を得ない顔の瑞樹を残し、まだちょっとふらふらした足取りで、奈々美は屋上を後にした。
 瑞樹がいたことで、無様に泣かずに済んだ―――瑞樹の言葉には少々傷ついたが、それでもそれは、有難いことだった。

***

 屋上に残された瑞樹は一人、さっき言われた言葉を、頭の中で何度か反芻した。
 “こんな風に私に平気でキスできるから”? ―――どういう意味だ?
 そして、ふとあることを思い出して、「しまった」と口に出した。

 ―――俺が木下さんとキスしたなんて知ったら、カズ、絶対ショック死するよなぁ…。

 和臣にとんだ秘密が出来てしまった。大きなため息を一つつくと、瑞樹は再び、雨に洗われた夜景にカメラを向けた。


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