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ピーッピーッ、という紙切れの音が響いていたので、通りかかった蕾夏は、FAXの用紙トレーを開けて、A4用紙を補充しておいた。
何の気なしに吐き出されるFAXを見ていたが、その内容を確認した途端、蕾夏の眉間に深い皺が寄った。
送られてきたのは、客が蕾夏の会社のプログラムで発行した予算表のようだ。「予算表」という大きめのタイトルの横に、対象年月の範囲が印刷されている。
『1999年2月1日〜
「…野崎さーん」
一番手前のコンピューターの前に座っていた野崎が、仕様書を睨んだまま返事をする。
「はーい、なに?」
「住吉金属工業さん、100年前にタイムスリップしてます」
「タイムスリップ?」
「あそこ、2000年対応、まだだったんですか?」
野崎の手から、仕様書が落ちた。
***
コンピューター業界は、ここ数年、「西暦2000年問題」に揺れていた。
従来のコンピューターの大半は、西暦を下2桁で処理している。1998年なら98、1999年なら99、という風に。今とは違い、昔はコンピューターの記憶容量が小さかったので、そうやってデータの大きさを抑えて、記憶容量の節約をしていたのだ。
このシステムのままで西暦2000年を迎えると、どうなるか―――100になってくれれば、まだマシだっただろう。だが、下2桁なので、00になる。
そう、98、99と順調にカウントアップしてきたのに、2000年1月1日午前0時と同時に00になってしまう。まさに「振り出しに戻る」のだ。
日付順に並べなくてはいけないデータは、並び順がおかしくなる。銀行の利率計算もおかしくなる。日付で自動制御しているものもおかしくなる。そして、住吉金属工業の予算表も、おかしくなるのだった。
じゃあ、おかしくならないようにするには、どうするか―――早い話、これまで2桁だった西暦データを、全部4桁に直す必要があるのだ。早急に。2000年になる前に。
そんな事情から、世界中のシステムエンジニアやプログラマーが、この膨大で退屈な対応に追われているのである。蕾夏も勿論、そんな不幸な時代にコンピューター業界の住人になってしまった1人だ。
「丸山っ! お前、2000年問題を根本的に理解してないんじゃないのか!? 闇雲に頭に“19”つけて、何になるってんだ! え!?」
『1999年2月1日〜1900年1月31日』と印字されているFAX片手に、野崎が眉をつり上げる。丸山は、その大きな体を限界まで縮めた。
住吉金属工業は、元々は野崎の担当している顧客だった。だから蕾夏もつい野崎に言ってしまったが、野崎の抱える顧客が膨大になってしまったため、丸山に引継ぎされていたらしい。
蕾夏はその事実を知らなかったが、知らなくて良かった、と思った。知っていて、素直にFAXを丸山に渡していたら、一体どう処理されていたかわからない。丸山はプログラムを組むのは大好きだが、優秀なシステムエンジニアではないのだ―――残念ながら。
「すぐに対応しろよ」
「えぇ!? 僕、今2件も対応控えてるんですよ!?」
丸山が不満の声を上げると、野崎はますます眉をつり上げた。
「馬鹿野郎! 自分のミスだろ!? 自分でカバーするのは当然じゃないか!」
「無理ですってば…」
「無理だよね…丸山君じゃ」
蕾夏が、ため息混じりにわざとそう呟くと、丸山の顔がカッと赤くなった。
「私のユーザー、ほぼ対応終わりつつあるから、少しは手伝えるよ。私やろうか?」
あくまでにこやかにそう言う蕾夏に、野崎はオーバーな位の苦笑を返した。
「甘いなー、藤井さんは。やらせりゃいいんだよ。丸山は苦労が足りないんだから」
「でも、丸山君が同時に3件対応なんて無理ですよ。ミスした場合、迷惑するのはお客様ですから」
「うーん…それは確かに、なぁ」
「―――やる」
沸騰したような赤い顔のまま、丸山が低くそう答えた。
丸山は、半ば自棄になったように野崎の手からFAXを取り上げると、無言で自分の席につき、受話器を手にした。住吉金属工業に電話をかけるつもりらしい。
「…ますます策士ぶりに磨きがかかったねぇ、藤井さん」
くすくす笑いながら、野崎が蕾夏の方をチラリと見た。
「策士だなんて。腹たったから、ほんとの事言っただけですってば」
「課長に苛められても、最近は涼しい顔だもんなあ。彼氏の影響?」
蕾夏に恋人が出来たと勘違いしたままの野崎は、悪戯心を出したかのように、そんな指摘をしてみせる。蕾夏は罪悪感から、つい顔を引きつらせてしまった。
「あ、あははは、それはどうでしょうねぇ?」
「ま、そういう策士なところも、僕は気に入ってるけどね」
「……」
野崎はニコリと笑い、またディスプレイに向かった。
以前約束したとおり、野崎と蕾夏は、「良い先輩と後輩」に戻っている。「月曜からリセットできるように、土日、荒れまくったからねえ」と豪快に笑っていたが、どんな荒れ方をしたのかは、想像するのも怖いので訊かないでおいたが。
―――約束したとおり、ちゃんと態度をリセットさせられるなんて、野崎さんて大人だよなー…。
「頼りにしてますからね、リーダー」
蕾夏がそう言うと、野崎はキョトンとした目をした。
「どうしたの、急に」
「いーえ。ただ、そのうちまた丸山君関連でFAX入る予感がするから」
「…今のうちに、あいつの顧客のチェックしといた方が良さそうだな」
野崎は忌々しげにため息をついた。
***
西暦2000年問題の嵐は、チャットルームの面々にも吹き荒れていた。プログラマーやシステムエンジニアの溜まり場なので、当然だろう。
『(江戸川)うちの会社でも、まだ未対応ソフトがあって、今頃デバッグで大騒ぎしてるよ』
『(猫柳)ボクんとこは深刻やで。制御系のプログラム担当しとるから、バグ出したら機械が一斉ストップや。賠償責任問題やでー』
『(HAL)俺は、大詰め段階。銀行系だから、バグ出したら猫やん所と同じ位ヤバい』
『(mimi)mimiは関係ないなー。ゲームソフトだもん』
―――ゲームソフトでも、無関係ってことはないんじゃないの? 2000年になると同時に、セーブしたゲームが消える、とか、そういう事ないのかな。
そのあたりのことには、蕾夏も疎かった。もうちょい広範囲に勉強しないといけないかな、と自己反省しつつ、少し冷めてきたホットミルクに口をつけた。
『(江戸川)対応はずっとしてきたけど、今年は特に緊張を強いられるねぇ…毎年、今頃は“まだ2月”って言ってる筈なのに、今年は気が付くと数えてるんだよね、“ああ、運命の瞬間まで、あと10ヶ月か”って』
『(HAL)ああ、わかる気する、その気持ち>江戸川』
『(猫柳)わかるで〜、それ。12月31日午後11時59分59秒で、世界が止まってくれたらえーのになぁ、とか思う>江戸川』
『(mimi)どうして??>猫柳』
『(猫柳)2000年午前零時と同時に、世界中のコンピューターが誤作動起こしてみい。えらいこっちゃで>mimi』
『(rai)でも、マスコミのは煽りすぎだよ。飛行機が落ちるとか、金融経済が麻痺するとか>猫柳』
『(猫柳)あ〜煽りすぎの傾向はあるな。でも、ボクの関わったコンピューターだけは、年越しせんで欲しい。誤作動起こす瞬間に立ち会いたくない>rai』
『(HAL)誤作動しないように、とことんデバッグしろよ>猫柳』
―――瑞樹ってば、人には偉そうに言うよなぁ。
数日前に「デバッグ中に居眠りして頭打った」という話を瑞樹から聞いたばかりの蕾夏は、思わず笑ってしまった。
と、まるでそれに抗議するみたいに、ノートパソコンの横で携帯電話がけたたましい着信音を立てた。
慌てて携帯を取り上げ、通話ボタンを押す。
「はっ、はいっ」
『人には偉そうによく言うな、って思っただろ』
「―――もー…。心臓に悪いから、やめてよ…」
一気に体の力が抜けて、蕾夏はテーブルに突っ伏してしまった。その様子がまるで見えてるみたいに、電話の向こうの瑞樹は面白そうに笑った。
「何なの? どうかした?」
『ああ。土曜日の件だけど、実は休日出勤になったんだ。映画観るの、その帰りでもいいか?』
土曜日の昼間に観に行く予定になっていたのだ。蕾夏が「観たい」と言って決まったスケジュールなので、当然ながら蕾夏は、
「え、別に、来週とかでもいいよ? まだやってるし」
と遠慮した。
最近の瑞樹は、かなり精神的にハードな仕事をしている。銀行系システムの2000年問題を担当させられているらしく、頭の固いおじさん連中を相手に、連日ホワイトボードを使って延々説明を繰り返しているのだそうだ。2000年問題とは何か、という説明を延々営業マン相手にさせられた経験のある蕾夏には、その疲労の凄まじさは容易に想像がつく。
休日出勤になったのなら、無理に映画を観るよりは、早く帰ってゆっくり休んでくれた方がいい。蕾夏は、そう思ったのだが。
『何遠慮なんかしてんだよ。俺が行きたいから行くっつってんだろ』
「でも、先週も瑞樹、休日出勤だったじゃん。ちょっとは休んだ方がいいんじゃない?」
『家でゴロゴロしてんのだけが“休む”事じゃねーじゃん』
「―――まぁ、一理あるけどー…」
でもさー、とぶちぶち言っていると、電話の向こうの声が、一段低くなった。
『つべこべ言うな。行くと言ったら、行く』
この声になると、瑞樹は一歩も引かなくなるのだ。蕾夏は苦笑し、降参の意味を込めて「わかった」と答えた。
***
「あー、成田君、質問質問」
「…はい、どうぞ」
「どうしてもよくわからないんだよねぇ。99年の次が00年で、どこがいけないの」
―――それは最初に言っただろ…。
ホワイトボードを壁から剥がして投げつけたい気分になる。が、備品を壊して減給処分になるのも嫌なので、辛うじてこらえた。
「99と0、昇順に並べたらどっちが先にきますか」
「そりゃ、0だろうね」
「そういう事です」
「別にいいじゃない。0の方が後に来るように、コンピューターに指示すれば」
―――貴様、本当にソフトウェア会社の営業マンかよっ!? コンピューターにそんなファジィな事できるんなら、誰も苦労しねーんだよっ!
目の前にずらりと居並ぶ営業責任者数名を、瑞樹はうんざりした顔で見渡した。何日説明すれば、正しく理解してくれるのだろう? 心の中で指を折ってみたら、もうこの説明を5回している筈なのだが。
ただでさえ喋るのが苦手な瑞樹だが、こういう講習や会議はもっと苦手だ。なんで俺がこんなのの担当になってるんだよ、と恨めしくなった。
「どう? はかどってる?」
「―――はかどってる訳ねーだろ…人選考えろよ」
消耗しきってシステム部に戻って来た瑞樹を、佳那子の不敵な笑いが待っていた。瑞樹にこの役を押し付けたのは、他でもない、佳那子なのだ。
「あー、でも愉快だわ。やっとクリスマス以来の様々の鬱憤を晴らすことができて。さすが久保田よね。成田の弱点、よく知ってるわ」
―――あいつが黒幕かよ。
仕返しを思いつくとは、久保田も進歩したものだ。覚えてやがれ、と打ち合わせに出ている久保田に毒づきつつ、瑞樹は手に持った資料をどさっと机の上に放り出した。
「まあ、成田が苦労するのも無理ないわ。実際、コンピューターに携わってない人間にはわかり難いものね、2000年問題って。いくらうちに勤めてても、ナナなんかはいまいち理解してないみたいよ」
「…そういや、今日、見かけないな」
奈々美の名前が出て、ふと気づいた。朝から奈々美のちょこまかした姿も見かけないし、それを幸せボケした顔で眺める和臣の姿も見かけない。今日は事務所が妙にぴりっと引き締まってるな、と思ったが、あの2人がいないのがその理由のようだ。
「ああ、2人とも、休み取ってるのよ。今日休んで3連休にするみたい」
「2人揃って有給かよ。いい身分だよなぁ…ムカつく」
憮然として椅子に座り込むと、瑞樹は大きなため息をついて、机に突っ伏してしまった。
「―――駄目。エネルギー切れた。5分休む」
「…どう変わっても、その妙な行動パターンは変わらないのねぇ」
ぐったりしている瑞樹を見下ろし、佳那子は苦笑した。自分も休憩に入ろうと思ったらしく、そのまま席を離れてしまった。
―――あーあ。早く週末にならねーかなぁ…。
机に額を押しつけてそんな事を考えていたら、誰かが近づく気配がして、続いて背中をトントン、と叩かれた。
「……?」
誰だ、と思って顔をあげると、さっきまで小会議室で的外れな質問ばかりしていた営業部の次長が立っていた。
「いや、ごめん、お休み中のところ」
―――悪いと思うなら起こすなよ…。
という本音はなんとか飲み込んで、瑞樹は体を起こした。どうせ2000年問題についての追加質問だろう。髪をくしゃっとかき混ぜると、次長のアンパンマンによく似た顔を見上げた。
「…何ですか」
「あのね。実は、僕というより妻からの質問なんだけど」
「…は?」
次長の妻など知る筈もない。次長は、ニコニコと背広の内ポケットから1枚のメモを取り出し、怪訝な顔をしている瑞樹につきつけた。
「昨日、テレビの特番で西暦2000年問題をやってたらしいんだけど―――このうち、実際に起こるのはどれか、会社の2000年問題担当者に是非訊いてよ、って言われちゃって。どれかなあ?」
「……」
つきつけられたメモを、瑞樹はじっと凝視した。
・ビデオの予約が来年からできなくなる
・飛んでいる飛行機が制御不能になって墜ちる
・電気が止まる
・ガスが止まる
・水道が止まる
・預金の引き出しができなくなる
・原子力発電所が事故を起こす
・株価が大暴落する
・日本の企業の3分の1が倒産する
―――どんな番組、見たんだよ。
マスコミは煽りすぎだよね、という、2、3日前のチャットでの蕾夏の一言を思い出す。日頃テレビなど見ない瑞樹は、メモを見て大いに納得した。
どう答えるべきか、一瞬悩む。が、数秒悩んだところで、馬鹿馬鹿しくなった。
瑞樹は、視線をメモから次長に移し、無表情に言い切った。
「全部です」
***
「あはははははは! お、おっかしーっ、それ、傑作!」
「…お前、笑いすぎ」
パンフレットを丸め、瑞樹は隣の蕾夏の頭をパコン、と叩いた。館内はまだ客電がついている状態だが、蕾夏の大笑いは周囲の目を引いてしまったのだ。
「だ、だって…瑞樹、人悪すぎるよぉ。今頃そのアンパンマン次長の奥さん、血相変えて水やら卓上コンロやら買い漁ってるんじゃない?」
「可能性だけで言えば、“全部”って答えもあながち嘘じゃねーじゃん…。第一、99の次が00で何が悪い、って言う奴に、まともな回答なんてする気力、今の俺にはねぇよ」
そこまで言ったところで、客電が落ちた。次回上映予告やCMが始まったので、2人は声のボリュームを絞った。
「でもさ。原発とかライフラインの人がミスって、そういう事態になっちゃったら、影響ってもの凄いよねぇ…。私、そういう所のSEじゃなくて良かった」
「今年の大晦日には、不安のあまり心臓発作で急死するSEが全世界で何人かは出るんじゃないか、って言ってる位だからな。猫やんじゃねーけど、日付変わる前で時計が止まって欲しい、って思ってる奴、結構いるだろうな」
「心臓発作ねぇ…」
いよいよスピーカーからの音でお互いの声が聞こえなくなってきたので、2人は話を切り上げ、スクリーンに目を移した。
―――心臓発作より、過労でぽっくり逝っちゃう人の方が続出しそうだよなぁ…。
チラリと瑞樹の横顔を窺って、蕾夏は眉を寄せた。
表面上はいつもの瑞樹だが、やはりどこか疲れている感じがする。いくら観たいからって、やっぱり体を休める方が先決だったんじゃないのかなぁ、と、心配になってしまう。
でも、瑞樹の言う事も、なんとなくわかる。事実、蕾夏だって、家でじっとしている時より、瑞樹の話を聞いて大笑いした後の方がよっぽど疲れが癒されてる気がしているのだ。
まあ、あと10ヶ月はこの騒動が続く訳だから、こうしてストレス解消する方が、体そのものを休めるより大事なのかもしれないな…、と、蕾夏は思った。
だが。
映画の上映が始まって10分後。
「……?」
右肩が突然重くなった。蕾夏はぎょっとして、右隣を見た。
瑞樹は、くたん、と左に頭を傾けて、腕組みしたまま眠っていた。完全に、蕾夏に寄りかかって寝ている状態だ。
「ちょっ…瑞樹っ」
映画の邪魔にならないよう、極力小声でたしなめたが、瑞樹は熟睡しているらしく、全く反応しなかった。
安心しきった子供みたいに寄りかかって眠る姿に、知らず知らずのうちに赤面してしまう。頬を掠める毛先がくすぐったかったが、どうしようもないので、そのまま寄りかからせておくことにした。
―――やっぱり、体休める方を優先させるべきだったかも…。
隣に座る高校生らしきカップルの視線を感じて、蕾夏は、ちょっとだけ映画に来た事を後悔した。
***
受信されたまま、FAX台に放置されているFAXを発見して、蕾夏は固まった。
『年間売上予定表 期間:1999年2月〜
「…高岡物流…丸山君の担当じゃん」
「藤井さん、どうしたの?」
ちょうど通りかかった野崎が、FAX片手に固まっている蕾夏の肩をトントン、と叩いた。
蕾夏が無言のまま差し出したFAXを一瞥した野崎も、蕾夏同様固まった。
「丸山…あいつ、全ユーザーこの方法で対応してるんじゃないか?」
「…みたいですね」
「ちなみに丸山は?」
「今日、明日と、有給休暇をとってます」
「―――明後日、絶対、1発殴ってやる」
FAXを持つ野崎の手が、怒りに震えていた。熱血漢・野崎は趣味でボクシング・ジムに通っている。明後日のシステム部は、間違いなく血の雨が降るだろう。
―――それにしても…こんなんで、2000年対応、今年中に終わるのかなぁ?
うちの会社も、12月31日午後11時59分59秒で時計が止まって欲しいかも―――と、蕾夏は深いため息をつきつつ思った。
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